リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

寝不足?

2014-04-19 20:33:10 | コーヒーブレイク
 こんばんは。いま確認したら、ここのところずっと『コーヒーブレイク』カテゴリー。まあ、私の36年が終わったということで、よろしく。
 で、わたくしごと、再度の勤務仕事でお忙しい毎日、気持ちだけとはいえ。。
 そのへんが変なところで、つい2ヶ月前より絶対忙しくないのに、その2倍くらい忙しい気持ちという。ボケたんだよ、というのはわかりますが、2ヶ月でこの差のボケ方というのは、、、まあ忙しいのでその理由には興味がなく。

 昨日は、昔の出向先の、そこのいつもとは別の方たちとの飲み会(いちおう、お疲れさま会、私宛のような) で、楽しかったです。前も書きましたが、ここの出向先の人、みんな前向きで、こちらの気持ちも明るい。「前向き」であること自体の悪口も人次第でいろいろ書けることはもちろんわかりますが、人のあり方ってそんなもんじゃないしね。(でも帰り夜遅くって、ねむ。)
 かたや今の勤め先では、別の部署の若いもん(採用後2年)に声をかけられて、「Kさん、呼ばれてまたお勤めですってね、お疲れさまです。でも自分、応援してます」 って。
 なんとも嬉しい声掛けでありがたいことです、、、(けど、「応援」、、、少し違うような、、、)
 まあ、そんなありがたい、はずの、人生。今の私の現実はあせりのかたまりで。もっとも、そんな日数であせるのもフランクリンの時代から引き続く資本主義の恥かしさですね。
 
 で、前回の注釈、『天の配剤』とは、「ただの平凡な環境」 という意味でもあります。だれであれ、人はその環境内で最善をつくすものです。あるいは「やるだけやっ」ってもらった他人にとっては、言い方は悪いですが、当人にはそれ以外の存在意義などないのです。そもそも社会的人間、という立場での個人行為者には、それ以外の存在過程などありはしません。
 (書きたくもないですが、逆に、社会を忘れた、自分かわいい人間には彼自身にフィットする自分の存在意義がいくらでもあるんでしょう、、、しかし、それってどんな意義なんですかねえ? ああた、ぼくにも教えてほしいものです、、、あ、やっぱいらん。うっとおしい)

 逆にいえば、ぐちはいくらでもいっていいが、人間が生きてきた自慢はただ一つ。「やるだけやった」 だけだ。(by 『地下水道』、、、たしか。)
 まあ、きょうも「引き続き来月も働いて」 攻勢。わたしゃすでにひとのため以外では働きません。


 さて、濃いコーヒーを飲もうか、ウィスキーを(追加で)呑もうか、と考えていて、そのとき、サミー・デイビス・ジュニアをyoutubeで聞いて思ったところ、これだけで十分。(ちなみに、”Mr. Bojangles”)
 ともかく手段を問わず、現実を忘れられれば、それで勝ちだな、というか。もちろんAKBじゃ現実を忘れることにはならないけれども、ですが。といってみれば、昨今15年の日本における芸術の空白という現状がわかりますね。にんげんて、夢を見て暮らすもんですよね、週刊誌風に言うと、少なくとも男は。その表現がほんとかは別として。夢を見させるものこそが芸術ですが、「かわいい」夢などあるものかい。

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