こんにちは。東京地方、昨日は土砂降りの雨が通って行きましたが、今日明日は晴れ、明日は32度とのこと。そのぐらい気温が上がったっていいけど、蚊だけは出てきて欲しくないものです。
世間はどうも浮かれようとしているようで、田舎道じゃあマスクしていない人々がぞろぞろ。
いいのかねえ、少なくとも川崎市は連休前レベルからそうは減ってないのに。まあこの辺で道端でしゃべる相手といっても、キチョウかキタテハくらいだけどね。わたしゃ前から外してる。
さて、ネット情報に一言
・「「さすが海外…!」アメリカの道端で見た、“ワイルドすぎる掃除方法”が衝撃!」
「ホコリが舞うのも気にせず、(落ち葉を風で吹きとばすという豪快な掃除方法にビックリしたあにらむさんでした…!」(マンガ views)
そか、知らなかったのか。日本でも相当普及してるのだけれど。
そもそもわたしが一番初めに落ち葉ブロワーを見たのは、10年ほど前、ついでに行った靖国神社の落ち葉清掃。
いや上記作者が、さすがアメリカ、なんていうものだから。右翼が一番日本的と言うはずの靖国神社で、豪勢に吹き飛ばしてましたぜ。
・「国民民主、補正予算案も「異例」の賛成 今回は前原氏も「総合的に判断」」(京都新聞)
あさましいの一語。そんなに自民党が好きか。もう政治家辞めろ。
・「日本赤軍の重信房子・元最高幹部が出所 反省と謝罪つづる手記公開」(朝日新聞)
あさま山荘じゃなくて、パレスチナで過ごしてきたその前の世代の幹部。
若人も御中年も知らないでしょうが、この人はすごい。頭のいい人間はいくらでもいるが、人間のレベルが違う。田中角栄に匹敵する。
人殺しだ?
彼女の言、「ウクライナの人民のロシア侵略に対する斗いが、『英雄的』ならば、パレスチナのイスラエル侵略併合に対する斗いもまた、『テロ』ではなく英雄的斗いであると知ってほしい。」と。
ほうらおっしゃるとおり。日本も世界も、大衆はだれもかれもがそんなレベル。
彼女(殺人犯ではない)を人殺しと言えるのは、論理上、私くらいのものじゃないか。
それはいいとして、ところが病気にはなりたくないもので、重信氏(ガンで闘病して)、これからはと聞かれて「能力的にも肉体的にも私に出来ることはない」そうな。まだ76歳、そんな発言は昔の彼女にはありえやしない。情けないことです。
昨日は頭がひりひりして皮膚科に行ったのですがヘルペスと言われて、えー、そこまで痛くないしと思ったのですがお年頃で。で、待合室で待つ間、2歳位のガキが隣の席や床で2,30分したい放題暴れまくり、にもかかわらず、何の意にも留めず読書にいそしむわたし。坊主がものに動じないというのは、単に年齢でボケているのだ、ということがわかりました。
さて、本題。
その読んでた本が松本健一「原理主義」という右翼思想の研究家の本なのですが、
思想史というのは、Aという人の考えから自分の関心ポイントを抜き出して、それをBという人以下で同様にした例と一緒に、ビーズ玉に糸を通して腕輪を作るかの如くまとめ、その出来栄えを競う学問です。
(うん、なかなか正しく表現した)。
なので、現象の学。そこから立言をされても困ります。
例:1979年、民社党の和田耕作(1907年生)が「国にたいして、つまり体を張って守っていくとかいう感じが一番少ない。問題にならないほど少ない。、、、国を大事にしなければならぬという言葉がどこにもない、、、法律の文言にもなければ学習指導要領にもない」と言った、と。
で、これは「”経済大国”の日本それじたいが肯定すべき「原理」として掲げられようとしているのだ。」だと。
いやああ、それは無理でしょ。これはただのナショナリズム。
民社党というのは今の国民民主党。(うん、これも正しい)
思想史家松本としては、現在の日本大衆の生活エートスは経済大国=経済の安定だ、とつなげたいからそういうのだけれど、そういう無理が思想史家にはついて回る。松本氏は決して頭の悪い人ではないんだけどね。
ここでは正しい定式化をしておきましょう。
イデオロギーにはそれ自体の運動形態があるのです。すなわち、当該イデオロギーが所属する陣営の権力に奉仕する方向で変態する。
もちろんイデオロギーを担うのは個人だから、「その政治陣営内の個人がイデオロギーを進展させる」といっても誤りではないのですが、ただ、それが現象論なのです。
それは個人が思想に則って語り出すものではなく、個人が環境の、行為論的要請に則って、しゃべり出すものなのです。だからそれは政治陣営内の誰がしゃべってもよい。個人行為者の問題ではないのです。
しかも、口に出すのは早い者勝ちです。しかして恥も外聞も関知しないパーソナリティの者がそれを受け持つ。
もともとイデオロギーは、自己への肉体力の集約を求めて、その言辞を広げよう、易しく説こうという性向を呈します。
ただその費やす努力には残念ながら、この勝利を決めるものはイデオロギーの価値ではなく、行為者がそう動いた瞬間に見せつけられる未来の、生理性と行為共同性における賞賛と優越なのです。ここで生理性とは経済的利害というよりは、直接の肉体的生存です。
この件が広範にみられるのは権力陣営の広範さから、とりわけ右翼対象なのではありますが、左翼でも同じことです。なぜか。行為論だからです。左右で違うのは、個人行為者が活用する環境要因だけなのです。
さて、この基本性質は、イデオロギーが奉仕している集合性の危機の大きさに応じて、増大します。支配者の一が危ういからです。それは政治支配者に限らない。生産共同体内においてはすべての支配の甘い汁を吸っている成員の特権上の危機があります。
そこで、ある場合において支配権力も大衆の肉体力を取り込まざるを得ない時は、この強化の際に、その時点で大衆の持つ賞賛と優越を自己の支配イデオロギーに取り込む。例えばファシズム期です。ここに松本の言う「原理」が有効になる契機があるのです。
元に戻って、民社党の件。
とりわけ、権力のない弱小政党が偉そうな顔をするためには、政権支配者に対抗する権力(=日本共産党)を敵とする立ち位置(日本語で(比喩的にといっておこう)番犬という)を明確にし、政権支配者のエートスを、つまり賞賛と優越を、自己のものとしなければなりません。
しかしそれは大衆のエートスではない。大衆のエートスでないから大衆に無視をされた。政治的に政党の存在価値を確保したとはいえ、以後40年間無視をされ続けているのはそれが「原理」ではなかったからだ、というのは論理的帰結です。
思想史というジャンルは、どうにも芸術的出来、不出来の問題なのです。
追加:
・「弥生人そっくりさん」グランプリ決定 大阪府の吉田昌弘さん35歳」(毎日新聞)
なにをいってんのさあ。二重、面長、濃い眉の弥生人なんているものか。
世間はどうも浮かれようとしているようで、田舎道じゃあマスクしていない人々がぞろぞろ。
いいのかねえ、少なくとも川崎市は連休前レベルからそうは減ってないのに。まあこの辺で道端でしゃべる相手といっても、キチョウかキタテハくらいだけどね。わたしゃ前から外してる。
さて、ネット情報に一言
・「「さすが海外…!」アメリカの道端で見た、“ワイルドすぎる掃除方法”が衝撃!」
「ホコリが舞うのも気にせず、(落ち葉を風で吹きとばすという豪快な掃除方法にビックリしたあにらむさんでした…!」(マンガ views)
そか、知らなかったのか。日本でも相当普及してるのだけれど。
そもそもわたしが一番初めに落ち葉ブロワーを見たのは、10年ほど前、ついでに行った靖国神社の落ち葉清掃。
いや上記作者が、さすがアメリカ、なんていうものだから。右翼が一番日本的と言うはずの靖国神社で、豪勢に吹き飛ばしてましたぜ。
・「国民民主、補正予算案も「異例」の賛成 今回は前原氏も「総合的に判断」」(京都新聞)
あさましいの一語。そんなに自民党が好きか。もう政治家辞めろ。
・「日本赤軍の重信房子・元最高幹部が出所 反省と謝罪つづる手記公開」(朝日新聞)
あさま山荘じゃなくて、パレスチナで過ごしてきたその前の世代の幹部。
若人も御中年も知らないでしょうが、この人はすごい。頭のいい人間はいくらでもいるが、人間のレベルが違う。田中角栄に匹敵する。
人殺しだ?
彼女の言、「ウクライナの人民のロシア侵略に対する斗いが、『英雄的』ならば、パレスチナのイスラエル侵略併合に対する斗いもまた、『テロ』ではなく英雄的斗いであると知ってほしい。」と。
ほうらおっしゃるとおり。日本も世界も、大衆はだれもかれもがそんなレベル。
彼女(殺人犯ではない)を人殺しと言えるのは、論理上、私くらいのものじゃないか。
それはいいとして、ところが病気にはなりたくないもので、重信氏(ガンで闘病して)、これからはと聞かれて「能力的にも肉体的にも私に出来ることはない」そうな。まだ76歳、そんな発言は昔の彼女にはありえやしない。情けないことです。
昨日は頭がひりひりして皮膚科に行ったのですがヘルペスと言われて、えー、そこまで痛くないしと思ったのですがお年頃で。で、待合室で待つ間、2歳位のガキが隣の席や床で2,30分したい放題暴れまくり、にもかかわらず、何の意にも留めず読書にいそしむわたし。坊主がものに動じないというのは、単に年齢でボケているのだ、ということがわかりました。
さて、本題。
その読んでた本が松本健一「原理主義」という右翼思想の研究家の本なのですが、
思想史というのは、Aという人の考えから自分の関心ポイントを抜き出して、それをBという人以下で同様にした例と一緒に、ビーズ玉に糸を通して腕輪を作るかの如くまとめ、その出来栄えを競う学問です。
(うん、なかなか正しく表現した)。
なので、現象の学。そこから立言をされても困ります。
例:1979年、民社党の和田耕作(1907年生)が「国にたいして、つまり体を張って守っていくとかいう感じが一番少ない。問題にならないほど少ない。、、、国を大事にしなければならぬという言葉がどこにもない、、、法律の文言にもなければ学習指導要領にもない」と言った、と。
で、これは「”経済大国”の日本それじたいが肯定すべき「原理」として掲げられようとしているのだ。」だと。
いやああ、それは無理でしょ。これはただのナショナリズム。
民社党というのは今の国民民主党。(うん、これも正しい)
思想史家松本としては、現在の日本大衆の生活エートスは経済大国=経済の安定だ、とつなげたいからそういうのだけれど、そういう無理が思想史家にはついて回る。松本氏は決して頭の悪い人ではないんだけどね。
ここでは正しい定式化をしておきましょう。
イデオロギーにはそれ自体の運動形態があるのです。すなわち、当該イデオロギーが所属する陣営の権力に奉仕する方向で変態する。
もちろんイデオロギーを担うのは個人だから、「その政治陣営内の個人がイデオロギーを進展させる」といっても誤りではないのですが、ただ、それが現象論なのです。
それは個人が思想に則って語り出すものではなく、個人が環境の、行為論的要請に則って、しゃべり出すものなのです。だからそれは政治陣営内の誰がしゃべってもよい。個人行為者の問題ではないのです。
しかも、口に出すのは早い者勝ちです。しかして恥も外聞も関知しないパーソナリティの者がそれを受け持つ。
もともとイデオロギーは、自己への肉体力の集約を求めて、その言辞を広げよう、易しく説こうという性向を呈します。
ただその費やす努力には残念ながら、この勝利を決めるものはイデオロギーの価値ではなく、行為者がそう動いた瞬間に見せつけられる未来の、生理性と行為共同性における賞賛と優越なのです。ここで生理性とは経済的利害というよりは、直接の肉体的生存です。
この件が広範にみられるのは権力陣営の広範さから、とりわけ右翼対象なのではありますが、左翼でも同じことです。なぜか。行為論だからです。左右で違うのは、個人行為者が活用する環境要因だけなのです。
さて、この基本性質は、イデオロギーが奉仕している集合性の危機の大きさに応じて、増大します。支配者の一が危ういからです。それは政治支配者に限らない。生産共同体内においてはすべての支配の甘い汁を吸っている成員の特権上の危機があります。
そこで、ある場合において支配権力も大衆の肉体力を取り込まざるを得ない時は、この強化の際に、その時点で大衆の持つ賞賛と優越を自己の支配イデオロギーに取り込む。例えばファシズム期です。ここに松本の言う「原理」が有効になる契機があるのです。
元に戻って、民社党の件。
とりわけ、権力のない弱小政党が偉そうな顔をするためには、政権支配者に対抗する権力(=日本共産党)を敵とする立ち位置(日本語で(比喩的にといっておこう)番犬という)を明確にし、政権支配者のエートスを、つまり賞賛と優越を、自己のものとしなければなりません。
しかしそれは大衆のエートスではない。大衆のエートスでないから大衆に無視をされた。政治的に政党の存在価値を確保したとはいえ、以後40年間無視をされ続けているのはそれが「原理」ではなかったからだ、というのは論理的帰結です。
思想史というジャンルは、どうにも芸術的出来、不出来の問題なのです。
追加:
・「弥生人そっくりさん」グランプリ決定 大阪府の吉田昌弘さん35歳」(毎日新聞)
なにをいってんのさあ。二重、面長、濃い眉の弥生人なんているものか。