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リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

ニッポンイデオロギー整理(その2)

2023-11-04 15:56:23 | 上部構造論
 こんにちは。暖かい(暑い)日が続きます。ちゃんと季節通りでないと、献立のほかに、掛布団でも困ります、そんなバリエーションないし。タオルケットか毛布の2択、タオルケット明け方寒いし。。
 しかし、昼間はだいたい暑からず寒からず、都会へ出ればなにかしら(安い)催し物をやってるし、大変いい季節ではあります。東京の人は仕事帰りにちょこっと無料の個人発表展に寄るだけでもそこそこ文化に浸れるでしょう、なかには買う奴しか客じゃないという画廊もあるけどね。
 ただ神奈川県民の施設は散らばってる上に電車が遠くて。近代美術館なんて良さそうなのだけど、バス(葉山)。ボルし(1200円)。

 さて、いい季節でも悪いニュースは絶えず。
「文化の日に「明治」併記を 超党派議連が法案提出へ」(共同通信)
「超党派の「明治の日を実現するための議員連盟」は1日、国会内で民間団体と合同集会を開き、明治天皇の誕生日に当たる11月3日の「文化の日」に「明治の日」と併記を求める祝日法改正案を提出する方針を確認した。、、、立憲民主党の大島敦企業・団体交流委員長、日本維新の会の馬場伸幸代表や国民民主党の前原誠司代表代行らが参加した。」
 だと。なんだ、大島って。けんぽうしんさかいいいん、とか、履歴にある。
 自公や前原はしょうがないとして、ばかやろう。
 若人は知りはしないことだけど、11月3日はもともと「明治節」だよ。明治天皇を崇める日だ。そうやって外堀を埋めてくわけさ。その証拠に法律で外堀を埋め尽くされた自衛隊は、もう誰も違憲だなんてしりゃあしねえ。何が立憲だ。明治憲法と間違えてやがる。
 
「トヨタ世界生産が過去最高を更新 23年度上半期、505万台」(共同通信)
おなじみの輸出業界ニュース。こんなもんの金儲けのために円安物価高に毎日顔をしかめているだけの庶民ときたら。ほんとに羊。

 さて、以下はちょっと反省情報。
 新聞に論を張った「三木 那由他」というトランスジェンダーな人。おっしゃるに
カミングアウトした人は「きっと怖い思いをしながらそこにい」るんだから、あなたの助けを必要としてるんだから、って。
 私も古い人間で「関係ねえや」という基本姿勢であったところ、怖い思いをして立ちすくんでいるといわれちゃあそうそう無視もできない。
 だいたい人の感情反応パターンは、自分にない事態については了解を超える。しかして、「いわれなければわからない」。べつにどっちだっていいじゃん、と思っても、そう思えないんだ、といわれたら素直にそうかと思わないといけない。
 ほんと、どっちだっていいと思うんだけど、最近の子は華奢にできてるのはなんなんだろう。わたしのほうが華奢なはずなのに、、うちの子も華奢なんだよねえ、最近の子じゃないけど。 

 というわけで、普通の方はまた来週。
 今日の本題は長いの。
 ニッポンイデオロギー(その2)
 わざわざニッポンというのは、たとえば他国の戦争国家では全然状況が違うからです。
 で、こんなにも長々書くのは、単に本業にやる気が出ないからです。長期服薬の副作用でウツになるのだ、知らんけど。
 で、今回は、前回の整理です。整理なのでちょっとくどい。
 まず注意書きから。

 (注意の1)

 ここで扱うのは、発現・発出された言辞としてのイデオロギーです。
 全ての制度からは、いわば「イデオロギーを抽象・抽出する」ことが可能ですが、それはここでいうイデオロギーではありません。それは当該社会の権力の発揮方向の事実認知として、とりわけ支配イデオロギーの重要な源泉となるが、それ自体がイデオロギーではありません。
 ここでのテーマは、現在のイデオロギー、「つまり」、「変化する/変化させるイデオロギー」を扱うためです。

 (注意の2)
 イデオロギーとは、もちろん個人意識に密着している感情ではありません。さらにもちろん、行為者が「心に秘めている」信条でもありません。個人意識のうちの、人間相手に表明せられた、「他人に自分の意識として理解されたい」言語内容です。
 その言語内容に必須なものは、それが対手に伝わるべく表明されることから、
 第1に、共通の言語体系であり、
 第2に、相手に受け入れられたい正当性です。それが本当に自分にとって正当でなくともよい、相手に「自分の意識」の表明として納得されればよいのです。。
 個人行為者の正当性使用は、当該行為者の現在とされている表明目的によって変わる。
 個人なら同じイデオロギーを「持っている」わけではありません。個人行為者の環境は常に変わっている、しかして、そこで必要とされる外界の賞賛と優越も常に変化しているのです。

 (注意の3)
 さてところで、この手の話で面倒なのは、人間個人の千差万別性であり、個人の環境対応の臨機応変性です。個人はそれまでの自己の思い込み通りにしゃべり、あるいはそのときどきに意見を変える。まことにあてにならず、これをイデオロギーとかでくくるわけには、いきづらい。
 この事態をいったん消しておかなければ社会の理論を作ることはできません。  
 この状況を、一般に社会と具体的個人と捉えることは当然にもできますが、それはやってみればわかるように、とても煩瑣な問題であり、人間が日常、次の行為に適用するには実用性がないのです。心理学ならぬ社会科学においては意味がありません。このため、ここでは注意書きをしておきます。

 すなわち、支配権力イデオロギーあるいは対抗権力イデオロギーは、個人による差異を無にするのです、あるいは無視できなければ権力イデオロギーにはならありません。 
 ついで、下位集団の権力に依拠するイデオロギーは、より大きな権力イデオロギーに服する。これも同様に、より大きな権力イデオロギーは、下位集団が持つ権力を無にするからであり、あるいは無にできなければその権力イデオロギーは逆につぶれるからです。
 
 以下のイデオロギー現象の整理は、その発出されたイデオロギーの形態によります。すなわち、あるイデオロギーの裏に密着しているはずの人間行為者の存在形態について述べています。
 それは「ある人間行為者がこういう状況にあればそう行為するであろう」という設定ではないのです。ある(複数の)イデオロギーがその社会構成員によって発出された理由は、こうした人間行為者の選択によっている、という「説明」です。それはいってみればある社会現象の理由を知りたいという動機に応じた言説であるに過ぎません。
 たしかに「過ぎない」。過ぎないのですが、残念ながら科学の性質たる因果連関の立言は、説明とセットでなければ存在しえないのです。
 ポイントは、その説明によって成形された因果連関の立言が、次の将来の予見に、誰がなしても使用することができるか、ということです。その予見が将来の現実によって裏付けられた時、その説明は初めて、因果連関とセットにされる。と同時に、因果連関も一人前の立言として不動のものとなるのです。
 

 さて本題です。

(1) 権力を制度にする方途を持っている行為者におけるその環境対応

 まず、支配社会においては、行為主体の生理性も賞賛と優越も、行為の原則は基本的に制度によって左右される。そしてその制度は権力によって左右される。
 わかりやすくいえば「政治イデオロギー」集団関連の人間の対応時。これには政治投票行為を発現させる議会制国家内の選挙権所持人民の選挙行為場面を含みます。

 先に述べたように、今問題になっているのは選挙民の持っている具体的な思想ではありません。選挙行為を発現させるイデオロギーです。個人行為者は社会のいろいろな場面でいろいろなイデオロギーを保持する。今の問題は行為者が現に直面している状況なのであり、それゆえに、その状況は武力によって枉げられ、あるいは事実認知によって揺るがされる。

 元に戻って、この限りでの人間のイデオロギー発出の理由は、といえば生理的条件の確保であり、賞賛と優越です。
 ここで、資本主義時代においては、武力関連以外の状況においては、消費的生理性の確保に限定される。
 何度も言うようですが、行為者個人の生活すべてが消費的生理性確保にとらわれているのではありません。人は次から次へと通るいろいろな環境を生き抜いている。

(2)下位システムの賞賛と優越

 ついで、生理性が確保されている集合性、つまり若人や学者やイデオロギー闘争当事者らのような集合性内行為者については、ある程度の「自由」が利く。
 「真理」に価値が置かれる集合性では、タテマエとして、真理として遠くまで行っているイデオロギーが優越を得ます。
 タテマエといったのは、既に集合性において、その建前を基礎として、具体的な人間関係が編まれているので、具体的人間関係上の対応とも取れるからです。

(2)ー2 権力者的少数賞賛

 似た事情により、同じ集合体内賞賛と優越としても、権力を行使しうる集団にあっては、当該集団内行為者の自意識を形成した「時代」と、それを保持することがエリートのしるしです所属集団・準拠集団の様相で雑音が入ります。ただし、この類の雑音は、時代の中で消し飛ぶのは、前の注記に書いた通りです。
 
(3)権力上の被排除者による賞賛と優越

 もともと「正当性」とは、社会の賞賛と優越がなんらかの権力に維持されている状態を指します。
 権力行為から排除された人たちにとって、各行為者が取り結ぶ社会的交渉で発出するイデオロギーは、まず第1に、当時の公認道徳や民衆道徳(仲間内の道徳)を根拠として持たれます。
 ついで第2に、権力に対抗することが許可されている社会にあっては、そうした道徳に対抗する地点で、個別に紡がれます。
 いずれも理解不能なごく少数の意見が交じるのは、発言が個人に由来するからで、社会科学上の意味はその理解不能な意志が無視されるところにしかありません。
 
(4) 変革性イデオロギー

 さて最後に、人間には拒否の自由というものがある。たとえば権力者から「こうせい」と言われた時の信条。これを拒否するときに、賞賛や優越を超えて自己の意思を発現したいし、これをすることができます。
「いやです。」そういって去っていく個人行為者。本来は黙っていればいいものを、そこで相対的権力者に対してこう発したい。
 それは偶然の行為ではなく、対抗権力の雲をどんどん重くし、雷鳴にまでもっていく行為です。
 その行為論的根拠を個人の「超自我」と書いておけば世の中はの言論などは済むのですが、ここではあえて、普遍的公益道徳によると述べておきます。
 社会の庶民道徳は、その普遍性において、社会秩序の道徳となる。これが公益として公認された道徳ですが、これは抽象的に、反公益行為への対抗として、人間社会に埋め込まれるのです。簡単に言えば、教育で詰め込まれるわけですが。
 超自我が、いわば、行為に枠をはめさせられるのに対して、こちらは、自己の自由を根拠に、その下支えとしての抽象的公認公益道徳の下に、自己の自由を発現するのです。しかしてこれは、一部エリート的超自我形成に対して人民一般に存する機制なのです。

 と、誰かに読んでもらおうとは思ってなくて。
 ただ、ポイントは(4),です。



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ニッポンイデオロギー概況(その1)

2023-10-28 16:36:41 | 上部構造論
 こんにちは。やっと秋と思ったらもう10月も最後。紅葉のネット情報によると、五色沼(標高700m)、裏磐梯(800m)は色づき初めというとこだそうで。なのに、今日のyahoo写真によると、岐阜の高山付近の1000mあたりでは綺麗に色づいてるもよう。岐阜のほうが寒い? 裏磐梯は開けて明るいからか?
 この辺じゃ、駅前のフラワーボックスにサクラソウが。いまどきはプリムラというのね。俺らの頃にはこんなの2月3月の花なのに、年齢と共に花の表す季節を変えられてしまうというのも差別だな。
 
 いいけどこの間(かん)ずっとスーパーの買い物つらくない? トマト(359円)は買わなくても生きていけるが、なにからなにまで高くて買えない。お金はないとは言わないが、手が動こうとしない。こういうのを「手が出ない」というんだね。
 物価上昇3%とかいってやがるので計算してみました。
 日常食料の30%アップは(50%と言いたいが、ならして)、当家のようにエンゲル係数35%の家では、この35%について3割上がるので、35×0.3で、本当は10.5%の物価上昇です。(それに残りの65%について3%だかアップする勘定です)(あってるかな?)。、
(どこの国でも、自国の国語と、算数だけは必須教育です、し、それだけであとはだいじょぶ。夜間中学の方、算数と国語だけは頑張ってください。もちろん三角関数なんか、そういうのがあると知れば十分)
 もとい、何の話でしたっけ? 国会議員の給料は高すぎないか? 議員再選は不可にして、失職議員は一から職業を始め直したらいい。 

 さて、風呂場の電球がイカれて、と前書いたのが5年前。こいつが新品の電球の会社を選ぶんですが、今回OHM社のもだめ。前はYAZAWAの電球が点かなかったのだけれど、結局、点くASAHIが異常なのだろうか、、、
 ま、ともかく、白熱電球(シリカ電球)なんかもう売ってなくて。安い電球でも5年もっのに。
 ところで何倍もする値段のLED電球、常夜灯のように使ってたやつ、暗くなって明かりの意味なさなくなったから5年で取り替えました。世の中そんなもんです。電気屋の陰謀。
 確かにLEDは使用電力は少なくなってるけどね、大枚はたいてそれだけのこと。高いから暗くなっても切れはしないから我慢してしまう。
 
 またところで、7月にガス台をIHヒーターに替えたと言いましたが、電気代が高くなるのを恐れていたところ、いまだにガス代(減少)との差っ引きは月に千五百円ほどの黒字になってます。
 その点では問題ないというところでしょうか。ただし、ずいぶん料理がまずくなりました。火入れの加減の工夫がたいへん。若人が料理をしてくれる老人家庭以外には奨めません。あくまで安全との交換です(アクリルセーターでも大丈夫)(言ったけど、鍋をハンカチで持ってたら火が丸い鍋底を回ってハンカチ燃え出したんだよね。)。

 さて、ニュース、ってゆうか。最近クマへの風当たりが強くて。わけわかんねえクマ擁護者がいるので輪をかけて話題を複雑にして。いやだなあ、、

 「日没後の道 人と思って「こんばんは」とあいさつ→熊と判明、全力で逃げた 大学サイクリング部員が恐怖体験明かす」(まいどなニュース)
 これは秋田。当たり障りのないニュースで。
 「こんばんは」「ウォ。ウォンウォンウォ」
 かわいいじゃん。
 わたしなんか犬と暮らすよりはクマと暮らしたい。ニャンコと暮らすならトラのほうがいいな。哺乳類みな兄弟。
 ま、牡グマや牡トラは悪いのもいるだろうが、なんでも人間と一緒。

 ずっと昔さあ、「動物占い」ってのが流行って、職場でやって貰ったら、「お前は黒豹だ」っていうの。かっこいいじゃん、すっかりその気になってたら、最近ネットでやったら「虎だ」っていうのさ。おっかしいなあ、、まあ世の中なんてそんなもの。後に広めたほうが勝ち。
 みなさんも自分の動物がいやだったらほとぼりの覚めたころにネットに「古式伝来のやり方ではこうだった」として打ち出せば、10年もすればそっちが定説になるよ。

 なんか長くなりました。そのうち調子悪い、、、ふつうの方はまたね。

 
 さて、本日のお題ではこっちも長く。

 とっかかりはネット情報。最近のマルキストの品質低下には目を覆うばかり。
 痛々しいハマス・テロとガザ無差別爆撃の評はこうです。
「堪えに堪えながら怒りにうち震えてきたガザ人民とその指導部たるハマスが、いまや〝座して死を待つよりは撃って出ん〟の精神で越境攻撃を決行したのだ。全世界の労働者階級・人民は、、、、いまこそ奮起し闘いに起ちあがるのでなければならない。」(K派機関誌)

 おめでてえ。
 そしたら生き残りのマルキストが反論してました。

「ハマスが感じ怖れた「死」とは何であったのか。それは、「パレスチナ・ブルジョア国家の樹立」の展望がなくなる、ということだったのである。
 今回のハマスの軍事攻撃の目的は、イスラエルとサウジアラビアの国交樹立の動きをぶち壊す、ということにあったのだ、といわなければならない。もしも、この動きが進展するならば、パレスチナに国際法上認められた国家を樹立するという展望が遠のいてしまうのだからである。、、、
 中央官僚は「ガザ人民とその指導部たるハマス」と言う。だが、ハマスはガザ人民の指導部なのでは決してない。ハマスは、ガザの労働者・人民を支配している行政諸機関、この行政諸機関を握っている地域権力者なのである。、、、
 パレスチナの労働者・人民とイスラエルの労働者・人民と全アラブの労働者・人民は、ガザ戦争を阻止し、この地域全体の労働者・人民のプロレタリア的解放をかちとるために、プロレタリアートとして団結しよう!」
(北井信弘のブログ)より

 世の中バカばかりではない、とほっとしました。
 K派の下部同盟員は,案山子だろうか。50年の月日というのは人間を案山子に変える?!

 ま、いいや、で、ここでの問題は、なんでこんな「評」が存在しうるのか。
 それはつまりさ、「やる気がない」。もう一歩踏み込めば、当該集団の目的にあっていない、ということだね。
 そもそも主義者の理論は、仮に主意的に進めば(事態を自分たちの思うとおりに進めることができるのなら)、すべての弱者を救える、という方向で洗練されている。この1点を放棄したら、それはただのリベラル、ないしセンチメンタリスト(感傷主義者)にすぎなくなる。耐えに耐えたものが反乱すれば肩を持つなど、50年前同じことをいってみたらどうだったんだ。B派ともC派とも共闘して、日本の歴史も少しは変わっただろう。なんだ、政治主義者のくせに。
 いや、ここでいいたいのはK派も変質しきったな、ということです。
 つまり、威張りくさってみたって、結局、彼らは気づいていないが彼らの究極的目的は放棄された状況なのだ。全ての弱者が勝利する社会など、そんなものは「我々の目的ではない」というわけだ。

 といって、それは他人にはどうでもいいことではあります。リベラル思想も感傷主義思想も、それを欲しい人間には役に立つイデオロギーです。
 ただね、それで左翼だと言わないでほしいだけです。胸糞が悪くなる。
 ましてやマルキストなどと。そんなていたらくでは草葉の陰で泣く人間も何人もいるだろうに。「そんなことで私は命を落としたのか?」。大丈夫、あなたはそんなことで死んだのではない。
  
 ところで「事態を自分たちの思うとおりに進めることができる」なんてことがあるでしょうか? ありません。だってさ、人は利害で動く。なんていうと若人は反発もするでしょう、それじゃウェーバーの利害状況などという現象学だ。しかしそういう意味ではありません。これを言い換えるなら、「人は1週間ご飯を食べなければ死んでしまう」からです。大人は明日ご飯を食べられるためにいやいやながら何かをしている。明日ご飯を食べるために、その「いやいや行為」を正当化させるのがイデオロギーです(したがってウェーバーの机上の空論ごときと一緒にされては困る)。かくて、イデオロイギーは社会の利害通りに「多様に」自分の正当性をがなりたてる、にすぎない。この「すぎない」ことが理屈の上で「事態を思うとおりに進めることができ」なくさせるのです。
 マルクス主義のイロハ。これだけは昔っから本家の黒田にも理解できなかった。

 さてまたところで、それはなんか騙されているようだ、正しいものは正しいのではないかとふつう若人は思う。
 ここで、若人や学者やイデオロギー闘争当事者らの社会に身をおいてみましょう。
 そこでは勝利は(優越は)正しさの如何に関わります。「少しでも正しい理論を」。そこで「理論のK派」の存在意義です。一番まともなマルキスト集団の美名こそ、その集団的根拠です。「事態を自分たちの思うとおりに進めることができる」ならば。個別の唯我独尊の世界でなら、ですが。
 しかし、その地位も消えた、というより自身で放棄した。これからどうなるんでしょうねえ。

 まだ若人には疑問がありそうです。
 そんな政治的なイデオロギーを持っているのは一部の人では?
 そう、そうでない人のイデオロギーを政治被排除イデオロギーと呼んでおきましょう、って名前が悪い?
 もともと「正当性」とは、社会の賞賛と優越がなんらかの権力に維持されている状態を指します。
 政治から排除された人たちにとって、まず第1に、イデオロギーは当時の公認道徳や民衆道徳(仲間内の道徳)を根拠として持たれます。井戸端会議の95%の根拠です。
 ついで第2に、権力に対抗することが許可されている社会にあっては、そうした道徳に対抗する地点で、個別に紡がれます。ネットのストレス解消の95%の根拠です。
 いずれも理解不能なごく少数の意見が交じります。
 
 上記の状況は、具体的には、行為者の自意識を形成した「時代」と、それを保持することがエリートのしるしである所属集団・準拠集団の様相で雑音が入ります。自民党国会議員集団のようなものです。その結果
「戸籍上の性別変更に「手術必要」の規定は「違憲」…最高裁が初判断」(読売新聞オンライン)
 などという、そもそも誰がそんな法律作ったんだ、と耳を疑う現実が生ずるわけです。初めから違憲に決まってるじゃないか。
 思い出したよ、「シャイロック」。ベニスの商人。ちょっと前ならユダヤ人差別で思い出しても口にはしないが、今となってはちょうどいい。シャイロックの契約は民法違反で成立しないと習ったが、そもそも憲法違反だ。
 
 しかし、この類の雑音は、時代の中で消し飛びます。それは政治イデオロギーによるものではなく、政治被排除イデオロギーの発現によるわけで、支配社会においては常にイデオロギーは政治的なのです。
 
 と、(その1)終了。なんか心が暗くなった。わたしには明るさが必要、、、

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歴史的イデオロギー論に必要な序論

2022-06-11 17:22:41 | 上部構造論
 こんにちは、東京地方、梅雨入り。雨は少なくともこのどんよりした空がその印。
 ニュースでは鎌倉の紫陽花が見ごろと。明日の朝過ぎれば降らないようですので、明月院以外にどうぞ。明月院なら傘を持って朝のうちに。とにかく混むので。「混む」なんて、ようやく楽し気な季節がきましたね、ワクチン打った人はリベンジでどうぞ。
 わたしはアジサイ群落は近場にいくつかあるので、出来のいいものが近くにないハナショウブ見物。はるばる千葉(茨城)の水郷へ。
 それがまあ遠くて。電車も本数ないんだよ、単線だし。途中でいつの間にか次の電車に追い越されたり。免許のある人はいいねえ。京浜東北以西の方にはお勧めしません。食べるとこ(見つから)ないし。途中の千葉エキナカで弁当買って正解だった。

 で、憂さ晴らし的一筆。
 マンガの代わりに佐々木閑・大栗博司「真理の探究」というのを借りてみましたら気に入らない。
 大栗氏という理論物理学者は、何も知らないということを知らない人物で、「ゼノンの矛盾は微積分ができて解消された」とかいうレベルだし(それは自分たちで「そう呼ぼう」と決めただけ。意味ない。本当の矛盾の理由はただの言葉の使い方)。それはかってにやっていればいいんだけど、佐々木氏というのは結局ただの無神論者なのに、にもかかわらず、臨済宗の大学の仏教学の教授で給料をもらっているって何? わたしは宗教を批判しはしますが、仏教者を自認する男が弱い人間を助けずしてどうする。不愉快だなあ。と、ネットで顔をみたら、なんだ中島義道じゃんか。いや、似た者同士。

 さて、本題。
 ここんとこ日本近代思想史を流しているところ、政治学・教育学・哲学、そんなものによいものはなし。ただ、近代史では松尾尊兊氏のがとてもよいです。わたしも人のけちをつけるだけではありません。
 さて、そこで社会学系。ここには代表で浜口晴彦「日本の知識人と社会運動」をあげると、浜口先生、大正(以降)知識人を均一な社会の中の意識人と捉えてしまう。いや、社会学ってこういうもので、わたしも二十代の時はそうしたのでケチをつけるつもりはありませんが。
 しかし、本来、イデオロギーと資本主義をセットでとらえるには、昭和前期以前は意味を失ってしまうのです。
 なぜ?
 その土台が資本主義社会一般ではないから。当然にイデオロギーの使用者、対象者、享受者その他が、層として違うのです。 
 何を言ってるのでしょうか?
 下層人民が「自分の力」を認識しない限り、イデオロギーはその階層について意味をなさない、ということです。
 あるいは、人民が自分の力を層として認識したときに、イデオロギーは分化上の変容をなす契機となる、それまではならない、ということです。
 それが「序論」として載っていなければならない。
 
 そもそもの話からはいります。
 ある社会、とりわけ資本主義が蔓延する以前の社会には、支配階層に無視される人間層がいます。つまり、人間以下的存在です。
 彼らはまずは人間にならなければならないのですが、それは自己のみの力でなれるわけではありません。彼らがその社会の「人間」になるためには、初めにその社会で支配階層に対抗できる力を持ち、そしてその自分の力を認識しなければならないからです。

 図式化しますと
1 まず彼ら自身の一部がでイベント的行動を起こし
2 それに触発された一部以外の人々が、当該階層を「その社会の平均と同様です」との装いをこらし
3 その後、時間とともに、つまりその後生ずるあらゆる社会上の事実認知の中で、「平均として溶け込む」事実を提供し続ける必要があるのです。

 その間、彼らの周囲で、その第1の過程を助けるのが「前衛」であり、
 その第2の過程を、社会に取り込むために助けるのが周縁的支配者、現在の名では官僚であり、
 その第3の過程を経たときに、それらは、もちろん自分でも他人でも動かしようもない、悪口にすれば閉塞的体制内要素となるわけです。

 そこで現実に戻りましょう。
 明治時代の知識人は、あるいは知識人相当者は、武士階級であった。これは松田道雄氏が正しく指摘しています。つまり、支配者の地位を乗っ取った中下層主階層と同一の者、同一の行為共同性を持つものです。このとき知識階層の意思は、支配階級と変わるものではなかった。
 ではその内実は?
 確かに武士階級は支配階層ではあったであろう。そして確かにインテリゲンチャになったであろうが、かれらは決して生産関係全体を把握しているわけではなかった。後進日本と、典型的な、つまり先陣を切った、資本主義国家との差異です。 
 この時期、国家の肉体力の総体は農民的生産共同体にあった。であればこの生産共同体を動かしうる階層、地主階層が、イデオロギーを嚮導するものなのです。ために武士のイデオロギーは武力国家創出以外は根拠もなしに辺りをさまよい、口先ばかりに、あるいは軍事的嗜好にとどまっていたのです。
 
 さてしかし、支配階級と同じ志向を持つ知識人層ですが、唯一異なる点を持つ。かれらには権力がないということです。
 彼らは彼ら自身の権力を探さなければならない。資本家であり、不満中小地主の不満分子です。
 もちろんそれだけのことですが、体制的権力については、対抗権力と名指される(エリート)集団内部のイデオロギーのみが、対抗しうる。
 それは対抗するに過ぎないが、その内在する自由によって、知識人と彼らに付随する不満分子の内部においては体制的権力が観念的に消滅せられ、それが噴出される。
 かくて、明治知識人も資本主義の増大とともに「前衛」となったのです。

 しかし、ここではまだ下層人民は力を得ていない。
 一方、武士的知識人は時間の経過の中で、自らが下層ともなりうる市井人へと変化していく。
 すなわち、武力階層の分化が生じたのです。
 武力を持たない者が自分の力を(つまり大衆的肉体力の集約を)認識するためには、(その前提以外に)支配者でもなく「弱くもない」階層が必要です。民衆にとっての口先男、ジャーナリストの出現です。

 と、ここまでは生産共同体内男性下層階級の問題です。しかしまだまだ「人間外の」階層がある。そしてそれらがそれ以降の歴史の中で次第に、同様の過程を経て、「人間」になってゆく。
 
 社会学上の「階級」なり「階層」なりの認識は、「産業的発達がそれを作った」という認識であってはならない。階級は社会学上は作り作られるものです。それが具体的人間の社会学です。
 そして、具体的個人に係る権力要素を語るためには、その権力要素の変節の姿、その全体的姿を語ってからでなければならないのです。
 
 
 と、これだけ書くのにどれだけ誤入力があったことか。悲しい視力、、、
 
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対抗イデオロギーが不死の理由

2019-10-26 14:05:18 | 上部構造論
 こんにちは。東京地方、そこそこの晴れ。本来はベストの気候と思うのですが災害に翻弄され、たまに青空を見るとやはりいいですね。
 
 大雨は、いやあ、、、と思うばかり。感想にもなりません。丁寧に復旧して欲しいものです。金ならあります、その分の人や資材も。トランプへの賄賂の陸上イージス、6000億、労働者、資材。全部使ってやったらいい。それともトランプが大事か。
 
 ふと気づけば、それ以外 今週は記事の何のメモもない。
 今週はテレビのどこつけてもつまんないニュース一色で見たくないので、全部見ないフリをしていたのでしょう。不快なニュースは見ないのが一番。見たって世の中何も変わらない。
 とはいえ、ビジュアルは真実を表す。朝日新聞の天皇の写真、見た? 「げっ、日本が習近平に乗っとられた」と思いましたが、そっくりじゃん。祝いの踊りは中国武官の踊りだし、彼等は延々1500年、中国の忍びの草か? どこの国家の象徴なんだ。これに「支那人」だとか言いたがる右翼共がバンザイなんかして、なぜ「俺らは情けない非国民、、、」と自己卑下しないのか? ったく理解不能。ま、どうせ私は縄文人の子孫だから。
 (ああどうでもいいけど、中国人は「支那人」じゃなくて「北狄」なんだって by wikipedia。北狄って遊牧民族。昔驚いて書いたことがあるけど、新天皇の子供の頃って、騎馬民族の土偶そっくりなんだよね。)
 レベルの低いケチづけはやめよう。ところで、あの職は早く弟にやらせるといいね。「弟、危険だな」と思っていたけれど、考えてみれば嫌な奴はみんなが嫌いだからね。嫌いな奴を自分の象徴にしたい若人も居なかろう。仲間同士の国に天皇は要らない。
 これもレベルは高くないか。でもなかなか本質的だと思うのだけど。(朝日で評論家が天皇支持が感情的になって不安、と書いてありました、見出ししか見てませんが。私には何の不安もありませんが、これは珍しくそっちの記事掲載が早かった。)
 
 というわけで、今日はオタクの日。次回作にちょっと使うので。だけど、「ちょっと」なんで、こんなに説明しないし。カテゴリーも「基礎概念」かも。 

 まずは、教養問題。
 世の中、「イデオロギーの終焉」なる用語がありますが、それは運動者以外の言である事実と合わせればある種の同義反復に過ぎません。それは「私のまわりは春だから紅葉は終焉した」と言っているに過ぎない。常にイデオロギーの安定社会における役割は、体制イデオロギーたる役割、つまり対抗イデオロギーへの反感の基礎づけ以外にはない。もちろんバカではない論者は、「今は安定社会だ」と述べているだけなのですが、だからといって愚であることを避けられてはいない。安定社会でのイデオロギーの存在意義は、かの論者の言のような体制保持機能以外にはないのです。
 
 とまあここまでは社会科学徒なら誰でも言える。
 次。
 にもかかわらず、イデオロギーは永遠です。なぜか。支配階級の暴力も、対抗運動者の「価値意識」つまり「賞賛と優越」も、これを人々に伝える役割は、イデオロギーが持つからです。
 さらに、対抗的集合性に変化する行為共同性における事実認知も、イデオロギーが変化させるものなのです。
 
 これは知らなかったでしょう。

(その1)2態のイデオロギー概念

 イデオロギーは虚偽意識ではありますが、それは一つの姿です。イデオロギーは言語的にはただの事実認知と賞賛・優越でできているものであり、これは、主張者と、主張者の言を利害のない宙で聞く神である第三者と、にとっては虚偽意識なのです。それは本人の意識・無意識を問わず、他者を自分の意思に従わせるべく存在しており、それゆえに他人が乗れば気持ちがよくなるように作られており、事実の正否を問わない言であり、それゆえに多くは虚偽であり、それが虚偽であることを主張者も知らない場合もある、二重の虚偽です。
 他方、それはただの事実認知と賞賛・優越なのであり、これを受信する者にとっては、その正否を問わず、遠くの将来の目標と、近くに迫った行動の優越と賞賛をもたらすものです。この点だけから言えば、行為主体にとっては虚偽などではない、貴重な行為の将来の管理情報です。
 
(その2)受信者がすくい取るイデオロギー

 安定しているといって支配者がふんぞりかえった世の中はいつかひっくり返ります。つまりそれは、人民の価値意識が凶を示すときであり、それは人々が反逆行為に仲間の賞賛を感じ、仲間への優越を感じるときです。この賞賛と優越は地から泉のように湧き出るものではありません。細々とした火種が相互行為の中で燃え上がり、「燎原の火のごとく」世界をなめつくすものです。つまり、細々とした正当性とは個人のイデオロギーであり、これが燃え上がるのは個人が集合体になることであり、この各種集合体の利害が統合しようとするとき、世のは対抗「イデオロギーに溢れた世界」になるのです。 

 そして現実には、それに止まりません。この事実認知は、暴力も伝えるのです。

(その3)受信者に向かうイデオロギー

 すなわち、現実の生々しい暴力の認知に次いで、他者に暴力を伝えるものこそイデオロギーなのです。
 人は暴力について、事実上、この2通りの認知方法しか持たない。正確には理論上、噂や報道等の「単なる事実認知」があるのだですが、社会ではこれらの事実認知は肯定か否定の評価と共に、イデオロギーの一部として伝達されるのです。それが個人への働きかけではない、社会システムとしての暴力です。
 そうそう、これも教養次元の話ですが、イデオロギーは信念「体系」などではない。そんな高級なものではない。社会の中では常に断片化して伝播するのです。
 さらに、イデオロギーはただの「信念」でもありません。イデオロギーは、その十全な体としては、規制の観念体系であり、刀剣といった武器と同じものです。守れば許す。守らなければ殺す、これがイデオロギーです。
 行為者本人が心密かに持っている観念はイデオロギーではありません。心密かな観念は個人倫理に過ぎない。イデオロギーとは他人にこれを告げて認めさせ、彼の行為をそれに従わせようというものです。これを承認するならよし。承認しないなら、そこから先は、打ち殺す。もっともイデオローグの武力(動員できるニク体力)しだいですが。
 これを受け取る側にとっては、次の行動の事実認知を揺るがし、その話者の肉体的武力に迫られる、「武器」そのものだ、という点です。
 これが左翼の言う「イデオロギー闘争」というやつです。プロレス用語ではありません。
 イデオローグはバカではないからこの規制を意識的に、あるいはバカもいるから最低無意識に、使用します。たとえば人々が、ブルジョワジーの「自由」という言葉に恐れ入るのは、自由が好きだからではない。それまでの年長者からの従うべき情報である「自由」の権力的注入によるのです。もちろん、他国の「自由」であれば、その国の権力者の進める自由です。これを聞いて誤解するのは、実情を知らない子供と同然です。

(その4)受信者に内在し終えるイデオロギー

 対抗イデオロギーは、受信者の中で、それが伝える事実、それが伝える仲間との賞賛・優越、それに感ずる暴力の3通りの要素により、イデオロギーによる新しい集合性と、その集合性内における仲間意識=行為共同性の観念を生まれさせます。階級の転生です。
 
  
 まとめます。
 イデオロギーの使用は
 1 事実認知において、体制イデオロギーは体制の秩序を強制し
 2 対抗イデオロギーは人々に選択肢を提出し
 2 その選択肢の選択において一致した人々について、イデオロギーが提出した集合性への結集度を高め
 3 その対人間的コミュニケーションにおいて、殴り合いと同じ効果を出し、(ただし、ケンカと同様、負けても悔しいだけで実は負けない)
 4 その賞賛・優越において、イデオロギーが提出した集合性への凝集力を高める。
      これらがあるから、虚偽意識を言いたいエンゲルスも説明に苦労するんだよね。
 
 というわけでお分かりと思いますが、「イデオロギーの終焉」とは、対抗運動が存在しないという宣言の言い換えです。何一つ人間の社会認識を進めるものではありません。それを知って使う奴は人民に「流行らないから止めろや」と対抗させないようにするブルジョワジーの手先であり、それを知らないで使う奴は、ただの馬鹿です。
 
   、、、こんなこととうてい薄い書物で説明してらんない。最後(その4)手抜いたのは「こっから先がホントのお話」というわけです。
 
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『「上部構造」の社会学』

2018-04-19 16:38:31 | 上部構造論
 お待たせしました、隈社会学3部作完結編、『「上部構造」の社会学』、合同フォレスト㈱の皆様のご努力をいただき発売されました。 

 皆様におかれましては、できうれば冷やかしでよろしいのでちょっと手にとっていただければ幸せなのですが、例によって書店の店頭には出ないので書店様にてご注文、またはネット販売でAmazonなどの(いろいろの)ウェブ書店様で御購入いただくとうれしい限りです。
 といって内容不明のところ、紀伊国屋ウェブストアには目次が上がってますが、いつまであるかわかりませんし、長いですがさらに詳しい目次を上げさせていただきます。
 なお、隈のHPの「本の紹介」ページに、もう少し言葉で書いた概要ものせてありますので、そちらもご参照ください。

 以下、

**********

序論 
 第1節 土台と上部構造の発生
    1 本論の対象
    2 土台と上部構造
    3 本書の主張
 第2節 社会学の視座と形態 
    1 内部視点と外部視点
    2 社会学の視座
 第3節 行為の原理・原則及び派生する行為論上の定式 
    1 人間行為の形式的原理
    2 人間行為の形式的原則
    3 行為の生理的基礎
    4 行為の日常
    5 行為に付随する概念の昇格的設定
    6 概念の便宜的な昇格的設定
    
第1章 行為者に内在する観念過程 
 第1節 行為主体の観念 
    1 個人における観念過程の成立
    2 言葉による伝達
    3 表現と虚構
 第2節 行為主体による賞賛と優越 
    1 賞賛・優越の成立
    2 精神拘束    
 第3節 行為主体による思想 
    1 思想の観念的基盤
    2 イデオロギー
    3 イデオロギーの影響
    4 イデオロギーに例外的に関わる「感情」    
 第4節 行為者のその他の観念性 
    1 政治的諸観念
    2 文化
    3 美
    4 賞賛と優越とイデオロギー・思想の重なり

第2章 支配権力者の行為過程 
 第1節 国家形態 
    1 国家と国家形態との一般論
    2 直接に生産関係から説明すべきでない諸項目
    3 資本主義的行為共同性の変化
 第2節 資本主義国における支配権力と政治過程
    1 政治過程の一般理論
    2 支配権力の被支配者との交渉
    3 支配権力とその他の権力との調整
 第3節 時代特有の被支配者向けイデオロギー 
    1 支配者とイデオロギー
    2 被支配者がイデオロギー化する社会矛盾
    3 時代の中の道徳
    4 芸術表現

第3章 被支配者の継起する観念過程
 第1節 行為共同性下の観念過程 
    1 行為共同性による社会の規定的契機への影響
    2 イデオロギーからの行為共同性への影響
    3 行為共同性の分断
 第2節 被支配者の新たな観念過程
    1 観念過程としての階級
    2 階級としての行為共同性の現実態
    3 階級性の眼前
 第3節 人間の歴史への参加
    1 対抗権力と運動の存在
    2 観念過程の行為者への眼前
    3 運動とイデオロギー
    4 観念過程としての革命

 《およそ社会の経過は唯物史観が示すとおり、人間の主観的意思の如何によるわけではない。下部構造たる経済過程に規定されたものである。
 しかしながら、それでは人間は歴史に流されるだけか、といえばそうではない。あるいは人間は歴史の必然を生きることが自由だ、などというマルクス主義者の言が真実であるわけでもない。
 逆である。人間は主体的に人間社会を変更することができるから、この移り変わる歴史が不可避的に存在するのである。
 本書は、人間が下部構造に規定されている、かのように見える規定性を明らかにしつつ、社会に表れた人間の主観的意思の観念性の秘密を暴き、他方、その下部構造の規定性を形成する行為者としての人間の行為論的自由の意志の歴史過程を明らかにするものである。》
 
 長かったですね。
 前回はどちらかというと実践的でしたが、こちらはいわば学問的。ずいぶん斜に構えております。リベルテールの方々には前著(「歴史としての支配」)のほうがいいと思ったのですが、アナキズム文献センター様には通じなかった模様。残念なことです。

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十大ニュース

2017-12-30 12:49:30 | 上部構造論
 こんにちは。もう小晦日ですね。「たった2日後」というのはいつでも来ますが、日が経つのと年が変わるというのはえらい違いですね。わたしには何かとけじめがつくのでとても良いことですが。
 
 さて、年末は社会的な事件も特にないので、わたくし的話題。
 けじめで大掃除してたら、雑巾にしたぼろきれに旅館田園と書いてありまして、全然記憶がないのでネットで調べたら、西若松駅徒歩云々とか書いてあって、知らない、いったことないはずだが、と思って検索し直し。どうも千葉御宿の廃業した民宿のもよう。ネットには火事で半焼、みたいな写真がありました。あれあれ。海水浴でしたがそのときは娘がおたふく風邪に罹りほっぺがぷくうっと膨れて早々に引き上げた記憶があります。宿の宣伝もできませんね。どうもご縁のない旅館様で。
 
 の2。セリが安くてたくさん買ってしまって、鍋用に正月明けまで保たせたいというんでネットを見たら、おんなじ記事(コピペの類)ばっか。ほんと不愉快。何も知らない奴らがコピペして、あたかも自分が調べたかのごとく、麗々しく御託並べて。それだって、みんなの役に立てようと思ってやってんならしょうがないですが、聞くところによると、自分のサイトに寄らせれば1見で何円か懐ろに入るとか。冗談じゃねえや。しかも「冷蔵庫に立てて保存する」ばかり。おまえほんとにやったことあんのかよお、と思います。あんなへろへろの物体を立てるって、1万人中一人でもやってるのか? そもそも、立つほどでかい冷蔵庫なのか?
 
 ま、ウサ晴らしはほどほどに。
 年末なので、2017年歴史の進展10大ニュース。歴史は常に人間の自由に向かって進みます。では、今年の進展は?

1 LGBT進展。「安倍晋三首相は、、、『パートナーが来日した場合、首相主催の夕食会にはお越しいただければと考えている』と述べ」た。パートナーって同性の結婚相手のことです。

2 女性進展。「セクハラ被害の声を上げる「#MeToo」運動が全米に」。日本でも真似っこしててよいですね。

3 帝国主義陣営の分裂。米国がエルサレムを首都と認定。どんどん勝手にやるのがよろしい。世界で計画経済国家が消えれば、資本主義諸国に残るのは分裂、崩壊のみ。騒動で亡くなった方には申し訳ないけど、それは毎日のことで。あまり正直に言うのはやめましょうか。

4 日本帝国主義の崩壊への歩み、その1。「日産で無資格社員が検査。スバルでも。検査データ改ざんの企業も続出」(読売の題)。資本家はすでになりもふりも構ってられない。しかして「それがバレる」(企業内の分裂)というところが崩壊です。

5 日帝崩壊の2。自民党圧勝。どんどん勝手にするのがいい。利潤追求への歯止めなしでは資本主義は本性を現わすのみ。未来に待つのは崩壊。

6 の3。リベラル崩壊。偽りのリベラルによる左翼戦線への欺瞞が消えた。

7 の4。テロ準備罪法が成立。もう口先の反体制は成立しない。ここでも偽りが消えてゆく。

8 の5。防衛省が長射程ミサイル導入を検討 。古典的「帝国主義」です。

9 の6。「いずも」型護衛艦の空母化を検討、F35Bを運用。陸(ミサイル)の次は空です。前も言いましたように、F35は攻撃機=爆撃機です。「B」は垂直・短距離の離着陸ができるタイプ。権力を持てば武器を欲しがる、武器を持てば使いたがる。権力者の性(さが)ですね。前にも言いましたが資源のない国の軍事産業化は、国の崩壊です。自動車一強の黒字国でしかないのに。それとも電子軍事機器輸出に賭けるか?

10 世界資本主義の崩壊。隈、次回配本原稿アガリ。左翼陣営は、また一歩前進した。

 おかげさまで次回原稿も合同フォレスト様の手に渡り、出版までのルートに乗ることになりました。この早期実現のために去年のバイト仕事の継続依頼を「もうやだから」って無理やり辞めたのは、お人好しのわたし的にはなかなかつらい。ごめんね、こういうことだったので、みたいなもんです。当初契約分労働は嫌でもやったことで許してくださいな。などと、お人好し、っちゅうか自意識過剰っていうか。ただ、若人の方へ。自分をマネッジするというのはそういうことですよ。
 というわけで、上部過程論、いわく『「上部構造」の社会学』とはもうお別れ。これはほんのちょびっとのお付き合いでしたが、お別れは淋しい。できてしまえば終わり。仕事とはそういうものだ、とはいえ。でも仕事なら打ち上げとかあるし、その後2、3年なら昔の仲間と飲んでサカナにするってのもあるし。なんか淋しい。2年かけたんだよね、たぶん。できたってえらいよね、たぶん。ただ自分的には時間が推移しただけでもあって。寝てる間に小人さんたちが書いといてくれたんだね。

 さて、常連様におかれましては、本年も何かとつまらないグチの類いにお付き合いくださいましてありがとうございました。どのくらいオタクっぽいのが良いのか悪いのか、よくわからないのでテーマをずうっと試行錯誤であれこれしておりますが。まあ、お客様も人それぞれ、であろう、というところで収めてくださいませ。
 
 では皆様良いお年を。考えてみれば、この挨拶句もちょっと哀しい言葉ですよね。今まで良い年ならわざわざ来年に期待しませんがな。
 まあそういうイヤミはやめて、実際、来年がいい年だったらそれは素晴らしいことです。
 改めまして、良いお年を。
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上部過程論、原稿状態にして、出来。

2017-11-01 20:50:00 | 上部構造論
 こんにちは。11月1日。お待たせしました、次回予告。隈行為論3部作の最終巻、 「行為の集成」「行為の反逆」に引き続いた3行為論、最終、「行為の戯れ」。……違うし。だいたい何だ、「行為の反逆」って、とかいわれたり。(「歴史としての支配」のことなんですが、、、)
 ともかく、上部過程論。題して
 「『上部構造』の社会学 ―主体の意思と歴史過程」
 誤字脱字を残し、原稿完成!
 昔ならそのまんま万能書店に送るところ。私には決断力があります。このいい加減さで暮らしてきた数十年。

”およそ社会の経過は唯物史観が示すとおり、人間の主観的意思の如何によるわけではない。下部構造たる経済過程に規定されたものである。
 しかし、それでは人間は歴史に流されるだけか、といえばそうではない。あるいは人間は歴史の必然を生きることが自由だ、などというマルクス主義者の言が真実であるわけでもない。
 逆である。人間は主体的に人間社会を変更することができるから、この移り変わる歴史が不可避的に存在するのである。
 本書は、人間が下部構造に規定されている、かのように見える規定性を明らかにしつつ、社会に現れた人間の主観的意思の観念性の秘密を暴き、他方、その下部構造の規定性を形成する行為者としての人間の行為論的自由の意志の歴史過程を明らかにするものである。”
 
 もう知ってる? ホームページそのままだろって? すんません。いつもお世話になりありがとうございます。
 もっと後にしようと思ったのですが、今までのカテゴリー「上部構造論」って、ファシズム体制しか書いてないことが分かり、この辺で「活」をいれてもいいんじゃないか、と。
 
 というわけで、ぐずぐず言い訳を言いながら、さすがにできました、上部過程論。
     まだホームページだな。
 ともかく、プリントして見直すと誤字脱字、あっちもこっちも修正、ということになりますので「まだ」といってはおきますが。ほんと、校正の人にあっちやこっちやと間違いを指摘すること(のため)で読まれるのもつらい。ちゃんとプリントして自分で1回は読まないと。なんていうと博論の人には怒られそうな。俺らは5度は書き直しているとか。
 ま、そういうことはよくて。ちゃんと内容だけはできた、ということでご報告をしておきます。次いで、早々に次々回論文の触りがここに載るでしょう、というのもご報告の理由ですが。「「国語に関する世論調査」では,「さわり」の意味を「話などの最初の部分のこと」と考える人が半数を超えているという結果が出ました。」。朝日にもきのうおととい載ってましたね。半数を超えたらこっちの勝ち。ざまあ。

 ま、そういうことで、本日は切りよくご報告まで。
 たとえば上に書いた「現れた」っていうのも考えると悩むのですよね、表れた、というのが一番本質的なのに、それではどうも校正の人に誤字だと指摘される。でも次に正しいのが顕れたで、これは現象的に過ぎる。しょうがない現れたか、とか、ヒマならいくらでも時間をかける悩みもある、がそれはヒマ人の悩み、とか、まあわたしゃ「いい加減」と呼ばれればそれでよいす。
   ん、書いたけどブランクが空かないのはなぜ?


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日本ファッショ体制

2017-04-01 16:42:29 | 上部構造論
 こんにちは。4月ですね、寒いですが。
 おかげさまで4ヶ月ぶりに今日からフリー、まだ頭はクリアされてませんが。
 この2ヶ月の働き先はいまいちでした、いじめられっこがいて。まあ仕事の発想が悪くて一緒に仕事すると尻拭きが回ってきそうでいじめるほうの気も分からないではないですが、言い方ってもんがあるよね、って感じで。感じ悪。職場は明るく仲が良いのがいちばん。
 
 さて、世間のニュースはやはり暗く、子どもが何人も死んで。しかも体育(クラブ)まで死んで。とんでもねえや。年寄りなら暗くないが。
 おまけに教育勅語授業やら柔剣道授業やら。子供はおもちゃじゃねえぞ。ただのペットと思ってやがる。
 そんな大人たちはどんどん死んでよい。
 
 主題に移る前の本日のお役立ち。明日の花見の評価。
 家人にいわれて気づきましたが、そもそも東京近辺ほど、花見がどこでもできる地域は全国にないのではないか、ということで、東京地方の話題ですが。まあソメイヨシノだしね。
 で、明日は雨上がりのうえ、寒い。つまり座れば冷たく立ってても寒い。今日買い物に行きましたが、空はどんより3分咲き。残念ですが、明日も地元の公園以外へ無理する必要はない。
 そんなこといっても俺らは平日は仕事だ、と。
 そこはだいじょぶ。桜は地面で見てもきれい。地面は花吹雪。来週の土日には若葉も彩りを添えて、良い花見日和となるでしょう、晴れてさえいれば。23区は晴れてなくても、どっか晴れてますよ。
 
 ということで、ここんとこ感想記事が多かったので、本日は、多少こだわりのファシズム論争のくだらなさについて。
 歴史学の本なんてくだらないので読まなかったのですが、アメリカンファシズムの流れでちょっと手を出してあまりのことに呆れ果て。そんなにバカだったんですね、って感じ。
 説明するのもくだらなくていやなのですが、伊藤隆という右翼がいて、彼の主張をマルクス主義デマゴーグが無意味に批難するのですが、あまりに無意味なので、あたかも結果両成敗で、じゃあ仕切り直しましょう、ってことで、現在は若人の没価値な論議が席巻している、という筋道です。没価値というのは何の意義もない行動のことです。
 
 この伊藤隆という人はべらべらごまかすのでしょうがない人間だと思いますが、ただ言ってることは当たり前のことで、右翼も自称左翼もみんなで(世間がファシズムという)総動員体制を主体的に作っていった、と主張したわけですな。そりゃそうだ。
 しかしそこで、自称左翼も手を貸したという(事実の)主張にデマゴーグが怒った、というわけです。ファシズム的状態は天皇の力を借りた軍部・資本家のせいだ、というわけですな。
 で、若人はそんなのどうでもいいから、現実の動きだけ研究しましょうや、今はそういう時代ですぜ、てなわけで幕が引かれたわけです。
 
 困ったやつらだ。誰が唯物史観の主張者なのだろう。
 唯物史観というのは、中学生の教科書的に言えば、個人のイデオロギーに束縛されず、経済的土台によって歴史が動く、というもんですぜ、細かいところは無視すれば。何が右翼だ、何が左翼だ。
 誰もがその方向に行動するから、実際歴史もそう動く。
 きまってんじゃん。
 その「誰も」のことを左翼が歴史学者のくせにほっておくから右翼なんかに指摘されちゃうんじゃん。
 それを「ありがとう」とも言わずに非難・否定するなど、ほんとにバカを暴露している。
 おかげで若人は、それが唯物史観だと思って白けている、というわけだ。
 
 3、4回くらい前、トランプのことで言ったとおり、ファシズムというのは、資本主義過剰生産の行き詰まりによる労働者反乱を抑圧し、過剰生産を国家主導で打開すべく支配権力者がしかけた経済(-社会)規制体制のことです。それは決して「ファシスト」が導き出すものではない。そんな唯物史観があってたまるか。自称左翼には今でもトランプ等のことをファシストだなどというやつがいるが、そんな言葉を口に出すこと自体、そもそも彼らはマルクス主義者ではないのだ。私はマルクス主義者ではないが。
 ファシズムで必要なのは、それまでの「自由な」資本家活動を国家的に規制できる制度を作り上げる巨大な運動体制であり、それは自己利害しか主張できない軍部・資本家の力でなどでは到達できない地点なのです。これには国家的ゲバルトが必要なのであり、その通りに共産主義者は壊滅された。この壊滅運動で見せつけた国家的暴力を基礎に、被支配者部門では、残ったイデオローグが、後進資本主義国たる共同体的価値を基礎に、被支配者の自由を主張し、国家部門では、同じ共同体的価値を基礎に、食うや食わずの自己の人民とこれからの延命的経済体制のバランスを苦慮し、軍事部門では、漁夫の利で国家軍備の増強と自分の栄華を手に入れようと勝手気ままな自己運動をして、自己破産した、という事態なのです。
 イデオローグは、右翼は国家本位体制を主張する。これに「天皇」の名が付こうがどうだろうが無意味です。左翼は革命なき社会主義を主張する。これに「国家」の名が付こうがどうだろうが何も変わりません。
 それぞれ言いたいことを言っているだけ。言うのはただだ、が、それを国家が許しているのは国家に都合がよいという理由だ、というわけです。なぜ? それで勝手し放題の独占資本主義が国家的コントロールの元にひれ伏せば、その過程はどうでもいいのです。
 この事態の先進国的状態が、経済学者がご存知の国家独占資本主義です。
 が、経済学者はご存じないように、戦前の後進国ではそれ以前の状態だったわけです。しかして、ファッショ体制。
 ま、流れですけどね。
 
 こんなの当たり前じゃねえの。こっちも、なんか書いてて二度書きの気がしてきた。
 まったく歴史学者たるや。
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理想家

2009-10-23 21:13:50 | 上部構造論
 こんばんは。勉強をしないと余裕がありますね、引き続き、本日の夕刊。なんだかという渡辺謙主演の映画の宣伝です。
 その評価の中の一行、なんでも石坂浩二が理想を貫く企業家を演じているそうです。
 いいですねえ、理想家。
 私も理想家的仕事をしたい、あるいはしたかった。このサラリーマン生活30年余、とてもじゃないけどできねえぜ。 
 なんじゃ、この評は。佐藤忠男と書いてあるが、旧名佐藤忠男のパロディーか。
 いずれにせよ、女子供に良く響く言葉なのは分かりますが、ほんとかよ、って思いますよね。

 モデルは日本航空の会長みたいですが、
 じゃあ、理想家の2009年の日本航空会長は、今、存亡の時、なにをするのか。
 悪いことしかせんじゃろ。

 あなたの会社の社長さんが理想家だったらなにをしますか。
 食品会社なら分析表示どおりの原料を使う。
 はい、そして社員のリストラをしますな。
 市長さんなら、住民福祉に邁進し、そして、職員のリストラをしますな。

 リストラが何だ、お前らが働かないのが悪いのだ。オレはオレの理想を貫く。
 はいはい、働かなくて悪うござんしたね。

 理想家などとは、そういうものです。

 要するに、権力を持って他人を強いることで、世間の賞賛に合わせる人間を理想家といいます。
 太平洋戦争前夜、理想家とは、女子供をたぶらかして、男たちを戦争へひきずりこんだやつらのことです。
 
 
 でもいいなあ、理想家。あと少しの労働人生、理想家で給料をもらいたいものです。
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原理の表現の仕方

2009-10-18 21:32:14 | 上部構造論
 こんばんは。今日は、勤務後、奥さんが出てるので、スーパーの490円の寿司で焼酎をそこそこ呑んでしまいましたので、ちょっと元気です。
 上記で大事なのは、「そこそこ呑んでしまいましたので」というところで、寿司は酒に良く合いまして。
 (なお、私は料理は得意です。)
 で、そこそこ飲んだので、今でも手元にグラスがあります。限度を越すと後を引くというか。

 本日は、例によって朝日夕刊(あ、朝刊)。投書提言は、星旦二ドクター。
 ずいぶん出ますね、yahoo。14500件あります。なんで、そんな有名なんだろ。
 旧名東京都立大学教授。
 いい人なんですけど、今日の趣旨は、
 「インフルエンザでワクチンがどうのといっているけど、本当に大切なのは免疫力だよ。それには食生活が大切だからみんなよく食べなさい」というものです。
 と翻訳するとバカみたいでしょ。
 でも、ほんと。言ってる内容もほんと。
 
 菌やウイルスが取り付いた人間が、発症するのは、取り付き量とその人間の処理量の問題です。
 1個の細菌等で発症する病気というのは、私も聞いたことがない。最強で2,3個。
 日本脳炎なんざ、千人が1匹の蚊にたくさんのウイルスを注入されたとして、1人発症するだけ。他の人たちは、免疫を得て何も知らずに生きていく、という、40過ぎのあなた、あなたもその一人です。
 
 ま、それはいいんだけど、わざわざ、それを今いったところでなによ、って話で。
 
 本人、一時期、世界中の感染症の撲滅を考え続けた医者だから、このインフルエンザのバカ騒ぎが我慢ならないんですよね。
 でも、じゃあなんて世間に言うんだ。いいや、そのまんま、ぶつけたれ(「たれ」じゃないか。会津人だそうです)。内容はオレの専門分野だから批判なんてさせないぞ。てなもんでしょう。
 
 で、こうゆうイデオロギーの闘いは(大げさか)、ほんとのことをいってもしょうがない。
 実際に病気にかかるのは個人であるわたしです、ってわたしゃかかる気なんかないから、若い派遣労働者Aくんです。
 そんなA君。てやんでえ、栄養がどうのなんていわれてどうしろと。飯のことなんかこれ以上考えてられるか、ということが、わかんねえよな、医者には。
 星先生は、それも頭ではわかっているのだけれど(もともと飯の食えない後進国医療も専門領域)、だから、留学生や労働移民のことも念頭に正論を言っているのでしょうが、でも、これじゃ言いっぱなしだあね。提言というのは誰を味方につけるか、選択しとかなきゃね。
 
1 ほんとに栄養問題なら、慈善的な人、社会福祉政策者に言わなきゃね。ストレスをなくせ、最低賃金を上げろ。留学生は、卵ご飯で生きてるぞ。
2 とにかくインフル対策が我慢できないのなら、もういいかげん嫌気がさした行政担当者、企業主あてに、免疫なんざほっといてもつく、ということを強調する。
3 ほんとは子供が心配なら、って、そりゃいっても無駄だぜ。

 とゆうふうに、提言というのは、相手を見出すことで意味を持つのです。
 相手のある提言は、その相手ではない人間にとっても、意味が見出せるのです。人間バカじゃないからね。他人の身になれるの。
 
 そうでないことは、結局、論文にすぎないんだよね。
 
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私的所有と私有財産

2009-10-03 21:53:06 | 上部構造論
こんばんは

 今日は十五夜、月が中空にまんまるく照っています。
 珍しいですね。いつも曇ってるのに。
 
 わたしなど、二度とあんな子供時代を送りたくありませんが、それでも、お月見の日、曇っていようがなんだろうが、縁側に白玉団子や里イモをお供えしたのは(数少ない)楽しい思い出です。
 
 というわけで、私的所有と私有財産。
 というわけで、というのは、あんな子供時代にした元凶の祖父というのが熊本生まれで、時の帝国大学にいくために、郷里の皆さんから学費を貰って旧制高校へ入り上京したという。
 今日は泉鏡花の本を読んでてそれを思い出したところで。鏡花先生、金もないのに18歳で上京して1年、他人の金を頼って暮らし続けたという。
 そのうえ、(本人みよりがなく)従姉が自分のかんざしを売って5円という大金の為替を送ってやったら、こんな端た金じゃあ積もった借金を返せないとかいって為替証書を破っちまったとか。呆れ果てたガキだ。

 で、本題。
 社会科学などやりだしますと、教授や教科書で「所有と財産は同じ言葉だ」などといわれます。propertyとかproprieteとかいう言葉で、西欧じゃ同じだそうでね。
 まあ、西洋かぶれの大学職業者がなに言おうと市井の人間には知ったことではないが、そりゃ違うだろう、ということです。
 日本語では「所有」は、その状態を指すものであり、「財産」はその持てる現物を指すでしょ。
 さて、じゃあ、その現物は、誰のものか、ということでして。
 西欧の中産以上個人孤立生活者は別として、資本主義以前の私的所有制度には、私的所有の確固たる規範=共同体法はあったが、財産権たる債権法は限定的にしかなかった、ということです。
 限定的といえば聞こえはいいが、はっきし言えばそんな法などなかった。あったのは「カネ」を巡る単なる借金制度であって、それさえも、チャンスがあればチャラに出来た、ということは中学校の歴史で「徳政令」として習ったとおりです。
 ついでにいうと。昭和天皇が死んだとき、徳政令が出たって知ってますか?
 なんでも破産者のごとき債務負担者の債務をチャラにしてやったそうです。わたしゃ知りませんでしたが。借金のある人も生きていれば、そのうちいいことがありますよ。
 
 ま、そんなこんなで、いいたいことは、よく世界的周辺国での、「来た者はもてなし、しかし、持てる者は全部吐き出せ」、という状況についてとやかく言われますが、そんなことは日本でも当たり前であったこと。共同性があるところでは、絶対的所有権はあれど、かといって、その財産の排外権は限定的だったのです。
 
 でさ、日本もカネカネ、返せだの戻せだの、高いの安いの、そいつはオレの金だ、触わんじゃねえだのは、ごく特殊な歴史的一瞬だということでね。実は、共同性の高いアジア人民としてはおかしな話なの。右翼民族主義者なら「カネがある奴は、偉そうにしないで人民にカネだせ」というはずのところでね。そんな右翼がいないこと自体、ウヨは掛け声ばかりのバカだ、ということでね。あ、バカじゃないかヤクザか。
 まあどうでもいいけど、そんなふうに私的所有は資本主義の基礎ではあるが、それは結果にしか過ぎない、ということでもあるのです。
 資本主義では、それ以前の社会と同じく(この同じくというところが、学問的には重要なところです)、私的所有権さえ絶対であればいい。それ以後の私的財産現象は、カネの亡者となった人間共の上部構造的現象だ、というのが歴史的事実です。
 
 なんてお話でした。 
 

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正義とは

2008-01-14 16:10:38 | 上部構造論
 昨日は、休みが続くので難しそうな本でも読めそうだと図書館の社会学コーナーへ。(いつもは気晴らしの本しか探さないのですが)
 ふとみると「希望格差社会」なんて本がある。「希望」という言葉に反応してぺラッと見てつまんなそうだったけど、隣の同じ著者の本へ。こちらにも中に「希望」という文字があり、さらに、「以前は機能していた学校制度のパイプラインから漏れが生じたのがフリーターだ」なんて趣旨が書いてある。
 『そんなことがあるもんか、そんなものを「漏れ」と呼ぶなら昔から漏れっぱなしさ。なんだね、昔は単純労働者はいなかったのかね、小零細企業は終身雇用だったのかね。この人はいったいどんな学校制度が好きだというんだい、帝大と高等小学校の2通りかね』 と思いながら週刊誌を借りる感じで借りてきました。

 彼によると、努力が報われる想定がつくということが希望があることなのだそうで。その反対語は努力が報われない、ということになります。端的に言えば、一生懸命働けば、高収入が得られるというのが希望のある形態なのだと。
 そうじゃないでしょ。
 そんなもん、一般論にするなよ。
 (だいたい、このおじさんによればある人の給料が高いのは「生産性が高い」仕事だからなんですって。東京学芸大学教授の仕事は、東京学芸大学非常勤講師より生産性が高いのですぞ。なんだね、センセは何を生産してるつもりなのだ。米1石でも作ったのかい? 社会学史でよりよく教えられるから、週にかけもち10コマ教えている非常勤講師の4倍も給料をもらえるのかな?
 要するに、「生産性が高い」というのは「そいつにカネを出すやつがいる」の翻訳語なんですけどね。似てるからっていうだけでくっつけちゃ、「理論」の名が泣くわね。)
 まずは、一般論でいうと、報われるのは努力じゃなくていい、人は行為の将来が手に入れば報われる。「行為も努力でしょ」と呼ぶならそれでもいいが、そこで言ってる努力は、何ヶ月も何年もかけてする行為じゃないからね。一般論では、「恥ずかしいのを我慢してデートを申し込んでオッケーが取れれば」報われるのですよ。明日のデートを申し込めば、相手は受けて「くれるかもしれない」、それが希望でしょ。
 なに、努力が報われるって。なに、一生懸命働けば「高収入」が得られるって。
 俺らそんな風に生きていない。
 給料を高くする努力と、希望とどういう関係があるんだ。給料が安いのは、飯以外に食えないし、携帯以外に遊べないから絶望なだけでしょ。なに、給料を高くする努力って。努力は毎日してるじゃないか。毎日の仕事そのものが努力なんだぞ。違うか。それ以上何をしろというんだ。今と同じに毎日一生懸命働くから普通に食わせろっていってるだけでしょ。 
 いったい「高収入があたしの希望」なんてやつは、勝手にしろというもんだ。普通の収入をくれ。それに「希望」だなんて尾ひれをつけんじゃないよ。希望は希望さ。いつか人並みに暮らしたい。家族なんてあるのもいいじゃん。ゴルフって面白いのかな。それと「一生懸命努力すれば、高収入が得られる」と結びつけんな。

 でですね。不愉快なのが、この努力の経済語換算テーゼ。苅谷剛彦については前に著書でいいました。なんでいちいち人間の行為をカネに換算するわけ? そんなんだから希望がなくなるっていうのがわかんないのかな。
 生産性がどうのって、いってることは「単純労働者にはカネを払わないよ」っていうことだけなの。
 なら、そのとき、ある人間、ある若年労働者は「単純労働に仕方がなくついている人間」ってだけじゃん。
 なのにこの先生に言わせると、彼は「生産性が低い人間」なのだ。
 あんだよ、それって人格の否定じゃん。わけわかんないよね。あなた、弱いもんの味方のつもりでしょ。
 「労働者の生産性が低い」んじゃない。「単純労働で代替の簡単な職種についている」だけなのだ。それは社会の問題なのだ。代替を困難にするのが国家権力の役目なのだが、誰もそれを指摘しないばかりか、「派遣業法」だ。
 お前も私も同じことを言っている? じゃあ、同じように言い換えればいい。でも言い換えやしない。そこが評論家というものです。
 
 というわけで、評論事業とは何か。
 端的に言うと、世の中の正義にのっとって、自分の言いたい言説を広めることです。
 「正義」というのは、発言者の中で「この内容は、権力に保障されているぞ」という確信のことです。
 国家の法であれ、神であれ、社会が承認しているはずの道徳であれ、この内容が権力に承認されていなければならない。発言者としては、その権力や強制力の存在を認知しているということです。
 まあ、人間の場合、こういうのは「認知」というより「感知」に近そうですね。
 言説は何でもよいのです。しかし、それを乗せるワクというものがある。ま、土俵ですね。同じ土俵であれば考慮してやるよ、というワクのうち、権力から提供されたものが「正義」です。

 権力の源泉は、自分たちの制約主体ということですね。これにはいくつかあります。
 
 まず国家的中央武力権力。「的」というのは国家とつるんでる経済権力も含む、ということで。
(隈の体系では、いわゆる国家権力が武力を条件としていることを際立たせるために「武力権力」と呼ぶことが多いです)
 これは政府権力を引き回す代議士やその取り巻き、あるいは経済組織高官や評論家、さらに経済権力を引き回す経済組織の配下たちとさらにその取り巻きの大企業予備軍、みたいなところですね。

 ついで、共同体内的権力。
 発達した資本主義では地縁的な共同体はありませんが、社会組織の内部にはたくさんの共同性がある。食品製造会社で、「これ店頭に並ぶ頃には消費期限切れ、、、あ、ラベル変えちゃうんですか、だめですよ」なんていえない。原子力研究所で、「この新発電所の建築設計図のいいかげんさはなんですか。これじゃいつかパイプ崩れちゃいますよ」とはいえない。それは昔、厚生省で、「3年で電算化なんて無理ですよ、どんだけデータがあると思ってんですか。閣議決定だ、って、、、そんな無茶な。大体でよけりゃやれますが」といったのと同じです。別に社会保険庁の肩を持つ気はありませんけどね。まあ日頃の行いが悪いと誰も助けてくれませんな。
 
 次に、昔でいう宗教組織というのがありますね。
 これは2つにわかれて、第1に、権力上の知の操作。
 つまり、権力の維持には知識を操作しなければならず、この操作人が少なければ少ないほど、この権力は強くなるわけで。
 たとえば帝国大学が日本で1つの時は、卒業生は「末は博士か大臣か」でした。まあ、そうなると帝国大学以外にも知識の源泉は必要で、知的操作に関わる人間、その他の学士や学生崩れや文筆業は、権力者モドキと認定されます。
 第2に、これら3つの権力の伝達。
 知は、権力の伝達に伴う賞賛≒「教養」として、大衆がこれを知り活用することに、賞賛を内在させます。
 
 最後に、宗教的認知そのもの。
 まあ、信仰というか倫理的確信というか。私のような裸一貫ではこれ以外にありませんな。私の観念が正義であることには何の根拠もない。どんな権力者もお前が正しいとはいわないし、ウチの社長もいうわけがない。根拠ゼロ。でも「これが正義だ、正義は勝つ」といえるのは、理論上、神がいるんだ、ってことになります。だからって、別に信仰であることに何の後ろめたさはありませんね。ひがみぐらいはあるかな。
 
 ともかくも、評論家というのは、これらのどれかに乗る必要がある。そうでなければ、論は売れない。売れない論を説くのは評論家ではない。格差の是正を主張するときに、二昔前までの評論家は必ず「労働組合の組織化」も挙げたものです。「単純労働でも労働者の代替が容易でなければ労働条件は低くしにくい」ことは教授ともなればだれでも知っている。ちょっとぐらい言ったら? 今日の現実には空語に近くても、やってる人は力づくんですよね。
 でも無理でしょうね。それは 『同じ生産性なのに、あら不思議、給料が上がる』 ってことだから。センセの論理が成り立たない。
 って、あーあ、私の正義は勝つかなあ、、、
 

(注)山田昌弘「新平等社会」文芸春秋、2006.
 それにしても山田の背景議論はひどい。「では、なぜ生活水準の格差が生じるか。ここでは、家族や国家、そして、資本所有などの影響を除いて、純粋に自由な経済活動の格差によって、生活水準の格差が生まれるメカニズムを示そう」(→イチローの所得が高いのは、イチローが多くの人を喜ばせるからだ)
 って、資本所有の影響を除いて何がいえるんだね? イチローの所得が高いのを明らかにしてどうするんだね?
 まあ、社会学者だから正直にちゃんと前提を書いているところが良いけれど。社会学者の8割は人がいい。それはいいが、読んだ若い人たちは、そんな前提など目に入らない。「ああ、大銀行のサラリーマンの給料がいいのは生産性が高いからなのね。あたしは信用組合の派遣社員だから生産性が低いのよね。しょうがないわ。」
 そうなんですか? 山田先生?
 まったく。マルクス系経済学者は、ジニ係数などを使う現代社会に少しでも知見がある人なら一目でバグが割れてしまう危うい議論(橘木(マル経ではないね)))などしていないで、基本的なところで議論の最低限を作って欲しいものだ。

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右や左の擬似思想

2007-12-31 18:37:33 | 上部構造論
 というわけで、こういう主義を長年やっていますと、左翼だのウヨクだのという話がちゃんちゃらおかしくなります。
 なあにが左翼だあね。たまたまの、「今だけ左翼」のくせに。
 あるいは、「ウヨク」とかって、要するに昔の新サヨクじゃんか。
 ま、長年生きると、若い人が思う以上に世間のことがわかるものです。

 だいたい、被支配者というのは、権力者が嫌いです。偉そうに行為を束縛されて楽しい人間はいやしない。
 反面、反権力が好きなはずで、そこで昔ならサヨクなわけですが、このおめでたい現代日本では、まず、お年寄りが脱落する。40過ぎれば大部分の人間はそこそこの権力者ですわな。おまけに、どっちに転んでも大部分の人間は食っていける。
 といって権力のない若者が喜び得る反権力の対象とは、自己の生理性に関わらないことを条件に、自己の自由を束縛しようとする試みですね。これは、つまり、空語な道徳のお題目だ。今、空語でも道徳を持っているのは、大昔サヨクの石原慎太郎(知らないだろうね)とか、同じくそのままサヨクの高齢者だけだからね。どんな勝手なことを言うのも、反権力さ。
 普通選挙制下の権力者というのは、基本的に大衆を取り込もうとするわけですが、どうすればよいかというと、反体制思想の価値を剥奪していけばいい。生理的な課題(貧乏で食えない)とかいうのは、どちらにせよ、騙し切ったほうが勝ちなので、それ以外のところで政府に歯向かわれると困る。それには、「反体制の思想なんか君たちの将来にはなんの関係もないよ、ウルサイだけじゃん」といっておけば足りる。実際、現状そうだし。なんの思想構築の努力もいらない。
 
 では「君たちに関係のある将来」がウヨク側にあるかといえばちゃんとある。
 人が他人の行為に思うのは、その他人の行為がもたらすはずの将来のことです。
 これがうまく成立すれば、自分の利害に関係がない限りにおいて、「あいつはうまくやったな」、「あいつはよくやったな」ということになります。
 うらやましい、とか自分もああだったらいい、とかいうことですね。

 つまり、人は自分の生理的な次の将来に関知しない他人の行為に関しては、別に彼の価値観にそぐうかそぐわないかに関わらず、想定される将来を体現するその人間の行為を、妥当なものとして追認します。
 ところで、そういう他人て、政治家の場合は、自分もなりうる同一の階梯上の行為者であれば、権力者でよいのですね。
 「同一の階梯(ハシゴのこと)」と呼んだのは、地位の差はあっても自分も夢の中ではそうなりうる、という社会的状況の中の人間のことです。
 たとえば、ヒトラーに生理的に関わらない「ゲルマン人」右翼Aは、どうせ彼の今晩のパンに関わらないヒトラーについては、ヒトラーが独裁者であればあるだけ、彼の右翼的心情を体現しうる他人として、ヒトラーを支持するでしょう。
 同様に、ヒトラーがどうだろうと生理的に生きていられる「ゲルマン人」左翼Bは、彼の組織上の人事にさえ手を出さない限り、自分がそうできたらいいなあと思う「彼が理解しうる右翼ヒトラー」の「思い通り」の施策をするヒトラーに好意を持ちます。

 簡単に言うと、
・やるだろうと思うことは本当にやる
  という好ましさ。
・やって欲しくないだろうがやる(あきらめてるさ)
  という「敵ながらあっぱれ」
  
 というわけで、ま、食うのに関係なければそんなもんですよ。支配権力に対抗する権力がない、ということはありますが、それは今日の趣旨ではないので。 
 若者ウヨクというのもこんなもんです。
 
 もひとつ言っておくと、逆に、同一の将来を作りうべき者の逡巡なり妥協は、裏切りでしかありません。昔はこれを「近親憎悪」といいました。ちょっと流行ったんですが、あんまり本質をつかんでないので好ましくないコトバです。
 簡単にいうと、
・やるんだろ、てめえ。なんだ? やらないだ? ふざけんな!
 ってことですね。
 
 てなわけで、ウヨクとか左翼とかということに対応しているヒマがあったら、まともな将来の青写真を提出し、妥協なく行動したらいいんです。曲りなりには青写真を持つ共産党が「自分だけが正しい」という立場を外したら怖いですよ、、、こわかねえか。そんときはつぶれるかね。すごくピントがずれてるなりに、(理論はダメでも)政策では正しいこともいうんだから、もっと正直になったらいいのにね。でも対抗権力にはなれそうもないけど。
 
 などなど。本年も終わり。
 例年、同じ会社の製品でゴマメを作るんですが、今年はカラ炒りしたらゴマメからクサヤの匂いが。
 ずっと炒ってもフニャフニャやわらかく、、、なんだ、腐ってんじゃん!
 いいかげんにせいよ、土佐食品。なさけねえなあ、今年はやっぱり「偽」でした。
 来年は「義」だといいなあ、、、正義は勝つ。以上、おじさんでした。
 来年もよろしくお願いいたします。
 

(注)階梯が支配者層とは異なる被支配者の場合、具体的には「奴隷」のような場合、支配者がどうだろうが彼には何の関係もない。独裁者が大衆社会で生まれるというテーゼはこの同じ点に根拠がある。独裁者は、大衆社会、ないし奴隷制的民主主義社会で生まれるのだ。ただの弱肉強食の世界では、偉そうにしてもすぐに食われてしまうからね。
 では奴隷は? 奴隷にとって、頼れるのは神だけだ。 第三者が、宗教をアヘンだとかいってけなすのはよしたほうがいい。

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アナーキズムと思想

2007-12-24 10:34:44 | 上部構造論
 今日は昨日の続きです。
 テーマは、「道徳には諸権力以外の伝達根拠はない。では、なんの権力もなしに良い人間と悪い人間を言い分ける根拠は何か。」

 私の立場はアナーキズムです。
 アナーキズムは「無政府主義」と訳しますが、もとはといえば「無支配者主義」ということ(だそう)です。
 誰であれ、私を、そして私と同等なあなたを支配することを許さない。という主義です。
 人は個人として自由でなければならない。
 個人は、個人として自分で将来を決めて、しかも、どんな個人でも生きていかなければならない。
 この「しかも」があるかどうかが本物の絶対自由主義者か、ただの資本家の宣伝マンの自由主義者かの違いです。
 資本家の下僕達は自分だけが生きていけばいい。それもいいでしょう。ただ、そういう諸君は革命で殺されても文句をいわないことです。そういうのを「お互いさま」といいます。人が生きる原理はとてもシンプルなことなのです。

 さて、思想とは他者の行為変更の努力のことです。国家の思想、宗教の思想とは、国家や神の名のもとに、他者へ行為を強制することを意味します。他者とは個人のことですから、国家体制下の思想はアナーキズムの世界には存在しえません。
 ではアナーキズムでは、何をしてもいいか。

 この「いいか」、という問いが存在すること自体おかしい。
 すべては、自分の心以外にとっては許されている。自分がいいというならいい。
 しかし、自分に悪い行為は自分には許されていない。
 アナーキストの他者への思想は、何も難しいことではない。「私はこうするのがいいと思うからこうしたら」です。
 友達の間では当たり前ですね。
 この当たり前さがアナーキズムです。
 国家が存在するのではなく、友達が存在する。
 私は私の倫理の名において、良いと思うものには良いという。自分が良いと思うのにはとりあえず根拠があるから、友達にも奨める。
 「そんなんで社会が持つか?」
 社会は思想で持っているわけではない、ということを知っていただかなくてはならない。
 思想の前に、友達が存在しうる社会でなければならない、ということです。

 「そんなんで真理が伝わるのか?」
 行為には真理なんかない。であれば、他者へ伝える思想の存在形態なんて、推奨という以外あるわけはないのです。

 個人は絶対です。どんなやくざだって人殺しだって、彼らは彼なりに生きている。ぬくぬく生きている人間が偉そうに説教をいえる理論的根拠などない。彼らには、社会的に罰する権力という根拠があるのみです。
 絶対自由の個人の相互世界には、かえって絶対性はありません。
 個人が絶対であれば、思想は真理ではなく推奨にしか過ぎない。
 問題はそれを可能にする社会です。だから、アナーキズムは社会運動なのです。


(注)真理の根拠などない、といったが、神様が好きな人でもそれは同じことだ。どんな教義も、たかだか人間による翻訳だから。
 (もっとも、とりあえず世間の人が伝える神様は、みんな私の倫理観とは相容れない。それは私の倫理観に劣るということになるが、人間より劣る神など神ではない。まあ、それは伝える人間のせいだということにしておこう。)
 宗教を信じるのも選択だから、神がいる、といってもいいのだが、それは自分が真理だ、ということと同じだ。そこでだ、神ならぬ人間に、「私の中の神がほんものだといえるか」、いいやいえない。したがって、神がいる場合でも、それが人間が伝える不十分な神ではなく崇高な神がいるということであれば、やはり他人には行為を真理だとはいえない。教義の歴史上さんざん誤りを重ねてきたカソリックの神父たちは、当然納得してくれると思うが。歴史を持たない自分だけのプロテスタントの牧師には、唯我独尊でいいっぱなしの責任不在だから通じないのだろう。人間、自分だけが正しいと思ってはいけない。


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人間性という道徳

2007-12-23 15:38:26 | 上部構造論
 先週、新聞の投書欄に、「人間性喪失こそ戦争の本質である (から、してはいけない)」という話が載っていました。
 話はよくある筋ですけどね。投書者が (政治学研究者 84歳 石田雄)
 なんだ、石田サン、困っちゃうなあ、みたいなもんで。

 別に知り合いじゃないんですが、昔、私が60年安保運動の勉強をしていたときに、他の専門書が、やれ革命だの民主だの対アメリカ独立 (!。日本がアメリカから独立するということ)の運動だのといっていたところ、唯一、「安保闘争は戦後間もない日本民衆の厭戦の気持ちが集結したもの (左はそれをうまく組織化して、政府はそれを逆に刺激した)」という趣旨で論を展開した人 (東大社会科学研究所助教授)です。
 そうだろ、そのはずだよなあ、なんで他の人はいわんのか、と思うのですが、未だに歴史記述のただの背景説明にしかしませんようで。これは運動理論としてちゃんと考えるべきだと思うのですが。

 ま、それはそれ。そんな普通の政治学者ですが、政治学研究者の名を名乗りながらこれはひどい。まあ、政治学は社会科学ではありませんが。
 何がひどいかと申しますと、「人間性」なるものが「理想の境地」として扱われている点です。
 そら、ああた、宗教ですぜ。
 人間はひどい生活をしたらひどくなるのです。良い生活を知ればそこそこ良くなる。それが人間性です。だから、社会をまともにする。そのための社会科学でしょうが。
 戦争さえなきゃ人間はそこそこ良くなるのかいな?
 それにしちゃあ平和な今もやくざはいるわ、人殺しはいるわ。通勤電車じゃケンカだらけ。中小企業じゃ社員が歯向かえば脅しをかけてくる。
 人間なんてそんなもんですぜ。 
 「良いか悪いかは人間性ではなく、社会状況なんだ」と見て初めて、「人間性の良い部分」を発揮ができるということ、年取っても政治学研究者を名乗るのならこう認識してもらいたい。

 で、ですね。これは前フリ。
 なんでいっぱしの社会科学的研究者がこんなことをいうか、というほうが問題なのです。
 なんで『人間性』は『良い人間性』しか示さないのか。
 
 思想史の世界では、「もともと西洋では『神性』っていう『良い性』があって、宗教勢力に対抗しようとする一派が神に対抗するために『人間性』を打ち出したので、もともと人間性は良いものでないと困るのだ」っていう趣旨で説かれるところでしょうかね。
 でも日本は関係ないもんね。
 
 さて、ところが、日本でも昔から、オニ、人でなし、人、という言葉がある。収税吏や借金取りや、その他、武力・権力をかさにきて、弱い者に不利益をもたらす人々のことですね。ということは「まともな人」という観念があったということです。
 これはなんだ?
 結論からいってしまえば、「人間性」というのは「同一の共同性の中の人間である」ということです。
 武力権力を持たない層にとっての行為の押し付けなり押し付けへの対抗なりは、同じ人間なのだからという共通性によるしかない。
 収税吏さんよ、自分の家族や親類縁者、この村のみんなは、お前みたいなひどいことはしないぞ。そんなことをしたら村八分だ。それでもするのか。あ、するのね。お前は村の成員じゃねえしなあ、、、
 
 同じように、武力権力が表面上ない、たとえば倫理学などという道徳体系の根拠は、やはり行為規範の共通性のみにならざるを得ない。人間としてやるべきか、やってはいけないことか。こうして、倫理学の最後の砦が「人間性」となるわけです。
 道徳というものは、昔は共同体的強制が作っていた。みんなで決めた田植えの時期は守らなければならない。それと同様に、収穫の悪い年には助け合わなければならない。
 その次は、武力権力者が作った。商売でだましてはいけない。ましてや金持ちのものを盗んだら死刑だ。
 その頃の、武力が及ばない社会的局面では、武力によって強制権を裏打ちされた宗教権力がこれを補填した。仕事に励め。経営者が見ていないからといってさぼっていてはいけない。神様が見ている。
 そして、宗教のない国では、「人間性」が道徳の基準になる。「だって他に善悪の基準となるものはないもの」(?)
 
 というわけで、お爺さんは何の根拠もないコトバの断片を宗教的に振り回さざるをえない、というわけです。
 まったく困ったものだ。社会科学的者がそんな虚言を学的研究者の名のもとに発言することは許されてはいない。彼は、宗教や国家にとらわれない真理の追究者でなければならない。すなわち、社会科学者とは、アナキストのことだ。
 
 この辺で、ちょっと変だ、と思っていただくと、話が先に進みます。
 「お前はさっきから人間は状況によって『良くなる』とかいってるじゃないか。
 なんだ、その『良い』とは。お前だって道徳家や宗教家じゃないか」
 
 でしょ。
 そうです。「良い人間」と人に告げる根拠は何か。
 
 これはブログ表題の関係で明日。


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