リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

宗教とは(おまけ)

2008-05-25 14:30:14 | 行為
 「神道」が抜けてましたんでおまけです。

 私が使っている「本当の宗教」っていうのは、「民間信仰」というものの基礎のことを言います。
 この民間信仰が、支配者とくっつきますと、まず「民族宗教」と呼ばれるものとなりまして、これは、部族の酋長みたいな人が、「わしは神の子孫だぞ」とえばりかえる状態を指します。これが爛熟すると、伊勢神宮成立以前の最古代の天皇と神道みたいなものになります。
 武力で一番なんだから神の子孫でなくてよさそうなのですが、残念ながらいくら武力をもっていても自然にはかなわない。武力などいくらあっても作物も取れないし狩の獲物も逃げていく。果ては病気にかかっても誰も治してくれない、という世界では、神さんが一番えらい。
 そうすると支配者は2番目には偉くないといけない。それには神様の縁者である必要があるわけです。
 「権威付け」っていいますかね。
 「権威」というのは、「その人間のいうことが、事実であってもなくても、事実と同様に行為の将来に適用するのが自分にとって最善の方法である」という認識を指します。
 神様のいうことは聞かないと、飢えたり洪水に遭ったりして死んでしまうわけです。
 この場合、酋長なり巫女なりの言葉は、規範イデオロギーとは異なり具体的な行為の指示となります。ですから、前提として、酋長と庶民は同じ具体的な状況にあらなければならない。それでは、状況の異なる諸地方を支配するには言葉が足りない。
 かくして神道が国家神道になるためには、資本主義社会という同一の生産関係を前提として、天皇を取り込んだ国家法の存在を待たなければならなかったわけです。

 
 こんな話ばっか、しかも4つめではつまりませんね。
 コーヒーブレイクも、閃かないと書けないんで、ためにならない四方山話ですが。
 自動車を見るのが好きでして、通勤時はそこそこの名のある一般道で主にトラックを眺めて通勤してきたのですが、最近、首都高を眺めたら、なんじゃ、おんなじ車ばっかり通るぞ、ってなもんで、ようするに昼間の首都高って、ミニバンだらけなんですね。エスティマとかじゃなくって、ミニミニバン。といってキューブでもない、座薬みたいなかっこのやつ。
 ミニミニバン、カッコ悪う。昔、よく軽のライトバンに乗せてもらってましたが、あっちのほうがまだかわいい。
 なんで後ろに狭っこくなるフォルムと窓枠ばかりなのかね。それよりも、何でみんな形が一緒なの? まあライトバンも形は一緒だからそんなものと思えばいいのかねえ。でも業務用なら社名も書けばいいじゃん。
 土日だとみかけないミニミニバンなんで、ほんとに流行ってんのかどうかわかんないんだけど。


(注)
 【権威】とは、私がいつもお世話になるウィキペディアでは、
「権威(けんい、Authority)とは、自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力とは区別される。」
とあります。

 まあ、こういうウィキペディアはどなたかが親切に政治学の教科書から抜き書きしてくださっているんでしょうから悪口をいってはいけませんが、政治学というのは、目に映った現実をそのまま文字にすればオッケーな学問ですので、あまり信じてはいけません。
 そんな催眠術師のような能力なんぞ、誰も持ってはいません。

以下;
「古代ローマの「auctoritas」に由来する語で、助言以上命令以下であり、自発的に同意・服従を促すような能力・関係を一般的に指し示す。ただし、「自発的に」とはいっても「同意・服従」への圧力がかかっているわけで、完全に自由意志で結論を下せるわけではない。」
 (これもねえ。
  私も若いときは、初めて「ああそうだったのか」と物事を教えてもらった特定の学者や評論家には「権威」を感じまして、その人の評論なら正しそうで、寝っ転がりながらも姿勢を正して読みましたが、これに「同意・服従」への圧力があったとは思いがたいですけどね。概念というのは歴史的なものなので、一般規定だよ、という顔をすると、そこでから先は誤謬になっちゃうんですけどね。)

「他者に対して権威的であるためには、その両者がある種の価値体系、規範を共有していることを前提とする。その上で、その価値体系、規範における上位の人・地位・組織などが権威を帯びることになる。」

(これも、そんなこともありませんで、見ず知らずの人でも、旅先で道に迷ったとき、身なりもよく、眼光炯炯、いかにも自信ありげな人に、「こっちですよ」といわれたらそっちへ行きませんか? こういうのは権威だと思いますが、こんなもん価値体系・規範の共有といわれても困りますね。そりゃあ拡大解釈すればなんでも当てはまりますが、それでは発言の意味が消えます。)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宗教とは(その3)

2008-05-22 22:16:05 | 行為
 今日は仕事がそこそこめまぐるしく、といって、いまいち必死に、というところもなく、早く地に足の着いた本社に帰りたいな、というところで。今は、まあ、出向みたいなもんなんですね。別にどこで働いてもおんなじなんですが、そこは相対的にどう、という感情がありまして。人間、生死以外は全部相対的なものなんでしょう。
 そうこうしまして家に帰って、ふと目に付いて、棚にあるアサヒペンタックスSPにかぶった埃を落とすと、すでに仕事のことは忘れてしまいました。先に、このブログでニコンFのことを褒めましたけど、ペンタックスはニコンに劣りません。(けど、バッグに入れとくとシャッターが落ちちゃうのが致命的。半日で3枚は空打ちです)
 
 それはそれ。今日もコーヒーブレイクではなく。

 (その1)で、いわゆる宗教は本来の宗教なんかじゃない、といいました。
 で、(その2)で、いわゆる宗教は、宗教ではなく、ただの政治規範だ、といいました。例としてキリスト教やイスラム教がそうだと。
 で、じゃあ、それ以外は? というところで。
 
 人は将来に行為をイメージします。
 この場合、現在が不幸であれば、生物はいやな環境からは離れたがるものです。生物の母、海の中なら、スーッと泳いで遠のいていってしまうところですね。
 しかし、そうはいっても陸地では離れることはできない場合がある。あるいは離れることはできないという体制イデオローグが、武力を元に思想攻撃を掛けてくる場合がある。坊主のことですけどね。

 かくて、人は死後を夢見る。
 死後の世界とは、不幸の存在とともに、宗教が作るものです。聖徳太子時代から室町時代までの国家仏教のことです。
 でも、ほんとうは生まれ変わった後にどうであっても、人間は幸せになるわけではない。
 人は記憶の中の自分と比べて今の幸せを感ずる。
 でも生まれ変わった自分は前世の自分なんか覚えてはいない。
 さて、今の自分は過去の見知らぬ自分より幸せだからといって幸せだろうか?
 そんなことはない。不幸は不幸。幸せは幸せ。人間はおめでたいから、生きている今がよければいい。
 いずれにせよ、幸せは今の生活の中でつかむしかない。

 かくして鎌倉以後の民衆宗教は、現在を伝道します。
 南無阿弥陀仏と唱えることは往生することであるよりも、親のような神仏の存在の現在という時間での実践的確認行為なのです。
 禅にしても然り。 座することで、神仏を現在に感ずることが要目なのです。
 仏教一般について、以下同様。
 私は仏教理論など知りませんが、共同体日本においてはイデオロギー的にも現在が志向されてきたもようです。

 一方、共同体的な地域を離れたイデオロギー的キリスト教は、日本においても疎外された倫理を受け持った。
 しかして、共同体から離れた資本主義勃興期の日本では、キリスト教が知識人には鏡に映った自分の独り言の相手になったわけです。

 で、新興宗教は、と申しますと、個人の中にはこうした事実認識の残存と、できれば他者と共有したい将来がありますから、現実的に他に面白いことがなければ、誰かが提唱する権力が自己と共有される「宗教」の誘いには、普通にすすんで乗っていくことになります。これが新興宗教です。

 で、密教的政治イデオロギーですね。
 と表現すると「特定の」マルクス主義党派イデオロギーを思い浮かべる人もいると思いますがそうではない。マルクス主義一般の話です。(……一般の話なのか、って、書いた本人が突っ込んでもしょうがない)
 
 宗教とイデオロギーは似ているのではなくて、それは同じ物なのです。
 宗教意識をもってでっち上げたのが宗教であり、不平不満を体系化したのが政治イデオロギーなのです。

 あるいは宗教集団に居心地のよさを見出すのが宗教であり、
 政治行動集団に居心地のよさを見出すのが政治イデオロギー組織なのです。

 どこも違わない。
 ただ、宗教意識は客観的には事実によって否定される場合が多い。このため、いわゆる宗教性=非科学性が特徴となってはいます。
 でも、知らない人は知りませんが、政治的自称レーニン主義も事実によって否定されつくしたわけですが、誰一人こたえちゃいませんわね。こたえたのは所属組織が分解した人だけですわ。
 
 といって、マルクスもレーニン個人も間違っているわけではありませんので、ご注意を。

 なんでもいいんですが、被災地の方々とか思うわけですが、中国やビルマや、じゃなくて、悲惨なのは世界中どこでも同じなんですよね。私もスターリンになりたいな。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宗教とは(その2)

2008-05-21 22:13:04 | 行為
 おばんです。
 って関西弁だと思っていた私。まあどうでもいいけど。

 さて、前回の続き。いわゆる今生き残っている教団宗教が政治規範だ、という点です。

 今念頭にあがっているのは、本人達は「世界宗教」だと気に入っているらしいキリスト教やイスラム教です。
 それらが世界宗教なのは、すなわち、人間に本来の宗教的意識を蹴散らして平穏な地域社会を侵略できたのは、それが引き継いだ地域宗教の性格による、と、とりあえず想定できます。

 つまり、中東の茫漠とした砂漠様の地域の中では、固定的な地域共同体の宗教とはことなり、固定的な支配体制がない共同性が、しかし、支配権力を振るわざるを得ない。そんなところでは、抽象的な規範を設定するしかなかった、と、とりあえずいえます。

 他方、農村では抽象的な規範は必要ではなく、具体的に、灌漑工事には参加する、祭りへは出る、隣りの者とは助け合う、等の規範を全うすればいいわけです。
 そこには抽象的な規範はいらず、その地域に特化した具体的行動範例が必要なわけです。
 もっとも、軍隊では、毛沢東の軍のように抽象的な規範が必要となりますが。(こういうどうでもいいことを付け加えなければ私の文ももっと読みやすいと思うんですけどね。でもそうすると、後年、エンゲルスのように、いいかげんだと非難されるわけです。
 まあ観客は勝手な評論をするものです。)

「とりあえず」といっているのは、こうしたことは歴史の奥だか果てだかにうずもれて、証明はできないわけで、行為論的にはこうして説明されるということにすぎない、という意味です。
 「すぎない」にすぎないんですけど、こう見ることで次の新しい事象への適切な態度が推定されるわけで。
 つまり、「共同性の小さくなった社会で規範を貫徹するためには、一神教的規範宗教のような規範的イデオロギーが必要となる可能性が高い」みたいな。

 まあ、ともかくも、支配権力は、地域の生産活動を乗り越えて支配を貫徹しようとした場合は、抽象的な規範を活用する。そうでなければ、武力の常駐を必要とする。
 といって、抽象的規範の元は具体的文章なので、キリスト後、200年でキリスト教が支配宗教となったとして、その後1千数百年、世間ではこのいにしえのキリスト教の、当てはまるところを針小棒大、無理やりこじつけその時代の支配宗教として機能するべく事実認識的に改ざんせざるを得なかったというわけです。
 その結果が、同じ荒唐無稽な宗教の、目くそ鼻くそを笑う、未開宗教蔑視ですね。
 一方では、道徳の供給源として、支配の事実認識と、賞賛と、優越を、一手引き受けに宗教に頼んだ支配武力は、武力の及ばない未開地域の統治を、宣教師どもに頼んだ、というわけです。
 それもよしあしで、権力の衰退とともに教団教会も衰退する。
 「教団宗教」の衰退は、キリスト教信者の諸学者がいうような「世俗化」現象ではなく、単に、役立たずとなって権力に捨てられただけなのです。
 
 ああ、ふと思えば、いわゆる宗教家でも欧米では学者になれるんですね。欧米では、「科学」なんて価値はないんですよ。おしゃべりたちがえらい国家。
 だからって、別に非難しているわけではないんですが、野蛮な国家群だと思ってもおりますね。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宗教とは(その1)

2008-05-20 22:16:40 | 行為
 下にも書きましたけど、ガンダダってネットで確認したらカンダタだって。
 (ここのブログは上が新しいので、、わかりにくいですね)
 そういえば観陀多って字も浮かびますが、もともと私の知識はン十年前の若草幼稚園の紙芝居だもんで。
 芥川とかって、紙芝居書いただけでなんで文豪鬼才なんでしょうかね(河童・歯車だけはいいけど)
 
 ところで、私も宗教家と言われることもありますが、宗教の社会学的規定をしておきましょう。
 「宗教とは、人間への全ての自然的影響について、生物として当然にも相互行為する、他の生物によるわれわれ生物への行為、あるいはそれに対応するわれわれ自身の行為、それらの事実認知上の体系化のことを指し、その他の何ものでもない」、というところです。
 この生物の諸行為の認知のなかで、たまたま、「恐れ」が「畏れ」となり、あるいは「恐れ」を権力イデオロギーが「聖」と強弁するだけなのです。
 そんな我々人間の生理的行為が自然に向かって適用されると、アニミズムとなり、また儀礼となるわけです。
 
 解説。
 つまり、宗教の本源は、人間の将来に生ずる不幸の回避なんですね。それ以上のものではないんです。
 人は毎日、こうすればああなる、という行為を積み重ねて生産物を得ているわけです。
 狩猟も然り。作物生産も然り。
 ところが、一生懸命やったのにイノシシには逃げられ、麦は腐り、留守番の妻子も死んでしまう。
 なんで?
 
 自分で解釈しているうちはいいが、歴史の中で首長が(これは良い機会だ)と思って、それはお前が村の決まりを破って遊び狂っているからだ、とか言う。それが体系化される。
 まあ、そんなこんなの過程だ、といっているだけです。
 それがなぜ非合理的?
 そんなことはない。本来の宗教は事実認知なのだから、合理的なのです。
 いったい、人は、「この先は行き止まり」と他人に聞いて、回り道をすることを「宗教」と呼びますか?
 違うでしょ。単に、それは事実と信じただけです。まあ、ウソかもしれないけど、でもとりあえず言うとおりにしよう、っていうかね。
 本来の宗教はそれと同じです。
 上棟式っていうのがあります。家を建てるときはお祭りをしなければ壊れる、と誰かに言われれば、よほど貧乏でなければ、「しょうがない、お祭りをしてもらおう」と思う。それのどこが非合理的な宗教?
 
 もちろん、金目当てに「お祭りをしなさいよ」などとささやく神官が掲げるものは宗教です。しかし、それは人間一般が原初的に持つものではありません。権力とつるんだ「宗教家」の存在形態です。
 「本来の宗教」は、キリスト教その他の支配階級の宗教信者にとっては、すでに神話の世界の話。
 「いわゆる宗教」とは、人間の宗教ではなく、支配のイデオロギー、及びイデオローグの生計の途のことです。
 
 キリスト教、イスラム教は、「政治規範のイデオロギー」なのです。なんら宗教ではない。
 それは、本来、自然全般に適用される擬人、正しくは擬生物の過程を、権力ある「神」なるものだけに適用して、人間的本質を権力に変容させた支配イデオロギーなのです。
 植民地支配時において、よく言われるように宣教師キリスト教は、土着の宗教を取り込んだわけではないのです。
 支配教キリスト教と土着の本来宗教とは、ぜんぜん別個のものであり、支配教キリスト教は政治規範であったため、齟齬なく両立しただけのことです。それはイスラム教でも同じことです。ちょっと違うのは、イスラム教のほうが、対抗権力的支配教だ、というだけ。
 
 人の行為は、将来の設定の仕方に規定されます。
 宗教だとか、実存主義だとか、その他種々の生き方は、これに属することです。
 具体的にいえば、消費物資の入手に追われる時代はその他の観念(活動の所産)は必要ではありません。とくに本来の宗教なんてものは、根源的には消費物資の入手の合間の余暇の将来設定に属するものです。おなかがいっぱいになってふと景色を見たら、死んだ親を思い出した。親にもなんか食べさせたやりたいな。そう思うからお供えをする。それだけのことです。
 このとき賞賛と優越、その他の事情が発生します。
 「俺の親は首長だぜ、お前だって世話になったろ」
 あるいは、生活共同体においては、このヒマさ=将来設定の不確実さの中で、共同体的同一性の確認が生ずることもあります。
 「みんなで酒飲んで騒ごうぜ。今年は豊作だ。作物なんてどうせとっといたって腐っちまうさ。」
 そういう庶民の社会過程を見ながら、支配者は、他にイデオロギー=賞賛も優越もない世界にあって、宗教を巧みに利用し、というよりも自分の賞賛と優越を拡大利用して、ともかくも、こうした原始宗教(本来の宗教)に乗っかって支配の確認を行って来たわけです。

 「いわゆる宗教」の宗派別の教義とは、その時代にあわせた道徳の教義です。
 支配者に絡み取られた宗教は、支配者の賞賛と優越を、娯楽映画のごとく映し出し、その結果、その時代の社会秩序を説明します。
 つまり、「お前の10代前の先祖は神だったぞよ。お前も神にならなくてはな。」
 同じ言葉を民衆に言えば、「お前の王の10代前の先祖は神だったぞよ。お前も神になる王に仕えなくてはな。」
 これが支配イデオロギーの本質です。
 支配者に取り入る、という、私以外の誰だってする行為とは、そのまま論理的に、被支配者を支配する論理なのです。
 
 なぜ、マルキストはこういう事実を広めて批判しないのか。
 被支配者を支配するためには、それは言ってはならないことなのです。前衛主義者の身に返ってくる真理なんでね。

   長くなりますので、ちょっと切ります。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シジフォスの神話

2008-05-18 22:45:25 | 行為
 カミュという一昔前のフランスの思想家の著作に、「シジフォスの神話」というものがあります。内容はネットで検索してもらうとして、かいつまんで言えば、シジフォスさんが神に岩山の頂上に岩を押し上げる仕事を課されてしまった。神は性の悪いことに岩が上がるとまた蹴落としてしまうんですね(そうは書いてないけど)、でも彼は黙々とその仕事を続ける。神に蹴落とされた石を何万回もただ押し上げる。
 人間なんてそんなものだ、という話です。

 私もその本がはやった時分に思春期だったもので、実に納得したものですが、今考えてみると情けない。
 結局それは、資本主義社会で生産労働から離された学生やサラリーマンの生きる姿を表しただけのことでした。
 米作ってる人に、「その米、できたら食べる前に燃やしちゃうぜ」っていったら殺されて当然ですぜ。

 こういうのは、行為の成果が、個人の身体が「離れた」事態を指すわけで。
 結局、行為っていうのは、関係の中に、埋め込まれている。
 資本主義では、本来の行為の失敗の認識の中で、しかしそれを続けなければならないという強制のなかで、その認識も強制されていく。
 まあ、行為者の視点から主体的にいえば、身体から離れた行為のみを続けることができる根拠を認識の中に定めていく、そんな作業をとっていくわけです。
 それは、人間やその他の生物の自然的過程であれば、イノシシを捕りに行ったが捕れずに、行った先の小川の水を飲むしかなかった。それでも住まいの洞窟の中に溜まったドブ水を飲むよりはましだ。明日もこの地域で狩をするしかない。とすれば、イノシシが捕れなくともキレイな水が飲めれば満足するしかない。
 そんな過程ですね。
 「満足」とは行為の将来の確保だから、「キレイな水飲み」が「イノシシ捕り」に変わって行為の将来となるのは、行為本来の過程なのです。
 が残念ながら、それでは早晩栄養不足で死んでしまう。
 その通りに世界中の人が死んでいます。

 前回のからみとして、今回も前回やめるといった行為の話じゃないかって?
 
 今のは行為の原理の話じゃなくて、個別の行為の話なんですね。
 少なくともぼくにとっては、ぼくが生きている、あるいは生きてきた、話です。
 ところが原理には人が出てこない。そんな話を展開しても、それはつまらない。
 つまらないけど、誰かが人知れず従事するしかない、みたいなところです。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お茶飲み話

2008-05-18 22:19:07 | 社会学の基礎概念
 蚊が出てきました。

 とにかくメス系の生物とは仲が良いもので、夜中、痒いじゃん、なんのアレルギーか、と思ったら安心して血を吸われていて、ところがこちらも蚊にはあまり同情がなく、昨夜は幸い押入れにしまわなかった液体ベープに頼ってようやく眠れました。

 そうじゃなくて、前回、「行為」の話に首が入ったので、どうしようかなあ、でも深入りすると面白くないんだよな、みたいなかっとうで迷っておりましたが、1行書いて、後はなかったことにすればいいじゃないか、というところで決めました。
 つまり、行為っていうのは、外的な強制と、その強制をどう認識していくか、たとえば相手に「これに歯向かうと最悪な生活を続けなければならない」と思うか、あるいは「歯向かえば引かせられるんだ」と認識するか、みたいなところで違うんだ、と。
 また外的な強制も「歯向かえば即殺されてしまう強制」と、「うじうじと生きていける強制とは別な種類なんだ」、みたいなことがあるんだ、ということです。

なんて書いただけでつまんないな。
やめてよかった
やめてないか。
 ともかくも、とりあえず、今日思ったことといえば、世の中には「世界中の子供が笑ったときに、空もまた笑うだろう」なんて言葉があるそうで。(朝日新聞にでてました)
 この言葉を造った人の善意はわかりますが、残念でしたね、違います、ということでして。
 子供達は笑うこともできる。明日のご飯がなくて、子供にみんなあげて親がどれだけ腹を空かしているなんて知らないから。
 そうじゃねえよ。
 1日働いて1月10万円、あるいは肉体労働で10万円、あるいは図書館の軽労働で10万円、なんであれ1月10万円で生きている若人を見て、空よ、笑ってくれるなよ。
ということです。
 最近、ガンダダのような年寄りの発言を聞く機会が多くてですね。もう、ふざけんでくれな、みたいなこともあります。
 ということで、別な話題に移ります。

    ( ps.「カンダタ」だって。かもね。原著未確認)



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

よもぎ餅の労働と資本主義

2008-05-05 21:18:43 | 社会学の基礎概念
 子供の日ですね。
 もっとも子供の話は無視して、この時分は柏もち。
 白いのと一緒に、柏の葉の中に緑色のが入ってたりしますが、どうもあれは色彩感覚が悪くないですか?
 ヨモギは別によもぎ餅として食べたい気がします。

 当家辺りでもしばらく前まではヨモギが採れた(摘めた)のですが、いつの間にかそんな空き地もなくなってしまいました。
 まあ新宿まで30分ですので。

 で、今日は、よもぎ餅の話。

 世の中、よもぎ餅を作る仕事と、京名物よもぎ餅 「奥嵯峨」 を作る仕事がありまして。
  って、「奥嵯峨」なんて知らないんですけどね。『京都・和菓子』でyahoo検索したら一番で出てきたもんで。

 今日は、この2つの仕事が、似ているようでぜんぜん違う、というテーマです。労働には3種類あるんですね。

 うちのような田舎の人間がよもぎ餅を作るのは、甘くて美味しい物を食べたいからでしょうね。
 それは食べることで完結する。まあ、できればみんなで楽しく食べられたらもっといいですけどね。仲の良くない義父のたぐいがむっつりして食べても、まあ、仕事としては完結してます。
 
 ところが和菓子屋さんはそうではない。子供が「奥嵯峨」に手をつけたらドヤされるくらいじゃすまないんじゃないですかね。
 こういう仕事は、物を作るから純粋な生産労働に見えるけれど、そうではない。
 それらはまず、売れなければいけない。
 
   (なんだ、また「商品労働」の話か、と思わないでください。今日は、「奢移労働」というものの話です。)

 奢移労働(贅沢品を作る労働)っていうのは、典型的にはサルタンの宮殿の料理人、近世ドイツの陶芸人、どこにでもいるドレス作り人、なんかの仕事のことですね。別に売れなくたって、それは奢移労働なんです。商品でなくてもいい。
 そんな彼らの仕事は、純粋な生産労働に見えてそうではない。本当は、料理一般は「最高級」と呼ばれる必要はないし、陶芸であれドレスであれ別に使えればいいし着られればいい、はず。
 でも、彼らの仕事は、製品の製作で完了するわけではありません。その作品が権力者によって賞賛されなければ完結しない。
 そうした偏頗な(偏った評価を受ける)労働です。
 一見、物質的な労働に見えるけれども、実は精神的な、人間と人間との関係的な、心の中を通してようやく完結できる幻想的な、労働なのです。

 で、それは「よもぎ餅労働」とどこが違う?
 実は、生理性を超えた労働とは、行為の原理からして、賞賛と優越を行為の要因にせざるを得ないのです。

 以前に「疎外」について、疎外の意味は2通りあり、
 その1は、「行為論的に、自分の無力や、自分と他者との関係のなさによって自己の将来が獲得できない」ことを指し、これは普遍的に生ずることだ、といいました。(その2は、以前のテーマでしたね)
 が、これは日常的には普遍的に生ずるのですが(たとえばよもぎ摘みから帰ってくるときに、かわいい猫がいたとして、猫に手を振って無視されると疎外的になります。って、ちょっと本質的すぎましたか?)
 労働のなかで普遍的に生ずるのは、「自己疎外論者」のような周辺の思想家ではなく本来のマルクス主義者が述べてきたように、資本主義経済の中において、ということになります。
 ただし、その理由はマルクス主義者が述べてきた理由ではありません。
 
 奢移労働の生産結果が奢移品と同じく扱われることと同時に、その労働結果「奥嵯峨」は、私の作る「田舎よもぎ餅」と違って、カネによって替われなければ捨てるしかない消耗品であり、資本主義的景気変動を受け、同じ奢移品の「奥球磨」や「奥河内」や「奥大和」の生産(そんなのないですが)にたずさわる100人の奢移労働者のうち、奢移の象徴である某1種「奥嵯峨」以外は不要である、と結果認識されることになります。それは結果認識ではありますが、不可避なことでもあります。

 一方、資本主義下での全ての人間と同様に、一流品の生産者もまた「同じ労働者」であることです。
 というよりは奢移労働者がその他の人間の代行と化すためには、つまり時の名手以外が話のタネにするような話題性を持つためには、その生産者が擬似的な労働者であることが必須でもあるわけです。労働者が彼の人生の中の「同じ」部分として投影するための「労働者性」(および憧れとしての資本家性)が不可欠なのです。
 もともと、奢移労働は自体は無駄な労働にあり、なくとも誰も困りません。商品としての「草餅」があれば、一流品などいらないのです。
 しかしこれが経済システムに繰り込まれるとそうではない。
 この前段で、繰り込まれる背景と繰り込まれる結果というものがありまして、資本主義は、人を「全的労働」から引き離す。
 それは本来的に人間にとって全的な労働であった保証はないのですが、とにかく、そこから引き剥がされたとき、人はそれまでの不十分な環境をさえ「全的」と評するものです。もっとも評するのは、たかだかそれまでいい暮らしをしていた地主階級だけですけど。
 ま、それはおいて、資本主義システムの中で、ただの一群の草餅労働者とは別に、奢移労働を代行する一群の小企業者または賃金労働者が発生します。
 このとき発生して成立した奢移労働の代行は、奢移労働者にとって見れば一つも奢移労働ではありません。
 しつこく私が言う、ただの商品労働です。
 ただ、奢移労働は、人間がみるだけの追体験、資本主義的評価の発生という現象の基礎を形作ります。
 もちろん、奢移労働自体も「なす」という幻想を作るものです。
 つまり、奢移労働者が得るものは、脳内イメージによる賞賛とそれが持ち運ぶ記憶の中の優越であること。(トップだけは具体的にカネを手に入れますけどね)
 そしてそれは爛熟した資本主義的第3次産業では普遍的な幻想の労働と同じ経過をたどることになります。
 

 まとめです。
 奢移労働は、人の賞賛を得なければ、行為の完結を、つまり満足を、得られないこと。
 そしてそれは、他の第3次産業でも同様な幻想商品労働であること。 
 こうして爛熟した資本主義の中では、人は幻想の中に住むことで、「何者か」でなくてはならない観念=他人の評価の中での観念に、強迫される。それが、自分の行為の一瞬先の将来の幻想だからです。
 
 
 さてはて、話はまだ続きまして、元に戻しまして、労働には3種類ある、という話でした。
 先のよもぎ餅の意義にちょっと引っかかった人、そう、私はちょっとごまかしましてね。
 今の世の中でよもぎ餅を作るのは、別に美味しいものを食べたいわけじゃない。家族に美味しいものを食べさせたいからなんですね。子供がほっぺたの落ちそうな顔をさせてお餅をかぶりつくのが見たい、それが本来の奢移労働なのです。
 本来ってなんだ?
 くだらない問いかけですね。
 私は単に「そう思いませんか?」といいましょう。
 子供に喜んでもらうのと、偉そうな顔をしてるだけの御簾の先の王様が喜ぶのを見るのが、同じだ、と思うお子ちゃまと話すほど暇じゃござんせんね。ねえ、サラリーマンの皆の衆。
 本質的には、生理性の最低限をクリアした段階では、自分の行為によって生理的に具体的な人間の反応をこの自分の身体で体験する、これが奢移=ぜーたくです。最低限の後には、「好悪」に代表される生理性が残っているわけです。
 
 人間の労働には3通りある。
 生理的に必ず果たさなければならない労働と、
 目の前にある人間や生物とに、身体的な関係を結んでいく労働と、
 幻想の中で、生理性や身体的な関係を追体験するだけの労働と。

 本当の贅沢は、2番目です。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする