こんにちは。重たい冬空はいやですねえ。
アルバイト再開後2週間、さてこの間の自分の仕事は、と見直してがくぜん。原稿用紙1ケタしか進んでない(ポイントしか書かないせいもあります)。この生活はどうもダメだ、と決めここに記録。物事が終わるとすぐどうだったっけ、と忘れちゃうんで。
さて、相変わらず世間では、わざわざ一言添えるべきことはトリビアなことしか起きず、本日はマニアックな方むけ本読み関係で、佐藤優を褒めます。
まずは、広松渉の『エンゲルス論』 。 これはすでに勤労時間入りで気晴らし用に意味もなく漫画の代わりに借りたのですが、どうも腑に落ちない点があって。まあ、どうせ気晴らしだから、と思いつつ、でも蔵書検索に引っかかった佐藤優の本も読んでみよう、どうせ気晴らしだし、と「共産主義を読みとく いまこそ廣松渉を読み直す『エンゲルス論』ノート」 を借りました。
ら、おおすごい、佐藤優の面目直しの優れ本。面目って、とりあえずわたしの悪口分だけですが。 ともかく、腑に落ちなかった点がきれいにさばけている。本の題がおおげさでインチキに近いですが、要するに「エンゲルス論ノート」。
《腑に落ちた主な点》
1 広松の論だと、清教徒若きエンゲルスがやけに簡単に信仰離脱してしまっていて、なんじゃこりゃ、と思うわけですが、佐藤に言わせると、実は解脱なんかしてなかった、死ぬまで信仰者だった、と。まあ、この要約は端的に言いすぎですが、なるほどの説明を加えております。
2 わたしには広松の相互関係主義は全く意味不明、なぜマルキストがそんな無規定的な話をするのか想像不能だったのですが、佐藤の整理によると、実は広松は「本来の人間」なしで科学理論を作りたかった、その志向の先の苦肉の策なんだそうです。へええ。まあこれは知ってる人は知ってるのかなあ。でもそれが分かりやすく説いてある。佐藤の議論はわかりやすくてよいですね。 そういえばわたしなど、18歳のみぎり読んだ『マルクス主義の地平』か『『唯物史観の原像』だかで(両方ともとうに捨てた)、エンゲルスを見直したうえ(サルトリアンだったのでエンゲルスはアホと聞かされてました)、「本来の人間」 論はだめ、と刷り込まれたんでしょうねえ、広松のことを著作・論文で褒めたことがないのは失敗だったかも。おかげさまで、というべきか。
3 これは広松とは関係がない佐藤の趣味ですが、疎外理論者の多くが持つ、宇野の「労働力は本来商品として生産せられるものではない」のに「労働力が商品として売買せられ」る論への賞賛。まあ、これは近似点はわかるけど似てるだけだろと思っていましたが、佐藤の説明はわかりやすい。あっそうなの、みたいなもんで。
ともかく感心。上記には当たり前のことを省いてありますが、普通の人向けでは他にもいろいろ。広松のエンゲルス論は私のようなエンゲルスファンにはわかりやすいですが、普通の人はぜひ佐藤の当該書をセットでお読みください。「共産主義」 なんか読み解いてないですけどね。佐藤のいいところがとてもよく出た本。キリスト教の知識、体験と、主体的な読み込みとその我が物化のことです。
佐藤にはこんどホロコーストのプロセスを書いて欲しいなあ。絶対借ります。わたしなど「肉食人種」と揶揄するしか理解不能なところがありすぎで。
というわけで今日のお題、本来の疎外論とは。
およそ科学では広松の言うとおり「本来こうあるべき人間」 などという根拠のない話を始めてはいけない。しかし、始めたくはないが、一方で現実に人間には疎外というものが存在する。まあそんなもののない幸せな人間もいるのでしょうが、そんな人々はわたしとは関係がない。さて、では「本来」 論なしの疎外理論というのはありうるのか?
残念ながら佐藤優があるわけがないといい、広松も見つけられなかった「本来の人間」なしの疎外論。
それは「あるべき」人間の姿ではなく、現にある人間から引き出すしかない。
『「引き出す」といって、疎外されてるんだから、ないところから引き出せるわけがないじゃないか、、、』
数少ない『行為の集成』 の読者の方がお分かりですが、それは「行為」という過程そのものの分析からでてくる。
かくて、本来の疎外理論、すなわち、「神」にも、「関係」の無規定性にも逃げない疎外理論は、隈にしかできていないことが判明します。
被支配者を襲う疎外の解明とその解消の理論、それは隈著 『歴史としての支配』 をご覧ください。2月10日発売予定です。
以上宣伝でした。
アルバイト再開後2週間、さてこの間の自分の仕事は、と見直してがくぜん。原稿用紙1ケタしか進んでない(ポイントしか書かないせいもあります)。この生活はどうもダメだ、と決めここに記録。物事が終わるとすぐどうだったっけ、と忘れちゃうんで。
さて、相変わらず世間では、わざわざ一言添えるべきことはトリビアなことしか起きず、本日はマニアックな方むけ本読み関係で、佐藤優を褒めます。
まずは、広松渉の『エンゲルス論』 。 これはすでに勤労時間入りで気晴らし用に意味もなく漫画の代わりに借りたのですが、どうも腑に落ちない点があって。まあ、どうせ気晴らしだから、と思いつつ、でも蔵書検索に引っかかった佐藤優の本も読んでみよう、どうせ気晴らしだし、と「共産主義を読みとく いまこそ廣松渉を読み直す『エンゲルス論』ノート」 を借りました。
ら、おおすごい、佐藤優の面目直しの優れ本。面目って、とりあえずわたしの悪口分だけですが。 ともかく、腑に落ちなかった点がきれいにさばけている。本の題がおおげさでインチキに近いですが、要するに「エンゲルス論ノート」。
《腑に落ちた主な点》
1 広松の論だと、清教徒若きエンゲルスがやけに簡単に信仰離脱してしまっていて、なんじゃこりゃ、と思うわけですが、佐藤に言わせると、実は解脱なんかしてなかった、死ぬまで信仰者だった、と。まあ、この要約は端的に言いすぎですが、なるほどの説明を加えております。
2 わたしには広松の相互関係主義は全く意味不明、なぜマルキストがそんな無規定的な話をするのか想像不能だったのですが、佐藤の整理によると、実は広松は「本来の人間」なしで科学理論を作りたかった、その志向の先の苦肉の策なんだそうです。へええ。まあこれは知ってる人は知ってるのかなあ。でもそれが分かりやすく説いてある。佐藤の議論はわかりやすくてよいですね。 そういえばわたしなど、18歳のみぎり読んだ『マルクス主義の地平』か『『唯物史観の原像』だかで(両方ともとうに捨てた)、エンゲルスを見直したうえ(サルトリアンだったのでエンゲルスはアホと聞かされてました)、「本来の人間」 論はだめ、と刷り込まれたんでしょうねえ、広松のことを著作・論文で褒めたことがないのは失敗だったかも。おかげさまで、というべきか。
3 これは広松とは関係がない佐藤の趣味ですが、疎外理論者の多くが持つ、宇野の「労働力は本来商品として生産せられるものではない」のに「労働力が商品として売買せられ」る論への賞賛。まあ、これは近似点はわかるけど似てるだけだろと思っていましたが、佐藤の説明はわかりやすい。あっそうなの、みたいなもんで。
ともかく感心。上記には当たり前のことを省いてありますが、普通の人向けでは他にもいろいろ。広松のエンゲルス論は私のようなエンゲルスファンにはわかりやすいですが、普通の人はぜひ佐藤の当該書をセットでお読みください。「共産主義」 なんか読み解いてないですけどね。佐藤のいいところがとてもよく出た本。キリスト教の知識、体験と、主体的な読み込みとその我が物化のことです。
佐藤にはこんどホロコーストのプロセスを書いて欲しいなあ。絶対借ります。わたしなど「肉食人種」と揶揄するしか理解不能なところがありすぎで。
というわけで今日のお題、本来の疎外論とは。
およそ科学では広松の言うとおり「本来こうあるべき人間」 などという根拠のない話を始めてはいけない。しかし、始めたくはないが、一方で現実に人間には疎外というものが存在する。まあそんなもののない幸せな人間もいるのでしょうが、そんな人々はわたしとは関係がない。さて、では「本来」 論なしの疎外理論というのはありうるのか?
残念ながら佐藤優があるわけがないといい、広松も見つけられなかった「本来の人間」なしの疎外論。
それは「あるべき」人間の姿ではなく、現にある人間から引き出すしかない。
『「引き出す」といって、疎外されてるんだから、ないところから引き出せるわけがないじゃないか、、、』
数少ない『行為の集成』 の読者の方がお分かりですが、それは「行為」という過程そのものの分析からでてくる。
かくて、本来の疎外理論、すなわち、「神」にも、「関係」の無規定性にも逃げない疎外理論は、隈にしかできていないことが判明します。
被支配者を襲う疎外の解明とその解消の理論、それは隈著 『歴史としての支配』 をご覧ください。2月10日発売予定です。
以上宣伝でした。