『死人』への恵み

 「そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」
 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
 また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」
 ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」(マタイ8:19-22)

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 イエスは律法学者の申し出をあしらい、弟子にはどうあっても自分について来いという。
 なぜ律法学者は弟子になれず、もう一人の男はイエスの弟子なのだろう。
 律法学者が従前の律法解釈から離れることができないからだろうか。
 イエスはもう一人の男をよほど可愛がっていたのだろうか。

 そうではなく、どの人にもイエスの愛は降り注ぎ、どの人も救われる。
 それはむしろ恵みであって、もう一人の男がたまたま恵まれたというだけのことだ。
 恵みに理由はない。少なくとも、人間に理解できるような理由はない。たまたま、なのである。
 だがその恵みは、求めれば必ず与えられる(参/マタイ7:7)。
 「敬虔」にすることによって恵まれるとか、そういう条件は全くない。
 むしろ、そういう条件を無意味に要求し続けてきたのが、律法学者の側であろう。
 そのような類の営みこそ「死人」なのである。

 あなたは敬虔でも何でもない。
 そのことにすら気付かない。
 それほどの盲人(参/マタイ7:3)だからこそイエスの恵みが必要なのであり、イエスの十字架と復活を通してそんな「死人」が自分の死人に気付いて救われる。

 だから、求め続ければ律法学者が恵まれるのはもちろんのことで、彼が恵まれて生まれ変わったら、うわべの「敬虔」さなどかなぐり捨てることだろう。

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こっぱみじん

 「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24-27)

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 山上の説教の最後。
 山上の説教とは、イエスを通した徹底した律法解釈が主であった。

 さて、イエスが仰るように、「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行」ってみよう。
 この徹底した律法解釈を、どこまで行うことができるか。
 だが、肉を持つ人にはそれができない。全くできない。
 山上の説教を守り行おうとして、自分はそれを守れていると思っている人は、実際には守れてなどはいないから(そのことに気付いてすらいないだろう)、「砂の上」の家のようである。

 一方、山上の説教をどこまでも試みて、そうしてどうしても出来ない、という地点にまで追いつめられたとき、その人は暴風雨と洪水の前に倒れる。
 それも、こっぱみじんにひどく倒れる。
 だが、そのこっぱみじんのときに復活のイエスと出会って、「いのち」を得る。
 この「いのち」こそ、岩の上に立てられた家なのだ。

 大切なことは、どんな家を建てるかということではない。
 イエスを通した律法によって、こっぱみじんに倒されることなのである。

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[付記]
 本日の記事の履歴は、以下の通りです。
 [1版] 2008年 2月12日
 [2版] 2008年 7月28日
 [3版] 2010年 5月22日
 [4版] 2012年 2月25日(本日)

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父のみこころ

 「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:21-23)

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 イエスに「主よ、主よ」と言いすがること自体は、とてもたやすい。
 ではそのようにイエスにすがれば天の御国に入るのかというと、そうではないという。
 「父のみこころ」を行うかどうかが、天の御国への別れ目となる。

 預言をしたり、悪霊を追い出したり、奇蹟を行ったりするといった行ない、このようなものそれ自体は、父のみこころではない。
 善行それ自体は信仰などなくとも、give and take などの別の原理によっていくらでもできる。
 父が求めていることはただ一つ、イエスを父が遣わした御子であると信じることである。
 「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3)

 キリストの十字架と復活を目の当たりにすること、これのみが神とキリストへの道を開いて信仰へと至らせるものである。

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[付記]
 本日の記事は、2008年7月27日付記事に筆を加えたものです。

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狭き門

 「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)


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 狭い門から入る狭き道とは、これからイエスが切り開く十字架と復活の道を指す。

 滅びに至る門はあまりにも大きい。
 大きすぎて、それしかないようにすら見える。
 一方、イエスの狭き門を見いだすことはとても難しい。
 探そうとして探せる類のものではない。
 それでも、捜すならば見つかる(マタイ7:7)のである。
 この狭き門とは、復活のイエスとの出会いを指す。
 いのちの門をくぐり抜けて「いのち」をいただくということなのだ。

 そして、狭き道を歩む。
 世から救われたのだから、世にあっては狭く楽でないのも当然だろう。
 小さき門をくぐったことははっきりと分かるので、その後の道の狭さは、ますます強い確信を与え続けてくれる。
 その狭き道で、復活のイエスと歩みを共にする。
 言い換えると、狭き門、狭き道というのは、イエスと共に死にイエスと共に復活して「いのち」をいただくということなのである。

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[付記]
 本日の記事は、過去の記事群を参照しつつ新たに書き直したものです。

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必要なものと与えられるもの

 「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。
 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:9-11)

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 イエスを通して神が下さるものは、こちらが求めているものとは違う。
 食い物を求めているときに食い物が与えられる訳ではなく、カネが欲しいときにカネが与えられる訳でもない。
 こちらが求めているものよりもはるかに大切なものを、神は与えてくださる。それが「良いもの」である。

 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」(ヨハネ9:7-8)

 こじきが求める食い物金銭をそのまま与えるのではなく、こじきが自力で生きることができるよう、目が見えるようにされた。
 目が見えないから目が見えるようにしたというより、自分でやっていける「いのち」を与えられた。

 十字架と復活のイエスを通して神が下さるものはこのようなもので、私たちの直接の必要をはるかに越えたものを惜しみなく与えてくださる。
 それが「いのち」であり、それがあればもともと求めていたものは自分で手に入れることができるようになるのである。

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悪い者が求めるもの

 「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ7:7-11)

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 上の聖書箇所でも、イエスは読み手を「悪い者」呼ばわりする。
 自分の子供に良い物を与えることは、ここでいう善し悪しとは全く関係がない。
 イエスの律法を守り行えないという点で、私たちは皆、偽善者であり「悪い者」なのである。
 そのことに気付いて欲しいので、イエスは何度でも私たちを「偽善者」、「悪者」呼ばわりする。

 そうして罪を自覚した者が求めることといったら、父が与えてくださる「良いもの」である。
 罪深く義からは程遠いにもかかわらず、父から義と認められることだ。
 その「良いもの」を得ることを「求めなさい」、「捜しなさい」、「たたきなさい」と、イエスは勧めている。
 自覚した悪い者は義に飢え乾いているから、イエスの勧め通りに「良いもの」を求め、捜し、たたくだろう。激しくたたくだろう。

 「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」
 求めるならば、「良いもの」を誰であれ例外なく受けることができる。
 誰もが「良いもの」を受けることができるようになるため、イエスはこの世に来られて十字架に死に復活された。
 これがイエスの約束であり福音の内容である。
 「良いもの」の中には、そのことを信じることが含まれている。

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[付記]
 本日の記事は、2008年7月19日の記事に筆を加えたものです。

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何を求めるか。

 「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:6-8)

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 「求めなさい。そうすれば与えられます。」は有名な聖句。
 だが、今まで私はこれを、自分が欲しいものなんであっても祈り願えば与えられると思っていた。
 しかしそれはとんでもない誤りで、そう解釈するとイエスの言葉は単なる御利益宗教に堕してしまう。
 それに、そう解釈すると、話の流れとして6節がなぜあるのかが分からなくなってしまう。

 イエスに願い求めるものは、聖なるものであり真珠である。
 これらを「いのち」と呼び直してもいい。
 ところが世はこれらを憎むかもしれない。ここでは犬とか豚に例えられている。
 豚に真珠が似合わないのではなく、豚は真珠を心底憎み、踏みつけた上で持ち主にまで襲いかかる。
 聖なるものと世とは、水と油なのである。

 この世で生きづらい者、肉の不自由さに悩んでいる者は、イエスを求め、捜し、ドアを叩けば、恵みによって誰でもイエスに出会うことができ、「いのち」を頂くことができる。
 これがイエスの約束であり、私たちは求め続ければ必ず救われる。
 求めることは生活上の些末なことやこの世のことではない。
 イエスとの出会いをこそ、私たちは求めるのである。

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[付記]
 本日の記事は、今までのマタイ7:6-8についての諸記事を参考にしつつ、新しく書き直しました。

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丸太

 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ7:3-5新共同訳)

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 自分の目の丸太には、おいそれと気付かない。
 だが、イエスを通した律法が、私たちに自身の「丸太」を気付かせてくれる。
 「イエスを通した律法」とは、律法の厳密解釈であるのみならず、心の中まで突き通す力を持っている。
 このイエスの律法によってのみ、丸太を丸太と気付かされる。
 丸太とは、自身の罪( sin )のことだ。
 イエスの律法によって、罪が罪としてあからさまになる。

 「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け」。
 イエスは私たちを偽善者呼ばわりする。
 イエスの基準からすれば、私たちにはひとかけらの善すら行うことはできない。
 かけらほどの義もなく、生まれながらの罪人にすぎない。
 それにもかかわらず善人面(づら)して、他人のおが屑探しばかりやっている。
 自分の丸太が見えない偽善者でしかない。
 だから、「まず自分の目から丸太を取り除け」と、イエスは仰っている。
 それが救いの入り口なのであり、そのためにイエスの律法がある。

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[付記]
 [1版]2008年 7月17日
 [2版]2012年 2月 4日 少々の修正

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