完全でありなさい

 「 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:43-48)

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 イエスがどれだけ律法を厳しく解釈して教えているか、その頂点。

 まず最初に書いてしまうと、天の父と同じ完全さなど、アダムの肉をまとった人間には望むべくもない。
 なにしろ天の父は太陽だ。
 昨日も今日もあしたも、規則正しく全地を照らす。
 全く平等にどんな人にも。
 正しい者にも悪い者にも、また味方にも敵にもその他大勢にも。
 これこそが神の正しさだ。

 だからそもそも、差別化して認識し、更に「敵味方」と区分けしてしまう人間は、その時点で太陽らしさから遠のいてしまう。
 イエスは山上の説教に接する者に、「できるか? このことが、できるか??」と、突き詰め続ける。
 その最果てに、イエスは次のことを突きつける。
 「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」。

 神と同様であれ。
 律法の究極は、ここへ行ってしまう。
 イエスはほんとうに、律法をとことん突き詰めて私たちにぶつけている。
 「神と同様であれ」。
 こたえはもちろん、「できません」だ。

 「神と同様になんて、できません」。
 実はアダムの肉は、このことが分からない。
 何しろアダムの肉は、「あなたがたが神のようになり」と蛇にそそのかされて、善悪の知識の実を食べてしまったアダム達の子孫なのだから(創3:1-7)。
 「神のようになり」。
 それで、アダムの肉は律法を試みる。
 できなくても、もう一度やる。
 そうして何度も何度も倒れて、しかし、あの完全さにはどうしても到達できない。
 それくらいまで、律法に照らして人は罪深い。
 そのことに気付いたときに、その人は救いのスタートラインに立つ。
 だから律法はよいものであり、イエスがこれをさらに突き詰めて私たちに説かれているのである。

 このことは、次の連続した3節に集約されている。
 「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:23-25)

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[付記]
 本日の記事は、2007年12月10日の記事に小変更を施したものです。

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