こんばんは、で昨日の二の句。
すいませんが眠いもので簡単に。
つまり、誰が口にしても、悪口なんて言うのは真理から見れば何の意味もない、ということで。
悪口なんてイデオロギーですからね。宗教と一緒です。
福島がなんだ、東京がどうだ、なんていうのは、現実を解釈する言葉に過ぎない。
一方、現実というのは厳然として存在する。歴史の中で、歴史の構成素の総体として必然的に存在する。これは誰にも動かすことはできない。
福島の現状も東京の現状も、けなそうがほめようが、そんな人間の評価にかかわらず、現実として存在する。
だから私の悪口が黙ってしまうのも当然で、真理からすればどうでもいいことなんでね。
ただ、そのことに関して語る言葉は無意味なのかといえばそうではない。
言葉を語るのは人間であり、人間というのは常に将来に向けて(のみ)存在する。次の瞬間になにをしようか、と常に自問自答を続けていくのが人間(生物)です。
人間はそれまでの現実の中から次の自分の現実に関する要素をかき集め構成し、次の自分の行為を成功たらしめようとする。
その手段が、悪口のようなイデオロギーです。それは自分にとって正しい。しかし、状況の違う他人にとっては正しくない。それが悪口というものですね。
イデオロギーは真理ではありません。それは常に他人に対する闘いの方策です。
であるがゆえに、常に他人と共通の土俵を持ちます。
戦闘にはイデオロギーは存在しません。「それがどうした」死ね。戦闘の中では「それがどうした」、という言葉で消されてしまう。
しかし、日常の中ではイデオロギーは常に共通の価値を持つ。正しく言えば、賞賛と優越的自由を共有する。
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。そんな親鸞の言葉がありますね。宗教などはせいぜいそういう(くだらない)ものです。
いったい、世の中に善人も悪人もいるものか。
多少の性格の違いと、生きる状況だけが違う人間達しかいやしない。そんな人間の間で、なにが差別があるものか。
仏教もキリスト教も、規範宗教などというものはそうした人間の真理を否定するでくのぼうたちのお経です。
しかし、宗教はイデオロギーではある。
「悪人なんか人間ではない」と主張するおめでたい地主達に対抗するには、人間はそういうものではない、と真理を言ったところで何の力にもならない。人間の将来を構成しない真理は、道端の石ころに等しい。
人間の将来を構成する、したがって個人の賞賛と優越的自由に関連する言辞、それが宗教のバリエーションなのです。
善人と悪人を対置させる。そのことで自称善人に、悪人の賞賛剥奪の感覚を思い知らせるのが、真理などではないイデオロギーの、しかし、真理を告げるのに匹敵する役割なのです。
、、、という、まあ、歴史の見方ですね。
では、目が眠いので。
(P.S. 2016.8.6の記事で、親鸞の評価を追加しました。一部ばかにしていることの訂正です。)
すいませんが眠いもので簡単に。
つまり、誰が口にしても、悪口なんて言うのは真理から見れば何の意味もない、ということで。
悪口なんてイデオロギーですからね。宗教と一緒です。
福島がなんだ、東京がどうだ、なんていうのは、現実を解釈する言葉に過ぎない。
一方、現実というのは厳然として存在する。歴史の中で、歴史の構成素の総体として必然的に存在する。これは誰にも動かすことはできない。
福島の現状も東京の現状も、けなそうがほめようが、そんな人間の評価にかかわらず、現実として存在する。
だから私の悪口が黙ってしまうのも当然で、真理からすればどうでもいいことなんでね。
ただ、そのことに関して語る言葉は無意味なのかといえばそうではない。
言葉を語るのは人間であり、人間というのは常に将来に向けて(のみ)存在する。次の瞬間になにをしようか、と常に自問自答を続けていくのが人間(生物)です。
人間はそれまでの現実の中から次の自分の現実に関する要素をかき集め構成し、次の自分の行為を成功たらしめようとする。
その手段が、悪口のようなイデオロギーです。それは自分にとって正しい。しかし、状況の違う他人にとっては正しくない。それが悪口というものですね。
イデオロギーは真理ではありません。それは常に他人に対する闘いの方策です。
であるがゆえに、常に他人と共通の土俵を持ちます。
戦闘にはイデオロギーは存在しません。「それがどうした」死ね。戦闘の中では「それがどうした」、という言葉で消されてしまう。
しかし、日常の中ではイデオロギーは常に共通の価値を持つ。正しく言えば、賞賛と優越的自由を共有する。
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。そんな親鸞の言葉がありますね。宗教などはせいぜいそういう(くだらない)ものです。
いったい、世の中に善人も悪人もいるものか。
多少の性格の違いと、生きる状況だけが違う人間達しかいやしない。そんな人間の間で、なにが差別があるものか。
仏教もキリスト教も、規範宗教などというものはそうした人間の真理を否定するでくのぼうたちのお経です。
しかし、宗教はイデオロギーではある。
「悪人なんか人間ではない」と主張するおめでたい地主達に対抗するには、人間はそういうものではない、と真理を言ったところで何の力にもならない。人間の将来を構成しない真理は、道端の石ころに等しい。
人間の将来を構成する、したがって個人の賞賛と優越的自由に関連する言辞、それが宗教のバリエーションなのです。
善人と悪人を対置させる。そのことで自称善人に、悪人の賞賛剥奪の感覚を思い知らせるのが、真理などではないイデオロギーの、しかし、真理を告げるのに匹敵する役割なのです。
、、、という、まあ、歴史の見方ですね。
では、目が眠いので。
(P.S. 2016.8.6の記事で、親鸞の評価を追加しました。一部ばかにしていることの訂正です。)