カペナウムの人々

 「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。
 しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」(マタイ11:23-24)

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 私たちはかつて、自分の罪に気付いて愕然とし、憔悴しきって悔い改め、恵みによってキリスト・イエスが出会って下さった。
 そして私たちはイエスの十字架の死にあずかってイエスと共に復活し、罪赦されて「いのち」を得た。
 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙3:20)
 2000年前に受肉して昇天したイエスはこのように、必ず私たちに出会って下さる。

 その2000年前、受肉したイエスはカペナウムで大勢の病人を癒し悪霊を追いやった(マタイ8章より)。
 だが、カペナウムの人々はそのようなイエスを神の子だとは遂に悟らず、「天の御国は近づいた」という福音(あるいは最後通牒)も相手にせず、罪に気付かず悔い改めることもなかった。

 神にしか出来ないようなことが続々起こっているというのに、なんと訳の分からない人々なのだろうか。
 かつてのソドムの方が、まだ救いの可能性があったに違いない。

 そのキリスト・イエスは今も、私たちの下を訪れ、救いのために戸を叩く。
 そのときに、もしも私たちがやはり訳が分からず戸を閉め切ったままであったらどうだろう。
 だから、そのために備えること(例えばマタイ25章)は、私たちの希望のためにどうしても必要だ。
 つまり、聖書を通して肉の罪に気付いて愕然とし憔悴しきって悔い改める。
 そうでなければ、どうして訪れたイエスをイエスと気付けるだろうか。
 カペナウムの人々が全く気付かなかったことは、他人事とまではいえないのではないだろうか。

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マクロな読み方

 「この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、
 こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、
 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」(マタイ11:16-19)

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 バステスマのヨハネが整えた道に沿って、肉をまとったキリストがこの世に来られた。
 ところが、笛を吹いても分からない、歌を歌っても気付かない。
 それどころか、ヨハネを見ては陰口を叩き、イエスを見てはおおっぴらに悪口を言う。
 だが、正しかったのがイエスでありヨハネであることは、今日に至るまでに救われた多くの人々にとり明らかである。

 イエスが取税人や罪人と飲み食いするのは、罪意識を最も感じている彼らに福音を伝えるためだろう。
 そうであれば、取税人のもてなしの流儀に従って、イエスは食べ、また飲むに違いない。
 この19節だけを取り上げて、イエスは酒が大好きで、それで自分も飲んでいいんだ、という旨を主張する人を何人も知っているが、それは文脈や背景を無視した我田引水ではないだろうか。
 一体、酒が手段なのか、目的なのか。

 酒の事に限らず、聖書の一節だけを部分的に読むのと(ミクロな読み方)、全体から俯瞰して部分を読むのと(マクロな読み方)では、非常に大きな違いがある。
 自分が何かをしたい(しない)論拠として聖書の一節を取り出しても、では聖書は一体何のためにあるのか、ということになってしまう。
 聖書は、アダムの肉が罪赦され「いのち」を得るためにある。
 恵みによって聖書から語りかけられ復活のイエスと出会い、そうして初めて全体が俯瞰できるようになる。
 マクロな読み方は、復活のイエスが教えてくれる。

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[付記]
 本日の記事は、2010年7月4日付記事に筆を加えたものです。

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死ぬこと、生きること

 「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)

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 「わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」は、アダム以来の罪深い人間の回復ということをコンパクトに言い表している。
 つまり、キリストの十字架に預かって「いのちを失った者は」、キリストの復活と同じようにして復活のいのちを得る。
 一方、単に「自分のいのちを自分のものとした者は」、そのままだ。
 すなわち、肉に刻み込まれた罪の処理がされないのである。

 「わたしのために自分のいのちを失った」とは、端的に、死ぬことだ。
 死ぬと言っても、殉教だのなんだのといった肉体の死ではない。
 十字架に死ぬということ、極刑を受けるということだ。
 極刑はあまりに重く、かつてない苦しみに襲われる。ヨブと同じである。
 ただ、その極刑によって文字通り死ぬということは、イエスが身代わりになしてくださった。
 私たちは、このように死ぬことによって、はじめて生きるのである。
 肉の死によって罪を処罰し、復活して罪赦される。これが「いのち」である。

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[付記]
 本日の記事は、2010年6月27日付記事に筆を加えたものです。

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イエスの癒し

 「すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。
 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。
 イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。」(マタイ9:20-22)

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 長血を癒し死人を蘇らせ盲人の目を開くイエス。

 神の子イエスは天地を創造し、この天地を統べる自然法則もお定めになられた。
 想像に過ぎないのだが、イエスにとってはご自身の定められたその法則性の内にある長血も盲目、また死すらも、自らの手の内にあることにすぎなかったのではないか。
 そうであるから、数々の病や不具を元に戻すことは、イエスには実にたやすかったのかも知れない。
 それはイエスが神の子だからに他ならない。
 ところが、当時の人々は、イエスを神の子とは見ることが全くできなかった。
 病を治してくれる預言者、医者ぐらいにしかイエスを認識していなかった。

 だが、神の子が肉をまとって世に来られたことこそが、全人類にとって最も大切なことなのである。
 そのイエスの肉は、全人類の肉の罪を処罰するために極刑の十字架上で処理され、そして復活する。そのためにこそイエスは受肉して世に来られた。
 イエスが病を癒すのは、人々にご自身を悟って欲しいからだろう。
 神の子を神の子として信じる信仰こそ、その人を罪からの救いに導くからである。
 ところがそうではなく、イエスを腕利きの医者として見るとしたら、これほど意味のないことはない。

 イエスにとって、治療は目的ではなく手段に過ぎない。
 そしてイエスは、私たちの局部的な病を癒すために来られたのではなく、根源的な病であるところの罪を処理するために来られたのである。

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病人

 「イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。
 すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」
 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:10-13)

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 イエスが取税人達と夕食を共にする。
 それを見たパリサイ人が、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか。」と訝る。

 このパリサイ人の言葉は、当時の一般人が取税人達に持つごく普通の感覚を代弁しているものと思われる。
 加えて、パリサイ人はイエスに直接言うのではなく弟子にこそりと言うのであるから、取税人とメシを食うなどというのは余程はばかられる事だったのかも知れない。
 しかしイエスは彼らとメシを食う。
 イエスが招いているのは彼ら取税人達だからである。

 義人はいない。ひとりもいない(ローマ3:10)。
 神の律法を前にして、誰一人その全てに適う者はいない。
 取税人達は日頃受けている扱いのこともあって、自らのその罪深さを自覚していた。
 だからイエスに来いといわれれば行く。
 一方で、自分は正しい(義しい)と思いこんでいる人は、救いの手を差し伸べてもその手を握ろうともしない。その必要性自体、わからないだろう。
 所定のいけにえをささげて、それで気が済んでしまう。
 だが、皆が病人なのであり、望まれているのは、病人が救われること、そのために病人が病人と自らを気付くことなのだ。
 取税人達はおぼろげに気付いていた。
 イエスはすべての人のために十字架に掛かり復活した。医者側は準備万端である。

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恵まれるために

 「イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」(マタイ9:9)

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 イエスがマタイに声を掛ける。

 では、何故イエスはマタイに声を掛けたのであろうか。
 取税人だからか。
 あるいは、自分の取税人としての職務に忠実だったからだろうか。
 さびしそうだったからか。
 なにはともあれ、たまたまイエスの目に留まったから、それでイエスはマタイに声を掛けられた。
 それが恵みの世界である。
 そこに因果関係はない。

 だから恵みは行ないとは異なって、すべての人に機会がある。
 ただ、恵まれるためには、多分ひとつのことが必要で、それは自分が罪人であると分かることだ。
 バステスマのヨハネが来て悔い改めを説いた(マタイ3:2)ので、自らが罪人であると気付く機会は既に与えられている。
 マタイは職業柄、パリサイ人などからの責めに遭い続け、自分が律法を守ることの到底できない罪人だという後ろめたさを感じていたのかも知れない。
 ではそのパリサイ人はというと、自分は律法を守り通していると思っている(マタイ23:13)。
 そのように自らを義と思っている人は、そもそも恵みを必要としていないので、悔い改めようという動機そのものがそもそもない。
 つまり、救いがたいのだ。

 律法の行ないそのものではなく、その律法を守り通せない罪深さについての認識。
 それが悔い改めであり、「いのち」の恵みをもたらすものなのである。

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[付記]
 本日の記事は、2010年6月6日付記事に筆を加えたものです。

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あなたの罪は赦された

 「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。
 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。
 すると、律法学者たちは、心の中で、「この人は神をけがしている。」と言った。」(マタイ9:1-3)

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 イエスは中風の人に、「あなたの罪は赦された。」と宣言する。
 それを耳にした律法学者は、「この人は神をけがしている。」と内心くさす。

 この律法学者は誤ってはいない。
 罪を赦すことのできるのは御神ただお一人で、人が人の罪を赦すなどできないからだ。その律法学者にとっては、まさに神がけがされたのである。
 ところがその思い違いは、イエスが何者であるかを律法学者が知らなかったから生じたことで、無理もない。
 イエスが何者かを分かることは、決定的な分水嶺である。

 その神の子イエスは「あなたの罪は赦された。」と宣言する。
 中風の男は罪赦された。
 何故か。人々の献身にイエスが心打たれたからか。
 もしそうなのであれば、友人知人の多ければ多いほど罪赦されるということになる。
 そうではなく、イエスが憐れもうと思ったから憐れんだ、それ以上でもそれ以下でもない。
 恵みとはそのようなものであり、因果関係ではない。

 私たちも求め続ければ、「あなたの罪は赦された。」とイエスが出会って下さる。
 ひとりであっても、何一つよきことのできなくとも、救いを求め続ける限り恵みによってイエスは出会って下さる。
 そのとき私たちはイエスの十字架、復活、そして自らの罪深さも含めた全てを了解するのである。
 上の律法学者のように分かったつもりでいる人が、おそらく最も救いから遠い。

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人間という嵐

 「すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
 弟子たちはイエスのみもとに来て、イエスを起こして言った。「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
 イエスは言われた。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」それから、起き上がって、風と湖をしかりつけられると、大なぎになった。
 人々は驚いてこう言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(マタイ8:24-27)

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 荒れ狂う湖をなぎにするなど、一体どうやれば私たちにできるのだろうか。
 だがイエスは、たやすく嵐を収めてしまう。
 私たちとイエスとでは、何が違うのだろう。

 イエスは神の子であり、この世の全てをお造りになった。
 なので自然界すべてがこの神の子に統御されている。
 その統御に従わないのは、アダムの違反以来の人間だけだろう。
 人間と神との距離は遠く離れてしまい、人間は神の御前に罪深く、絶えず葛藤を抱えている。
 私たちは神の統御の内にあるときに、もっとも生きやすくできている。
 そもそもそのように造られたのであり、本来的な姿なのである。

 人間の側から本来の関係に戻ることはできない。湖をなぎにできないのと同じだ。
 神があわれみの手を差し伸べてくださって、それで救われ罪赦されて、本来的な関係性へと戻ることがかなう。
 人間という嵐をイエスが静めるのである。

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