リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

主語の有無の行為への影響

2008-06-25 20:56:31 | その他
 今日は風呂に体を沈めると、窓から山の匂いが。
 (当家は旧式のマンションなんで、ボロい代わりに風呂に窓がついてたりします)
 夏も近いですねえ。

 さて、『英語にも主語はなかった』(金谷武洋・講談社)
 という本がありまして、わたし的には英作文の勉強の流れで(あるのは知ってたんですが買うほどでもないので、たまたまあった図書館で借りて)読みまして。
 内容は、
『日本語は「虫の視点」で、英語は文に「主語」を作ったので「神の視点」となり、英語圏人はそういう行動をする』
 といった話です。
 わかんないですよねえ。
 (以下、ちょっと分かりにくいと思うので、その辺よろしく)
 この本についてのどなたかの amazonレビュー(?)をコピーしますと
 
【虫の目、鳥の目、神の目 (2004-02-01)

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という「雪国」の書き出しは、英語では the train を主語にするという。英語による表記に基づき、絵を書かせると英語話者は飛ぶ鳥が汽車を見下ろしたような絵を書くという。

 日本語の原文は、鳥の目ではなく、「私」という虫の目から見た情景とそれに触発された気持ちの表現である。私が歩いていようが汽車に乗っていようが同じだが、歩いてトンネルを抜ける人は普通いないので、汽車にのっていることがおのずから分かる仕掛けになっている。】

 ま、そういうことで、ってひどいか。
 日本語では、文を話す主体がいつも現実の人間の立場にいるでしょ。
 英語では、行為者の立場にいなくて、外から人間を見下ろして話すって趣旨で。

 ネットで繰ってみますと分かりますが、他のamazonレビューではずいぶんけなされてますけど、これはこれで、娯楽本と思えば別にけなすほどのもんじゃなくて。基本的には間違ってないし。
 いや別に読まなくてもいいですけどね。
 
 で、一般に問題は、金谷武洋という人の話では(基礎は三上章という人の日本語文法論なんですが)、この英語の神の視点どおりに英語圏人が行動する、という点でして。
 まあ、この本を娯楽本と受け取らない人は少ないと思うので、理論上出るという問題に過ぎませんが。
 で、この点以外は良い本だとは思うんですが、「人間は、どんな言語を操る人間だろうと、同じように行動する」というのが行為論的社会学の基本テーゼですので、そんなことを言われちゃ困るんですよね。
 しかして、これは間違っている。
 トンネルを抜けると雪国だった、って状況は、行為者個人にとってはおんなじでさあ。
 あたりまえだあね。
 後でそれを回想するときも、日本人であれ英国人であれ、同じ回想をする。
 あたりまえだあね。
 同じ状況なんだから、おんなじように反応するのが人間です。ウソだと思ったら西洋人の小説を読んでみてください。どこも日本人と(自分と)違っとらんですよ。

 しかしながら、英語と日本語は同じ表現をするか?
 いいやしない。これはおっしゃるとおり。
 もともと言語に主語などない。
 おっしゃるとおり。
 人間の行為に主語などいらない。主体が誰かなんてことは発声時には分かってることだから。
 しかし、現実には英語では主語を使う。そこは、そういう分化をした言語なんだからしょうがない。
 
 では何が違うか。
 それは行為者にとって、赤ん坊時代に、状況をどう言語化するか、という規範が違うわけですが、その結果として情報想起のセットが違うはずでしょう、ということです。
 事実認識において、影響はわずかかもしれないけれど、確かに物事の動きの中に人間が介在してしまう。
 これはまずは神の視点ではなく、行為する人間のイメージの視点であり、そこに、主語有り言語圏では人間的(人間のような理不尽な行動をする大人気ない)神がいつまでも歴史の底に消えていかない理由がある、ともいえないわけではないかも。
 
 たとえば、初めに「アイ (I) know」といわれれば、聞いた人間としては、相手と人間一般を巡る状況への想起神経回路が準備される。もちろん、想起神経回路は乳児期より「アイ」についてセットされている。同様に、「ユウ (You) know」といわれれば、初めに自分と人間一般を巡る状況が頭の中に準備される。その後に「the answer」といわれれば、答えを知ってる相手がトータルで想起される。
 日本語では、相手が「答え知ってる」といえば、目の前に存在し続ける物体について、新たに「人間一般が知ってる」という状況が追加される。このときには「I」という一般は相手の中には存在しない。
 あるいは、相手が「答え知ってるでしょ」といわれれば、単純に「自分が知っている状態」が検索される。このときには「you」という一般は自分の中には存在しない。
 つまり、主語なし言語圏人では、状況をポンと前に置けば、みんなが同じ立場でそれに対応してくれるはずなのです。
 こうして、思考に「I」や「You」のない、シンプルな自然的状況人では、主語有り言語圏人の神のような自分に向かって行為する抽象性は頭の中に存在しない。自然に懼れがなくなる時代には、父や母の抽象性でしか存在しない平和な宗教が残るだけ、という理屈になるかも。
 
 まとめていうと、 I や You や It が、必ず動詞(という状況をイメージさせる語句)とセットされている英語人と、ただの(動詞という)状況語をその時々に使うだけのその他の言語人とは、一人考えをするときにも想起するイメージが違う可能性がある、ということで。
「さてこれから考えごとをしようか」と思うとき、私などは、これから前に座るデスクトップパソコンしか思い浮かべませんが、英語人なら「I'll study」と思うとき、「I」とともに「I」にまつわる全ての動詞 (のうち、日常的に重要なもの、たとえば「You must、 You must」といい続ける神父) がセットで想起されることもありうることです。てゆうか、現実には児童期に、そうやって「I」のセットを頭で作らされてしまってる、わけでしょうね。

  というわけで、せいぜいそんなもんだけど、そんなものがどれだけ影響があるか、これは社会学ではなく心理学レベルで実験調査すればそれでたくさんな気がします、というのが結論です。
  
  
  それにしても我ながら、主語のない文章ですね。じっさい、主語なんているはずないですよね。


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世界システム論派の意義

2008-06-22 22:06:57 | 歴史への視角
こんばんはの2。前回の続きで。

 世の中、市井に生きておりますといろいろ予定にないことも多く、いや市井ならずとも学生さん以外ではまずは予定外でも済まさなきゃいけないことが多くあるわけですが、要するに、「時間不足につき思考不十分」という言い訳で。

 で、産業資本主義ですが、これは前々回ですね、
 この20年ぐらい(うへっ、おじさんだね)経済学ではレギュラシオン派という一派がでてきまして、「世界資本主義システム」という見方が大事だと唱えてらっしゃる。

 資本主義が世界的なのは、マルクス主義的には当たり前なのですが、残念ながらマルクス経済学者の怠慢で、それまで (もそのときからも) 何一つ、完璧に実績がなかった。そこへ突然社会学者が言い出してきたものなんですが、マルキストからみれば個別の論理はたいしたレベルのものではないし、主唱者のウォーラーステイン (趣のある名前と思いません?) という人自身も 「別にこれが正しいとかじゃなくてこういう見方が必要なのに誰もやってないからやる」 という、冷静な人なわけではありますが(冷静だけどいい人なのでウケる、ということもありそうですが)、実際、マルキストとしては掛け声ばかりで誰もやらなかったんだから恥ずかしい限りでしょう。ときどきあったマルキストの「世界資本主義」なんて名称の書物は、国家間貿易、金融交易しか書いちゃなかったですからね。

 で、わたし的には、くだらないなあ、とシンプルに思っていたんですが、でも「国民経済の成立」という概念は、「世界経済システム」という論理のセットをしないと展開できないよなあ、と思ったところです。

「国民経済」って、資本主義がどのように人間を規定するか、について、ある民衆にとって、それはまずは、国家としてどのように資本主義を扱っているか、という問題になる。この時点では資本主義は世界資本主義なんかではないのです。しかし、国民経済としては世界経済による規定性を受けざるをえない。さてそこで、その世界経済は自由気ままにふらふらと動いてきたのか、というと、そうではない。ウォーラーステインさんの言うように、そりゃ世界経済システムだ。世界資本主義システムではないですけどね。
 そこでですね。私には時間がないと思うと困ったものです。
 ただの行為論専攻社会学研究者にとって、そんな簡単に世界経済なんてわかりゃしませんがね。
 というわけで、やはり、誰もやっていないことをやった人というのは、偉い人なんですよ。基本的に。
 
   なんてことが、次の展開が遅れる言い訳になるといいんですけどね。
   
   (後日、題を変えました。ウォーラーステインて、初見が「レギュラシオンのなんとか」って本だったから、レギュラシオンと一緒でいいと思ってましたよ。その本は、速攻でちり紙交換時に持ってってもらいましたので、その他の取り巻きが確認できず失礼しました。)


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小説は何を指し示したか

2008-06-22 22:01:32 | その他
こんばんは。
私の読者はどういう方なのか、よく分からないところがありまして、数少ないトラックバックによりますと、文学系の人がいるというか案外そういう人たちが多いのかもしれませんね。
というわけで、

今日は某家におじゃましたのですが、トイレの合間、手持ち無沙汰な時間に眺めたのがそこの応接の壁面にずらっと連なる日本文学全集。
昔のうちには時々ありますよね。
しげしげ眺めて、思ったのが、昔はこんな(小説家の)人たちの文章が日本の文化のほとんど全体だったんだなあ、と。
森鴎外から北杜夫まで。ずらっと並んだ何百人。おおげさかも。百数十人かな。
50年後、誰か日本ファンタジー全集を応接部屋に並べる人は、いないだろうなあ。

こういうのを見ると昔の人は命を大事にしてたんだろうって思いますね。

どう生きるのが私の生き方として適切なのか。
昔の小説家は、それを、人間の生きるさま、として物語で提供してくれました。
もちろん、提出するのは帝大出の類というか日本を代表すべき人たちで、これに習うのはまずは同じ日本人として当然という背景はあるのでしょうが。(今だと東大医学部出の人のいうことを日能研の子供が聞くって感じでしょうかね)

ま、そういう事大主義の歴史はおいて、とりあえず今日の思いとしては、「そうか、人生を書いていたんだもんなあ」という感慨ですね。人生を書いてそのまま死んじゃった人も多いですしね。

  小説は自分の代わりの物語だけど、面白くなくちゃいけないのもいいことなのか、私も古い人間でよく分かりませんね。小説全集の最後の世代は、やはり北杜夫なんでしょうねえ。


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裏のコーヒーブレイク

2008-06-16 21:06:04 | コーヒーブレイク
なんか、こんな文でも読んでくださる方がいるというのも恐縮ですね。
今日は私のブログの書き方から。
ご覧になるように堅いことをだらだらと書いていますが、頭に浮かんだことをそのまま書いているわけではなくって。

たとえば、ジョーン・ロビンソンていう、おばあちゃん経済学者がいまして、もう死んでしまいましたし、若いときもあったんでしょうが、私にはおばあちゃんのロビンソン。
ケインズのお弟子さん、みたいな人ですが。

で、その人の本を今日なんか読んでみると、〈発展途上国の都会ではあぶれた貧乏人が、小さな資本を元手に自営業をやっている、こうした経済を見過ごしてはいけない〉、なんて趣旨が書いてありまして。
「そおかあ、新宿の街頭の古雑誌売りのホームレスかヤクザか分からない人たちは、資本家かあ。いわれてみれば、今は一人でも、なんとか仲間を集めて古雑誌業の看板を出せば社長だしなあ、ていうか、看板を出さないほうが制約がなくて儲かりそうだけど、でも看板を出すと信用金庫からカネを借りられたり、損して得とれとかあるんだろうなあ」
なんて、感心して思うわけです。

で、ところで、
「そういやあ、なんだね、資本家って。
 偉いといわれる学者先生は、産業資本家の発生は歴史の謎だ、みたいにいうけど(特に日本では邪馬台国の謎みたいな人気課題になっています)、要するに、カネを儲けるというルートが確定し、そこに入っていける根性がある人間、というと誤解されるが、共同体から外されて、ともかく闘いながら食ってくしかない人間、他称『自立した人間』なら、それが本来のルートじゃんか」なんて思うのですね。

そういう思考を経て、じゃあ、もう一回資本主義発生史論を見てみるか、みたいに続いていき、その結果が1週間後とか、ここに載ります。(今は別の課題をしているのであとで)

だから、この場所も堅い文ばかりだけどけど一種のブログでないわけではないんですね。

ついでに思うのに
「そういやあ、ルンペンをばかにするマルクス主義集団もいたなあ。非組織労働者をバカにすること自体、政治家集団であって労働者仲間の集団じゃないってことがわかんねえんだよな。ま、確信犯てことはあるけどな。だから労働者には嫌われる。エリートくせえし。いっていいことと悪いことがあるって、隈のブログでも読めよ。それもこれも教主がどうしようもなかったんだが、教主も死んだから悔い改めるにはいいチャンスなんだがなあ、、、
 でも、そういうもんじゃないんだよな、人間集団て。みんなその中で一生懸命生きてきたから、仲違いの過程を通らなければ、何も変わることができない。だからさ、そんな集団の中で生きるなよな、っていってんだよ」 by アナーキスト。 「そういやあ、前衛主義者のサガとまともな共産主義的人間集団のあり方っていうのも課題だよなあ」
  
 すごく、一部、マルクス主義関係者にしかわからない話だけど、こんなふうに頭の中で動いてくと思うと、やはりブログっぽいでしょ。
 
 昨日に引き続き、なんとはない軽さ。なんか仕事が面白くなくて、つまんないことなんかいってらんねえさ、といえばホント過ぎますか。


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言いたいことと言わないこと

2008-06-15 21:25:08 | その他
実は、私には子供がいまして (驚いたでしょう?? そうですよねえ!! って、、なにを言いたいんだか)

子供がこの春仕事で、当川崎市から600キロ遠方に派遣されたので、母親がああだこうだと電話で子供に言いたがって。
ま、母親なんてそんなもんですがな。
で、ですね、仮に電話を私に代わったら、私もおんなじこというしかないな、と思うんですよね。
私、正直ですし。だから代わんないけど。
で、とりあえず言わない。
でも、言わないからといって、そう思ってないわけじゃない。

世の中そういうものですよね。
言うのは言うで、言葉に出すこと自体にそれなりの重みがある。
それが(男同士の)争闘の世界ってもんさあ、、、もんさあ、か、知りませんが。

同じく、殴りたいことと殴らないこと。
これも同じことです。殴らないかどうかは、そいつがどれだけ将来を探っているか、の問題にすぎない。
男は野蛮というよりも、人間社会はそういうものだから、権力の一端を握った女はそこをわきまえてほしいですね。

口に出すかどうか。
そして口に出して、勧奨(ないし脅迫)するかどうか。ここが大きい。
別に社会科学的には大きくなくて、社会科学の因果連関に関連する場面では、誰かが必ず口に出すので改めて考慮する必要はないんですが。
世間一般では、ままあって。

なんでこんなことをゆうかというと、昨日はさだまさしがミュージックフェアに出まして、なんでもさだまさしの子供が出るというので、なんだ子供なんかいるのか、俗物だな、と思いながらテレビを見てましたところ (私もそれ以上俗物で)、松浦亜弥なんてやつが
「さださんておじいさんみたいだから、隣りにいてすごく安心して」
って、ばかやらう。 だから、B型はなぜB型なの。

もちろん、さだという人は私なんかより何倍も年上ですが、(何倍じゃねえ? そりゃ数学というのは言い訳のマジック。それにしても口の聞き方が。)
さだ様、ご愁傷様です。

  さて、今日の本題は。
  人間に備わっている、言いたい言いたいどうしようもなく言いたい、てなところは、なんらかの社会制度で抑えるしかない。
  正確に言うと、『「それはまずいよ」なんていっても言いたいやつは言うから、言われても問題ないような社会制度を、その発言の手前で確立しないといけない』、というところですね。
  いくら人間の自由とはいえ、残念ながら、それは殴りたい、という刑法の次元と同じものだ、ということです。で、ついでに、それでもまかなえない部分は、規範として「いっちゃだめだよ」と教えるのじゃ仕方がない。  
  
  ときどきこういうアナーキストらしくないことをいうので驚かれますが、私は暇つぶしにアナーキストになっているわけではなくて、最善の世の中を探っているだけなんです。


  ふんふん、今回はずいぶん軽い話で。軽いついでで追加ですが、ここんとこずうっと、エロ・コメントが入らないんですよねえ。(さえ入らないって言うか)。そんなの機械作業かと思ってましたが、案外手作業で見て回ってんのかしら。基本的に嫌いな奴らですが、唯一コメントをくれる人たちなので、せっかく努力して回ってんだったら、なんか、手助けをしてやりたい気もしますね。
  って、無駄もいいとこでしょうけど。


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もう一つの「歴史の必然」

2008-06-08 22:09:36 | 歴史への視角
(前回の続き)というわけで。マルクスの生産形態論。

「大ざっぱにいって、経済的社会構成が進歩してゆく段階として、アジア的、古代的、封建的、および近代的ブルジョア的生産様式をあげることができる。」(マルクス:経済学批判)(シカゴ・ブルースというHPにありました。ありがとうございます)
というやつですね。

それはそれである程度は結構ですが、そう主張する皆様は、マルクス当人を含めて、じゃあ何が進歩の動因かわからないでしょう? わかったら誰も揉めやしませんしね。(マルクス主義者の内部で(さえ)、たくさんの論争が起きて内輪揉めした(今もごくごく小規模なくせに内部でしている)、ということです)

本来、マルクスさんは、「これらの形態の根本は所有制度の違いだ」、とおっしゃるんですね。
所有制度の違いなら、なんか所有に絡んだ要素が進歩の動因になったっていいじゃないか、というもんですが、そんなものは動因になっていません。歴史的にも動因になっていないし、ただの主張としても、そう主張する人はいない。
あるのは「農民が生産手段を所有しなくなったので、賃金労働者ができた」という資本主義最初の一瞬の修飾語だけ。
 ちゃんといってよ。その動因は、あなたの言葉なら所有制度の違いではなく「生産力の増大」でしょうが。
 何を言いたいのかよくわかんないよね。何が所有さ。それが生産力とどういう関係があるの?
 人間にとっての論理とは、あるものが、それに関連すると規定されている他のあるものについて表現されたときに、論理として掌握されます。
「この花は赤くてきれいだね」「そうなんだ。緑の草の中で、赤は映えるからね」
これは理屈ですね。その花は、純粋に綺麗なだけかもしれませんが、それはそれで論理として納得できます。ところで、
「この花は赤くてきれいだね」「そうなんだ。多年草だからきれいだよね」
って論理か? ちゃう。

余談ですが、私もおじさんになってしまって、マルクスがなんかいうと、やめなよ坊や、恥ずかしいから、って気がするんですよね。
時々言うように、坊やチャンは流行が好きでねえ、天才とかじゃなくって、流行をうまく取り入れたんですよねえ。いや、素晴らしい取りまとめ人だと思いますけどねえ。
ギムナジウムで習った歴史観、大学で習った弁証法、図書館で勉強した経済学。この場合は、社会主義者仲間で流行の「所有」。
  誰だって多かれ少なかれそういうものかもしれませんが。
  少なくとも私はそうですね。中学校の社会主義、高校の実存主義、大学ではそれの否定形を自分のものにしたかも。
  食えないのがエンゲルスで。彼氏は天才だから全てをバカにしてますよね。いいかげんといえばいいかげん。いってることの9割しか正しくない。
  まあ、エンゲルスの言葉を文字通りとっては彼のいいところを失ってしまいますので、ご注意を。

閑話休題。
実のところは、マルクスがこれが本質だ、とする生産手段の所有・非所有者の別名としての「自由」など、歴史とは何も関係がない。現代の歴史の主役という資本主義社会の「自由な労働者」など、気の利いた駄洒落に過ぎません。
まずは、支配出現後の社会では自由な農民などどこにもいやしなかったのです。
いやちょっとだけいたけどね。
ついで、一方、生産手段を持っていた農民もどこにもいない。彼らは、鋤や鎌を占有状態にしていただけです。

(なお、およそ権力が保証した「所有」という概念は、占有状態にない農地や農民への「所有権」が現象しない世の中では意味がない言葉です。鋤や鎌についていえば、「誰のもの」という言葉の所有格は、占有状態について社会関係の中で自然に生じますが、「自分の農地」なのに剣を持った野蛮な野郎達が「ここは俺の土地だ」と主張する状態は、社会関係一般の中では自然には生じないのです。個人的占有は、当初の消費物資の入手とそれにまつわる行為者の処分可能な将来の存在によって、人間の本来的態勢です。だからといって社会内の制度としての個人的占有が本来だ、といっているわけではありません。環境によって決定される社会関係には、「本来」などあるはずがないからです。「所有」概念神格化がマルクスが抱いた最悪の固定観念なのでしつこくいいました)。

歴史変遷にかかる契機として重要なのは、所有ではなく、まずは消費なのです。
原始的共同体においては、共同消費の「規範」が共同性の要になります。
これが規範であるための前提が個人的占有状態なんですね。それでいかにも所有が初めからあったように見えるが、実態は、共同の所有もなければ私的な所有もなかったというのが、人間の始原として親と子しか存在しなかった世界の理屈です。

原始のような小共同体においては、武力はあまり意味がない。寝ている人間の頭を石で割ればそれで終わる武力に過ぎないからです。下品ですけどそういうことです。小共同体における武力は、武力の共同的行使にある。隣りの部族を襲って消費物資を取ってこれるかどうか、あるいは捕虜を捕ってきて生贄にするか。
全ては、余剰消費物によって決まる。
これも世間では余剰生産物というけれども、それは本質的ではありません。
消費しないものをどれだけ生産してもそれは、邪魔ではないただのゴミです。
ある地域では、消費が余剰にならないときは(食料がどんぐりの時代、どんぐりをいくら拾ってもどんぐりが生るのは一時期で、数年も持ちません)、余った時間は生産的に、石組みを生産した。要はドルメンですね。この時代は、別に階級社会とは限らない。支配社会の可能性はありますが。

まだ、閑話してるかなあ。

人間の本来は消費です。これを社会的に規定するのは、労働行為の配分です。
これは、第三者的にいっただけのことで、本来は、労働行為の無政府状態による淘汰ですが。つまり、死亡という淘汰によって、労働行為が、その社会の消費物の規模に合わせて、整理・決定される。

生産力の発展というのは、「より少量の労働がより多量の使用価値を生産する力を獲得するような労働過程における変化」(マルクス:資本論)などではありません。
「どれだけ継時的に余剰の消費物資を作れていくか」ということです。同じ1年の労働でいい、「同じ1年の労働の中で、どれだけ余りを作れるか」ということです。何が「より少量の労働」だか。いや、別にマルクスが悪いんじゃなくて、ただの勉強好きの坊やだ、ということです。交換価値はそうですからね。しかし、それと歴史体制の変遷とは関係がない。
さらにまた、生産様式は、『消費可能性規制』を媒介としてしか現実化しない。いくら作っても、使えなきゃしょうがない、ということです。資本主義の致命的なネックですね。
作ったものを使えるかどうか、これは、個人にとっては、消費物資がどのような将来において入手できるか、という課題になります。この仕組みが行為を決定する。
もちろん消費物資は空気からは涌きません。それは生産関係の問題です。しかし、ここでも問題は、生産形態、すなわち所有の形態ではありません。
 どうもマイナーな派閥(セクト)の人はマルクスの流行らなかったところ(「先行する諸形態」等のこと)を持ち出そうとしますが、残念ですが、流行らないのは流行らないなりの理由があるものです。


さて、大きな閑話をやめて、前回の話題に戻ります。
歴史に必然はあるか。
歴史とは社会体制の歴史だ、ということに限れば、歴史にはもう一つ必然があります。
人間は、行為としての自由を求める本質の中で平等を志向しつつ、自己の自由を広げる生産の方法を事実認知として将来に伝えることで、人間個人の自由を、体制の中での1割から2割へ、2割から3割へと、次第に広げていきます。
これが社会体制の進展の歴史の必然です。
第1に自由。そして、これを他に広げる平等。さらに、生産の拡大のための、生産力でも生産関係でもない、「生産方法」。

なんか違いますかね?


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本当の「歴史の必然」

2008-06-08 14:43:38 | 歴史への視角
つれづれなるままにネットサーフィンなどすると、「つまんねえこといってしょうがねえなあ、めんどくさいけど左翼を志向する若い人たちにいっておかなきゃあ」、みたいなことがでてきます。
そんなもの出るとこ行くな、みたいなもんですが。興味の偏りが知れますね。

ほかで、「資本主義社会の規定性」みたいなものを見直してるところなんですが、ほかって私の課題は一つだけですがとにかく、「歴史の必然」なんてでてきますがね。
で、その「歴史の必然」の意味ですが、皆様、「歴史(なるお化け)が必然的に変化していく」、って意味で使いますな。まあ、それが当たり前の使い方といえばそうなわけで。

でも、「生きている人間の自由の社会科学」、「一人一人の社会学」ではそうはいわない。
「そりゃ、お前のような絶対自由主義者に『必然』はないんでしょう」 とかそんな意味じゃなくてですね。「おいらの主義だから必然なんて辞書にない」なんてのは非科学的ですわな。

実際、歴史には必然がある。ただし、歴史の必然とは、「私の(あなたの)次の一瞬の必然」以外の意味は持たない。そして、歴史は必然だから、私もあなたも次の一歩を踏み出すことができる。
  なにいってるかわからない、というところですね。以下、説明です。

さて、歴史とは何か。
まずは、「ただの歴史」なんてないでしょ、ということです。

商業の歴史、船の歴史、政治家の歴史、支配者の歴史、将棋の歴史。そんなものはありますよね。全部、「○○の歴史」はある。
で、何が必然ですって? ○○の歴史に必然はないでしょ。
  そうじゃない「歴史」って何? 別に意地悪じゃなくって、ただの「歴史」はない。

人は、自分がいるこの土地に残されたものを見て、誰が作ったのか知りたくなるときがあります。
ま、好奇心というやつですね。
もう一つ。
人間は、ある状況において、過去の事例を把握したいとも思います。昨日どうしたっけ? それってどんな結果を引き起こしたっけ? みたいなことです。

もともと人間の行為には、二つの事実認知の作業があります。
第1に、事実を求めると、それによって脳が刺激され、その事実にまつわった刺激物質が出ることを学習し、その快感を得るために、情報を取得しようとする事実認知です。
第2に、次の行為に活用するために、記憶を使ってそれを現在の状況に適用しようと脳内で構成し続ける事実認知。
 好奇心というのも微妙ですが、知識の面白さという点では第1のものかな。二つっていっても、同じ脳の作業ですから、境界領域もあります。

で、歴史も事実認知ですから、歴史にもこれら二つの顔がある。どちらの顔が大きいかといえば、第1の、快感にまつわる「歴史」であることは、本屋に行って、歴史論文とその他歴史本の比率を見ればわかりますね。しかも、社会科学として因果関連を教えるものなんて、その歴史論文の中でもごくわずかにすぎません。
第1の「歴史」とは、単なる叙述です。物事がそのときたまたま存在した理由を記載しているに過ぎません。
種々の現象は歴史的に起こった。それはそうです。じゃあ、なぜ起こったか。「それは起こるべくして起こった、歴史の本なんだからそう書いてあるでしょ」。でも、そんなことは結果です。結果の叙述にしか過ぎない。因果関連の科学とは、物事の起こった要因を未来に向かって明らかにするものです。
 いや、けちをつけているわけじゃなくて、普通の歴史の本のほうが面白くていいし、理論を作っていくときには事実として役に立つんですけどね。
 だが人間の次の行為には役に立たない。商業の歴史がどうだろうと、明日の買い物には役に立たない。船の歴史がどうだろうと、明日の出漁には役に立たない。それらは、結果を表しているだけだから、次に起こるはずの将来の事実が必然であるわけがない。

 さて、もう一つの歴史、次の行為をするために私たちの頭の中で整理された歴史、たとえば「明日誕生日のガールフレンドの、デパートでの行動の歴史」「明朝は時化るという予報が出たときの、私の漁船の暴風を航海して来た歴史」、そんないろいろな過去の歴史は、暇つぶしの歴史とは異なり、今に生かす事実認知の集積です。明日誕生日のガールフレンドへのプレゼントの買い物、明日の船での出漁には、必須の知識です。

 で、この歴史は自由きままか?
 私の買い物行動も出漁も自由です。
 しかし、私の中の歴史は必然でなければならない。必ず、ガールフレンドは、明日、プレゼントを見て喜ばなければならない。そのために買うのですから。また、明日の時化でも漁船は耐えなければならない。そうでなければ私は溺れて死んでしまいます。
 因果関連のある過去の事実認知の現実への適用は、この現在においては必然と自分で決定しなければならないのです。「可能性は6分と4分」。そういうのもあり。そして4分は必ずクリアすると思えば「4分ならオッケー」と決断する。
 かくて、自分が行為の主体であるなら、自分の歴史は必然です。
 人が、「労働者の世の中にするんだ、そのためにはこういう行動をしなければならない、なぜならこういう行動をすれば社会はこうなるから」、と自分で考えたとしたら、そのとき歴史は自分にとって必然でなければならない。しかし、そのとき「歴史」が指しているのは、自分の過去の事実認知だけです。歴史とはお化けではない。ただの一人一人の心のことです。
 
  文学的ですけどね。
  もともと、歴史は必然だなんて言葉自体、文学ですからね。
  
  
さて、そんなんじゃないよ、と。我々が主張しているのは歴史一般ではなく、歴史という言葉に名を借りた、生産様式の変遷のことだと。
まあ、そういう人もあるかな。いまどきそんな人だらけかどうか。ネットで見ても、都合のいい時に「歴史の必然」ていうだけなんで、よくわからないものがあります。
昔は、「社会主義は歴史の必然」としか使わなかったんですけどね。

ま、この続きは次回にします。
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人は何を眺めているのか

2008-06-01 21:08:05 | コーヒーブレイク
これはコーヒーブレイクです。
「そろそろ季節もいいし、銀塩カメラの本でも見ながら写真世界に浸ろうかな、お、これは銀塩カメラで撮っている」 と、たまたま図書館で手にとった「風景写真入門」みたいな本を見て、ふと、違和感が。
なんじゃ、これ、へたくそ。

世の中にはプロ写真家という人間がいて、なぜか同じ場所から同じカメラでとっても、アマチュアとはまったく違うものが出来上がるんだ、と信じているところですが、、へた。

何が違うかと思ったんですが、くずみたいな花にピントを当ててアウトフォーカスにしてる(その他の風景をぼかしている)んですね。いくら作例だって、こりゃないな。

アウトフォーカスの風景写真というのは、言葉の矛盾です。
周りをぼかして浮かび上がらせたいのは風景ではなく、風景の中の特異な何者かでしょう。
それなのに、気まぐれに、くずみたいなものを中心にしてアウトフォーカスをしたって、何の感動も伝えられない駄作にしかならない。

美しい風景を見たときは、人は、今まで心を占めていた、狩の対象の狸、野うさぎ、恋の対象の少女、1時間前の自分を叱る親、そんな全てへの注視の作業から一瞬の間に離れ、視界全体を把握して、「なんだ、これは、、、」と感動します。
それは生物にとって基本的に自由のキャンバスです。
そこには心の中の全てを配置できる。
神や、女神や、怒らない親や、空腹を満たしてくれるはずのウサギ、あるいはただの、雨風をしのいでくれている木や葉っぱで出来た自分の家、、、
風景はすべての幸せの、あるいは恐怖の、キャンバス。 であるためには、一様にピントが合っている必要がある。

 その風景の中で注視しようとする何者か、その他をアウトフォーカスにべき何者かは、同じ美の対象ではあっても、風景ではない、ということです。


 いや、これはコーヒーブレイク。ほんとは、ここに載っけるために比較する写真を撮ったのですが、雨の日で 望遠135mm ASA100 (JIS100のこと)F8 1/8 秒だと写真屋さんに現像を拒否されるほどブレブレになってしまったんです。
 てゆうか、いい写真屋さんでして、お金かかるからやめてくれたわけですが。フジの某川崎市内パレット店。つぶれなければいいんですけど。



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