リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

人民的社会科学概念と弁証法(その3)

2024-06-01 15:00:12 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、なんか梅雨っぽくなってきました。紫陽花も6分咲き。昨夜は耳元を蚊が通過。その後刺されなかったから子供なのか、オスなのか。ともかく蚊取り線香の季節、って電気製品ですが。火をつける線香は火事になるのでお気をつけください。
 天気予報には各社で表示のクセがありますが、あしたは雷雨があるとのこと、外に出る人は冷たい風が吹いたらご注意を。
 
 さて、早々にためになるブログ、元は受け売り。
 キャベツが2倍3倍になって、東京地方ではお好み焼き屋は別にしてトンカツ屋が困ってるそうで。
 だけど個人宅のはなし、キャベツってモヤシより高い? うちのほう、キャベツ300円、もやし35円。
 でさ、もやしを栄養のゆくまで(?)食べると1袋で2食くらいでしょ? キャベツってさ、8回以上食べられるんじゃない? 半分を4つに分けるってことだよ? 一人なら十分。いろいろの料理で使えるし。栄養素考えたらキャベツが安い。
 ただ問題の1は、キャベツの量には芯がまざってるってことだね。これは良く煮るか十分薄くか細く切ってくださいませ。栄養は劣らないそう。
 問題の2は、300円のキャベツはバリバリしてる、ってことで。柔らかい春キャベツはさすがに高くて買えないしね。生の千切りなんて口の中に刺さる。
 そこでネット情報の受け売り。葉っぱを手でよく握りつぶしてから使う。
 バリバリメシメシといって粉々にちぎれたりもするけど無視。
 それからおもむろに千切りにしたり煮たりすると格段に違います。是非おためしあれ。

 本日の自分的気づき。
 ナムルってさ、日を置くと食べられるようになるの、知ってた?
 韓国料理は全部嫌いなんだけど、嫌いなものは食べない、という習慣はなくて。で、たまにナムルも作るんだけどさ、ごま油、塩、ニンニク(+ゴマ。ものによって少し醤油)って店よりさらに一層、おいしくない。スープの素入れても変わんない。いちおう焼肉屋のナムルの味は知ってて、だけどぜんぜん似てもない。
 ずっとなぜだろうと思ってたんだけど、たまたま2日置いたのを食べたら、焼肉屋の味がしました。これってそういうもの? これなら食える。でもネットレシピで誰一人書いていない。まあ、いまだに真相は不明。

 さて、
「厚生年金の適用拡大へ 非正規の低年金問題に対応、企業規模条件撤廃」(朝日新聞デジタル)
 だそうです、来年夏から予定だって。とてもよかった。国は低年金保障で差額生活保護費払うのも保護事務費払うのもいやだからね。会社負担分が欲しいんでしょ。わたしも安心。
 厚生年金入ってる? ぼったくりの国民年金料も払わなくてすむし、入る年金額は倍くらい違うし、就職先は、会社が国民年金料は出すとかいっても騙されないでね。なんとか厚生年金のあるところをね。
 
 これはちょっと変わったニュース。
「もうとても人の住める状況じゃない」「町内の崩壊です」三沢基地・戦闘機などの騒音問題 隣接地区の住民の約8割が“移転”を希望」(ATV青森テレビ)
「テレビも電話も、訓練なんかあれば全くダメ(聞こえない)です。もうとても人の住める状況じゃない。したがって若い人が入ってこなくて高齢化、空き家・空地ばかり増える。町内の崩壊です。はやく(移転を)やってもらわなければ困る」
 ご不満は分かりました。しかし、ここはアメリカ軍と日本軍の共同使用。ふうん、、日本軍は高級航空ガソリン代が出なくて訓練なんかしないからお味噌。アメリカ出てけ、ってことだろうね。へええ、いまさら。進駐軍の時代から存在する基地だよ。意図不明。いまさらなに。もちろん住民は昔から困ってるだろうけど、政治は住民がするもんじゃないから、その意図が不明。
 
 では1週飛びましたが、本日のテーマ、続いてます。

 (その1)、(その2)とで、人民には概念的把握など必要がなく、人民は自前で社会科学を作ることができる、と述べました。さてそれでは、概念的把握につきものの「弁証法」についてはどうなのでしょうか。
 弁証法とは、そもそも、現象の裏表にある「概念」を両面から検討して、統一的な理解に至らしめるための方法です。
 というだけで、もう本日の趣旨は述べことになるでしょ。
 弁証法それ自体は、人民の精神生活とは無関係なのです。
 それはもちろん体制科学を理解するためには有益となることがあるはずですが、体制科学など、一度放棄してしまえば、概念の弁証法も不要なのです。
  
 例えば「国家」なるものをそれそのものとして扱えば「資本家」概念との切り分けが必要になる。しかしすでに体制科学として存在している諸国家論=国家学は、そんな切り分けを許しません。そこで「国家」を扱う場合は、資本家と概念上重なり表裏一体の部分を弁証法で扱い、そののちに具体的現実としてまとめ上げる必要があるのです。
 
 しかし、人民(複数)には人生の事実そのものがある。
 人民にとって国家は国家ではなく、政府支配者の意志です。資本家は経済学上の存在ではなく、自分の社長です。
 人生の事実について我々は、時系列と因果連関により、これを実践上の真理と成すのです。
 
 この場合、現実が要求するものは、「なぜか」という解釈ではありません。事実はどう動いてきたか、という事実そのものの経験値です。社会心理学に基づく解釈のような「本当の理由」といった、誰にも証明不可能な「真理」ではありません。「ただの」経験値です。経験値ですが、これを因果連関の形式にして、新たな「事実」として頭脳内に整理するのです。 
 
 これは経験論の主張でも観念論の内容でもありません。つまり、我々が言っているのは「真理」なるものを知ろうとする認識論ではないのです。
 われわれの関心は、われわれの生活世界がどう変化するのか、しうるのか、ということなのです。その「本当の理由」なるものがどうであろうが、それは神々や神の使者たる哲学者様が唱えていればいい。そんな人畜無害な話はどうでもいいのです。この世界、われわれが生き、かつ、心ならずも死ぬ、この世界がどう我々の思うとおりに変えてゆけるか、ということなのです。
 その理論は「真」でなくてよいのか? 
 いや、真でなければなりません。その因果連関の事実は、100%ではなく99%の経験値に妥当しなければなりません。それが人間の(自然科学を含めた)科学なのです。それが「本当」かどうかは哲学者が勝手にしゃべれ、といっているだけです。日々更新されてゆく経験値による実証、それが認識論ならぬ「科学の方法論」です。
 
 さいわいに「われわれ」は限りない複数です。どんな偉大な哲学者の御託宣が限りない複数に勝利できるかは知りませんが、われわれは99%妥当の立言というわれわれの「知」に不満はない、100%確実な人生なんてあるはずもないのですから。

p.s.
 全く関係ありませんが、その後、「博士ちゃん 」なる番組で、岡山の「時計博士」なる子どもが時計直しをやっていました。
 わたしはこういうこまっしゃくれたガキが偉そうなことをいう番組は嫌いですが、どうせ酒のツマと思ってみてましたら、どうしようもねえ柱時計を本当に直してしまいました。司会の「富澤さん」というの、富澤たけし? その成功に泣いてましたが、実に私の眼も涙でいっぱい。すげえ。ほんもの。
 不思議なもんだねえ、、わたしゃ依頼者への同情なんか爪の先もないので、純粋に彼の仕事に涙して、、ほんと、不思議。なんなんだろ。小幡昂輝くんです。塾なんかより、よっぽど人間が成長するし。こういう人はなんでもできる。問題は、こういう人を重用するシステムのない社会だね。なにがプロジェクトXだ。

 わたしの実家にも私と歳が同じ柱時計がありました。好きだったけど引っ越しの時、親に捨てられた。なんの文句もありません。嫌な過去の思い出が詰まってたから。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人民的社会科学概念の生成(その2)

2024-05-19 13:28:25 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。今日は大谷が無安打で面白くない。投稿で気分を変えます。
 というか、題がいい加減なので、間が空くと(その2)が何だかわからなくなりますし。

 さて、では人民は概念による社会現象把握ができないのか、といえば、そうではありません。人民は自分の力によって、当時の社会の現実を科学的に把握する。これは社会に既存の、各種利害に混乱した概念を豊富化して把握していくのではなく、豊富な現実を、自分(たち)にとって、意味のある現実として概念的に再構成するのです。
 
 1 史的構築性
 
 人民は、過去・現在・未来について、自己の人生と、自己の仲間の人生を未来に向けて成功的に豊富化するために、時間の移行過程に自己と仲間の生活上の必要を適用します。
 明日はうまくやろう、それには現実が「本当は」どう動くか知らねばならない。俺については過去こうだった。あいつについてはどうもこうしているらしい。結局、現実というのは「こうして動いていくようだぞ」。
 この作業こそ、ブルジョワ思想家の「史的唯物論」を実質的に凌駕する時間的唯物論です。
 この唯物論は、人民の、第1にイデオロギー意義、第2に理論が常に引き受けている因果連関の評価を含みます。「なんだ、結局政府や資本家の言うことは嘘ではないか、みんなにあれはウソだと伝えよう」。また「ストを打ったら賃金が上がった。スト権論というのは正しいじゃないか。ブルジョワ新聞では賃金が上がったのは労資の連携策だ、とかいうが、そうじゃない。俺らがストを打ったから賃金が上がったのだ」。
 
 2 社会科学性
 
 人民は周囲の人間の現実に生じた対応の諸事実から、関係性についての法則を取得します。これが学者や評論家の観念が作った空語ではない、「本当の」関係性の要素です。
 
 3 認識と実践の統一
 
 人民の外界の現実の把握は、それ自体実践を含むしかありません。正しく、かつ、分かりやすくいえば、実行をめぐる瞬間瞬間の忍耐です。あるいは逆から言えば、人民の一見した非実践は、その中に当然にも外界の把握を含むのです。
 ここに必ず存在するのが「現実」です。人民の行為は、前衛主義者の独りよがりや組織大事の空語を排斥せざるを得ません、すなわち、科学以外ではありえないのです。

 4 運動概念の必然性
 
 「3」の契機によって、また、人民の認識は「運動」から離れることができません。外界の運動と、主体としての自己の運動です。人民は外界が次の一瞬に変わらないか、そればかりを気に掛ける、と同時に、外界をどうにかして変えられないか、それもまた不断に注意し続けることになります。
 
 5 諸概念の統合的把握
 
 こうした人民の自分(たち)のための科学的メリットは、しかし、常にブルジョワ思想家からの切り崩しにさらされています。
 ここで研究者の役割は、第1に、社会に広まり続ける傾向性をもつブルジョワ論理の排斥です。
 ついで第2に、人民の個的認識と仲間全体の認識の統合です。この統合には、個的行為と人民全体の賞賛と優越への統合を含むことになるのです。
 
 というわけで、隈の次回作には、生産、消費、分配、交換などという概念は、否定するためにしか登場しません。それが本来あるべき「経済学」批判なのであります。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「概念的把握」作業の問題点(その1)

2024-05-18 15:54:05 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。春真っ盛り。初夏まっさかり? いやあ、「夏」は禁句、自律神経に悪い。
 ともかく、あっちこっちに花が咲いて良い季節で。みなさまにはお仕事だけじゃもったいないけど、そうは休めず、で。どうもGWって昔から中途半端な時期だと思うな、今時分、休みがいいのに。
 
 今日のニュースもたいしたことない。
「空飛ぶクルマ、都内で初飛行 操縦士乗せ高度10m、観客拍手」(共同通信)
 って、写真を見たらなんともヘリコプターより大げさ。まあ安全てことかね。
 災害地物資輸送ならドローンより信頼がおけそうなので許す。
 
「発表前日のツーショットを独占撮! 電撃引退の宇野昌磨…選んだのは恋人・本田真凜とずっと一緒の日々」(FRIDAY)
 いや、フライデーの写真なんだけどさ、宇野が本田に「連れられて」て可愛い。
 こういう可愛さがスケートダンスには余計だったんだよね、まあ幸せに暮らすのがいい。彼、900gの未熟児だったんだって。大事にしてあげよう。

「ロコ・ソラーレ吉田夕梨花が結婚発表 お相手はスピードスケート日本代表・新濱立也 姉の吉田知那美らメンバー祝福」(スポーツ報知)
 おめでたいけど、一時代が終わったな。といってもまだ6、7年しか経ってない? そんなもんかねえ、、
 
「「共同親権」 DV・虐待被害者 置き去り
参院法務委 民法改定案を可決」(赤旗)
「自民、公明、立民、維新の賛成多数で可決」って、なに立憲民主党。男の票稼ぎか? 今日は本会議で成立したって。
 弱い者の味方をしない党は、リベラルでも左翼でもない。 どうせ嫌いだけどね。

「与野党は「伝統重視」で足並み 国民の理解がカギ」(産経新聞)
 これじゃ主題がわからねえ。変な見出し。
 主題は皇位継承。
 「安定的な皇位継承策などに関する与野党協議が17日、衆参両院正副議長のもとで始まった。伝統に背を向けた近視眼的な議論を避け、先人から託されたバトンを後世へと引き継げるのか。国民の理解を深めることが重要な責務となる。」
 サンケイだからいうのは構わないが、なんで国会と国民の意見が違うんだ?
 もちろんわたしにはわかってるが、新聞がそんなことを書くのは変だろうが。「国民の意見をないがしろにする国会議員たち」とかの見出しにしろよ。
 

 さて、本日は本の紹介が先にあるんで、ニュースははしょり。
 本は松田卓也「間違いだらけの物理学」
 いろいろ面白い話が載ってますが、ショックなのが
   【「太陽にゴミを捨てられる」は間違い!】 
 だってさ。ええ~~てなもんです。ここで「ゴミ」とは放射性廃棄物ですが、それは技術的にも費用的にも端にも棒にもかからない案だと。
 知らなかった。太陽でなくとも宇宙に捨てられるかと思ったら、ロケット打ち上げはいつも成功するわけではないと。いわれてみればおっしゃる通り。世界の上で廃ウランをぶちまけたら、原発崩壊の類じゃないカタストロフ。
 
 で、これは前振り。この本は、「「飛行機がなぜ飛ぶか」分からないって本当?」を松田氏がネットでしゃべってたのを使おうかと、でもネットじゃ文献じゃないんで、松田氏の著作を調べて読んだ本。
 飛行機が浮かぶについてはそこらの教科書等の説明は単純に間違ってるんだってさ。ほんとうは翼周りの空気の循環によるのだと。
 「ここに循環があると“仮定する”と、大変よく説明できるのです」というわけで、それは眼で見えない。数式は昔からあるんだけど、「非線形」だからとけやしないんだそうな。 近似式を解くだけ。
 しかし、近似式は実験とあっている。
 かくて
松田:数学者、あるいは「全てを疑え」という科学哲学者の目からすれば「飛行機が飛ぶ理由は、まだ完全に分かっていない部分がある」と見えるのかもしれませんが、工学者としては、計算と実験がほとんど合っているのですから「完全に分かっている」と言ってかまわないと私は思います。
 んだそうな。
 なるほど。
 
 さて、なぜこんな話をする必要があるのか?
 マルクスの意図はおいて、「資本論の労働価値のめちゃくちゃな「論証」は、案外目くじらを立てることでもないのか」という疑問が湧いて。資本論第三巻まで読めばトータルとして現実把握になるのだから、ま、いいか、ですむのではないか、ということです。そういえば物理学だってやっているはず、と思い出したのが上の話。労働価値説で現実と合ってんだから文句はあるまい、というわけで。
 もっとも若人は宇野経済原論で正しく認識してくださいませ。上記はもっと大きな観点からみれば些細な問題に過ぎない、ということです。
 
 で、もっと大きな観点、本日は社会科学作業としての「概念的把握」。ヘーゲルの言葉遊びの話ではありません。
 これにつきましては本ブログで、マルキストが当然のように持ち上げる「概念的把握」が、実践につながらない静的な状態であることを何回かいいました。本日は、それ以前に、「概念的把握」自体が抜きがたく持っている性格を問題にします。

 人の世の諸概念の内実は、その言葉を使う優勢な人々によって規定されます。これは誰もが当然と思うことでしょう。言葉は使う人のもの。ではその概念を分析すればどうなるか。その優勢な人々の規定性が現象してきます。この状態が、いわく概念的把握です。
 (「優勢な」とはアメリカ社会科学でよく使う、「内実は問わないが社会で立場が上になっている」という意味です。内実を問わないのが大事)
 と、本日の言いたいことは半分言いました。
 
 概念的把握で現れてくることは、その言葉を使う優勢な人々の規定性、経済学概念でいえば、資本家と国家におべんちゃらを使う評論家、他称学者の規定性です。 
 いわく、生産、消費、分配、交換。まことに「経済学」です。
 K.マルクス「経済学批判への序説」(岡崎次郎訳)『経済学批判』所収、大月書店、1966.
 そう、マルクスの資本論があまりにも狭小な世界なので何でかと思って、出版はされたけど草稿である「経済学批判」のほうをめくったら、ごまかしようもなく書いてあった。
 まったく人民とは関係のないことをしかも関係のないように書いてあるので気づきました。
 何だ、ブルジョワ、ヘーゲルの徒ではないか。
   いまさらだね。
 
 仮にその露わになるはずの規定性に意味があるとしたらそれは、その規定性の、第1にイデオロギー意義、第2に理論が常に引き受けている因果連関の評価による。つまり第1に、われわれ支配者は労働者の貧窮にはなんら関与しておらず、我々資本家は労働者と対等の交換契約をしているにすぎない、という自己弁護と、第2に、これを正当ならしめる観念構築です。これもなんどもいいますが、因果連関は立場次第でどうとでも書ける。
 
 そんな都合の良い結論が内包されている、社会に優勢な彼らの使う「概念」について、われわれ人民はそこに現れた規定性を真に受けることができるでしょうか?
 これ以上いうのも馬鹿のようですが、そんなものは人民には一切関係がないのです。

 さて、本日の残った半分。
 では人民にはなにがあるのか。人生の事実そのものです。
 私の好きな滝沢克己、「「歎異抄」と現代」、三一書房、1974.p74の表現より。

 もともと概念の把握などという作業の意味は、人間の情報一般の中においては、説明の便宜上都合がよい、というものでしかありません。へいこらするのは、資本家と国家におべんちゃらを使う評論家、他称学者にまかせておけばよい。
 人民には、上級国民とは異なり、説明の体系の伝統などというものはありませんが、その代わり、仲間に普遍的な彼(当初は単数)の生活体験というものがあるのです。
 かくてわれわれは、指示語としての言葉はやむを得ないものとして使用しつつも、その言葉が通例指す現実については、普遍的なプロレタリアートの人間的規定性を分析することになります。それがブルジョワ思想家の言う「概念的把握」と同等の位置になる、ということです。 
 ブルジョワに重要な生活上の事実は労働者の生産であり、消費のための購買です。さらに自分の取り分と労働者へのおこぼれの額であり、交換という名の強制的雇用です。
 人民に必要な生活上の事実は、自分の生産手段の行方であり(毎日働いてるのに明日で首になっちゃうよ)、かつかつの毎日の消費の内容です(またキャベツが買えないよ)。さらに賃金をいくらもらえるか、なのですが、それが、「交換」!!! なんだそれは。
 
 本日は、概念的把握など人民とは一切関係がない、というところまで。次回は、じゃあどうしろというのか、の話。
 
 ううむ、こんなシンプルに「概念的把握」をけなした人間は、少なくとも歴史上世界にいないな。
 未来には、いるかもしれないが。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

連帯が求める唯一の因果連関

2024-04-20 16:03:30 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、今日もいい天気。明日から良くないけど、温度はきちんとあるって。ただ洗濯は今日のうちが良かったみたい、もう遅いけど。
 わたしは毛糸のカーディガンを洗えばよかったところ、今日は薄いパジャマをamazonで買ったのでそれを水洗い。臭いしなんか薬品ぽいし。で場所取るから。

 日用衣類は隣町のイトーヨーカドーで買ってたんだけど、パジャマ見に行ったら最低4500円(税込)って何の話だろう。信じられない、なんのためのスーパーか。ヨーカドーもつぶれていくわけだね。ここももういらない、買うモノ、ゼロ。下着さえM以上しかない。もうわたしの御用は靴下だけ。靴下なんかドンキがあるし。
 というわけで、宅配便さん、お世話をかけます。

 今年はタケノコ豊作で安いんだって。100g38円だって(練馬区)。でも家の近くのスーパーで家人が65円で買ったやつ、下茹でして皮剥いたらぐずぐずに崩れて、臭いったら。前からそういうスーパーなんだけどね。食品スーパーは複数欲しい。今回はヨーカドーでそこそこ大きいのを750円(税込)で買いました。問題なかった。フキノトウもタラノメも売ってなくて買えなかったので、せめてタケノコくらいアクを感じるやつを食べないと。ヨーカドーはつぶれてもそのあとに食品スーパーは入るから問題ない。
 
 ネットに「サクランボ狩りをする子供たち=山形県東根市で」なんて写真がでてます。まだ早すぎ? たしかに。いや、まだ寄り目の年長さんほどの子どもたちがサクランボ狩りしててね、可愛い。

 食べ物だと、
「新幹線車内で「豚まん」を食べるのはNG?ネットの“マナー違反論争”にJR東海が示した「回答」」(女性自身)なんてのもあるよ。豚まんが臭くて迷惑だって。
 こうゆうのもなんなんだろうねえ、、こんなどうでもいいことを声高に言いたがるって、どこの人間たちなのか、と思って。たとえば、SNSやってる3%の人間か、若人の6割の人間なのか、、、ばっかばかしい。けど、日本のどっかにいるんだよね、これも信じられない。わたしが時代遅れなのかね。
 
 まともなニュースがありました。
「一本指で奏でた第九 脳性まひの少女、夢かなえた「だれでもピアノ」
ショパンのノクターンを弾きたい――。手足に障がいがある少女の願いと、それに共鳴した研究者の情熱、AI(人工知能)も活用したメーカーの技術力が、「夢のピアノ」に結実した。名づけて「だれでもピアノ」。一本指の演奏が、ベートーベンの「第九」の壮大な調べをホールに響かせた。」(朝日新聞)
 指一本で第4楽章を引いたって。技術の、あるいは技術をひっさげた人間の心の、勝利だね。

 も一つ、乗りかかった船で、子供支援金の税金増、後期高齢者分が出ました。
被用者保険で年収200万円で月350円、年収400万円で月650円のところ
「加入者1人あたりの見込み額は、年収250万円で月額550円、300万円で750円。」(朝日新聞デジタル)
 だってさ。可哀そうな年寄り。
 さて、しかし、これは自称平均。
 後期高齢者医療というのは、当然、県によって違う。子供が多けりゃ拠出も多いし、所得が低けりゃ、その県で人数は少ないけど所得が多い少数派に負担がしわ寄せされる。で、dodaのサイトによれば、わが熊本県では平均と比べて子供が1割以上増し、所得が1割減。こうして平均と2割違うことが規定されます。
 年収250万円で月額660円、年額8000円。300万円で900円、年額1万円強。ま、国保と比べて同情するには当たりませんが、世の中の政府発表とは、こういうものです。ほんと、そもそも官僚なんて、生活者のことなど何も知りゃあしねえ。

 さて、本日はひさしぶりの社会(科)学。
 眼も良くなったから図書館借本を再開して、一通りできた原稿諸メモに、新しい知見でも添えていこうか、なんて思って、図書検索で2000年以降出版の社会学本を検索して6冊借りてきました、ら、箸にも棒にも掛からない。呆れかえった惨状。
 こんなのを大学で読まされる若人は、社会学をなんだと思って卒業するんだろう?
 学者は何を考えて研究しているのかねえ、、誰にとって、何の意味があるのか。本を買う若人が可哀そう。
 まあいいけどね、他人のことだし。若人は今の社会学なんて勉強しようと思わないように。大学は卒業証書のためにある。大学に行かなかった人は無駄な人生の時間を費やさずに済んでラッキー。
 でさ、面白くないのが、誰とは言わないが昔はマルクス主義社会学でならした転向学者。いいたいこといってたくせにソ連崩壊で左翼から足を洗った証拠でも示したいのか、(私は山田盛太郎のような)「日本農村に対するイデオロギー的批判の観点をできるだけ排除して、具体的な事実に関する記述を拾い上げ、「日本の農村」の姿を描き出すことにしよう」だとさ。何だよ、イデオロギー的批判の観点て。いい歳した社会学者がそういう存在非拘束性に無知な発言はやめて欲しいものだ。マルキストたちはかえって存在非拘束性って知らないんだよね、知ってたらブルジョア社会学批判なんてできなかっただろうしね。
 
 では、あらためて、
 
 まずは(当該諸本は)「無意味だ」と。
 意味があるってどんなことでしょう? 自分が想定する範囲内の行為主体について、なんか役に立ちそうだ、ということでしょ? 自分の役に立ちそうだ、とか、友だちのA君には役に立ちそうだ、とか。
 だからね、難しく言うと、「意味」は、その情報が、想定される行為主体の未来行為について、適用可能なものだ、ということです。
 だから、原理的に個人的なものなのです。
 それが政治的に役に立とうが、自分の学者の経歴に役に立とうが、その違いを説く資格は誰にもない。同じ価値を持ったものです。これが、誤解を避けて強調すれば、ウェーバーの価値自由の本当の意味です。イデオロギーで結構。逆に言って、事実だけを述べて筆をおけばそれはイデオロギーから逃れている、などという素朴な見解、つまり学問が政府のものであった100年前の時代錯誤の見解は、まさか現代の社会学者の取る見解ではないのです。つまり、第1に、事実だけしか書かない選択をして、保守反動に資する著述行為をあえて行った点について、第2に、その著述行為以前に、政治イデオロギーを退けたその選択について、それは当該筆者のイデオロギー的選択なのです。
 
 と、まあね、こんなことは社会学の常識。こんな低レベルのことをこのブログではわざわざいわない。
 本日のお題は、無意味な本に頭にきた研究者として、「意味があることを綴る意義について」です。
 
 まず、ある論は視点と視座によって因果連関の学となることを既に述べました。去年の3月以降のブログ連載、ね。因果連関などいくらでも、在る。ただし、それは視点と視座によって決まる、と。
 今日は、その視点と視座。それらは、行為主体の想定対象によって決まる、ということを強調します。理論者に十分に想定された行為主体にとっては、彼の行為の目的は決定されている。それはほかの誰のものでもない、唯一、その行為主体に属する目的である。それをイデオロギーだ、偏っている、と「批難」しようと、それはお門違い、というものなのだ。想定対象にとって、それ以外の未来の目的とは無意味である。実はある事象に1000の理由や原因があろうとも、想定対象の目的に集約されないそれは、無意味なのである。
 もちろんそれによって決定された視座による因果連関とは、唯一、それ以外ない当該事象に対する因果連関なのである、論理のつじつまがあってれば、だが。
 
 このくらいきっぱり言えば、いかに転向マルキストでも誤解の余地はないでありましょう。
 では、理論者と批難者の違いは何か。
 想定行為対象との連帯の有無です。
 何がイデオロギーだ。
 イデオロギーを放擲し連帯の立場を放擲し、事実だけを書く、ってじゃあそんな人間が読まそうという相手は誰なんだ??? (ちなみに放擲はほんとうに「ほうてき」で「ほうちゃく」じゃないのかねえ。打擲は「ちょうちゃく」じゃないか)
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

説明「社会学」の例示の注(その3)

2023-10-15 20:19:16 | 社会学の基礎概念
 続きです。

 世の中には75年前イスラエルがアラブの領土を横取りしたのが悪いとかいう人がいます。そりゃ悪いでしょう。しかし、だからと言って、人を殺すのが正義だと思ってくれちゃあ大間違いです。その前はどうだったんだ、500年前は。1000年前は。ハマスの先祖が住んでたとでもいうのか。この世の中で、そんなふんぞりかえって過去を消せる民族など、京都のヤマトンチュウくらいしかいない。そしてそんなことは今の事態とは関係がない。関係は今そこで生きている人間たちがどうやって消費物資をとり、どうやって家族と暮らしているか、です。そんなことはバカ以外にはわかるでしょう。イスラエルにも、生きて、家族と暮らしている人間Aがいて、人間Bがいて、人間Cがいるんだ。そんな人々を無視できる人間は、ハマスと安楽に暮らす無責任な日本人しかいない。なぜか。まともな人間であればそれは世界中に普遍の状況だからと知っているからです。偉そうに言って、なぜ世界が見られない?
 それじゃあ今生きている被侵略者のこのくやしさはどうするんだって?
 家族が死なない範囲で対抗することです。赤ん坊でなきゃわかるだろうが。死にたきゃ勝手に自分で死ねよ。俺りゃ止めないぜ。その仕方も知らなきゃほんとにバカだ。
 もちろん、そんな地味な対抗はいやだ、どんな同胞が死んだってかまわねえ、俺はやる。というクソの気持ちもわかるさ。世間にはざらにいるからね。だからおいらも地獄の番人としてお前らを待ってるぜ。 
 
 いちおう、バカでなければわかると思うのですが、記しておきます。

    ほんと、夜書くとおだやかじゃないね。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

説明「社会学」と「状況」の提示と例示(その2)

2023-10-15 10:23:24 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、昨日とは打って変わって本降り。今日はマラソンのオリンピック選手選出だそうですが棄権続出の大波乱。こんな日に走らされて、どうにかなんないのかねえ。
 今日は昨日の続きですが、これですぐに続きを書いてしまうと1日の価値がない。この年になると1日は貴重です。というわけでどうせ誰も気にしやしない趣味の将棋もの。

 世間で藤井8冠という人がいるの知ってます?
 このブログの登場は初めてですね、興味ないから。しかし8冠(8個のタイトルを同時に持っている)ともなれば話題にしておこうか、と。
 この人はわたし的に普通にいい人。だから、一般から言えば「そうとうまとも」な人。いまのところわたしはなんのモラハラもない。若いからね。
 昔、将棋に谷川浩司という人がいまして、20歳のころはなんのモラハラ対象ではなかったのですが、中年も過ぎると怪しくなっていく。まあ人間、よほどでないとそうなるので、別に谷川氏を貶めるつもりはありません。藤井氏が未開花というだけ。
 で、肝心の彼の将棋、これがつまらない。つまらないので興味がない、たとえ8冠であろうと。
 将棋なんて趣味だからね。お互い最善手を指すって、五分五分でゲームを進める、ってこと、それ、なんか面白い? 本人はいいよ、それが主義なんだからね。しかし見てたってつまらない。将棋は本人がどういう構想で戦うか、ってことに意義がある、その構想の成就をハラハラしてハタでみる、というところね、ポイントは構想の価値、、なんてことを書いてもしょうがないけど、私の趣味が将棋と知っている人あてのメッセージ。だから書かないの、って。
 
 さて、昨日の(その1)の趣旨は、「このハマスの人殺し共が。いい気になるなよ」ということでした。読み取れなかったらもう一度お読みください。
 しかしそれはハマスだけが悪いのではなく、それを支える一般大衆が9割悪いのだ、とも書きました。同様にもう一度お読みください。それは、1937年に始まるしな事変、アメリカ帝国主義IMEは「しな」の変換もさせませんが、「支那事変」です。日中戦争などとふざけるな。日本の一方的侵略です。で、もとい、しな事変を代表とする侵略戦争の責任の9割が一般大衆の責にあるのと同様です。
 その理由を、「説明」として記したところです。

 ここで、古典的な説明社会学である理解社会学ないし解釈社会学について、その欠陥の第1は理解ないし解釈の基盤が恣意であり、しかもウェーバーの場合はそれが間違っている、という点にあるのですが、今回の主題はそこではありません。仮に理解や解釈に根拠があった場合、その社会学と、将来に向けて使用可能な因果連関の立言が必須の科学との、関連はどうなるか、という問題です。

 そもそも行為主体は、支配者であろうと被支配者であろうと同様です。そこで万人に見える形で行為の原理と原則を提出します。その原理等の真理性はあちらこちらで検討されるべきであり、きちんと文章で示されている限りそれは可能でしょう。そのための「例示」です。
 われわれは行為者の信条、意欲、動機、は、いわば把握しつくしているのです。その信条その他の行為主体の構えに働きかける状況の内実が、科学の本体であって、その状況の提出の現実的結果が間違っていると知れた場合において、その主体の事情の析出手順の非科学性が問われるのです。

 状況とは、たとえば、植民地エリートに働きかける行為共同性を成立させた当該植民地諸人民の行為環境のことです。つまり「誰でもなろうとする」支配者になれない状況における個人をそうでない道に引きずり込むのが状況です。
 人は状況の中で支配者となり、また対抗権力者となります。科学は、行為の原理・原則によりそうならざるを得ない行為環境を提示することによって、その資格を得ます。因果連関上、「そうならざるをえない」ことがわかるからです。
 つまりたとえば、プーチンが「なぜウクライナを侵略するか」という問いの答えは、いかに中立を装ってみても、そもそもがイデオロギー的立場でいろいろに変わる評論であり、科学ではありません。
 「プーチンはウクライナを侵略しうる。それはこれこれの環境的理由だ。」という将来連関、また「それではこれに対して現在の行為主体たるA男、B嬢、彼らと同様の環境を持つCは、何と何という選択肢をもちうるか」、という将来連関に使用されうる、行為環境に内在する因果連関の定言の提示が、科学なのです。

 さてところで、じゃあハマスについていってみろ、といわれたところでそれは無知識では無理。その場で生きている人間にさえできるかどうかわからない情報量が必要です。その情報を提出するのに寄与するのが実証社会学、その他経済上の知識です。

 そして経済単位の違う「他国民」たるわれわれの、いったん学問を離れた課題は、先進国プロレタリアート貴族として、後進諸国家の理不尽な死を止めることにあります。あるいは、正確に言えば、理不尽な死を止めることはできなくとも、理不尽な死を意味ある死、次の世代、引継ぎ者たちに伝え得る死に変えることにあります。そんなことができるのか? できます。常に人は一人ではないからです。人の生はつながっているから極東のプロレタリアート貴族が、自分の友人宛にかように書き留めているのです。小鳥は山火事を消すために小さな口で運んだ水滴を投ずる。その行為はそれに終わらず、それを関知した人間が人間の中で広めることができる。それはあえて科学でなくとも「例示」によってできる。世の中はそういうものです。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

説明「社会学」(その1)

2023-10-14 16:47:30 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。ようやく涼しくなってさわやか。平年より少し遅くキンモクセイが香っています。みなさまにはお仕事もはかどって、ってせっかくの休みの時にいいわれたくないか。
 まだ日中歩いてると暑くなるけど、それをいったらほんとにいい日なんて1ケ月しかない。さらに鼻水が止まる日をいれたら2,3週間だね。今年は秋の花粉が特にひどい気もするけど、医者に行くほどじゃないから気のせいか。
 
 先日は秋なので栗の実を買いました。7,8年ぶり。栗ご飯用の皮を剥くのが嫌で買わなかった。
 今年のテーマは茹で栗。おさじですくって食べようというのは二の次で、茹でて皮をむけばむきやすいんじゃないか。と。
 なるほど、と思ったあなた、それが違った。渋皮剥くとき実がやわかすぎてぼろぼろ。粉末栗。渋皮なんて取らなくとも食べられる、という方はいいですが、少なくとも見た目は悪い。
 まあ栗がゴロッとエバッているのもお総菜品のようで、さほど品がいいとは思えないし、粉ばかりでも茹でたせいで逃げた香りを補う、ともいえそうですが(多少は大きいのも残ります)。
 結論として、5,6個そこらの栗屋敷から貰って皮剥いて炊くのがよろしいようで。黙って拾うと心の狭いばあさんが怒ったりするからね。

 さて今日は昔話と、
「消える高校学食、どうすれば「持続可能」に? PTA予算で無料キャンペーン・インスタでPR・事業者撤退で元保護者がスタッフに…工夫重ねる現場を訪ねた」(中国新聞デジタル)
だって。
 これは広島の高校。元保護者が、、というのはやりすぎじゃないかね。元保護者だって遊んでるわけじゃない。いまどきはコンビニも弁当屋もあるし。違いは値段だけじゃん、、たって、学食定食450円なんていってる。高! 横浜市じゃないけど、弁当屋と組んで安くすればいいだけじゃん、弁当屋の弁当は鼻につくけどね。
 私の高校も定時制生徒用に学食があって、うどん・そば、25円くらいで売ってたけど、途中で昼間の営業やめちゃって。でも校内パン売り場あったからねえ(わたしはお弁当を作っていただきました)。わたしの高1の時の親しい友人は、食パン2切れだけ持ってきて食べてたよ。 
 と、これは懐かしいから。

 それからニュース1個。
“子供留守番禁止”条例案なるものが撤回されたって。
小3以下の親は、常に子供と一緒にいないといけないんだってさあ。埼玉県の自民党と公明党議員の議員条例。埼玉の自民党の田村琢実というやつが、世間を自分の思うとおりに動かしたくて、「正義感」あふれた条例を作りたがってるもよう。田舎もんのやることといったら地主のドラ息子と同じだ。そいつの育ちは知らないけど。
 で、世間に非難されて結局撤回なのですが、俺は悪くない、説明が足りなかった、などとぬかしている、ので、ここに条例案を貼っておきます。

”第六条の二 児童(九歳に達する日以後の最初の三月三十一日までの間にあるものに限る。)を現に養護する者は、当該児童を住居その他の場所に残したまま外出することその他の放置をしてはならない。”

 説明が足りないも何もない。そのまんまじゃねえか。どこが世間の批判と違うのかいってみろよ。
 わたしゃ残念。条例通したら次の選挙ぼろ負けだったろうに。

 さて本日は、久しぶりに理論条項。

 これは古い10月9日の記事(赤旗)
「パレスチナのイスラム組織ハマスは7日、イスラエルに大規模攻撃を行い、同国メディアによると民間人を含む少なくとも350人が死亡し、1860人以上が負傷しました。イスラエルのネタニヤフ首相は・・・ハマスに「容赦ない報復を行う」と宣言しました。」
 ご存じのように今の状況はもっとひどい。

 なにこれ?
 理解不能。ハマスというのはプーチンの手下か?
 
 皆様におかれましては、失礼ながら、おそらく、こんなこんなの事情があって、とか、いやその事情はもとはといえばこれこれで、とか、、、
 まあものわかりのよろしい。
 分からねえのは、プーチンは自分も家族も死ぬわけじゃないから理解できる。
 しかし、ハマスってのは、自称、自分も家族もガザにいるという触れ込みじゃないか。なんで自分の家族を殺すようなことをするんだね? (ほんとはスパイに踊らされたという憶測は立つが今はそれはおいておく)
 家族の命より大事なものとはなんだ? 宗教? 民族? 国家?
 いや、これ本気で聞いているわけ。誰か知ってる? 知らないしょ。文章では聞いてても、自分の心では知らないしょ?
 そんな知らない行動をするやつらって狂信者?
 
 さて、ここで、みなさん、「違う、彼らは狂信者ではない」と頭では解しているでしょう。なんせ自分たちも「自衛隊は必要」とかいってるんだから。で、自衛隊員はなんのために死ぬの? 国家? みんなの平和な生活? 平和な生活のために戦争するの? よく子供が聞くよね、それはお子さんが正しい。「国民」はすでに疎外され切っている。
 
 というわけで、説明「社会学」(その1)
 
 ハマスなどと自主団体の名称がついていても、それは要するに支配者なのです。 
 疎外された支配者の支配意志は、(疎外された、なんて、受身でいうようなものでもないのですが)、それはその支配が複数の支配の関係の下で作り上げた行為共同性によって、分かりやすく言えば自律的に、「お互いの」人民を死に追いやるのです。  
 その被支配者の人民は「将来の国家」なり「宗教的統一」なりの名の下で自殺的に死に殺人的に他の人民を殺す。
 恐れ入った疎外状況です。

 この時点で利益のある者は、「擬制の支配者」の他では、関係行為者の「自己の生の意味」を疎外されて作り上げる者しかいない。そんなものが人間の生の意味とは、とんだ自己満足ですが。

 ここでちょっと、ありうる言葉の行き違いに考慮しておきましょう。
 まず、今問題になっている、たとえば「国家」とは、観念にすぎません。頭の中のお化けです。
 そうか? 国家はそんな支配者や人民の頭の中にあるような観念的なものではなく実体的なものではないか?
 そういう国家もあります。支配者の統治領域のことです。これは地図に描けるように、観念的なものではありません。
 さて、では聞きましょう。そんな国家の死、あるいは領域の崩壊に、あなたは家族やあなたの命を懸けるのか? 妻子の命をかけるのか?
 かけては悪いとはいっていません。そういう赤ん坊のような人と話しても無駄なので、はいさようなら。
 わたしは、実は妻子の命のほうが大事なのに、そう公言出来ない人の話をするのです。

 が、ついでもう一つ、ありうる言葉の誤解をはっきりさせておきましょう。
 「くに」の期限である「ムラ」とは、つまり生産共同体とは、なんら観念ではありません。
 ある生産共同体、いわゆる「農村」や「漁村」におけるムラへの構成員の表象は、それなくしては自己の生存が危うくなる「なにか」です。というよりは具体的に、灌漑も、また短期で始末をつけなければならない収穫作業も、その協同体なしにはすまされない生命線です。従って、隣のムラとの水争いの戦いは、やはり生命線です。そういう協働を生産共同体と呼んでいるのです。
 しかし生産共同体の長についていえば、別に彼がいなければ済まないものでもない=死んだってかまわない。あるいは「この村」だって、隣村との水争いなど、自分も隣村の成員になればいいだけのことです。隣村がいいといえばの話ですが。
 さてそんな村で、隣村が、最近は渇水が続くのでこの村と同時に寄合を持とうと言ったらどうなのか。いやな奴はどの村にもいる。まあ持ちたければ勝手にすればいい。
 具体的な生産関係とはそういうものです。誰もその統合に命などかけはしない。両村の構成員が生き延びるために寄合を共同にするのです。それが嘘だというのなら、平成の大合併など歴史上に存在しない。彼は自己の生命の名において、自由です。
 そしてこの場面には観念世界など存在しないのです。来年の渇水をどうするのか、それは両村民A,B,C,それぞれの次の生き死にに関わる、彼らの生理的将来状況なのです。人は生きるために行為をする。本来。
 
 そんな前提の下で、まず、この観念の「国家」等とはなにか。
 
 人間は自己の将来がかかる状況を、一言の言葉にして表します。他者に注意を授けるためです。いわく「火事」「洪水」「地震」。同様に、人はそれを言えば支配者の賞賛を得られ、仲間から優越しうる状況を体感します。「国家のために」です。それは「支配者」のためでないところで被支配者のストレスから逃れているわけです。「支配者も俺らと同等だ、そう本人が言っている」。実は死ぬのは人民だけですが、それは今問題になっているわけではありません。それが「行為の目的」なるものです。
 この賞賛的・優越的条項にかかわる自己の将来は、賞賛と優越ですが、実際の彼の行為は、支配者が言うままの行為であり、自己の将来のための過程的な現実の行為として行為者は捉える。この乖離が、いいたければ、「疎外」です。この観念作業には自己の行為後の位置は、支配者には都合のいいことに、関わらないのです。
 親は子の弁当を作る。それは子のためであり、行為後の疲労のためではありません。ほんとうに個が満足するかどうか、それは知らなくとも親は「子のために」弁当を作る。それを疎外といってもしょうがありませんが、過程的な行為と観念作業との乖離です。
 つまり、国家とは、行為者の行為論上の願望と支配者の御都合主義的語彙体系との合致点です。

 同様に、支配者の行動も、彼の生き死にについて行います。支配者の本性は「自由」です。生きてさあどうすれば部下や他の支配者の賞賛や優越を得るか。それが彼らの平常です。 
 しかしその根拠が「国家」である場合がある、というより国家を定立させざるを得ない状況があるのです。これが支配者の観念上の疎外状況です。
 第1に、自己の賞賛と優越のために、人を殺し、自分を殺しても満足な形式について認識しておかなければならないし、 
 第2に、その自然史的過程を国家が包摂する過程を、それを結論として、人民に述べ立てなければならない。

 これらが「愚かな」「狂信的」殺人行動の中身です。あるいは平凡な人民の、実は支配者に設定された被支配行動です。
  
 もちろん以上は科学ではなく「説明」にすぎません。
 それは科学の原理を適用した「1面の事実」というだけのものです。その実体は、原理の「ただの例」です。
 例をもって説明し、この原理を因果連関の構成素にしたものが科学なのです。
 が、すでに読者の方々の混乱が見えてますので、(その2)に回します。
 もう5時なの。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

視点選択の現実(その6)

2023-07-22 17:27:26 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。今日はミンミンゼミが初めて鳴きました。カナカナは明け方に聞いてましたが。ところで10日前からジーっていってる音は何の音でしょう、アブラゼミにしては地味で、ずっと鳴き虫だと思っておりましたが。 
 さて皆様におかれましては、暑い中だいじょうぶ? 日曜日はくそ暑い中、某Tデパートへ行ってきましたが、涼しいのなんのって。こりゃ働いてる人はたまんないのか、若いからなんともないのか。なんともモヤモヤのまま帰ってきました。みなさま、今の職場で冷房が効いてないからといって悪いばかりとは思えません。
 うちの学校は暑くていや? いや暑い時は、「先生、やめて食堂行ってアイスコーヒー飲みながら授業しましょう」といえばよい。コーヒー代はもちろん先生持ちです。いいねえ、学生は。
 冷房問題にして「問題を矮小化」したかもしれない。要は、なんとか元気を保てるといいね、という。ここに来た若い人たちの大部分は、テーマ検索1回目で過ぎ去っていく方たちで、悪いけど関係ないや、と思っておりますが、2回目以降、再度以上来た方たちは大切なお客様。ほんと、お体を大切に。
 生きているといいことなんか沢山ありますし。いや、「そんなことはない」とかじゃなくて、これから生きての話ね。この知識は年寄りの勝ち。

 ネット情報はここのところ子供が死んだニュースの見出しばかりで。気が滅入るので開かないけれど。
 こんなのは明るい。
「大阪万博「やりたくない」 費用高騰に人手不足…ゼネコンから悲鳴」(朝日)
建設業界さえやりたくないならやめてしまえばいい。災害復興用にいくらでも資材も人手もいるだろう。これは明るい。

「函館市教育委員会は7日、市立小学校39校の全校で今年度のプール授業を中止すると発表した。バスの運転手が不足し、プールのない学校の児童が近隣校に移動できなくなったのが理由だ。」(読売)
 函館なんか寒いんだからやめたがいい。なんて明るいんだ。泳げなければ危険な川遊びもしないだろう。代わりに温水プール借り上げで1日だけ水に浮く練習をすればいい。浮かべば後は危険がわかる年齢になってからいつだって泳げる。と思ったら、函館には民間プールもめったにないね。要するに泳げなくていいんじゃ?
 
「100万円のVIPシートも! 夏祭り・花火大会で観覧席の“有料化”進む」(日テレ)
ねぶたが100万、阿波踊りが20万だってさあ。祭りってみんなで祭らなきゃ意味ないんじゃないかい?
 まあそれもよし。みんな一緒なんかじゃないことが少しずつバレていくから。
 差別の祭りへの普遍的な仲間幻想もここまで。

 さて、イヤミの羅列はこの辺で。本題。

 先週は社会史派の新しい歴史本を取り揃えてしまって、薬で傷んだやる気をさらにいっそう低下させてしまったので反省。年寄りは古い世界から新しい流行りへ浮気してはいけない。
 というわけで、本日のとっかかりは降旗節雄「歴史と主体性」という古い本。「科学とイデオロギー」についてのマルクス主義運動が命派との論争本で、私(たち)としては既に決着をつけたテーマですが、
(「社会科学の視座と方法」(その1)2023/03/11 以降「論理の行為論的基礎」(その5)2023/04/15 まで。題がいいかげんなのでご注意)
 彼氏が躍起になって言うし、彼と論争してるほうも何もわかっていないていたらくで呆れかえったので、蒸し返しの(その6)。
 この論争者たちはマルクス主義者同士なのですが、両方とも、科学というものが一つだと思い込んでいる。つまり「資本論」は科学で真理なのだ、神聖不可侵だ、と信じ込んでいる連中。ところで威勢だけはいい主義者は、降旗がその不変のマルクスの真理を勝手に変えている、と言い、降旗氏は、科学をわきまえていないのは君たちだ、といいつのる。両者ともわかってないから、まあ消耗なこと。

 で、科学は研究主体の価値意識でいかようにも表現できること、ただし、結果としての因果連関の法則は、歴史的一時点においては普遍にして不変の真理であることは既に述べたのでいいません。
 本日のお題は、なぜ価値意識によって違う或る一視点を、誰にでも普遍な視点であると思い込んでしまうか、について。
 
 まず第1に、人間が認識する「世界」には秘密があります。それは「世界は登場物で出来ている」ということです。当り前ですね、だが、誰も気づいてはいない。世界を構成するものは客観的に独立して存在する原子構成物なんかではない。すでに行為主体が「独自に」認識せざるを得ない意味を内在する、あるいは行為主体に喚起させる、特定物の集合である。
 ということに人が気づくためには、その系を述べなければならないでしょう。「系」とは、まあ「そこから導かれるもの」ですね。
 
 第2に、系の1は、このため、「或る世界を語るものは、その登場物を限定することで世界を確定してしまう」ということです。世界を語る行為主体にとって、意識しているいないを問わず、その世界は彼が特定した限定性を持った構成素で出来ています。そんなもの、他人と「同じ世界」ではありません。

 第3に、系の2は、その登場物がどう動作するか、行為主体、つまり観念者が知っている、ということです。どう動作するか観念できないならば、たとえ視界や聴覚世界に現れてもそれが意味連関を持った像をなすことはありません。初めから「自分だけがその内実まで知っている」から、他人にわからないのが当然だというアタマがない。わからないほうがバカだと思い込んでいる。
 
 第4に、系の3は、従って、観念者が自分で生きてもいない世界、あるいは「先生に教えてもらっていない」世界のことなど分かりはしない、この登場物の動作は、自分が生きている意味を持って、または「先生に教えてもらった通り」に動作し、意味を持つということです。これがかみ合わない観念生活者相互の「論争」というものの虚しさの源泉です。
 
 第5に、系の4は、その表象がどれだけの自分にとっての行為論的な意味を持つかということを観念者が知っている、ということです。これはいうのもヤボですが、教授の言うことを聞いておけばアカデミズム生活は安泰であり、方や、組織内生活者は理論指導者の言うことを聞くのが地位の条件だ、ということです。
 
 題6に、系の5として、従って、主体的な研究者は、自己の生きてきた世界にのみ従い、既存のアカデミズムや前衛教義にとらわれてはいけない。まるで無駄だからです。それは他人の生であり、他人の教義です。決して自分のモノにはならず、自分及び自分の仲間たちの利益にはなりません。
 
 とね。

 まったく無関係な話し。無地のシーツで上下の不明なものがあるでしょ? で、ネット情報によると
 「シーツの上下にある折り返し部分をヘムといいます。大きいヘムと小さいヘムがありますが、一般に大きいヘムを頭側にします。本記事は株式会社サイオ出版の提供により掲載しています。」
    https://www.kango-roo.com/learning/4406/
なんて書いてあるんだけど、ほんとだと思う?
 足元は重くする(大きいヘムにする)ほうが常識じゃないかね?
 どっちでもいい? おっしゃるとおり。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間にとっての矛盾の3形態

2023-07-02 13:55:08 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。
 こんにちは、ってなんだ? って、そんなこといわないで。昨日のブログはあまりにむ無内容かと思って、お口直し。こうしてクッションを入れておけば、より大きな「来週期待」が仮に遅れてもいいかも、と。
 
 で、すぐ本題。
 人間にとって、観照の愉しみのためではなく行為に道筋をつけるべき「矛盾」とは、以下の3通りです。
 
1 ある概念を構成している規定性が複数あること。初めの人間の認識反応は「変すぎる」です。
 これは別に、いわゆる反対しあうような矛盾ではなく、ただ2個(以上)あって相入れない、というだけのこと。これは弁証法的な叙述で解決されます。

2 或る現実の事態が、そこから行為するときに、行為主体にとって相反する状況を生む状態。
 これは他者や他者群によって引き起こされるわけで、主に支配状態の反映であり、まれにジェンダーの問題を原因とします(愛しているのに、かえって嫌われる)。
 いずれにしてもこれはコトバの問題ではなく、他者や他者群の変更に向かうしかありません。

3 人間の行為というものが、ある状況に対して同じ反応を予定するものについては、その対象を一括して把握してしまおうとすること。隈行為論ではこれを対象の象徴性と呼びたいと思っております。(例:お前も人を殺せという「日本」と、「友達みんなが住む」日本がダブることによる行動分裂、あるいは言説分裂。)
 しかし、これは解決されない。人間は認知して行動する生き物だから。あえていえば、現実が、行為主体から離れて、解決してくれます。

 以上の3通りです。

 が、ここに、違う用例も生ずることがあります。
 いちばん巷で見かけるのが問題の中に2通りのコトバの意味を隠す、数学的(ギリシャ的)パズルです。
 しかし、社会論の中にもよくでてきます。これら3通りの事例の認識時に、行為主体がその状況を、当初の概念における自己矛盾と認識し、そこでとどめて修辞し続ける事態です。
 その結果は、概念「〇〇」の自己矛盾、となります。

 というわけで、現在借用中の阿部照男氏の「生産的労働と不生産的労働」。
 こうした「生産的労働」テーマというのは、残念ながらマルクス主義の内部論争の域を出ることがありませんので、私にもみなさまにも関係のないところですが、著者阿部氏的には著者の論の根底にある、という「労働の自己疎外」論。こういう論が出るから「労働」物神は悪いところしかないのです。
 本来、支配に取りこまれてしまった生産行為が労働=賃労働であるはずなのに、阿部氏もそこまでは実質的には認識しているはずなのに、いうには
 「労働は喜びであるとともに苦しみである」という矛盾、と納得してしまう。そこから苦しみの根源である、あるいは賃労働の根源である、通時代的な(生産)行為における支配の解明に食い込んでいこうとしえないのが「労働」物神=マルクス主義経済学です。あるいは人民が常に行っている「労働」の認識に至れない講壇社会主義といったほうがいいかもしれません。阿部氏にとっては、歴史は嫌な労働を他人にやらせようという人間行為でしかない。論のストーリーをどうするのも演者の自由です。しかし、その理論なるものは、それだけの解釈に過ぎない。 
 
 皆様にこんなことを言ってもしょうがないけれど、すぐ本を返してしまいますのでその前にケリを、と。
 皆様には、論頭に上げました矛盾の3形態を、それとしてご理解ください。「矛盾」「矛盾」と騒ぐ内実が分かりやすくなると思います。
 
 と、想定より元気でしょ。今回の薬、まともだった。少し頭痛いけど、理由なんてわかりゃしないし。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原因と規定性。現状分析と主体性

2023-05-20 15:56:11 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。相変わらず気温が乱高下、梅雨の走りとかで、そろそろ毎日のように雨に注意ですね。
 というわけで私の10年来のビニール傘が2本ぶっ壊れたので買いに行ったら、100均で売ってないの。知ってた?
 まあ最近円が弱いからなあ、とコンビニに行ったら、最低600円越え、って知ってた?
 冗談じゃねえよ。結局ドラッグで400円で入手したけど。
 ジャンプ傘でなくていいんだけどなあ、、あれぶっ壊れるときも大げさでいや。
 
 本日は都内在住の姉が、「東京都から米を貰ったけど多いから」ってお米5kgを担いできてくれました。どうもありがとうございます。しかし交通費1000円くらいかかってると思う。なんでも9月には野菜をくれるんだそうで。都もお金持ちですが、これって「地方自治」かねえ、、
 こういう低所得者対策って、なんか違う気がするんだけどね。そりゃとっても助かる家があることは分かりますが、そんな需要は非課税世帯じゃなくたって(ないほうが余計)あることでしょ。一方、非課税世帯の多く(≒老人年金世帯)はなんとかなるもの。

 ま、地方自治という名の他人事。
 いえることは、どんな年齢でも「寄らば東京都」です。

 今日はG7とか。ま、全員を原爆資料館に連れていけたのは岸田を褒めてあげよう。しかし、もやもやする奴だね。もっとしゃきっとできないものか。
 それより、これ
 「G7首脳らが食べた“おもてなし“料理がこれだ。「これは美しい」と反響【広島サミット】」(ハフポスト日本)。
 いやあ、写真見たらおままごと。各国首脳にご同情申し上げます。そうです、これこそ日本文化。こんな「お菓子」じゃいくら食べたって健康。
 
 日常のニュースでは
 「防衛費増額の財源確保特措法案、衆議院の委員会で可決 」(TBS NEWS)
 「防衛費増額をめぐっては、政府は、財源に東日本大震災の復興特別所得税を転用する方針」だとさ。これは確定申告をしないと怒りがわからないかも。
 ざけんじゃねえよ。別枠でいやいやながら(2,3回)払ってたのに。基本、所得税非課税で、もう払ってないけどさ。来年、ちゃんと項目なくせよ。
 
 さて、どうでもいい話が続いたので、本日は久しぶりにオタク論議。
 といっても読者のみなさんは分かっていることなので、いまいち気が乗らない。といっても相手が違う言い方をしてくると「へえ」と思うかもしれないので念のため書いておきます。

 お相手は小野塚知二という経済歴史学者、ないし政治経済歴史学者。本は『第一次世界大戦開戦原因の再検討 ―国際分業と民衆心理』(編著)岩波書店 2014年.
 (この)戦争の原因は、今まで経済史学で明らかにされたこととははるかな違いがある、(趣旨)のだと。いわく、ほんとうの戦争の原因は、「民衆心理と政治の相互作用」だと。
 ちょっとため息。
 ああ、そうか、ふつうの経済史学東京大学名誉教授には、社会(科)学と違って、社会と個人の照射側面について、その違いを説く意味合いさえわかりはしないんだな、と。
 そりゃね、「歴史の原因」は個人の行為だから、「民衆心理と政治の相互作用」といっときゃ間違いないさ。
 だけどさ、それは近代以降の動乱であれば、それがなんであれ該当する、無意味な「テーゼ」崩れだ、ということも間違いないの。だから、それは歴史学であって、今まで経済史学が営々と積み上げた社会科学ではない。
 なお、ここで「近代」とは、「大衆」の「存在」規定性をいいます。近世以前では大衆ないし民衆は、政治上ではいなかったのだからしょうがない。あるいは武力現象上といったほうが達観的でしょうか。
 
 歴史家の言う「原因」なるものと、社会科学者、あるいは経済史学者の言う規定性とは、似ても似つかないものだよね。
 つまり、「科学」の存在要件である因果連関とは、将来について適用できる立言でなければならない。「これが原因でしたよ」なんていう過去の一過的野球解説など、ただの娯楽にすぎない。
 
 もちろん、歴史学が「今までの学には民衆心理と政治の相互作用の観点が欠けている」と言いたがる根拠はある。経済学ではそれらは考慮の対象にはなっていなかったから。 
 規定性だけでは歴史的一時性においてその将来に立言を使用可能にするには足りない。
 人間は彼の周囲が産出する権力に集約される。それは心理学でも社会心理学でもない。そもそも「権力」とはそういうものなのです。すなわち権力とは肉体力の集約であり、それは行為共同性の集約でもあります。
 さらに、行為は、行為主体の志向性と環境とによって決まる。決して偶然が決めるものではない。そこには規定性が反映する「あるもの」が存在する。それが主体性なのです。そして志向性は、環境の変数なのです。
 従って、科学者が語るべきことは、この環境なのであり、この環境と現実行為との間に橋渡される説明要因として、権力と「社会心理」なるものが止揚されるのです。

 これを「現状分析」の作業といいます。そこでは「民衆心理と政治の相互作用」に相当する「行為共同性と運動の基礎理論」が適用される。すべて、規定性も現状分析の方法も隈が解明済みです。もっとも、隈の行為の基礎理論が世間で当然のものとされない限り、現状分析なんかしたってムダだからしないけどね。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

論理の行為論的基礎(その5)

2023-04-15 13:33:47 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。今日は全国的に雨。雨だと買い物の用がなければ外に出たくはない、というと、春の花なんてすぐに盛りを過ぎてしまう。黄色く綺麗だったタンポポ野原も昨日久しぶりに見に行ったらすでに飛び去ったあと。昨日咲きかけてたツツジ群も、すぐに茶色くなっちゃいそうだ。
 
 今日はディズニーランド40周年だってさ。もう、かね。わたしゃ出来て3年くらいで行きましたが、ただのデパートの屋上、樹もなくコンクリーの照り返しでひたすら暑くて。子供が小さいのでダンボと恐竜汽車に乗ったくらいで。ダンボが200円で汽車が500円、多分。昔は乗り物は別枠だったかtら。そのうちパスポート制4500円になってこれが長く続くの。これが痛かったのね、他の遊園地。どこでも個別に乗ってるとすぐ4000円なんて超えちゃうから、それならディズニーランドのほうがいい、って。
 で、端からつぶれて独占企業になったところでおもむろに値段を上げる、と。もう9000円。マイクロソフトのようだ。資本家のやることはどこも同じ。そのうえ「並びたくなければカネを払え」って。驚いたもんだ。ハンディキャップ優先はどうなるのかしら? アメリカ民主主義なんか忘却の彼方だね。
 
 わたくし儀、気づいたら先週あたりで父ちゃんの死んだ歳を超えてしまいました。父ちゃんも隠居するところでしたから、まあそんなもんかな、と思いましたが、私もそんなもんかな。まあ。カネもない分私のほうが食生活がいいので多少延びるでしょうが。延びなきゃ栄養士は全部廃業。みなさまも中年すぎたらケーキはお預け。宴会は酒とサラダだけにするように。タンパク質? どうせふだん食べるじゃん。
 
 おや? 和歌山で岸田の演説が邪魔されたって。
 わたしゃ別に岸田は好きではないが、遊びで世間を渡ろうとするやつは大嫌いだ。おさわがせ回転寿司やろうとどこも違わねえ。
 厳罰で致し方なし。


 さて、本題。
 まだ引き続いている視点問題。あんまし書いてるとみんな逃げていくよね、この辺が潮時か、もう遅いか。
 で、前回述べました認識主体の『この方法が「社会事象という対象に備わった」形式論理と弁証法です。』なる件。なぜ、そんなものが認識対象に備わるのか。
 
1 形式論理

 問題は、われわれは「形式論理」や形式論理「学」に沿って思考しているわけではない、ということです。誰が付けたか形式論理。これは「表象論理」とでも名付けたほうがいい。
 生物にとって、思考的判断とは、第1に、「同一と差異」です。
 物体は既知のAと同じであるかのように感覚されるがどうか。リンゴとリンゴのようなナシとは、同一のモノか。 
 ついで第2に、感覚上違いがあるときに、結果機能的に同一とみなしうるか。
 リンゴのように甘く喉の渇きも収まるナシは、別ではあるが、ある意味、同一です。これは「同類」と脳内で指示し、同一枠におさめたい。 
 こうして、同一物、異物、一般のカテゴリーがセットされます。 
 
 ここで、しいていえば「同一」と「異物」だけは生物に先天的に備わった感覚の結果です。それだけに「方法」ではない。生物にとっての方法は、その異物が「同様」の位置に転化する機構です。撫でて同様に心地よい「同様の毛皮」、食べて「同様に」満足する「餌」、生物は対象を操作し、次の行動の規準を入手する。この過程全体が方法です。
 すなわち、その同一性の成立をめぐる構成こそが、世で「論理」と言われるものなのです。何をもって「同一」となるのか、それが本来の「定義(規定)」であり、これを同一たらしめる要因が「規定性」です。

 手近にある本から表現を取ると、宇野弘蔵「経済学方法論」の5ページに
「かかる経済原則の解明自身を経済学的研究の対象となすことは、商品経済を対象とする経済学の特殊の意義を抹殺するものといってよい」とあります。
 ここで、経済原則なるものが本当にあるのか、宇野の念頭にあるものは本当に経済原則と呼べるのか、ただの歴史上特殊な事例ではないのか、そもそも経済学は商品経済を対象としているのか、そんなことは誰が決めたのか、エトセトラエトセトラ。文章はその文が示す事象が、誰にとっても同一の規定をもっているのかどうか、持つといってよいのかどうか、持つというべきではないのかどうか、すべて、哺乳類生物一般、「私、子リスはこの丸いドングリのようなものを、ドングリの同一性をもって齧(かじ)ってよいのか」という疑問の解消過程と同様です。
 と同時に、「母リスはやめろというが、それは同一ではないためなのか、それとも同一なのに自分が食べたいからなのか」
 これがイデオロギーが排除される根拠です。同一性判断とイデオロギー排除は、常に生物の志向の結果です。

2 弁証法

 さて、話は変わるようですが、あるドングリのようなものはリスにとって、今日は食べられないが、川に落ちたそれは(アクが抜けて)1週間後食べられることがあります。母リスは平気で食べているのを見て、目のいい子リスは不思議に思います。人生不可解。同じはずのモノはどうして違うのか。この不可解さを解く者が第2の要因、「川に落ちた古い状態」です。この以前の状態と今の状態という2種の(現行の論理学者が矛盾と呼ぶ)出来事を取り持つものが弁証法です。
 ご覧になればわかるように、前記「 」内は1つの要因ではなく、まだ2通りの要因の複合した状態ですが、それが複合しているかどうかはさしあたりわからない。生物は2項対立しか取り扱えないのです。このため弁証法は哺乳類生物にとって普遍的な方法となるのです。

 「「方法」っていうけど、「同一と差異」のどこが方法だ?」
 それそのものの決定過程が方法の本体です。
 上記の本も、「経済学方法論」だのとわかったような題がついていますが、これはそもそも根本から違う。ある不動の概念があるものと仮定した人間(宇野)だけが勝手になすワザです。
 本当は、当該書で述べている「経済学の対象」や「段階論」の設置や「唯物史観」や価値論、恐慌論等の分化項目について、宇野弘蔵がそれらの「項目の性格を決めたときに」彼独自の「方法論」なるもの内容が決定されているのです。だから、本「方法論」なるものは、各項目をそう設定した宇野の意図の叙述に過ぎないのです。お疑いの方は確認されたい。
 
 さてそこで、この行為主体の資料は環境世界しかない。何が「正しい」って、知らない人間は知らないんだからしょうがない。
 そこで、市井の本物の「科学者」でなくとも、実証的な事実を探求する「学者」が必要なのです。まあイヤミですが、そのくらいは「市井の」人間のささやかな権利ではないかと。給料も印刷費もらってないし。
 
 なお、「矛盾律」,「排中律」などというものは、伝達の道具である言語に付随する、コトバの決まりごとに過ぎません。つまり、それらがないと、「一体お前の言うことはどっちなんだ、バカ野郎」という事態が生じ、会話が成り立たない、という事情です。 
 (いう必要もありませんが、世の中の自称「論理学」というものは、ただの定義の不十分さから生ずる混乱を面白がる子供の遊びごとです。)」

付) 推理

 さて、ついでに、論理の一種とされる、「推測法」について付記しておきましょう。
 ちなみに、上記のドングリの例は本当かどうか不明です。ニホンリスはオニグルミがあればあえてドングリを食べないようですが、しかしクルミがなければ我慢して食べる、と事実探索学者が述べます。一方、シイの実は人間でも食べられる。またアクが強くて食べられないナラの実等は粉にして水にさらせばヒトでも食べられる、と事実探索学者が述べています。かくて、推測ではありますが、上記の例は間違ってはいないのではないか、と考えられる。
 つまり、「類推」です。類推とはかように、同一性の適用拡大のことです。
 帰納法や演繹法などというものは、学者の遊びです。人間の生活に、例外のない事象などない。行為上の将来はすべて推測の域は出ない。生物の生活はこの同一性をめぐる思考からできているのです。


 で、まあ、こういうことをいうと、どこに書いてあったんだ? などという奴がいる。この隈、はばかりながらこのブログで他人様の諸理論などを使ったことなどない。全部、自前。他人をけなす時に引いてくる例を除いては。誰にだってそのために頭がついているのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誰も知らない事象把握と方法との差異(その4)

2023-04-08 13:57:41 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。みなさまには春は満喫されましたか? 東京地方、花見の季節も一応終わって、気ぜわしさもなくなりました。今日(土曜)など、老人関係か、ハイキングの団体を沢山見かけますが、新緑だけならいいや。でも高尾山の山桜は見たい。
 スケジュールが落ち着くと、やっぱり目がかゆくて。でも今年はほんとに鼻への影響が消えました。もう死んじゃうのかな。

 なんでもムツゴロウが亡くなったとか。そこそこ青春時代の人なんですが。訃報欄を見ると毎日、時代に追われます。
 わたしはモラハラだから、ムツゴロウ好きではないけど、しかしすごい人間だとは思います。皆様などはお若いとご存じないでしょうね。北海道の時代に畑氏が書いた本には「到底かなわない」と感心させられます。テレビに出てた頃はもう変すぎる爺さんですが、本の「ムツゴロウの動物王国」みたいのね。畑氏も若いからすごさも一層。
 
 さて今日の新聞、
「社会保険料に上乗せ…だけじゃ足りない 少子化対策、負担増は誰に?」(朝日新聞)。
 ここんとこ忙しかったから知らなかった。なんだよ、社会保険料上乗せって。ほんとに金満サラリーマン政府・官僚なんて家族持ち社会保険料の重さがわかってねえんだね。ふざけんのもいい加減にしろ。そうしたいというのなら、少子化対策などくそくらえだ。もちろん、これはとばっちりで、軍事費倍増がいけないのですが。

 今日の朝日で、ふつうの人でも食べられる食堂車は60年代半ばから70年年代半ばまでの19年で終わった、なんて書いてありました。
 うそ。つまんねえうそ。私は1979年、盛岡から上野までの電車で、ハンバーグステーキを食べました。唯一の経験ですが。大変美味しく、ビールのコップが揺れないのに感心しました。(特急だったとしたら初めて特急に乗ったのかも。行きは夜行急行)
 鉄道はお弁当を食べるのも好きですが、どこの駅の弁当も似たり寄ったりになってしまって、文化は細るばかり。

 さて、オタク話もだんだん込み入ってきて、どれが当該記事かわからなくなりそうなので「(その連番)」をくっつけました。本日は(その4)。

 とっかかりは、日高普「抽象化の問題」『岩波講座哲学12』所収、岩波書店、1968.
 日高氏は宇野シューレ。といっても大内力氏の弟子。宇野学派らしく、「科学の方法は対象によって規定されること。したがって社会科学の方法は、社会の動きによって規定されることが明らかになった」とのたまう。面倒くさいことに、これと対比されるのがう”ぇーばーで、日高氏は彼が「科学の性格を決定するのはもっぱら認識主体の方法だけであるとする新カント派の科学論」だったという。
 これでは隈も新カント派だ。困ったものです。

 さて、以前このブログで述べたように、科学はその対象の「性質」によってその「方法」が決定される。その典型が「自然弁証法」です。人間の自然の認識が弁証法的となるのは、「自然が弁証法的」だからなのです。(2017-09-09)
 しかし、「科学の方法は対象によって規定され」は「しない」。
 自然科学で使われる方法はだれでもご存じのように、まずは、「数学」です。数学の日常的使用分は形式論理であり、近世以前の「自然科学」はこれで叙述されているともいえます。もしも自然科学の方法が自然という弁証法性によって規定されるなら、数学など使えないはずです。
 「それはお前が間違ってんだろう」?
 違あう。
 人間の把握の仕方と方法とは別のモノなのです。人は特定の自然事象という対象について、『その対象が持つ性質が許す方法の中から』『自己の主体的関心にしたがって、彼が把握している対自然的知識による適切な性質と方法を表現する』。この前段と後段は、別の規定性の下にあります。もちろん近世以前の自然科学にも数学を使わないものもあるのは、研究者の主体的関心が選んだ対象について、その対象の性質のうち、主体が認識している対象の性質によるのです。
 述べたように、人間は社会事象の中に、自分が理解しうるエイジェントを見つける。そしてそのエイジェントの5W1Hを設定する。そこから彼のエイジェントの動きが始まるのです。したがって、そこからが彼の認識の方法なのです。彼がエイジェントをどう動かしていくか。彼の過去の自分の環境との対話方法に即してエイジェントが動く。すなわち大方は形式論理であり、それで解けない関連が弁証法的操作となるのです。
 もちろん、経済学もしかり。
 日高その他の宇野シューレは自分の「科学」が唯一だと自己の科学性を標榜しますが、残念なことにそんなものは存在しない。
 さて、誰も知らない一言。
 新カント派が誤っていたのは、彼らが「対象とは独立に」科学の方法があると思っていた、「その1点に過ぎない」。何度も言いたい、誰も知らない一言。私の名誉の問題ではなく、世間の哲学論議がバカバカしくて。アホはもうやめれ。およそ生物たる存在において、「独立に」なにがあろうか。ほんとにくだらない宗教家たちが今もどんどん湧き出てくるので言いたい。
 といって、自称唯物論者がバカでないわけではありません、が、それは時代と共にスイープアウトされたから、追い打ちはしません。
 人間の「社会事象という対象」は、空中に浮かんでいるわけではありません。「既に」対象を認識する主体の頭脳のうちにあるのです。「その性質はもちろん対象に属しはしますが」、認識行為主体は、この既にある知識と交換消除創成を行いながら、認識を深めていく。何度も言うようにこの方法が「社会事象という対象に備わった」形式論理と弁証法です。
 さてその前に、その加減消除の舞台を作るのが視点と視座であり、これは「社会という対象の中ではなく」諸関係の中で自己の頭脳のうちにあり、「したがって、どう設定しようと個人の自由」なのです。

 ま、難しいやね。
 ここに出てくる登場項目は、
 1 性質を持っている、と言わざるを得ない対象、と
 2 それを見ようとする主体の主体であるという性質
 3 行為主体が扱おうという対象の限定化
 4 限定された対象の性質とみられる側面
 です。
 1と4が方法に関わり、2と3が主体に関わります。
 かくて、1と4は「探求者の意思の如何にかかわらず同じ」であり、2と3は「自由」なのです。
 
 
 でさ、ネット情報に
 「目からウロコ…東大の総長が「自分の頭で考えよ」という物言いを「危うい」と感じた理由」(4/3(月) 7:32配信 現代ビジネス) 
 なんちゅうのがあり、蓮實重彦が「頭で考えたってたかが知れている(趣旨)」、と言ったそうな。文芸評論家なんてそんなもんよ。学長になるのはやめれや。
 いやしくも社会科学に関わろうという人に限っては、自分の頭で考えなさい。長い目で見ればそのほうがずっと効率的です。
 あるいは会社で一つの仕事を教えてもらうとするでしょ。仕事のやり方は尋かなきゃわからない。でもそれがなぜそうなのかを自分で考え、調べてわかれば、その先、別のことなのに尋かずにかえって人に教えられるようになるのです。といっても会社の場合はその人の個性なので、どちらでもお好きに。人間、長所も短所もトータルで1人です。
 ただ個性とはいえ、はっきし言って、そうでない人間は頼られないよ。頼られちゃ、うっとおしい、って人もたくさんいますけどね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

視点の同一、そして方法(その3)

2023-04-01 15:28:27 | 社会学の基礎概念
 こんにちは、今日は日本中が暖かいようで。日本中お花見オーケーそうでもあり。今日は出勤の人も夜桜だいじょぶでしょう。 
 年度替わりで新しい仕事とかいらっしゃいます? よくも悪くもどっちにしても仕方ないなら、こういうときはいいほうに考えないと損ですね。気持ちの問題じゃなくて、幸いどこにいっても良い人はいるもので、その人と知り合えたと思えば人生まんざらでもない。悪い奴も多いですが、そういうのは十把一からげで断罪して記憶から突き落とすのがいい。

 ニュースでは
「チャットGPT、イタリアでアクセス停止に データ収集など「違法」」(朝日新聞デジタル)
 チャットGPTって見た? AIがなんでも即座に教えてくれるサイト。いや~、いたく感心。これは評論家はもう要らない。高校教師もたいへん。記述式の宿題なんて一発だよ。そのうち「可笑しく教えてくれる」ランキングを競ったりね。byヨシモト。
 ま、コンピューターは信じてもコンピューター会社を信じちゃいけないので、わたしゃ試してみただけ。

 「10代前半の9割以上が「自分は幸せ」 内閣府調査」(テレ朝news)
 なんちゅうのもあって。
 そりゃあそりゃあおめでたいことで。わっちも同情不要で気楽でさあ。
 わたしなどは不幸のどん底だったけどね。まあ家はだんだん裕福になってきてたので、気の持ちようの範囲内。
 わたしは昔のことはすぐに忘れてしまうのだけれど、今週は「高校紛争」なんて本を借りて読んで、中高のころを「ああそうか」と思い出しました。教師は敵だったんだよね。年上はみんな敵。と思い出して、ようやくなんで彼らの思い出がないか分かりましたよ。記憶から突き落としたから。思えばもったいないことをした。善良な人も多かったのにね。まだ学生の人は教師と仲良くしてね。

 昨日の朝日新聞のコラムは谷川俊太郎だったよ。『さようなら』って詩の出だし。 
 
    ぼくもういかなきゃなんない
    すぐいかなきゃなんない
     、、、
    
 人が自立しようとする歌のつもりさ。
 ほんと、大嘘つき。
 どこのくにの中学生なり高校生なりが「ぼくもういかなきゃなんない」などとのたまうのか。親のお涙狙いのアクロバットだ。これだから朝日も信用できない。人間はな、人間は一人でどこかへ行くときには言い訳などする暇はないんだ。そんなことも忘れたのか。
 もう心などはるかに置いてき忘れた2流詩人、年寄り谷川俊太郎。これから絵本作家谷川と呼ぼう。

 さて。本題に移ります。視座は5W1Hで、視点は取り扱い世界の設定。もう一つ踏み込んでいえば、登場エイジェント(登場人物)の選択のことだといいました。
 そっからさき。
 視点も視座と同様に方法に先行します。なぜか? 視角・視座あっての概念だからです。ナイーブすぎる資本論崇拝者は、おそらく、資本論で展開した諸概念こそが真理だと思っているでしょうが、そうではない。それらは真理の一つに過ぎない。これはおよそ社会科学者のみならず、いまどきは歴史学者さえ知っていると思われる基本です。ある視点・視座の下に、当該理論で動き回る概念は「作られる」。それに優劣などない。

 ついで、ある一つの理論の中では諸概念が持つ意味は同一です。これは誰にでも「もちろん」でしょう。
しかして、マルクスのプラン上、概念の章である資本論の次に、あるいは次の次に、そして最後までずっと、同一の概念が動く。「もちろん」。しかして、或る理論において、その視点及び視座は必然的に同一でなければならないのです。
 考えたことのない人にはわからないかもしれないですが、資本論も土地所有論も賃労働論も国家も貿易論も世界市場論も、すべて同一の視点・視座において叙述されなければならないのです。
 これも誰にでも「もちろん」というしかないのでは?
 さて、そこでです、居並ぶマルキストに置かれましては、続きを書いてくれたまえ。

   (ト書き)と言って、教授は教場を出ていった。

 いやほんと、自分で考えたことのない諸君が相手だと、レベルが違いすぎて議論にならない。
 概念の章以上は書けやしないわけよ、同じ視点でなんか。なぜか。このマルクスの意図については、諸概念段階の視点が初めから間違っているから。これが150年経っても資本論の続編が出ない理由の秘密です。
 われわれはなぜマルクスのようなプランを立てるのだろうか? 世界をこの手で掴(つか)むためです。静的な把握ではない、この手で掴んでそれを動かす、変革する、ためです。その第1歩で立ち止まらざるを得ないような叙述は、決して「理論体系」ではありえない。
 ここで「方法」は下僕です。弁証法であろうが形式論理であろうが、使えることを条件になんでもよい。何を端緒にしようが、どこで止揚されようがそれは都合次第です。この止揚を何度繰り返しても構わないが、理論者はその時々に明らかにされた環境の規定性を武器に、世界市場までの道のりを、同じ視点と視座と諸概念をもって歩き続けなければならないのです。

 さて、題の「そして方法」です。
 方法とは、事実認識の整序の仕方のことです。一般の日常では、事実認識は、事実であろうとなかろうと、事実であるかのごとき風体で並べれば理解しうる。つまり形式論理です。しかし込み入った事情では次の段階として、事実認識を段階的に押さえてから組み立てないと理解できない場合がある。これを解くのが弁証法です。しかし残念ながら、人間の悩みは(?)これで止まるものではない。
 上記のように私としては第1に100人の人が100人ともに生きる過程で得る「形式論理」と、第2に、弁証法という2つの方法しか認めていないが、可哀そうなことに、学問に従事する人にはもう一つクリアしなければならない「方法」がある。「諸先賢の視点・視座からの離脱」という方法です。
 可哀そうな徒弟制度内人民は、先賢といわれる自分が生まれる前の爺さん婆さんの理論を使うように強制される。何千年前からのサガです。
 ここで、使うのは構わないが、問題は、直近の先人の無自覚です。
 少なくとも社会科学の場合、先人は絶対です。先人が直近の教授を教授たらしめその前の祖先教授はさらにその前の教授が教授たらしめ云々、これはイヤミではない、同情です。
 いったように、視点・視座の違う人間の諸概念は、流用した「その時点で自分にとっては全部誤謬」です。実証論文であれば自分に帰着する傷はないに等しいが、理論論文では致命的です。視点の喪失とは意味の喪失です。にもかかわらず何千人もの40歳前の諸教授・准教授の理論論文には、交通整理も出来ぬ視点・視座が氾濫している。これは私には関係はないが、これからを担う若人にとっては重要です。よくよく見極められたい。
(わたしの偏見では、最悪がボスも子分もめちゃくちゃな「世界システム論」です。
それまでのマルクス主義が持っていた展望が、その「用語」の定義とともに消えたのに、残っている用語に託してそれが残っていると信じている追随者たちが理論を出版している。この研究意図が消滅した世界の不可思議さといったら!
 いや私は独自にこれだけの展望を切り開いたという人がいれば教えてください。図書館になくとも自前で買い上げしましょう。 .
 が、まあ、付き合いたくもないので「偏見」扱いにしておきます。)

 ところで、めったに作らないグラタンを作ったら、どうも味がおかしい。洗い物してて気づいたら、小麦粉炒めの時、バター(マーガリン)入れてなかった。これは致命的です。小麦粉そのまま食べたっておいしくないぜ(コンソメ、塩、上にチーズは考慮外)。お気をつけください。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会科学の視点の差異(その2)

2023-03-25 13:45:12 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。桜も満開ですね。わたしなど「待ちに待った」ってやつです。東京地方、今日明日雨といってますが、桜を追いかけて周りのドングリ系の木の若葉も出てきたので、雲に紛れていた白いサクラの花も、緑の背景でようやく引き立ちます。
 みなさまはお変わりなく? 太平洋岸以外はどこも4月の異動の季節に間に合いそうで、いやな異動もちょっと慰められるでしょう。縁起でもない? いや経験上。 
 しかし、春野菜は遠のいて。
 結局フキノトウは当町のスーパーには現れませんでしたので、電車に乗って買いに行ってしまいました。高級のせいか小さくあくがない。山ウドもあくがないし、みんな工場製品なんですかね。せっかく食べやすいのに、わこうどは食べ方を知らないんだろうねえ、、油も小麦粉も高くて天ぷらができないか、、
 
 さて、団次郎さんが亡くなった、と。団時朗ね、MG5。中島みゆきのデビュー当時の元カレ。
 違うと言ってる? 言ってることは知っております。しかし,「その通り」なんていう奴はいないし。これでもうウワサにはならなくなるので記念に言っておこうかと。
 
 ニュース。
 「恵泉女学園大学 ことし最後に学生募集停止 入学者定員割れ続く」(NHK)
 おやおや。東京南部出身者としては残念なものが。有名校の(付属)中高の偏差値が落ちてきたのが響いたんだね、って誰も言わないけど。どっちが「付属」かも余地が残りますが。昔の家庭教師の子、恵泉落ちて欧友にいったんだけど、今となればそのほうがよかったかな。出た学校がなくなるのはさみしいものです。

 次。
「マイナカード取得で給食費や保育料を無償化、岡山・備前市議会で予算と条例可決」(読売新聞オンライン)
 政府の犬ですね。犬なら市民の税金で生きるな、と思いません? ワン!と言って政府からドッグフードを貰えばいい。ほんと、代議士を選んだ備前市民さんたちの耐えがたい恥ずかしさといったら。。
 いや、ただのいやみです。現状、岡山に知り合いいないし。
 地方自治なんていらないと言い続けて40年、実際いらないしょ、ねえもん。
 
 さて今日は先々週の続きのオタク記事。視座の次に視点、て逆だけど。 
 ここでいう「視点」とは、「神の視点」「人間の視点」「鳥の視点」「虫の視点」といった、物事のそもそもの根源にあたる見方のことです。視座は5W1Hといいましたが、視点は取り扱い世界の設定。もう一つ踏み込んでいえば、登場エイジェント(登場人物)の選択のことです。
 視座は、他人から相談を受けたとしてアドバイスもできます。しかし、視点自体は本人の選択によるしかない。「しかない」だけに相談に乗って甲乙を云々するというわけにはいかない。さらに、視座に方法はあるけれども、視点には方法はない、あるいはありすぎるので踏み込めない。
 というレベルの話です。
 
 まずはとっかかりで、今週の図書館本の収穫が、降旗節雄「黒田寛一の〈場所的立場〉『「昭和」マルクス理論・軌跡と弁証』所収、社会評論社、1989.
 このブログでも前扱った黒田の「宇野経済学方法論批判」。意味不明の黒田の独り言が降旗によってきちんと整理されて叙述し直されてるからすごい。そう、おっしゃる通り、そうなんだよね、だから黒田が正しいんだよ、、、ん? んん?
降旗:「わが黒田理論なるものの本質は、なおスターリニズムから科学的立場への移行過程にある過渡的「立場」のイデオロギー的表現にほかならない」と。
 正しい。降旗もどこまでも正しいのだが、反批判になっていないことに気づかないところが可笑しいじゃん。もしかするとエールかもしれないよ、、なわけないが。
 こんなの前にもあったね。
 「そうその通り、君は正しく理解しているのに、それがなんで批判になんかなるのか」と 思ったのが許萬元の武市健人批判でしたが(2020-01-11)、つまりは世の中、視点が違うと何も見えないのと一緒という、若い人には理解出来ないであろう事態があるのね。

 まあ黒田も「これ以上はぼくにはできない」と悲鳴を上げただけなんだけれど、それが、直(ちょく)、よほど大したことだと誤解している特殊世間が悪い。
 のだけれど、しかし、それを引き継げる能力が誰かにあれば、それはよほど大したことだったわけだ。
 あほしか残っていないらしいK派はどうでもいいが、北井一派さんとかいうのには、昔の山口勇のようなシャキッとした若いのはいないかなあ、、わたしの次(々)回本が出来たら大量に買ってほしいものだ。

 ま、今日は視点の話。
 要するに、「資本家世界の視点」と「労働者世界の視点」がある、というわけです。それが「誰にも」わからない。マルクスは左翼だから労働者の視点だと思い込んでいる。いったい資本論のどこに労働者が出てくるんだね。出てくるのは原蓄期の農民くずれだけではないか。黒田も自分で主張しておきながら、自分の言った内容を理解していない。 
 視点の移動は一瞬で終わるから、腰を据えて考えないといけない視座の移動ほど難しい行為ではないけれど、移動の余地がある、という発想が湧くかどうかが、主体性のない人々にはエベレスト登山ほどの至難なのだね。
 たとえば「ウクライナが侵略を受けているんだから、これを助けるのは当然」、と信じ込んでる人間に向かって、家族が兵士に殺されている人間が「ウクライナだって抑圧国家だ」と叫んでも通じるもんじゃない。そんな「平凡な狂信者に」は戦争なんか絶対に回避できないにもかかわらず、一方で大軍拡阻止とかいう気も知れないが。労働者を見ろ、といったら、いや商品化されているから出さなくていいんだ、とかいうに違いない。ただの言い訳。
 元へ戻って、
 人間は個人として、自己の場所的立場からすべての理論を積み上げねばならない。たとえマルクスがなんと言おうと。この場合、サラリーマンたる自分にとって労働者の立場を前提としたら、「資本主義経済の仕組み」という経済世界ではなく、労働者がエイジェントである視点から理論を積み上げねばならない。あるいは百歩譲れば、「資本主義体制の仕組み」という支配者世界の視点から、理論を積み上げねばならない。そうでなければ次に「私」は何をするのかがわからないからだ。せいぜい政治屋どもに、「君は商品化されているから資本家と闘うしかないのだよ」なんて「説得」されてその気になるだけ。ほおら資本論はデマゴギーの諸悪の根源だ。
 ここまでいわれて、自分の視点が資本論のどこかに落ちるとしたら、その人はただの大学教授、あるいは資本家に過ぎない。
 黒寛が自分のデマゴギーを反省もせず、縷々そう言っているので読んでください。大学教授でなければわかるでしょう。
 「そんなこといって、わたしの視点はどこに持っていけばいいんだ?」
 そうだろ? 考えたってそんなこと誰も教えてくれないだろ?
 だから悪口をいっても黒寛が偉いんだよ。たとえ自分は悲鳴を上げただけだってさ。
 読めやしない文章はちゃんと降旗がまとめてくれている。降旗の黒田に沿って進んでいけばいい。それで必要条件は満たしている。
 黒田は暴力教祖だとか反革命だとか、そんなイデオロギーをくっちゃべる暇は、科学従事者の世界ではありえません。社会科学徒には科学徒しか歩いていけない生の道があるのです。
 もっともわたしゃいやだから勝手にするんだけどね。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会科学の視座と方法(その1)

2023-03-11 14:26:59 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。眼がかゆいですね。かゆくないか。鼻が出るのは花粉症ですよ、とはいえ、まともな(副作用のない)薬もないのでおすすめもできない。鼻薬って持続すんですかね、当座は効くのは知ってるけど。
 自然界は啓蟄が早かったか、近くの池のカエルたちは卵を残して山に帰ってしまいました。
 人間界は卵320円に達し、5割増しです。こうなると値頃感というのがなくなって、150円の甘塩銀鮭が安く見える。100円の5割増しなのにさ。
 
 ここんとこずっと駄弁ばかりでしたので、本日は久方ぶりにオタクテーマ。
 その前に前座。ささいなニュース。
「イトーヨーカ堂、低迷の理由は「店の2階」にあり 残る100店舗弱に起きる変化」(ITmedia)
 なんでも2階を衣料品売り場にしてたのを、他のスーパーと同じく、テナントにするそうな。
 え~~、そんじゃ私のワイシャツ、細身用ブランドSAVOIA ヨーカドー、買えなくなるじゃん! わたしのような華奢で繊細な体形の人間はどこへ行けというんだ!
 なんて思っちゃったら、退職者の悲しさ、もう、とうに売ってないって。最近は柄シャツをネットで買うから。不幸中の幸いか、、、
 
「なぜ残業代出ない「給特法」教員600人切実な叫び 抜本的に変わるか「合法サービス残業」の行方」(東洋経済)
 なんて話も。教員に残業代が出ないのは「給特法」が悪いってさ。
 ざけんじゃねえよ。てめえらの要求じゃねえか。日教組社会党と日本共産党のきれいごと。わたしゃ高校生だったけどさ。誰も覚えてないと思ってるだろうが、昔の高校生をなめんなよ。
 腹しか立たない。原発福島自治体と一緒だ。
 
 というわけで、一般の方には役に立たないまま、オタクテーマへ。
 2023-02-18 記事で悪罵だけ投げてやめた、視座と理論の関係です。
  
 視座とはもちろん、叙述者がどの立場に立つか、という選択です。
 では立場に立つのは誰か、といえば社会科学上は、なんらかの行為者です。何らかの行為者の立場を叙述者も共有するわけです。それは具体的に生きている個別の行為者であることもあり、抽象化された行為者の集合性のこともあります。
 両者ともに共通なのは、視座とは、その選択された行為者の現実の状況を含んでいる、ということです。社会科学は、マネキン人形を扱っているわけではない。究極的に生きている人間に還元される理論なのです。
 
 この現実の状況とはどんなものか。
 いわゆる5W1Hです。叙述はそもそも伝達事項の集約なのですから、端的に言えば、「いつ、どこで、だれが、何を、なぜ、どうした」を含むのです。
 そして、選択したはずの行為者は、ここでも再度選択を迫られる。
 「視座」の意味は、使用者によっていくらでも分かれうる。
 5W1Hを、叙述者がどう焦点化するのか、すべきなのか、が分化する。
 歴史をどう扱うか、場所を複数化して焦点を当てるか、行為者は支配者か人民か、行為主体の目的をどうとらえ、その理由をどうとらえるのか、彼らのどんな行動をとらえるのか。
 これらの一部が声明者の志向に沿って強調され、「視座」と呼ばれます。「一部」は「全部」でもよいのですが、多くの場合、そのいくつかは声明が行われる場で前提とされているので、通常一部です。 
 もっとも社会理論上での「視座」は抽象的議論内での焦点の行方の差異も示します。ある事象が通例「政治」によって叙述されるところを、政治家の性格によって論ずる、といった例です。社会理論上の議論には、生活上の伝達構造がそのまま当てはまることが少ないからですが、要するに、焦点の当て方の違いなのです。
 
 この前提とされている現実について分析がなされ、その分析の再統合がなされる。この段階が弁証法です。弁証法の前に、視座の設定があるのです。
 
 さて、ここからが問題です。
 だれでもわかることだと思うのですが、一連の理論の中では、視座は同一でなければならない。視座を違えたいと思うのは自由ですが、そうすることでそれは「一連の理論」ではなくなる。江戸時代の人間と昭和時代の人間は決して同じではないのです。せっかく築いてきた江戸時代用の諸規定は、登場人物が変わればその全部ないし一部は作り直しです。この事情はソマリアの人間と日本の人間との間でも起こる。当然です。弁証法を理解できない社会理論家にだってわかることだ。 
 
 というわけで「プラン問題」に戻りますよ。こうでした。
1 一般的・抽象的諸規定
2 ブルジョワ社会での諸カテゴリー
3 国家形態におけるブルジョワ社会の総括
4 生産の国際的関係
5 世界市場と恐慌

(それに隈が加えた)
6 世界市場とブルジョワ国家

 ここでは「ブルジョワ社会」の規定性が終わらない間に、「国際的関係」に移ることはできない。ましてや「世界市場」に移ることもできない。
「いやそこは資本論で終わっているから」というならそれを集約してから次へ進まなければならない。いや現実には「続きだ」といえばいいのですが、「どこが続きだ」と問うているわけです。もちろんそもそも資本論では何も終わってやしない。資本論に国家など原蓄期以外には出て来やしない。資本論は2までしかやっていない。ただの政治経済学批判の序説なのです。

 では隈とマルクス等との視座の違いは何か。「だれが」と「なぜ」です。それが理論をまるっきり引っくり返す。行為主体を支配者と捉え、支配者の意向が被支配社会を動かす。難しいことではない。マルキストも実はそう口にしていることです。口にしていたって彼らには自分のしていることがわからないのですが、それは既に「間違い」の範疇であって、視座の問題ではない。彼らの思い込みでは「支配者は資本家」でありそれは誤りの根源(に近いもの)ではありますが、それはマルクスの間違いとはいえ、だからといって追随者が責任から免れるわけではない。そして、これが大事なことなのですが、それは「方法の問題ではない」。

 なおここで、初学者の方には、たとえば「宇野経済学は科学だから、視座の如何を問わず正しいのではないか」という疑問が出るかもしれません。しかし、わたしは視座の違いで真偽や正・不正が変わると言っているのではありません。「視座の違いで明らかにされることが違う」と言っているのです。
 視座が100あれば100全部が正しい。しかし、ある視座について明らかにされることは、その1視座によるしかない。
 複数の理論間で真偽が違うのは、それはどちらかが、あるいは両方が、間違っているのです。視座のせいにされるのは。真偽の理由がごまかされるという意味で、他人にとって迷惑です。
 たとえば、正統派マルクス主義経済学と宇野経済学の間にあるのは視座の違いではない。考えの違いです。そしてそれぞれに間違っている部分があります。
 これに対し、隈の次(々)回作とマルクスの経済学の間にあるのは視座の違いです。隈の政治経済学はもちろん正しいが、だからといってその派生的論理の結果、宇野経済学が間違っているのではない。

 ついでに言えば、正しいからと言ってそこからの派生的論理の結果その理論が科学になるかといえば、そんなことはない。科学には因果連関を将来に適用可能な立言にして表すという使命があるうえ、その立言により一般人民に資するという使命もあるのです。集合性たる一般人民に敵対する資本家に資する議論は、人間の科学ではない。

 さらに追加で初学者と老学者にお教えすれば、ウェーバーが複数の視座を持っていた等のヨタ話には乗らないように。複数といったって経済と精神の2ケです。なんの本質もついていない。一層問題なのは、彼の論は過去の「説明」であって将来に使える「立言」ではない。説明に真も偽もありはしない。ごまかしたほうが勝ち。「そうともいえる」というイデオロギーです。「どんな視座でも正しい」という事実の対偶ともなる「なんでも権力者が言ったものが勝ち」です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする