リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

個人ニュースなど

2021-07-31 16:07:45 | 断片
 こんにちは。お仕事とか暑くないですか? 私は幸い買い物以外外に出ません、だいたい。
 せっかくワクチン接種したのでどこかで外食でもしたいのですが、お酒が出ないので行っても無駄。まあワクチン接種できただけで幸いとするべきでしょう。でも年寄り先にワクチンしてよかったと思うぞ。若いもん先なら今頃みんな外飛び回ってるよ。
 この間1年以上ずっと川崎市の感染状況をモニターしてたのですがもうあきらめました。容量オーバー。昨日も一昨日も400人超えた表じゃあ把握しきれない。これだけ増える余地があったんだから、若人もずいぶん過去我慢してきたということでしょう。もっとも半分はとばっちりで移されたんだろうけど。
 若人の皆様も死なないといっても肺炎で苦しい思いをするのだから、お互いのために自重されるのがよいでしょう。
 問題は、飲食店だよね。お酒が出ればわたしも売り上げに協力できるのですが。わずかですが。
 
 オリンピックは勝った試合のニュースダイジェスト。ストレスがなくていいです。たまたま柔道だけ(普通に)見たけど、素根輝の無差別級よかった。あんなでかい相手にどうやって勝とうというのかと思ったら指導3つで反則勝ちしちゃった。偉い。(それに対して男子ったら、、、まあ主義の問題だな。理解不能。なお、こういうの独り言でいうのはいいと思うんだけど。「偉い」は良くて「悪い」は悪いなんて言う話はない。なんなんだろね、よくいう「SNSで批判」て。「炎上」っていうから書き込むんだろうね。わざわざ出かけてってしゃべるなら名を名乗れ、っていうのは分かるけどね。ツイッターとか仕組み知らないし。)
  
 さて、社会的ニュースはコロナとオリンピックだけなので、個人ニュース。いつかまともなニュースが新聞に載る日が戻るのかね。ま、ともかく。
 わたしのSchick2枚刃の髭剃りフォルダー、壊れてしまった。ホールド部分がパカッと取れて。何度もすべって洗面に落としたからしょうがないか。プラスチックで15年くらい使って。前のは金属製で25年くらい使って、縦に真っ二つ。まあそういう作りだったもんで。形あるもの必ず滅す。
 Schick2枚刃はほんとに優れモノ。なんたって安いし。いまじゃ5枚刃とかいうの。そんなのがフィットするでかい顔ってあるのかね。若い人たちは電気シェーバーでしょうけど。

 次。ふと、なんか自分の体が薄いと思ったら、体重が数百グラム減っていました。限界状況を生きているので数百グラムはでかい。さいきん(簡易な)素振りもする気が出ないと思ったら、動かすべき筋肉が消えてるのだと認識。危機感で昨日から腹筋とか腕立てとか取り入れました。
 私の辞書には努力なんて言葉はないんだけどね。
 
 で、少しは役に立つことを、中級的お料理メモ。
 なかなか腕の上がった餃子作り、今回家人に評判が悪い。お店っぽくないって。
 いつもとの差は、中華スープの素を入れなかったことと思われます。気疲れで、餃子の皮の袋のレシピを基本にしたんだけどね。あとカキソース入れて。
 やはり中華は合成調味料が合うようです。味の素とか。ちょっと気にしておくとよろしいのでは? 
 使ったキャベツが固くて味がしないというのもあるかもだけど、それはいつもだし。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出など

2021-07-24 11:13:17 | 断片
 こんにちは。東京地方、局地的に雲が出て、今のところしのぎやすい。昨日はカップ入りスイカを食しました。夏の匂いがしました、が、ちょっと甘味が薄かった。なんでも果物は旬の終わりがおいしいものです、スーパーのは。
 ネット情報だとスイカの旬は7月とか。だいたいスイカなんて旧盆に食べるものじゃん?
 自由が丘では熊野神社の夏祭りが(今はさも昔からのように「9月上旬」とか宣伝してありますが)8月半ばにあって、夜には駅前までずっと露店が出て(女神祭りなんてない頃は町の祭りは熊野神社の祭り)露店でスイカやバナナを売ってるの。スイカは150円でした。もっとも最後の8月開催の祭りの時の値段は1500円でしたが。普段の八百屋のスイカは井戸で冷やしたけど、お祭りのスイカは持ち帰って晩にそのまま食べました。家族多いんで縦に割ってから横三角にさらに切るの、塩振ってね。暗い夜空に黄色い屋台電球の祭りの思い出。
 さいきんは人づきあいがないんで、思い出話。
 
 さて、本日はオリンピックかな。
 これは失敗だね。いわれなくてもわかる? いや私などミーハーだから、開会式とか大好きなんだけど、ニュースでやってても見る気がしない。ミーハーが見なきゃ、それは失敗。
 ゲームを見なきゃ、って、スポーツが好きな人はひいきが負けた試合もみるんだろうねえ。心が広いね。わたしゃひいきが負けた試合は大嫌い。なかったことにしたい。
 それはそうと、開会式は無観客と書いてあるけど、朝日新聞の写真なんかずいぶん人が入っているように映っている。席の模様かね。だとしたらそれは成功だと思うな、十分ごまかしてる。オリンピックは1から9までケチがついてたから、一矢報いたね。
 
 まるで関係ありませんが、「東京五輪について、東京都の小池百合子知事が「何としても成功させる」と発言した」(中日スポーツ)そうで。
 菅、やったじゃん。菅の口ぐせ「なんとしても」を東京都知事が使うようになりました。宮城、福島辺りでは、去年の暮くらいには使ってたけどね、東京までは降りてきた。権力様々だね。(アベの時のは「しっかり」ね。みんな忘れちゃったろうけど)
 
 おや、急にひどい雨。馬事公苑の馬術や武蔵中原のアリーナとかだとやられてそうだね。暑いよりいいか。

 さて暑いさなか気づいたら、家の近くのアパート、クーラーの室外機がないよ。ひえええ、クーラーなしか。
 わたしも30歳前の一時期、クーラーなしでしたが、若かったからねえ、東京はまだ温帯だったし。皆様はいかがですか? 人間39歳を超えると体のつくりが変わるんですよ、そういう方はなんとかクーラーつけたほうがいいです。
 壁に穴を開けなくても、「ウィンドクーラー」っていってはめ込み式のクーラーがあります(わたしの初めてのクーラー)。その分部屋が暗くなりますが、夏だけ(外せる)だから陽が当たらない分涼しいともいえる。そこそこ有効ですよ。器具から出る水がずいぶん溜まりましたが。

 現在の私事に移りまして、次回論究、一通り文字数が一冊分にそろったので、めちゃくちゃにつなげてみましたが、そこで困った。
 あまり主体的な動機で書いたものじゃないので(女性差別とか共生とかって、まあただのこの世の置き土産作品とでもいうか)、重点の置き方がわからない。何を強調していいものやら。細かく言ってもどうせ誰にも通じやしないから、何が大事かを強調しとかないといけない。いけないというか、何しろ主体性がないんで他に楽しさを見いだせない。
 「種の起原」ってあるじゃん、ダーウィン。全然めくる気にもなれない岩波文庫3冊本(ほかにもあります)。あれの若人用のリライト1冊本ていうのがあって、分かりやすいのに感心。こういうふうにポイントを押さえれば細かく書く必要はないんだよなあ、細かいとこは自分で考えればいいし、とうらやましく思ったところで。しかし、私の次回作の意義は何なんだろう? そもそも一般論では余り同情してないことが私自身にばれてしまう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本来の「物質の哲学的概念」

2021-07-17 14:26:09 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方梅雨明けで、例によって連日熱くなるようで。昨日は外歩いたら暑気あたりで気持ちが悪くなりました。華奢な私。
 副作用してるうちに東京地方のお盆は終わってしまいました。ネットの広告費稼ぎのせいでずれたお盆さえ終わり。東京のお盆は太陽暦導入の明治時代から11日から15日までって決まってるんですけどね。

 先週のニュースは世間じゃ、国の税収が過去最高だとか、剰余金が過去最高とかわけのわかんないことを言ってましたが、まあわけがわかんないからしょうがない。このご時世にどこで儲けてやがんのかね。

 さて今週のローカルニュース。
「小田急百貨店、新宿店本館の営業を22年9月に終了 超高層ビルに」(毎日新聞)。
 関係ない? さみしいことをいうね。
 わたしゃ児童期は渋谷、青春期は池袋、それ以後は新宿が拠点だったもので、残念だよ、ってもう何年も行ってないけど。しょうがないね、ブルジョワのもんばかり売るからばちがあたったさ。
 それにしてもあっちもこっちも私の歳以下の建物(店)がつぶれて。あと残ってるのは鎌倉のミルクホールくらいだよ。新しいのが増えないんだからしょうがないけど。

 で、借りた本で印象的なのが、 小杉亮子「東大闘争の語り」、全編インタビュー構成の博士論文。いや、壮大な無茶。
 構築主義的政治学とでもいうのでしょうか。しかしこれは、いくら話をかき集めても誰も経験しなかった東大闘争だと思うぞ。現実ってこういうものではない。まだ予断はあろうとも小熊の「1968」のほうが現実らしい。
 とすると、これはなんなんだろう? 小杉氏の心的現象というものではないのかしら。
疑問符を4つばかり飛ばしたい。構築主義の方は、主義を捨てろとは言わないが、全員で寄ってたかって方法論の精査をするのがいいと思うんだよね。どこまでが論理が正しく反映できる現実の範囲か。人間同士の現実的な相互関係のない場面に当てはめたら、いくら研究対象がその「登場人物」だといってもこれは無茶。


 というわけで本日はお盆期なのでオカルト、、っていうとファンが怒るな。まあ奇ッ怪な理屈が正しいという話。  
 この世には自然史というものがあって、それは天体史に生物史に社会史でできていて、全部に弁証法的論理が貫徹する、という、これも壮大な無茶、梯明秀の本。
 もとはといえば梯を好きなK派が吉田憲夫(経済学)をけなすときに引用してたのを見て、、エー、ホントかよ、と思って読み直したもの。
 マルクスには貸ししかありませんがエンゲルスと梯は好きなので、ほんとのところを確認しようと。

 で、まあ大昔の梯氏をけなしてもしょうがないので、積極的に書きます。
 そもそも自然なるものの「存在」には歴史も変遷もありません。歴史も変遷も人間が作るものです。
 もちろん、人間が自らの手で作り上げられはしないので、この作業を「自然の模写」と称するのです。これがエンゲルス的認識論です。もともとは「自然界」にある諸要素を人間がその並びに従って(理屈です)整序するものが「歴史」なのです。
 それは他者への伝達という外観と、他者への意味の伝達による他者行為の(強制的)勧奨という2つの意味での「イデオロギー」ですから、当該時代の支配の規定性に沿って変化します。
 分かりやすさ優先で単純化して例示しましょう。
 歴史というものは、その時の伝達上の支配権力の規定性に従って
1 支配者の歴史
2 共同性の歴史
3 個々に分断された歴史
 というふうに人間の歴史に姿を変えて現れます。
 すなわち、第1に、神や仏を主体にした歴史であり、第2にこれに対抗する「プロレタリアート」や「民主的人民」という「集合体」の歴史であり、第3に、権力を攻撃することへの意味が薄れた先進資本主義国での「個人」の歴史です。
 これに対応し、「自然」なるものは、第1に神の創造物として捉えられ、第2に支配権力への攻撃を反映した自己神格、すなわち、生命の発生と人間の進展として捉えられ、第3に、おこがましい人間への関心を隠して、生物一般の同質的進展の歴史として捉えられてゆきます。
 ついでに、第1から第2への変換点として、神の創造物から「自然」なるものの措定、続いて全体としての自然把握。
 第2から第3への変換点として、自然一般から「生活している自然生物たち」という自然把握を挙げておくのもいいかもしれません。(今西生態学の関連です)
 なお、ここで未来は歴史ではないのでご注意。形を変えて(書物の中で)繰り返すのはこの現在までの瞬間だけです。 
 さて、このように歴史とは観照です。要は観念内での把握にすぎません。
 しかし、その最後の一瞬に、未来との接点が生まれます。それが人間の意志であり意思であり人間の実践です。そしてこれを構成するものが「疎外された自由」、人間の主体性なのです。この直近で最後の時に、ここに第4に現れるものが「共生」としての歴史なのです。
 
 もっとも本日の主題は、歴史とは人間の創作物である「ように見えるにもかかわらず」自然の模写なのである、ということの強調でした。逆に「自然が独立に歴史を展開する」などという物言いは、一見唯物論的でありながらも、実は観念論なのです。歴史は人間による下手な模写に過ぎず、しかし自然は「存在する」に過ぎないのです。

 梯氏の百万言は、悪いけど、すでに褒めるものではない。
 とはいえ、決して無意味なものではありません。
 彼は問題を立てたのです。
 そして「問題」は、それが出されれば、方法論を持つ者にとってはすでに解けているものなのです。
 ゼロと100の違いは無限ですが、1と100との差は15分(の思考)の差でしかないのです。(文字にするのに時間がかかりますが)
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本日休養

2021-07-10 10:42:14 | 断片
 こんにちは。
 昨日モデルナの2回目を打ったら、今日は37.4度なので休みます。
 風邪とかだと気合も重要ですが、これはただの生体反応のようで、寝てたほうが早そう。
 病気という感覚もないんだけどね。

 年寄りは熱が出ないと聞いていたのにさ。家人も38度。当家はまだ若いというのだろうか。
 若い皆様におかれましては、ゼリーを用意しとくのがよろしかろうと。
 うどんも豆腐も用意したのですが、ゼリーは忘れ。速攻食べられるというのは価値が高い。

 (p.s. その後、接種後31時間後に頑固な熱はスッと消えました。おかしなやつ。
 多分、本人は防御反応の基本で体温を上げてみたんだけど、そのうち「あれ?」と気づいて下げたんだよね。スイッチだけで基盤がないからスッと下がる(隈の説です)。
 その後は前回のような体の変調もなく、2回目はタチはいいかも(心筋炎、クモ膜にはご注意)。
 ともかく健康(かどうかは知りませんが)が一番、健康なうちになんでもしとかなきゃ。明日のことはわからない。
 
 なお、家人は38.6度になったので(平熱35.8度)ロキソニンを飲んだら15分後に36.9度に下がりました。身が軽くなってうれしいとのこと。偶然「体が気が付いた」時期かもしれませんが。
 都市伝説のアセトアミノフェンはワクチン熱にはほんとに効かないようです、が素人ですので起こったことだけのお知らせ。
 ちなみに痛みへのロキソニンの効果は30分かかります。)

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

個人と社会の二項対立

2021-07-03 13:19:27 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。もう7月に入り、青いみどりの草むらにオレンジ色のノカンゾウが咲く今日この頃
 しかし今日は神奈川県地方土砂降りで、県内鉄道は軒並み停止か遅延。土曜日でよかった、びしょ濡れのまま遅延すし詰めの通勤電車にもみくちゃにされちゃあ救われません。(地域的にはなぜか生きてる南武線と横浜線が不思議。南武線は東京都沿いなのでいいとして、横浜線てそんな都会の鉄道だったのか。)

 さて、時期的なニュースは、大谷とコロナしかないように思えるのは私のせいでしょうか? yahooの表てとか見ても、あとはネコかパンダの双子。双子も公平じゃなくてなんか可哀そうだし。
 今日のスーパーのチラシはあれもこれもアジアンフェアで、ガパオライスとかルーロー飯とかカオマンガイ、よくわからんものが。ガパオはガバオだと思ってましたが、チラシの文字が大きいので「パ」だと知りました。ほんとパソコン文字だと小さくて読めなくて(パソコン本体のせいとも思う、モニターではなく)。
 しかし、トルコライスとか、アジアンもどこが違うの? みたいなのばっかで。どれも食べたことはありませんが、辛いんでしょうねえ。唐辛子は苦手。唐辛子を野菜として食べるブータン人は、やっぱりおなか壊すって。お気をつけください。
 
 地域ニュース。
 一昨日のニュースだと、霞が関ビルを壊すんだって。できて50年の東京の高層ビル第1号。これは高石友也のファーストアルバムの表紙を飾った歴史ある建物で(ごめん、裏見開きだった)、曇り空、建設中の霞が関ビルの下をうらぶれた高石がギターケース抱えてうつむいて歩いていく、という好きな写真。高層ビルより長生きしてしまった。
 「『東京お台場 大江戸温泉物語』9・5に営業終了&閉館 18年間の歴史に幕」(oricon news)。
 これもさみしい。大衆浴場ね。できたばっかのとき仕事で使ってね(入浴料は自費)。面白かったなあ。
 
 というわけで久しぶりに社会学。テーマはほんとは「現象学的社会学による社会把握」。しかし限定しちゃうと、いまの理論は知らないし、知りたくもないから改めてわざわざ批判もしたくないし。
 
 さて、若いころ、ガリ版刷りで配った自分の論稿を見て、おや、ずいぶん主観的だったんだなあ、と感心しました。
 今は現象学派の悪口を言ってますが、とても若い頃はなにしろサルトリアンですから、わたしも現象学的マルクス派だったのです。先輩だよ。そのころは「社会学基礎理論のうち運動論」が専攻だったけど。
 しかし、それだと国家には行き着けない。
 で、私もパーソンズのように社会と個人の分断を、しかしパーソンズとは異なり行為理論の連結器つきで、図るようになったわけです。 
 というわけで、現象学派の影響が強すぎる現況を憂慮して、個人と社会はなぜに分断しなければいけないか、を改めて書いておきたいと思います。
 
1 現象学的社会学にある正しさ

 さて、そもそもは、主観的な皆様のほうが認識論的には正しい。本来の「社会」は個人の観念の中にあります。
 なぜか。
 本来、人間個人にとって、世界というものは、それぞれが固有の変動をする諸物体の集合体です。木を見て葉を見て草を見て、牛を見て虫を見てヘビを見て。それぞれの物体が目の前を動いている、それが個人にとっての世界です。その世界は見たからなんぼのものではなく、自分で触ってみて捉えようとしてみて。あるいは親に聞き仲間に聞き。そんな各様態の事実認知の集合体として観念の中に存するようになるわけです。
 さて同様に「社会」なるものもそんな各様態の事実認知の集合体に過ぎません。
 自分で人を動かそうとしてみて。嫌だけど仕方なく言うことをきいてみて。あるいは親に聞き仲間に聞き。そんな事実認知の集合体が「社会」なり「世の中」です。
 もっともここで、「〇〇の社会」という言葉を使う以上は、そこに「〇〇」という統一性がなければなりませんが、ここではその問題は飛ばします。
 元に戻って、、、社会なるものは先達に聞くとどうも自分の回りだけではないようだ。その他に「アフリカ人の社会」や「ハチの社会」や「クマの社会」もあるようだ、、、というふうに、要するにそんな自分の世界認識の一部に過ぎません。従って、この限りでは個人の観念を探ればすべては明らかになってもいいだろう、と気持ちはします。
 
2 現象学的社会学の限界

 さて、しかしそうはならない。
 なぜか。焦点となっている社会には、自分と相互行為さえしない、自由な他者が含まれているからです。
 相互行為でもしてくれれば、「社会は相互行為の体系である」とかいって斜に構えていればいいのですが、そうは問屋が卸さない、って知らない語法か。
 「相互行為がなければ関係ないからいいではないか」とか「そんな知らない事象も言葉によって伝えられる」とかいいますか?
 残念ながらこの世の中、知らないところから唐突に自分の知らない消費物資が現れ、あるいは唐突に銃を持った兵士が戸口に弾丸をぶちこんでくる。
 この故にこそ、社会は個人と同じ平面では語れないのです。
 正しく言えば、確かに現象するまでは社会ではないとすれば記述はいくらでもできる。しかし、知らない事象が突然現れてくる「社会の裏切り」について、その規定性をつかむことはできないのです。
 
 人間はこの自由な他者を透視しなければならない。たとえ今は見えなくとも、見えない彼らを含んだものとして「全体社会」を捉えなければならない。しかして因果連関を析出して将来に適用させる社会科学としての社会学は、「社会」を自分とは別に別個に立てなければならないのです。 
 すなわち社会とは、この自由な他者が受け持った規定性と、彼がいる環境の規定性のことなのです、たまたま他者の中に自分も入るという構制の。 
 残念ながら社会とは自己から離れたものなのです。観念的にも現実にも。ここには対面的な社会心理学や一時的な人的交渉のコミュニケーション学を除いて、社会科学は存在できないのです。
 それは叙述しようとすれば叙述は不可能ではない。たとえば仮定を場合分けして電話帳のような厚さにまとめるとかすればできなくはないでしょう。しかし、意味のある理論とは、人民に役立つ理論とは、一言で立言を終わらせることが必要なのです。そうでなければ生きている家庭では使えない。百万言を費やした立言など存在しないのと同じ、自己満足の「理論」など、墓碑銘にもならない。

 って言われりゃ当たり前? ところがね、当面の課題(運動論には全体社会論は出てこない)に関係がないと、「そんなもんなんとかなるや」とか「なんとかするや」とか思っちまうものなのです、って、まあ能天気な私。

3 現象学的社会学の利点

 とはいえ、現象学的社会学には2つの利点があります。
 第1に、それをもって現実の因果連関の「説明」にあてることができる。なにしろ「そう思っている行為者」を前提としているのだから、説明に、ある意味、間違いはない。
 ただし、そんな説明に理論は要りません。マックス・ウェーバーの時代から、そんな説明でよければ何の訓練もない人間にだってできる。その結果が社会学者の数だけある社会学です。あるいは百人が一致するのでよく見たら、ただの常識の記述でしかない社会学です。どうしようと結構ですが、そんなものが現実社会だと思われてはたまりません。
 第2に、下位体系をめぐる個人の意識に焦点を当てた分析により、下位体系への上位体系の隠れた影響を析出することができる。たとえば家族なら家族の歴史的あるいは国際的比較について、当該集合体の構成員の行為の意識を「理論的に」比較すれば、それらの間にはいくつかの異なった現象が見いだせる。それはどこから由来するのか? 論理上、下位体系にない要素ですからそれ以外の体系、つまり上位体系由来です。
 これはやってみないとわかりませんし、そんなことをやっている学問的営為を拝見したこともない。なぜか。この作業には基礎理論が要るのです。この基礎理論を構築できるほどの研究者は、途中で気が付いて全体体系の研究に鞍替えするはずだ、というわけです。そしてエスタブリッシュメントは誰も昔の失敗など語りはしません。
 というわけで、それが可能なことは誰も知らないでしょうから、記載しておくべきでしょう。
 
4 なお念のため

 ケチをつけているとはいっても、それらの当該の学が間違っているとかといっているのではありません。理論はそれが論理的な手続きさえ踏んでいればなんであれ、統合的な理論の「部分」となるわけで、隈理論もいろいろお世話になっておりますから、社会学に限ってさえこのブログで「先生」名でお呼びするわけです、ってもうご存命の方は数少ないのでしょうか。という発言の問題は、「部分」というと御本人が怒る、というだけで、皆様方の認識に何かを及ぼすわけではありません。
 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする