リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

イデオロギーの嘘と真実

2011-09-24 10:03:36 | 歴史への視角
 こんばんは。涼しくなって助かります。

 さて、本日は理屈の話。少々複雑ですので、先に構成をいっておきましょう。
 とある論文につきまして

 1 (アフリカの女性解放のための)先進国イデオロギーは、(とりあえず表出者の意図を問わず)後進国支配のイデオロギーとして機能した。
 
 2 と、指摘するのは、「イデオロギー」とはもともとそういう性格のものだから正しいのだが、だからといって、歴史的にそれが反人民イデオロギーになるわけではない、というよりは、理論上、それは強力な自由の武器になる、という趣旨です。


 対象の筋をかいつまんでいいますと、女性割礼について、植民地主義者は、「文明化」の名のもとにこれを廃止しようとする。一方、抑圧下の女性にとって、こういう言説に乗れば、男との交渉権も妻たる生存手段も失われてしまう。だいたい、白人の反対運動に加担すること自体、地元の生活への裏切りで、逆に、割礼が反植民地主義の象徴にもなる。
 かくて、割礼反対運動は、遅々としても地元女性民のみの仕事でなければならない。
 みたいな展開です。
 というのは、隈の昔の知人の学術論文。 この人は社会学者ではない、ただの女性学学者ですが。
  
 しかし、運動とはそういうものではない。
 権力を握った者の行動を翻すには、その者の生理性を脅かすか、賞賛と優越をくすぐるか、それよりも強い権力で圧倒するか、しかない。
 これは、部分的な女性解放運動であれば
1 女性の武力で、権力者の日常を脅かすか
2 当該共同体に、部分的な(解放へ繋がる)女性寄与行動に賞賛を与えるか(たとえば、「皇后陛下」が賛同した)
3 他の強力武力が、当該権力者を脅すか
4 あるいはその運動が、本質的には権力者の自由をも増大させるものか
 のいずれかに該当するしかない。
 
 当該システム内部で少数の女性がうごめいたとて、そんなものはなんの力にもならない。
 女性の3割が動けば強大な力だが、そんな状況は、危うくなった現在の体制を守る方向でしか表れはしない。過去日本では、戦争へ向かうため、男どもを戦地に追いやる場面にしか発揮されなかった。いや、これは結果論ではなく、男も女も、国家権力の賞賛によだれを垂らした、という事実を言っているだけですが。
 日本の女性解放運動が多大な成果を上げたのは、それが既にシステムで保証された賞賛と優越を、遅れた現実に適用していったものだからにすぎない。
 ご存知の方は多いように、1970年前までの日本にさえ、糾弾されて十分な女性差別がありました。そんなことは社会学類書にまかせますのでいいませんが。 いわんや、戦前おや。
 そんな日本のどうしようもない差別待遇を前進させたのは、団結を誇った女性集団ではなく、理想に燃えた欧米近代主義者のアメリカ民主思想集団です。 もちろん彼らはただのイデオローグで、実は日本をアメリカの都合の良いように変えようとしただけですが。ともかくも、アメリカの武力下で、各種の「法」が作成された。
 もちろん、ほおっておいても日本資本主義の進展は、いつか、各種自由を獲得させたでしょうけれど。「それはいつか」。いつでしょうねえ、、、


 というわけで、女性学というのは現実学なのだな、という感想です。
 この筆者は左翼ですので解放を一歩でも推し進めようとしていると思いますが、そうなると、現実の生きている現地女性の次の一歩を語るしかない。そうなると「そんなことをいったって」ということになる。
 それはそうなんだろうとは思いますが、それを影響力のある他国家の人民が理論的な結語とするのは、それは少々違うでしょう、ということです。
 
 結語はいわないのがいい、というのが私の考えですが、他方、当該人民の立場にたつか、他国家人民の立場にたつか、ということは「立ち位置」として、第三者にとっては選択問題ではあります。 どちらが誠実か、とか、どちらが無責任か、とか。 まあ、この筆者には現地にお友達がいそうですので第三者問題ではないのでしょうが。 


(P.S.
 国外勢力の脅しと殺しは、まったく違います。
 生活共同体では、権力の行方は、その原因はなんであろうと、システムの内部で処理するか、または共同性の内部で処理するかしなければ、生活が、人々の生きる正の感情が、生きる全てが、崩壊します。そう書けばそのまんまですが。
 単純なんですけどね、右翼には分からないし、資本主義者、要するに侵略者は分からない振りをする。
 念のため。)
 
 
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変な人

2011-09-18 22:07:54 | その他
 こんばんわあ。

 今日の新聞ダネ。
「政治家は 言葉で生きるか 滅びるか」。言葉に命をかけろと政治家様に講釈を垂れるのは、
朝日新聞編集委員 根本清樹氏。
 呆れた。
 その言葉、お前に返すよ。上っ面のウソと法螺、今日だけのほんとで固めた新聞記者の言葉が、自らへの反省もなく、400字詰めで6枚分。
 ったく。恥知らずが。お前も言葉に命をかけたらどうだ。朝日新聞一丸となって、どんなでたらめを書こうが誰も責任など取りゃしねえじゃねえか。聞くが、お前らが過去責任をとったことを、たった一つでもいいから教えろよ。
 
 とはいえ、なんて書くと「バカが。100枚200枚の舌を持たずに新聞記者が食っていけるか」といわれりゃあ、はいごもっともで、というしかないところですが。
 
 で、ふと思い出した、朝日新聞Hd氏。間宏先生の指導院生仲間で同じドロップアウト組。なにしてるかなあ、と思い検索しましたが、まあそこそこのようで。関西で相変わらず、命の1/3くらいはかけてるようです、この意味でそこそこ。
 それにしても面影もないメタボおじさん。変わらないのは眉の太さのみ。
 
 さて、本日は、ちょっと良い本でみなさまにお奨めしようか、と思ったのが
木村愛二、『「「火砲」の戦国史』(「アフリカ大陸史を読み直す」第2巻)、社会評論社、2007.

 という文を読んで笑われた方。教養人ですねえ、、、
 わたしゃこんな人のこと知りませんでしたよ。

 ま、「良い」というのは
1 奴隷貿易の頃のアフリカ大陸国家の様子が、かなりの程度まで詳細に書かれていること。
  みなさまは、たとえばアメリカ大陸への奴隷は、その土地の「国王」が売り払った、ということはご存知ですか? 奴隷全部の話じゃないでしょうけどね。
  私は、30年前読んだマンガで知りましたが、皆様方はマンガもご覧にならないでしょう。
  この本は、見た感じ、あぶない断定がありそうですが、細かい真偽は別にして、普通の人間には、社会システムを考える上で注意すべき全体像が作れれば事足りるわけで。私だって、本も借りただけだし、覚えきれない。

2 アメリカ大陸での大規模な白人奴隷制に触れられていること。あれ「奴隷」ってほどだっけかなあ、と少しは疑ってますが。
  なんとも自分の能力を疑うことに、エリック・ウィリアムズの「資本主義と奴隷制」に(も)書いてあるとのことで、「あれすっ飛ばしながらでも読んだはずなのになあ(とても長い本で)」、というところ。
  こういう注意力は、この人の才能なんだと思いますが。
  
3 で、上記2点がとても読みやすい。まるで漫画のよう(こっちは比喩)。これは大事な点だと思いますね。他の書架に並んでいる本は、やる気のない論文ばかりで何の意味も感じない。

  なお、題の「火砲」というのは読み飛ばし。
  著者は力を入れていますが、たいした話ではないし、大げさな修飾語が多いので、イメージに間違った影響が出ますので飛ばすのがよいでしょう。

 と、ここまでは前段

 というわけで、この10年くらいで図書館で(偶然には)見つけられなかった種類の本を(たまたま)見つけたのでお知らせしようか、と思ったのですが、念のためNET検索してびっくり。木村愛二さんとは、なんともとんでもおじさんなようで。
 例:『「ホロコースト」はなかった』んだと。で、論争になっても、論争が佳境にはいる前に逃げ出す、という。
 これはネット検索してたら、「西岡昌紀」というただのバカがいて、これを身代わりの棒っくいにして論争の場から逃げるという、人遁の術ですな。
 わたしのように人生経験が豊富だと、こんなのもどんな人間かすぐわかる。こういう人って自己顕示してることが、それだけが、ほんとにうれしいんですよね。いいたいことを言える場所(とテーマ)を探してさすらう、さすらいの無責任男。お近くにもいるでしょ?
 
 というわけで本書の良さをお知らせできないのが残念です。
 クリアでいい本なんですけどねえ。頭は悪くないんだよね。
 
 P.S.
 とんでもおじさんによると、現イスラエルのユダヤ人の9割は、モーゼのユダヤ人の子孫ではないんだそうで。
   なんでも「ハザール人」ていう、黒海北部の白人種(スラブやゲルマンと同じ)が、ユダヤ教徒になって、これがユダヤ人の9割なんだそうで。といわれれば、じっさい、自称ユダヤ人は白人顔してるよね。どっちだっていいけど、それで「2千年経って故郷ができた」、というのも確かにへんだね。
   という、へんなおじさん。元ネタは全部他人のネタなんだけど、そういう話を広めるのがうまいんだよね。こういう人って、他人には面白く、関係者には迷惑なんだよね。
   
 P.S.2
 ついで、せっかくなので、ほんとうにまともな本をご紹介。
 バズル・デヴィッドソン 、「アフリカ史案内」、 内山敏 訳、岩波新書、1964.
 
 上記が簡単すぎる方は、バジル・デビッドソン、「アフリカ文明史―西アフリカの歴史=1000年~1800年」 貫名 美隆 , 宮本 正興訳、理論社、1975.
 (名前は同じ。読みが違うだけです)
 
 こういうのを読むと、白人エリートの本は読めません。
 
 なお、さきの木村氏は川田順造のことをたいした根拠もなくボロクソに言ってますが、実際、川田というのは鼻につきましてね。そういう人なのでしょう。
 ただ、若いときは真面目な文化人類学者で、文化人類学だけ見てればなかなかためになります。たとえば、「無文字社会の歴史」、岩波書店、1976. 人間、権力を握ると変わるんだ、ということをお忘れなく。 
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哀しい感動

2011-09-16 21:22:27 | コーヒーブレイク
 マイフェイボリットシング

 Brothers Four.

 意味不明でしょうね。アメリカのフォークグループ名です、1960年代。

 わたくし、ここんとこ会議とかでしゃべってると声が出なくて。普段は声出さないし。
 喉頭がんかとも思うのですが、単に加齢というのが正しそうでもあり、ちょっと声出してみようかと開いてみる You Tube、 Brothers Four。 ほんといい時代になったもので。ってこれ正規行為だっけ?
 ま、とにかくそこで

 ”Four Strong Winds”
 歌の題でさあ。
 ちょっと気が利かないとこがよいマイナーレーベル曲。

 と思ったら、まあ、ちょっとネットを開いて観てくんなまし。
 あそこにもここにも、真剣な眼差しの聴衆A、聴衆B、また聴衆C,D,E、F、、、
 ああ、真剣な60年代がそこに、、、

 米国人でさえ真剣だった日々。
 そうだよ、きみ、われわれはこんな日々を暮らしてきたのだ、、、


  と感動しながらコンサート会場にいる人々の顔を眺めていて気づいてしまった。
  みんな白人。
  真面目な白人。
   黒人はいない。
  みんなわれわれのような白人。
  われわれのような。
 
    そうだよ、きみ、われわれは60年代、こんな日々を暮らしてきたのだ。
    中間階級の日本安保闘争。
  
  
      哀しいね。

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怒り 1.5件

2011-09-14 21:41:52 | 断片
 (本日はタメにならないブログ、おすすめはしません)

 世の中には弱いものいじめをする種族がいまして。
 もちろん公権力もそうしたものですが、公権力は今の世の中ですと、タテマエ的にですが公には歯止めがありますね。普通選挙とかって。
 ところが世の中、選挙の歯止めもなくのうのうと高給を取れる種族もいる。
 資本家がそうですね。しかし、資本家は、プロレタリアートとの戦いに命をさらしている。

 でもそうでない、今までは幸運なやつらがいる。
 NHK。

 私儀、バカですのでNHKのやつらが、いくら高給をとって(30歳台で(昔、重役が日本的だった時分の)大企業重役級です)しかもゆるゆるな仕事しかないことを知っていても(友人がいました)、真正直に「僻地の人の工事費とかあるそうだから」と、渋る家人を説いてもう30年も受信料を払ってきたのですが

 本日昼間、男が出払って留守居の女しかいないだろう時分を見計らって、NHK(委託業者)が来て、中高年で人のいい夫と暮らしつづけて丸くなりすぎた家人を脅して、衛星放送の契約料をふんだくっていった、とのこと。

 ゆ、ゆ、ゆ、許せん。
 何が衛星放送だ。NHKだって夜7時のニュースしか見ないのに、そんな暇つぶしをするものか。てめえらの都合で勝手にカネがかかる放送をしつらえただけだろうが。俺の許可を得たか。
 にもかかわらず、(新しい)マンションの屋上にアンテナがついているからと、人柄のよくなった家人に質問もさせぬまま「法律でそうなってます」で恐喝していったそうな。

 これは重大な裏切り行為のうえに卑劣な行為です。
 卑劣な裏切り者を許す伝統は、どこの国にもないものです。
 NHK、許るさじ。
 国営放送にして給料を半減させるのみ。言い訳はさせない。さしあたり悪いですが運動に時間が割けないので、カンパで協力します。
 自民党の方? いつも悪口いってすみません。でもよのなか、持ちつ持たれつ、左翼の方では「大同団結」といいますよ。レーニンも毛沢東もそういっています。NHKを潰すため、がんばりましょう、カンパはします。
 

P.S.
 同じようなスタンスを思い出しました。
 富士フィルムのリストラ。

「05年から1万人超削減――終わりなきリストラ、富士フイルムの執念
手綱を緩める気配はまったくなさそうだ。大規模な構造改革をすでに終えた富士フイルムホールディングスは、今2011年度に入ってもなお、さらなる採算性向上に向けた施策を展開している」
 というのがありましたね。

 もう富士は買わない。
 フジフィルムといえば最近まで(って2,30年前)どうしようもない品質で、コダックの真似さえできない。それでもひいきしてやっていたのに。
 消費者の応援も無視して、ちょっと偉くなりゃこのざまだ。「つけあがる」という言葉がほんと適当だと思います。

 お前ごときがいくらいっても屁でもないって?
 そうすか。
 わたしはいったことはしていますのでお互い残念ですね。
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資本主義社会におけるフェミニズム

2011-09-11 11:05:10 | 歴史への視角
 こんにちは。お暑うございます。
 昨日も休みだったのですが、太陽が斜めになって、ベランダに差し込むもんで、窓際の机は暑くて。とても勉強という感情がおきません。
 そろそろ次回本をまとめようと思うと、少しあせります。

 さて、昨日の朝日新聞人生相談欄は、東大退職の上野千鶴子がまだやってまして、いつもの言いたい放題に比べて、お、っと思うほどにまじめに発言しておりました。
 ああ、これは、賃金労働から解放されて良い方へ進んでいるのだな、と、他人事ながら喜んであげた次第。ってゆうか、私儀、もともと高校生のような真剣な人間に価値を置くもので。
 図書館で目に入った上野の退官記念講演なるものを4分ほどかけて読みまして、ほお、まじめじゃん、人間いつもこうでなければ。彼女もこれから更生して生きるのかな、と思ったこともありますが。
 だいたい、関西人のせいか知りませんが、話がいいかげんでね(注)。もっとも、嫌いだ、というだけでネットでうじうじ「批判」している男たちよりは数倍マシですが。
 
 フェミニズムというものは簡単素朴、当たり前の主張です。
 性別というものは、ほおっておけばいつでも差別の根拠になるものだから。それが現実化していれば、これと闘うのも当然で。

 一方、マルクス主義がこれに反対するというのも当然でね。これはマルクスが馬鹿だから。
 というか、後に追随したやつが輪をかけて馬鹿だった、といってもいいけれど。
 
 世の中、差別の契機(=要因)というものがあるんですね。
 自己の自由のために優越や賞賛を勝取るための行為、ですね。自分が使える資源が少なく感じられる時代・社会では、個人行為者としては、なんとか他人を犠牲にするのがよいし、そういう時代・社会では、他人を馬鹿にすることが自分の気持ちをよくすることだ、ということです。(私だってみんなと一緒になって性格が悪くて仕事のできないやつの悪口をいうのは、気分の悪いことじゃないです。性格が普通の人の悪口は気分が悪いですが)
 この結果は、弱い人間がバカを見る。
 女は男より弱い。しかして、ほおっておけばいつでも差別の根拠となる。
 
 マルクスとそれ以下は、こういう見方ができないんですね。人間は「類的存在」 であり、自然的存在として矛盾があるはずがない、というのが根本だから。マルクス主義など、後進ドイツと後進日本の合算物ですね。
 なにが類的存在かね。
 人間は哺乳類的家族存在ではあっても、ただの個体生物だ。
 そうでないというならば、なぜ弱いものが現実化するところでは、差別が生ずるのか説明してご覧な。他方、そうだというから、隈理論体系が存在するわけです。
 
 さてと、もちろん資本主義が存在する限り、男女差別なんかなくなりゃしません。
 ていうか、階級社会が存在する限り、かな。だからマルクス主義者が、民主党支持のフェミニストを攻撃するのも当たり前ですが。いわんやそれ以下(自民党・公明党支持)をや。
 
 さてそこで立ち止まらないところが上野センセのいいところですね。根本解決がどうであろうと、ここで闘う。それが人間の歴史的な存在方法というもの。ブントもバカなだけじゃないんです。(って気が付けば、センセいつ転向したのか。まあいいや)人間は、その場所的存在において矛盾と闘うしかない(もとは革共同の特許でしょうかね。これを忘れたら新左翼じゃないけどね)。そして、「それでよい」 のだ。上野という人は、30年前からそれを知っていたのですが、身過ぎ世過ぎというものは物事を形骸化するものです。あれも中途半端、これも中途半端。
 
 もっとも彼女的にはそれでよいようです。彼女が何をしたか。フェミニズムについて、世間のえらい評判をとった。それで充分(資本主義社会での運動とはそういうものだ)。
 そう記念講演でいっておりました(そう読み込んだだけですが)。
 結果として、30年前のポリシー(文字通り、「政策方針」でしたね)を貫いたようです。ご同慶の至り。


注)アカデミズム系の人が見るとうるさいので、くだらないけど「根拠」をあげておきましょう。
例:yahoo検索「上野千鶴子」で1ページ目に出る
「上野千鶴子さんインタビュー1」
「もう一方では、晩婚化と非婚化が進んでいます。つまり、男がモデルどおりの人生を歩まなくなった。そうなると、家族給を支払う理由は何もない。いま、男の非婚率はものすごく高くなっています。40歳の男の非婚率は15~20%、5人に1人です。」
 「いま」じゃ、ないしょ。昔はもっと高いでしょ。なに、この箇所に限りませんが。問題は、彼女は種々の事実を知ってても無視して発言を構成するということです。
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後進国家の「暴力装置」なき暴力

2011-09-03 21:31:28 | 歴史への視角
 こんばんは。東京地方ひどい風で。
 四国はもっとすごいんでしょうねえ。
 風も雨も嫌いではありませんが、風の音が嫌い。
 本人たちも嫌われるより好かれたいのではないかと思うんですが、世の中ままなりませんね。

「本人たち」って、あめかぜ。

 そんなもん、ただの水や空気の太陽熱への対応形態だって、そう言う人はいるかもしれませんが、って「いるかも」じゃなくてみんながそう言うでしょうが、世の中そうかんたんなもんではござんせん。
 人間だってただの生命の分割的現象への対応形態で、その割には、いきしには人間の最重要課題でしょう。ま、冗談好きの隈。

 そんなこんなで今日は休日。ゆっくりと一休み。
 世間では新組閣とか。
 結局いまのところ、大方の人間が「現在」を変えて欲しくないようですね。
 また政権は自民党ですか。
 私などは自民党独裁に慣れてますが、若い人はそう思わないのがわれわれの世代の「普通」ですけどね。
 いやさ、「普通でした」か。情けなし。 
 「とんでもない、沖縄県民はそう思わない」 って、声は聞こえれどそれにしちゃ選挙結果が違うし。
 「ばかやろう、そりゃしかたがないからだろう」って、そりゃそうだね、でもキミらだけじゃなくみんながしかたがないんだぜ。
 
 いや、暗い。
 ほんとゆっくりすると暗くないかい? 人間て、日々自転車操業をして暗さを忘れるんだよね、なんて同意を求めても、それにしちゃみんな明るすぎるし。
 
 さて、本日の暗いブログ、、、違うか。
 
 本日は「暴力装置的国家の明るさ」
 国家はなんどもいうように暴力装置ですが、それも悪くないんじゃん、ともいえるな、みたいなところで。
 
 昔の若い人間のような立派なお若い方がいたとしたら、怒る前にまず、ブログの題名をみてね。
 変な悪口はかったるいから。
 
   (ここまでもだらけているのにさらにだらだら書くので読みづらいかと思い、先に道案内を。
   (以下は次のように進みます。
   (後進国にとっては、アナーキズムもその他反政府勢力も、現象的に変わりはない。
   (にもかかわらず、アナーキズムはその原理主義性により、どの歴史的段階でも主張を変える必要がない。
   (しかし、それだけに、資本主義国でそれを主張するとバカに見える。
 
 やはり、国家というものは統一されてないと具合が悪いもので。
 資本主義国家は嫌でも統一されざるを得ない。それが商品経済的に進展して政府を乗っ取るという資本主義の歴史的意義です。
 レーニン「国家と革命」の世界ですね。
 一方、帝国主義的分割にさらされた後進諸国は、その宗主国の資本諭義的進展に伴って、国家形式の意義を持たなくなっても(  =本来資本主義本体にとっては、資源供給・商品需要地域が存在すればよい) 武力統治者の存在だけは残る。
 こいつらがどうしようもねえ。
 あらたな統一国家の大契機が生じない限り、たまたま巻き込まれた無関係人民は右往左往するばかり。
 そんな人民にとっての国家は、アナーキズム以前の問題。
 ある境界地域では全人民にとって、国家とは、ただの「異民族」支配の道具に過ぎない。
 こんな国家への対応では、アナーキストもへったくれもない。右であれ左であれ、「敵は倒す」しかない。
 「国家? それは乗っ取るものではない。倒すものだ。」
 
 これは、歴史が進んで、資本主義国家にあっても同じです。
 「国家? それは乗っ取るものではない。倒すものだ。」
 レーニンに対するアナーキストの立場ですね。
 レーニンにしてみれば、「バカいってんじゃないよ、どうやって倒すんだ。乗っ取るしかないだろう」 ってわけですな。
 しかしそんなものを乗っ取っても国家は変わりはしない。マルクスが口先でいったように、国家過程とは上部構造にしかすぎない。マルクスが何も言わなかったように、(国家過程ではなく) 国家本体は、それが依拠する下部構造において武力支配根拠が消え去らない限り、変わりはしない。号令をかけるのが「何階級」であろうと支配根拠は消えはしないのだ。
 
 とまあ、しかし、そういう正しいことを (アナーキストが) いうことが特異になるだけ、やはり資本主義的国民国家というものは、世界史的に進んでいるのですね。中央コンゴその他でいっても何も意味がない。政府に対しては、逃げるか戦うかその一員になるかの選択肢しかない。
 「って、そりゃいつの時代も同じだろう。今だってそうだ。みんな隠し通しているが」 って。
 そうなんだけど、歴史的状態で主張をつむぐ意義が違う、という趣旨です。
 
 と、「国家と革命」のページをめくっていて思ったところです。
 
 というわけで、これも、次回配本『行為の反逆』に反映させますです。


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