リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

人民の自由は弄び得る

2017-02-25 21:16:24 | その他
 こんばんは。目がかいい。かいいは全国弁か? まあ鼻水よりずいぶんまし、多少腫れてるけど。
 昨日はプレフラだって、アルバイトには関係ないけど。あほくさい提言だ。3時に会社でたって普通行くとこないでしょ。最近の若いのはそうでもないのかねえ。美術館だってすぐ閉まるし。3時から呑んだら酔いすぎて帰れないよ。
 で、本日はお客様。本日も、か。3月近辺は、人間、なんとなく旧交を温めたい気がしますかね。実際、社内でもよく昔の人に会うんですよ。

 さて、昨日、社内に落ちていた建築業新聞を読んだら中小工事業資本家もずっと儲かってるみたいだね。アベの借金バラマキ財政も土木資本家にだけはともかく慈雨のようだ。
 さらに安賃金労働者も、安賃金に限って、相変わらず引く手あまた。
 かくて保育園は作っても作っても後から後から需要が押し寄せ。安賃金派遣保育師も相変わらず引く手あまた。安賃金に限ってですが。なんとも「景気のいい」ことで。
 
 というわけで本日は、支配者の手口を。
 人が自分の自由にしがみつくのを権力者たちは、「得たり、おう」 とばかりいいようにもてあそぶ、というわけで。
 さて、上記のような事態は、労働者の2極分解といいます。
 資本家は、労働者の給料を下げるなんてことは反発が強すぎるから、新しく会社を作って新しい給料表にしてそこに労働者を移させたり、安い労働者(「俺はやりたいことをやるんだよ」)を雇ってとりあえず被指示労働をさせて、制度定着したら「同一賃金同一労働」だのとぬかして管理職以前のやつらは派遣系と取り替える。(「正社員になれたよ」)それで一見、派遣系労働の賃金が上がったようでも、会社全体ではうまいこと「働かない無駄飯食い」が「以前の給料の半分で働く労働者」に全とっかえされる。
 で、しかし、賃金が半分にされては人民大衆は消費ができない。消費できなければ資本過剰で日本資本主義は潰れる。が、世の中家族制度というものがある。みんなで生きれば恐くない、これがほんとの「家族賃金」 (社会科学上は男子1人分の賃金を指すのだけれど)。
 夫婦一緒で家族賃金、母子家庭でも親と一緒で家族賃金、うまくいけば子ども二人の学費もなんとかなるかも、というわけだ。
 専業主婦など夢の夢。保育園が足りることなどあるはずもない。(まことに「女も働けてうれしい」)
 という、まあ、思えばその通りの進行を、って、「思う」んじゃなくて、この30年現実に見て感心しているところ。
 それにしても、これは別テーマだけど不思議なのが23区内で賃貸に住もうという気持ち(交通費の出ないアルバイト等の方は除く)。生活体系が違うんだろうけど、遠くの安い地域に住んで、家賃分をためて子どもの学費にしたらいいと思うのは、私が都市サラリーマン階層の息子だからでしょうか。みなさま、多摩川渡った中古なら、家賃でもローンでも値段半分ですぜ。ローンなんてとんでもない? いやいやいやいや。それは違う。多摩川渡った中古は、絶対、都内家賃よりローンのほうが、額面で、安い。
 
 ま、そういうわけでこの時間です。
 本日はブラタモリの後となりました。ここのところ、1週間で安らぎを思える番組はこの1編だけ。だけ、って他に見るのは、ニュースと天気予報と将棋中継と日本百名山が全てですが。
 いいんねえタモリ。見てるととても安心します。そこらの自称左翼よりよっぽどの信頼です。この前は「20歳の思い出」と問われて「20歳の涙」と応えていました、そういう人でさあ。
 この番組、さらにいいのが要所に出るスチル写真(静止画)、そのうち静止画作者も名を挙げるでしょう。さらについで、井上陽水の歌、私にとってはアンドレ・カンドレ。50年前の雰囲気ぷんぷん。こいつで自分のフォークシンガーの素質に多少揺さぶりをかけられ、長谷川きよしにダメ押しをされ、その夢を吹っ切ったおかげで、私もこのようにこの150年来世界で唯一の社会科学者になれた、というわけです。世の中何が幸いするかはわかりません。
 というわけで本日も9時を迎えたので、おしまい。お後がよろしいようで。
 
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詩写真

2017-02-18 17:05:21 | コーヒーブレイク
 こんにちは。東京地方、昨日はほんとに春の陽気でした、花粉が飛ばないだけ春よりずいぶんいいし。残念なのは若葉が出てないことですが。対して今日は寒々しい。今お客さんが帰ったしね。
 
 さて、新聞世間は相変わらずトランプ。金の息子の暗殺というのもあるけれど、こちらはなんといってもキチガイの仕業でコメントのしようもない。
 トランプも世間におまかせなんだけれど、今日テレビで見てたら、いかにも言うことがファシズムで。これはあまり世間の人は感じないかな、と。
 ざっとネットを見ましたが、某K派が、40年来、気に入らない者向けに使っている悪口でファシスト呼ばわりしているだけのもよう。
 そうじゃなくて、当人たちはファシストではないけれど、状況に応えた政策提示がファシズムに近い、ということで。アメリカ白人を守るため、海外資本とイスラムをシャットアウトの大規制を! それしかない! ちゅうわけ。
 これを「民族主義」と呼ぶ人が多いですが、民族主義なんちゅうものは社会科学の概念ではない。ま、「準」ファシズムです。
 ファシズム、すなわち、資本主義過剰生産の行き詰まりによる労働者反乱を抑圧し、過剰生産を国家主導で打開すべく支配権力者がしかけた経済(-社会)規制体制のことです。
 (ところでアホのMS・IMEが変換する「期性」(きせい)たあ、いったいなんのことだね)
 ファシズムは世界戦争による経済体制の変革(不要な資本のリセットと人民の平等の進展による大衆資本主義の拡大)で解消されたけれど、今度は泥沼しかなさそうだ。今のところ相手がイスラムなのが、まだ「ファシスト」にまでなる必要のない状況、というわけ。
 こういうのも、展開しないとわからないので、ま、感想ね。
 
 さて、本日は、今年も決まりました中原中也賞。
 なんですが、今回はどの候補者も感情の薄さが目立ってお薦めできず。薄いなあ、、、可哀想というべきかもしれないほど。人生は1回ですぜ。何が面白くて生きているのか。詩人なんてどうせ、なんでも楽しめる庶民じゃないんだから。
 それにしても毎年非中也的な詩ばかりが受賞、さすがに客観的にも選者が何も考えていないと断定できそうに思われます。北川透とか佐々木幹郎とかいるのに何を考えているのだろうか。おそらくは年寄りの諦観なのだろうと思うのですが。「いまどき要求するほうがムリ」みたいな。
 
 で、わたし的にはこちらのほうがおなじみなった谷内修三さん。いつも詩人を検索するとこの人がブログで評を書いていて、その評が奇をてらわずまことにしっかりした評。
 いいね、こんな存在。今回も候補者の批評はほとんど網羅。
 ご本人、詩人ということですが、なにも無理して詩を書くことはない。なにしろとてもお人柄のよさそうな顔をしている。(検索でご当人の詩はすぐ見つからない、が無理して探さない)

 さて、遅ればせながら、久しぶりマイフェイボリットシング。
 そのブログに2年前から嵯峨信之のコーナーがあるようで、もしかすると、と検索すると、これが、あったね、朝焼けの大淀川。43番目にある。あるけど、わたしが覚えているフレーズだけで終わってしまってる。ざんねん。短詩だから。あと数行なんですが。谷内という人は客観的なので正しく、たいしたことない、と認識したようで。
 ま、詩集を借りたりすればいいんだけどね、そういう問題じゃないんだよね。
 詩集の字を読んだからって何かが甦るわけではない。そこまで自立的に立派な詩ではない。
 しかし、他者が語ればそこに新しい世界が広がる、場合がある。「嵯峨さんここにいたんだ、ところでここはどこ?」 みたいなもんさ。なにしろ他開的なわたし。
 けなしといて何をお前はいってるんだ? というと、あれは写真とコラボなんだよね。日本交通公社の雑誌「旅」、1973年近辺所収。10年位前、俳句写真とかあったじゃん。あんなもん。写真家不明。
 芸術的には少しインチキだけれど、受け手には芸術とか関係ないもんね。
 
 といえば、中原中也詩集に大竹新助の写真コラボがあるんですよ、これがまたなかなかよろしい。今ざっと検索しても出ないのはなぜかな。
 
 
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絵について

2017-02-11 15:59:08 | その他
 こんにちは。西高東低、東京地方、昨日は5分ほど吹雪でしたが(?)、今日辺りが最後の部屋中(なか)陽だまりでしょうか。太陽がどんどん高くなります。といっているうちに陽がはいらなくなりました。どうせ雲で翳ってしまったけれど。
 
 さて、新聞はほとんどトランプ。
 皆様はワイドショーなど見る機会はないでしょうが、先日たまたま仕方なく見たところ、読売系の日本テレビで、トランプの入国禁止7カ国民の話で、なんでもアメリカのテロ犯人19人のうち、サウジアラビア人が14人いる、なんでサウジアラビアを禁止しないのか、といってました。人数等は記憶ですのでそういう趣旨だったとご理解ください。
 さらにイスラム国が、テロにはなんの支障はないしかえって味方が増えるだろう、と喜んでいる話を紹介し、日本テレビも、その通りアメリカのイスラムは過激化するだろうと危ぶんでいました。
 というわけで
 その1、多くの年寄りは、この程度までは中道右派のワイドショーでも勉強すんだね。とちょっと驚き、
 その2、なら、トランプの悪口はわざわざこのブログで書くこともないな、と認識しました。若人はどうか知らないけど。結局、世間はイジメ趣味だね。相手は権力者なんだからそれでいいけど。
 
 といっても、いつもオタクの話題ではどうかと思われますので、本日は少しだけ絵のことでも。
 休日のストレス解消策に、坂崎乙郎という、昔は有名な美術評論家の本を借りてきましたが、なかなか鋭いわりに踏み込みがない。まあ美学者ではなく評論家なのでそれでよいのですが。で、本人の代わりに少し踏み込もうかと。
 そも、絵というのは現実ではないのですな。
 当たり前だ、けれど、そう言い切れるところがすごいわけで。、、、すごかないか。
 そういう意味では、窓からの景色も現実っぽくない。冬だというのにあったかいし。
 って、あったかいのはここが部屋の中だからですが、そんなことはわからない。
 ただ、窓を開けると、「冬の現実」が迫る。現実というものはかくのごとく、すべて、「行為によって現実化する」のです、現実化して初めて現実だともいえる。
 ともかく、とりあえず絵は現実ではない。
 どうひっくり返しても、手にあたる額縁は痛いが表現内容は現実ではない。
 かくて、絵が力を持つためには、目で見たときに「驚かす」等の非現実的描写が必要なわけです。それは、もしかすると現実かもしれない認知の混乱を引き起こします。その混乱の人による好悪によって、まず、絵は評価される。ここでは絵は複製で十分。ほとんどの絵画愛好者は、現物をみることもなく、絵画を十分に堪能します。
 ついで、絵の「読み込み」過程が生ずる。
 人は、これは画家が作った仮象だ、と思い至ってから、絵をためつすがめつ見だします。この過程で今度は、画家の現実に入り込む。このときは現物がよろしい。人は画家の筆のタッチから画家の現実に移入します。
 もっともこの過程は小説の示すところの「現実」と同じ。単純に頭脳作業で、以下同文ということになるわけです。
 以上、美術としての絵画の本質でした。
 
 なに、ほかに、技芸としての絵画の本質というのもありますが、これは資本主義以前まで。支配者が幻想過程を握っていた時代まで。あ、なお、上部構造は幻想過程などではありません。現実の行為の過程です。
 
 ともかく資本主義以降の美術としての絵画は、先の非現実性を打ち出せないかぎりは美術の資格がありません。日常を描いて誰が認知の変換を迫られるか。
 そんな絵画は技術でしかない。具象風景や具象人物なんか描いて日銭を稼いでいてはいけない。
 坂崎氏はそのように主張しております。
 
 もっとも以上の文章で、坂崎氏の担当は初めの一歩、と終わりの一言だけですが。
 終わりの一文というのも暗いね。そんなに暗く生きなくてもよかっただろうとも思いますが、気質というより世代というものなのでしょう。
 
 さらになお、絵画論は次回配本ではふれません。例証を挙げていくスペースはすでになし。芸術一般論で終わりなのでご注意。
 
 
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社会科学と広松渉、その2

2017-02-04 13:11:52 | 社会学の基礎概念
 本日の「続き」の話題、第2。社会科学と広松渉。

 さて、行為者の行為には、行為者自身がそれを見る視点が必要です。社会の研究者は、その視点から見る景色が本当はどういうものかを、主体的行為者に語らなければ、社会において科学が成立することはない。ま、正統プラグマティストの帰結というものです。

 ところが世の中には、科学は物事をつじつまよく語ればそれでいい、という観点があります。これも似たように「プラグマティズム」と呼ばれますが、インチキです。こういうのを「主義の主義化」といいます。(言わねえよ)
 つまり、そもそも科学の立場は「主義」ではないのですが、ただ、その科学の立場をまとめたものを「主義」と呼ぶと、その帰結の言語的意味自体に意義があるかのごとく一人歩きする、というわけです。

 ま、いいや、ともかくインチキな説明主義者について語ります。

(1) 説明主義者は世界をいかようにも語ることができる。これが世間で社会変更志向者の理論について言う、「視点を変えれば何とでもいえる」とかいう批難の(実感的には自己弁護している)現象である。
 確かにその視点は100万視点はあり、それに沿って100万の理論ができる。
 ただし、その理論はその「研究者」の頭の中で消える。そんな理論は社会には「必要がない」のだ。
 それを強調するのがプラグマティズムである。説明に現実妥当性のないものには、真理の資格がない。
 といって私はプラグマティストではない。およそ説明の妥当性そのものが歴史、ないし社会の産物だからだ。そんな資本家が満足するだけであっても科学になるような視点は、要するに「奴隷の科学」である。

(2) さて、そこで、対象事象はもともとブツ化(物化)される。それは別に不都合なことではない。人間はとりあえず自然界の、「モノ」しか扱うことはできないのだ。それが武谷のいう科学の実体的段階である。
 (昔は「物象化」などといわず、「物化」といったものです。今でもそう主張する人もいますが、広松と一緒にされなければ、どちらでも同じです。)
 ある現象を解明しようと思えば行為者は、その構成素を齧(かじ)ったり投げつけたりしなければならない。サルでもそうするだろう。
 しかしそこでとどまってはならない。
 しかして武谷の本質的段階である。すべてのモノは実体ではない。真実は実体であるかもしれないが、とりあえずそう捉えてはならない。
 実体の場合は人はそれを「何で構成されているか」「分析」するだろう。リンゴでも動物でもばらばらにされる。しかし科学的分析はわずかに違う。とても似通ってはいるのであるが、本当のありうる科学的分析はそうではない。
 まずは、その現象を構成している事象を必然化なさしめている構成素を捉える。
 これは理論上後退に見える。せっかく現象について実体を措定したのに、また「現象」かよ、ということである。
 さて、これは科学者ならニヤニヤしてしてやったりという顔をしてこういうだろう。「すでに実体が措定されているんだから、その仮象の実体を分析すればいいんだよ。仮象の構成素を見つけるわけだ。」
 そういうことなのである。
 物理学であれば、諸素粒子系の構成素は数的表現なのであるから、その数的表現を満足せしむる数的構成素を見つける。(むりやり素粒子同士をぶつけるのは、本質を見たいのではなく「現象」を見たいわけだ。武谷の三段階は、固定的なものではない。これが本質だ、といって終わるものではない。永遠の弁証法なのだ。)
 同様に、人は明治期日本の家族について、「嫁の役割」を実態として措定する。これでは広松のようだ。
 しかしそうではない。そのとき社会が言う「嫁の役割」 を嫁の役割であるかのごとく強いている構成素は何か、これが社会科学の知見である。
 それを、「それが嫁の役割行動だ」 といって平然と終われば、聞いた者も驚いてひっくり返る逆立ちである。
 ここで広松である。
 広松が言うには、学問的見地からして、期待する者の期待に応えて期待される者が行動するということが認められれば、その行動は「役割的行動」なのだそうである。
 (悪文を隈が易しく書き直した。存在と意味、第2巻、全集P100)
 
 さて、その1。
 前回その1で、広松的理論ではどこにも行為主体がない、という意味がおわかりだろうか。行為主体は、「客観的学者」に規定されているのである。世間の「せ」の字しか知らない哲学者ごときに。
 その2。
 しかも自分が死ぬ思いで決断した行動は、「学者に言わせれば」他人に教唆せしめられた行動なのである。まことにスターリン的扇動主義者の面目躍如である。

 元に戻る。社会科学の知見を取り入れて、新たに、明治時代の家に結婚後同居せんとする女Aが、どう状況を認知し、その状況の中でどう行為せんと意志するか。それが社会科学の立言の因果連関の始まりを構成するのである。
 すなわち抽象的には、その実体そのものではなく、それを実体として行為者の前に眼前せしめている、その力を分析するのである。その行為論的必然化素(=強制素)とその強制力を分離し、その上で行為者として行為すべく立言を挙げ (そこで終了ではない)、これに対し、他者が何人もその他の行為者としてこの立言を行為することで次々に修正し真理に近づけていく、これが社会科学なのである。
 行為主体に即した科学的立場は、当然に、次にそれを読み取る別の行為主体の行為に、そのまま役に立つ。これこそただの理論が科学と呼ばれる資格なのだ。
 
 以上。

 長かったですかね。読んだ一般の方がいらっしゃれば、お疲れさまでした。

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オカルトの続き(脳と心)

2017-02-04 13:03:17 | オカルト(途中から)
 こんにちは。冬とはいえ道を選べば梅の香りさえ漂う今日この頃、昨夜は家にいたら突然の奇声が響き渡り。すわ、階下の住居に強盗か、と思いましたら引き続き幼児が喜んでキャッキャ言う声が。豆まきか。節分でした。いいですね、子ども家族。階下だし。
 
 さて、本日のニュース感想。
 悪人というものは、その人生で同様のことをやっておりますので、今さらながら何を言おうが言われようが平気の平左であります。
 トランプのことではありますが。
 トランプが悪いのは、バカなことだけです。これまでの実証社会学の通説のように、本来はトランプの資本家稼業が悪い。
 実証社会学は実は偉い。
 
 他方、一般人は、社会に指摘されれば襟を正すものであります。
 一昨日の朝日新聞には、「受験合格者の家庭に対し、一家全員分のプレゼントが届いた、なぜならば一家全員で応援してたからだ」 という話が投稿として誇らしげに載っておりました。
 「情けねえ、誰の受験だ。何が一家だ、くそでもくらえ。」 と思うのは爺いだけでしょう。
 同様に、家人の知らせるところでは、「昨日のニュースでは、中学受験のガキは、インフルエンザがいやなので受験前は学校をずっと休み学校もそれを許す」 んだそうであります。
 日本はどうしようもないクズばかりですが、それでも悪人ではないでしょう。
 早く社会的に、人間の人生はそんなものではない、という風潮が出てくることを祈りたいものですが、とりあえずそんな平和さは、軍国主義への、薄っぺらではありますが盾ともいえます。
  
 ま、どうでもいいや。さて、本日は続きもの2題。本題1、オカルト。
 
 前野隆司という人が『脳はなぜ「心」を作ったか』、という本を書いてます。今の手近にある図書館は、たいした本はないのですが、分かりやすいほ本はある。
 その趣旨を翻訳すれば、心は脳内の諸細胞の働きの結果としての統一物(ブツじゃないか、性だね)だ、というわけです。そんな言い方は前野氏はどこでもしてはいないけれど、先週も言ったように、人間は、言い方をまねするようでは何も理解していない、ということです。
 前野氏にいわせると、だからして「私」なるものは錯覚、諸細胞の反応の受動的な結果物だ、そうで。「私」とは脳内等での反応の仮の姿に過ぎず、諸細胞の活動停止とともに消える。
 ははん、なかなかクリアな物言いで感心いたしました。
 唯物的というか、即物的にはその通りに聞こえます。今まで初めて聞いたクリアさですね。
 
 ではありますが、この人は自閉症克服者のように思われます。
 多くの人間は、少なくとも私は、もっと他開的です。わざわざ「意図的に」身体や脳を活動させ、「意思」を実現させる。「『私』なんて受動的だよ。肉体や脳が勝手に動いてるのさ」 なんて前野氏の話を信じたら、普通、その場で座り込んで立ち上がらないでしょうね。意思なんて体内から湧き出るはずなんだから。でも、普通そのまま死んじまうわけですな、誰も抱き起こしてくれませんし。
 そうじゃないな。私なんかは毎日一生懸命主体的に生きてますよ。別に食事なんかしなくたっていいの。メシそんなに好きじゃないしね。でもそんなことは言ってられない。ほんと毎日一生懸命主体的に昼食を選びそして食べる。それが私です。
 普通、「私」とは、他の反応物と関連して「私」として行為できるのです。他の反応物の典型が人間。友だちや恋人や家族や敵のこと。もっとも庭の園芸植物、ということもありますが。「私」の死とは、普通、そこからの別離です。
 まあ、いまいちですね。
 
 で、上記はただの論の評価で、まとめ方が悪いだけともいえます。
 唯物的には確かに脳や肉体しか存在しないのだから。
 でもまとめ方を変えると、今までどおりの唯物論になってしまう。しかしていまいち。
 
 で、今までどおり、ということは、なるほどそれは50%正しそうだけれども、人間の疑問には答えていない、ということで。ここからがオカルト。
 
 人間の疑問とは、そんな統一性を醸出する脳内諸生物たちが、なんでころっと死んじゃうんだね、という問いです。人間にとって、あるいはその「統一物」たる心にとって、問題は死です。
 そりゃあ人間の本音は意識の死=心の死が問題なのかもしれないけれど、理屈上に問題なのは諸細胞の死です。なんでこの身体は死んでゆくのか。「死んだっていいが」それはなぜか。
 生物学上の答えは、「生命の連続のため」です。じゃあなんで生命の連続が必要なのか。
 人間にとって永遠の生命と、死んじまう心とは、不可分の問いなのです。
 ここ。ポイントは不可分、というところね。
 片方だけに答えても、答えにはなっていない。
 「そんな問いこそ、ないんだよ」というのは簡単だが、それは逃げだ。
 昔から、もっと粗野な形ではあるが、「私」という存在は肉体に付属するものとして捉えられてきた。「心の宿る身体」が「心が生まれる脳細胞」に変わったところで、これでは答えになっていないのだ。死んだら脳細胞から飛び立ってもよいのだ。
 ま、これが人間の疑問。
 まだオカルトじゃないよ、ここからね。
 
 第2に、まだ一部人間の疑問は続く。
 それではテレパシーや、庭の植物との会話ができる理由がつかない。
 どうでしょうか、この疑問はなかなかでしょう。
 これは昔習ったユーフォロジーの基本ね。 今はもっとモダンになってるかもしれませんが。
 「結果物を生産するスタンドアローンの肉体や脳」という存在ではなく、宇宙の波動の中で波動を共有する身体」という把握が、一番シンプルにテレパシーやその他の反応物との会話を説明できるのであります。
 こういうのを、武谷三段階論の「実体的段階」といいます。現象をつかんだら、これを説明する操作可能なモノを措定してみる。「操作可能な」という点がポイント。科学というものはそこから始まります。
 
 「現象、ってそもそもそんなもんあんのかよ」 って、そりゃ知りませんがな。
 ただ、何万人もの人があるっていうんだから、説明も用意しとかなきゃね。
 
 次、項を変えます。
 
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