シロアム男への恵み

 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。
 近所の人たちや、前に彼がこじきをしていたのを見ていた人たちが言った。「これはすわって物ごいをしていた人ではないか。」ほかの人は、「これはその人だ。」と言い、またほかの人は、「そうではない。ただその人に似ているだけだ。」と言った。当人は、「私がその人です。」と言った。
……
 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:7-9 ,35-41)

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 物乞いをしていた盲目の者をイエスが見えるようにされた箇所。
 便宜上、癒されたこの男を「シロアム男」と呼ぼう。

 まず、シロアム男は、イエスに目を留めてもらった。
(というより、無礼な弟子が指さしたというのもあるが、それも含めて。)
 そしてイエスに癒していただく。
 これはハプニングとか偶然とかではなく、恵みと言う。
 この恵みに預かったシロアム男は、目が「見えるようになって、帰って行った」。
 彼は、イエスに礼の一つも言わずに帰宅した。
 多分このシロアム男は、見えるという喜びを父母に伝えたくて、お礼するのも忘れて(だってそれほどうれしいだろう)飛び跳ねて家に赴いたのだと思う。
(この仮定とまったく逆の話が、ルカ17:11-19にある。)
 だがたとえシロアム男が無礼極まりない奴であろうとも、イエスは彼に目を留めて、そしていやす。
 というより、たまたまイエスがシロアム男に目を留められた、それ以上でもそれ以下でもなく、彼の資質や行いは全く問われていない。
 これが恵みだ。

 さて、ひと騒動あって(上の引用では全部省略している)、イエスはシロアム男を見つけ出される。
 そのとき、シロアム男ははじめてイエスを見るのだが、彼はイエスをイエスとは分からない。また、自分の目を癒してくれた人だとも、知らない。
 彼は盲目だったのだから。
 イエスはシロアム男に仰る。
 「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです」。
 シロアム男がいつイエスを見たというのだろうか?
 彼は、癒されただけでなく、癒されたことを通して、癒したのが神であると知ったのだ。
 イエスと再開したシロアム男は、イエスを拝する。

 「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」。
 見えなかったシロアム男には、イエスが見えた。
 見えると言っているパリサイ人は、それゆえにイエスが全く見えなくなる。
 そのことこそ「さばき」なのだろう。
 イエスが見えるか見えないか、あるいは見えているつもりか。この三者だ。
 たとえば福音書に頻出する「群集」は、「つもり」の人々に属する。
 この「イエス」という箇所には、いろいろな語句を当てはめることができる。
 「真理」、「いのち」、「復活」、「回心」、「新生」…、似たような概念がたくさんある。
 ともかく、今は見えなくとも、上の聖書箇所のように復活のイエスが訪れ、その見えない目を見えるようにしてくださるのであれば、それが恵みだ。

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[付記]
 本日の記事は、2007年11月21日の記事に加筆を施し、タイトルも変えたものです。

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