リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

買い物情報他

2021-01-30 12:37:38 | その他
 こんにちは。東京地方、今日はうれしい快晴。ガラス戸のこっちは暖かい。
 蝋梅は満開過ぎ、梅の花は縮こまったまんま、2,3週間変わりませんが、そろそろ動き出すかな。
 
 さて、世の中の悪いことの間をなんとか運で切り抜けて生きておりますが、クリアできる悪いことはクリアしないとしょうがない。
 まずは、電熱器ね。当家の10年越しの卓上電熱器、なんか部品が落ちてる、と思ったら足を支えるネジ。支え金具が折れてしまってました。と、ひっくり返して見つけて表に返したら、今度は(通称)ニクロム線周りの陶器がまっぷたつ、
 しょうがない。買い替え。
 卓上ガスコンロはあるのですが、火力が強すぎて酒を飲む時間が作れない。それにフォンデューも無理。
 ちなみに15年越しの卓上ガスコンロは去年変えました。やはり足が折れて。何しろ上に鍋や鉄鍋を載せてしまうので。
 買い替えといっても商品が2,3種類しかなく、10年前と同じ東芝製品。これは付属五徳が高くもなり火から離れるのでフォンデューができるのです。
 
 ついでトースター。じゃあついでに、と網が焼け落ちた12年前のトースターも買い替え。
 これも前のと同じツインバード製品が良さそうなのですが、個人的にそれは常に1200ワットにしないと使えないのがいやで。ニクロム管4本、4段階とかいうのですが、上から熱を当てるには1200にしないといけなくて、ところで上からの熱がなくて済むトースター料理なんかあるでしょうか? いや、ない。トンカツの温めくらい。日本企業で結構な値段するのにねえ。
 で、タイガー製品。上1本の3本管だけど、上は真ん中にあるからいいや。焼きムラもパンは2枚しか焼かないし。
 
 と、まあこの辺は余裕ですが、8年前のナショナルエアコンの自動掃除機能が壊れて、その結果、停止できなくなったのにはちょっと青ざめ。値段はともかく、この寒いのに窓開けて換気しつつ工事なんて御免。
 なんとかあれこれ試しているうちに、動くようになったのは運でしょうか努力でしょうか。
 ちなみに、本体は問題ありません。ネット情報だと本体に問題が出るメーカーもあるような。といって、付属機能はメーカー名にかかわらずすぐ壊れるとのことです。
 
 あと、おまけ情報。
 コロナの姥捨て山状況に抗して、血中酸素濃度計を買いました、どうせ入院なんてさせてくれないだろうから、自衛。CMS50Dという、amazon2700円のもの。
 このCMS50Dが不思議なもので、製造会社が何種類もあってどうも同じ内部機械を中国内で勝手にガワだけ作って販売しているような。ガワさえ、同じものを勝手に作って組み立てているのではないかしら。
 ま、怪しいものですが、とりあえず動きます。
 といってこれも動かすのに苦労。説明なんてないも同然だから。
 お薦めはしませんが、適切なのはみな売り切れで今手に入るのはこんなものなので、中国からのお取り寄せですが、ご希望で入手の折は、ボタン長押しの組み合わせと英語術語のネット情報で頑張ってください。
 
 などなど。本日はお買いもの情報。
 最後に、宣伝など。
 といっても私のことではなく。
 このブログで「宣伝」の題で書いていた韓国人留学生、李秀賢さんの話。
 「東京のJR新大久保駅で韓国人留学生の李秀賢(イスヒョン)さん(当時26)が線路に落ちた日本人を助けようとして死亡した事故から、26日で20年となる。李さんが語った「人をつなぐ」という夢は今も生き続けている。」(朝日新聞:大部俊哉、編集委員・牧野愛博)
 TBSも「事故から20年となった26日、韓国大使館関係者らが新大久保駅を訪れて献花し、現場となった線路を前に黙とうしました。」
 日本のメディアも産経でさえ報道してるから、私の宣伝はもういいかね。
 
 
 さて、春はもうすぐそこ、とも思えないですが、まあ来週は節分に立春。
 都会の節分会は相当民主化されましたが、田舎の行事ニュースにはお気をつけください。くそ爺どもが喜色満面に儀式をするはずですが、さて、女性はそこにどれだけ交じってますかね。終わった後、餅でも(自分らで作って)食べてる図におしゃべりおばさんが顔を出すだけのとこが多いことでしょう。
 そんな田舎がさびれるのは、それは自業自得というものです。

 
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全体システムの縦断平面の例示(その3)

2021-01-23 14:07:51 | 社会学の基礎概念
 本稿は前回の続きなので、すぐ本題。 
 その3は、2つの平面のいわば射影として、事実認知の平面について述べておきます。
 
 事実認知は述べているように、各々の縦断平面の要素になっています。
 およそ人間の認知は弁証法的なものであり、分析したことはどこかで統一されなければなりません。しかし、そもそも「行為者による意志的行為」というかたちで把握するという無理をしている「全体認識」においては、おいそれと統合はできない。せっかく分けてわかりやすく観客に見せたものですから。
 その代わりに、個々別々の事象に応じて、「そこではこういう事実認知が優勢になるのだ」ということを明確にするために、事実認知を改めてそれそのものとして、取り上げる必要がある、というわけです。
 
 ここで「事実認知」は、行為の原理のそれとは少しニュアンスが異なります。ここでのそれは行為者の内的過程である事実認知ではなく、外在的な情報の事実認知である。行為者に及ぼす現実は、正体である権力と賞賛と優越で把握されるべきだからです。
 すなわち、人間及び生物たちは、その本性として、自分が経験した情報を外在的事実として取り入れます。が、人間に限っては、その他の「情報」も、あたかも外在的情報の外見をとるものとして、「同様」に見えるし方で行為に組み込むのです。
 さて、この場合に踏み込めば、第1に、この情報は、しかし、彼本人にとって、それが捨て去られるのでなければ、その行為に重要な情報として組み込まれる。
 第2に、組み込まれる場合には、ではその何が組み込まれるか、それは、本来的に身体的ホルモンを伴わない行為の動因であす。
 伴わないといっても、それが行為に関係する場合は、何らかの点でかかわっているのですが、それは「直接的」動因ではなく「介在的」動因だ、ということです。 
 それはもちろん、結局は生理性と賞賛と優越なのですが、その時点から先に行くためには、あと一歩、行為者に同調しなければなりません。すなわち、これらの要素の「欠如」の穴埋めの方策、に使うため、ということです。 
 その情報によって、ある者は、自己の食べ物が別方法で得られるかもしれないことが知れるます、がもともと生理的方途に欠如がない場合は、これにわざわざ乗る必要はありません。別の人生のため、別の交際開拓のためには非常なエネルギーが必要だからです。
 同様に、賞賛と優越のための事実認知もこれに準じます。
 ぽいんtpは、それが外在的な事実情報であり、行為の介在的な動因にすぎないものだが、これを欠如しては人間はうごけない、ということです。
 
 リンクを見ましょう。
 第1に、直接的に、権力や硝酸についての事実のリンク。
 第2に、社会にいきわたっている、日常という事実のリンク。
 第3に、将来期待として、自分が獲得できそうな知識のリンク。
 第4に、内面的に、宗教ないし教義的イデオロギーのリング。
 
 
 さて、これでセットが完成したようにも思われるかもしれませんが、縦断平面とはそういう趣旨のものではありません。
 題目に「例示」とあるように、社会システムの把握とは異なり、人間の行為の捉え方は「社会学」者それぞれで自由です。
 たとえば本セットにしてみれば、行為のセットには、「鏡影」ないし「反影」とでも呼ぶべき縦断平面があります。水面に映った景色のようなものです。
 たとえば、男女差別反対の娘に対し、「世の中そういうもんじゃないよ、うちだってお父さんはああやって働いてくれるし、お母さんだってお前を育てて、そうやって家族はできてんだよ」と母親が言ういう幸せ家族の側面です。いわば秩序の縦平面です。
 といっても、これは人間行為者の意志の平面ではありません。しかして、私は扱わない。ただし、そういう行為過程が社会にあるというのも事実であり、これを分析したいと思う社会学者を引き留めるものでもありません。
 
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全体システムの縦断平面の例示(その2)

2021-01-23 14:03:08 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。相変わらず暑くなったり寒くなったり。東京地方、今日は久しぶりに雨なんか降っちゃって、木や草はうれしいでしょう。これで雪かきのいる雪に変わらなきゃね。
 当方「巌窟王」数種類のおかげで心調が持ち直し。マンガや娯楽本を不要不急だとかいうのはだれだい?

 最近はニュースはとりわけコロナばかり。さすがにお勤めの方も気づくでしょう。
 川崎市は情報が詳しく発表されるのですが、住民の行動はそうとう暮れ並みに戻ってきたようです。に、しちゃあ数はそこまで減らないのは、限界を超えてしまったので、自宅療養者が家族や住まいの老人ホームに感染を増やしているため。自宅療養なんて、去年のクルーズ船と一緒でウイルスの培養器ですよ。
 これで医療が崩壊してないとかって、そらタメにする「強弁」てもんだ。「何で死んでも死ぬのは一緒」のたぐいの言は、医療の放棄です。
 ま、半分あきらめてるわたし。
 
 さて、今週はセンター試験がありまして、相変わらずの無意味な問題ばかり。文部省の奴らの存在には、99%あきらめてますが、こんな設問に何の意味があるんだとつるし上げてやりたいよ。ほんとに取り返せない青春の無駄。この設問のくだらなさがわかるほど勉強してるやつが他にいないのが悔しい。ただの学者の趣味に踊らされているだけ。厚生省が医者に踊らされるのと同じだね。
 
 いったっけ? 私の学部の大学は東京教育大学と言って、東工大(旧制高等工業出)や一橋(旧制高等商業出)と同じに、旧制高専(高等師範出)までで一通り専門の終わった生徒相手のその上の専門大学だった名残りがあって、自分の専門ができりゃ(数学なんてできなくたって)いれてくれたの。だからとうぜん、1年生から専門の勉強をするの。
 そういうもんだよ、人間の学問て。学校は必要なことを学ぶためにあんだよ。無用な知識はいらない。そのための中学までの義務教育だよ。アメリカとアフリカは違うと知っていれば、それ以上のことなど世界地図を見ればわかる。
 高校の子どもたちも「何やったらいいかわかんない」などと寝言を言ってないで、わかんなきゃわかるまでバイト先のコンビニでずっと働いてたらいいのさ。親は心配だけど、もともとそれを分からせないで勉強をやらせる親が悪い。
 と、まああきらめるしかない世界。
 
 ちょっと褒めましょうか。菅って、質問にちゃんと対応してる、といわれて聞いたら確かに対応、この時節に偉い。答えが適当なのは傀儡(かいらい)だからしょうがない、って褒めてないか。
 
 ま、本日のお題。先週の続き。
 ここんとこお役立ち情報がなくてよくないな。さらにオタク事項のなかでも飛び切りの項目としたら、一般の方には踏んだり蹴ったり。ただその辺は、心が豊かかどうかの影響で。
 
 さて、本日は「賞賛と優越の平面」。
 今言っている理論の前提は、個人の意志的な行為です。個人が意思的に何をすれば自由が解放へとつながるか、が、暗黙の、論の前提なのです。
 つまりここでは、個人の行為が、その時の焦点を当てている人間たちの行為へどうつながるかが問題で、その問題の焦点を賞賛と優越に置いたらどうなるか、という平面のことです。
 前回の「権力の平面」にあるリンクは、肉体力のリンクと正義認識のリンクと権力的将来の知識のリンクと感情のリングです。これはどうやって分かれているかというと、直接的なリンク、社会に背景としていきわたっているリンク、将来の期待としてのリンク、そして内面的なリンク、というようになっています。
 いってみれば、動こうとする行為者と、その背景と、行為後への予想、そして行為者の内面、というもの。
 このレベルを賞賛と優越に与えますと、次のようになります。
 つまり、本来賞賛と優越は権力を経過しますが、目に見える、あるいは意思として現象する現実を例にしましょう。
 たとえば、ある福祉的なボランティアは、彼の属する団体のなかでその構成員の賞賛と優越を受けて具体的行為をする。
 もちろんその行為は、その時代のその社会のメディアで、望ましいともされている。
 ついで、行為選択の段階で、特定の志向は自分の賞賛と優越につながるに違いない、と知識上思っている。 
 さらには、そもそも彼は幼少のみぎりから、そういう心性を持つように育てられてきた。
 こんな例です。
 
 というわけで、
 第1に、権力平面と同様に、直接的に、対面的賞賛のリンク。
 第2に、社会にいきわたっている、賞賛と優越のリンク。
 第3に、将来期待として、賞賛と優越の獲得の知識のリンク
 第4に、内面的に、超自我的賞賛のリング
 
 と、これが2番目の平面の例示です。
 この賞賛と優越の平面は、権力の平面と交わります。
 およそ人間の全体行為から無理やり引きはがした平面ですから、どこかで全体性への通路がなければいけません。この事情について「交わる」と表現するわけです。
 
 次は、とする前に、項目を変えます。

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全体システムの縦断平面の例示

2021-01-16 16:07:15 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、1日おきに暑く(?)なったり寒くなったり。今日は「暑く」の日でうれしい。外は枯れ野だけれど、今だけと思えばそれもよし。草がぺしゃんこで歩きやすい。
 それでも植え込み(生垣)の下なんかに雑草が黄色く咲いてたりします。木の根元は温かいのかねえ。ひどい風は吹かなそうだけど。
 窓からどっかで「パフ PUFF」の縦笛(リコーダー)が倦まず(うまず)にもう1時間くらい聞こえます。
 パフの縦笛は過去何回も記憶がありますが、小学3年生の課題? しかしこんなに長くえらいもんだ、わたしゃ到底できない、と思ってよく聞くと、おばさんの叱咤の声が。なんだよ、やらされてんのか。これじゃ偉い人にはなれないな。
 
 ところで、2回前の寒い日はこの辺もみぞれで、できた水たまりで(ノラ)猫が水を飲んでました。自分では遠い景色は見えませんが、家人に教えてもらって。
 と思って考えるに、この辺じゃ水飲めるとこなんてないぞ。野良猫はそこそこいるけど、あれらはどこで水を飲んでるのかしら。時々食べ物をあげてる人がいるけど、ちゃんと水をあげてるのかなあ、と少し心配。まあ猫好きの人にはそんなの当然なんだろうね。
 私も嫌いじゃないのでネット動画とか見るのですが、あれひどいね、コメントが。
 無理やり「かわいい」「いやされる」とか思わせるようなコメントつけて、まず半分はかわいそうな動画だよね。ペットの身にもなってみろよ、と思うぞ。
 で私など、コメント読むだけにしておくのです。
  
 さて、ニュースは手遅れのコロナ。 
「大江戸線運転士の集団感染、「盲点」だった共用洗面所の蛇口」(読売新聞オンライン)
洗面所の蛇口から2,30人に移ったんだって。
 お前、常識ってもんないだろ、と思いましたが、二日後
「これについて二木氏(昭和大の二木芳人客員教授(感染症学))は、「ここから三十何人に一気に広がるのは考えがたい気がするんです」と見解をコメントした。」(スポニチ)
 そうだろ? 当たり前。
 まったく。保健所の医者って、まともなのはごく少数。それより責任取れよ、根拠もないヨタのおかげで心配性のおばさんたちが脱毛して学校教師がさらに消毒作業に精を出さなきゃならない。遊びじゃないんだぞ。
 
 などと、今年になっても体調(心調)が悪い。
 ここは気晴らしが回り道のようでも近道、と、いつものモンテクリスト拍、じゃなくて、子ども用・講談社「巌窟王」を借りてきました。お目当ては挿絵。かっこいいんだ。
 のつもりが、1961年版の挿絵は池田一雄、ってポプラ社のアルセーヌルパン全集の人。えええ、まいったなあ、こんな優男じゃズッコケだよ、予約取り寄せだから知らなかった。
 本物はさあ、 梁川剛一、1950年版。これも知らなかったら、函館の高田屋嘉兵衛像を作った人だって。って知らないか。まあいいや。
 翻訳の文章なんてさあ、実は子供にはわからないと思うぞ。子供って文章を超えて想像してるからね、どんなんだってそうは変わらない。しかし、挿絵は決定的だと思うぞ、それで創造の道筋ができてしまう。子どもの本の挿絵は大事にしてほしいものだ。
 というわけで、まだ古書店にあるうちに買おうかなあ。。。
 とは思うけど、せっかく入手しても私もそんなに生きないからねえ、、、
 
 じゃあ本題。
 去年の秋は「上位と下位の視点の接続法」と題しまして、縦断平面を本来のシステムから取り外す手法について述べたところですが、じゃあ、この縦断平面はどういうものになるのか、と。
 例は、先週のトランプ派の議会襲撃。
 これはどういうものだったかというと、支配者でなくなった、しかしまだ権力者である人間の言を都合よく我がものとすることにより、自分にとっての支配権力の巣を叩き壊さんとする社会事象です。運動と呼ぶにはアピールが不明確なので、「事象」くらいね。
 これは、権力は確かに階梯をもつものだけれど、しかし縦断法にとっては同一平面の闘争です。そこでは肉体的武力の戦いとなるわけです。
 これがシステムの権力的縦断平面のうち、肉体的リンクです。
 この権力平面の上には、肉体力のリンクと正義認識のリンクと権力的将来の知識のリンクと感情のリングがあります(この名前、リンクがいいかリングがいいかと思案中)。
 一番のポイントはこの縦断平面には「(政治)思想」はない、ということです。襲撃グループが何を思っていようと、ここでは関係がない。トランプ派だろうがアナキストグループだろうが、この時点では問題ではない。
 ついで、ここは抽象次元であり、この一瞬には、時間もない。それゆえシステムもないのです。(リンク間には継起の順番はあります。そのうち述べます。)
 といって、縦断平面論の真骨頂はそこにあるのではなく、時間を無視し、システムを無視し、すべての社会構成員がこれに参加しうるところにあるのです。これは現実の説明ではなく、規定性の説明なのです。この場面から社会構成員を分化させるのは、行為共同性です。
 システムと縦断平面との接続は表立っては行為共同性が行う(本質的には事実認知)。行為共同性の規定性は階層的横断平面が行います。
 というわけで、長い間世間にあり続け、今も潜在的にあり、若人の「理論家」がそれに手に染まらずにはおれない「対権力闘争論」では、(長いね) ゲバルトすれば勝利するとか、思想的勝利が大切とか、団結をすれば勝利するとか、ほんとに子供じみた言い分が説かれるわけですが、そんなものは、このシステムにかかわらない範囲での権力的縦断平面の一部を拡大したものに過ぎないのです。そんなもので言い争う「理論家」たち。
 あまりにも幼稚。
 
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フォイエルバッハ・テーゼへの修正案件

2021-01-09 11:29:45 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。お寒うございます。といっても南向きマンションで40年も暮らしているので寒いレベルが違うでしょうが。今時分なら日が射すので窓際はシャツ姿でも平気。
 もちろん東京地方は今が一番葉がすっかり落ちた枯れ木が多いのですが、中にエリカの花が咲いてたりして。暮から咲いてるのでもう散るかな、と思いましたら、さらに隆盛にピンクの花が咲いています。さすがに荒地ヒース代表の花と感心。
 
 さて、世間は、政府のお先棒担ぎの医者以外の人間の目には、コロナが急増。これを見て「減ってる」と発言できる御用医者の神経がわからない(今日のネット)。
 まあ、飲食店夜8時終いとか、どれほど役に立つか知りませんが、世間がワーワー騒いでようやく「しょうがねえなあ、飲み会減らすか」と思うあんちゃんや(クソ)じじいばかりなので、それもしょうがない。ともかく、12月「自粛」とは違い、ニュースにはなってますし。まあ、高止まりでワクチン期待が政府の淡い希望でしょう。
 
 ところで、
 「18~59歳の人からワクチン接種。「高齢者は後」のインドネシア、背景は?(新型コロナ)」( ハフポスト日本版)なんていうニュースもあって。
 日本でも、若人から受けさせたほうがいい、という医者もいるようです。年寄りはワクチンを受けてもどうせ症状が軽くなるだけで罹るのは変わらないから、という理由。
 医者というのは専門家面してても社会のことは何もわからない。若い奴だって「軽く罹る」のは人数換算すれば山のようにいるのさ。そして、軽く罹っている若い奴が率先してウイルスを町中に広めるのだよ、自分じゃ気づかないように自分をだまして。だれが年寄が広めるものか。まあ相対的な話だけどね。
 ほんと、ワクチン接種が若人段階になったら、患者数がまたわっと増えると思うぞ。
 
 ま、今となってはつまんない話。もう遅いし。
 
 トランプ派が議会に突っ込んだって。やるじゃん、アメリカも。こういう反米者たちが増えていることが浮き彫りになって、心ある政治学者らは驚いているだろうね。やはり、現実行動で「見せて」貰うと、頭が悪くとも理論が進展するでしょう。
 ま、わたしも安心しました。こういう反米行動の生起は理屈だからね。
 社会は権力を引き連れて変わるのです。
 
 さて、本日は左翼論壇もお正月休み。って、そんなもんありうるのかねえ、、
 ともかく本日もオタク論議。
 ご存じ「人間的本質は、その現実性においては社会的諸関係の総体である。」テーゼ。
 
 ま、そういう本質的言辞を云々したいわけではないのですが、世の中には自分で考えもせず権威ある者の言を現実にあてはめる人間がほとんどである。
 というわけで、このテーゼの修正。
 「人間の現実態は、彼ないし彼女の個体的世界環境関係の総体である。」
 
 人間の行為は彼の将来イメージによって決定される、というのは隈理論の根源です。ところで、この将来イメージは個別人間有機体総体の問題ですから、それは社会関係からの影響だけでできているわけではない。家の中で「あれが壊れた」「またこれが壊れた」「といって直すにはこれだけの障壁がある」。そんなものは「社会関係」ではありません。しかし、それも個体のウツを生起させる。もっと分かりやすい例にすれば、「作物が生るか、日照りで枯れるか」。そんな人間個体の世界環境が、社会関係内の個人の行為を左右するわけです。 
 こうした社会内の人間によるわけではない個体の「世界」からの圧力によって、将来はいくらでも閉塞的になります。マルクスも晩年には自分にかこつけて知った修正項目でしょう。
 端的に言えば、ウツだと人間は、人間の解放理論など考えたくもない。
 もちろん、社会的にはフォイエルバッハテーゼそのままでよいのです。誰も個的個人のことなど考えて社会科学をするわけではありませんから。なんでもわかりやすいのがよい。ただそれは必ずしも自分の現実に適合するわけではないのは、すべての「社会的」テーゼの宿命です。自分で言っといてなんですが、皆様も「社会学的に正しいテーゼに変えよう」などと思わないよう。無意味な努力です。
 
  さてさて、本日のお役立ち情報。  
  人間の生の本質は、死ぬ1分前にある。
  自分の一生にほんとに満足か不満足か、それは死ぬ直前の生きている社会交渉、あるいは相互関係にある。それが死の将来イメージを構成する、あるいは構成し直す。普段どう悟っているか、の問題ではない。ここで再構成が入る。
  悔いがあるかないか、それは念のために累積を重ねておくのがよい。ところで、その累積の到達点を背負った、死ぬ直前の相互行為が彼ないし彼女の、生きた満足となる、べきである。これによって人間は、生き生きと死ねるのであり、そうやって死ねた人間は、すなわち、良く活きた者、幸せ者である。
  ポイントは、そうした「これまでの満足」と「今の充実」です。この2者が必要。
  わかるかなあ、、、
  端的に「1分」といいましたが、喧嘩をする1分前の話じゃないですけどね。喧嘩をしようという、その時点の1分前のことです、細かいですがお間違えのなきよう。
  そうすると現在の充実が自分の将来のイメージに投影され、良く活きている者、「よしやるぞ」といった者となるわけです。
  なんだ「喧嘩」って、って、ま「議会突入」でもいいや。

 次回作品は二校に入りました。もう目がプリントを見るのもやっと。行に合わせて首を振る。ほんと時間を大切にしなきゃ。皆様は、あまりスマホを見ないようにね。

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オカルト(その12;「無」の2形態)

2021-01-01 17:14:05 | オカルト(途中から)
 明けましておめでとうございます。
 東京地方の正月は、操業休止と乾いた空気で、日の出過ぎても青空に日射しが眩しいほど。
 今日は初もうでに近所の神社に行きましたら、おやおや白梅がほころんで。蝋梅なんか一輪や二輪ではなく。新春ですね。ところで、蝋梅はやたら分厚い葉が残っていて、なんでも温暖化の影響とか。去年はきれいに落ちてたのですが。
 
 さて皆様、今年はいい子はおうちで? 
 2,3日前知りましたら、東京人口、1400万人だって。15年前は1250万だったよ。日本の人口は減ってるのに東京都だけさらにさらに増えて、東京集中も口先だけじゃなく、根本的に国家政策を見直したほうがいいんじゃないのかね。
 まあ、それはいいとして、東京には田舎のある若人がたくさんいるというわけでしょう。 若人は関係ないでしょうが、もう正月も症状悪化でパニックになっている家がたくさんあるようで。だからさ、他人事じゃないって。なかなか家族関係というのは大変です。
 うちも今年はお客さん無し。まあそれも仕方がない。
 
 昨日は食器洗い中、紅白でふと振り向いてテレビの前に行った(前に行かないと見えない19インチ)相手が、やっぱ古いんだね、坂本冬美とさだまさし。それ過ぎたらほとんど知らないんで、風呂に入って寝てしまいました。
 それにしてもさだが太って。なんだいありゃ。歌詞はいい歌だったけどね。
 必死だったら太るはずもない、しかし、必死の歌詞しか頭に浮かばない、とりつかれた人間の悲しさだね、谷川俊太郎のように。
 その点、坂本冬美はシリアスな歌詞も自家薬籠中。ほどほどに生きてる姿が見えて、誠実でうれしいよ。

 で、本題、正月恒例のオカルトでございます。
 今まで、純粋宇宙を無とすれば、星のある宇宙は、「無A」が破れた際の、エネルギーの体系であることが知れました。「物質」という名のエネルギーの下で、「広さ」も生じ「時間」も生ずる。
 と同時に、「無B」は、このエネルギー形態に引きずられて、個別化する。これがいわゆる生命でした。
 この生命の特徴に個別性や時間があることも知れましたが、ここで「広さ」あるいは「距離」について言っていませんでした。
 普通に暮らしていて悟るのは、同じ空間にだけ限れば、それは二人で満たされている空間。
距離的に何メートル離れていてもそれは同じ。
 ということは、自分の、行為主体の、空間を分断しているのは、目、あるいはそれを含む触感覚。そうした、個別身体的感覚、これが諸悪の根源ではないかと。これは元をただせば「物質」の存在形態なのでどうしようもありませんが、なにもわれわれ人間は、「孤独」である必要はないのだ、ということです。
 いやそれをいえば、世の中で「労苦」と言われるものは、自分への関心に限れば、身体への刺激のせい、「物質」性のせいなので、物質性がなくなれば何ほどのこともないわけです。
 もちろん触感覚や身体への抵抗がないと人間生きていけないし、諸生物も同様だろうと思うのですが、そうした身にまとう生物の諸特性は、幸せを疎外している。
 「有」の存在の原罪とでもいうべきものであります。

 という付言をいたしまして、オカルト問題で残るのは、この「無A」と「無B」の合理的統一と、霊の行方、だけだね、たぶん。なぜ物質と生命とは同時に生まれたか、また、生まれた世界の中を占める霊は時間の中でどう消えるかということです。
 
 そんなもん分かるわけないって? それは違う。人間のわかり方など1通りしかないのだから、その合理性を「ウソだ」といわれても、他にありえなければそれが正しい。何百万年経とうと、それが人間の持てる唯一の真理。もっとも科学ではありませんが。
 
 さて新年です。今年の予定は次(々)回作の草稿化。
 それよりも神様がいるのなら希望があるのですがねえ。なに平凡な、皆様と一緒の希望です。
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