世に勝ったイエス

 「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。
 見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。
 しかし、わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです。
 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
 あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:31-33)

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 あなたが神から来たことを信じますと言う弟子たちに対しての、イエスの返答。

 このあと、イエスはこの軽薄な弟子たちからいともあっさりと見捨てられ、たったひとりで十字架に向かうのだが、父が共にいることをイエスは疑いを持つことなく信じている。
 このことは、「型」だ。
 何の「型」かというと、イエスを信じる者の「型」、お手本である。
 上の引用箇所のもう少し前に、こうある。

 「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:19)

 イエスを信じるということは、そのイエスによって世から分け隔てられるということだ。
 そして世のものではない彼はこれから、世にあってはひとりで歩む、否、イエスと共に歩む。
 イエスは彼に声を掛けられる。「勇敢でありなさい」、そう、声を掛け続けられる。
 彼は、このイエスだけは常に共にいて下さると信じきっている。
 そういうわけでイエスは、世のものではないが世にある人々の「型」、またお手本なのである。
 よって彼らは、イエスを離れては何もできない(ヨハネ15:6)。
 この意味において初めて、イエスが「主」となる。

 その主イエスは宣言する。
 「わたしはすでに世に勝ったのです」。
 世「で」勝ったのではない。
 イエスは世を超克した。それも「すでに」。
 イスカリオテ・ユダの裏切りを受け入れることによって、また、それにより多くの人々を救う十字架への道を完遂することによって、世を超克する。
 さらにイエスは復活する。
 まさしく世に勝つ。
 この復活のイエスと出会って、私たちはこの世から分け隔てられてイエスを信じている。
 この信仰こそイエスが世に勝利した証拠、その最たるものに違いあるまい。

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[付記]
 本日の記事は、2008年1月6日の記事に若干の変更を施したものです。
 これでデフラグ作業はおしまいです。おつきあいくださって、ありがとうございます。
  このブログは毎日の日課として書いているものですから、どうしても日によって内容が飛び飛びになってしまいます。
 ですので、ときどきこのようなデフラグ作業をすることによって、「小まとめ」をしております(前回は去年の6月だったと思います)。
 このブログで書きたいことというのは、ただひとつ、「いのち」です。
 ではなぜこのことを書き続けるのかというと、自分でもはっきりとは分からないのですけれども、あるいは伝道とか宣教と言われたならば、まあそうかな、と思います。
 この「いのち」のことをすらりと書くということなど、私には到底できません。
 それでも、毎日試行錯誤しつつですが、聖書に依って書き続けてきました。
 今回のデフラグ作業を通して、はずれ記事もたくさん見いだしました。
 それでもこうしてまとめ作業を重ねるにつれ、微かに筋が見えてきたかなという感を持つのですがいかがでしょうか。
 今までお読み下さり、またコメントを下さり、クリックしてくださったことを深謝いたします。
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