リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

社会科学の実証性

2008-04-27 11:01:12 | 社会学の基礎概念
 学問入門的なテーマで、社会科学では実験ができないから科学ではない、というのがあります。
 自然科学では、仮説を出して、実験として、その仮説過程が現実に現れるように環境を整えてやると現象が再現できることを客観的に示す、それによって仮説が証明できるから科学として認められる。が社会科学では現実に社会を動かすことができないから、経験科学とはいえない。
 というわけです。
 
 なんだかねえ。評論家のキレイ事ですね。どこのどなた様がそんな完璧な実験をおやりになってらっしゃるんでしょうか? 実験仮説なんて穴だらけじゃないですか。やみくもに実験を繰り返し、あげくは、偶然できた結果を論文誌に書いてノーベル賞をお受けになる人ばかり。

 一方、社会科学は動き続ける現実が眼前にあります。
 この眼前の現実の動きを仮説によってまとめながら、次の展開を予想する。
 展開どおりであればこの仮説はどうも正しい。
 その正しさは、ノーベル賞級の実験よりは確からしいものです。そうたくさん仮説が立てられるわけじゃないですからね。10の仮説の1は正しい、か、どれも正しくないが次の社会的実験の基礎にはなる、誤った仮説です。
 とゆうわけで、社会科学というのは本質的に、実証的なんです。empiricalって書きますけどね。
 さらにいうと、統計処理できれば実証的というのも子供レベルのキレイ事ですね。
 そういうのは単に測定的measurableであるにすぎません。内容がなきゃ科学じゃないですからね。

 で、ここんとこの興味は、国家権力が現代の宗教=大学教授・学識者を動員してセットした新規医療制度がどう動くか。新聞の論説委員もちゃんと取り込んだのにねえ。薄情なもんさ。あたしゃもちろん反対派ですが、小泉の頃はそりゃスターリンもびっくりの革命的論議だったですぜ。
 前の首相があほで、、、って名前も忘れてウィキペディアしてしまいました。弱みを見せたら食いつくのが若い人間に限らず、戦後日本人でんがな。
 ま、興味深く拝見。こういうのは歴史家が評論する頃にはウソだらけになっちゃうからね。


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ナショナルミニマムを守るのは誰か

2008-04-22 21:14:38 | その他
お菓子を3種類持って食べながら歩いていたとき、子供達が寄ってたかって「お菓子くれよお」とわめきだした。さて、あなたはどうしますか?

一番要らないお菓子をあげる。正解。

今日の朝日新聞で、200億円の図書費を地方自治体にあげたら、44億円は別の用途に使われた、とありました。
その同じ新聞に、朝日新聞記者の「今村尚徳」という人が、保育園基準の問題で、「地方自治体に権限もカネもあげたらどうか」と書いていました。

もうお子ちゃまなんだから。
やせてもかれても国家公務員は国のために生きている人間です。保育なんてそんな人民にとって大事なものをむざむざ渡すものか。そんなのは汚職の弊害の類の問題じゃない。
道路財源だって、なくしちゃったら、地方じゃ道路なんか作れないとですよ。
子供やアリやヤクザのように、甘いところにはムシたちが群がるんだ。地主や商店主や工場主や (ま、総称して資本家っていいますけどね)、それに追随した、税金は1円でも払いたくない連中のことです。
泣く子と地頭に勝てるのは国だけ。そうでしょ、地方自治体幹部様。

でも国家公務員だってバカじゃない、「図書費なんか200億も要らない」。そう判断したから、国家公務員は払い下げたのです。
他の用途に使った? 「そら見たことか」と国家公務員は言うだけです。

それでお菓子の話。
逆にいえば、国家公務員は「もうこんなもの要らねえな。といって、なくすと議員がうるせえしな」と思ったものを地方へ払い下げるわけです。
それでいい。
国家公務員が日本人民の最低限を保障しなかったら弱い人々はどうなるんでしょう。
東京都や神奈川県ではだいじょぶですよ。では島根県や高知県では?
何が地方自治だ、てめえの懐のことばっか言ってんじゃねえよ、というのが感想ですね。
日本国家社会主義? それが嫌な人間は、まずは自分がウヨクかな、と疑ったほうがいい。

で、その今村という人に、「ちょっとこの20年間、地方へ配分した財源の行方でも調べたらどお?」と、メールでもしようかと思いましたが、こっちへ振られて調べ直す羽目になると時間の無駄なので、やめて、彼氏のためにここに書き留めた次第です。

   こうゆうのあんまり好きじゃないんですけどね。こっちも自称アナーキストだから。
   でも、きれいごとでカネを欲しがる連中 (や、その尻馬に乗るアホ)よりも国家の使用人のほうが
   私心がないだけ好きです。



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白黒写真試論(その1)

2008-04-14 21:42:11 | コーヒーブレイク
 人が写した写真を見ていると、白黒の写真とカラーの写真のでは明らかに違う感覚が生まれます。

 携帯などのデジカメ写真の場合はほとんど関係ありませんけどね。世間にはそれでも白黒写真にこだわる写真家がいます。

 思うに、思うだけですが、カラーだと、情報が大きすぎるのですね。
 生物は光の友。人間の遺伝子の4割は、植物と同じだそうです。
 お日様さえ照っていれば生きていける、そんな確信でしょうかね。

 白黒の写真から受ける刺激は非常に限定的です。
 被写体がよほど意義深いものであれば、その他のことは考えに浮かばない。まあ、恋人とかアイドルとかエロ写真の類ですね。
 被写体がどうにもこうにも自分の記憶との関連がつかない場合は、「いったい何を写したんだ、それにしても淋しいシーンだな、だから白黒はいやだ」みたいなものです。白黒の写真は、感情が刺激されない限り、刺激されないという事実だけが残り、ほんとに淋しい。

 こんなことを確認してもしょうがありませんが、昭和40年のある街角の白黒写真と、同じ場面のカラー写真があった場合、前者では今と比較してありえない要素が目に入ります。「えー、なに、いつの写真?」
 後者では、「あれ、見たような写真。なんだ、やっちゃんちの裏の路地じゃん。でもなんか変だな」

 というわけで、人は、眼前のカラフルな配合を伝えたい場合以外は、白黒の写真をとるのがよいのです。

   今日はアップ4回目ですね。もしも、「こいつ勉強したくないだけじゃないか」と思った人がいたら、その人は正しい。

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マルクス主義の問題点(その3)

2008-04-14 14:18:21 | 歴史への視角
前回、エンゲルスがいればマルクスなんて要らないと書いたところですが、マルクスのオリジナルで有名なところが、「労働力」と「労働」の違い。

なんなんですかね、これ。マルクスなんて中学校3年以来まじめに読んでいるところですがいまだに理解できません。

【初めの例(労働力)】
趣旨的には、
1 労働力は人間が働く力である。
2 人間は賃金と引き換えに労働力を売る。
    これは、賃金は労働力(明日の働く力)を作る消費物資と等価だ、ということです。
3 ところで、現実の労働者が作るものは、消費物資だけではない。資本家の取り分を作っている。
4 この資本家の取り分は労働者の賃金に入っていない。労働者は賃金にないものを作らされている。
  これを搾取という。資本主義の詐欺だ。

というわけですね。
だからなんじゃい、てなもんです。等価交換に文句つけんなよ。

【次の例(労働)】
1 労働者は労働を売る。
2 資本家は代金として賃金を与える。
3 労働は資本家の消費物資も作っているのに、賃金には労働者の肉体の再生産分しかはいっていない。
4 従って、資本家は労働者から搾取している。資本家は泥棒と一緒だ。

じゃ、なんでいけないんですかね。こちの方が現実のままじゃないか。


どちらも同じ現実ではあります。

【初めの例(労働力)】では、資本家は、実際、労働力を買おうとしますから
「労働者は俺様に労働する力を売ったんだから、あとは搾り取れるだけ働かせることができる。労働強化? 売ったものを出し惜しみするんじゃねえ。」
という資本家の理屈の方が正しいと思うんですけどね。

労働者は、資本家がなんと言おうと、苦しい思いをして労働をしますからそんな理屈は受け入れられない。
【次の例(労働)】では
「労働者が売るのは労働だ。ちゃんとそれを取り返せる賃金を寄こせ。
 おっと、これじゃあ足りないぜ。資本家のお前の分も作ってやってんだからな。お前の家屋敷も寄こせよ」
となると思うんですけどね。
マルクスを支持しているって口では言う労働者も、実はみんなこう思ってるんじゃないかな。

まあ、どっちだっていいけど、マルクス主義者が初心者に向かってさも偉そうに「分かってないな。労働者が売るのは労働じゃなくて労働力だよ」なんていうのを聞くと、おめえは何を分かってんだよ、といいたくなりますね。

  いや、ほんと。労働強化は理屈上何が悪いの? あんたがたの説じゃ悪くないでしょ?
  悪いのは「資本家がいいわけない」というレッテルだけ。労働者の痛みなどなくなってるじゃん。
  何が「マルクスの賃金論で合理化に反対せよ」だか。

「労働力」論の積極点は、「そんなふうに等価交換をせざるをえない立場に立たされてしまう理不尽さ、や、資本家に反論できない理不尽さは、すべて労働力の商品化によるものだ。資本主義は非人道的だ」とかいう哲学的なお茶飲み話の提供だけ。
そんなものは有閑階級の遊びだ。ア、ソ、ビ。



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唯物史観の問題点(その2)

2008-04-14 11:56:02 | 歴史への視角
前回に引き続き、唯物史観の問題点。「社会を動かす原動力は、生産力と生産関係の矛盾である」
まあ唯物史観の基本中の基本。
よいんですけどね。でも、それはどういう事態か、は、わかってないと。

ここでの問題は、生産力というものです。
確かに生産力は直接に歴史を変えるのですが、生産力を動かす要因というものがあります。
どうもしかし、エンゲルスが分かっていたと思われるように、本当の要因は生産方法なのです。生産方法が変化することによって生産力が増加する。

日本には「生産力とは人間力だ」なんていった有名学者がいました。これは社会学者に喜ばれましたけどね。私も学部1年のとき、これは良い言葉だ、と思ったものです。経営学でも後進国進出が課題のときでしたので、「そうだそうだ。現地人を働かせるのが大変なんだよね」みたいなところだったと思います。
が、そういうもんじゃない。
ごらんのとおり人間力など20年で変わる。頭に可塑性のある年齢時なら、生理性と優越と賞賛とによって変わる。「人間は規制によって水路化される」とまとめたいところですが、わかりにくいかしら?

とにかく、生産力はそんなものでは上がらない。工場勤務にフィットすべく改造された人間は、改良された生産手段によらなければ生産力を上げることはできない。
生産方法とは、狭義の生産手段--機械等のみを指すわけではありません。
はるか昔、限定された生産育成によってのみ支えられた採集経済は、米その他の単位栄養量の高い経済にとって替わられました。
これによって得られた生産力と保存力の増大は、決定的に社会を変えました。
これは生産方法の移入による、というのが普通の日本語です。

余談ですが、これはエンゲルスは認識していたようでもありまして、だいたいエンゲルスという人は、サルトルがけなしたりと、マルクス主義が哲学だった昔はやけに評判が悪かったのですが(今は誰も何もいわない、ということで)、とんでもないことだと思いますね。表現方法は普通の人向けにやさしく書いているのでアバウトですが、マルクスより数段社会科学を進めた人です。
マルクスがいなくともエンゲルスがいれば歴史は変わらなかった。もっとも、人は一人では仕事ができない、ということはありますが。エンゲルスが第1バイオリンだったほうが世の中のためだった気がしますね。

閑話休題、では生産方法はどうやって変わる?
事実の認識です。
事実の認識は決して上部構造ではありません。隈の著作でしつこく述べたように、知識は歴史を動かすのです。

も一つ余談ですが、もちろん、科学の普及は上部構造です。大学の学問など科学ではない、といっておくと論争的でよいですね。なにいってんだ、と怒る気のある学者は事実を探求してらっしゃるのでしょう。しかし、それは「大学の学問」ではなく、「あなたの科学」です。まあ、面倒なのでやめときます。



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唯物史観の問題点(その1)

2008-04-14 10:53:01 | 歴史への視角
 (今日は代休)
 マルクス主義の通説では、私的所有を共同所有にすると、社会主義になる、というお題目がありまして。これが初めの問題点です。
「資本主義の基本矛盾は、けっきょくのところ生産の社会的性格と所有の私的性格との矛盾であり、資本家階級と労働者階級との階級的矛盾です」なので「資本家の私的所有制をなくして、生産手段の社会的・集団的所有制をうちたてることによって」基本矛盾を解決するんだ(某入門書)、てなことになるんですね。

 でも、もともと私的所有を声高に唱えること自体、政治的な話で、これは古くはアナーキストの悪口をいいたいマルクスや、20世紀では通説派の政治党派が、なんとか国家所有に話を持っていきたいということ以外にありません。

 本来、個人の必要は「占有的形態」です。モノというのは自分が使えればいい。使っているものを他人がとらなければいい。
 だから、個人行為者の立場に立てば、「社会的所有がいい」などというのは科学ではなくイデオロギーであることはすぐわかる。ですが、マルクス主義者はイデオローグでもあるので、そこから離れるのは大変です。
 さっきもネットで確認してましたら、さすがに人気のない「社会主義論壇」で、本来、通説派が頭にズラっと並ぶべきところ、こういっちゃなんですが昔ならごくマイナーな旧・新左翼のサイトが3番目に出まして、そこでは優に原稿用紙80枚を超える勢いで、この問題点の周辺を回っていました。疑問をお持ちになるのは良いことですが、こんな単純な事情に、何をぐずぐずいう必要があるのかぜんぜん理解できません。
(「個人行為者の立場に立たなければわからない」というのも、必ずしも論理的必然ではなくて、性格の分布のようなところもあるんですが。まあ、第1に経験値としてそういう人間が多い、ということ。第2に、これは論理的な話で、そういう情報が、対抗権力として、賞賛と優越を得て、資本主義商品の売却単位として広がっていく、ということにはなります)。

 「所有」というのは(国家)権力によって占有的権利が確定されている事態を指します。
 もともと「権利」というものはそういうものなんですけどね。

 私的所有が悪くて支配社会や資本主義社会ができたわけではありません。逆です。
 武力権力によって経済的諸関係が認可され、あるいは国家権力によって相対的に小さな権力と経済権力が認可され、その結果、経済権力がはびこった場合が私的所有制度なのです。
 といっても、「経済権力」というものがあるわけではなくて、国家的武力によって私的所有(とそれに基づいた契約)を支持された経済的占有者の存在を指すだけなんですが、彼らは国家の武力を使用することを認可されているわけです。
 なお、国家自体が私的所有だ、とかって言う人もあるようですが、これも意味なくて、「権力は占有する。文句あるのか」っていうだけで、所有概念なんてまるで該当しない事象です。

 とにかく、こういうわけで、当然、私的所有の排斥によって排除できるものは、弱小権力とこれらの経済権力のみなのです。経済権力から所有の権利を取ってしまったら、あいまいな占有しか残らない。あいまいな占有は、人的武力によっていつでも覆される。

なのですが、国家権力を使用せんと待ち構えている人間は,それ以上のことをいう気がない。国家所有ならいいんだよ、いや? じゃ、集団的所有くらいで、、、なんてスローガンでいうだけ。

通説マルクス主義者の諸君は、共同所有後、何をもって国家が死滅するというんですかね。
資本主義的搾取は消滅するかもしれないが、所有のある限り(これは因果関係が逆ですが)、国家は死滅しない。

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20歳の記憶

2008-04-06 17:07:32 | コーヒーブレイク
勤め先の近くにも桜が咲きました。
花見の名所の近くですが、そちらは人ばかりなのでやめて、反対側の裏町へ。
古いけれど無名な天神様から閑散とした住宅街の道をたどれば、突然まだアスファルトも黒々とした幅広の新設道路と建築途上の巨大なビルが目に飛び込みました。そういえばここは20歳の頃たずねた友達の友達のアパートのあたり、のはず。

その頃学生アパートといったら、池袋、大塚といった繁華街裏の木造2階家4畳半流し付きというのが定番のところ、彼氏は学生じゃなかったみたいで、幹線道路から入った低層とはいえコンクリートのビル街で、その3階辺りの3部屋ほどもある事務所のような住処がそこでした。

  蛍光灯の下の暗い殺風景な部屋で、いったいどんな話をしていたのか記憶のかけらもありません。
  知らない人たちと知らない話をした、ということなんでしょう。
  翌朝、飲み残したサントリーホワイトが香りも飛んで色水のようにコップに残り、
  ああ、これが安ウイスキーというものかと思った覚えだけがあります。
  今では当家ではホワイトなんて高級なんですけどね。

あったはずのアパートのビルの場所を捜して、といっても覚えているのは、早朝の電車に乗るために皆で向かった幹線道路へ出るわき道の光景だけ。
そう、そこも再開発で広々とした空間が鉄板で囲まれている地域になっていました。
ここには2年前に転勤してきたんですが、こんなことならもっと前に訪ねてくればよかった。

  何もなかった20歳の風景ですが、それも私にとっては昨日のことと同じ。
  でも、どうもそういう記憶の持ち方は他の人はほとんどしないんだ、
  ということが最近ようやくわかってきました。

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