リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

時間つなぎに

2009-09-30 21:33:48 | その他
 こんばんは。ごぶさた。
 季節外れの夏休みの報いではないんですが今週はちょっと忙しいので、時間つなぎに。

 今日の夕刊によりますと、混合診療の判決が、高裁で逆転敗訴に、
とのこと。
 「なんじゃ、混合診療って」、みたいなことはおいて、
 時々ある、地裁での左翼的=革新的勝利、次いで、高裁での逆転敗北、みたいなパターンのことで。
 よくあると思いません?高裁は反動的だなあ、それに引きかえ、地裁の人たちは民衆の味方だなあ、って。

 ちゃいますがな。
 
 当ブログのような専門の風が吹いているとこの読者でも、正直な読者では1%も知らないと思うので、言っちゃおうかと思いますが、
 私が社会学のような正直者の世界しか知らなかったとき聞いた話ですが、各地裁には、今度は誰が裁判官に当たるという順番があるんだそうで。
 で、左翼=革新的なグループは、その順番を勘定して、自分たちに益する裁判官に当たるように訴訟をセットするんだそうです。
 つまり、もとから判決結果なんてわかってるんですな。
 運悪く裁判官が外れたら、初めからやり直し、東京(地裁)がダメなら京都(地裁)があるさ。

 裁判なんてそんなもの。いやさ。法律なんてそんなものでんがな。
 法学が社会科学ではない、ということが法学者以外では常識だというのは、こういうことです。

 以上、「ためになるブログ」、でした。

 あ、いや、これは30年前の話ですからね。今はどうなんでしょうねえ、私はぜんぜん知りません。
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思想の資格

2009-09-20 22:32:46 | 歴史への視角
 なんて、前述は前座で。

 下記2名のような、これでもフェミニスト、に比べて正真正銘のフェミニストが山川菊栄。
 明治23年生まれ、社会党系のおばあちゃま。もうしんじゃいましたが。
 『山川菊栄評論集』(鈴木裕子編)岩波文庫、1990。

 本題は、この宣伝を、まず、しまして。
 この人は、若いとき、って戦前ですが、こんないいこと書いてたよ、って話で。
 かつ、戦争中も戦争礼賛などしなかった。もちろん社会党系の人は拷問死などはしなくてすんだのですが、それにしても、男共がみんな戦争賛歌を奏で出すのは今と同じです。

 ついで、ただ、こんな人でも、戦後になるといまいちで、というのが本日の本体。
 
 思想に必要なのは、その主唱者が人間を見てしゃべっている、ということです。
 昔取ったキネヅカで、私は社会主義者でございます。といっても、そんなものは思想ではない。
 人間を見て、その人間について憤る、その人間のために闘う、闘おうとする、そこに思想がある。他人が共感し、それなら我も、という思想があるのです。
 山川女史が憤った女子繊維労働者の境遇は、確かに戦後姿を消した。その時点で、彼女らを若い心に組み込んだ思想家は役目を終えてしまう。この人は70年闘争時代も生きていたのですが、だからといって彼女には、私や私の友人が見た怒りは、見えはしなかった。
 (そういえば、高校生の頃、原宿にあったこの人の遺産組織の部屋を借りて、楽しい学習会をしたことを思い出しましたが、これって30年間思い出したことがなかったです、、、なお、経過年数はいつものウソ)
 それでよいのだと思いますが、それでよいのは山川女史のように、恥ずかしくなく闘い終わった人だけだなあ、とも思います。


(注)
以下、注です。

 と、上記を書いてる最中にネット検索で引っかかった、
 杉山章子著 『占領期の医療改革』
 の評
  評者:南雲 和夫(この人は今は問題ではなく)
「著者はこれら占領軍による性病対策および公嬌対策の本質を,「『民主主義』を掲げて公娼廃止を指示し,女性を解放しつつ,その一方では女性を性的対象物として扱い,性病予防のためには人権を無視した強制検挙を繰り返した」(136頁)ものと捉え,その二面性を突いている」

 こんなふうになってしまうんですよ、思想というものは。
 すでに戦後生まれの杉山女史には、公娼廃止の歴史的意義など理論上にしか見えていない。
 かくて、「同じだろ、男族よ」と、「二面性」になってしまう。制度的にぜんぜん違うものが、道徳的に同じになってしまう。彼女には男しか見えていない。
 (注:私もこの本持ってますよ。ただ、ちょっと大事に奥深くしまいすぎて)


 てなわけで、来週は、とっといた夏休みを使ってちょっと旅行しますので、お休みをします。
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今、一瞬の思想

2009-09-20 21:42:07 | 歴史への視角
 こんばんは、昨日今日、当地では神社の秋祭り。
 生まれ故郷は昔は夏祭りしかしませんでしたし、こちらへきても町内会の夏祭りしか、いいとは思えませんでした。今年も2日もかけてお年寄りのカラオケ大会に、ゴレンジャーの類の余興。いやなものはいや、という感じです(というのが仕事の帰りがけの道に、マイクで響き渡るんですね)。私などには無理があるんじゃないかと思いますけどね。過渡期というやつでしょうか。

 さて、本日は、思想の見方。
 女性問題には何の関心もありませんが、図書館の書棚を眺めていまして、ベーベルの本が目に入り、何それ何それと見るうちに、ほおと思ったのが
水田珠枝、「女性解放思想史」、筑摩書房、1994.
のあとがき解説の安川悦子。
 彼女、水田さんを批判して、いわく。
「本書といえどもその時代の支配的空気から自由ではなかった」「著者には、労働をとおして女性が解放される具体的道筋がはっきり見えていなかったように思われる」
「今は、、、地球規模にひろがる分業と協業の中で、フェミニズムの課題の解決を見通す時代になったのである」
 だってさあ。
 (ああ、これだけ転記するのは我慢の限界です。ネットでしゃべって欲しいね。)
 二人とも、思想史専攻の大学教授系。
 こういう人たちはもう70,80歳なので若い人たちには関係ないでしょうが、どっこい、やることは幾つでもいっしょです。年寄りのことと笑っていても思想史愛好者なんてそんなもの。
 
 思想というのは他人を説得するものです。その時代にしか生きていない他人を説得するものなのです。
 坊主の説教のように、「見通し」たりしなかったりするもんじゃない。
 もちろん、普遍的に正しい思想などもありはしない。その瞬間にフィットする思想のみがある。その思想はその瞬間に正しい。
 しかし、思想が、今一瞬にしか該当しないからには、常に、明日から見れば全ての思想は正しくない。今日の正当な思想は明日には古くなる。

 安川女史がなんと言おうと、水田さんはその時点で正しい思想を語っていたことに疑問などない。本書のように文庫再版になっていることがその証拠です。
 安川女史が、思想として水田さんを批判できるというのなら、同じだけ、自分の本を売らなければいけない。
 思想なんてそんな、他愛もない、しかし、私のような真理追及者には触ることもできない(したくもない)ものです。

 思想というものは、究極的には2つしかない。
 まず、支配階級の第1選択肢に到達するもの
 第2に、対抗勢力の第1選択肢に到達するもの
 あと、それらしいものが、次の自称理論闘争の再生産です。しかし、これは思想なんかではない。誰も説得できやしない、組織の内部人だけに押しつける説教にしか過ぎないから。
 第1に、理屈を捻じ曲げて、現実の不利益を、非合理と決めつけるもの
 第2に、現実を無視して、非合理ではないとあえて言立てるもの
 両者どっちもどっち。同じこと。

 とにもかくにも、社会学研究者が何を言っても無駄な領域で、ま、それで気が済むなら御随に、というところで。
 私などはそんなことで歴史が動いちゃたまらないとも思いますが、そういう日常的な過程が歴史の大道ではあります。
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社会主義レアリズム

2009-09-13 22:12:59 | 断片
 とゆう、前述の怒りはおきまして、
 さて、社会主義レアリズム。

 わたくし儀、社会主義リアリズムというやつは理解の範囲を越えてまして、
 なんでこんな下手くそな絵をわざわざ。
 みたいな。
 その点、社会主義リアリズム写真というのはシンプルでよいですね。そのため、そこから出た人々も立派に生計を立てております。

 さて、今夜は日曜美術館、山下菊二。
 戦争前のそこそこうまい彼の技術が一転、あの下手くそな社会主義レアリズム。
 さてはて。
 
 テレビを聞いていれば、戦争中の自分たちの中国人虐殺から、日本地主共の小作人虐待に怒りを覚えて社会主義リアリズムに走ったという。
 
 そういわれちゃあ、なんとか出口を探したいものです。
 
 リアリズムとは、写実主義ですから、写真ならそのまま。ピントさえ合っていれば、とりあえず、その傘下に加わることが出来ます。
 
 ところで絵画です。
 とくに油絵とゆうやつはそうはいかない。
 油絵が写実であるためには、コローやイギリスならラファエル前派、コンスタブルといった思想が必要です(この人たちが写実派と呼ばれないのは知っておりますよ)。人間? 関係ねえや、って感じですね。
 油絵とは手でこねる絵の具です。人間にとっては手にもてる武器です。武器があればあるだけ直裁的になるのは当然。
 私にも覚えがあります。
 じゃあ、どうするねん、ということです。
 つまり、「人が首吊りになっているさまを表現するのに、どう表現するんだ」
 という問いです。
 
 【情報として】
 その答のその1が、どの国のものであれ、「社会主義レアリズム」です。そのまんま油絵の具をキャンバスに叩きつけて、塗り絵のように首吊り死人の様を筆記する。この時点で模写を通り越さざるを得ない。それが情報としての伝達です。
 虐殺とはこうなんだ、それにこうなんだ、その上こうなんだよ。話したいことは山のようにある。しかし、持ち物は絵の具だけ。
 
 しかし、それは残念ながら残らない。正確には「間歇的にしか」残らない。
 継続的に残るものが立体派です、っていうか、要するにデザインです。
 シンプルに言えば、ピカソも岡本も、不快なものを描かなかった、ということです。
 
 じゃあ社会主義レアリズムは不快なのかって。そんなことは本来ねえよ。
 社会主義リアリズム写真は決して不快ではない。見ていて心が痛いだけ。
 しかし、油絵は見ても心が痛くない。油絵というのは画家の心を通さなければ痛みは通じない。
 
 【人間として】
 なぜ社会主義レアリズムがバカにされるのか。
 そこには人間がないからです。
 死んでいった人間がない。あるのは描いた奴の勝手な思いだけ。
 死ぬには、それだけの人生がいる。
 それを書くのに、死んだ人間にだけ3ヶ月向き合っていれば、ラファエル前派になるでしょ。「死んだ人間」とはそういうものですし、それを見る人間もそういうものです。
 だから、絵画上の社会主義レアリズムは否定されてしまう。しょうがないしょ。だれだって、かけがえのない自分の人生が描かれてなきゃ、政治主義だって言いますわな。見るほうだって同じ、なんじゃこれ、ですよ。
 
   でもね。
   私が画家だったら、そして誰かがともかくも給料をくれていたら、それにもかかわらず、有無を言わせず描き続けたと思いますけどね。
   そのときの描き方は、怒り。浜田知明みたいに、って、この名前忘れてyahooで15分も費やしてしまった。もういい。忙しいのでおしまい。「間歇的」とはそういうことですから。


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臆病者のアメリカ

2009-09-13 22:04:37 | 断片
 「ダーウィン映画米で上映見送り」

 闘ったことのないアメリカ
 闘ったのは戦争継続50年間、戦死した0.001%の非アメリカ人のみ。
 脂肪太りのこいつらの頼みといえば、神だけ。

 アメリカ生まれのキリストは脂肪チキンか。

 てめえら、自由のために闘ってみろよ。 
 てめえらのうち何人が拷問で死んだんだ???
 
 
    日本人のみなさんも、自称「自由の国アメリカ」CMにごまかされないようにね。
    誰と誰が戦って死んだか、具体的に把握してね。
    
    誰も死んじゃあいねえや。
    死んだのは貧乏人だけさ。
    自分が死なねえことならなんだっていえらあ。臆病者が。。。。

   
      一方、ヨーロッパは、勝ちも負けも知っているということです。
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「閣僚の3割を女性へ」

2009-09-12 22:03:04 | 歴史への視角
 こんばんは。秋の虫が鳴いております。
 当家はボロ屋ではありますが、うれしいですね。

 さて、本件。
 今日読んだ、昨日か今日の朝日新聞の大見出し、外国機関が「日本の女性差別を非難」とかいう趣旨。
 なに、日本に毛唐にケナされるような女性差別があったっけ、と一瞬思いましたが、小見出しまで見ると、「閣僚の3割を女性にしたらよい」とか外国から言われたそうです。そっから先は興味がないので読みませんでしたが。
 さてさて、朝日新聞ごときが何を考えて書いているものやら。(あ、ネットかも)
 というと
「またあいつが、何の偏見をいうのか」
 というのと
「あの人が差別発言をするわけないわ」
 という2通りの反応が期待されるわたくし。
 行いが悪いということでしょう。

 で、わたくしの趣旨は、「それもよかでっしょ。」 ということです。

 というだけで、日本人の9割から外れていると思うのは間違いかな。
 ふつうは、「そんなの個人の実力で決めたらいいことでしょ」 って思わない?
 生き続けて40数年(いつものウソ)、東京地方、同年代以下では常にそういう反応でしたが。
 東京地方、といったのは、そうでない地方とそうでない5%の人があるのを知ってのことですが。(P.S. これ、2通りありますね。本旨は女性差別県のことをいってるのではなく)

 でも、ここで、あえて、それもいいでしょ、といいます。

 問題は、上記中、「実力」ってやつでね。

 第1に、社会学研究者として強調したいのは、この幻想の実力をこさえたのは、権力を牛耳っている男の奴らだ、ということです。
 それがいかに今の世に合理的であっても、それは権力者の作った制度にフィットしている当たり前の状態に過ぎない。
 ところで、どうでもいい制度を変えるのは、法関係者です。
 素人ばかりの日本の国会議員は法関係者ではありません。ようやく閣僚になれる者だけが、政府官僚に勝てる。
 とゆうわけで、女がアタマになって「女でも実力がある」と呼ばれるように、制度を変えていくのはよいことさ。

 さて、第2点。
 そんなこといっても、女なんか、いい子ぶるか(例:某Y元外務大臣)、キマリを盾にとるか(某元英国首相)しかできないじゃないか。政治なんか、暴力団抗争と一緒だぞ。
 という発言が出ます。、、、出ないか。どうせわたしゃ偏見家だからね。

 だから、女閣僚はまず、そこを変えてゆくの。いい子の優等生で東大を出た女でなくとも女が閣僚をやれる世界、キマリキマリと言わなくとも、自分の主体的ない生き方をする人間が閣僚になれる世界。
 制度なんてそういうものだって。権力があれば変えていける。
 資本主義の世界では、商品経済を揺るがさない限り、どのようにだって変えられるのです。

 たかだか、閣僚など。
 閣僚って英語でmesitukaiっていうんですよ。知ってます?
 公僕じゃなくてね。国王の召使い。
 とりあえず、国家官僚がちゃんとしてればどんな人間でもできるさ。
   国家官僚は、ちゃんと計算の出来る奴になって欲しいけどね。


   
     なお、同じように、閣僚の3割は、過去3年の平均年収が300万円以下の人にすべきだと思いませんか?
     それが理屈でさあ。
     女性差別は悪くて、貧乏人差別はよいのかね。


P.S. というか(注)
   年収300万というのは、自営業的にいうと、年所得100万円ですね。
   自由業だと所得200万。ほんと、計算が合わないんだよね。
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一つの事実に説明はいくつ

2009-09-06 18:40:08 | その他
 こんばんは。もう名実共に秋ですねえ。
 今年は、丸々と太ったトウモロコシを2回も焼いて食べることができ、うれしい夏でした。
 それっきゃないのかよ、という気も自分でしますが、別にそれでいいや。
 そういえば、去年のアサガオ(の種)がなかなか大きくならず、咲いてもよれてて気をもんでいましたが、昨日、瑞々しく立派に咲きました。まあ、これもいいや。(去年のアサガオと今年のアサガオとは、違う生命なのか同じ生命なのか、ちょっと不明なところがあります)

 さて、今日は夕刊もなく、酔言も出なそうなので、晩酌前にちょっと真面目なことを書こうか、なんにしようかな、本業(=執筆)的には、情報論の構成を考慮中で、ここには合わないし。
 既存の社会学の批判でも書こうか、yahooの検索順に出てきたものに悪口しようっと、と思いまして。

 yahoo検索で初めに登場するのが「ソキウス」というHPですが、ここは話が長い。まあ、学生用解説のHPなんでしょうね。この中から著者の意見を取り出すのも面倒だし、なによりも作者の野村一夫という人はいい人のようで悪口をいうのも気を引ける。
 パス。
 次は、「反社会学講座」とのこと。
 パオロ・マッツァリーノさん。
 うん、知らない人だけど、このぐらいの分かりやすい文章が批判にはちょうどいい、と適当な項目をクリック。
 そしたら、『最近若者は切れやすいというメディア記事があるが、デマゴギー(扇動的虚偽)である』という趣旨を、いっております。
 昔のほうが少年犯罪が多いということは以前に朝日新聞に載っておりましたので(このHPの受け売りか?)、その話はよいのですが、読んでてちょっと興味深い付属説明が。
 
 http://mazzan.at.infoseek.co.jp/lesson2.html
 
マッツァリーノ氏:「それでは強盗・殺人・強姦・放火の四種をすべて合計したグラフをお見せします。」「最も少なかった平成2年と、最も多かった昭和35年では、件数の差は6.9倍にものぼります。というわけで、本日ここに戦後最もキレやすかった少年が決定致しました。グランプリは昭和35年の17歳、つまり昭和18年生まれで西暦2001年現在58歳の方々です。おめでとうございます。 」

 ほおお、そうでしたか、昭和18年生まれ、今では66歳ですね。
 いえね、ここんとこ、クレーマーって多いでしょ。当社でも「なんでこんなに自分勝手な奴らが」みたいなことで困っておるところですが、年寄りが多いんだよね。若い奴はシンプルに精神異常と思われますが、普通そうな爺さん、これが自分のことしか考えない。まったく日本人の美徳も地に落ちたかとどこの会社でも話しているのではないかと思うのですが、なんだ、昔っからかよ。
 
 と、批判どころではなく感心させていただきました。この説明が示唆的、ということです。
 
 この人がいうように、事実は一つ。これを教えてくれるのが実証的社会学者です。
 この人の実体は不明ですが、立派な社会学研究者ですね。
 
 さて、とはいえ、この事実は一つのものに説明を加えなくては収まらないのも社会学者です。感心はしましたが「戦後最もキレやすかった少年」が昭和18年生まれである証拠はない。私はこれを肯定して「なんだ、昔っからかよ」と書きましたが、私の肯定部分も、どこまでが世代的個人のパーソナリティのせいでどこまでが共同体的規範の弱体化のせいか、これだけではわからない。
 もちろん、著者もそれはわかってること(=メディアをからかっているだけ)は疑いないですけどね。
 でも、実証社会学の著作というのは、この種のようにできている。
 マッツァリーノ氏が冗談でいってることにチャチャは入れませんが、社会学者が真面目な顔をして書いている本の最後の2,3ページだけを虚心に読むと、確率8割で「何を根拠に」 と思うこと請け合いですよ。


P.S. 晩酌後、アイロンをかけながら考えたところ、「欧州語『デマゴギー』には本来そんな悪い意味はない」、とか言い出す若者がいるかなあ、みたいなとこで。
 特に大学生とかだと、「本は1語1語きちんと読め」とか、「本は趣旨を自分の言葉に置き換えて読め」とかいろんなこと言われてね、前者を取り入れるととりあえず語源主義に走って人を批判したつもりになるってことがありますよね。最近の漢字の、なんだっけか、「破天荒」だ、みたいに。バカだよね。「破天荒」なんて言葉、現代日本語にあるか? いいやない。「破天荒な」だけです。形容詞「破天荒な」の意味は、「気違いと他人の目には写るほど、豪快で大胆な」です。
 漢字委員なんて専門バカが自分の拠りどころだからね。講釈で優越を得ようとする。子供と一緒。
 若い人は、1語1語読みつつ、その趣旨を自分の言葉に置き換えること。他人への批判は自分の言葉に置き換えた時点ですることですね。


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