リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

社会学が把握すべき「男性性」とは

2021-05-08 13:51:47 | 行為
 こんにちは。連休はいかが? わたしはどこにもいかない代わりに家でぜいたくな海鮮チラシを作ろう、と思ったら、この辺のスーパーではぜいたくな海鮮など売っていないことを発見。普段買わないので知らんかった。もちろん魚屋などないし。まあこんな田舎のおかげで安全なのだけど。
 潮干狩り行った? 行きたいなあ、春の海。中年以降は海岸遊びしなくとも、今どきは近くの港に必ず美味しい海鮮レストランがあるからねえ。身内の不幸その他でもう4,5年行ってないけど。
 
 今日のニュース、 
「尾木ママ アスリート個人へのオリンピック辞退要求は「筋違い」」
「池江璃花子、、、が新型コロナウイルス感染拡大の収束が見えない状況の中、自身のSNSに五輪出場辞退や五輪開催反対に賛同を求める声が寄せられていることを明かした、、、」(スポニチ)
 尾木氏、さすがに善人だねえ、筋違いとか。やつらにはそれが「本当」の狙いなのだよ。
 若人の方々も善人だろうけど、わたしにはウヨの類いのストレス亡者が舌なめずりしている姿がくっきりと見えるよ。
 わたしは碌な生活を送ってこなかった、というわけだ。まあ、それでこそ社会学徒を張れる、ともいえる。
 
 さて本日は久しぶりにテーマもの。
 まずとっかかりは借りてきた水間千恵「女になった海賊と大人にならない子どもたち」。
「宝島」や「ピーターパン」その他を取り上げて、そこでの男性性を発見しようとするそうで。で、男の主人公が出てくれば、彼が行為する諸道徳が「男性性」と見なされるわけです。
 わたしゃ、なにそれ、と思うのですが、いやいや女性にとってはそうなのだろうか。
 わたし(男)には賞賛される主人公の行為は「良き人間」と把握されるのですが、これを自分とは違う「良き男性」と思うのなら、女はたしかに人間社会から疎外されているが、おやおや、ほんとかい、とひとりごと。
 と思って、気晴らしに手に取ったのが借りてきたジョアナ・ストラットン「パイオニア・ウーマン」講談社学術文庫。アメリカ西部開拓史上の女性の回想録800人分というすぐれもの。
 余談だけど、これは良い本。こんなにアメリカのことがわからせてくれる本もない。社会科学徒にはぜひお薦め。
 元に戻って、いや、これは変だぞ。この書では女性はちゃんと自立しているではないか。
 と再度思えば、私が読んだ若草物語だって、少女パレアナ(ポリアンナ)だって、赤毛のアンだって、その主人公にいたく感心したけれど、別にそれは女性に限らず「良き人間」のことだと読み取っていたし。どこにも「女性性」と限定する要素はない。なら女に対する男主人公もおんなじなんじゃないの?
 だいたいそもそも、男が人間の生き方を男のものとして自認するとして、じゃあ論者は、女の何をもって「女性性」と自認するのでしょうか。残念ながら、他人たる男性の批判ばかりでなにもわからない。しかも「男性一般」とか、「当時の」男性一般レベルで論が立っているから、関係ない男性たる私としてはすこぶる愉快ではない。
 かくてこれは想像の域を出ない文学的評論でありましょう。
 
1 問題の所在
 皆様ご存じないでしょうが、昨今「男性性」の論というのがあちらこちらにあるのです、って学会誌も紀要もとってないので、この10年前くらいまでのはなし。世の中には「日本の男性の心理学」なる本もあって、余計なおしゃべりがえんえんとされているのですが意味が不明です。なんだよ、男性一般て。そんなのはすべて私の心理とは一致しない。隈は男じゃなくて悪かったな。正しい題を教えてあげよう。『現代日本の男性意識(2000年前後)』とすればだれも誤解しない。男性性じゃない。ただの意識調査の諸結果。 
 で、それなのに各論者はなぜ「ジェンダー(性別が社会的に持つ意味)」を問題にするのでしょうか? その事情が人間の十全な生を損ねているからではないのですか? であるならばそこに、なぜ損ねているのか、どう損ねているのか、それを明らかにしようとする主体的能動的理論見地がなければ、結果はただの論文棚の肥しにしかならない。

2 有益な視座下における男性性の根拠
 差別の源泉は「支配」です。もちろん男女の区別が差別となるのも同様。男は権力を歴史的に握っているのです。   
 ただし、権力者の後継であることはなんら特権ではありません。「特権」とはただの評者の価値判断の言に過ぎません。権力者の後継者は、その存在に当然「社会的事情」が「一般的に」付与される。それは当人には迷惑でもありうるわけで、単に「社会とはそういうものだ」ということだ、と認識するのが正しい。そしてその要請、正確には男への行為への指示は、思春期までの一年一年、365日続いていき、さらにそれが規範となっている社会の中で確認され続ける。そしてその後継形態がその当時、その地域での「男性性」となるわけです。なんら一時のイデオロギーが作るわけではない。
 他方、女性は長ずるに従い、その眼前に、男性権力者が構築した排除の壁が立ちふさがる。今まで自分も仲間だと思っていた社会に拒否されます。この時点において、男性性は男性性として女性に向かって発生するでしょう。これらはイデオロギーの問題でも、人の考え方の問題でもありません。
 では世間でいう「男らしさ」のイデオロギーは存在しないのか、といえばもちろん存在します。それはイデオロギーを発することが自己の行為の強化になる一群の人々において存在し、発せられます。武力(暴力)行使に連なるイデオローグとその行使者であり、これに乗っかる表現者、たとえば作詞家、あるいは体育会指導者です。

3 男性性の行為者が持つアドバンテージ
 めんどうなことに、先に述べた支配上・制度上の優越のほかに、男性性は、反支配上でもアドバンテージを有します。
 他者と賞賛と優越が同じであるという自信に揺るがない者は、「社会の価値」をバカにしえます。「社会」に胸を張って歯向かえる。一方、社会の価値なるものが、決して「自分が含まれる」社会のものではないと認知している者にとっては、社会の価値は、これを揺るがせないものとして、端的に言えば、絶対的です。かくて「おしとやかな女性」が発生します。
 この態度特性が作る対抗システムは、それぞれの陣営に各ジェンダーを押し込めることを促進するでしょう。
 もっとも、「父」の恩寵を受けた女については、自己の超自我的賞賛と優越は内在化しえることでしょう。ただのパーソナリティ次元の話ではありますが、ジェンダー性からはみ出る現象ではあります。

4 下位体系における男性性の分析特性
 さてしかし、これらは具体性のレベルの論理で引きずりだした結論ではありません。全体社会システムの論理です。具体性のレベルでは、各男性がいかにその行為対応を強いられ、各女性がいかにその手前で排除されているか、といった現象の把握しかできません。
 ではありますが、具体性のレベルでは、その行為対応のイデオロギー位置(づけ)の変換方途やその壁を崩す各戦線の同レベル性の眼前化を示すことができます。
 年寄りの「時代遅れ」の言への対応に、具体的にどんなメディアイデオロギーを結集させるか、そうしたことは全体的視座からは出てきません。あるいは、女性の戦線には右翼も左翼もない、はずの原則を、具体的に実現する社交で提起できます。 
 諸デマゴーグの思いとは異なり、(行為論的自由への渇望という)同じ原動力を持つ人間にとって、状況の把握は、変革のためのそれ以上の饒舌を必要とはしないのです。
 
   と書いて、さて、この文が所属するブログ・カテゴリーは何だろう?
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具体的次元論と大審問官(先週の続き)

2021-04-10 14:48:31 | 行為
 こんにちは。東京地方、毎日快晴の予報が当日は毎日曇り。まあ寒くないので我慢はしますが。
 とはいえ、若緑の中で、もうツツジも相当咲き出しましたよ。ツツジは一気に咲くそうで、行こうとするツツジの名所があれば要注意ですね。なんでも館林のつつじ祭りは実施するそうです。
 わたし? は自動車がない(無免許)ので行きません。
 
 さて、ニュース。当家のホーロー両手鍋の取っ手が壊れてしまいました。取っ手全部がプラスチックなので、熱で折れてしまって。もう40年以上もった sanko ware。優秀です。
 最近の製品を画像一覧で見ると取っ手までホーローのものばかり。
 若人の皆様、なんの鍋でもそうですが、取っ手も金属のやつは熱くてやけどしますぜ。いちいちミトンは面倒なので片手鍋はポケットのハンカチを使うのですが、両手鍋じゃあ面倒でやってられない。
 sanko ware って良心的なのでずいぶん前につぶれたようで、売れ残りがネットに出てますが、プラスチック取っ手でも本体とのつなぎ部分は金属のよう。新品よりこんな仕様の未使用古品を買ったほうが賢いのかなあ。古いのは国産だろうし。
 
 次。
 コロナは変異型の比率が上がっている、とのこと。
 ということは、第1に、畑は同じ、ということだよね。
 雑草と一緒で、生えられる場所は決まっている場合に、強い雑草が初めて「勝つ」かのように見える、わけだ。そうでなきゃ旧型の新型コロナも他で繁殖すればいいわけで。
 「畑が同じ」ということは、相手は人間だから、「どうせ罹るやつは一緒(同様に家族もいるけど)」、ということで、これはそのうちみんな免疫ができるという明るいニュースですね。
 第2に、畑が同じに加えて、「同じ性質を持ってないと駆逐できない」ともいえる。別の性質だったら別の病気だからね、そうなら並行して罹るわけだ。
 ということは、旧型の新型コロナ用のワクチンも変異型に、大丈夫、効く、というわけです。明るいニュースですね。
 ま、頭の体操。
 
 さて本題。カテゴリー違いの「先週の続き」。
 今週も読んだ本を5冊挙げてお茶を濁そうかな、と思ったのですが、しかし先週の記載が読者の方々の役に立ったとは思えない。役に立たない記事は無駄なので、それはいさぎよくやめました。
 
 で、中でも感心したのが高尾一彦「近世の庶民文化」。といって、積極的な論旨の打ち出しよりも高尾という人の澄明さ。すっきりした聡明さというか。なかなか気持ちがよい。
 で、中身としては彼が言うには、たとえば西鶴とかが表現したものは、江戸期資本家の「問屋制家内工業や、さらにはマニュファクチュアの資本の倫理」なのだ、というわけです。この倫理ってなに? というと、「被雇用者への親方的同情」と言っておけばわかりやすいでしょうか。ただ今日は批判でも紹介の場でもなく。
 ここで取り上げることは、この聡明な論者にとって、資本家の経営者行動が「倫理」に見える、ということです。
 当たり前でそれしかない行為が、他人から見れば倫理を守る人間の形式をとる。 
 それにより権力者の賞賛と優越はクリアされる。
 それは同時に社会の規範をクリアするということであり、これで本人にとっても行為共同性を同じくする周囲者にとっても、人間的道徳がクリアされる。  
 さらにそれは同時に社会の人間行為的合理性をクリアするから、それをトータルで読もうとする具体的次元論の社会科学者(この場合は歴史学者)も納得する。
 かくのごときプロセスです。 
 
 このように、具体的人間の次元でしゃべるとどうしても、人間に行動を強いている規定性ではなく、具体的人間の思いにプロットがいってしまう。この文脈で規定性を説いても、それはただの説明でしかない。まことに次元の違う論の並列です。具体的人間のレベルでは「関係」は解明されないのです。
 
 さてそこで、しかし、倫理は語れる。それは或る一人の個人的人間の問題ですから。
 というわけで、先週の続きに入ります。
 そもそも倫理学とはなんでしょうか。
 その歴史的状況において、世間の人間から「当然だ」「しょうがない」といわれる行動をとれた人間は、それで自己の人間内責務が果たされるのでしょうか?
 
 もちろんそうではないから社会科学が存在するのです。
 
 人間は関係の存在です。倫理とはもちろん、関係の中での人間の行為の理路です。他者を放置して倫理はありません。
 他者の「なんとか助けてくれ」あるいは「助けてやってくれ」という願いの下に、大審問官は苦悩する。悪魔に身を売っても他者を救う。これはありうる倫理です。
 もっとも悪魔は居るかどうか分からない。ここに社会科学は存在するのです。社会科学は万能の神です。それは実践倫理学なのです。
 将来の民のために現在の民を犠牲にできるか。あるいは千人のために1人を犠牲にできるか。
 それはそもそも存在してはならない問いなのです。人間が人と結ぶ行為は、この次元にはない。人間は具体的自己と具体的他者との間で行為をする。人間は「スターリン」になってはならない、あるいは人間スターリンは理念としての「スターリン」にはなれない。具体的人間たる彼に人民を救う権利はない。人は目の前の人間を助けられないのならそこで歯を食いしばるしかない。そこに言い訳などは落ちていない。
 しかし一方、「それとは別に」人間は将来の人間が助かる算段をすることができる。その算段のソロバンが社会科学です。
 さらに他方、倫理はいちいちの行動ですが、人間はトータルです。「やるだけやった」。地下水道。
 人はトータルとして自己を肯定することができる。 
 大審問官の問いに、しかし答えず、神の答えだけを人間に提示することで人間を救うものが、社会科学なのです。

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本当らしき認知

2015-09-12 17:20:25 | 行為
 こんにちは。もうどんぐりの落ちる頃、秋が始まりました。嫌々過ごした夏もあれよあれよと過ぎてしまいましたが、変な夏でしたねえ。高熱と豪雨。で、今年は、というより去年から間断なく、ずっと野菜が高くてほんと不思議。円安やらなんだかんだで農業生産者の自衛行動とも疑ってしまいます(=いいチャンスだ、ここで高く売っとこう)。トマト1個160円税別ですぜ。この真夏下、燃料費もいらないのに。どんな理由があるんだろう。
 
 で、聞いた? 消費税にマイナンバー使うって。前回言ったとおりしょ。そんなの想像できた?
 国民管理の手立てについては、奴らは山のように引き出しを持っているんですよ。
 今の世の中、買ったものを見れば、その人間の全部がわかるというもの。パンツの色だって知られちゃってますぜ、まだだけど。
 あなたの存在は、すべて国家の手の中。消費税については今回は通らないけどね。
 今回は念願がかなって法が通ったのではしゃぎすぎでつい口にしちゃったけど、次からは秘密のあっこちゃん、ふるい、ふるいど、外堀からどんどん埋められて、国民はがんじがらめの蜘蛛の網の中。
 これは残念ながら私の哲学(塞翁が馬)をもってしても、良いところは見つからず。ひたすら環境の悪化。
 
 さて、悪いニュースだとブログが下品になるので、なんとか良いニュースを見つけようと新聞等を見回しましたが、なんにもありません。しいていえば箱根火山の入山規制が2に下がったとか。仙石原のススキはきれいですぜ、まだ早いけど。
 あと、自衛隊の人たちががんばっているとか。こういうのは自衛隊やらだれそれさんが、というより、助かった人がその人について思うはずのこと、というわけですが。人間の本来的認識過程ですね。人間は行為共同性のある人々が語る認識=一般的には語るべき本人に即した認識を、環境の事実認識とするわけです。
 
 まあ、それはおいて、じゃあ、と最近借りたつまらない小本について。パーソンズの「知識社会学と思想史」とか。
 以前富永の「思想としての社会学」を我田引水といいましたが、富永はこの本をお手本にしたのかもしれません。
 デカルト、カント、デュルケーム、ウェーバー、マンハイム等について、好きなテーマをこさえて彼らがどう思っていたかを見る、パーソンズの我田引水。もっとも、この本の「思想史」という題は、元はideasだから、本人としては悪気はないのです、おそらく。原題のままなら、誰も社会思想一般の本とは思わないでしょう、私のようには。
 なので、決してパーソンズは批難しませんが、こんなのを褒める人たちの気が知れない。
 こうゆうのは、あくまでパーソンズの個人的理論箱庭についてのみ意義があるわけで、いやしくも社会学者たらんと欲してなった人間に意義などあるものか。どこかに社会事象の因果法則でも転がっているのか、普遍的哲学があるのか。いいや、ない。
 しかも寂しい、あるいは侘しいと思ったのが、ここに取り上げられた「社会学の巨匠」。アイデアを検討すべき人間はこんだけしかいないのか(パーソンズは、こうした流れは派生させていけば人はどんどん増える、と述べてはおりますが、それは要するに、まとめりゃこんだけでいいということですな)。
 しかし、本当は、そんなに寂しくなんかはない。日本に限って言えば、多くの実証的社会学者は一人ひとつ(や二つ)の社会事象の(因果連関にとどまらない)因果法則を明らかにしている。たとえご自身で明確に認識していないにせよ。
 「巨匠」たちよりこちらのほうがよほど偉大だ。
 ではあるけれど、本日のテーマは、「本当らしき認知」について。それらしき「巨匠」について、巨匠と行為共同性を持って憧れる人間には、どんなばかげた年寄りのヨタ話も称賛の対象となる。研究家等にとって「語るべき本人」とは、権威ある巨匠のことだからです。問題は「真実」や人間にとっての価値などではない。これが普遍的行為の下位原則です。
 
 ということは、私もまだ書いていません。でも行為の下位原則について、ちょっとずつ書くこともありそうな。呼び方も決めてませんが。
 
 前に戻って、さいきん、ビッグネームの理論家より、実証社会学者のほうが「理論的に」偉いと思ってきたのですよ。前から「研究者として」、より偉いとは思ってましたが、今回は「理論的に」。長生きはするものです、よかったよかった、知り合いにはそういう方が大方なので。
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次々回配本計画

2015-09-05 14:18:01 | 行為
 こんにちは、毎日天気が悪いですね、外回りの方ごくろうさまです。
 当方バイト中につき時間がばんばん飛びます。昔は当然のことで(それ以外時間がないわけで)夜中までなにか書いてたところですが、残念ながらもう、それをやるとマイナスな気がします。わたしなどアイデア勝負ですから、外見だけ書けても、それじゃあそこらの学者せんせいとおんなじで。きっかけが消えるだけならぜんぜん書かないほうがいい。
  、、、やっぱり辞めたほうがいいのかねえ。
 
 というわけで、次々回配本のテーマが決まりました。
 『上部過程論』。
 なんじゃそりゃ、って、まあ「社会意識論」ですね。下部構造がいかに社会意識に転化するか、という。
 40年来の懸案ですが、今ならさらさらと書けそう。時間さえあれば。これで「三批判」のような3部作のできあがり。
 ひとの年齢が気にかかるお年頃で、カントの「判断力批判」を見ると66歳の出版だって。
 とすると私にはまだまだ時間があるのでなにも急ぐこともないのですが、なかなか他の長期的な将来計画が浮かばないところもありまして。
 こんだけ考えて浮かばないというのは、そんな計画のタネは世間には転がっていない、ということでもありそう。で、目先の自転車操業をしていくしかないような。
 
 さて、世間は相変わらずの暗い話ばかり。なんだね、シリア。めちゃくちゃ。40年間の権力者が悪い。そういうのを暗いと思うのは善人ばかりで彼らは決して政治家にはならない、というところが、人間の根本の原罪ですね。
 そういえば先週は国会デモ、ご苦労さまでした、わたしは日和ましたが。橋下が、そんなのは国民のパーセント以下、と強がりをいってましたが、政治家が怖いのは家で時事放談を見ている連中の数ではなく、実際に何人がオレっちんとこへ来るか、であり、その数が現実も決定します、って日和ったくせにね。(時事放談てまだやってんの、この前知った) 人間、調子のいいことをいってもいけませんが、今日の天声人語、人が変わって3年くらい、思想はどうでもウソはつかないので良かったけれど、今日のはいただけない。
 ”選挙年齢は18歳になったが、酒・タバコは18歳ではいけない、年齢の「ものさしはいろいろあっていい」”だってさ。こういうのはオポチュニストでも「御都合主義者」 と訳すね。てめえで物差し選んどいて、「いろいろあっていい」 はねえだろうが。よかあねえよ。
 判断能力ができたから選挙年齢を引き下げたんだから、酒タバコの判断もできるんだよ。それ以外の選択肢なんかない。
 どうも天声人語は二人で書いてるようだけれど、そうなら署名いれたほうがいいんじゃないか。(その後;社説で、法の趣旨が違うから、とか書いてあった。だから、よしあしを判断するのは当事者だろうが。朝日は、そんな判断力も自律力もない当事者が、政治の行方を選んで国を潰すことを許すよりも、肺がんの治療費が上がることのほうが重要なのか。そうでないなら酒・タバコは全国民に禁止、といえ。以上、怒り。)
 
 さて、以下は、マニアックな話。
 仕事の気分転換に借りた、鎌倉孝夫、佐藤優「はじめてのマルクス」 ㈱金曜日。仕事中は本は読んでも、まずは気分転換優先になって、こういう読書時間も効用が悪そうで。まあ、それはそれ。
 佐藤優の本というのは、まんがのようで(ざっと読んで面白い、それだけ)、忙しいときは見ないようにしてましたが、これはためになりました、鎌倉が。
 降旗節雄の論は、宇野をゆがめてるんだそうです。以下、鎌倉談。
 ”降旗は「商品・貨幣・資本の関係が社会関係全部を支配するというとらえ方」をしている。「商品経済の関係がすべて完全に支配していると」間違って考えている。” そうです。
 なんだよ、そうじゃん、何が違うって、と思うのですが、鎌倉に言わせると、違う。
 ”ほんとは〈商品・貨幣・資本はそれ自体、自立的根拠がないという意味で、宇野はこれを流通形態と規定したのです” と。 えーーー、ほんとかよ。それは知らんかった、が、ほんとかねえ、、、
 おりゃ、うそだと思う。何だよ、流通が関係概念だなんて。うそこけ。流通はただの実体だよ、そうでなければ実態。関係概念じゃなくて抽象概念。
 流通は、生産物が消費者に手に入る一瞬前の時間であり、この一瞬間は微分法が存在するのと同じ意味で存在し、逆に「同じ意味においてのみ」存在しないんだよ。
 実体は労働力の商品化ってのもおかしな話だ。労働力を実体として、これを資本(の変態)の関係がつかんでいる、というのが普通の物言いじゃないか。
 が、もう返しちゃったし、本文も数行、論理を飛ばしてしゃべってるだけなので意図は不明。違う論もあるのだなあ、ということでご紹介。なにしろ、まんがのような本で。しかし、降旗に1票。

 この本の全体は、例によって佐藤の自分の偏見的読み語りの独壇場。鎌倉のこともずいぶん褒めるのですが、さすがに鎌倉も気になったんでしょう、後書きで疑念を呈していました。
 わたしなど、佐藤の宇野やマルクスへのほめ言葉は大変まずい読みのせいだ、と思いましたが、まあこれで宇野経済学のことに初めて触れる若人が出るんならいいんじゃないか、とも思います。
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人民のイデオロギーとイデオローグのイデオロギー 2

2013-07-13 21:54:43 | 行為
 というわけでイデオロギー。
 唯物史観のイデオロギーとは、現マルキストの理解とは異なり、以下のようであるべきだ、ということで、これは《行為の集成》できちんと展開したんですが、きちんと書いてあるから実用的か、というとそうでもない。
 これも不思議ですが、人間、本当のことを知ることと、自分が展開する手段を知ることとは、若干、ないし、かなり、異なる。
 ところで、実用的なら次回隈の応用理論に載せられるだろうというと、そうでもない。なにしろ、話題がつまらない。
 というわけでここに書いとこうかな、と。
 
 さあて、すべてのイデオロギーは表現することで社会科学の対象となります。表現されない考えは人の頭に満ち溢れているでしょうが、表現される以前のそれは、精神医学の対象ですな。 
 問題は「イデオロギー」、表現されたそれです。
 
 他人に「こうせよ」という人を「イデオローグ」と呼びます。
  
 イデオローグの生理的特性、すなわち、一部であれ特定の支持者に「受けてなんぼ」という規定性は、そのイデオロギー表現も特定の枠をはめます。
 すなわち、
 まずは第1に、特定の支持者の将来的生理性の保全。
 第2に、特定の支持者の賞賛の確保です。
 
 人は生理性と優越的自由と賞賛で、社会的な選択肢を決めるというのが隈理論の基本。
 
 さて問題はここからで、彼らイデオローグは、その特定の支持者を自分で選ぶことができるということでなのです。
 
  すなわち、一方で、人民は、自己の将来的生理性の保全とともに、彼らの賞賛と優越を、それぞれに選ぶことができる。
 たとえば、現体制で上昇できる人民は、現体制の賞賛と優越を。
 上昇できない人間は、現体制の非難をする人間との同化的賞賛と優越を。
 
 その状況でイデオローグは、停滞的人民にコミットするかといえばそうではありません。
 彼らはあくまで彼らの賞賛と優越を満足する人員を、彼らの対象者として主体的に選ぶ。
 すなわち、今現在流布されている世間の賞賛と優越が確保される限りでの人民です。
 
 端的に言えば、彼らが自分の好みで動いたときに賞賛するはずの幻想の人民のことです。
 イデオローグは常にこの幻影に向かって将来的行為を行う。
 
 である限り、この「幻想の人民」の規定性が、表現されるイデオロギーとなり、ここでイデオローグの組織の数だけ、人民の存在形態が措定されます。  
 すなわち、彼らの優越の歴史的根拠である一瞬前の支配者の価値観。
 また、一瞬前の人民の行為共同性(の支配階級との共同の、たとえば、なさ)
 たとえばこれらが日本の戦後混乱期で言えば、「山村工作隊」を作るわけです。
 
 残念ながら、生理性のない表現者、すなわち一般のイデオローグは、常に、一瞬前の支配者の価値観を自己の表現の糧とせざるをえません。人間、稗飯を食っても生きていけますが、賞賛(優越)なしに努力をすることはできません。
 つまりかれらは表現の見返りを受ける必要があるが、その見返りは一瞬前の支配階級から受ける。
 もちろん意識化したイデオローグは、自己の価値観に則ることはできます。
 自由な彼はそのとき、現在の人民の価値観に則ることが選択できるし、仮に人民と支配者に行為共同性がない部分が大きければ、彼は大きな勢力をフォロアーとすることができます。 
 
 さて、ここに組織というファクターが入るとどうなるでしょうか?
 組織は、それが設定した地位による優越と、それが持つ共同性による社交により、自前で賞賛を分泌することができます。
 ましてやそこに生理性が確保されていれば(カンパ生活)、さらに充分です。
 かくてイデオロギー組織は、その時代では思いも寄らない価値観を特異に醸成することができることになります。
  
 マルキスト集団は、こうして人民から遊離する。
 もちろん遊離するのは悪いことばかりではありません、この冬の時代にも、おかげでそこそこに命を掛けて活動することができます。しかし、それをそうだと自分達で認識することが、人民を自分らが指導しようとなどと思う限りは、必要なのです。
    、、、難しかったですよね。これが本に書いてあったら誰も買いませんな。
 
 ということで、一番最初に戻りましょう。
 
 イスラム少女はイスラム教シンパのおっしゃる通り、イスラムの教えに沿って説を展開しているはずです。私は実態は知りませんが、それが今述べたように隈が展開した論理というものです。
 しかし、それと支配階級のイスラム教とはなんの関係もありません。
 関係があるというのなら、それはアナーキストの自由と聖徳太子の自由とは関係があるというのといっしょです。そりゃ関係はあるでしょうが、それはまた、関係があると発言するやつの人生の無意味さを世間に公表するのと同じことです。
 
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人民のイデオロギーとイデオローグのイデオロギー 1

2013-07-13 21:52:53 | 行為
 こんばんは、おあつうございます。
ここんとこ埋草続きでしたが、なんといっても暑いので、埋草を拒否るいいわけも立たず、本日はちょっとは役に立つかもしれないことを。
 
 いや、前にも書きましたが(「暑くなったら役に立つことを書こう」と)、そういうことをしっかり読んでいただける数少ない若い読者の方は読んでも理解できなかったとは思いますが、人間の思考でほんとうに大変なのは、考えることではなく悩むことなんですって。
 考えることなんかなんでもない。いくら中高年でも考えることぐらいできる。あなたの上司や教授連が給料をもらえる根拠ですね。
 考えるのはいいけれど、優秀であればそれだけ、ひらめきが来るのをひたすら待つという時代が来るんですよ。もちろんこれは自分のことですが。それには時間(根を詰めた後に訪れる奇跡を待つ時間。まあ年寄は奇跡だらけですぜ) が必要なのですが、中高年は、その時間の確保に対抗する暑さの攻撃には勝たれない。
 ほんと、こんなこと若い人はだれも知りませんぜ。上司も教授も教えないからね。誰が自分の弱みを被支配者に教えるだろうか、いや教えない。
 
 ま、どうでもいいや。
 そんなわけで、しばらくは「思考ができないんで」まともなことをいうかな。
 
 さあて、本日の感心は、例のアルカイーダにテロされた少女。
 すばらしいね。オバマと一緒ぐらいの歴史的価値さ。
 それにしてもアルカイーダというのはくずで。もちろん、イラク、イラン、すべてのイスラム支配階層はクズだといっているのだけれど、
 とゆうと、一見さんは「こいつは反イスラム教徒だ」、とかバカなことを言い出すんで、かったるいことこの上ない。
 わたしゃ、まず、題目で自分はアナーキストだ、って書いてあるからね。アナーキストが何かしらない人は自分で考えてから発言するんだよ。
 
 ほんと、わたしゃ教師の資格なくてね。もちろん教師じゃないよ。、、、なんて注釈ばかり。
 
 で、少女、すばらしいから殺されたって極楽浄土だよ。イスラム教徒だってだいじょぶ、
 それにしても、ケツの穴の小さいうえに脳足りんなキリスト教徒やユダヤ教徒っちゅうのはなんなのかね。
 ユダヤの神に支配せられて、あの世に行っても奴隷だよ。わけわかんないね。
 
 イスラエル人ならOKだろう、って、お立会い。彼らの95%、ユダヤ人じゃないだろ。顔見りゃ分かるって。ホトトギスとウグイスの逆パラレルだね。いくら貢献したって、結果イスラエル人の95%は奴隷さ。もちろん、キリスト教徒の100%も奴隷、ヤハウェもウッハウハだね。
 虚心に聖書を読めば分からないはずもない。救われるのはユダヤ民族のみなのだよ。
 じゃあなんで欧米人がクリスチャンなのかって、それは彼らが脳タリンなだけではなく、クリスチャンだと支配階級として安楽に生きてけたからだよ。支配階級というのは常にバトンタッチして生きてきて、今もあるのだよ。
 
 まあ、こんなことは役には立たないが、何か誤解のある子どもたちには役に立つかもしれない。
  
 さて、イスラム少女の素晴らしさの話。
 
 日本のイスラム教徒シンパの言い草はわかりますね、「イスラム教はアルカイーダとは違う、イスラム教は平等だ。」うんぬん。
 なんで平等なのに女差別があんだよ、あほんだら。きれいごというんじゃないよ。
 
 宗教は全て支配階級のためにある。それを認識しない奴はただの卑怯者だ。もちろん認識して黙っている奴も同じく卑怯者だ。
 この「同じく」(であって「より悪く」ではない) というところが苦労人なんだけどね。
 若い人は、知ってて隠すほうが悪かろう、と思うでしょうが、人間そんなものではない。
 ああ、おいちゃん、生き過ぎたかもね。
 
 ともかく本文。
 
 すべてのイデオロギー、つまり、他人を従わせようという意図の下で表現される価値観は。次のように選択されていきます。
 
 第1に、表現した結果が自分の生理性に適合しているかどうか。自分が死ぬために主張する奴はキチガイですな。
 
 とはいえ、人間、ありがたいことに、言えば死ぬことが分かってもいう場合はある。イスラム少女のようなことですな。
 そりゃなんでか。
 
 長いので、項を変えますね。
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「神の手」のその根拠

2013-03-31 21:34:42 | 行為
 こんばんは。東京地方ここんとこずっと寒く、咲いた桜がさほど散らずに残ってはいます、が、そうはいっても寒い曇り空では私などはお花見気分になれません。私はすごくずっと前の晴れた日に見ているのでいいんですが。
 そんな満開の桜の原宿の一角で、本日は甥ッ子の結婚式。いいですねえ、結婚式って。どなたさまも若いときは幸せがいいです。
 年取ったっていいものはいいわけでしょうが、中高年的には、そう思いませんかねえ、ご同輩、、、ま、ご同輩はあまり読者として想定していませんが。

 さて、本日は、理論好き読者用。従いましてお題は、サッカーではなくアダムスミス、”神の見えざる手”の話。
 
 そりゃなんだ、というと、よくまとまっているので、日経の記事らしいですが、お借りして。
 『個々の消費者や企業にとって、市場メカニズムは目に見えない。だが、ある与えられた価格に従って自分の利益を追求するように行動するなら、財の需要量と供給量が変わり、価格が調整変更され、やがて需給が一致する均衡が達成される。

 均衡で達成される需要量と供給量は、無駄のない資源配分を反映している。消費者や企業が自分の利益を追求することで、社会の利益が高められるのである。』
http://cbc-souken.co.jp/cbc/2012/07/post-28.html
 
 しかし、見えざる手といっても別に事態が見えないわけではない。そういう調整は人間でもやろうと思えばできる。ってゆうか、そもそも資本主義的生産活動は人間がやろうと思ってしてるわけでして。「これ売れてないの? じゃ生産絞って」って。中央集権生産は、やり方がいいかげんなだけ。
 
 で、今日のテーマは、神であれ、人間であれ、調和的な活動ができる根拠は何か、ということで。
 なにそのテーマ、って、何をいいたいかは答えをいうと分かりまして。
 
 つまり、資本主義的生産活動ができる根拠は、初期社会主義者が主張するように、「所有」である。
 しかし、それはマルクスが言うような国家の基礎になるものではない。
 逆に、階級国家において、諸階級の国民が調和的な活動ができる根拠は、支配武力の貫徹なのであり、資本家の生産は、この武力に支えられた『所有権』の崇高さに基づいているわけです。
 つまり、日本のどこかでは工場で製品を作り、営業マンがそれを売り、家庭ではそれを買って自分達で使用する。他方、そんな生活を後押しする官僚と、また日本のどこかで、そんな生活など気にもとめず、日夜日の丸に向かって敬礼しつつ国家を守ろうと訓練を続ける自衛隊員がいる。そのトータルなシステムの根拠は、資本主義社会、その他の階級社会においては、支配武力であり、またそれに支えられた『所有』である。
 
 いや、何をいいたいかというと、ブログ2回前にマルクスの『所有』概念をばかにしたわけですが、そこを隈理論を知らない人間が読むと、私が『所有』概念自体を否定したかと思われるかとも思い。
 
 ほんとブログって話が通じないで面倒ですよね。いわんやツイッターをや、と思うんですが、ツイートで満足できる「言いたいこと」って、そんな軽い欲求って、わかんねえなあ、、、ま、それはいいや。
 
 で、続き。じゃあ、無階級社会では見えざる手はありえないのか、という話。
 そこには国家に守られた「所有」はなく、「占有」しかない。
 そんなものは隣の人間の武力で木っ端微塵だ、という展開ですね。
 
 いやそれで、私はこれまでは階級社会しか扱ってこなかったので、「共同体権力」という言葉を時折使っていたのですが。つまり、「過渡期社会にも共同体権力は残る」、みたいな。
 その『権力』なる語もちょっとねえ、と思いまして。
 で、今後、無階級社会の表現では、『占有の安定の根拠は共同体的利害である。』 みたいに、「共同体利害」というのが分かりやすくないか、と。ほんとは『行為共同性的利害根拠の同一性』ってゆうんですけどね。
 わかんない言葉使うより、近似的に分かるほうがいいやね。ほんと、エンゲルスは偉いんだよね。
 
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再三のように「生産概念」

2013-03-21 21:35:17 | 行為
 こんばんは、春ですね。ここで普通ですと東京地方のサクラ情報を書くのがおなじみこのブログですが、ちと不愉快で。

 ここんとこ、次期配本物の構成上の問題で、ちょっとマルクス主義者の歴史過程論を見直して。
 で、くだらないのだけど、いわないといつまでもひっかかるイワシの骨のような話を。
 
 マルクス、資本制生産に先行する諸形態、岡崎次郎訳、青木書店、1959.
( 私はあまり訳者名をいれませんが、だって誰が訳したってそうそう中身は変るわけじゃありません、だけど、岡崎という人も報われない訳者なので、わざわざ書きました。良心的によく訳していると思います。)

 (ここにマルクスが示すモデルがマルクスが考えた歴史順だと思ってるバカはほとんどいなそうなんで、いまさらいいませんが、それをおいてさえ)
 所有所有って、ばかいってんじゃねえよ、みたいな叙述の果てに、いわく
 ”所有は生産の諸条件に関連する。なぜ消費の諸条件に、ではないのか、それは個人の生産行為は主体の側の能力の生産を必要とするからである、云々” pp.42-43。
 ったく。これさ。
 ばか、さらさらいってんじゃねえよ。おめえ、どんな行為を「生産」ていってんだ?

 マルクスの「たかり」生活を生産とうそぶくことは、マルクスは納得しても労働者は決して納得すまい。私は労働者として納得しないぞ。
 政治局員のカンパ収益が彼らの生産だといって納得するマルクス主義学生同盟なり諸共産主義者同盟員がいるだろうか。、、、いいやいまい。って、いたら笑ってやるだけだが。
 たかり行為はただの人間の一行為にすぎない。
 人をたぶらかして偉そうな顔をしている、乞食以下の行為だ。
 上記は、乞食の行為も私は納得していない、ということではあるが、世の中、「しょうがない」ということはある。とりあえず明日食べなきゃ死ぬときには、乞食をすることも胸を張ってすべきだ。
 しかし、そうじゃねえぞ、マルクス、および政治局員。お前らの生き方は生産ではない。お前らは何を造ってもいない。それが「生産」なら生産カテゴリーなど何の意味もない。もちろん、どうであれ何の意味もないのだが。
 お前らの行為はただの「行為」そのものにすぎない。
 「生産」が社会科学的カテゴリーでありうる根拠は、食うためにする行為がすべて支配者にからめとられている、その中で食うために行為する存在が歴史の動きに関わるためそれを表すために意義があるのだ。
 タカリもカンパもヤクザも、そのどれも上記社会科学の範疇には乗りはしない、それは上記社会科学の中で人民とは離れた、「逸脱者のエピソード」に過ぎないのだ。
 反論があるならしてみろ。
 
 さて、もちろん、われわれアナーキストは全人民の味方だ。
 「社会逸脱者」で何が悪い。
 マルクスにもヤクザにも、生きる価値がある。
 、、、て、他にそんな仏様のような慈悲深い左翼や右翼がいるか? いや、いない。全人民を考慮に入れられるのは、アナーキストだけだ。
 そんなアナーキストにとって、根本は、社会のダニのようなマルクスでも生きてゆかなければならない、だれでも消費しなければならない、そんな消費の構造なのだ、
 
 
   てなわけで、ちょっとこのところ花粉症と花粉症薬アレルギーで体調が悪いので、しばらく黙ります
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資本論と国家

2013-03-09 21:40:22 | 行為
 こんばんは、東京地方あったかくなってきました。本日は20度越え。
 ありがたいことですが今年はそこそこな花粉年のようで、すでにつらい。
 わたしなんざ50年来のことなんで、花粉のゆくえには興味もありませんが、薬の楽さも覚えてしまって、明日は飲もうかと。

 さて、今日はこのブログで奨めながら本人寝てしまった、美輪明弘のヨイトマケの歌をNHKでやってまして、そういえば昔も書いたっけ、と見たら5年前。
 5年前でyahoo検索ヒット数、67,600件だそうな。さて現在は、949,000件。 まあ時代が変ったということですが、どう変ったんでしょうかね。
 ちなみに、gooブログ数は5年前90万件でしたが、今は2倍の180万件。どれだけ生きてるブログかは別として。てことは、この2,3ヶ月でのツイートって奴が反映されてるんでしょうか。ツイートが反映されるんじゃ、検索ヒット数も客観知識の正しさの指標にならなくなったってことですかね。
 
 ま、それはそれ。ヨイトマケノ歌感銘された方には、ぜひ丸山明弘のヨイトマケの唄を聞いて欲しいものです。今のが悪いとは言いませんが、わたしは心底からの歌が好き。
 
 で、ここんとこあまり面白いことがなく、じゃあついでに引きずっちゃえ、と、前の続き。
 なんでマルクスは資本論で国家を書かなかったか。
 彼氏、気づいて愕然としたんですな、自分の最後のマスターピース、「資本論」の発想の誤りに。
 
 マルクス本人、若い頃から資本家こそが諸悪の根源、あるいは諸善の根源と思い込んできた(共産党宣言)。マルクスの頃のドイツはまだ、旧来の支配者が生身の姿で存在していた、ということもあるしね。ブルジョワジーはそんな支配者を打倒し、それまでの世界全体を引っくり返した、というわけだ。
 
 もちろんそれはある意味で正しい。ブルジョワジーは、支配世界を壊していった。それは彼らがそれまでの支配基盤を壊していったからだ。彼らは、旧来の支配者の人民への生理的影響の供給を断ち切った、ただそれだけのことではあるが。
 それまで、人民は生殺与奪の権を支配者に持たれていた。ところがブルジョワジーの席巻以来、人民は支配者の顔を見る必要もない。見る必要がなければ支配者の世話など誰もしない。そりゃ生身の支配者は困っちゃうね。
 実際、どこの先進国でも旧来の支配者は愚痴を言いながら、自分たちのみの生理性の確保(時代のアガリ等)と、名目上の名誉の存在で我慢せざるをえなくなった。

 しかし一方、この事態を見たマルクスらは、ブルジョワジーが、資本の運動で、世界主義を達成するという、無邪気すぎる誤りに陥った。
 なぜ無邪気すぎるといえば、そんな子どもの夢物語は、アナーキストによって幻想であることが指摘済みであったからだ。にもかかわらずこのていたらく。マルクスのマザコンは分析されていないが、なんらかの感性上の欠陥ないしマイナスの特徴があったといってよいのではないか。
 ユダヤ金融資本以外のブルジョワジーには国家があるから、だれもこんな夢物語を考えない。観念論者のさまよえるユダヤ人は、何を言っても許される。

 実は、資本家には国家があり、国家には資本家がある。この2者は一体ではなく、国家である1者と、それに寄生する他の1者なのだ。
 それは逆ではない。国家は資本家がいなくとも存在し得る。資本家は国家なくんば死に絶えるしかない。

 ところでもちろん、国家とはシステムのことである。あるいは国家支配者とはシステム維持者のカテゴリーのことである。
 「資本家」なるカテゴリーが、だれそれの会社株主のことなど指していないのと同様、(若い人は知らないかもしれないが、資本家は資本を持ってる人間なんだから、三菱銀行頭取など資本家ではないのだよ。彼は若干の関連企業の化け株の所有者でしかない。あ、これはわたしが関係者で内部事情をバラしているわけではないから) 「支配者」も自民党党首のことなどではない。
 国家には、その国家を支える下部構造がある。この下部構造がある限り、その関連を現実化する一連の社会的カテゴリーが存在する。これが支配者カテゴリーである。
 マルクスにはこんな単純なことが頭の端にも上らなかったのだ。というよりは、アナーキストをけなすため、考えたくなかったというのが実情だろう。
 他方、人のいいエンゲルスといえば、人民のためになんとか国家を操縦しようと、国家擁護主義者にまでなってしまった。
 
 本来、いったん何千年前かに成立した武力権力内支配者は、その権力が続くべく、すべての社会的諸要素を傾注する。そこには、特殊な場合以外、支配者個人など存在しない。およそ、支配者は、その支配の根拠である生理性を確保すべく努力することで、自己の生理性および賞賛を貫徹するこれにより、支配基盤である当時の経済諸体制も磐石となる。。特殊な場合とは、自分のことしか考えない支配者のことである。そんな支配者は社会体制を壊し、おかげさまで人民は新しい社会体制への手がかりを確保する。

 そんな「国家」は、資本論では分析できるはずもない。
 マルクスは執筆プランの遂行時、さすがにそれに気づき、あまりに気を落として、2巻以降の推敲の努力を放棄した気がするが、さてどうか。

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資本論の弁証法の誤り(その2)

2013-03-03 10:55:59 | 行為
 こんにちは。今回は昨日の続き。こんなの長期間やってると迷惑な訪問客の方もおられるだろうし。

 で、引き続いて、「始元」問題。「資本論の」というよりは、「社会の」、ですが。

 「始元」というのは、論というのはどっかから始めますよね、で、対象が大きいものだと、さて、どこから話し出しましょうか、という、その初めのことです。 物事を叙述するのに、その対象に特徴的な事柄を初めに論じだして、それにまつわることを深めていく、ないし広げていくと全体像が把握できる、という手法で。
 経済社会の場合、マルクス主義者の間では、資本論がそうであるように、始元は商品であるように取りざたされています。 まあ、それだからマルクス主義者というんだね。
 しかし、それで、経済社会がわかるんだろうか? 人間が、著者本人が、生きて生活しているその社会が分析できるんだろうか? ま、私は、わかんね、っていってるわけだけど。
 
 もともと、マルクス自身をみればいい。彼が自分の疎外状況を自分で取り沙汰したことがあるか。いいや、ない。
 彼の理論では、エリートは必ずエリートのまま生涯を閉じる。マルクスは自己には何の反省もなく、ただの文筆プチブルのまま生涯を閉じた。

 しかし、人間てそういうもんか? いやそうではない。
 ドイツ観念論者が偉そうに言いたいことをいって150年、日本ではそれを乗り越える思想運動が起きていました。全共闘運動のことです。

 70年日本は、アジアレベルの世界市場資本主義体制では、支配階級の市を占めていました。1955年以降、日本は、アジア人民の労働力を自己の国家の消費物資に当てるよう努力を続け、それから10年、努力が実になったことはたしか3,4回前にも話題にした気がしますが。
 その中で、支配階級の突撃隊長を勤めていたのが東大卒以下のエリートサラリーマンたち。
 そして、勃発した学生紛争の中で、それを問題にして闘争としていったのが、日本の諸大学の全学共闘組織でした。
 すなわち、彼らは、マルクスと異なり、自己の疎外状況を問題にし、行動に移したのです。
 残念ながら彼らの主張はアジビラにしか残っていまあせん。しかし、エリート支配階級自身の疎外を問題にしたのは、日本の全学共闘会議をもって嚆矢とすべきなのかもしれません。
 「ません」なんて弱気なのは、なにしろ活動家人民の主張は、アジビラの中に消えてしまったからでして。日本の学生のビラはウンザリするほど読みましたが、同様の運動が起きていたドイツ、フランスのアジビラを私は読んでいないので。
 いえ、日本でさえアジビラはすでに消えてしまってますね。ようやく証拠として提出できるのが、東大全共闘議長、山本義隆「知性の叛乱」くらいか。そこでは、過渡的な疎外への反抗が記録されています。

 さて、前書きがすごく長くなった。
 本来、人間が生きている社会を人間に即して分析するのであれば、始元は、生産物(である商品)ではなく、消費物なのです。全共闘学生(を牽引した部分)は、大人になった当時の子供たちが書き立てるように、お祭り騒ぎで面白いから闘争で安定した人生を投げうったわけではない。彼ら自身がどういう状況の下で日常の生活を得ているかを真剣に考えたから、命まで投げ出していったのです。
 マルクスは何を食べて自分の生命を確保したか。エンゲルスからの食費の供給であり、報われない妻同然の女中の料理であり、あるいは彼の生理生活をトータルに維持管理した妻某の労働でしょう。そうした自己の状況を解明せずに、他人事の「経済学」を披露して人生がわかろうかなどと、片腹痛い所業もいいところだ。
 もう一度言いましょう。経済社会の始元は、消費物資なのです。もちろん、資本論で生産物商品から始めて交換価値を解明したことは、結構な偉業ですけどね。それを経済社会の始元にされたらそれは違う。
 
 さて、にもかかわらず、消費物(としての商品?)のマルクス的解明では、なにも分かりはしない。 それは自称のみの概念的把握にすぎない。
 前回述べたように、マルクス出現以後150年、いまだにヘーゲルが重んじられているのには理由があるわけです。消費物資はどのように人間の手に入ってきたか。その歴史を語らなければならない。
 
 ここまででマルクス主義的には、論議はおしまいね。
 
 しかし、毎度のようですが本当のことを言えば、消費物資で展開すればみんなが分かる話になるか、というとそうは思わない。
 消費物資の歴史は、消費物資の入手形態の展開の歴史である。すなわち、支配の歴史である。人に分からせるには、資本主義社会におけるその展開を叙述するしかない、と思いませんかね。
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資本論の弁証法の誤り(その1)

2013-03-02 21:41:13 | 行為
 こんばんは。寒かった冬も、そろそろ春。これから花粉症が猛威をふるいそうな。目がかゆくて。

 さて、本日も先週の続き。左翼オンリー、「資本論」信奉者への問いかけ。 ときどき、左翼っぽく書かないと、サラリーマンのぐちばかりになってなんのサイトか忘れられますもので。
 
 先週は、「宇野が相対的に偉い」みたいなことで。
 で今回は、ともかくマルクスも宇野も二人とも、おかしい、という話。
 
 左翼の間では、資本論は弁証法の体現として格好の例、というより犯すべからざる範例ということになってますが、そりゃ違うぜ、ということで。 
 マルクス先生の執筆プラン、資本・土地所有・賃労働、国家・外国貿易・世界市場。
 こりゃなんだね、から始めましょう。
 
 さて、先生、こんなプランを掲げるところによると、対象を概念的に把握すればそれでその崩壊も分かるという、素朴な思い込みがあったとしか思えない。。
 つまり、エンゲルスに限らず、マルクスにも反映論の思い込みがあったのではないでしょうか。
 (申し訳ありませんが、時間の節約上、分からない人は、今回、読者の対象外ということで)
 実は弁証法というものは、そのような存在分析の方法ではありません。人間による存在の把握方法です。それは頭のどうしようもなく悪いギリシア哲学の伝統で分類する存在論と認識論のうち、ニュアンスを別とすれば、認識論に近い。
 つまり、弁証法の手法をとれば、ある対象が変化していくとするならば、その契機を述べることで全体的に把握がされる。
 しかしところで、資本主義を国家-世界市場まで分析したとしても、だからといって資本主義が壊れることが叙述できるわけではない。それは内部構造とその構造主が辿る時間経過とは、いっぺんに叙述できないからです。
 人は本を書いて、自動車のメカニズムを語ることはできる。しかし、そのメカニズムが働き出し、その結果エンジンその他がポンコツになるまでを、メカニズムの章で人に理解されるべく語ることはできない。ま、、やれるという人はやったらいいですが。
 弁証法とは、対象を自動車にあてはめれば、「単にメカニズムを話すことでは自動車を語ることにはならない、自動車とは、20年乗り回せば潰れるものだ、ということを書かなければ、自動車の所有者にとっては虚偽の説明だ」という叙述学問です。「自動車とはこりゃすげえもんだ、2千万円払うのは当然」と思って買ったら10年後、「ガタン」という音とともにエンコして動かなければ人間は破産ですから。
 しかして、ヘーゲルが構想したように、その概念的把握の全体は、「歴史」とならなければならない。
 
 当たり前だ?
 だからわれわれは宇野はダメだといっている?
 
 当たり前さ。しかし、宇野ではなく、マルクスのプランでは(でも)歴史的把握は、したがって契機の発展による概念的把握は、できない。私はそういっている。
 世界市場で全体構造は把握できる。そして、その次に、その全体構造がどう壊れていくのかを別途に叙述することで初めてその崩壊の過程が露わになるのです。
 具体的には、宇野原論を再度分解して、「世界市場」を入れたのち、その歴史を描くことで初めて「資本主義原論」は完成する。

 もちろん、問題は、そこで完成するのは「資本主義原論」に過ぎず、従って、支配武力で調整される現実の国家世界を描くことはできない。
 できなければ、「そんな崩壊など現実にありえないではないか」、と資本主義者共にけなされる。いや味方の左翼もけなしますな。
 これはもちろん岩田弘の論のような、人民の実力行為が起動しなければ完成しない主観主義の理論を書けといっているわけではありません。経済原論の意義とは、資本主義の内部構造により世界が辿らなければないはずのモメントを明らかにする、それだけでよいし、しかしそれをしなければならない、といっているわけです。

 でも、それが現実と違うといって他人にけなされては元も子もない。1億人民のうち、わかって物事をしゃべろうという人間など、せいぜい10人、と考えたほうがよい。しかも右翼共といったらそれに輪をかけて能無しだ。
 というわけで、マルクス主義のためには、敵対者にけなされない、現状程度の、児戯をちょっと越えたマルクス「資本論」や宇野「経済原論」の存在でよいのでしょう。

 しかし、なんどもいうようにそれは誤りだ。まず契機(要因)の到達範囲を明らかにしなければ、現実でどれだけの射程距離をもつのかは知ることはできないからです。

 ま、ここまでは、マルクスの経済論には歴史を追加しなさい、という、左翼ならだれでも同意しなければならない、いたって穏当な老婆話で。

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宇野理論の流通主義の意義

2013-02-23 22:18:17 | 行為
 こんばんは。おさむうございます。高橋優さんという人の「福笑い」という歌がありまして思うには、やはり人間苦労しないと笑顔の価値もわからないだろうな、てなところで。ほんとエリートには何一つわからねえ。
 
 なんて悪口はおきまして、ここのところ書き散らしが続いてましたので、本日は左翼用途のきまじめブログ。
 私儀、夜疲れると、って毎日ですが、マル・エンか黒寛を手に取ることが多く。
 黒田寛一、なんのかんのと悪いところばかりですが、それにしても若き黒田は戦後思想家としては一級品ですね。自分の頭で考えてますから。その他烏合の黒田批判者なんて他人(マルクス他)の引用ばかり。引用集のことを「護教本」といいますが、そんなもん、人間の理論の批判になどならない。
 
 で、本日は、黒田らの宇野弘蔵批判点、「宇野は流通主義でマルクスを歪めている」論。
 (以前もいいましたが、黒田が宇野を褒める理由などゼロなんですけどね。まあ、自分の頭で考えた姿勢だけは何者にも替え難いというところでしょうか。それなら私も同感ですが。)
 
 マルクス正統派や黒田のような疎外論主義者にとって、価値も疎外も労働者の生産行為から出るべきで、商人が価値を作るかのごとき「流通論」を根拠の半分とするような展開は我慢できないんでしょう。 
 その結果、受け売り人間が昂ずると、今検索したら、池田信夫のブログが検索結果トップで、いわく 『宇野理論は、「流通過程が生産過程を包摂する」という論理で、事実上、労働価値説を放棄している』云々。
 池田の近経の中身の程度も推し量られてしまいますが、って、どうせみんな知ってるか。
 
 さて、池田はほっておいて、以下は、疎外論主義者への講義。
 上記、違いますね。流通主義だから正しいのです。マルクスがそうでなかったとしたら(私も「マルクスはそうではなかった」と思いますが)、マルクスを越えて、ようやく宇野にして正しい資本主義把握がなされたということです。
 
 だいたい、マルクスのいう、「生産物からの疎外」なり、労働やら・類的本質やら・「人間」やらからの疎外、などというものは、なんら資本主義だからという特殊な現象ではありません。 え? おたくは違うとでも言うのかい? 農奴の生産形態なら、農奴労働者に各種疎外は起こらないとでもいうのかい?
 わざわざいってあげましょう。「残念でした。起こります」。「起こらない」、なんて主張する疎外論なら、自分の部屋の片隅で壁に向かって勝手に呟いているがいい。人民にいうような話ではない。
 
 そこで生産過程です。
 生産=労働過程で支配者の言うとおり働かされ支配者に貢献することは、もちろん、なんら資本主義ではない。それは古来「奴隷」制度の時代からあり続けてきた現象です。
 そこには、なんら、歴史的法則性のはいる余地はありません。人民にとって、彼らの歴史は、支配者の趣味のまま、支配者の盛衰のままの歴史社会なのです。

 しかし、資本主義はそうではありません。
 人民の労働は、すべてのマルキストが主張するとおり、収奪ではなく搾取される。すなわち、生産物の価値と労働者に支払われる価値との間に差がある。
 と、今ただいま述べたように、そのときの生産物とは、流通過程の生産物なのです。
 この状況が、人間にとっては、新しい意味をなす。
 すなわち、人民は、常に支配階級に支配されるのですが、それまでの生産様式の「収奪される人民」とは異なり(=支配者がやってきて武力で労働を強いられ生産物をむしりとられた生活とは異なり)、資本主義の生産過程においては、彼は、小生産者と同様に、自由なのです。人民労働者は、生産過程においてはそれ自体で自由なのです。
 なお、他方では、この事情を根拠に唯物史観が法則化される。
 
 なに? おれは自由ではない?
 それは資本家に身を売ってるからでしょ。だから、自分を売るのは生産過程じゃないの。売るんだから流通過程なの。
 ふんぞりかえってうじゃうじゃマルクス語をしゃべってればこんなだれでもわかる論議にならなくて済むやね。そりゃ卑怯だ。教授連のような講壇社会主義者ならどうせ生まれつき卑怯なのだが、活動家諸君が「大せんせえ」の真似をすりゃ、人民に見放される。それも身から出たサビだよね。。
 
 と、ここまでは、マルクス主義理解の論議。
 こんなことは私の著書には書く気にならないのでここに書いといた次第です。
 
 本当のことを付け加えると、マルクス主義ではなく行為の疎外論の見地からは、上記はいずれにしても間違っている。
 人民の疎外は、生産物のゆくえではなく、支配から生まれる。
 資本主義では、この支配が、流通過程の存在において、再生産されることとなる。
 というわけで、いずれにせよ、「流通主義」は正しい。
 
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ユーフォロジー

2012-12-23 20:51:45 | 行為
 こんばんは。ここのところ世間ではウイルス性胃腸炎なるものがはびこって、周り中やられていきます。誰か移すやつがいるんでしょうね、ってもう複数でしょうが。
 私は世界に誇る食生活習慣と睡眠時間をもっていますので、今日までは大丈夫ですが、皆様いかがですか? やはり、胃腸炎には、うどん、とうふ、アンパン。これが三種の神器でしょう。
 
 さて、なんのかんのといいながら、もう年の瀬。購読する商業新聞ではそろそろカチンとくるような評論集めを始めました。カチン、いくつもある中でどれかをまな板に揚げようかとも思いましたが、カチンと来るといっても朝日新聞ですので、そこは中道左派、あまりけなすのも良心的庶民の読者から見れば、右翼っぽいようにも思えます。
 
 で、やめて、本日のお題はUFOLOGY。空飛ぶ円盤学です。 あんまりその筋の方にこられても困るので、題はカタカナにしておきましたが。

 ははん、例によって、「中途半端」ブログか、と思われた方。違います。
 さすがにもう年末。所定の私の秋期執筆スケジュールは終わりまして、(って寒いから考えられないからですが) 今回はマジ。UFOLOGYというのは、昔から平等思想の学なのです。
 
 今日の昼休みの図書館行脚で手に取った子供用アメリカ小説がそのUFOモノで。数分の立ち読みなんで題は忘れました。2000年出版か何か。
 本の一部の趣旨は「宇宙人は、人間が悲惨な生活を経過し自分で賢くなるまでは、助けの手も出さない。じっと見守っている」というもので。
 はあ、アメリカも民主的になったものだ、と。
 だいたい、UFO学というのは、差別と支配、あるいは民族、国家をなんとか超えようとする学問なのですが、それでも1960年代のUFO学は、さすがに主体性的立場、学の本場アメリカからすればおせっかいの侵略主義志向をぬぐえず、「彼らは姿を現して、戦争を続ける人間に警告を発し続けている(のだからわれわれはそのメッセージを汲み取って行動していかなければならない)」というものでした(そういう積極性も悪いばかりではない。たかだか思想にいいも悪いもない)。
 
 で、40年後、(ぶっちゃけていって)アナーキズムUFO学は、仏教UFO学になってしまった。「人間は主体的に生きて、自分たちの何がどう間違えているのかを自分で発見しなければ、この平和で情緒豊かな宇宙人の高みにはこられない」、というわけですな。
 
 そら、おかしいばい。
 分かったからって何もできない(ならない)のは、私、この隈が一番よく知っている。ま、それだけでこれ以上反論するのもばかばかしい愚劣な意見ではありまして、悟りきった宇宙人には「君たちの裕福さの秘訣を教えてくれたら、それだけで世界何千箇所の紛争も終わり、中国と日本の領土争いもなくなるよ」というだけのところであります。あ、ここポイントね。すべての紛争は、生理的身体の保全と、差別とに、根源を持つ。
 
 それにしても、同じ平和と平等のUFO学でさえ、思想の立場というものは時の流れで変わるものだ。思えば高校生、沼川淳治大先輩に手ほどきをされて以来40年。この変化はみんな愚劣なマルキストの所業の遺産のようでもあり。とはいえ、もちろん、死ぬまで闘ったのは私ではなくマルキストだ、ということも承知の上。
 でも、沼川さん、まだがんばってるね。
 
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「思想のまともさ」を測る指標

2012-04-29 16:57:07 | 行為
 こんにちは。皆様はそろそろ連休? わたしはもうちょっと。
 4月から職業仕事も自分の仕事もなかなかペースがつかめませんが、昨日は新しい職場関係者にインフォーマルに褒めてもらいました。わたしは仕事より人間のほうが大事。執筆は進みませんが、それはそれでよしとしよう。

 さて、昨日朝日新聞の夕刊特集記事、「武田清子」だって。 へ!? てなもんで。(福田宏樹記。 この人はべつにふつうの記者だけど。ま、ふつうといえるだけましな人かも)
 いや、私も心が広いところもあって、どんな人でも1回くらい取り上げてあげてもかまわないんだけど、2回目なんだよね、朝日。先週も別の箇所で載ってて。どっちもべたぼめ。
 わたしゃさすがにそこまで広い心はないの。

 武田清子というのは国際基督教大学名誉教授ね。思想史学者ということになっています。
 私は、昔、図書館で氏の分厚い本を立ち読みしたことはあるのでいえば、べつにふつうの思想史学者なだけだけど、他方、国際基督教大学闘争の弾圧者として知られている人ね。
 なんつって、根拠は田川建三の本だから偏向しているけど、話題のホットな40年前にも反論は出なかったから本当だと認識しております。知っている人は知っている ”ICUのチャペルの庭は学生の血を吸っている”問題ね。

 というわけで、本日のテーマ
 【「人の思想のまともさ」というものを測る指標】

 誰かが人を思想家として褒めたときは、下の指標に当てはめてみるのがよいです。
 どれだけその話が眉唾かが分かる。

 まず座標を作りますね。
 最初に、具体的な人間を扱っているか、観念的な人間を扱っているか、という軸が一つ
 次に、具体的な社会を扱っているか、誰かがどっからか持ってきた社会の分析なしのイメージを前提としているか、という軸。
 この2つの軸を交じらせると、4象限ができます。

 象限てなんじゃ?
 はい、数学の座標の十文字で区切ったスペースのことで。
 たとえばwikipediaで「直交座標系」を引いてもらうといいのですが。
で、
 x軸、プラスが具体的人間、マイナスが観念的人間
 y軸、プラスが具体的社会、マイナスが観念的社会
にとります。

 そうすると、自然に
  第1象限(=具体的人間が動く社会分析)が、まともな社会科学(行為論的社会学、実証的社会学)
  第2象限(=アタマで作り上げた人間が動く社会分析)が、くずな社会科学(経済学、社会運動思想)
  第3象限(=勝手に作った人間像がイメージで認識?した社会で動く代物)が、意味のない随筆(政治思想理論、宗教)
  第4象限(=具体的人間が生きるが、社会の分析のない評論)が、まともな倫理学(倫理学、宗教批判)
 ということになります。

 というわけで、知ってる人には、武田清子というのは第3象限で、田川建三が第4象限に位置することになるのはお分かりだと思われます。
 
 役に立つブログ、今回はちょっと片寄った見方ではありますが。
 
     いや、こんな正しい認識を「片寄っている」だなんて、私も奥ゆかしくなったものだ。


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小生産者の疎外

2012-02-26 16:49:42 | 行為
 こんにちは。東京地方の2月は曇り続き。ひたすら春が待たれます。

 さて本日は辛気臭く「経哲」の話。
 といって分かる人は私より1歳下までのはず。
 マルクス、経済学・哲学草稿、たとえば岩波文庫 城塚・田中訳のことで、わかんない言葉を使ったのはそういう昔話の類だからですが。
 昔話といっても1,2年前長谷川宏(という世間では評価されている、はっきりいってこの時代でしか評価されない取るに足らない哲学者)の新訳が出てはいます。

 この本を簡単に紹介すると、「疎外」という言葉を有名にしたごく若いマルクスの著作、というわけで、1960年代に日本で流行りまして、私などは高校1年の春休み、クラスで行った高校改革学習菅平旅行(ナンじゃそりゃ、みたいなもんですね。活動家の合宿のようですが、それにしてはクラスの3割が行きました)に、上田行きの急行列車内で読みふけったものです(読んだのは疎外の節ではなくて、ヘーゲル法哲学批判の章でしたが)。

 で、何をいまさら、というところですが、要するにケチ付けでして。
 いえ、虚心に読めば第1章、出だしからくだらないことは分かるはずですが、不思議なことに良心的に見える人ほどこの本を褒める。
 まあ良心的といっても見えるだけで、ほんとうはどうだか怪しいもんですが(ほんと評論家(的学者)には騙されつづけて数十年)。
 あげくは、疎外革命論といいまして、労働者は自己疎外を克服するために革命をする、という話まで出ます。つまり、資本主義社会では資本家と労働者も疎外されますが、資本家の疎外はたいしたことがなく労働者の疎外は救われないので労働者は革命を起こして社会を変えるしかない。ところで、この革命は疎外の根源である資本主義社会を変えて自由な社会主義社会にするものだから資本家を含んだ人類一般の解放の革命である。これを遂行する歴史的役割を負った者がプロレタリアートである。かくて労働者は決起せよ。という筋書きです。 これは一見論理的ですが、中身を伴っていないので、どうにでも変えられる話で。要するにこの筋立ては「マルクスの言う疎外」でなくていいんですね。資本主義社会が悪く社会主義社会が良ければ、すべての社会構成素について成り立つ論理で。たとえば「疎外」を「貧乏」という言葉に代えてもこのストーリーは成り立つ。更にいうと、私は「貧乏」という言葉に代えたストーリーのほうが好きです。「ぬくぬく暮らしやがって何が「疎外」だ」、という気がしますから。
 
 などというと、疎外革命論者からは「疎外され切った哀れな男よ」なんていわれるでしょう。
 アホかいな。
 
 隈の読者はご存知なように、本来「疎外」とはそんな「貧乏」と取り替えられるような概念ではあってはなりません。「疎外」とは、人間行為が達成できない、という状況を表現した言葉です。したがって、資本主義がなくなったところで、行為の十全な実現が確保されるわけではない。
 マルクスとマルクス主義者の労働疎外論などというものが想定しているものは、幻想の原始共産制にすぎません。
 私たちの社会が原始共産制社会に戻ればいいかどうかなど、戦前生まれならいざ知らず、共同体的紐帯(=束縛的きずな)から離れたことがある私たちには問題にする必要もないことでしょう。
 私たちは、自分の行為の達成のために「共同体権力さえない時代」に戻る必要がある。あるいは、それでは状況のイメージがつかめなければ言い換えて、われわれ一人一人が階級社会の最高階級まで達する必要があるのです。 それが本当の人間の「自由」であり、「解放」なのです。

 でも今日は、その話が本体ではなく、小市民階級の疎外について、で。
 
 旧社会主義モザンビークで、魚の安定供給に、一律「重さ」で価格を決めて漁師から魚を買い取ったら、漁師が苦労してうまい魚を捕るのをやめた、という話(どんな魚でも同じカネになるならわざわざ苦労はしない)を読んで。
 
 昔から社会主義の悪口に使われますが、小生産者というのはこういうものなんですよね。
 「疎外」というものは、マルクスやマルクス主義者がなんといおうが、本来、私有財産にも共有制にも関係がない。行為にはその結果が必要なのに、その結果がついてこない、ということ、これが本来の疎外状況です。
 苦労した結果が同じなら、それは行為の疎外です。
 
 小生産者というのは、分業生産者(労働者)のように自分の行為結果を組織上で得ざるをえない人々、ではない生産者(労働者)のことを指します。自分の手で行為結果を入手できる人々ですね。といっても商品経済社会ではそれをいったんカネに変えるわけですが。

 もちろん、行為の結果がカネにしかならないことは、(ヘーゲルがすでに言った気がしますが、まあマルクスがいってもよく) それはそれでそれ自体疎外状況ではあります。
 ただし、その状況の中では、カネを媒介として行為と行為結果とは2次的に直結(?)しているのです。つまり、労働行為の結果の売上金の多さは、妻のドレスを生み、子供の学費を生む。
 どんな体制であろうと、結果と直結しない労働は、娯楽的労働以外には、行為の意義がない。
 遊んで仕事ができるなら、それはそれでいいですけどね。
 
 で、じゃあどうするんだ、って。
 行為の「結果」の意義を変えるんですね。
 
 生産物の交換が必要な社会では、生理性の側面上、生産物の量(ばかり)ではなく、質に意義を持たせるようにする。 生協の世界ですな。
 あるいは、賞賛や優越の側面上、生産することにまつわる賞賛や優越に意義を持たせる。 野球、サッカー、将棋指し、ボランティアの世界ですな。
 いずれも、生産力の裏づけが必要ですが。
 
 
 本稿での問題は、現実にどうこうするということではなく(どうせ資本主義社会ですからあーだこーだいうのも無駄でして)、人間というのはそういうものだ、ということを認識しなければならない、ということでした。
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