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リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

右や左の擬似思想

2007-12-31 18:37:33 | 上部構造論
 というわけで、こういう主義を長年やっていますと、左翼だのウヨクだのという話がちゃんちゃらおかしくなります。
 なあにが左翼だあね。たまたまの、「今だけ左翼」のくせに。
 あるいは、「ウヨク」とかって、要するに昔の新サヨクじゃんか。
 ま、長年生きると、若い人が思う以上に世間のことがわかるものです。

 だいたい、被支配者というのは、権力者が嫌いです。偉そうに行為を束縛されて楽しい人間はいやしない。
 反面、反権力が好きなはずで、そこで昔ならサヨクなわけですが、このおめでたい現代日本では、まず、お年寄りが脱落する。40過ぎれば大部分の人間はそこそこの権力者ですわな。おまけに、どっちに転んでも大部分の人間は食っていける。
 といって権力のない若者が喜び得る反権力の対象とは、自己の生理性に関わらないことを条件に、自己の自由を束縛しようとする試みですね。これは、つまり、空語な道徳のお題目だ。今、空語でも道徳を持っているのは、大昔サヨクの石原慎太郎(知らないだろうね)とか、同じくそのままサヨクの高齢者だけだからね。どんな勝手なことを言うのも、反権力さ。
 普通選挙制下の権力者というのは、基本的に大衆を取り込もうとするわけですが、どうすればよいかというと、反体制思想の価値を剥奪していけばいい。生理的な課題(貧乏で食えない)とかいうのは、どちらにせよ、騙し切ったほうが勝ちなので、それ以外のところで政府に歯向かわれると困る。それには、「反体制の思想なんか君たちの将来にはなんの関係もないよ、ウルサイだけじゃん」といっておけば足りる。実際、現状そうだし。なんの思想構築の努力もいらない。
 
 では「君たちに関係のある将来」がウヨク側にあるかといえばちゃんとある。
 人が他人の行為に思うのは、その他人の行為がもたらすはずの将来のことです。
 これがうまく成立すれば、自分の利害に関係がない限りにおいて、「あいつはうまくやったな」、「あいつはよくやったな」ということになります。
 うらやましい、とか自分もああだったらいい、とかいうことですね。

 つまり、人は自分の生理的な次の将来に関知しない他人の行為に関しては、別に彼の価値観にそぐうかそぐわないかに関わらず、想定される将来を体現するその人間の行為を、妥当なものとして追認します。
 ところで、そういう他人て、政治家の場合は、自分もなりうる同一の階梯上の行為者であれば、権力者でよいのですね。
 「同一の階梯(ハシゴのこと)」と呼んだのは、地位の差はあっても自分も夢の中ではそうなりうる、という社会的状況の中の人間のことです。
 たとえば、ヒトラーに生理的に関わらない「ゲルマン人」右翼Aは、どうせ彼の今晩のパンに関わらないヒトラーについては、ヒトラーが独裁者であればあるだけ、彼の右翼的心情を体現しうる他人として、ヒトラーを支持するでしょう。
 同様に、ヒトラーがどうだろうと生理的に生きていられる「ゲルマン人」左翼Bは、彼の組織上の人事にさえ手を出さない限り、自分がそうできたらいいなあと思う「彼が理解しうる右翼ヒトラー」の「思い通り」の施策をするヒトラーに好意を持ちます。

 簡単に言うと、
・やるだろうと思うことは本当にやる
  という好ましさ。
・やって欲しくないだろうがやる(あきらめてるさ)
  という「敵ながらあっぱれ」
  
 というわけで、ま、食うのに関係なければそんなもんですよ。支配権力に対抗する権力がない、ということはありますが、それは今日の趣旨ではないので。 
 若者ウヨクというのもこんなもんです。
 
 もひとつ言っておくと、逆に、同一の将来を作りうべき者の逡巡なり妥協は、裏切りでしかありません。昔はこれを「近親憎悪」といいました。ちょっと流行ったんですが、あんまり本質をつかんでないので好ましくないコトバです。
 簡単にいうと、
・やるんだろ、てめえ。なんだ? やらないだ? ふざけんな!
 ってことですね。
 
 てなわけで、ウヨクとか左翼とかということに対応しているヒマがあったら、まともな将来の青写真を提出し、妥協なく行動したらいいんです。曲りなりには青写真を持つ共産党が「自分だけが正しい」という立場を外したら怖いですよ、、、こわかねえか。そんときはつぶれるかね。すごくピントがずれてるなりに、(理論はダメでも)政策では正しいこともいうんだから、もっと正直になったらいいのにね。でも対抗権力にはなれそうもないけど。
 
 などなど。本年も終わり。
 例年、同じ会社の製品でゴマメを作るんですが、今年はカラ炒りしたらゴマメからクサヤの匂いが。
 ずっと炒ってもフニャフニャやわらかく、、、なんだ、腐ってんじゃん!
 いいかげんにせいよ、土佐食品。なさけねえなあ、今年はやっぱり「偽」でした。
 来年は「義」だといいなあ、、、正義は勝つ。以上、おじさんでした。
 来年もよろしくお願いいたします。
 

(注)階梯が支配者層とは異なる被支配者の場合、具体的には「奴隷」のような場合、支配者がどうだろうが彼には何の関係もない。独裁者が大衆社会で生まれるというテーゼはこの同じ点に根拠がある。独裁者は、大衆社会、ないし奴隷制的民主主義社会で生まれるのだ。ただの弱肉強食の世界では、偉そうにしてもすぐに食われてしまうからね。
 では奴隷は? 奴隷にとって、頼れるのは神だけだ。 第三者が、宗教をアヘンだとかいってけなすのはよしたほうがいい。

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アナーキズムと思想

2007-12-24 10:34:44 | 上部構造論
 今日は昨日の続きです。
 テーマは、「道徳には諸権力以外の伝達根拠はない。では、なんの権力もなしに良い人間と悪い人間を言い分ける根拠は何か。」

 私の立場はアナーキズムです。
 アナーキズムは「無政府主義」と訳しますが、もとはといえば「無支配者主義」ということ(だそう)です。
 誰であれ、私を、そして私と同等なあなたを支配することを許さない。という主義です。
 人は個人として自由でなければならない。
 個人は、個人として自分で将来を決めて、しかも、どんな個人でも生きていかなければならない。
 この「しかも」があるかどうかが本物の絶対自由主義者か、ただの資本家の宣伝マンの自由主義者かの違いです。
 資本家の下僕達は自分だけが生きていけばいい。それもいいでしょう。ただ、そういう諸君は革命で殺されても文句をいわないことです。そういうのを「お互いさま」といいます。人が生きる原理はとてもシンプルなことなのです。

 さて、思想とは他者の行為変更の努力のことです。国家の思想、宗教の思想とは、国家や神の名のもとに、他者へ行為を強制することを意味します。他者とは個人のことですから、国家体制下の思想はアナーキズムの世界には存在しえません。
 ではアナーキズムでは、何をしてもいいか。

 この「いいか」、という問いが存在すること自体おかしい。
 すべては、自分の心以外にとっては許されている。自分がいいというならいい。
 しかし、自分に悪い行為は自分には許されていない。
 アナーキストの他者への思想は、何も難しいことではない。「私はこうするのがいいと思うからこうしたら」です。
 友達の間では当たり前ですね。
 この当たり前さがアナーキズムです。
 国家が存在するのではなく、友達が存在する。
 私は私の倫理の名において、良いと思うものには良いという。自分が良いと思うのにはとりあえず根拠があるから、友達にも奨める。
 「そんなんで社会が持つか?」
 社会は思想で持っているわけではない、ということを知っていただかなくてはならない。
 思想の前に、友達が存在しうる社会でなければならない、ということです。

 「そんなんで真理が伝わるのか?」
 行為には真理なんかない。であれば、他者へ伝える思想の存在形態なんて、推奨という以外あるわけはないのです。

 個人は絶対です。どんなやくざだって人殺しだって、彼らは彼なりに生きている。ぬくぬく生きている人間が偉そうに説教をいえる理論的根拠などない。彼らには、社会的に罰する権力という根拠があるのみです。
 絶対自由の個人の相互世界には、かえって絶対性はありません。
 個人が絶対であれば、思想は真理ではなく推奨にしか過ぎない。
 問題はそれを可能にする社会です。だから、アナーキズムは社会運動なのです。


(注)真理の根拠などない、といったが、神様が好きな人でもそれは同じことだ。どんな教義も、たかだか人間による翻訳だから。
 (もっとも、とりあえず世間の人が伝える神様は、みんな私の倫理観とは相容れない。それは私の倫理観に劣るということになるが、人間より劣る神など神ではない。まあ、それは伝える人間のせいだということにしておこう。)
 宗教を信じるのも選択だから、神がいる、といってもいいのだが、それは自分が真理だ、ということと同じだ。そこでだ、神ならぬ人間に、「私の中の神がほんものだといえるか」、いいやいえない。したがって、神がいる場合でも、それが人間が伝える不十分な神ではなく崇高な神がいるということであれば、やはり他人には行為を真理だとはいえない。教義の歴史上さんざん誤りを重ねてきたカソリックの神父たちは、当然納得してくれると思うが。歴史を持たない自分だけのプロテスタントの牧師には、唯我独尊でいいっぱなしの責任不在だから通じないのだろう。人間、自分だけが正しいと思ってはいけない。


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人間性という道徳

2007-12-23 15:38:26 | 上部構造論
 先週、新聞の投書欄に、「人間性喪失こそ戦争の本質である (から、してはいけない)」という話が載っていました。
 話はよくある筋ですけどね。投書者が (政治学研究者 84歳 石田雄)
 なんだ、石田サン、困っちゃうなあ、みたいなもんで。

 別に知り合いじゃないんですが、昔、私が60年安保運動の勉強をしていたときに、他の専門書が、やれ革命だの民主だの対アメリカ独立 (!。日本がアメリカから独立するということ)の運動だのといっていたところ、唯一、「安保闘争は戦後間もない日本民衆の厭戦の気持ちが集結したもの (左はそれをうまく組織化して、政府はそれを逆に刺激した)」という趣旨で論を展開した人 (東大社会科学研究所助教授)です。
 そうだろ、そのはずだよなあ、なんで他の人はいわんのか、と思うのですが、未だに歴史記述のただの背景説明にしかしませんようで。これは運動理論としてちゃんと考えるべきだと思うのですが。

 ま、それはそれ。そんな普通の政治学者ですが、政治学研究者の名を名乗りながらこれはひどい。まあ、政治学は社会科学ではありませんが。
 何がひどいかと申しますと、「人間性」なるものが「理想の境地」として扱われている点です。
 そら、ああた、宗教ですぜ。
 人間はひどい生活をしたらひどくなるのです。良い生活を知ればそこそこ良くなる。それが人間性です。だから、社会をまともにする。そのための社会科学でしょうが。
 戦争さえなきゃ人間はそこそこ良くなるのかいな?
 それにしちゃあ平和な今もやくざはいるわ、人殺しはいるわ。通勤電車じゃケンカだらけ。中小企業じゃ社員が歯向かえば脅しをかけてくる。
 人間なんてそんなもんですぜ。 
 「良いか悪いかは人間性ではなく、社会状況なんだ」と見て初めて、「人間性の良い部分」を発揮ができるということ、年取っても政治学研究者を名乗るのならこう認識してもらいたい。

 で、ですね。これは前フリ。
 なんでいっぱしの社会科学的研究者がこんなことをいうか、というほうが問題なのです。
 なんで『人間性』は『良い人間性』しか示さないのか。
 
 思想史の世界では、「もともと西洋では『神性』っていう『良い性』があって、宗教勢力に対抗しようとする一派が神に対抗するために『人間性』を打ち出したので、もともと人間性は良いものでないと困るのだ」っていう趣旨で説かれるところでしょうかね。
 でも日本は関係ないもんね。
 
 さて、ところが、日本でも昔から、オニ、人でなし、人、という言葉がある。収税吏や借金取りや、その他、武力・権力をかさにきて、弱い者に不利益をもたらす人々のことですね。ということは「まともな人」という観念があったということです。
 これはなんだ?
 結論からいってしまえば、「人間性」というのは「同一の共同性の中の人間である」ということです。
 武力権力を持たない層にとっての行為の押し付けなり押し付けへの対抗なりは、同じ人間なのだからという共通性によるしかない。
 収税吏さんよ、自分の家族や親類縁者、この村のみんなは、お前みたいなひどいことはしないぞ。そんなことをしたら村八分だ。それでもするのか。あ、するのね。お前は村の成員じゃねえしなあ、、、
 
 同じように、武力権力が表面上ない、たとえば倫理学などという道徳体系の根拠は、やはり行為規範の共通性のみにならざるを得ない。人間としてやるべきか、やってはいけないことか。こうして、倫理学の最後の砦が「人間性」となるわけです。
 道徳というものは、昔は共同体的強制が作っていた。みんなで決めた田植えの時期は守らなければならない。それと同様に、収穫の悪い年には助け合わなければならない。
 その次は、武力権力者が作った。商売でだましてはいけない。ましてや金持ちのものを盗んだら死刑だ。
 その頃の、武力が及ばない社会的局面では、武力によって強制権を裏打ちされた宗教権力がこれを補填した。仕事に励め。経営者が見ていないからといってさぼっていてはいけない。神様が見ている。
 そして、宗教のない国では、「人間性」が道徳の基準になる。「だって他に善悪の基準となるものはないもの」(?)
 
 というわけで、お爺さんは何の根拠もないコトバの断片を宗教的に振り回さざるをえない、というわけです。
 まったく困ったものだ。社会科学的者がそんな虚言を学的研究者の名のもとに発言することは許されてはいない。彼は、宗教や国家にとらわれない真理の追究者でなければならない。すなわち、社会科学者とは、アナキストのことだ。
 
 この辺で、ちょっと変だ、と思っていただくと、話が先に進みます。
 「お前はさっきから人間は状況によって『良くなる』とかいってるじゃないか。
 なんだ、その『良い』とは。お前だって道徳家や宗教家じゃないか」
 
 でしょ。
 そうです。「良い人間」と人に告げる根拠は何か。
 
 これはブログ表題の関係で明日。


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文化と人間

2007-12-15 11:18:13 | 上部構造論
 先々週のことでブログっぽくないですが、書くのに時間がかかって。で、横浜市が野毛山動物園の名称を5千万で売りたい、という話。まったく小役人の点数稼ぎそのもの。
 野毛山動物園は横浜の上野動物園のようなところです。ひい爺さん婆さんの時代から神奈川県や東京城南地域の子供や若者に親しまれてきた、入場無料の動物園です。「今日は野毛山にいったの」「そうかい、野毛山は爺ちゃんも若い頃いったよ。こんどは爺ちゃんが連れてってやるぞ」。その名前が1企業に売られる。
 名前は文化です。横浜市の一般会計予算は1,3000億。5千万の2万6千倍です。そんなはした金で文化を売り渡していいのか。
 歳出削減策など山のようにあるのに。(議員も市長も削減すると困るものばかりなだけ)
 
 というわけで、文化とカネの話。
 
 隈の理論には文化がでてきません。「文化」が指す事象は、規制や価値意識や情報メディア以外は趣味の問題で、社会を変えようとする行為には関わらないから。せいぜい「貧窮」の説明くらいなだけ。
 でも、だからといって大事でないわけではない。人間が生きていくにはコーヒーブレイクも必要です。
 
 いわゆる「文化」とは、状況の共有のことです。
 人間が生きて行為する際に認識する外界の情報のうちで、他の関係する人間と共有していることに意味を持つもの。
 人間の創作物も風景も、これを共有し共に行為する将来の材料として、意味を持ちます。
 農村の文化とは、ある地域で、たとえば食事をする際の行動様式と、これを実現するために共通して使用する道具を指します。
 ふるさとの森は子供のとき生きたすべての人間との関わり合いのサインとして意義を持っています。これを『風景としての文化』と評されれば、「ああそうだな」と思うわけです。
 東京駅の赤レンガは、九州から出たことのない人間にとっても、雑誌で読み、自分と将来を同じくする「日本人」の歴史の共有物として、「そう感ずる者には」文化となります。
 しかし、共通性をもたない、表通りに昨日建ったコンクリートのビルは、評論家達が共有する状況外の人間には文化などではありません。(『建築の流れを評する生活』を共有する評論家達にとっては、『革新的な文化の変容があった』ことになるかもしれません)

 一方、金には『共有』という特性がありません。
 カネはカネを通じた将来の個人的の達成手段でしかないのです。今日もらったバイト代は、若者個人にとって、夕飯の牛丼大盛りという将来をもたらしてくれる以外のものではありません。(ただし、牛丼ではなく、彼女にあげるクリスマスプレゼントの一部にもできる、という個人にとっての選択的な楽しさがあります) 
 人はカネを欲しがる。作られた行為の将来が手に入るから。でも、その行為の将来自体には共有がない。カネが設定するものは、実は、文化が設定した個人の脳裏に住み込ませるただの幻想にすぎません。若者は別に炊飯器で米を買って、卵をかけて食べてもよい。しかし、それではみじめだ。でもみじめと思わない文化はある。カネと文化、どっちが人間にとって重要か。文化です。
 カネが設定できるものは、商品という幻想。人は手の中に残った金貨と失った人間関係を秤にかける。
 そして嘆く。

 これが人間の類的本質というやつです。
 隈の理論では、行為の原理は生物の原理ですが、行為の原則はかなり類的本質に近い。この文化という状況の共有は、それ以上に、人間が作り出していくという、ヒト固有の本質です。

 なお、類的といっても、じゃあ人類みな兄弟、国家のために命を差し出せ、ということではありません。
 「行為は存在するが社会は存在しない」、という基本を忘れると、常に人は支配者、すなわち相互行為の強制者のいうがままになってしまいます。そうではない。社会など存在しないのです。もちろん国家など支配者が作った幻想です。幻想であるくせに歯向かうと痛い目に会いますが。
 一方、行為は存在する。昨日も今日も存在し、次の一瞬も存在する。こうして人は行為の束になります。
 ところで、現在の世界では、人の行為はヒトとヒトとの行為、相互行為の束です。ヒトはまず親の存在をなくせない。ついで、どちらかといえば異性が傍にいたほうがいいように身体が構成されている。
 ヒトは、他人と生きてきた知識で、次の瞬間も他人と生きるように将来をセットする。だから、文化の共有がなくなったときに、人は自分の喪失、つまり、次に何かをしようとする自分を見失う。
 そこを間違ってはいけません。
 
 ここからは思考実験です。
 人は一人でも生きていけるでしょう。あるいはそれはつまらない生かもしれないが、経験が教えるところによると、人によっては面白くすごすこともできる。
 そして、こちらは誰でも理解できるように、気の合った数人が、生理的消費物に囲まれていれば、人間は王侯貴族よりも幸せに暮らすことができる。

 それを抑えておいて、さて、人は気の合っていない人たちといやいや暮らすこともある。
 しかし、共有する文化というものは、たとえばキャッツアイ・ギターというものは、あるいはニコンFというものは、人の生を楽しく、豊かにできるものなのです。
 誰もギターを知らない世界、誰も銀塩フィルムを知らない世界で、ギターと旧式カメラしか知らないおじさんは幸せで豊かに暮らせるか?? それはむりなことです。彼は新しい、他人も知っている文化を共有しようとしなければならない。
 もっとも私は他にも趣味がありますが。
 
 と、ゆうふうに、文化をカネで売りとばすんじゃねえよ。あほんだら。それは自分を売り渡して消滅させるのと同じことだよ。
 

(注1)横浜市の住民だったことはないが、私も子供も青春や児童期に楽しませてもらった。

(注2)などなど。このように怒ってはみたものの、実は野毛山動物園の動物たちの多くは有料動物園ズーラシアに、群れ・家族から生き別れにされ、野毛山は昔を知る身には廃墟寸前のありさまのようだ。
 だから小役人の点数稼ぎだというんだ。1兆の予算があって、やることは名前の付け替えだけかよ。
 どのくらい廃墟か行ってないから知らないが、商業幻想ではない港ヨコハマの伝統の保養地を作れよ。

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コーヒーブレイク・その2

2007-12-03 21:47:09 | コーヒーブレイク
 マイ・フェイボリット・シング、Nikon F.

 写真も趣味です。
 ニコンの良さは他の人の言うとおりで、別に付け加える必要はないんですが、せっかくですから写真の理屈を。
 
 写真ていうのは、かなりの人が言うように、時間を切り取るものです。
 この目の前にある外界、これは一瞬後に変わってしまうことは分かっている。
 これが変わる前に保存する。
 これが写真です。

 だから、別に写真機など何を使ってもいい、はず。
 はずなんだけど、これが違う。
 ある写真機は1000回のシャッターチャンスに1回壊れる。この1000回目は、私には大事な瞬間だ。
 ある写真機は巻き上げが長くて一瞬が過ぎてしまう。
 ある写真機は重たくって、現場に持っていけない。
 ある写真機はシャッターを押したのに、ボケボケで何がなんだかわからない。
 そこでニコン。
 それだけのものですが、それだけのものなのです。

 もっとよく写るものもある。大口径ツァイス・プラナーの人工色。これはきれいだ。
 しかし、一瞬後に変わる景色は人には大事だが、一瞬後に変わる色が好きなのはデザイナーだけだ。
 絵描きは、色を超えたものを見る。
 だから変色した絵でも人の心を打つ。
(おっと、別にデザイナーに恨みはありません)

 一瞬に大事なものはピントだけ。
 ま、言いすぎですけどね。
 とにかく、ピントの合った写真を常に提供するのがニコン。

 写真は、自分が何を見ているかを伝えるものです。これを伝えるために絞りを開けたりフィルターをかけたり、あるいは『極端には』フレーミングで強調したりする。
 これは「極端な」場合で、そもそもフレーミングとは画面の配置をどうするか、ということですが、本当は自分はファインダーで見ているのですからフレーミングがどうとかという技巧は関係がない、ファインダーで見たこの瞬間を伝えるのが写真です。
 もちろん、プロは画面配置はうまいですけどね。それは過去の感動をなぞっているだけで、世間ではそういうのをサロン写真といいますし、とってる写真師もそれは否定しないはずです。
 写真というのは自分がファインダーで見た感動を伝えるものです。
 それができるのが、ニコンF。

 もっとも、感動を感じない心調じゃ話にならないですけどね。そんな心調でもカメラを持って歩くと、ちょっと心が軽癒するものです。
 
 てなわけで、ご想像のとおり、実は仕事が外的要因のため、ちょっとヒマ。
 ちょっとヒマくらいが人間的ですよ。


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ナショナリズム

2007-12-02 18:42:26 | 上部構造論
 間を空けて改めて見ると、このブログも読みにくいですねえ。本とどっちがひどいかねえ。
 それでもせっかく読んでくれる人がいるとすると、何かためにならないといけません。
 今回は「ナショナリズム」という言葉をめぐる混乱について。

 世間のナショナリズム論議で議論にもならない理由が、まずコトバの混乱です。
 
 愛国心が好きな人は、「『ナショナリズム』は愛国心で、これが分からないのは共産主義者だからだ」、という。
 ナショナリズムが嫌いな人も、「『ナショナリズムは誰にでもある。これを政治的に利用するからいけない』」とか展開する。
 共産主義者でも、日本共産党は、「間違ったナショナリズム(間違ってないナショナリズムがある)」「真の愛国の心で」とかいうんじゃないですか。

 ちゃうちゃう。
 人が何を思っていようがどんな行動をしようが、そんなものはナショナリズムではない。思うのは勝手さ。日の丸の旗を部屋に飾って毎朝三拝するのも勝手。
 そうじゃない。
 ナショナリズムは「イズム」、思想なんだから悪いのですよ。「国のためにお前が死ね」と「言うから」悪いのですよ。
 これを全員が隠している。いえるのは私のような本物の個人主義者だけ。
 愛国主義者の爺さんも、よもや自分が中国と戦争するなどと思ってやしない。するのは他の誰か。
 日本共産党も「愛国のために革命をしろ(二段階戦略の第1段)」といいたいところを他人にはいわないだけ。
 
 「いやそんなことはない。どんな国民も愛国心を持っている。お前にはないのか非国民」って。
 うるせえなあ、なんだよ、国民て。俺が生まれた国を好きだろうがどうだろうが、お前に言われる筋合いはないや。
 と、いいたいところですが、それも単刀直入すぎる。
 
 もちろん、なんにでも根拠はあるんで、愛国心もナショナリズムも空中から生まれはしない。
 人が生活のために集まると次のように行為に道筋ができます。
 まずは、生理的な消費物資を共同して作る関係から生じた必要による、共同性を守る規制ができます。この時期、用水の水は順番に使うとか、食えなくなったら最低限助け合え、とか。そして、この規制を守ることへは、賞賛・優越が与えられます。
 ここにひとつのまとまりができる。そして、このまとまりができた後は、その共同体が持つその後の教育機能によって子供の頃から賞賛がまとまりを強化します。家の手伝いをしろよ。この時期、用水の掃除は村のために子供がしろよ。

 次に、長い歴史のうちに武力による支配が成立するきっかけが生じます。
 自分の村にはもう食い物がない。しかし、山向こうの村には食い物があるように思える。
 武力による支配が成立するまでには、本来、本末転倒な、生き残るために死んだりする戦いに勝利するという、いくつもの生理的必要をめぐる闘争が必要ではあります。例外では、支配に向かう者たちに圧倒的な武力の優位にあるという場合はありますが。
 長いといっても、アメリカでもこの2,3百年で終わってしまう短さです。
 ともかくも、消費上の交換の地域的範囲において、武力的にこれを掌握し、支配層の消費を確保することとなります。これが国家であり、支配層への階梯が、可能性としては承認されている範囲の人々が国民です。奴隷はアメリカ国民ではありません。奴隷は法律的に「モノ」です。インディアンはモノではないようですが、当初、アメリカ国民でもないですね。
 
 さて、ともかくも成立した武力的掌握において、支配権力は常に武力を行使し続けるわけではありません。
 武力的支配層は、消費を確保できれば、生理的安寧を確保したがります。そのための支配ですから。すなわち、食っちゃ寝で日々を暮らす方向を目指します。
 この折に発生するのが、まずは「取り決め」です。
 取り決めは、それによって複数以上の人間を巻き込むことにより、武力の中の肉体力をさらに強化することができることになります。これはある場合には法であり、ある場合には共同体的規制です。

 なかなかナショナリズムに行きつきませんね。まあ、ここからですね。

【第1の場合】
 ついで、武力をあるひとつの世代を超えて継続させる場合は、支配の中に賞賛の繰り入れが発生します。
 今の支配者はもちろん偉いが、支配者の前の支配者はもっと偉い、というわけですね。こうした支配者の崇拝体制は、支配者のが行為する人格であることから、原始時代のように自然環境への迷信的依頼がある場合には、常に交換可能です。
 すなわち、宗教の支配思想化が生じます。

【第2の場合】
 武力的支配は、支配者の行為を媒介として、行為の共同性を押し延ばすことができます。
 自分は小さな村に住んで自給自足で生活している村長なだけであっても、支配者になれるかもしれない、と思える人間、=支配階梯の中にいる人間にあっては、支配者が欲しいと思っている毛皮のコートを確保することも自分の次の行為の目標となりうる、と思います。
 
 ちょっと横道にそれますと、人は消費をめぐって特定の生産関係に陥らされるわけです。
 生理的資源をめぐる関係(経済的関係)のうち、消費が個人行為にとって決定的である一方、生産関係は行為の共同性にとって、決定的です。
 消費においては、行為は他者の行為を自己の行為とすることはありません。他人の行為が問題なのは、せいぜいが食卓マナーくらいなものです。
 一方、生産関係においては、他者の行為によって自己の消費物資の獲得が決定されることになりますから、他者の行為を自己の行為に組み込む必要があります。そして、支配国家では生産関係と支配者の武力がセットになっているのです。
 村長が、とぼけて支配者の毛皮のコートへの欲望を見ないフリをすると、年貢で身ぐるみ剥がされ、あるいは引っ立てられて殺されたりします。
 一方では、支配層は、村長以上のこれに連なる支配階梯について、毛皮のコートを生産する他国について、「われわれと同じではない」共同性を事実認知として、作り上げます。
 他方、「われわれは同じだ」という神話も創ることになります。
 まあ、この神話は、支配階梯を同じくしない被支配者については不要ですけどね。逆にいうと、支配階梯が一致してくる場合には、つまり曲りなりに教育制度が整い、これに被支配民族も乗っかれるような時代になると、この神話を拡大修正してくることになります。
 
 さて、このように確立した国家においては、国家対他国家(あるいは他民族)の行動への国民を動員する必要がでますので、国家と宗教に関する教育を必然化します。
 ここで、国家というものは、ただの単語でサインに過ぎません。そんなものはないんですから。ないのですが、国家をめぐる行為として学校や宗教組織が押し付けてくる行為のすべては、個人個人の行為者に備えられていく行為の道筋です。これはいやでもなんでも現実にある。自分というものは、こうした行為の道筋の塊ですから。
 さらに支配が宗教を媒介手段として選んだ場合は、神は、ただの単語やサインではなく「行為者」なので、神による支配を招来することになります。

 でも、まだこれはナショナル「イズム」ではない。ただの行為規範です。
 「愛国心」を持った爺さんや婆さんがそのままナショナリストなわけではない。
 
 ナショナリズムとは、こうした過程を社会で貫徹させようとする運動のことです。それが「イズム」としてのナショナリズムです。だから、それは支配者の運動なのです。だからそれは戦争の温床なのです。だからそれは被支配者をも含んで良い世の中を作ろうとする勢力であれば、否定するのが当然の思想なのです。



【注1】
 一つのポイントは、自称確立した国家であっても内部の共同体と支配の階梯ができていなければ、ナショナリズムをめぐる過程からは外れるということです。
 この場合、内部の共同体がクニとなります。共同体というのは、生産関係、つまり生理的利害を共有することで行為の将来と規制を共にする範囲ですね。
 ナショナリズム過程から外れればよいかというと、そんなことはなく、ナショナリストの口車に乗った支配階梯に連なる兵士たちに蹂躙される対象となるわけです。

【注2】
 なお、共同性としては、その他に、宗教教義(や革命思想)のような行為規制を伴う抽象性が形作る人的な集合、要するに宗教セクトではそれ自体に宗派的共同性が生じますし、思春期までの、生活上の行為よりも行為方針の確立が重要な時期においては、青少年は、伝記的人物その他と仮想的な共同性を結ぶことができます。

【注3】
 「自己を管理する倫理」と「他者を支配せんとする思想」との区分とパラレルに、外界においては、「自己環境を保持せんとする愛郷土心」と「支配環境を保持させようとするナショナリズム」とが存在するわけです。
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