リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

カネで買えないものがあるか

2010-02-27 11:15:14 | 行為
 とゆうわけで、同日ですが、これが本題。
 次回配本を推敲しててもはみ出るものがあるんですよね、こういうのは社会学ではなさそうな、 みたいな。
 削るのももったいないからこっちへ書いておこうかというところ。

 カネがあれば何でも買えると思いませんか?
 昔、堀江だか堀井だか、そんな人も言ってましたね。
 だいたい、昔の私のように貧乏な人間は、そりゃなんだって買えるだろう、とヒネて思いつつ、それも悔しいから堀某が監獄に入れられれば、ざまあみろ、国家権力は買えなかったか、なんて思う。思うだけで、そりゃカネが足りなかっただけだな、とは考える。愛だって買える。90歳までは命だって買える。

 たとえばマルクスなんて見てみると、彼にとって、貨幣とは「人類の外化された能力」なんだそうです。
「私が人間としての資格においてはなしえないこと、したがってわたしのあらゆる個人的な本質的諸力がなしえないこと、それを私は貨幣によってなしうる。」
マルクス「経済学・哲学草稿」城塚登・田中吉六訳、岩波書店、1964。
(悪口を言うのにわざわざ文献を表示するのは下品でいやですけどね。疑うやつもいるし。)

 悪口? はいはい、インテリ的寄生収入と前近代的共同関係の中で育ったマルクスにとって、個人の行為など頭の先にもない、ってことです。。
「人間は類として何かを行う。」
「人間は、食事を作ることではなく、出された食事を食べられれば、生産者と同じに人間的に生きていることになる。」
 この2点を疑ったことなどそれまでなかった、あるいは疑うこともないまま(人のカネをあてに暮らして)晩年も迎えた、ことでしょうね。
 しかし、本当は違う。貨幣で得られるのは、夢だけです。他人と同じであるかのごとき夢。
 カネでは、人間の行為は買えない。

 行為がカネを媒介とすることには何の疎外もない。あるいは疎外の一部ではあっても全部ではない。そうではなくて、カネとはただの「選択」だ、ということです。選択は行為ではない。行為しなければならないときに、人はカネを媒介とすることで、選択すれば済む。
 そんな行為は人間にはない。
 あるのは、財布からゼニを出して、他者の前に置く、という行為だけだ。
 
 実存主義者がプチブルだというのは、(って、そういう文言は知らないですかね、でしょうね) 彼らは選択しかしない生き方しかしていない、ということだ。(もう実存主義者なんてみんな死んじゃったか、社長をしてるか、だから、「していなかった」ですね)

 本来は、人間は実現するために行為をするのだ。人間は金がなければオリンピックフィギュアスケートの舞台に立つことはできない。しかし、カネがあろうがなかろうが、スケートを滑る、この1点が人間なのだ。
  当たり前ですな。当たり前のこともわからぬ、昔から今までの人々。
  特に、マルクス。文学的影響力がありすぎ。ま、平凡な人間は面白くなきゃついていかないし。
 
   それに、貧乏な人にとっては、カネがなきゃ買えないもんがありすぎるんですよね。
 
 
 さて、私儀、本の推敲を3月末までに終わらせようと思っております。
 理由はありませんけど、納期がないと何もできない私。かくて、更新も少なく。
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前書き

2010-02-27 11:12:51 | コーヒーブレイク
 こんにちは、フィギュアもまずまず順当なところで。みなさまご苦労様です。
 ヨナという人のフリーは、垣間見ただけですが、なんだよ、こんなんで。ひいきかよ、と思いましたが、なんでもそういう点数法なそうで。表現などどうでも技術が良ければよい。
 ま、そりゃそうでしょうかね。スポーツだし。
 世の中、完成度ってありますよね。これが普通の人の手には入らないんだよね。その過程がつまんないから。(技の完成度じゃないんだよ、ただただ滑る、ってことの完成度。)
 私も長生きしてそのくらいはわかるようになりました。
 ヨナの勝ち。

 それにしても24,5で栄光をかちえる人生(それでおしまいの人生)というのも好きじゃないとずっと思っておりますが、(野球とか、相撲とかね) その辺は文化系ということでしょうか。
 30歳になったらどうすんだろ、と思います。
 と思ったら、gooによると、ヨナという人はプロになるのだとか。
 なるほどね。さすがだね。
 25からプロと、20からプロは、やっぱもたらす成果が違うだろね。
 定年退職して何かするのと、その手前で転職する以上に違いそう。
 ヨナえらい。
 
 なんて思ったところ、さて、ここまでは前座。
 あまりコーヒーブレイクばかりもなにかと、少しブログテーマ系のことを書いておきます。
 前書きが長かったので項を改めて。 
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昨日の続き、その他ちいさなこと

2010-02-20 21:45:50 | 断片
 こんばんは。世界先進国文明、雪に青印付けて平気な顔してるようじゃ、2酸化炭素がうんぬんとかいう話はただのポーズだな、と思う今日この頃。
 これは、冬季オリンピック、私の好きな滑降の話。遊びのスノーボードで色つけるのは勝手にすればいいが、なんで神宿る雪山滑降の競技に青ペンキがつけられるかね。なんとかしてくれよ、自然派のだんな、ってそんなの海洋アジア人種しかいっこないけどさ。

 昨日の続きでは、例の人の心のわからぬ朝日新聞短歌評者中西進、元教授。
 今日の朝日夕刊では、なかなか気持ちの入った防人の子を思う心を述べていました。
 とゆうふうに、わかるところは分かるし、分からぬところは1流大学国文学元教授だってわかりはしない。そんなの試験問題にだすな、と、なんてついでな話。

 さて、今日の小さな主題は、、、なんだっけ。すぐブっとんでしまうよ。

 以前にアイヌ語の良い文献とその著者についてお話しましたが、その後、実はモンゴル語の良い著者(とその文献)にお会いしまして感心したのですが、専門外なのでメモもしなかったところ忘れてしまいまして、残念だけどまあヒマないし、
 と思ってましたら、その師匠のようなモンゴル語学者の良い本を読みまして、このまんまではまた忘れてしまうな、というわけで、書いておきます。
 長田夏樹「邪馬台国の言語」学生社、1989.
 書名だけ見ると「際物」なので、ネットでいろいろ見てもほんとに読んだ人はいなそうでね。中身は書くのはやめます。でも、先のアイヌ語とこの本は、どっかの若き天才にきちんと把握してもらって、本当の日本語学を作ってほしいな。

 で、本題は、他人の仕事にはケチしかつけない私がこんなにも褒める仕事も、ネットの情報発信者には十把一からげ、見もしないで他と一緒に片付けられてしまう。ネットに限らず、そこらの評論大学教授も一緒ですけどね。
 別にそれでもいいけれど、結局世間なんてそんなもんだよな、という、(目的もなく手なぐさみで書いている人々なんて誰も当てにできねえや、バカといわれても怒んなよ)、というこれまで私が抱いてきた認識を新たにした、ということです。(お前もネット情報で判断してる、って、まあ、ある意味、そうですけどね)
 私は、実はまれにみるやさしい人間だ、というのは付き合っていただいた友人等は知っていることですが、一見して、このブログで典型的なように、他人への悪態がひどい。
 なんでも理由があるんですよ、人間の世の中。
 人が怒る理由なんて、生き死に以外ならどれも非常に微妙なもの。他人がみたらバカな話ばかり。しかし、その微妙な差が、パーソナリティと脳細胞状態によって増幅される。

 さて、そこで、その増幅を抑えるかどうかが、今の幸せな世で、潜在的に問い掛けられているところです。なんておとなしく書くと分かりませんね。けど、黙っとこ。
 ま、そんな心理学的設問は、それ以前に、不況が押し詰まる結果として変わっていくんで、結論は不要ですけどね。


   ここんとこ毎日の更新ですが、あまり続けるのは仕事(自分自身のみの)に差し障りますので、次回は来週末で。
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国語試験で何を見るべきか

2010-02-19 21:47:40 | 断片
 こんばんは。
 いろいろとありまして、更新が多すぎますが、前書きは、プルシェンコ。
見たかったけど見られなくて。帰ってもニュースでやってなかったから。
 見た高橋ファンに言わせると、絶望した、って。どんなによかったんだろう。
 わたくしは小塚さんという人をラーメン屋で見ましたが、なんだよ、これで1位か、って(その時点で1位)。目が悪いので普通は見えませんが、ラーメン屋では大画面の下60センチ状態で見てましたのでほんとです。
 のこぎりダンスみたいだったぞ、ってここは小塚ファンにはいわないように。

 ばかばかしい、お前のブログにこんなことを見にきてはいないぞ。おっしゃるとおり。
 さて、今日の本題は、国語とは。
 国語の神奈川県公立高校試験というのが朝日新聞にありまして、つれづれに見まして思ったのが、こんなの国語じゃねえよ。
 ただの小説感想文問題ですが、誰それは何を思ったか、を選択することが問題になっている。
 そりゃ、パーソナリティ判定だろ。
 人の気持ちがわかるやつもいるし、わかんないやつもいる、それは絶対に国語の問題じゃない。口で言ったってわかんないんだよね。
 でも、一方、そういうわかんねえ人でも小説は楽しめる。
 言葉は、それぞれのパーソナリティの人に、それぞれの経験に基づいた感情を沸き起こさせてくれるものです。
 で、ひつこくいいますが、それは国語ではない。
 国語は、情緒の如何に関わらず、書き言葉の連なりが何を指しているのかを明らかにし、その意味を各人が各人の人生に従って、咀嚼するものです。
 あるいは、各人の人生を述べるときにどのように書き言葉を連ねるか、でもよい。
 そういう書き言葉の、閉じた世界が国語です。

 「お前ら国語教師ごときに感情の表現を指示されたかねえや」というのが、普通の人のスタンスであるべきです。(国語の授業で文学鑑賞をして言い合うことはよいことですよ、人生が豊かになりますわな。しかしそれを試験にすな、といっております)
 とゆうわけで、もうやめろよ、ばかばかしい試験。

 国語・算数が人間にとって基本なのは、読み書きそろばんなんです。
 パーソナリティの選別ではありません。

    (わたしゃ、国語科目が大得意(=私の発言に利害関係はナシ)、というのは、過去の記載のとおり)
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世間と個人

2010-02-17 22:30:34 | その他
 こんばんは、今日は時間(や気持ち)が中途半端で。
 時間の活用で、お客様がいらっしゃるならとここに書くわけですが、

 本日の朝日新聞夕刊。ライシャワーという昔の親日・リベラルのアメリカ大使の、補佐官だったお爺さんの会見記事。
 まあそれなりのリベラルな、「日本はこうしたら」という話の中で、「日本人は英語で話せなきゃ」みたいのがありまして。
 本人もリベラルだから、ちゃんと、「英米語ではなくて、国際語として英語を」といってはおります。
 世界では、理想を言葉にしなければ、誰も理解してはくれない、日本人はいいことを言うが、日本語でしか言わない、それでは世界には伝わらないみたいな趣旨ですね。
 それはたしかに間違いではない。

 というのを見て国母を思い出しまして。
 「国母くん問題」って、なんかいわれてるけど、スノーボーダーの社会でずりさげズボンは当然でしょ?
 そんなの指揮者に「お前若いくせに生意気だ。NHKに出るまで燕尾服はやめてツナギを着ろ」、というのと一緒じゃないですかね。
 ざけんなよこのバカ、と思わないようじゃ、一流じゃないでしょ。
 ばかじゃねえの、大相撲朝昇竜問題でいい気になってんだよね、日本民衆。
 ほんと、これ日本民衆の問題だと思うんだな。私も、民衆として国母ざまあみろ派だから。
    あ、こうゆうと、論旨がわかんなくなるね.なにしろAB型で。
 
 つまり、いいたいことは、おためごかしで何を言っても、要するに、世間で認められた権威的なことをつらつら述べているじいさんばあさんが存在しちょるだけ、ということですたい。
 リベラルといってもアメリカのエスタブリッシュメントであることには変わらない。なんで日本人が欧米文化を遂行しなきゃならないんだい。朝日は士族後100年経っても朝日たい。そんなことまだ言ってりゃ時代錯誤でつぶれてもしょうがねえだろ。

 みたいなことで、私ども個人が権威を無視して生きていくというのは、なかなか大変なのですよね。民衆が敵ですから。(私んとこの職場は幸せなことに国母派でした。私などが(ここでは国母の肩を持って)いうのもあるのか)
    AB型は裏切るしね。(注:本気にしないでね。こういうのは諧謔といいます。AB型にだけは裏切られたことはない)
    でも英語はできたほうがいいよ、というよりも、まず、日本語で演説ができたほうがいいよ。誰でもね。国母も。あなたも私も。
 
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明日がなければ今日もなし

2010-02-14 21:53:26 | 断片
 こんばんは。本日はちょっとだけ暖かくオリンピック日和。

 上村さん残念でしたね。
 でも、見た感じ、1位・2位の人とは相当技量が離れてるからしょうがないですね。
 私の趣味の将棋でいえば、4段と8段くらいの差。
 不思議なことに将棋の4段と8段は2ランクしか離れてないんですけどね。
 4段、次が5・6・7段、次が8段・9段。
 まあ変だけど、芸事ですからそんなもんです。(注:ランク差はないようなものです)
 (ということは、モーグルって参加者層がすごく少ないんだよね)

 さて、今日は久しぶりに仕事(次回本校閲)をし出しまして思ったことに、
 こんなこと、毎日おんなじように講義するんじゃ,ゴメンだな、って。
   おじさん、飽きたよ。
   (まだ、第1章、基礎の基礎なので、我ながら何十回もお目にかかった話)

 で、次に思ったことには、むかし、教育実習で3週間しゃべったはずだけど、記憶皆無だな、って。

 で、思うのに、さいきん、物忘れが激しくて困ったことが多いのだけれど、実はそれは年のせいじゃなくて、覚えようという気がないだけなんだよな、って。

 むかしのその頃は記憶力最高時なんだろうけど、若いときなんか、私の場合、「明日」なんてなかったからね、何をしようと翌日には無駄なこと。
 教育実習なんて3週間後にはただの「単位」の根拠なだけ。
 (でもさ、やってる間は、短いながらの生涯を懸けてやってたからね、私は恥ずかしくないよ。 そのくらいの覚えはあります。若いときっていいよね)
  さんざん生徒さんにお説教したけれど、誰も感想メモ以上に近づかないし (そりゃ怖いよね)、結局、何も関わりなく済んでしまった。そりゃ記憶しないだろ。

 そう思うと、このていたらくもさらにしょうがないね。
 困ったことです。
 世間様には、遠きゃ無視、近づきゃケンカ。私儀、ろくな死に方しないさ。
 
     このカテゴリー、断片=酔題、憂さ晴らしにはちょうどよくて。役に立ちゃしないけどね。

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なりふりかまわぬ前提

2010-02-13 22:44:53 | コーヒーブレイク
 こんばんは。東京地方、今日も寒くて。夜雨の中からカランコロンと雹が転がります。

 私儀、今日も勤務でつまんないことに心を悩ませて。
 こうなると鬱病なんですけどね。誰も気づいてくれなくて。
 AB型なので、表面はなんでもないんです。だから自分でも鬱病だって気づかないんですよね、って、おちょくってるのかしら。
 他の人はもっとつまんないことを気にしてるみたいだから、まあ普通なのかな。
 ま、生きてるってそういうことです。他にはないさ。

 さて,今日は私の信頼する明川哲也氏の朝日新聞の人生相談、作詞家になれるかしら、という人に、『なりふりかまわずがんばってともかく1曲作って、そこで考えなさい』と。賛成ですね。
 賛成ではありますが、ほんとのこというと,その人は、今の時点でやめたほうがいいかも。
 私のことですが、高校3年生のとき,サラリーマンの自分の父親(の人生)が可哀想で、ちょっと息子らしく自分の進路について相談して,元気づけてあげようと思ったりしたものです。殊勝でしょ?
 でもね、可哀想って、そのとき父親は大企業の部長でしたよ。「可哀想に」。「そんな稼業で私の授業料を払っていくなんて」。人間、自分の人生を持っているというのはそういうことです。そうでない他人が可哀想なの。
 
 とゆう話は、朝日新聞記事の隣にあった、内田康夫が、これこれのとき自分の父を見てかわいそうに思った、とかいう記事に触発されてちょっと書いてみたのですが。
 
 そんなわたくしも、高校生の私が見たら、「そこそこ幸せそうだけど、なんで、もっと溌剌と活動しないのかね」、と思うでしょうね。勤務先では飛んで跳ねてる私も知らず。
 やっぱ,鬱病さ。
 さあさあ,明日は,本気で仕事をしよう。
 
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適度ななやみ

2010-02-07 21:19:25 | 歴史への視角
 こんばんは。寒いですねえ。
 東京地方、3日前は雪で。(5日前かも、、、)

 夜中、窓から見る雪景色は、例外なくきれいなものです。音が消えて樹々の枝に雪が積もってねえ、、、
 スキーは好きですが、雪国地方ではそうもいえないんでしょうねえ、とにかく中高年だと寒いし。
 そのうえ、このところの風潮で、街路灯も橙色にしたがるやつがいて。橙色の雪を見て何も拒否感を感じないなど人間の腐敗ですよね。
 ま、ナイターゲレンデで育った人もいるでしょうからあまりいわない。

 今日は懸案事件がやっと解決して。
 といってもだれも本当には困らない案件、被害者は当事者の私だけだと困るほうも気軽で。とはいえ,解決するとほっとします。

 私など労働仕事の懸案で、こんな(ってどんな?)ような子供だましの案件で気を使うのは初めてですが、どんなささいな案件であれ、解決のつく案件は、ないよりもあったほうがよいような。生きてるって気がしますよね。(他の仕事を邪魔しなきゃですが)
 悟りなんか開いて泰然自若したら、なんで生きてきたかわかりゃしませんよね。死ぬために生きてきたようなもんで、そりゃ、生き返りを願うしかないですね。何でそう思わないんですかねえ、もちろん、痛みや苦しみで苦しんでいる人は泰然自若を願うしかない、けど、痛みや苦しみの中の人はそんなことはできやしない。できるのは安全なぼんさんだけ。

 変すぎるよねえ、、、

 って前の続きになってしまったか。ま、不信感の広がりを止める理由が生じない人たちなんだよね。どなたか、現代人で、立派なぼんさんを知ってますか? 30年前はいた気がするけどね。そりゃ、どこの宗教でも主義主張でも一緒かもしれないね。
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僧侶的改革意思の射程

2010-02-01 21:21:31 | 歴史への視角
 こんばんは。今日は事情で仕事ができず、先が思いやられる宵。

 朝日新聞の夕刊に岡山巧という僧侶が(反原発の運動をしながら)話していた言葉、
『善人が偽りの世を作る』
(この前も書きましたが,私はネットや著作書以外は,言葉を引用しません。どうせ記者の創作ですから)
 おっしゃるとおりで。
 しかし、そういうボンさんご自身もおんなじで。要するに今日の題は
「ぼんさんが、こうしようと考えることが、社会にどこまで有益か」
という題で。

 善人が偽りの世を作るのはおっしゃるとおりですが、じゃあ、どうしたらよいねん?
 善人でさえダメなのに悪人にできるのか?
 ボンさんなんざ、することといえば、他人に改心しか勧めないのだろ? 他になにしようちゅうねん?

 わかる? お若い方々。25過ぎたらみんなうそつきやねん。
 なんのかんのいっても何一つやる気なんかないねん。
 したいのは自分の思いを他人にいうことだけやねん。

 お前も一緒だろ? ですか?
 一緒でいいんですよ。人間,善人は善人。ボンさんでも自称社会学研究者でも。おなじくうそつきでいいかげんで。
 しかしですね、しかし、その一緒の心を社会に結実させるにはどうしたらいいのか,それを考えろ、ってことです。
 私は、彼について、「なんの実効性のないことを声高にいいくさって、ざけんな、アホウ」と思う(注:座禅や祈りの類のことです)。向こうでも(私のことを)そう思うなら、どこがアホウかいってみろ、ということです。
 再度言いますが、おそらく私より向こうのほうが人格は良いし,拷問にも耐えられる、まあ宮本顕治共産党元議長のような立派な人なのでしょう、で,君は何をしようとするねん? 反原発の代表者になればよいんかい?

 とね、ここまでは一区切り。
 そんな人でも、彼のように善人でも私のように悪人でも、反原発運動はあくまで誰かが支えてしか動かない。おそらく、意思の強い彼のような人がそれを動かしていく。

 運動というのは,思想でも宗教でもない。ただの人間の気持ちなのです。
 ということを宗教家にではなく、社会運動活動家の卵の方たちに申し上げました。
   年寄りに言う気はねえよ。

               ↓あほんだらなエロコメばかり、、、どこでみつけるんだろう
コメント (1)
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