リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

本来の疎外理論の立場

2016-01-30 13:31:56 | 「歴史としての支配」
 こんにちは。重たい冬空はいやですねえ。
 アルバイト再開後2週間、さてこの間の自分の仕事は、と見直してがくぜん。原稿用紙1ケタしか進んでない(ポイントしか書かないせいもあります)。この生活はどうもダメだ、と決めここに記録。物事が終わるとすぐどうだったっけ、と忘れちゃうんで。

 さて、相変わらず世間では、わざわざ一言添えるべきことはトリビアなことしか起きず、本日はマニアックな方むけ本読み関係で、佐藤優を褒めます。
 
 まずは、広松渉の『エンゲルス論』 。 これはすでに勤労時間入りで気晴らし用に意味もなく漫画の代わりに借りたのですが、どうも腑に落ちない点があって。まあ、どうせ気晴らしだから、と思いつつ、でも蔵書検索に引っかかった佐藤優の本も読んでみよう、どうせ気晴らしだし、と「共産主義を読みとく いまこそ廣松渉を読み直す『エンゲルス論』ノート」 を借りました。
 ら、おおすごい、佐藤優の面目直しの優れ本。面目って、とりあえずわたしの悪口分だけですが。 ともかく、腑に落ちなかった点がきれいにさばけている。本の題がおおげさでインチキに近いですが、要するに「エンゲルス論ノート」。
   《腑に落ちた主な点》
 1 広松の論だと、清教徒若きエンゲルスがやけに簡単に信仰離脱してしまっていて、なんじゃこりゃ、と思うわけですが、佐藤に言わせると、実は解脱なんかしてなかった、死ぬまで信仰者だった、と。まあ、この要約は端的に言いすぎですが、なるほどの説明を加えております。
 
 2 わたしには広松の相互関係主義は全く意味不明、なぜマルキストがそんな無規定的な話をするのか想像不能だったのですが、佐藤の整理によると、実は広松は「本来の人間」なしで科学理論を作りたかった、その志向の先の苦肉の策なんだそうです。へええ。まあこれは知ってる人は知ってるのかなあ。でもそれが分かりやすく説いてある。佐藤の議論はわかりやすくてよいですね。 そういえばわたしなど、18歳のみぎり読んだ『マルクス主義の地平』か『『唯物史観の原像』だかで(両方ともとうに捨てた)、エンゲルスを見直したうえ(サルトリアンだったのでエンゲルスはアホと聞かされてました)、「本来の人間」 論はだめ、と刷り込まれたんでしょうねえ、広松のことを著作・論文で褒めたことがないのは失敗だったかも。おかげさまで、というべきか。
 
 3 これは広松とは関係がない佐藤の趣味ですが、疎外理論者の多くが持つ、宇野の「労働力は本来商品として生産せられるものではない」のに「労働力が商品として売買せられ」る論への賞賛。まあ、これは近似点はわかるけど似てるだけだろと思っていましたが、佐藤の説明はわかりやすい。あっそうなの、みたいなもんで。
 
 ともかく感心。上記には当たり前のことを省いてありますが、普通の人向けでは他にもいろいろ。広松のエンゲルス論は私のようなエンゲルスファンにはわかりやすいですが、普通の人はぜひ佐藤の当該書をセットでお読みください。「共産主義」 なんか読み解いてないですけどね。佐藤のいいところがとてもよく出た本。キリスト教の知識、体験と、主体的な読み込みとその我が物化のことです。
 
 佐藤にはこんどホロコーストのプロセスを書いて欲しいなあ。絶対借ります。わたしなど「肉食人種」と揶揄するしか理解不能なところがありすぎで。
 
 というわけで今日のお題、本来の疎外論とは。
 およそ科学では広松の言うとおり「本来こうあるべき人間」 などという根拠のない話を始めてはいけない。しかし、始めたくはないが、一方で現実に人間には疎外というものが存在する。まあそんなもののない幸せな人間もいるのでしょうが、そんな人々はわたしとは関係がない。さて、では「本来」 論なしの疎外理論というのはありうるのか?
 残念ながら佐藤優があるわけがないといい、広松も見つけられなかった「本来の人間」なしの疎外論。
 それは「あるべき」人間の姿ではなく、現にある人間から引き出すしかない。
 『「引き出す」といって、疎外されてるんだから、ないところから引き出せるわけがないじゃないか、、、』
 
 数少ない『行為の集成』 の読者の方がお分かりですが、それは「行為」という過程そのものの分析からでてくる。 
 かくて、本来の疎外理論、すなわち、「神」にも、「関係」の無規定性にも逃げない疎外理論は、隈にしかできていないことが判明します。
 被支配者を襲う疎外の解明とその解消の理論、それは隈著 『歴史としての支配』 をご覧ください。2月10日発売予定です。
 
 以上宣伝でした。
 
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センター試験正論

2016-01-23 11:27:34 | その他
 こんにちは、お寒うございます。東京地方、月曜は雪で、通勤電車は動いたのですが、動くから良いというものではなく、座席の前で踏ん張っていてひどい筋肉痛(詰まってて動かないし)。yahooの写真ではパンダは雪が好きなようで、まあとりあえず毛皮に融けた水が浸み込むまでは楽しいでしょうね。

 さて、たいしたニュースもなく、甘利が賄賂を受け取ったとか、ざまあみろとは思いますが、国会ちゃんと議論しろよ、とも思いますね、これは普通の感覚と思いますがどうでしょうか。ともかく議員700人も要るわけがない。衆議院はおしゃべり院にして、決議は参議院で行うというのはいかが? って下院的先祖がえり。とりあえず誰でも思うんだよね、この手の感想は。なお、次(々)回作品では上部構造論として、政治過程も扱います、ご期待を。
 まあ、どうでもいいですが、ここんとこ忙しくて夕刊は読んでないのでもしかすると何かあったのかもしれませんが、本ブログは6日前の話題、ってことで、センター試験。

 皆様は各種高校参考書などお読みにはならないでしょうが、私の長年の愛読書は日本史、世界史、地理の受験参考書です。ほんとに何度よんでもためになる。
 そんな私がいうのだから間違いない。センター試験の社会の問題など、ムダの極致。まったくのムダ。何一つ役に立たない。
 そんなもんに2年も3年もかけるのは人生の全きムダ。、、、あ、これはまさか受験生の方は見てないですよね。人生のムダなどいくらでもあるのですからムダだからやらない、なんていってたら、人間、どんなしたいこともできませんぜ。
 とフォローしておきますが、文部省のやつらは犯罪者です。文部省が音頭をとれば試験などどうでもいい学者連中はどっちにでも転んでくれるんだから。
 
 以上。ポイントは何十年も社会科受験参考書が愛読書とする人間が、かく断じた、というところです。長々いったところで誰も聞いてないし。
 以下は、付けたりです。といいながら、長々ですが。
 
 高校の社会科教科書はトータルとしてよろしい。反動的検定がどうとかなんていうのは、イデオロギー闘争の意義しかありません。だから負けてはいけないのですが、それは当該教科書の機能自体とは関係ありません。ま、ともかくどんな教科書でも、高校の生徒さんは教科書を熟読玩味すればよろしい。
 しかし、じゃあ熟読玩味したら今のセンター試験は受かるのかよ、という問いです。
 受かりゃあしません。人物と資料と年名と。そんな固有名詞を覚えない限り試験は通らないのです。答えの欄には固有名詞を要求していないようでも、問題文自体に固有名詞の記憶を要求しているのです、ご確認を。で、誰か今でも高校の授業の固有名詞など覚えている国立大学を出た社長や政治家がいるのか? せいぜい小学生や中学生の固有名詞知識しかないでしょう。さらにパーティで日本歴史や世界歴史の話ができる国立大学を出た社長や政治家がいるのか? せいぜい司馬遼太郎の知識でしょう。
 文部省の奴らがどんだけバカか分かるでしょう。試験担当教授に「そんな無駄な問題は出さないでくれ」 とどうしていえないのか。

 といって、私は別に受験生の味方ではありません。勉強をしに大学にいきたい者は、勉強はしたらいい。センター試験? 社会科教科書の要約でもさせなさいよ。因果連関なんて難しいことはいらない。どうせ大学教授もわかっていない。江戸時代300年、ドイツ農民戦争からドイツ統一まで400年、どう表面的に流れていったか。それだけでいい。それを人に話せるように。だから、1問5分の話しで1500字くらいで。字が書けない人は試験官に話せばいい。高校生は若くて記憶力がいいから勉強が物足りないだろうが、それで物足りなければ受験生個人の趣味の歴史事象を何か興味深く書かせればいい。題:「ギリシア美術と東洋美術」とかのことです。2000字。それだけモノにすれば世界と話す基礎力はつく。成人後足りなければ、足りないと思った時点で「授業」参考書を読めばいい。文部省検定など何の話か。どの高校生がそんな細かいところまで理解しているのか。
 それが教養ってものです。ドブに捨てる知識を詰め込んで、いったいなんのための高校なのか。高校は自分の頭で生きていく基礎知識を身につけるところだろうが。
 かたや大学は勉強するところです。教養課程など、国立大学なら税金の詐取、私立大学なら親のカネの詐取、そして大学教授連の研究時間の収奪です。
 
 なお、理系科目にも文句はあるけど、わたしは何も勉強しなかったからとりあえずいわない。(けど、物理の参考書は成人後何度か読んだ。新しいのも買ったし。なかなか面白い。) 生物はいいんじゃん? 日本史科目の5%分も記憶すれば80点はOKだった気が。
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『歴史としての支配』

2016-01-21 20:49:22 | 「歴史としての支配」
 本日は、ブログというよりもご紹介。
 さて、「出きたのに出きない」とか、「いやホームページに出したよ」とか、「都合によってHPのページは閉鎖中」とか、この2年間いろいろ雑音を重ねました、『行為の反逆』、改め『歴史の中の行為』、改め『歴史としての支配』。お待たせしました、合同フォレスト・合同出版の皆様のご努力をいただき印刷所へ。まずは、ネットに出現のご報告です。発売予定日 2016年2月10日。 

 皆様におかれましては、できうれば冷やかしでよろしいのでちょっと手にとっていただければ幸せです、って、書店の店頭にはでないのでご注文になりますが。でも『行為の集成』の半額で、暴利もなにもなし。(注:そうはいっても『行為の集成』も申し上げましたようにもうけは数円の予定でした)
 ネット上、内容紹介が出てませんが、皆様にはご承知のように、 
 
 《今日も現実に生きている生活者の行為とは何か?
 有史以来の支配社会の歴史の中で、人間が受け続ける疎外とそこからの脱却の道筋の真実を、今明らかにする、隈 『歴史としての支配』。
 同時に、歴史の中で人間の歩むべき道をも、明らかにする。》
 
 、、、これじゃあよくわからないか。HPから拾ってきましたが。もうすこし具体的に書かないとね。
 ただ、仕事が「早く寝たい」と言うので、本日はパス。
  (現物が出来上がりましたら、その折に載せさせていただきます)
 
 ともかくも、支配とその解消に関係することは全て載っています。「1冊でかよ」 ってそうなので、ちょっと読みづらい。まあこのブログのようなもので、よろしくお願い申し上げます。
 
 
 それにしても、こう麗々しく世間様の前に出たのも初めてで、これならもう少し抑えて文章を書けばよかった。というか、書ければよかった、というか。できなかったことを後悔しても始まらないので後悔しないようにしてまして。でもブログに他人の悪口をさんざん書いた翌日の心境。ここ(ブログ)だとふつう、「トップページ変更」と宣言して埋め草を載っけるところです。
 『行為の集成』は、その元本たちがあって、そちらで発散してますから、したり顔でアカデミックに書けてよかったんですが。
 でも、ということは、今回は、前回元本たちに分散してしまった面白さが、読者の方々にもろに伝わってくるともいえます。私の元本たち、ほんと面白いですよ。

 ともかくもこういう本ができた良し悪しはトータルで評価せざるを得なく、人の悪口を書き飛ばす根性がないと書けない本だ、ということでまとめておきます。こういう仕事はアタマの良し悪しではなく、根性でするものですから。
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風がしゃべる日本

2016-01-16 10:39:49 | その他
 こんにちは、もうすぐ大寒ですね。寒さ暑さがきらいな私、個人的にここまで早かったのでうれしい。北緯42度以北のイメージはつきませんが、本州以南の方々には3月にもなれば春の兆しがでてくるのでは? それももうすぐ。
 
 今日のニュースは「大阪市が全国初ヘイトスピーチ抑止条例 懸案3議案可決」だそうで。よしよし、私は公明党と違って是々非々なので褒めてあげよう。もっとも大阪市大と府大の合併も込みだそうで、ほんと合理化しか脳のない奴でしたね。女子大をなくしたのは俺じゃない? さよか。太田推薦とかの社民党もくずだね。天にツバすりゃ。
 もっとも条例と法律の違いは発展力でね。条例というのは作ったっきり。どうせろくな罰則もないのが当たり前。相手がまっとうな市民やまっとうな市民を相手にする会社なら効果はあるのだけどね、相手がヤクザじゃ。
 
 さて本日は、昨日ネット見てて、あれと思った堀辰雄。なんでも堀越の映画の時、「風立ちぬ」誤訳説が飛び交ったそうな。
 この小説の題、ポール・ ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の一節「Le vent se leve, il faut tenter de vivre.」を堀が訳した、というわけで、詩の何たるかも知らぬ大野晋と丸谷才一がケチをつけたのをわざわざネットに上げたやつがいて、彼ら曰く、
 『語り手がその文句を呟く。そこが「風立ちぬ、いざ生きめやも」となっている。「生きめやも」というのは、「生きようか、いや、斷じて生きない、死のう」ということになるわけですね』
 とかいって、堀は古典語を知らない、とかぬかしている話。
 これに人の悪口ならまかせておけとネットの追従者たち(や某准教授)などが乗って、今サーフィンしてもかしましいたらありゃしない。ったく何を言っているのか。(以下、不愉快で乱文ですが)
 何が古典語だよ、おめえらだけだよ、神代の時代の話をするのは。詩を読めない人間に教えてあげよう。
 あれはバレリーへの誤解であって、バレリーの詩の誤訳ではないのだ。
 大野や丸谷のような貪欲な精力家には堀の文学など一生かかっても分かるまいが、日本近代詩とは、自然が詩人に言葉がけをしてくれるものなのだ。そら常識以前の話。ここでは、風が”il faut tenter de vivre.”と語りかけてくる、というのが日本近代詩なのだ。
 分からない人に、ただの中世古文の現代語訳を書いてあげよう。堀の文には
 「風が立った。お前は「さあ生きろ」というのか。ああ、、、」
と書いてあるのだ。なんの疑問や誤訳があるというのか。「や」は疑問。「も」は詠嘆。ばかばかしい。

 さらに興をそぐが、解説を加えようか。堀の心はずうっと疑問のままなのはいくらなんでもあらすじを読むだけでわかるだろう。以下、Wikipedia【風立ちぬ (小説)】の『あらすじ』に沿って当該語句の意味を追えば、

1 不安に; 「このまま過ごしていて私たちの生はだいじょうぶなのだろうか。風は生きなければいけないといっている。なぜそんなことをいうのだ。私たちに幸せな生をくれるというのか」

2 愉しさに; 「風よお前が言ったのはこのことだったのか、これでよかったんだろう?」

3 死に; 「やはりだめだった。私たちの生はだめだった、、、
   しかし、お前が言うようにこの行き止まりのような生を生きてよかった、向こうでは誰のためにかまた風が立つ。しかしお前の言うことが私にはわかった。ありがとう、、、」

 皆様には「青空文庫」(というネットの無料図書館)にありますのでお読みください。

 もっともバレリーの元詩は肉食人種らしく威勢が良いわけで、軟弱な中性小説家とはわけが違います。その意味でのみ誤訳というのが本来ですが、他人である詩人をどう解釈しようが、それは訳詩者の権利です。いまどきの遵法精神でできた若人の方には分からないかもしれないですから、「平成未満の訳詩者の権利でした」にしときますか。
 もっとも、ごくもしかすると、バレリーも華奢な日本人的精神を持ち合わせていて、吹く風に、蹴飛ばされそうなフランス人的ファーザーコンプレクスではなく、母のような親身な励ましでも感じたかもしれない。(ありえねえ、、、)
 そういやあ、『風の歌を聴け』 とか、日本の伝統は最近までは残ってたね。
 こいつも元は "think of wind”。英語教師丸谷にいわせりゃ誤訳だね。


 こんな話、ずいぶんひまだなあ、って。
 そういうわけで、また来週からしばらくアルバイトを始めます。皆様にはどうでもいいでしょうが、ここんとこ続いていた土曜日更新がずれるかも。
 それにしても、あと10年、別の人生をやって死にたいところですが、いくら探しても満足のいく別職等が見当たらなくて、そろそろ自分で作らなきゃダメかな、と思ってきました。わたしゃ怠け者なんでそう思うだけでも進歩。
 ま、アルバイト中はともかく金は稼げて悩まずに済むのでよいのです。

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友だちは自分の言葉で語る人を

2016-01-09 10:46:29 | その他
 こんにちは。お正月も松がとれました。今年の正月は親戚(というか家族というか、)づきあいが大変で、すでに1年分の仕事をした気がします。私のように淡々と考えるだけの仕事でも勉強が動かない日があるということに。
 ともかく人間健康が一番。不健康は華奢な他人を病気にしますぜ。
 古い古い昔から正月の願いは、家内安全、安産成就、商売繁盛、無病息災、こんなもん。人間の願いは多いようで大してありません。途上国の進学希望理由も「お医者さんになる」と相場が決まっております。私なんざ(もう)後ろ3つは関係ありませんので、家内安全(=家族内無事)1ケだけでお願いしたいところ。

 さて、世間ではNHKの国谷キャスターがクビだというそうな。
 といっても国谷さんなんて知らないという方が圧倒的でしょうのでお知らせしますと、NHK夜の解説番組のキャスターです。ニュースステーションの古舘伊知郎みたいなもの。がクビだって。
 この人は別に左翼ってこともない普通の良心的国際派の方なだけですが、クビで後任はアナウンサーとかいわれると、ああ、あの人はあれで俺らの世代の人間だったな、と。たとえば昨日8日夜のおべんちゃらにみえるMC(進行役)じゃあおりゃあ到底信じられんなあ、という意味で。
 長い間生きてると、「自分の言葉で語らないやつは信じてはいけない」ということが、世間を生きるための基本の押さえということになります。で、次の押さえが、「じゃあそう聞こえる『自分の言葉』は、実は演技ではないのか」 ということになるのです。悲しいですね。世の中、(下位の)社会によっては嘘つきばかりです。このブログのお客さんのような純粋な若い方はこの2点目に心眼をこらすように。まあ、仲間社会に限って生きれれば大体は良いのですが、仲間の一人にも外部からいろんな事情が降りかかる、というわけです。哀しいものです。
 で、この2点さえ抑えておけば、人生間違いありません。他人の言葉でしゃべる奴は、決してあなたの友だちではありません。
 元に戻って、この国谷という人は定年退職者の私から見れば、ごくわずかに年下で、私のような「紛争世代」ではないのですが、良き時代のアメリカで教育を受けたようで、そこが、「権力がなんだろうが自分に忠実にふるまうのが当然」、という根本の形成に当たるのではないか、と思われるのですが。ただ、時代は変わる。この数十年でアメリカも今じゃほんとに亡者の巣のようですけどね。
 
 で、話は流れ、良き時代のアメリカ。ナタリー・コールさんが死んだとか。私にはなじみのない方ですが、お父さんがナット・キング・コール。”Fly me to the moon” をyoutubeで検索すると一番に出る人です。これ素晴らしい。シナトラよりいい。シナトラのシャンソン(!)はうまいもんですが。ついでにいうと、同じく歌謡のきれいさで勝負しないのがサミー・デイビス・ジュニア。これもシナトラつながりですね。皆様には、”Mr.ボージャングル”、これお薦めです。騙されたと思って、ぜひ、『画面で』お楽しみください。youtube 「Sammy Davis Jr 1989」 というのがよろしいかと。サミー64歳。

 というわけで話の流れが黒人的なところ、この間読んだ「インディアンと「人種」イデオロギー」佐藤円(『アメリカニズムと「人種」』所収)。
 なんでもチェロキーインディアンは17、18世紀、白人に奴隷としてインディアンを売り渡してたんだと。知らなかった。恐れ入ったもんだ。アルフォンソ(=アフォンソ。コンゴの黒人奴隷商人「王」)みたいなヤツがいたんだね。
 しかも売れるインディアンが捕まらなくなった時代には、保留地等では黒人奴隷法を作って黒人や黒人混血を虐待差別したそうな。偉い白人のマネをしたかったんだと。因果応報。天に唾すりゃてめえのツラにかかる。
 世の中、かわいそうな国家やら共同体民族なんかいやしない。かわいそうなのは国家から見捨てられた被支配民衆である個人個人だけ。みなさまもお間違いなきよう。
 (p.s. アルフォンソにも良心なり自尊心なりはないわけではなかった、と一応書いておきます)
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物理観照

2016-01-01 10:23:00 | その他
 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 東京地方のお正月はいつも良い天気、明るくてうれしいです。今年のメインの宴会は明日で、今日は余裕。
 さて、元旦なので今年こそは、と書いてみても、「今年の抱負」というのは、勤労者や生徒たちのとにかく制限だらけの生活の中で何を突出させるか、という方針だから、勤労していない人間がいうのもおかしいような。大きな方針のことなら変わるわけもなし。
 とはいいながら、今年は体力の増強、という名の体力維持を心がけようか、と。
 前回申し上げたように何しろ閃きは一瞬。実は昨夜も上部構造問題が一つ閃いたのですが酒飲んでたらすっ飛んでしまって。一度考えたんならだいじょぶだろう、って、いやいや閃きというのは経験上二度と戻らないのです。ま、どうでもいいですが、そこじゃなくって、、、ってなんだっけかな、、、あ、そうだ、閃きは一瞬だけど、その手前に舞台設定が時間がかかる。その時間設定のために中高年は勤労時間がじゃま、と申し上げましたのでした。いつまで中高年ていっていいのかな。
 ま、それにしても元に戻って、閃きは一瞬、後に時間が余る。これを申し上げましたところ。
 で、余った時間は体力を増強させようと。実態は維持ですが。維持と思うと絶対内輪に見積もるから体力は減少しますね。どうでしょうか、これはなかなかよさそうな。てゆうか、そんなにヒマなのか、といわれそうですが。

 さて、原子番号113番目が日本の発見手柄に、なんてニュース、家人が言うには物理学はすごいって。予測を立てて現実化するんだから、って。
 納得いかん。
 わかりきってることをわざわざ確認して何か偉いか? しかもロシア・アメリカに遅れること半年(確認が不十分だと認定され番外になったとのこと)。あると確信できるものを見つけて偉いか? 探し物はあるかどうかわからないから見つからないんだよ。
 という話だと、私に言わせれば、もう物理学にはすることもない。物理学は既に解釈の段階に入った。解釈はどんな文系にでもできる、ということに。
 だって、要するに物理学の対象はエネルギーの変形のバリエーションじゃん。そのときの技術で確定されるレベルが細かくなっていくだけのこと。この先、無限だあね。
 にしても人間の理解力は変わりはしない。単に文章の「主語」が変わっていくだけであとは同じ解釈パターンが続くだけ。

 ということを懐かしくも30年近く前に「論文」化したことがあります。
 社会学2部構成の第1部が物理学の解釈という恐れを知らない大胆な論文。題して「現代社会の像」。第1部はA4ノート紙で4、50ページ分。なにしろワープロがまだ清書機に過ぎない時代だから手書き。
 物理学解釈法が社会学とリンクされるというのは、ユニークこの上ないでしょ。宇宙、電磁気、光、重力、量子力学全部の統一理論。その頃は「弱い力」とかはぜんぜんメジャーなテーマではなかったので抜けているけど「強い力」はあり。
 この論文は間先生にしか送ってないので誰も知らず、私と共に消え去る運命。ってゆうか、すでに全文は見つからなくて(全目次はある)。捨てちゃったんでしょうね。狭い家(うち)にはよくある話。焼却炉の批判に任せたというわけで。なので、誰も知らないそんなこともあったと、過去の宣伝。
 間先生って、宏先生ね。一緒にすると、検索でこのブログが出てしまうので、分かち書き。今思えば送られた先生もたまげたでしょうね。とうとう発狂したかと思ったかも。ま、こちらは本気だから平気。今書いても、隈、とうとう脳軟化症とか言われるかも。いやいや、驚きはこれから。

 さて物理は統一エネルギーの破綻ですが、ではなぜ破綻したのか。このことを人間が理解するためには、他の要素を介入させる必要がある。人間の学である物理学は遠い将来、そうした論理構成を持つしかないことは、頭があれば自明であります。(もっとも30年前の私の解釈は、エネルギーに初めから大小があって、って波ね。その波の波頭が崩れてそのショックで、みたいなごまかし方、そういう解釈はいつまでたっても証明はできませんが、ありましょう)。その遠く長い過程で、自明なノーベル賞を排出するだけというわけですが。
 
 そこで、さて、ではなにが「他の要素」であるのか。
 それが現時点で不明な現象である生命である。すごい?
 たんぱく質構成も高い圧力も極度のエネルギーも、生命を生み出さない。物質それ自体には自前の変更要素がないからである。もっともこれは自明ではないが。もしかすると生命現象では何らかの意味あるノーベル物理学賞も遠い遠い将来に存在するかもしれない。ま、それはおいて、しかして生命である。
 異質エネルギー、生命は、物質エネルギーを巨大に変化させた。一方、生命も巨大ではある。なにしろそれは手塚治虫が指摘するように(ほんとに言ったのかね)、全宇宙で「一つ」なのだ。
 かくて、宇宙は悉皆了知される。
 以上、隈霊学でした。
 正月だねえ。

 創造的な若い方におかれましては、できれば創造は傍らにおいて、アカデミズムを志向されるのがなんといってもよいと思われます。そんなこといやだ、俺は創造的なんだ、と思っている方のみが創造の道に入られるように。この道は普通の人には決して楽ではありませんので。しかも、まず40歳までは生きないとダメです。
 わがままな創造屋さんにはこの言葉を。
 
   『私を過大評価しないでほしい。私はサッカーのために他の全てを犠牲にしただけだ』
           (ジーコ)

 いい言葉でしょ? 昔聞いてハードディスクに保存しておきました。持てる時間をどう選択するか。人生というのはそれだけのことです。
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