マイフェイボリットシング
カラオケスナックも、いきつけると、ママには「このおじん、こんなやつか」と認識されもする。
そういう人格的評価は、仕事上では仮に為されても表面には出ないので、うれしいことでもある。
1年に2回しか行かないがそんなスナックで、さだまさしの「防人の歌」を歌って、といわれた。
いやだ。
心に深入りしすぎて歌えるものか。そんなもの今まで1度だって歌ったことはない。
私は時折
苦しみについて考えます
誰もが等しく 抱いた悲しみについて
生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
病いの苦しみと 死にゆく悲しみと
現在(いま)の自分と
25歳の時、私は信じていた。今は変わった者も呼びかければ振り向いてくれる、と。
これは40歳まで変わらぬ認識だった、が、ふつうの人間の生は、40で終わるということを生きていくうちに思い知った。
30歳を過ぎて私は、生活費を稼ぐためにその後の3年間を泥沼の中で這い回らなければならなかった。
30歳を過ぎて佐田は、借金を返すためにその後の30年間の泥沼を肯定するしかなくなった。
私は痩せたままであり、佐田は太った
おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命(いのち)に 限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
春は死にますか 秋は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な 故郷(ふるさと)もみんな
逝ってしまいますか
若人である私は信じていた。同様に、佐田まさしも信じていただろう。
「われわれが変わるわけがない。」
そして私は変わらなかった。
とりあえず佐田と一緒で高い音は出なくなったが。
しかしまだわれわれは死んではいない。
なので言わせてもらおう。ほんの半歩もないドブのような溝しかなかったはずの男に
変わったのはお前だ、と、死んだのはお前だ、と、ふるさとの海や山は言ってはいないのだろうか。春を、秋を、ほんとうに今でもお前は見つめているのだろうか。愛を心を、、、ここまでは言うまい。
youtubeの画面の痩せた「佐田まさし」を見てそう思うのだ。
今日も「佐田」は、私の半身のように歌っているのだ。歌っていないはずがない。いないはずなどない。君はどうして歌っていないなどというのか。
私の大切な ふるさとは決して、逝きはしない。
人がそれを許さない限り。
カラオケスナックも、いきつけると、ママには「このおじん、こんなやつか」と認識されもする。
そういう人格的評価は、仕事上では仮に為されても表面には出ないので、うれしいことでもある。
1年に2回しか行かないがそんなスナックで、さだまさしの「防人の歌」を歌って、といわれた。
いやだ。
心に深入りしすぎて歌えるものか。そんなもの今まで1度だって歌ったことはない。
私は時折
苦しみについて考えます
誰もが等しく 抱いた悲しみについて
生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
病いの苦しみと 死にゆく悲しみと
現在(いま)の自分と
25歳の時、私は信じていた。今は変わった者も呼びかければ振り向いてくれる、と。
これは40歳まで変わらぬ認識だった、が、ふつうの人間の生は、40で終わるということを生きていくうちに思い知った。
30歳を過ぎて私は、生活費を稼ぐためにその後の3年間を泥沼の中で這い回らなければならなかった。
30歳を過ぎて佐田は、借金を返すためにその後の30年間の泥沼を肯定するしかなくなった。
私は痩せたままであり、佐田は太った
おしえてください
この世に生きとし生けるものの
すべての生命(いのち)に 限りがあるのならば
海は死にますか 山は死にますか
春は死にますか 秋は死にますか
愛は死にますか 心は死にますか
私の大切な 故郷(ふるさと)もみんな
逝ってしまいますか
若人である私は信じていた。同様に、佐田まさしも信じていただろう。
「われわれが変わるわけがない。」
そして私は変わらなかった。
とりあえず佐田と一緒で高い音は出なくなったが。
しかしまだわれわれは死んではいない。
なので言わせてもらおう。ほんの半歩もないドブのような溝しかなかったはずの男に
変わったのはお前だ、と、死んだのはお前だ、と、ふるさとの海や山は言ってはいないのだろうか。春を、秋を、ほんとうに今でもお前は見つめているのだろうか。愛を心を、、、ここまでは言うまい。
youtubeの画面の痩せた「佐田まさし」を見てそう思うのだ。
今日も「佐田」は、私の半身のように歌っているのだ。歌っていないはずがない。いないはずなどない。君はどうして歌っていないなどというのか。
私の大切な ふるさとは決して、逝きはしない。
人がそれを許さない限り。
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