リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

アナーキズム解説

2012-03-25 13:15:10 | その他
 こんにちは。東京の田舎地方、庭(のように見える隣の土地)にある桜の芽もふくらんで、寒いくせにもう1,2週間で春でしょうか。
 
 さて、前回、リンクもないのに皆様ようこそみたいなことを書いたにもかかわらず、昨日、当ブログにもリンクがあることを発見しました。ONLINEアナキズムというところのリンクリスト。
 おやまあ。
 これは光栄な。 
 といって、こちらのお客さん、4割は「なにそれ」、というところと思われますが。 
 いえ、はじめは『8割は』にしたんですが、そんなこともないんでしょうね。自分の立ち位置さえ忘れてはいかんな。
 で、なにそれといわれて、なんでしょう。wikiやさっきのリンクのような専門リンク先だとだいたいわからない人が書いてますから読んでもわからないのではとも思われます。何しろわたしなんかには読んでもわかりませんでしたので。
 というわけで、ちょっとアナキズム解説。
 
 アナキズムというのは、私はこれをしたいからジャマすんなよ、という思想です。
 
     以上。
 
 それ以上書かなければならないと思う人は、結局、なんか別の人、たとえば解説イズムの人です。
 
 とはいえ、今は解説ですからそれ以上書きますと、
 
 1 自分のジャマをするのは、支配とか権力とか呼ばれるものですので、結果として、アナキズムはこれらを排除します。
 
 ちょっとまて。排除しなくたって、自分が権力を持ってればいいじゃないか、という話もありますね。
 2 そこで第2、これは「イズム」=思想ですから、「他人にこうしようよと奨める」ものです。
   そこで必然的に、自分だけでなく他人の自由な行動も確保しなければならなくなる。
   ここで橋本フゼイの自分だけ偉いのが好き派と分かれることになります。
   
 この2点を特徴とした思想、自分も他人も自由に人生を過ごせるようにしよう、というのがアナーキズムです。
 
     以上。

 
 ちょっとまて。こんだけにしちゃ、世間には小難しい解説が多いじゃないか、といわれることを見越して、さらに追加です。
 話は変わりますが、上記のアナーキズムは政治思想でもあり得ます。
 社会には自由をジャマする要因=徴兵や解雇、脅しや飢えがたくさんありますから、政治を変えなければ社会は自由にならない、と考えるのは自然。
 
 そこで、思想が2通りに分かれます。
 
 (その1)
 政治を変えようとする人は、政治の中に入ってその汚さに呆れ果てます。
 若い人は知らないかもしれませんが、政治なんて陰謀と裏切りの世界。かたぎの人間のやることではありません。
 ましてや、善良なアナーキストが政治をするなど自家撞着、言語矛盾というものです。そもそも政治は他人に権力を行使するものですしね。
 その結果、一般的に質の良いアナーキストは社会運動に走ります。
 どうせ政治は変えられないなら、社会の底辺の人をサポートするぞ、というものです。野宿の人を援護する、などですね。
 あるいは、どうせ変えられないという前提があるので、破壊活動に走ることもあります。いわゆる戦前のアナーキスト群像、テロリストですね。それはそういうことです。
 しかし、このようなさまざまな分化は、性格とかの問題で、イズムの問題ではありません。
 
 (その2)
 アナーキズムの大方の差異は、その1のバリエーションですが、ただ、わたしのようなぐうたらな人間は、働かないでなんとかならないか、と考えますので、政治思想に足を踏み入れていきます。そうすると、従事人数は大していないのですが、主義者の数だけアナキズムが増えることになります。
 私のイズムはこのブログのとおり。
 どうせ誰も私の本、読んでないでしょうし。
 政治に関連して言うと、マルクス主義者を含めた、左翼全体の社会運動が社会を変える。テロリストの諸君はなにをあせっているのだ、というわけです。
 
 もちろん、マルクス主義者が間違っているのもこのブログのとおり。マルクス・エンゲルスに言わせると『共産主義者の理論を一語で言うと「私有財産の廃止」』(共産党宣言)だそうです。
 ほんとに三つ子の誤り百まで。
 所有問題は問題を国家成立期に戻すだけに過ぎない。
 コミュニズムの本質は、「そんなことにとどまらず」「あらゆる支配権力の廃止」でなければならない。それがアナーキズムです。
 
 なんていうと、そんなことは不可能だ、とかなんとか解説イストが現れる。
 革命待望白昼夢のマルキストでさえ自分が批難されているのに答えられずに、突然解説イストに早変わりでさあ。
 
  たく。やろうともしないでやめるんなら人間なんてやめちまえ。
  それから、マルキストはきちんと答えろよ。私有財産を廃止したら、われわれはそれで解放されるんだな。ごまかすなよ。
  ごまかさないで真摯に見つめて初めて、真理が見えるんだぞ。


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評論・科学・アジテーター

2012-03-17 21:24:50 | その他
 こんばんは。久しぶりの土曜日の更新。
 さいきん平日は頭を回す余裕がなく新聞も見なくなりまして、yahooの見出し程度の世間識になったきょうこのごろ
 って、アタマだいじょぶかね。
 さいわい肩こり頭痛は改善されていますが。
 
 などという年よりのグチを重ねて幾年月(4年以上)、このほど訪問者5万人を越えたとのよし。
 ありがとうございます。
 ほんの2,3人の時代から、トラックバックのたぐいはしないので、皆様は純粋に(?)自主的にこのブログを発見された方たちばかり。検索ロボットの諸君はおきますが。 御礼申し上げる次第です。
 
 さて、昨日は吉本隆明が死んだとのこと。
 死んだっていいのですが、大学教授の死を悼んで、吉本をほっておくというのも、仁義が立たない。
 
 吉本という人は、20世紀後半世界最大の評論家です。
 なんで、って、思想の地位を大衆に押し下げた嚆矢の人間だから。
 嚆矢って最初の人間てことですが、ま、ちょっと飾ると偉く見えますでしょ。
 私たちが思春期のみぎり、日本で思想的に偉いのは帝大教授と左翼党派員だけ。ま、帝大は消えてましたし、左翼といってもその頃あった社会党はいいかげんなので、偉いのは大学教授と共産党員のみという時代。
 その時代に敢然と立ち向かって、偉いのは生活大衆なんだ、と言い放った、そのうえそれを広めた、人間が吉本隆明です。
 それだけ。
 それだけのことをいうことがどれだけ大変のことかは、今だに西欧諸国では評論といえば権威主義者しかいないことから知れます。ネグリがどうのといったって、しょせんインテリのたわごとです。だから「世界最大」
 
 もっとも「20世紀後半」と限定したのは、、貴族評論からインテリ評論に移行する時代を画した評論家が西欧にいるかもしれないからで。わたしは思想史など点検するヒマはありませんので。
 
 といって吉本氏が死んでもいいのは、吉本氏、この20年、評論の枠を超えて社会科学に口を出すことがあるので、困ったもんだと思っていたところ。そりゃ違うといっても吉本氏の名声で世間が聞いちゃいますからね。
 なんていうと冷たいものですが、左翼というものは世界に責任を持たないといけないのですよ。吉本氏がどんなに優秀でも「左翼」と世間にみられてしまうからには私にも責任遂行の義務がある。って、テロリストじゃないですけどね。
 
 彼の名誉のためにいいますが、彼は左翼じゃないのですよ。
 ただの大衆を体現化しようとしたエリート。
 エリートで悪いといっているんじゃないですよ。さっきもいったように、エリートに大衆の位置の価値的重要さをしらしめた優秀なエリート。
 そのほか、科学的には「言語にとって美とはなにか」で表現の歴史性に新しい視角を加えた立派な文学者。
 そのうえ、私にとっては立派な抒情詩人。 
 去年の私の引越しでは結局、定本詩集(と現代詩全集の1巻)しか手元に残らなかった(残さなかった)。 
 彼を馬鹿にするのは自分の無知を暴露するようなもので。
 
 とはいえ、彼は評論家に過ぎない。
 評論家とは、論を評ずる、つまり相手の立ち位置を評することに生命のある仕事屋です。
 相手の言葉の価値判断をするだけだから科学的思考はいらない。
  
 一方、科学とは真実でなければならない。先生、時代の変遷で評論相手にこと欠きだして、「しょうがねえ自分で言おう」ということか、この間の吉本といったら、ウソだらけ。シャドウワーク問題くらいからかね、と思うと、もう30年だよ。ボケは怖いし。
 
 で、題中の「アジテーター」ってなに? と申しますと、吉本氏が大衆の価値付けをしたが、それが世間に広まるには、それを広める人がいる。これはほんとに不可欠。それが現実の昔は原稿料貰える人間だけで、50人はいたな。
 アジテーターというのは左翼やファシストであるかのように誤解されますが、ほんとは思想的には中立なんですね。
 ただ、権力に忠実。
 それもしかたないということで。
   (権力には権力と対抗権力の2種があることは隈の本に書いてあります)
 
 
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学問的前段階蜂起

2012-03-11 21:39:36 | 歴史への視角
 こんばんは。この前から相変わらず首こりと首こり頭痛になやまされて、、、、
 ってたいしたことではありませんが、これまで毎日健康で暮らしてきた人間だと、なんとも暗くなりますね。

 さて、今日は3月11日、って書いた瞬間思ったには、だからなんじゃい、みたいな。
 今日は2012年3月11日、かけがえのない唯一無二の日曜日。
 
 と、まあ、そういう心の狭い物言いはやめて、3月11日です。
 
 わたし的には、1年は早いものだ、という感じですが。ともかくもマスコミでは大変なことのようですね。普通の人には関係のないことですが。
 なんていうのも挑発的か。
 口先ばかりのマスコミ関係者のせめて10倍でも普通の人が心をとめてくれたら、問題はゼロだと思いますけどね。
 上記1行は誤植ではありません。
 マスコミも人間なら、普通の人も人間。被災者も人間。
 こうゆうシンプルなことを理解してもらえる土壌の中で、はじめて何かをいいたいものです。
 どんなマスコミも、この春が遅くてホームレスが寒くて困ってるなんて、1面に書いちゃくれないやね。
 
 そういやあ、国家公務員は被災地予算でかわいそうに10%だかの給料削減で、しかも退職金も削減だとか。
 エリートでなくても休みもとらずに頑張って公務に励んで本庁課長補佐になれた中級職が退職を目前に百万円 (退職金で2百万、3百万)を被災地に寄付した勘定ですな。
 一体世の中、被災地に百万円を寄付した個人が何人いるんですかね。ちょっとだけ上の大衆公務員がそんなことをするのは異常極まりないことのうえに、もっと異常なのは、それを誰一人も感謝するわけがないことで。
 お察し申し上げます。早く辞めちゃえばよかったのにね。
 
 さて、了見の狭い話はやめて、本日は感心した
 田中充子(、上田篤)、蹴裂伝説と国づくり、鹿島出版会、2011.
 
 趣旨は、日本はこの1万年に、平野を国土面積の2割も増やした、という話で。
 どうやって、ってそこが「蹴り裂き」で。
 湖やそれに類する沼地の出口を蹴破って、そうすると水が逃げて地面は干上がりますな、そんなことを日本人は有史までに北海道から九州まで、全ての水地を盆地、耕作地にしつづけてきた、という話で。
 
 それを縄文文化人が技術提供者として行った、という、いわずもがなの話を付け加えて。
 
 「いわずもがな」って若い人は知りませんかね。なんでそんな余計なことを言うんだよ、いわなきゃすばらしいのに、って意味ですが。
 でもセンダチ(先達)というのはそういうものです。
 どうせなに言ったって他人がきいちゃくれないなら、せめて、自分で面白いように書きますな。廣松渉の漢語癖と同じで。
 それはしょうがない。
 文句を言う奴は自分で努力したことがあるのか、ということです。
 そんなやつらはマスコミと一緒で、自分ができもしないことに文句を言うことが人間として許されることだと誤解している。情け無いことです。
 
 で、じゃあ面白きゃなに言ってもいいのか、って、マスコミの害毒と違って別にだれも痛くもかいくもありませんからね。
 それよりも大事なことは、そういうトンデモ学が、次の本当の学問の素地を作り出すということです。
 今まで誰も信じていなかった「伝説」が、それは99%は自然災害の結果かもしれないが、そういう自然のありようとして明らかにされる日が来る。そんな論文が学会誌で受け入れられる素地を作った、それだけで、未来にも誰に評価されなくとも、田中氏は学者になった意義がある、というものです。

 前段階蜂起ですな。
 
 唐突? 歴史というものはそういうものです。
 

 (注:前段階蜂起とは革命は座していては起こらない。まず期至らずと蜂起をして、それにより革命を導かなければならないという発想。
  正しい。発想は。それがいつかなど、誰にもわかりゃしないからね。
  それがたまたま外れたからといって、悪いのはそいつらではない。右翼やリベラルがけなすのはそれはそれでもっともだが、左翼がけなすなどもってのほかだ。ま、あたしゃ褒めるつもりはないけどね。ただ、けなさないのは最低限の仁義だろう。)

 
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詩と老人の詩

2012-03-05 21:36:33 | 断片
 こんばんは。本日は寒冷ストレス的首こり-頭痛を覚えつつも久しぶりにゆっくりと夕刊などを眺め。

 詩ってなんで若くないと書けないんだろうとずっと思っておりました。
 まあ、若い時分は感受性が高いからだとは思うけどね、なんて根拠も知らずに考えつつ。


 さてここで、朝日新聞夕刊月いち、お達者な唄歌い、谷川俊太郎先生の登場
 題して「私の昔」(略)

 ああ、そうか、と半分納得しました。
 くだらないので載せませんが、内容は「長くもあり短くもあり、人の人生ってふしぎだな」
 って詩です。
    詩かよ。
    唄えればいいってもんかよ。

 もっとも職人谷川の詩にしちゃ正直なところかも知れませんが、というわけで比較。ご存知の方も多いかも。彼の33歳作品、といっても「歌」専用(=歌詞)ですが。

     死んだ男の残したものは

  死んだ男の残したものは ひとりの妻とひとりの子ども
  他には何も残さなかった 墓石ひとつ残さなかった

  死んだ女の残したものは しおれた花とひとりの子ども
  他には何も残さなかった 着もの一枚残さなかった

  死んだ子どもの残したものは ねじれた脚と乾いた涙
  他には何も残さなかった 思い出ひとつ残さなかった

  死んだ兵士の残したものは こわれた銃とゆがんだ地球
  他には何も残せなかった 平和ひとつ残せなかった
  
  死んだかれらの残したものは 生きてるわたし生きてるあなた
  他には誰も残っていない 他には誰も残っていない

  死んだ歴史の残したものは 輝く今日とまた来るあした
  他には何も残っていない 他には何も残っていない

      (私が中学のとき流行った歌。作曲武満徹)

 というわけで、定型俳句と異なり、歌は内容ですから、とうぜん、内容がくだらなければ世の中に出るのは「巨匠」のみ。巨匠もすぐ死にますから駄詩は残らない、というわけで。
 ところで内容は、といえば、それは他人が買うのですから、内容によってその他人である自分の将来が変更されるようなものでなければならない。
 それが、「自分の人生なんだったの」 じゃあ売れませんがな。

 「死んだ男、、」の内容は、一方で厭戦、一方で庶民の生命活動が歴史そのものだ、という、ノンポリ良心派の谷川の思いが良く出た歌になって、これは誰が作曲しようと、良い歌になったことでしょう。 (武満の存在は好きですが、別に誰だってこのくらい。)

 で、なに、自分の人生長いか短いか、って。
 恥ずかし。

 前を向いている間は詩が書ける。年寄って、病気が話題になるのはしょうがありませんが、それは詩にはならないということですね。
 さて、後半分、まだわかってないのは、前を向いた詩を年寄はどうして書かないか、ということですが。

   ひとつ分かるのが、自分に沈潜し続けられるかどうか、ということではありますね。サラリーマン(私)や歌売り(谷川)じゃあ疲れちゃいますもんね。
   何を考えているかというと嵯峨信之。十分年寄りのときのはずの詩、前もここに載せた、朝焼けの大淀川
   これは抒情なのに若い者(昔の私)に耐える。


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40年前

2012-03-02 20:58:15 | 断片
 こんばんは。東京地方、たしかに2日前は「大雪」でしたが、今日は雨でも氷雨ではなく。
 当家の(視界の)森にはもう木の芽の小さなふくらみが薄茶色の朧になって見えます。

 さて本日は、金曜日ですが更新、題材は昔話。
 森岡清美、ある社会学者の自己形成、ミネルヴァ書房、2012. 図書館さん、お世話さま。
 このひと、家族社会学では有名ですが、まことに逸話のない人で、こんな地味な人が世間様にたいしてなにが自伝かと思ったのですが、社会学会会長をしてたんですね。
 もう88歳なのに、昔のことを微に入り細に入りここまで書けるというのは、記憶力ゼロに近いわたし的にはなかなか勇気が湧きます。

 昔話といえば、本日は奇しくもそこの大学の入学試験で家人と初めて出会って40年目。
 もちろん、ぜんぜん奇しくなくて、明日やあさって書くんじゃ日が合わないので、金曜だけど今日書いてるだけですが。なにしろ10年に1回のことだし。なので、次回更新は次の次の土日。

 で、森岡先生、この人は一種私の先生で、 私などは必修科目で(仕方なく)2回教わりましたが、少人数授業(両方とも学生9名)にもかかわらずなにしろ話をした覚えがない。 そりゃ私も偏屈ですが、他の先生たちや助手の人となら若干でも言葉を交わした記憶はあります。
 それでも「先生」なのは、英語の先生。初級社会学英文購読で、誰かが”reporting” という言葉の訳を「報告」としたら怒られたのを覚えています。
 「報告はreportですね。reportingではありませんね。レポーティングといえば『報告すること』、訳は報告作業です」って。
 ああそうですか、というしかないですが。
 その後もその類の注意が引き続いたので、おかげで英文は細かく読むようになりました。哲学専攻ではありませんので、その後、他の授業で英訳にそうした細かさを求められたことなどなく、結局それが私の先生になってしまいました。じっさい学者の世界ではこれは案外大きいことで。大学院は他の大学に行きましたが、英文購読はじしんまんまん。
 研究者志望の若い人はこういうささいな意味の違いを気にする癖をつけられたほうがいいです。もうちょっと大きくなったとき自信になりますから。

 それにしても、こういうアカデミズムの人たちとはわたしゃ一致点がないなあ、と改めて思うところ。「とは」というより「とも」かもしれませんが。森岡先生も大塚製薬とかに行ってたら人事担当取締役くらいにはなったんでしょう。
 結局、いくら学者が仙人暮らしでも、世間のなかで泳げる人でないと、一流の称号は得られないでしょうね。
 いつも思うのですが、当社私を拾ってくれてありがたいことです


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