罪を犯さないイエス

 「さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:1-4)

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 受肉したイエスが受けた誘惑。

 もしイエスが神であったなら、そもそも空腹を覚えることはない。
 空腹を覚える、それはすなわちアダムの肉をイエスが身につけている、ということを意味する。
 アダムの肉とは、私たち人間と全く同じ、罪深い肉だ。
 イエスは、この罪深い肉を持った神なのである。

 その罪深い肉を持ちつつも、イエスは律法(ここでは申命記)を遵守して罪を犯すことなく、神の御前にただしい存在であり続ける。
 罪のない肉、それがイエスなのだ。
 イエスが罪を犯さなかったというのは、この意味においてである。
 そのように罪なき身であるにもかかわらず、重罪人とされ極刑の十字架に架かってその肉を処分し、そして復活のイエスを信じる者に罪の赦しを与え続けている。

 私たち罪深い肉は、常に誘惑を受け続け、そしていつも罪を犯しているが、それでもキリスト・イエスのこの恵みの故にその罪を赦していただいている。

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[一版]2010年 1月 1日
[二版]2015年10月18日(本日)

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受洗するイエス

 「さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:13-17)

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 受肉した神の子イエス。
 人間と同じ肉、アダムの肉で覆われた神の子である。
 律法を守り通せる唯一の肉として、イエスは世に来られた。

 ところでヨハネが水のバステスマを授けているのは、罪の赦しを与えるためである。
 そこにイエスが来られて、なんとそのヨハネから水のバステスマをお受けになった。
 罪がないにもかかわらず、自ら罪のある身として受洗する。
 神の子イエスが、罪深き人間と同じ地点に立ってくださったのだ。
 こうしてイエスの十字架への道が始まったことを、天はお喜びになる。

 人間が肉を持つ故の苦しみ悲しみ辛さ怒りを、イエスは身をもってご存じだ。
 だから神の子イエスは、神と私たちとの間に立つ仲介者として、私たち人間の罪深さをよく理解してくださっているのである。

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[一版]2010年 2月20日
[二版]2010年 4月 3日
[三版]2011年12月 3日
[四版]2015年10月 4日(本日)

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