リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

年末のご挨拶

2021-12-26 20:53:54 | その他
 こんにちは。もう暮れも目前。
 、、昨日聞いた? なんだ、もうお前は聞き飽きたぞ?
 昨日は7日後は大晦日だと思っててさあ。違うのね。土曜日はもう正月。
 というわけで年末のご挨拶をしなきゃと。今年は年賀状もないしね。
 
 その前にクリスマス。今日のクリスマスの本はマット・ヘイグ「クリスマスとよばれた男の子」、ネットで映画が宣伝されたから。
 いやあああ、、パス。やだ、こんなもん。前取り上げた(絵本でない)童話もこんなもんだったっけ。白人の文化は到底我慢できない。
 ネット情報的には映画は本よりましみたいだけど、まあそれで良ければ結構。こんなんでサンタはつらいサンタ稼業をやってるのかと思うと、同情しかない。わたしの人生はほんと幸せ。
 
 で、もう今年最後というわけで、清水寺の「今年の漢字」は「金」だって? 公募だって。わかんねえ。だれの案だよ。
 私の今年の字は「耐」でした。それで去年が「忍」で、結局、忍耐。冗談じゃないね。
 去年はコロナで、今年はそれより自治会の「クレーマー」的老害。標的はわたしじゃないけどね。許せん。
 ま、それも年末まで。来週は明るい寅年。あんがい寅年の知り合い多いんだよね。
 
 皆様におかれましては、不愉快なことはみんな忘れて、明るいお正月をお迎えくださいますよう。歴史は常に人民の見方です。
 と、まずは信じなければ、とクリスマスの本が言っております。もちろん、私はそういう状況を子供のころから圧倒的に得意としておりまして、それに同意します。
 
 
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「人間の尊厳」と「めいめいの一身上の問題」

2021-12-25 17:03:50 | その他
 こんにちは。もう暮れも目前。
 今年は平常勤務だと正月が土日でつぶれのようだけど、今日明日でそこそこ仕事が終わったような気分になれる職場もあるでしょうね。
 今日はコロナ前駆け込みのお客さん。2年ぶりのお客様で楽しく過ごさせていただきました。おつかれさまでした。人間がいちばん。
 
 ネットには、「クリスマスは恋人と過ごす」という価値観に辟易とする若者たち」(マネーポイントwweb)などという記事も。
 記者は正気かね。したかったら恋人とゆっくり過ごしたらよいがな、クリスマスなのに。そりゃ恋人が居なきゃしょうがないだけで、ハタでなにをウジウジいっているんだ。アホかいね。
 もちろんわたしに、クリスマスを女性と過ごした独身時代はありません。
 
 さて、本日の些細な情報。
 最近はマイタケも安くなって日常に使えるようになったので、油揚げと炊き込みご飯にしました、ら、この工場マイタケ、お醤油に負ける。
 若い人はご存じないでしょうが、本来マイタケというのは香りが強くてゴボウにも負けない。炒め物とかに少しでも使うと全部がマイタケになる。そのつもりでご飯にふつうにお醤油と酒で味付けしたら、なんのキノコか分からなくなってしまった。 
 昔の本シメジも今のブナシメジの味じゃないってね。マイタケも味が食べやすくなったとは思ったけど、ここまでとは気づかなかった。
 教訓、マイタケご飯は塩味・酒の薄味でどうぞ。ダシを入れたい方は、カツオの粉末より昆布のほうがよさげです。
 
 今日の本題は、ちょっと特殊、岩佐茂「人間の生と唯物史観」。
 まあ論文集で、その『生の倫理』という章。
 共同生活には倫理が必要だ、というわけで、岩佐氏が言うには、それには「戸坂潤の道徳論が注目されてよい」
「戸坂の言うような生活意識としての倫理を、生活の論理に基づいて形成していくことは重要であるといえよう。そのような生活倫理が、人間とその生の尊厳に立脚したものであることはいうまでもない」
 というわけで、岩佐氏、「人間とその生の尊厳」を倫理とするよう主張される。
 
 違うんだよなあ。戸坂が言ってるのは、道徳とは「人間めいめいの一身上の問題として持つ問題のことなのである」「批評における文学・道徳・および科学」。(この場合の道徳は社会道徳じゃなくて、個人の持つ倫理を指している。)
 戸坂のは「めいめいの」すなわち「個人の主体性を賭けた」事項のことなのだよ。
 かたや、岩佐が言うのは、一般論。倫理学の試験で解答用紙を埋めるためだけの言葉の羅列。皆さん、岩佐氏が具体的に何を言ってるか読み取れないでしょ? わたしには無理。そんな言葉だけのきれいごとは倫理ではない。
 たしかに戸坂もマルキストだから、結局「生活」に焦点を移すから、そう捉えたくもなるのは分かるけどね。しかし、本旨はそうではない。
 実際、人間にとっての根源的な倫理はその主体性にあり、その主体性の倫理を表現するなら一般的な、空に浮かんだ「生の尊厳」ではなく、他にありえずしかし自分は知る「自己の尊厳」なのです。誇りを捨てぬ自分のかけがえのなさ。児童期に形作られた行為規範の遂行が他者によって認められた時、人はそれを倫理となせる。
 そしてそこに、このブログ前回の「主体の原理的転轍力」があるのであります。
 
 解説です。
 そもそも自己の倫理、もっと分かりやすく言うと自己に根付いた価値判断というものの本体は、もちろん自己の覚える賞賛と優越です。
 ただもんだいは。優越や賞賛そのものにあるのではない、ということです。生きている間に満足したりストレス解消したりすることのおおもとも、賞賛や優越です。では、ただの満足も倫理もおんなじものか? 
 いいや資本主義社会でのそんな賞賛と優越それ自体は、単に裏切りや人殺しを作ることしかできない。
 それで人間は他者に自分を「誇れる」だろうか? いや誇れない。なぜなら他者はバカではないからです。裏切り者や人殺しは、その権力がなくなった瞬間、泥沼の底に沈む。人間の誇りは他者が投げかける目のうちにあるともいえますが、その目を受け止めるその原基は、行為主体の児童期の経験という自己の心の底にあるものなのです。これを自分ではぐくむことでもたらされるものこそ、自己の尊厳なのです。尊厳て「とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。」ね。

 ここで、「はぐくむ」とはどういうことか。
 価値は、主体が自己である限りにおいて、自己の中で累積され組み上がっていくのです。
 自分のある行為がA君を助ければ、その行為は認識において同時に、Bさんを助けるのです。またある行為は、死んだC先生を超えると同時に、外国の Herr Dをも越えるのです。

 「なにそれ? どうやってそんなことが起きるの?」
 そもそも戸坂が問題にしているのは「文学」なのです。こんなことは科学じゃないですからね。
 もっとも少し戸坂とはニュアンスが異なるでしょうが、この誇りの自分への組み入れを活性化するものが文学なのです。
 ニュアンスが異なるのは戸坂が生きたのが戦前の農村日本だから。彼は、本当のことを知っていても、その行為主体の存在を日本の世間に見積もることはできなかった。
 という、戸坂のようなエリートしか勝ち得なかった「一身上の問題」とは異なり、多数の庶民が自己の尊厳を作り上げうる先進国現代においては、小説、あるいは先輩、師たるものの感銘、その他、児童期の抑圧的親とは異なる人間存在からの情報により、人は「自己の尊厳」を高めて行けるのであり、行くはずであり、それを奨励すべきなのです。 
 今あげた小説の中の人々その他は、要するに、権力を持つけれども直接に行為主体の我と我が身にはその権力がかかわらない人々です。賞賛と優越は具体的個人と、権力ある(「権威のある」のほうがわかる?)他者たちが担う。
 このような、行為主体の意志を強力化させる認識の累積が個人において生ずるのです。
 そして、これを助けるものが文学です。ロシア革命を促進したもの、中国反乱を促進したものが小説だ、文学だ、という言説の根拠は、ここにあります。
 なのに、愚かな道徳学者や文部官僚は、「そのもとは倫理学説にある」と思うわけで、呆れたもんです。そうではない。そのもとは他者たる人間にあるのです。しかして、立派な先輩友人や師に恵まれぬ人間には、そのもとは人間を描く優れた小説にあるのです。

 とね。
 こんなことを過去どんな倫理学者がしゃべったであろうか。いいや誰もいない。戸坂氏の論は曲がっちゃったし。と、最近なかった自画自賛。
 最近は社会学者なんかと付きあってたからね、やっぱ私の生とは理論の次元が違う。
 褒めてるのやらけなしてるのやら。そりゃけなしてますが、それって、倫理学者を相対的に褒めているのか、そっちが不明、、
 
 (といってもさ、ほんとはあと一つ、過去誰も知らないことがあったんだよね。でさ、人が食器の洗い物中にしっかり考えたことが、キッチンスペースをでたとたん、いっぺんに壊されてしまった、テレビでやってた「ためしてがってん」、ポテサラで(水曜日)。
 ポテサラ好きでさ、ポーンと飛んじゃったよ。ばかやろう。しかもそこから話は長々と続き、思い出そうにも無理、絶望。)

 (注:ネットを見ると出てくる湯川和夫氏の論文注で戸坂の当該論文が「全集3」とありますが、違います、「全集4」です。いいですね、昔はおおらかで。今じゃ許してくれないこんな間違い、そりゃ探してなきゃ不愉快ではありますが、まあ本質的にどうでもいい。といってもアカデミストには引用のほうが本質なので(ここ重要)、若い方はお気を付けください。)


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主体の原理的転轍力

2021-12-18 16:08:53 | その他
 こんにちは。日本列島冬型の気圧配置、サッシ越しの日光にぬくぬくとする今日この頃。
 昨夜は強風が10m以上の勢いで吹いて、木の枯葉はほとんど落ちてしまいました。茶色い葉っぱでも夕方の赤い陽に当たればきれいだろう、と思ってましたが、夕方の散歩は寂しいからまあいいや。
 
 頃はそろそろ正月。子供が「正月に混むより、今のうちに挨拶に行く」というので慌ただしくお掃除。
 川崎市、それもいいかも、という状況で。 
 オミクロン株まずくて、米国帰国女性が翌日伝染したという「男性は、今月12日に川崎市の等々力陸上競技場で行われたサッカー天皇杯の準決勝の試合を見に行っていて、都は近くにいたおよそ80人の観客に地元の保健所を通じて連絡をとり検査を受けるよう呼びかけています。」(NHK)
 その競技場、電車路線が当家のお近くなんだよね。80人かよ、、、
 アメリカから帰ったら、まず自宅で3日くらい待てよ。ちぇ。
 まあ、そんなのはモラルじゃなくて性格だからしょうがないけどね。
 
 さて、本日は役に立つこともなく本題に突入。
 昭和史をやる人への本のお薦めが、橋本克彦「団塊の肖像」。
 もう関係者が70歳を過ぎて言葉を残すこともなくなってきた今日この頃、最後の「本当の」記録、ということで、おすすめというか、いつまでも残ってほしい (私は団塊ではありませんが)。
 で、感心したのが1行、「ヒトは10歳ぐらいまでに刷り込まれた心情が下意識に潜り込み」って、団塊の全共闘は子供の頃のテレビその他の正義の味方を行為していたという、それ自体はよくある経験知ですが。
 そこで、、この正義の味方論はそうではなくて、本当は、大方の親のいる子はそう教わる、と押さえないといけない。

 アリス曰く、「自分の言葉に嘘はつくまい
        ひとを裏切るまい」
        
 まあアリスは団塊ですが、ここに、主体的行為の祝福的原理がある。
 と同時に、前回言った紛争世代の「ありえない自己肯定感」という問題があります。
 ひとは、紛争を経た以上は自己否定出来ない心を抱えて生きていくしかない。
 モラリスト坂口安吾の「堕ちよ」の叫びは確かに歴史の場に行為主体を引きずり出したのですが、残念ながら行為主体はそこで愕然として留まらざるを得なかった (いや、今日の朝日新聞に平田オリザが堕落論を褒めてたもんで)、のがふつうの人間でしょう。
 で、とどまるのが何がおめでたい?
 つまりは、過去の人々の苦しみをすべて踏まえて現在があるのだ、つまりはヒトは自由に向かって歴史を高らかに歩んでいるのだ、ということです。
 ヒトは、私一人ではない、死んだ者も生き残った者も、解放へ向かって人の歴史を作ってゆく。これが祝福された道でなくて何だろうか?
 
 オカルトっぽい?
 そうなのね、滝沢克己に教えてもらったから。
 まあ結論はどうでも、この幼少期の刷り込みを問題にしないと、行為主体論が完結しないのね。
  ああ陽が落ちる、このくらいの時間が陽が赤くていいんだけどね、秋の日はつるべ落とし、、、
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仮称「解放行動の理論」中間報告

2021-12-11 16:12:33 | 「解放行動の原理」(旧「理論」)
 こんにちは。東京地方、暗い雨曇りの日が終わり、また冬の青空が戻ってきました、が、寒い。寒いといっても平年並みで、昔ならワイシャツにスーツ。
 前々回、みなみらんぼうの「コートにすみれを」が季節外れと書いたところですが、さっきgooのおすすめブログをみたら、「コートにすみれを」は、もともと”Violets for Your Furs.”というアメリカの12月の幸せ歌があったもよう。マンハッタンでは12月にすみれを売ってたんだとか。そのブログにはコルトレーンが作ったとかあったと思うけど(もう画面が消えてしまった)、ネット情報はフランク・シナトラの歌だって。
 って、だれもかれも知らないか。
 今日の朝日新聞のコラムでは、「タイムレコーダー ガチャンと押せば」なんて一くさりが載ってました。植木等という昔実在した喜劇役者の歌です。なんのことでしょう。
 自分の厚紙のカードを差し込むと、厚紙に押されてバネ仕掛けの数字印がタイプライターのように時刻数字を厚紙に打つんだよね。ま、これは昭和という時代。覚えてもいいかも。
 
 ついでの話題、喉の筋肉の体操のyoutune、松山千春を聞いて、お前、声高すぎだよと思いながら右端(の推薦メニュー)を見ると、なぜか「北風小僧の寒太郎」、歌が高橋優だって。高橋氏、ギブソンなギターを抱えてさわやかに歌っておりました。選択がさすがじゃん。
 て知らないか。
 ともかく、おおさむこさむ、山から小僧が飛んできた、ですね。
 
 さて本日のお役立ち情報、
 テレビでやってた「【週刊さんまとマツコ】水で洗うパラパラチャーハンの作り方」、
 ご飯を水で洗って15分置いておいてから混ぜると、パラパラチャーハンができるんだって。
 半信半疑で昼食にやってみました。
 ぜんぜんだめ。
 そりゃ当初ぱらぱらになるけどさ、途中で味見したら、ンンンー、ジューシー、、、水だよ。ご飯粒の中、全部水。15分も置いときゃそりゃ全部水吸うだろ。
 炒めるほどにべちゃべちゃつぶれ、結局いつものほうがずっとマシ。
 もっともわたしは玉子を危険視して昼の料理には使いませんので、玉子コーティングのなさのせいという可能性はあります。が、そんなら洗うことない。なんたってご飯粒、水だらけなんだから。
 
 余談ですが、卵がないとチャーハンてとげとげしくなって、あんまり冬向きじゃないですね、冬にはぬくもりが欲しい。
 
 というわけで、本日終了。
 
 本題は次回作品の中間報告。
 先にお話ししました当初の構想(2020-08-08 )、
1 女性等への差別反対の方針の理論
2 それに加えて現行社会学の批判理論
 という内容の策定につきましては、完了しましたことをご報告いたします。
 でさ、とりわけ問題が今の2番目。
 できても「だからなんじゃい」という虚しさの霧が晴れず。ほんと、そんな理論に何の意味があるんだろうか。社会学なんてやりたいやつらにやらしとけばいいではないか。

 このテーマは、わたしが途中で社会学を捨てたから、最後に批判してこの世から消えれば人生のつじつまが合うと思ったのですが、違ったようです。おかげでこの1年、ひたすら虚しかった。
 と、しみじみ思ったのが最近読んだ都市社会学系の学者たちの自伝集。紛争世代のはずの社会学者たちがなんとも自己肯定感いっぱいに人生を集約している。ああ、だからわたし辞めたんだよね、としみじみ。大人になると昔の自分のわかることが増えます。
 これじゃあその前に読んでた(彼らと)同年代のマルキスト、小阪修平の自伝(と、それによるその仲間たち)のほうがずっとましだ。ほんと、マルクス主義者の方々には、理論家に限って、いろいろお世話になりました、と感謝。
 
 で、というわけで、編集方針の変更をしようと。いまさら中身は変わりませんが。
 「2 それに加えて、行為理論本体からのアプローチの限界点」
 は、いかにも負け犬。そこで
 「2 それに加えて経済学徒のための社会学理論」
 にしようかと。「経済学なんかやっても社会学なしに社会科学になるわけがない」と言い続けて30年、ようやく悪口でなく生産的に、彼らのための教科書を作ってあげようと。
 経済学徒と言ってもマルクス経済学同調者だけどね、前衛主義者を除いた。これで気の合った連中だけが私の読者になる。
 さらにいえば、内容は去年から一貫して変わりません。
 
 
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すこしは役立つ?

2021-12-04 14:15:00 | 断片
 こんにちは。もう冬ですね。当家は南向き窓なので朝の9時くらいには一月前より暖かですが、今日天気予報を見てたら日本海側山の方は豪雪っぽい。思うに、雪囲いのなかで社会科学をするのはしんどそう、人がいなくて精神的に。
 もうこの時期になると来年のカレンダーを探し始めて。
 去年はコロナで文化の匂いがゼロだったので、クリムトの絵が載ってるのを買ってきて これは失敗。絵が細かくて私の目には見えないし、季節感もなくて12か月同じ情景。先日家人が百均で世界遺産のカレンダーを買ってきましたが、こっちのほうが正しそうな。
 
 ところで皆様はPCをお持ちですか?
 当家のPCも替えて1年を超えてやたら展開が遅くなって、これはEdgeというブラウザのせいか。PCが壊れるけど Coogle Chrome に替えるしかないかと思案していたところ、シャツを見ていた通販ベルーナのCMがしつこいので、Edgeの設定を変えたら画面の展開が嘘のように早くなりました。どうも我慢できないまでの遅さの根本原因は、ハードディスクの入れ込みでもブラウザのアホさでもなく、画面の裏の広告に引きづられたことのようです。検索エンジンの検索結果も広告だらけだし、最近えげつなくなってるよね、
 PCでEdgeをお使いの方は、画面右上の三つ玉から、設定→プライバシー→追跡防止で、「厳重」をクリックすると早くなりますよ。
 以上、お役立ち情報でした。
 
 予想に反していまだコロナが減ったまま。忘年会もできそうですね。会社の大きな忘年会は気を使うばかりで好きではありませんが、気の合った仲間と酒飲んで愚痴を言い合うのも楽しいですよね。楽しかない? 酒嫌い? まあしょうがない。最近の若人は「ソーバーキュリアス」といって、「あえて酒を飲まない」んだそうな、と今日の朝日新聞に書いてありました。へえ。根がおしゃべりな人はそれでいいけどねえ、わたしなんぞはそれじゃしゃべれない。酒は顎につける油。酔うほど飲まないし。
 もっとも頭の中では「へべれけ」が懐かしい気も持ってるのですが。 
 
 いずれにせよ自分からは人を誘わないので、もう2年も人に会ってない。そうすると夜の夢の題材も種切れで、忘れていたような子供の頃の知り合いがよく出てきて。
 ああ、夢では昔通りだけど、今はみんな変わっちゃってるんだろうなあ、と淋しくも思う今日この頃、
 でも、山鳥重「「気づく」とはどういうことか」ちくま新書、によると、人の頭の中にはいつも全部の過去の記憶が生きてるんだって、って当たり前のようだけれど、その上活発に活動してるんだって。なんか感心。いつも新しい出来事はその過去に自動的に繋げられるし、いつも表に出よう出ようとしていて、それに合う意識がそばを通ると自分がでてくるんだって。いわば。
 他の山鳥氏の理論自体はちょっと「意識化しうる意識」の偏重があると思うのだけれど、ともかく過去が自分のなかでいつも生きて活動している、というのはいい集約だなあ、と思いました。淋しさが減るから。
 人と会わないと、論文書くにも書く気が起こらないんだよねえ。べつに自分のために書いてるわけじゃあないからねえ。そろそろ外に出ようかな、といって、今度の変異株はなかなかしつこそうですぜ。強くはないだろうけど、引っ付き虫。

(p.s.)
 ここで、今日もつまんない話ばかりしたので追伸ですが。
 終戦じゃない開戦記念日を間近に控えて、朝日新聞ですと池澤夏樹の連続小説、NHKですと半藤一利の番組、と、それぞれリベラルな諸君が説を開陳しております、というより他人が引いております。
 そんなんでいいの? と左翼系に言われてしまったので、追伸。
 もちろんお二方とも絵にかいたようなリベラルで、かつ左翼ではない、というこれも絵にかいたような社会的位置。さてそこで、本人的には右翼礼賛ではなくとも、しかし結局はそうした庶民の疑問のほうが正しい、という指摘を置いておきます。
 ある題材が引き起こす脳的刺激は、先に山鳥氏がいいましたように、その題材が引き起こす連想体系であり、しかしその賞賛と優越は、これは山鳥氏は言ってませんが、その肯定度ないし否定度によって決まる。
 歴史的事象を、それが良心的な人間が行ったからといって肯定的に述べるリベラルが説く歴史は、肯定的な歴史的事象の評価と同じです。「それはふつうの人間にとってはやむを得なかった。しょうがねえだろ」という話です。それは右翼的潮流に与するものであり、それをわざわざ左翼が指摘するまでのこともない。といっても誰も指摘しないからいっておきます。
  
 (なお、注。上記は、「だれも好き好んで戦争をするやつはいないだろ」っていうおめでたいリベラルの認識の問題点をスルーしてますが、世の中そういうものではない。いるんだね、これが。そういう奴は地獄に落とせばいいところ、確かに適応障害もあるし、そこは地獄の番人的私の難しいところです。ただ、ここでは、若い方々はそういうおめでたい人間認識はしないように、ということだけ強調しておきます。)

 こんな当然の認識は社会科学ではないのですが、だれも指摘しない、高校の国語でも教えない、ってなんなんですかね。国語科はおかしい? いや、国語でしょう。



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