リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

見たこともない男に

2017-11-27 21:01:15 | コーヒーブレイク
マイフェイボリットシング


 カラオケスナックも、いきつけると、ママには「このおじん、こんなやつか」と認識されもする。
 そういう人格的評価は、仕事上では仮に為されても表面には出ないので、うれしいことでもある。
 1年に2回しか行かないがそんなスナックで、さだまさしの「防人の歌」を歌って、といわれた。
 いやだ。
 心に深入りしすぎて歌えるものか。そんなもの今まで1度だって歌ったことはない。

    私は時折
    苦しみについて考えます
    誰もが等しく 抱いた悲しみについて
    生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと
    病いの苦しみと 死にゆく悲しみと
    現在(いま)の自分と
 
 25歳の時、私は信じていた。今は変わった者も呼びかければ振り向いてくれる、と。
 これは40歳まで変わらぬ認識だった、が、ふつうの人間の生は、40で終わるということを生きていくうちに思い知った。
 
 30歳を過ぎて私は、生活費を稼ぐためにその後の3年間を泥沼の中で這い回らなければならなかった。
 30歳を過ぎて佐田は、借金を返すためにその後の30年間の泥沼を肯定するしかなくなった。
 私は痩せたままであり、佐田は太った
 
    おしえてください
    この世に生きとし生けるものの
    すべての生命(いのち)に 限りがあるのならば
    海は死にますか 山は死にますか
    春は死にますか 秋は死にますか
    愛は死にますか 心は死にますか
    私の大切な 故郷(ふるさと)もみんな
    逝ってしまいますか
 
 若人である私は信じていた。同様に、佐田まさしも信じていただろう。
 「われわれが変わるわけがない。」
 そして私は変わらなかった。
 とりあえず佐田と一緒で高い音は出なくなったが。
 
 しかしまだわれわれは死んではいない。
 なので言わせてもらおう。ほんの半歩もないドブのような溝しかなかったはずの男に 
 変わったのはお前だ、と、死んだのはお前だ、と、ふるさとの海や山は言ってはいないのだろうか。春を、秋を、ほんとうに今でもお前は見つめているのだろうか。愛を心を、、、ここまでは言うまい。
 
 youtubeの画面の痩せた「佐田まさし」を見てそう思うのだ。
 今日も「佐田」は、私の半身のように歌っているのだ。歌っていないはずがない。いないはずなどない。君はどうして歌っていないなどというのか。
 
 私の大切な ふるさとは決して、逝きはしない。
    人がそれを許さない限り。

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