リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

文字どおり断片

2018-07-28 16:55:57 | 断片
 こんにちは。東京地方はこの2、3日、炎暑が途切れました。さっそくヤブ蚊が家の中へ。暑いのも蚊に悩まされないだけよいのですが。涼しいといっても今日は台風で、外は横殴りの雨が降っています。私は午前中に買い物を済ませたので、涼しいほうが良いですが。夏休みの人は大変ですね、昔子供が小さいうちは私はいつも7月末の土日を旅行日に狙ってましたが、最近はいつも雨です。(隅田川の花火をテレビで見るので分かります。今年は早々に、明日に延期。)
 
 さて、ニュース。
 「厚生労働省は26日までに、生活保護世帯での熱中症予防のため、要件を満たせばエアコン購入費用(上限5万円)の支給を認めることを決めた。」(共同)
 実は今日はここでキャンペーン張ろうかと思ってたのですが、厚労省、まあやるじゃないか。ほんと都会の窓の外が隣の家の壁の安アパートでこの炎暑じゃあ、年寄り等は死んじゃうぜ。クーラー死ぬまで買えないと思って生きていくのも嫌なものでしょう。
 
 その2。
 「福井県福井市内のペットショップが、子犬や子猫を店頭のショーケースに並べる生体展示販売の中止を決断した。命の「売れ残り」などが生じやすい手法を見直し、飼育放棄につながりやすい衝動的な購入を減らす。」(福井新聞)。偉いじゃないか。『バウワウ運動公園店』。名前を広めてあげよう。いくら保護イヌ・ネコを貰ってやっても、元栓が開けっ放しじゃほんと自己満足。生命を商売にするのはやめろといいたいところですが、決断に免じて褒めておきます。
 
 さて早々に本日の役に立つブログ。
 娘(といっても大人)に、ゼブラ茄子・青茄子というものを貰いました。私など保守反動ですので「え~~」と思いましたが、家人が料理したのを食べると、なかなかどうして。宣伝どおりトロっとした味。野菜として存在価値があります。高いけど大きいから、まあ普通の茄子の5割増しかな。筋がなくなって、アボカドを煮るとこうなるのでは、という感じ。女性の方にはお奨めです。
 ただ、漬物や、茄子の丸焼きにはしないほうがいいので、たくさん買うのはどうかと思われ。同じ理由で麻婆茄子や茄子カレーも存在感がなくなるのではないかしら(P.S.やってみました。想像通りです。べつにまずくはありませんが、なんのために茄子があるかわからなくなります。まあ、「旨み」という脂分を吸いますからまずくはありません)。極端に言えばそれだけ食べるのがよいです。
 
 というわけで駆けるように書いたのは、次回作品の構想でちょっと悩みが。
 次回作品、マルクスの誤りを大々的に書くしかないのですが、そんなものはアナキストにしかウケない、ところでアナキストなど日本にはいないも同然、それどころか、そっち方面の本を出してくれる出版社は全てマルクスに好意的なのだから、そもそも出版できないかもしれない。元々は出版しない気でしたが、こんなに根源的にマルキズムに対するアナキズムの優位を明らかにした(する)人間は過去いないのだから、本にしとくのが未来の人民のためではある。
 、、、う~~ん、、、というわけで、なかなか骨組みの(=主張のもっていき方の)結論がでない。
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方法としての弁証法・応用の部

2018-07-21 12:39:55 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。連日クソ暑いですねえ。先が見えないのがつらい。我慢のしがいがない。
 夏休みでもこう暑くちゃあたいへんでしょうね。わたし的には、映画は食指が動かない。あるときは見たいのがたくさんあるんだけどね、アクション系。
 他人にはこんなのがお奨め、林明子原画展。1,000円。コンビニ前売り700円。ちと高い、がオリンピックほどじゃない、開会式30万円。ゼニ勘定で埋もれた政府。銀座松屋で来週いっぱい。
 わたしは、冷房の家で絵本を見るのが悪くないかな。ただ、図書館往復が暑いんだよね。
 ところで済んだ話ですが、お盆いつまで? と聞かれて何の気なしに「16日まで」と言ってから、あれ、うち(東京)の送り火は爺いが生きてたときは15日にやってたよな、と思い返しネットを見たら、例によってコピペの大群。というより大軍。コピペによると東京は7月16日に送り火をするそうです、ってどこの東京だよ。納得いかずに「東京年中行事」明治44年という本を借りてきました。送り火は7月15日と書いてある。そうだよなあ。
 まあいつやったっていいんだけど、あのコピペ軍は大暴力だね。
 寿司もいつのまにか1貫は1っ個になっちまったよ。これも江戸時代の本には1貫2個と書いてあるのに。
 
 さてニュース。世間では、タコが高いそうです。タコ焼き屋さん困ってるって。日本人以外、気味悪がって食べなかったタコが、西洋でも米国でも、多量に輸入消費されだしたんだそうで。マグロといいサンマといいイカといい、日本も自分で自分の首を絞めてますな。余計なお世話で「うまいぞ」とか教えて、自分じゃ食えなくなる。何が「日本料理は世界遺産」か。
 美味しいもんは他人には隠す。どんな幼児だって知ってるのにね。
 
 観光万歳で富士山も満員、京都に至ってはもうはみ出している。誰が笑ってるのかねえ。それでカジノだとか。菅という売国奴は何をアメリカに借りてるんだね。自民党議員、「カジノが必要なのはもうわかりきってる」などとぶってたぜ。わからねえよ、あほんだら。ほんと不快。
 
 トランプの真似して最高裁判事にアベが送り込んだ山口厚。きっちり反動判決をしてくれましたね。君が代不起立元教員逆転敗訴。いまどきは、就職時にも思想の自由条項が有効だという基本を知らないのかねえ、企業だって厚労省の言うことを表面上は守ってるぜ。当然、タテマエだけど。しかし、なんでネット赤旗(の見出し)は問題にしないんだろう。党派が違うのかねえ。
 
 等々。不愉快なところ、『小池知事は6日の定例会見で「ブロック塀の代わりに日本の木材を使うのも1つの方法ではないか」と述べ』(the page)都立では多摩産材を使うとのこと。おお偉いじゃん、できるかは別にして、口先でブツだけでも偉い。今あるあのお山の杉の木どうにかせんと。ほっといたらどうにもならない。
 
 ガラッと変わって、本題です。
 弁証法は、1冊の論で一つの正反合形式である必然性はありません。
 以前に申し上げましたように、弁証法は論理の提出形式ですから、その始点は、理論家の主題に合わせた点さえつかんでいれば、対象のどこをとってもよいのです。
 あるバラバラであるかのごとき探求対象について、しかし、これらはまとめて提出しないと理解ができない、というものはありますね。けれどもそれは二つに、あるいは三つに分割してまとめても提出しうるのです。
 その分割された下位のまとまりについて弁証法を使用する。分割の固まり同士の渡り廊下は、「そして」という接続詞だけ、それでよい。
 だって弁証法はただの認識手段だもの。なんの魔術でも崇拝儀式でもないのだよ。「そして」が入ったって、「そして」が入る理由がわかればなんの問題もない。
 つまり、ある1テーマについて、正反合、その他の弁証法形式をとるのは当然ですね、対象を分析しようなんて思わないマルキストはそこまでの思考で終わりです。ああ弁証法は偉い、ヘーゲルは偉い、マルクス様はもっと偉い。
 しかし、社会科学とはそれでは終われない。彼の扱う対象は、すでに自称理論家の手垢にまみれた社会現象です。このとき、彼がなすべき既存の「理論」への批判と、彼がなすべき社会現象の分析とは次元が違う。ここで、彼の批判と彼の分析との間を取り持つものは単なる「そして」であり、彼の独自分析は弁証法で明らかにされる。そういうことです。当たり前? なにいってやんでえ。
 たとえば、「マルクスはこうこう間違っている。そして、本当はこうだ」 というトータルの叙述の場合、前段と後段は「そして」でつながり、新たな解明は弁証法が押さえる。
 あるいは「この場合本当はこうだ。そして次に、この部分の本当はこうだ」 という叙述の場合、この二つの「本当」のそれぞれには弁証法があたり、この二つの「本当」が「そして」でつながれる。
 たとえば資本論のプラン。半分で終わってますね。それはもとから一つにはまとまるはずもないものだけれども、二つの塊にすることはできる。そして前半と後半は「そして」でつながる。
 実際、創造的なマルクス主義経済学者によって、後半部分も、その限りで8分がたできてると思いますけどね。問題は、できたところでたいしたことない、ってだけで。資本論が凡百より優れている点はレトリックだからね。わたしなんざ、信者の誰かがきれいなレトリックで後半プランを一つにまとめりゃいいのに、って思いますけどね。ダメなんでしょうね、畏れ多くて。
  
 とまあこれが、いままで古今東西見たこともない、しかし、バカでなければ分かる弁証法の使い方。もちろん今まで世界中で弁証法を云々してきた奴の99%はバカで、残りの1%は分かってても表現手段がなくて消えていった組織下層マルクス主義者諸氏というわけです。ただの良心的理論者のことですね。マルキストは、教条を超える「理論者」なる存在は分派活動として死刑の対象ですから何の表現もできなくて終わるわけです。はい、これ、批判いつでも受け付けますよ。言えるもんなら言ってみろよ。言えやしまい。おまえ自分で何やってきたんだ? 恥ずかしいだろ? 恥ずかしいって言えよ。
 いや失礼、下品だね。つい本当のことを。 
 まあバカなりに生き残っている奴も日本で数人しかいないから相手にしても始まらないし。そもそもこういう悪罵の対象者は、いまじゃヨイヨイや死んだ人間だけですな。
 
 というわけで、創造的な社会学徒である若人の皆様。研究対象である世界は、もちろん複合的なものであります。そうそう本質的な始元など見つかるわけもない。資本論のていたらくでわかるでしょ。ただ、だからといって絶望する必要もない。資本論の名声でわかりますよね。世の中、自分の身の丈にあったことをすればよろしい、
 しかし、ついで、自分の確立した理論に不十分な点があれば、その地点からもう一度新しい設定で前進することができる。
 まあ若いからその地点は遠くとも、とりあえず、「批判」部分なりの付加部分(こっちはただの形式論理でもよい。要は読んだ人が分かればよい)と「創造部分」とを分ける、ということを頭に置くことをお勧めします。こによってやはり弁証法は、あなたの叙述を支える。
 この指摘は絶対、日本で初めてだから。
 
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歴史学と社会学の間の社会科学上の乖離

2018-07-14 14:14:54 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。酷暑ですね。週明けから蝉が鳴き始めました。蝉も暑いのに気がついたんでしょうけど、これでは7月中に生まれきっちゃわないかしら。今年の旧盆は蝉なしかね。
 当方ようやくひと段落。ってこの前言った? じゃ、二段落。先週はまたバイトのオーダーを受けたのですが、まだ平日の仕事がたくさんあるのでお断りしてしまいました。不義理が続いてますが、前回はお断りした2日後にあれだったので、無理なことはやめたほうがよい、と信じざるを得ません。

 さて、災害は大小問わず常に悲しいことばかり。
 それにしてもタイの洞窟脱出は、まずはよかった。6、7割は死ぬんじゃないかと思ってましたが、後から聞けば用意周到。一人亡くなったとき、「われわれはプロだ」といってましたが、精神・実力に加えてチーム力もプロでした。脱帽。脱帽ったってわたしゃ潜水関係者ではありませんが、人生的に脱帽。プロな人生はかっこいい。

 というわけで本日は、「面白くないよ」と予告の「歴史学方法論選択の必然性」、あるいは「学者の総転向の根拠」。または、「因果連関と現状分析」、あるいは「前衛がただの祭囃子になる根拠」。わたしも二足のわらじでもプロじゃけん。

【前提の1】
 歴史家にとって、昨日と今日、私やあなたが生きてきたことは、歴史ではない。
 歴史家は、自己の生理的必要、ないし価値観に沿って、自己の明日のために「重要な」過去の事象を見つけ、再構成する。
 つまり、自己の就職活動に有用な、指導教授の覚えのいい博士論文を書くために、あるいはもしかすると人民が幸せになるために有用であると信ずる行為を導くために、いずれにせよ、歴史家自身の意味に沿って、「必要で」「重要な」事象を選択して並び替える。
 もちろんこれは当たり前なのであって、わざわざ当ブログでお知らせするほどのことではありません。何を言いたいかといえば、自称客観的な価値評価者は、全て当該時代の当該社会の価値観に沿ってしか、評価を行い得ない、ということの確認です。

【前提の2】
 さて、では現時代の現社会にとっての歴史というものは、どう動くか。
 これは知らないとわからないので難しい。現在にとって歴史というものは、虐げられた者たちが社会の行為主体として認められていく過程です。いわゆる民主社会に生きる先進資本国人にとって、過去と現在の違いは奴隷から農奴を通って労働者や消費者や国民となっていく過程です。
 この前社会の最下層の人間以下の何かが、次社会の「人間」へとなっていく過程です。
 人間以下がどうやって人間になれるのか、それは人間以下の命を懸けた運動が、支配階級をおののかさせ譲歩させてゆく過程です。最下層と上層部との行為共同性の差を詰めて、自己の存在を考慮させていく、この過程の総体が歴史の進歩です。
 
【その結果の1】
 しかしてこの歴史の自由の進歩は、この慮外の徒と行為共同性を持たない人びと、すなわちそれまでの「国民」あるいは「歴史家」には理解できない、ということです。その行為は、当時の国民や発言権のある「歴史家」にとっては国民外の慮外の徒の無法で我儘な行為に過ぎない。
 
【その結果の2】
 「だから」歴史の本体である一方の行為主体たる「われわれ」の営為は、その現在的現実においては、ただ自分で顧みるしかない。
 慮外の徒の被支配人民は、自己の行為になんの賞賛と優越もなく、変革の運動に取り組まねばならない。
 これを助けるものがあるとすれば、それは第1に、宗教であり、第2には、社会学的な因果連関の法則の提示の「引き受け」によるしかない。
 まあ、現実の歴史は、一方では、人民を取り巻く運動の(観念上の)組織が持つ賞賛と、(抽象的貧乏ではなく)自分と家族の飢えと飢えの恐れが引き金なわけではあります。そして、他方、武力的支配階級をどこまで引くか、ということは、支配階級は別に負けているわけではなく「主体的」であり続けますから、この両者にとって、行為論的運動のほかに経済的契機が必要というわけです。
 このしばりが唯物史観的状況、先進諸国で、周りの途上国が追いついてくるのを待っている状況の本質です。 
 それ以後に、先進資本主義国の下層内部の(人数の多い)上層部分に飢餓的状況が発生する。ここで生ずる行為共同性の破綻。それが世界資本主義の終焉です。
 
 というわけで前に戻ります。歴史学は時代に人間と認められた人間の中での「大」衆と進むことによって神の口を手に入れる。彼は「学問」の名において、自己の趣味や主義を世間に広めることができる。社会学徒にいわせると笑止ですが。
 現在を未来へとつなぐ自由への行為は、世の「良識ある」学者や評論家によっては、決して評価されない。原理的にそうだ、ということが、今日の本題の第1です。
 もちろん、前衛という名で他人を鼓舞しようと思っている人々はその鼓舞される人びとと同じ社会の人間ですから、慮外の民のことなど考えるはずもない。(つまり、歴史評論家・前衛が知ったかぶりで評価できるのは、人民大衆がすでに評価し終わっている事象だけだ、といっております)
 しかし、本当に社会の歴史を切り開くその一歩は、誰からも省みられることもなく叩き潰される慮外の民が刻むものなのです。
 
 とはいえ、「何だ、人間はみんながバカか」といえばそうではない。人間には科学というものがある。因果連関の知識の束のことです。それが今日の本題の第2です。
 「理不尽な」「一部の『階級』ともいいがたい奴らの」「我儘な」「不法行為」を、歴史の中で評価できるのは、「イデオロギー」で評価しない「プチブル社会学者(徒)」だけです。彼らは表面上褒めもしないが怒りもしない。科学者(徒)だもの。彼らにできることは誰からも顧みられることなく敗れざるを得ない者を悲しむことだけです。科学者(徒)だもの。

 自分が社会学徒だからってそんな勝手なことを言うな?
 それより、左翼歴史学徒は自らの一派を恥じてください。
 怒涛のような計画経済国家の破滅に際して、自称「人民的」歴史学徒=学者の8割は、政治学者と共に、過去の自説にほっかむりしました。8割といいましたがこれは「9割」といったってよいのでは? 90年代のただの計画経済国家の崩壊でマルクス主義を放棄しなかった歴史学徒は、もう70歳過ぎていたヨイヨイだけでしょ。
 さてじゃあ、社会学者は? 
 誰も転向などしやしない、K氏は精神状態に不安があるとして(若干修正。45年前50歳の労働社会学者たちには名前は知られてませんがそこそこ左翼がいました、でも1990年、何をしてたか情報がない。もうみんな70歳だし。ま、そういうことです。10人の表明者の後ろには100人いるが、表明しない者は、その一把一からげの1人に過ぎない。)。歴史学はそれだけいいかげんだったのです。なにが「歴史科学」だ。社会学は成立当初から社会科学ですが。だから偉いわけではありませんが、少なくとも、論文上でイデオロギー操作を隠して「実証」なる手続きを取った結果を真理と言うにはたいそうな論理操作が必要で、普通は読めばすぐ気がつく。富永一派の所業のようなものです。
 あるいはそもそも社会学にマルキストがいたか、みたいな話を振られれば、いない分だけ普通並には頭がよかったんだ、と答えるだけですが。頭が水準以上を条件にすれば、私ほどの親マルキストは確かに他にいなかった。
 ま、ともかく、人民のために歴史学にいれこもうという見上げた気のある若人は、よくよく考えるように。
 
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豚塊肉の茹で時間について

2018-07-10 20:55:12 | その他
 お前、発狂したか、といわれそうですね。
 でも答え知ってます? 知らないでしょう。
 知らないのが何だといわれればそれまでですが。
 
 とりあえず次回も「埋め草」では、しょうもない野郎だということになるかと思い今日は火曜日ではありますが、隈のお料理教室。
 ちなみに今週定例土曜の予定は、、、ほら忘れた、すぐ書かないと忘れるんですねん。「歴史学方法論選択の必然性」。
 
 ま、ともかく。
 そこらのレシピブログでは、豚塊肉を茹でる時間が何時間とか、それぞれ勝手なことを言いたい放題。そんなに自分の意見を言いたいかねえ、って、てめえのことか。
 ともかく、誰かほんとのこと書けよ。
 ってことで書きます。
 
 1 角煮または豚バラ大根:豚バラを1時間半煮て、さらにどこかで1時間以上の放置状態。(それ以上)
 
 ま、こんなの普通ですね。圧力鍋のある高級アマチュアは当ブログの対象ではありません。
 普通とはいえ「3時間煮れ」ってのもザラですな。やるな、っていうんじゃなくて、初心者はどれだけすべきか、ということです。
 
 2 チャーシュー:肩ロース・ロース・モモ肉で、1時間煮て1時間以上の放置。
   これ以上いりません。これが豚肉タンパク質組織が崩壊する時間です。
   どう違うかというと、角煮では脂身をゼラチン質に変え、しかも箸でホロホロ崩れる、という場面が起きないといけません。1時間半ではホロホロはムリですが、年寄りでも歯茎で食べられるくらいにはなります。
   対して、チャーシューではホロホロ崩れたら食えません。そこで1時間です。もちろん歯茎では食えませんが、虫歯がいくらあっても食えるのが、火で1時間、さらに放置1時間です。
   ここに豚バラが入っていないのは、脂肪の加工には時間が足りないからです。脂っぽい。その意味では肩ロースも不満ですが、脂量が少ないのでそういうもんだと思うこともできます。っていうか、脂がいやなら、ロースかモモ肉にすべきです。
   
 これ以上は当ブログの関知するところではありません。
 が必要にして十分の知識と心得ます。

 ところでおまけですが倹約家のあなた。チャーシュー煮る時にしょうゆその他は不要ですぜ。初めに表面を焼いておけば、その焦げた自然香料で、あとは煮終わってしょうゆと砂糖をいれたビニール袋で半日漬ければオーケー。ここでみりんだとかいうのは間違い。薄まってうまかあない。(煮るときは、焼いた鍋で。一緒に煮るくず野菜もあったほうがよい) あと、肉以外原料ないので、「当日限り3割引」は臭いですぜ。
 さらにできればしょうゆは高いものを。1リットル200円のやつは、中身、塩ですぜ。普段使いにはしょうがないにしても。1リットル400円、お勧め。ちょっと使うだけだし。
 
 以上、ふらっと寄られたあなた、またどこかで会いますでしょうかしら。

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「コピペ:枝豆の茹で方」なる「食べ方」

2018-07-07 20:34:18 | その他
 なんだこの題。なにいってんだよお、ってすいません、今日もこの間の継続処理で忙しくて。
 なかなか世間というのも忙しいものです。20世紀イギリス階級構成者の知識を勉強しても世間では一歩も進めません。
 こんな折は埋め草で。

 というわけで、枝豆の茹で方は、コピペで、日本全国、
 塩は「ゆでる水に対して4%の塩加減」、1Lで40g、500ccで20g、20gとは粗塩で小さじ4杯、、、 と決まっております。

 が、コピペ種族の知らないことには、枝豆をどうやって食べるかの規定がない。
 それは、フライパンがテフロン加工か否かで「レシピ」情報がウソに変わるのと同じ。

 40歳越えた方々はここには来ない予定ですが、若い方も父ちゃん母ちゃんが同居してましたら考えてくださいませ。一般に枝豆ごときにそんな塩分はムダ。あるいは、怖い。そんなに塩分を摂って体に良いわけがない。
 「一般」以外とは、莢(さや)に口をつけずに、豆だけぷちぷち口に放り込む人。ま、どっちが一般かは知りませんが
 しかし、それじゃあ塩豆じゃないか? 
 そもそも塩豆がよいならまず莢から外して茹でて、箸でつまんででも食べたらよいではないか。すぐ煮え、塩も最低限使ってお好みの塩辛さが実現する。
 さて、それが日本の枝豆か?
 枝豆は鞘があっての食べ物であろう。といって、子供のぷちぷち遊びではなく、鞘の塩加減と豆の甘みの対比を楽しむもののはず。

 もちろんどうでもいいのですよ。誰が日本人だって、自分が日本人ならそれが日本人。上記はただのレトリック。自分には自信を持ちましょう。
 ではありますが、ここで「一般」のレシピを開陳。

 枝豆は莢の端を切ったり(中に茹で水を入れようと)しない。そもそも塩豆を食べようとは思わないのが良い。
 まず、塩小さじ半分で皮に揉みこむ。これはおまじない。いちおうそれでいいこともあるかもしれないので。
 次、そのまま茹でる。茹で時間はコピペだと4、5分だが、どうかねえ、いまどきの人には固いであろう。5、6分にしときたい。。
 5分半茹で、ガスを止め、30秒後湯を捨てよう。100度の湯は流しの(合成樹脂の)排水管に悪いとのことなので、流しのステンレスで冷やしながら捨てよう(私はまな板の上にザルを置いてゆっくりと流す)。
 さて、枝豆をザルに空けてから、そこに小さじ8分目ほどの塩を振りいれて、熱いので菜箸でよくかき混ぜる。これで15分後には塩味の不満がないはずである。
 まめに塩味がつかない? 当然である。塩味は皮から身を(歯で)出すときに必要なだけ感ずる。豆自体は甘いはずである。甘いから良い、と考えよう、それが日本料理の滋味というものである。
 結局、本日使った塩2.5+4=6.5g。そのほとんどは、皮と一緒に捨てられるのが正しい。

 お年寄りにはお勧めです。
 
 以上、隈のお料理教室。
 いつものことですが、ここはお料理ブログではありません。それではまたいつかご縁があれば。
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