リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

唯物史観の新公式

2011-12-31 23:21:28 | 歴史への視角
 こんばんは。今年もいよいよ押し詰まり、「懐かしの紅白歌合戦」が流れる今日この頃、
 昨日は高校の友だち忘年会。
 何十年経っても変わらない人たちは、ちょっと私の誇り。
   しかし、誰よりも元気そうな自分は、帰り道、持病の貧血に襲われてしまいました。
   あんがい危ないんだよね、こんなものでも。

 さて、お話の続き。
 社会主義でない計画経済。

 ちょっとネットで参考文献すると、サミール・アミン(アフリカ植民地革命学者)とかでるんですよね。
 サミール・アミーン、帝国主義と不均等発展、北沢正雄訳、第三書館、1981.
 しょうがないので(=自分だけ偉そうな顔もできないので)学者の真似をしに図書館で借りたんですが、なんか無残に近い。こんなもん誰も見やせんぜよ。さらにこの訳の北沢正雄という毛沢東主義者みたいのの解説が輪をかけてわからねえ。
 まあ、この前のアルジェリア人と一緒で、こうゆうフランス文化圏人が訳のわかったような分からないようなことを書いて「革命を鼓舞する」ことも、未開では必要なんだよね。

 さて、本題。

「社会の物質的生産諸カは、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがその中で動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は生産緒力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命がはじまるのである。」
 ご存知、マルクス「経済学批判・序文」
 これをご存知でないと、今日のテーマはあまりよくわからない。
 ついでに社会は、「原始共同体社会、奴隷制社会、封建制社会、資本主義社会 その先の発展に社会主義・ 共産主義社会」と動くという、これはマルクス主義の定説。
 「定説」という意味は微妙で、マルクスがどんなつもりで発言したのかってことがあるんで、「マルクス主義の」定説ということで。

 で、どなたか、これ分かる方いますか?
 なに、生産力が発展すると生産諸関係と矛盾するって。 しかも、さらにいうには、所有関係と矛盾する?
  説明してつかわさい。
 
 っていっても無駄だから。マルキストがいうのを聞けば、歴史の現実結果を述べて、それがこの文の意味だよ、ってだけ。無意味。
 そりゃ神様がどういったとかの意味を現実に当てはめて、ほらこのとおり、神がいったとおりだろうが、といっているだけ。何の説明にもならない。
 
 
 というわけで、社会の歴史についてご説明します。 
 さて、ずっと昔、人類社会の当初にあった消費物資の入手の不安定さは、蓄積が可能となった瞬間に、人間間に支配を生みます。あるところにはたくさんものがあって、飢饉でも生きられると、私もそうなりたいと思うものですね。といって剰余は湧いて出るものではない。他人の生産物を我が物にしなければならない。この過程で、支配者と武力は同じ意味を指すことになります。
 
 ところで、この発生してしまった支配社会においては、支配者は、被支配者を、被支配者の武力を上回る武力によって、支配している、ということですね。
 それでは、これを覆すなんて誰かにできるのだろうか?
  
 これができるにはいわば、武力と経済力とが分裂しなければならない。それが商品経済の進展です。
 すなわち、生産力の上がった社会では、商品生産(流通)の要求が強まる。これはカネへの欲求と評しても良い。これは武力権力者にとっては借金の困難、といってもよい。
 いずれ、そうした困難を引き起こしても欲しい商品への要求、あるいは正確には余剰生産物への(支配者という)人間諸個人の要求は、それまであった支配者自分自身の支配力の弱体化を要求します。

 この弱体化要求が、ある場所では改革に、ある場所では革命に、なる。
 これら改革・革命は、ある場所では「社会主義」革命となる。
 これが、階級社会の必然的進展です。

 進展した商品経済社会においては、武力支配層は、いつでも交換可能です。彼らは経済上は寄生しているに過ぎない。一方、経済的支配層は、彼らが支配権力に保全されて持っている生産手段の必須性から、交換が難しい。彼らは、いわば武力上は寄生層なのです。

 とはいえ、事情はこれだけですから、支配階級が弱ければいつでも国家武力を乗っ取ることはできる。とくに自らの役割を果たさない資本家の低生産力では、資本家から生産手段を取り上げ国家で運営するのが生産力を上げる近道です。 国家政権は、自分とつながった経済組成をどう維持発展させていくかを、その範囲内で、自由に決定できる。これを動かすものは、自己の生理性であり、したがって、これに反する一切の排除です。
 それが社会主義か、といわれれば、そんなことはない。ただの国家経済社会です。
 
 つまり、共産主義の第一段階は、この階級性を国家的に調整しうるかどうか、この現実化がメルクマールとなる。
 世の「社会主義革命」など、彼ら「革命」者の言にあるように、ただの階級社会の統治者の変更に過ぎません。それでは、商品経済の法則性は免れても、階級社会の法則性は免れることはできないのです。
 それは、まさにレーニンが非難して有名にした、抑圧機関としての国家そのものです。

 上記は長いか短いか。結果的に紅白も押し詰まってまいりましたので今年はこの辺で。
 では皆様、よいお年をお迎えください。

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社会主義でも資本主義でもない形態

2011-12-25 17:28:52 | 歴史への視角
 メリークリスマス。
 西洋は、1年に1回、人間がまっとうになれる日があってよいですね。日本にも欲しいものです。
 
 さて、金某が死んだそうで。私は飢えた農村人民以外にはぜんぜん興味もないですが、なんでもここは「社会主義国」と言われているという。
 昨今左翼の右翼化で社会主義の定義が揺らいでおりますところ、私なんぞがそんな奴らに交じって追い討ちをかけるのは避けたいものですが、まあ、順序として初めにこれを片付けておこうと思います。
 
 さて、まずは「資本主義」とは。
 便利なウィキペディアによると
資本主義とは、「生産手段を持つ資本家が、賃金労働者を使用して利潤を追求する社会システムである。」
 これはなかなか良い表現。
 実は他によいものはないかと、確認に図書館などみて、佐和隆光、資本主義の再定義、岩波書店、1995.なんてみてみたのですが、これは佐和せんせいの悪いとこばかり。感想文集でした。ウィキがんばってますね。
 
 では「社会主義」は。
 同じくウィキペディアでは
「社会主義は、資本主義の原則である生産手段の私的所有を制限または否定し、生産手段の社会的所有や管理などによって、生産物や富を平等あるいは搾取なく適切に分配した、より公正な社会を実現しようとする思想と運動の総称。」
 うん、これもなかなか良い。

 なので、北朝鮮は社会主義ではありません。
 なんてマルクス主義者もいっちゃうんだから、ほんと右翼化が進んでますな。
 ところで私はマルクス主義者ではありませんので、もっとすっきりいえるわけで。
 
 計画経済イコール社会主義だなどというのは、私が何度も言う、マルクスの趣味的謬見です。決して社会主義思想史に直結しているものではありません。
 生産手段が私有されてはならない、という認識は構わないが、ではそれを国家が私有する、のでは資本主義と同じなのです。
 といっても同じ結果を生むだけで、資本主義ではない。これを国家資本主義だ、などといってしまう自称マルクス主義者というのもわからないものです。彼ら国家官僚は、賃金労働者から搾取しているわけではない。ただの人民から強制労働を通じて余剰生産物を収奪しているだけです。
 「そんなこといったって、社会主義と資本主義の他に我々は単語を知らない」ですかね?

 社会主義的な経済活動の本旨とは、企業の恣意を通さず、「人民全体の意思」の下に経済を服させるところにあります。
 ここで、人民は、決して「国家」ではない。それはマルクスも知っていて無視したところです。
 計画経済とは、私有であれ共有であれ国家の所有の下で、経済活動を行おうというものです。
 それは企業の戦略的占有権を奪うものとして、ある場合には社会主義化に際してありうる「かもしれない」処置にすぎません。
 
 だからなんだって?
 
 これは、国家武力は、ある場合には、新しい経済形態をとることが可能なのだ、という確認です。封建制でも資本主義でもない形態。
 さて、「そういう形態をとることができる」という1文は、社会科学上どういう意義を持つのか。
 これはまた次回。


 小出しすぎる?

 いやはや、ここんとこ世間がつまらないので書物に沈潜して、これが面白いのが多くて、自分の発表(に伴う面白さ)意欲が薄れてまして、今日はこんなとこで。
 それより、その推理小説的面白さの本を2冊ほど。

 まずは、いま話題のブータン。
中尾佐助、秘境ブータン、社会思想社、1971.
 これは1958年のブータン植物採取旅行について、1959年に出版されたもの。
 てゆうと50年以上前の話で。
 で、今ほかで入手されない情報でこれに書いてある大事なことは、
1 ひどい身分社会であったこと(士、農、工、商(チベット人)、奴隷)。これを開明君主が平等化してすぐの時代、とのこと。
2 その頃から、女性の地位が強かったこと。これは妻問い婚制度のため(マス夫さん的に肩身が小さくなる)。
 だそうで。あと、その頃から自給自足で士農なら飢えることはないそうです。

 ついで、
川島博之、食の歴史と日本人、東洋経済新報社、2010.
『「もったいない」はなぜ生まれたか』について、日本と世界の歴史的食糧事情についてかいてあります。
 答えは、”日本の、世界一の農地当たり人口密度により、なんとか自己を養っていこうという近世以降の努力が「もったいない」という言葉をいわしめている”、ということで、これが東大助教授らしくない大局的支店から書かれていて大変面白い。
 もっとも10の文に1つは眉唾くさいところがありますが、何しろ大局的なのだからそのくらいは許さなければ。ま、他人事でもないし。
 思想も中道の中くらいで、イデオロギー的色眼鏡も垣間見られますが、下道ではないのでこれもそのくらいは許さないと。

 ところで川島博之ってだれかな、って、今yahooってびっくり。
 なんだ、あの食料輸入論の川島かよ。
 ちぇ。だから経済知らずなんだ。
 ま、それはそれとして、事実知識として面白いのでお奨めです。ただし、若い人は気をつけてそれ以上信じないように。

    などなど。それではまた。

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里山はなぜ刈り倒されなければならないか

2011-12-17 21:57:22 | 断片
 こんばんは。真冬ですね。
 本日の話は、序文で。

 引越し先の当家の周りは山(丘)と藪。小鳥とカラスのふるさとで。
 かたや私の勤務関連先はもう30年にもなる埋立地で、樹々も30年も経てば十分生い茂っているのですが、この近辺とは何が違うって、下草が違う。下草というよりはカバープランツ、というかツタ植物ですね。30年、人工植生で植栽管理が入ればそんなものはなく、落ち葉しか残りませんね。
 一方、この近辺はツタのたぐいが生い茂って汚らしい、くはありますが、いかにもヘビや狸がうろうろしそうな自然な山の中。
 ヘビや狸は好きでもありませんが(ちなみに引越し前の土地でも狸は出た)、よいのは小鳥がピーチクと楽しそうで。人家近くでカラスの野郎がいるので普通は大っぴらには常在できないところ、からまるツタの真中まではカラス野郎は入いれませんので。

 これは前段。

 で、通勤に歩く道すがら、その小鳥の山の勾配がショベルカーに切り取られてびっくり。
 その山の下は田んぼだったんですが、あいにくその田んぼを百姓が支えきれなくて、地方公共団体に、震災避難地にどうぞ、とかで無償貸与かなんかしたんですな。有償かは知りませんが。
 そうなると黙ってないのが地域住民で。
 せっかく貸してもらった土地に、「こんな地すべりを起こしそうな山をひかえた土地に避難できるか。行政の怠慢だ。なんとかせい、税金泥棒」 てなもんですな。

 あ、ちなみに私は知りませんよ。関係者が困るといけないので明言しますが、これは推測。ただ、私が信じてるだけで。
 おかげさんで、とりあえず私は悲しい。地域住民の野郎、お前はカラスか。
 って私ももちろん地域住民ですが。
 
 ことほどさように、今の世間の民衆は、タテマエを遂行すれば優越的感性を得られると思っている。それに誰も刃向かえやしない。
 仲間のはずのアナキストの諸君なんて、8割はダメね。逆に、そんなのあたりまえだろ、っていわれそうな。
 私の言う「優越的自由」とはこの種のものです。
 具体的だから批判しやすいでしょう?
 批判できるならどうぞ。
 
 言いたいのは、この腐った、価値観のなさで。
 土地を提供したほうは、いい面の皮さ。
 いいことをしてけなされるんじゃかなわねえ。
 でも放射能騒ぎでわかるでしょ?
 善良な世間が福島等被災民を勇気づけるべく何をどう設定したって、人間の1割は「わが身大事」ばかり、今の価値観のなさじゃその1割の人民の話を聞いちまって何もできゃあしねえ。 ったく。
 どうせお前なんか死んじまうんだよ。 せいぜいそうやって喚いていりゃあいい、って、情けねえ限りだ。
 
 だんだん酔言=断片っぽくなってきましたね。
 そうです、酔っ払いで。
 
 本論は、この価値観のなさをどうすり抜けるか、という話で、来週以降の3回話。
 
 3回も、って話の根本が大きいんでね。とつぜん、大歴史観の話になることでしょう。 さて3回でまとまりますでしょうか、というもので、ま、昨日も書いたから今週は失礼します。
    (ほんと、昨日は頭に来て、夜中に寝起きしても再度怒り心頭。人生を無駄にしてしまった。それがなければ今日1回目が書けて、つまり人生を1週間、得した(現実は損した)かも)。


 (P.S.)
 そういえば、題の「里山」。こうゆう題だと、里山は刈られて当然、とか思うインテリが増えてるでしょ。
 時代でしょ。
 もともと、四手井綱英という林業家が、近場の山は自然ではなく生産装置だ、といいだしたわけで。これは昔書いたことがあるような。
 だからなんなんだね、って気がしますな。
 生きるために自然様の一部を燃料や肥料に使わせていただいだだけじゃないかね。だから山は人間のものだ、ってまあ西洋人だこと。 ってゆうか、今の人民は、なんでも「役に立たない」と気が狂いそうになるんじゃないかね。価値観ないからね=役に立たなくて大事なものなどないからね。

    マモンの徒。
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東大法学部、国費留学ったって

2011-12-16 21:27:19 | 断片
 山中俊之・関西学院大大学院教授
橋本の強権政治に:
「カメラを向けられて、組織のトップへの批判と受け止められかねないコメントをするのは民間では考えられない。、、、解雇や降格がほとんどない公務員特有の体質だろう。」
 東大法学部(出身校)では労働法も教えないのか。クズが。
 てめえは臆病で「特有」の爪のアカほどもできなかったくせに。代わりに横領同然の仕業。税金で留学しといてとっとと官僚をやめて、どうゆうつもりだ。留学費(及びその間の国家給料)利子つけて返せ。

 役に立つブログ、わたしはクズを相手にするのが嫌いですので(ただの人生の無駄)、賢明な皆様には労働法を勉強するきっかけにしていただければ幸いです。
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「くらしの窓」新聞休刊

2011-12-11 20:37:26 | 断片
 こんばんは。寒くて。
 寒くていいのは幸せが増えることだけです、布団にぬくぬくくるまる。
 衣食住、みんな最低限とれるといいですね。


 さて昨日今日、疲れたのか、精神的な障害か、まるで新聞を見る気がせず。
「お前は、いつも新聞の悪口ばかり言って。実は新聞中毒なのだろう」と思ってた方、残念でした。
 2日くらい見なくても痛くもかいくも。
 世間が嫌いになっただけ。

 で、夕食後、酔い覚ましにもっとましな折込ミニコミ紙「くらしの窓」新聞を読もうと思って気づいた、本紙広告内の地域医療機関「龍クリニック」のおばさん先生、の写真。突然おばあちゃんになってしまって、こりゃどうした、まあ2,30年たったってことだな、と思ったら、結局
「くらしの窓」新聞、休刊(廃刊)のお知らせが。

 あれええ。
 こっちへ着てから30年、まともなミニコミ紙で、朝日ごときより精神衛生上よかったタウン誌ですが、もうやめんのか、、、、56年の歴史を閉じるそうです。龍さんも最後のご挨拶だったんでしょうか。

 時代ですねえ。
 よく見れば、新聞の本拠所在地も引っ越してるし、って、私も引越してるし。

 ううんん、これは別にためにならない記事ではありますが、一項もうけてもバチは当たらない。
 お疲れさまでした、草葉の陰の、創成者社長様。ファン、たくさんいましたよ。

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哲学者の限界

2011-12-04 16:47:46 | その他
 こんばんは。東京地方、本日は晴天、晩秋の一日。イチョウもようやく黄色くなって、と思ったら昨日の雨風でてっぺんは落ちてしまいました。
 それも季節、ということで。日本の四季はよいですね。二、三日前は凍えてましたが。

 というわけで、まだ前々回を(前々週を)引き継いで(てゆうか、先週アップ予定だったのを忘れただけですが)、次回本の構成のため、歴史はどうかと考えるところ、
 図書館、倉庫保有の
中埜肇+東北アジア問題研究所、方法論としてのヘーゲル哲学 、晩声社、1995.
 の借り出しをオーダー。拝見。
 おおお、これはこれは、中埜氏、ずいぶんな成長を。
 とてもわかりやすいヘーゲル哲学を開陳されていまして、とても感心しました。人間、生きたもん勝ち。

 中埜氏といえば、私の思春期も終わり、そろそろ受験勉強もしなければという時分に読んだのが「中埜肇、ヘーゲル――理性と現実、 中央公論新社」
 そのころは私は、マルクス主義者ではありませんが、「ドイツ・イデオロギー(抄訳)」の著者の崇拝者ですから、なんだ、へーゲリアンたって学者はこんなものか、と思ったところ。ン十年経って、こんな評価をするとは思いもよりませんでした。
 2,3ヶ月前、本ブログに鷲田小彌太のヘーゲル本が(ヘーゲルの欠点がよくわかって)すばらしいと、褒め言葉なのか揶揄なのか悪口なのか、自分でもわからない(?)文を載せたところですが、いや、これを読んでは、先の言はやはり(?)揶揄だったんでしょうかね。鷲田氏に、「片手間じゃだめのようですよ、まだ若いんだからがんばったら」というアドバイスは送れそうな。
 どんな仕事でもこつこつやれば、はやりで図書館の哲学本棚の半分を占めているだけ(それだけ)の人間を越えることはできるんですね。中教審大学・筑波(今回も出てきた)で拾ってもらってよかったこと(誰も知らないね)。

 で、何がいいかって、わかりやすいだけですが。
 しかしその分かりやすさは、流行のヘーゲル長谷川某などとは、悪いですが比較にならない。
 ま、正しいかどうかは別として。
 理論というのは不思議なもので、ある解釈を携えて読むと、他の解釈も分かるものです。
 その初めの確立ができるかが大きい。そのためにはこの本は間違っていようと大変よろしい。
   しつこいようですが、鷲田氏というのは自分に合わせて甲羅を作ってないかな。
 
 さて、とはいっても、元はヘーゲル。ヘーゲルに人生をかけるやつなどお里が知れる。
 中埜いわく”全体と部分は相互依存、個人も国家ももちつもたれつ、どちらも大切です”
 てなもんですな。
 
 ばかかね。
 「全体と部分の関係」はいいとして、そのどこに「大切さ」の契機がはいるのかね。
 こうゆうのが後進国学者だね。
 全体と部分の関係など壊れてもいいと思う、そういうスタンスがないと、本当のことは理解されない。
 本当のことというのは、真摯に考えればすでにわかっているはずの、全体と部分の「運動的」関係ですけどね、
 「 」内大事。これが大事なことはこの中埜氏の強調するところで。その強調方法は、本書で私の感心したところでもありますが。しかし、何一つ自分じゃ分かっちゃいませんぜ。ってわかろうにももう死去されたそうで。
 
 なお付け加えると、著者名付属の「+東北アジア云々」氏、この懇談が本の半分占めてまして、なるほど、これがヘーゲルが有名になった理由か、という意味不明だが現実的な論議。
 でもこのヘーゲル劇の再現がまたなんともよろしい。
 (ただし若人は、真面目に読まないように)
 
 こんな本も最近の駄本の氾濫で、そのうち図書館から捨てられるでしょう。価値のわかる奴も希少だしね。 
 いま、お勧めです。ま、古本屋にあったら金出してもいいんじゃないかね。
 
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