神によって生まれるとは

 「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:11-13新共同訳)

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 私たちはどうしてイエスを信じイエスを受け入れているのだろう。
 それは、神が私たちをそうしてくださったからだ。
 血筋によってそうなったのではない。
 ましてや、自分の意志や努力の類によってそうなったわけではない。
 私がなりたいというのでそうなるわけではないのである。
 むしろ、私がイエスを受け入れるのではなく、私はイエスに受け入れさせられる。
 その過程で、私はイエスによって死に、そしてイエスによって復活する。
 そのことが「神によって生まれた」ということである。

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イエスは何を与えるのか

 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:4-5)

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 イエスが与えてくださるものが何かということについて。

 このイエスは、「いのち」という光を宿している。
 そしてイエスは、世を救うため人を救うため、その「いのち」の光を恵みによって分け与える。
 その「いのち」に預かった人は、信仰に至る。
 人が本質的にもっとも必要なもの、それをイエスは与えてくださるのである。

 いま、人々は、カネ、モノその他物理的なものばかりをもっぱら追い求めている。マモニズムそのものだ。
 カネやモノが人を救うのだろうか。生物体の生存維持のためならば、大いに救うだろう。そのためにカネはないよりあったほうがいいに決まっている。
 しかし、大切なことは「いのち」であって、生存の維持ではない。
 何歳生きるのかが大切なのではなく、どう生きるかが大切だろう。
 だから物質的・物理的な満足感と精神的な満足感とは、往々にして全く異なる。
 その言葉を用いると、イエスが与えてくださるものはもっぱら精神的な満足であり、マモニズムが与えるものとは全く異なる。

 このマモニズムという闇、その中にもイエスの「いのち」の光は輝いている。
 そのようにイエスの光はどこまでも輝くので、こころを、魂を自由にするこのイエスの救いには、マモニズムにどっぷり浸かっている人をはじめ誰もが預かることができるのである。

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ことば

 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(ヨハネ1:1)

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 ことばにはそれ自体に意味があり、また、ことばの連なりが意味を生む。
 そのことばによって、人から人へと意味が伝わる。
 聖書のことばも、もっぱら文字面の意味で理解される。

 ところが、「ことばは神」としかいいようのない出会いが、聖書にはある。
 単なる文字面の意味をはるかに超えて、聖書のことばが読む者に「いのち」を与える、そういうことがあるのである。
 アウグスティヌスにとってのそれは、「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」(ローマ13:13-14)であった。
 これは、大きな苦悶のさなかにいた彼がこの聖書箇所に接して、「そうだ、主イエスを着ればいいのだ!」と悟った、ということではない。全く違う。
 そうではなく、ことばであるところの神が、この聖書箇所のことばを通して彼に出会ってくださったのである。このことによって、苦しみ抜いたアウグスティヌスは回心をとげる。

 ことばが神と共にありことばが神であるのであれば、はじめから神はいらしたのであるから、「初めに、ことばがあった。」となる。
 しかし、そういう文字面の解釈よりも、ある人のある局面において、聖書の一節がその文字面の意味をはるかに越えてその人に「いのち」を与え得る、そのことの方がずっと大切なことだ。

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[付記]
 第1版  2010年 5月19日
 第2版  2010年10月11日
 第3版  2012年 8月25日
 第4版  2014年 4月27日(本日)

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アダムの園の回復

 「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。」(黙示22:3-5)

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 そこでは、しもべである私たちはもっぱら神に仕える喜びにあふれる。
 キリストを介した、この神と私たちひとりひとりとの関係が、ここでのすべてであるかもしれない。「のろわれるものは何もない」のだ。
 ここでは私たち人間の罪深い肉は、脱ぎ捨てられている。
 だから、人から死は、もうなくなるだろう。
 死なない、ということは、生殖の必要もまた、ないだろう。
 性別自体がないかもしれない。
 少なくとも、陰部をイチジクの葉で隠す必要を感じなくなるだろう。

 まっくらな夜もない。
 不安も恐怖も、もはやない。
 私たちのこの肉はなくなりもはや疲れないので、休んだり眠ったりする必要もない。
 眠って夢を見るのとは違い、ここが夢なのだ。
 その中で、私たちおのおのは、万物の創造主である神に仕える喜びを味わい続ける。
 これは人間にとって、アダムの園の回復を意味する。元に戻れるのだ。

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事は成就した

 「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
 また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。
 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示21:3-8)

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 大きな苦しみの後に、事は成就する。
 神と共に住む者たちと第二の死を受ける者たちとに二分される。
 このことは、公生涯でのイエスが何度も私たちに伝えている。

 この世では涙を流すことの多かった者に対しても、神は慈しんでくださり、私たちの涙をすっかりぬぐい取って下さる。
 違う言い方をすると、少なからぬ者にとってこの世は涙の谷、嘆きの谷なのだということを意味する。
 そうは感じない者たちが少しいて、彼らは世を謳歌している。
 私たちの涙や嘆きは彼らによって引き起こされることがきわめて多いから、彼らは神にどう取り扱われるだろう。

 大切なことは「乾く者」であるということだ。
 言い換えると、涙の谷、嘆きの谷にいて、この神を慕い求めている者のことである。
 求めれば与えられることは、イエスが約束している。

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和解

 「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示3:19-20)

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 キリストは、愛する者を格別にお取り扱いになり、そして、その人の戸を叩く。
 キリストが叩いたのだと分かる者、キリストの声をそうと聞き分ける者は、その戸を開けてキリストを迎える。
 そこでキリストと共に囲む食卓は、神との和解の場だ。
 神の側から、和解の手を差し伸べてくださっている。

 ただ、こちらから出掛けていってキリストを見つけるのではない。
 キリストがやってきて戸を叩く、それを私たちは待ち続けるのである。
 このように、神のわざは、どこまでも人間の側が受け身になる。
 懲らしめも、神がお与えになる。
 その懲らしめのない人は神から見放されている、ということをヒルティが書いているが、そのことは私もそう思う。

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[一版]2008年11月 3日
[二版]2011年11月23日
[三版]2014年 4月 6日(本日)

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パトモス

 「私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」(黙示1:9)

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 イエスにある者と、そうでない者とは、何かが決定的に異なる。
 品行方正だ、とか、いい人だ、というのではない。
 イエスにある者には、御国の約束がはっきりと見えているのである。
 彼が選んだのではない。彼は選ばされたのだ。
 イエスによって、選ばされた。
 だから、その約束は架空のものや思いこみによるものではなく、実際にあったことに基づいているから、御国とは現実的なものなのである。
 これを言い換えれば「いのち」となる。

 世では苦難が絶えない。本当に絶えない。
 だが私たちは、その現実的な御国を前に、救い主イエスとの再会に思いをめぐらし忍耐する。
 その私たちは今は、パトモスにいる。

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[一版]2008年11月 1日
[二版]2011年11月19日
[三版]2014年 4月 5日(本日)

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