聖書のことば

 「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」(ヨハネ15:8)

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 正確を期したいときには英語の聖書を付き合わせてみる(ギリシャ語はわからないので)。
 そうするとこのヨハネ15:8は、

" By this My Father is glorified, that you bear much fruit; so you will be My disciples. " (NKJ)

"My Father's glory is shown by your bearing much fruit; and in this way you become my disciples " (TEV)

となっていて、大意としては「あなたがたの多くの実を(御父に?イエスに?)持ってゆくことで御父は栄光を受ける;そしてあなたがたは私の弟子になる」くらいだろうか。
 上の新改訳とは、ニュアンスがかなり異なっている。
 新共同訳や口語訳は、この新改訳と大差がないので、そうするとこれは日本語訳と英語訳とではニュアンスが異なるということになる。
 想像でしかないのだが、原典の訳出自体が難しい箇所なのだろう。

 このことを書いたのは、聖書翻訳について難癖をつけるためではない。
 聖書のことばそのものについてである。
 この聖書のことばというのは、新改訳だとか新共同訳だとか、日本語だとか英語だとか、そういった文字の上っ面、意味の上っ面をはるか越えて、あるときするっと奥深く入ってくる。
 このようにして聖書のことばが入ってくると、イエスについて、聖書についての全てのことが分かるようになる(参/ヨハネ14:26)。
 そして、このイエスを信じざるを得なくなる。より正確には、信じさせられる。
 聖書のことばとは、こういうものなのだ。

 だから、一見分かりづらい上のヨハネ15:8が、あるときするっと入って救われる人も、たくさんいるはずだ。

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[一版]2009年 5月10日
[二版]2011年 4月10日
[三版]2014年 9月24日
[四版]2017年 5月31日(本日)

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実を結ぶということ

 「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(ヨハネ15:1-4)

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 実を結ぶということについて。

 剪定をするのは御父であるから、実を結ぶかどうか、さらに、そもそも実とは何かということの判断の主体は、すべて御父の側にある。
 御父が全てを判断するのである。人ではない。
 そうすると、たとえば他人によく見られたくて行う善行の類は、人にはほめられても御父にとってはどうなのであろうか。
 イエスもこう言っている。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(マタイ6:3-4)。

 では、実を結ぶとはいったい何のことであろうか。
 それは、私たちが死んでよみがえり、御父と和解することである。
 イエスがそのことの型を、これから自ら示す。
 このイエスにとどまることが、私たちが救われるための唯一の手段であることを明らかにするためである。

 御父は、この世での手下が欲しいのではない。
 一人でも多く、お救いになりたいのである。

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『また、あなたがたのところに来る』と言うイエス

 「『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。
 そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。」(ヨハネ14:28-29)

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 受肉したイエスは、じきに去ってゆく。
 弟子たちに、「わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る。」と伝えている。
 そのためには、イエスは御父のもとに行く必要がある。
 肉を極刑の十字架につけて、この処理を認めていただくのだ。
 実に、私たちの御子は、私たちを救うためにここまでのことをしてくれたのである。
 去ってゆくイエスは肉を持つが、のちに来るイエスは御霊としてのそれである。
 上の聖書箇所で、イエスはこのことを予め弟子たちに伝えている。
 私たちは、このイエスが来てくれることを日々祈っている。

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イエスが与える平安

 「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)

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 人は、物心着いたときから恐れを抱く生き物なのではないかと思う。
 なんといっても、私たちは死後、どうなるのだろう。どこへいくのだろう。
 死の向こう側は、一体どうなっているのだろう。
 この、死への恐れが平安の妨げになるおおもとのような気がする。

 そこで世の中には、平安、安らぎを与える数々のものが存在する。
 音楽、空間、それからマッサージやお香、お風呂などもそうかも知れない。
 そういった装置を個人的にもよく利用するが、「わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。」とイエスは言う。

 十字架に架かって死んで3日目に復活したイエスは、そのイエスを信じる私たちがどうなるのだろうかということを、身をもって教えてくれた。イエスの通りになるのである。
 それでイエスは、この根源的な不安を私たちから取り去ってくださった。音楽やお風呂では、これは全く期待できない。

 「わたしは、あなたがたに平安を残します」、イエスの与えるこの平安は十字架と復活に由来している。

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[一版]2011年 4月 8日
[二版]2014年 9月23日
[三版]2017年 5月27日(本日)

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世ということ

 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。
 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」(ヨハネ14:16-20)

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 聖書の目的、すなわち救いということ。
 「真理の御霊」が与えられること、また、「わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわか」るようになること。
 「あなたがたを捨てて孤児にはし」ないこと。
 これらはすべて、頭の上での理解や信念ではなく、その人にとって実際にそうである。

 しかし、イエスは言う。「世はその方を受け入れることができません」。
 世は異なる原理によるからだ。
 たとえばマモニズムで、貧困ビジネスというものまである。
 そんな世にどっぷりと漬かっている限りは、イエスはその人の元に来ることはないだろうし、その人もまた、そんなことは全く望まないに違いない(「金持ちの青年」のたとえを参照)。
 だが、そんな人の中にも、実は救いを必要としている人もいるかもしれない。

 私たちが真に救いを必要なのであれば、救い主イエスは応えてくださる。
 そのためには世の原理から離れることであるが、そのことも含めてすべてイエスが整えてくださっている。
 だから、この十字架の道は、とても辛いものになる。

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[一版]2014年 9月15日
[二版]2017年 5月23日(本日)

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イエスが開く道

 「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:2-6)

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 イエスは、行かれる。
 「場所」を備えるために、父の家へと。
 そのために、イエスは十字架の道を、通られる。

 この道をかつて通った者は、誰一人としていない。
 イエスが初めて開く道だ。
 重罪人としていたぶられ、極刑としての十字架に架かる。
 その十字架の上で死んで、三日目によみがえる。
 よみがえったとき、イエスから人間の肉はなくなっている。それは十字架につけられたままだ。
 こうして道が、ひらかれた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」。

 「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」。
 イエスが切り開いたこの道だけが、父の御許へと至る道である。
 これは、みなが極刑を受けなくてはならない、ということとは全く違う。それはイエスが身代わりになって下さった。
 だが、この道を歩むのであるから、それだけの苦難に遭うという点では変わるところはない。
 そして、それこそが神の恵みなのである。
 このことについては、アウグスティヌスが詳しく書いているとおりだ。

 父の御許では、イエスが場所を備えてくださっている。
 そしてイエスは、「また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」と仰る。
 イエスの道の先には、この居場所がある。

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[一版]2008年 4月11日
[二版]2014年 9月14日
[三版]2017年 5月22日(本日)

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裏切りを受ける神の子

 「イエスは、これらのことを話されたとき、霊の激動を感じ、あかしして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります。」
 弟子たちは、だれのことを言われたのか、わからずに当惑して、互いに顔を見合わせていた。」(ヨハネ13:21-22)

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 イエスの動揺、そしてそれを見る弟子たちの当惑。

 イエスは何に動揺しているのだろう。
 イスカリオテ・ユダの裏切りを間近にして、それで動揺している。
 死者をよみがえらせ、目の見えない人を見えるようにし、五千人の給食をも行った神の子イエス。
 その神の子イエスが、裏切りを前に動揺している。

 神の子イエスと私たちとで、同じところが1つだけある。
 それは肉をまとっているということだ。ただ、我々の罪深い肉とは異なって、イエスの肉は罪のない肉である。
 しかし、同じ肉をまとっているからには、私たち人間と同じことでイエスも痛みを感じる。
 裏切りというのは、人間同士の中で起こるもっとも辛く苦しいものだろう。
 怒り憤り、失望、さまざまな感情にさいなまれる。
 裏切りを間近に控えたイエスの動揺というのも、こういった苦しみによるものだったろう。

 つまり、神の子イエスは、私たちが時に体験するあの辛い体験をも、実際に味わっている。
 この神の子は、観念的に私たちを理解するのではない。
 実体験を通して、私たちの悩み苦しみが分かっているのである。

 私たちがどれだけ辛いところを通っても、そのことをご自身のことのように理解してくださる神、それがイエス・キリストなのである。
 そのイエスを信仰するということは、私たちはもはや1人きりではないということだ。

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[一版]2014年 9月 7日
[二版]2017年 5月21日(本日)

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盲目であることと神の愛

 「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。
 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」(ヨハネ12:37-41)

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 「彼ら」は、イエスを信じなかったのではない、信じようがなかったのである。
 「主は彼らの目を盲目にされた」からであり、その盲目の彼らには、イエス自体を見聞きできない。

 では、御父は私たち全員を盲目にし続けるであろうか。かたくなな心のままにし続けるのであろうか。
 このことこそ、神は愛なのである。
 救いを求める私たち、憐れみを乞う私たちに、神は大いに恵んでくださる。

 「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙3:18)

 この目薬は、どこで手に入るのか分からない。
 しかし、狭い門の向こう側には確かにあって、しかも無償で与えられる。
 この狭い門もまた、自ら見いだして入るものではなく、うめきつつも気付くと、その狭い門の中に入っていた、そういう類のものである。
 人は神に対して、どこまでも受け身なのである。
 その受け身の中での神からの愛が恵みであり、盲目の者が見えるようになる。
 そのとき私たちは、御父を「父」と呼べるほどに、この御父と和解するのである。

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[一版]2014年 9月 6日
[二版]2017年 5月19日(本日)

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イエスが結んだ豊かな実

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:24-25)

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 しばしば召命の根拠として取り上げられる聖書箇所。
(この用語を忘れていて、あれこれ調べた。)

 ここで大切なことは、イエスが結んだ豊かな実とは何か、ということだ。
 こののちに信徒が著しく増えたということだろうか。
 そうではない。
 イエスが死んでよみがえったことによって、死んでよみがえって救われた数多くの人々。彼らが豊かな実なのである。
 ここでいう「死んでよみがえって」というのは、上の聖書箇所での「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至る」と同じである。

 だから、私たちは、地に落ちて死ぬことそれ自体を祈り求める必要がある。
 そこがなくては、何も始まらないからだ。
 上の聖書箇所は、転職したい気持ちとはいっさい関係がない。
 だいたいそれは、死ぬどころか、かえって生きようとしているのではないかとすら思われる。

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神に従うとは

 「そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(ヨハネ11:43-44)

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 神の命によって、死んだ者がよみがえって墓から出てきた。
 死者が神に従っている。
 むしろ、死んで肉を喪失した存在であればこそ、自然の生業に従って神に従った。

 一方、生きている私たちはどうであろうか。
 アダムの末裔である私たちは、神に逆らう性質をこの肉体に宿している。
 神がお造りになった世界、自然に逆らっているのだから、この自然の中で不整合が起こる。
 つまり、罪である。
 神に従うのが本来なので、逆らっては罪意識にさいなまれる。
 ちなみに、神に従うとはどういうことか、ということは、律法の数々に記されている。

 「馬鹿は死ななきゃ直らない」に近いのだが、この不整合もまた、死なないことには救われない。
 では、死んでどうなるのか。
 復活の主イエスによって復活させてもらい、罪赦されるのである。
 罪がなくなるわけではないから、神に従うことができるようになるわけではない。
 ところが、この不整合があるままで赦されるのだ。
 これがイエスの切り開いた救いの道であり、上の聖書箇所でのラザロのよみがえりは、その型である。
 死者は神に従っている。
 生きている私たちが、神に従うことができない。私たちに救いが必要な所以である。

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