リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

次回作構成予定(その6 書名再発表)

2024-06-22 20:23:29 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。東京地方、いよいよ梅雨の始まりとか。外勤の方はお疲れ様です。内勤の方はびしょ濡れ通勤ウェアの処置にご留意を。今日はいい天気だったけど。

 軽いニュースで、さて、東京は
「首都決戦、最多56人届け出=小池都政の評価が争点―都知事選告示」(時事通信)
 この大量受験のどこぞの党派、意図はどうでもいいけど、いったい供託金300万×人数を誰が出すのかねえ、、全部ふんだくられるのに。世の中わかんない奴のことはぜんぜんわからない。
 
 次。
 朝日新聞で、木下龍也という「気鋭の歌人」がAI短歌を褒めていた。
 AI短歌の例
 
    「同棲」なんて名前をつける前からあなたは私の中で住み着いていた

 いかが?
 木下先生「震え上がった」そうです。わけわかんね。
 はあ? だから何? そんなもんが「短歌」か。
 詩の中の1行にもならない。ただの気の利いたキャッチフレーズ。
 哀しいもんだ、いまどきのひとにはもう自分の心を歌う詩など必要ないんだね。
  (p.s. 関連が翌日にあります)

 次。
「米国の原爆開発計画「マンハッタン計画」を率いた科学者で「原爆の父」故ロバート・オッペンハイマー博士が米国で被爆者と面会した際、「涙を流して謝った」と立ち会った通訳が証言する映像が見つかった」
「涙ぼうだたる状態。『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と謝るばかり」
(共同通信)
 別に他意はありません。ただ単に、オッペンハイマー、いい人だったと教えたくて。

 次。
「富士通、一律初任給廃止へ ジョブ型新卒、40万円超も」
「仕事の内容や役割に応じて処遇する「ジョブ型」雇用を本格導入すると発表した。高度な専門性を持つ学生らには入社時から相応の給料を支払い、優秀な人材を確保する狙いがある。初任給で現在20万円台後半の基本給が、40万円を超える可能性もあるとしている」(共同通信)
 富士通は新卒全体対象だってさ。NECチャンスだ! 旧来雇用対象で良き日本人の新卒がやってくるぞ。

 なんてね。今日は前の職場の内輪同窓ランチで昼酒のうえ帰り遅かったから、メモのようなもの。
 ようやく年寄り連中も、おおっぴらに会合ができるようになりました。なんていってると、コロナのバチが当たるけどね。
 以下、本題は予定稿で、貼るだけ。

 さて、 HPご訪問の方はごぞんじのように、先月以降、題と内容の方針が変わりました。
 図書検索しててどうも次回題(予定)が陳腐なことに気づいたってわけで。
 「反国家」はいいとして、「〇〇の政治経済学」の多さと言ったら、驚異的。これは流行りに乗っかるようでみっともない。
 さらに、感心しない勉強家の新刊に「福祉国家の基礎理論」なる題の本があって、この構成がamazonによるとわたくしの構成予定と同じになってたりして。読んでませんがその他の情報を重ねると、要するに勉強結果を集めたものにしか見えなくて。まあ学者本。
 で、とにかく、
  1 〇〇の政治経済学はやめました。
  2 序論の存在は仕方ないとしても、 
       (1)政治経済学
       (2)経済学批判
       (3)国家規定
       (4)運動
    の組立もやめました。
 
 新題。
 「反国家の経済社会学」 
      ー体制内視点の経済学論理を突破するために

 〇〇の経済社会学というのはめったになくて。
 ただこれじゃ「経済学批判」からは遠いな、とも思うのですが、結局経済学者が読んだってどうせ理解できっこないはなしだし。(「社会経済学」になると経済学者のテリトリーのもよう。当然といえば当然。) 
 で、副題に経済学批判を匂わそうとして。本日は副題の解説です。
 
【体制内視点】
 さて、体制とは何か。
 支配社会における行為の原理・原則にとって、体制とは、権力階梯です。権力階梯に行為の原理と原則が集約されているのです。
 つまり、権力の上位から連なる、武力、消費物資という生理性の確保条件、これに則って、賞賛・優越がセットされ、これに対応して「反」権力の標榜であることによる対抗権力の賞賛と優越がセットされる。行為共同性は、各権力の階梯と、階梯を進まんとする者の間のそれとでセットされる。
 この権力階梯がもたらす行為者の志向性について、彼の意図を問わず、存在前提的に設定される視点が、体制内視点です。この権力階梯内の自己を否定することなく志向した結果の視点です。
 
 ここで間違えやすいのが、権力階梯を否定していれば、それは体制外視点だ、という発想です。
 確かにそれは本質的否定であれば体制外視点と言えるでしょうが、現実はそうではない。権力階梯の否定の「言辞」は、すべての人間の一瞬先の未来に開かれてます。階梯トップの支配者も、支配調整に疲れた次の瞬間には、「ええい、こんな世界壊れてしまえ」と叫ぶかもしれないし、それは容易に想定される事態です。しかし、支配者彼の視点は、相変わらず、権力階梯の中にある。中にいて、「壊れればいい」と口だけで言っているのです。
 
 およそ、一連の言辞を表現する視点とは、その授受者にどんな行為論的意味=価値を再構成させるのか、によってレッテルづけられなければならない。
 つまり、体制外視点とは、授受者がその表現を再構成しても、その再構成において授受者の内部の権力階梯の認知が否定されるものでなければならない。

 例示します。
 第1に、その表出が、国家の価値に寄与するものは体制内視点です。国家とは権力階梯そのものだからです。「国民」の安全を述べる言辞です。
 第2に、その表出の内容が、権力階梯の存在に寄与するものは体制内視点です。会社の繁栄を志向する言辞です。「内容」と付加した理由は、この場合、関連する様相が数え切れず存在するからです。
 さてさらに、重要な付け足しがある。
 社会内の表現は、すべて権力階梯によって評価される。さらにこの評価が世俗の表現の趨勢につながります。教育機関、たとえば大学での位置や学術発表。マスコミュニケーション、たとえば出版の可否。テレビへの出演の可否。この「制度」を支えるものが、要素としての表出物です。
 従って、第3に、その表出の内実が、自己の社会における権力階梯の上昇とセットになっているもの。ここで「内実」は、「何と言おうが結局は」というニュアンスを含んでいます。

 従って、現存するすべての「経済学」は、体制内視点です。
 

【史的唯物論の視点】
 ついで史的唯物論です。
 どう構成しようがそれは基本的には論者の知的水準の低さを表すだけですが、しかし、原理的にはここでも視点というものがあります。
 マルクスいわく、「自然史的過程」。 
 ここでは自然史的過程概念にかかわる暇つぶしの論議に立ち入るつもりはまるでありません。そうではなくて、歴史を自然史過程と言い切って何も思わないマルキストの話をするのです。
 つまり筆者は自然史的過程などありえない、といいたいわけではない。エンゲルスが主張するように、自然史的過程と捉えることが虚偽なのではない。しかしそれはマルクスに引きずられた非人民的な視点だ、ということを述べているのです。これも「人民に反対する意見だ」という意味ではない。自然史と規定することで、人民の理解から遠く離れる、といっています。人民の理解は「じゃあほっておいていいんだな」です。往年のマルキストは、いやそうじゃないんだ、ってさんざん言い訳をして疲れたことでしょう。ほっといちゃだめです。行為主体は、人民です。なにが自然史か。

【本題の意味するところ】
 もちろんこの区別は理論それ自体が独立に示す内容のことをいっています。
 そして権力階梯視点の理論は、必ず、究極的に国家を前提としています。すなわち、誰が支配者となろうが、体制の保持を内在しているのです。
 
 ついで、「理論」なる価値物は、価値物としての存在が社会に影響を及ぼすことができます。権力階梯に由来する賞賛と優越は、体制内視点のものについてはその存在の保持を通して、その保持者の権を受信者に映らせることができます。
 だから体制保存的だ、というのではありません。
 たとえば、史的唯物論は、そこに反映されているとその時代の評者がいう「ダーウィン主義」を通してその時代、その社会で認定された権威=権力の衣をまとうことができます。
 それは視点が社会で認定されている、という条件の下の結果です。
 同様に、資本論も、それが社会で認定されているアカデミズム社会の権威を継いでいるがゆえに、権力者とその仲間が認める権威=権力の衣をまとうことができます。
 これは対抗権力としては有効です。

【体制外視点】
 では体制外視点とは何か。
 その視点をとることで権力階梯の維持につながらない視点です。
 国家の維持にも、企業の維持にもつながらず、従って、その表現を再生産しても権力階梯内の上昇につながらない視点です。
 さらにこの視点は、それにとどまらず、体制外という1点において、被支配者の解放への道を提示する資格を持っている。そのまま表現を再構成しても、どこにも権力階梯を保存する契機がないからです。
 ここからは既に先月来3回に分けて書きました「概念的把握」批判の内容に続いていきます。

 、、、だけどね、

 実は非権力的な=非体制的な場でしゃべったことは、内容はいくら良くとも、一発芸のようなもので、それっきりで終わりなのね。
 じゃあちゃんと本にでもすりゃあいいって?
 ところがだ、人は、こういえば他人はわかってくれる、こういえば他人は賛成してくれる、こういえば他人はこの表現物を購入してくれる、という3段階の階梯をクリアしつつ表現するわけ。
 これは形式社会学的な人間の定めなの。この定式を時代に当てはめなければ、「理論作業」なるものを疎外された人民大衆もいるはずの世界に広めることなどできはしない。すべてが支配階級の回路をたどり、あるいは、支配階級中で対抗階級に「落ちた」人間の回路をたどらざるを得ない。ま、もちろん、マルクスのことをいってますが。
 
 これが矛盾なのさ。どう世間の流行りに乗りながら、実質、体制外を貫いていくか。
 しかも風呂で考えると湧き上がる論理を風呂上りまで覚えているのは至難の業。
 当家の風呂場には、いくつもの最高級のアイディアが落ちています。


 
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