リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

行政組織の原則

2008-10-31 21:44:32 | その他
なるべく堅い題、ってことで、でもこれは社会学じゃなくてね、ほとんどコーヒーブレイク。

 東京では、出産間近の妊婦が夜中に脳内出血を起こし、都立救急病院等に拒否され続け亡くなってしまった話があります。舛添がこの問題の検討委員会を作るって、あの人はピントを外してばかりですが、やれるだけのことをしようとするのは他の政治家にも見習って欲しいですね。もっとも、もっと勉強して欲しいものですが。
 じゃなくて、それで舛添と石原慎太郎がケンカしているのですが (石原いわく、もともと医師を配置できなくなったのは国のせいだ、と。おっしゃるとおりなんですけどね)、当家の新聞の投書で、「私がいたアメリカでは、そんな拒否なんかしなかった。日本でもケンカなんかしてないで力を合わせて解決してくれよ」、というのがありまして。

 さて、この投書ですが、何も素人の話を題材にするのも気が引けますけどね、でもみんなそう思うでしょ?

その1 でも行政上ではケンカが必要なんですよ。日本の行政は、資本家と、資本家と資本家と、そして労働者との利害関係の中で精一杯やっている、これは間違いないことです。私は厚生労働省職員でも都庁職員でもありませんけどね。その中で人民を一般規定をしながら制度を進めていくにはケンカをするしかない。一般規定というのは、置かれた条件の中で、全人民の最大多数の最大幸福を追求するということです。今の日本の行政というのは、法の下に、誰もが平等な取り扱いができるように「環境を整える」ことが仕事です。それでできていないものは、邪魔をしている何かを壊すしかない。それが何かは誰にもはっきりとは分からない。しかし、その何かを守っている勢力に対し闘いを仕掛け、闘って壊すしかないのです。 (もちろん。シンプルに社会体制を変える、って手はありますけどね。それをいっちゃあおしまいだ)
 組織責任者が仲良くやったら総医療国家しかできやしない。そんな国家もいいけれど、資本主義の世の中で、資本家のおこぼれを食うしかない医者の面倒など、国家を挙げて見られるはずもない。従って、前提の「仲良くやる」ということ自体、責任者の辞職しか意味していない。
 いや、いうのはいいんですけどね、いって自分の気持ちがよくなるだけなら、そんなのダメだ、って言われたほうが、その人もなんらか先に進むでしょ。

その2 本によると、たしかにアメリカという国では、その人が言うように「人間的な対応」をする。人間的な「慈悲」に頼らない限り生きていけない国だから。そして、慈悲に頼れない(最下層を除く)下層の人間は、病院の窓口で拒否されたまま中に入ったこともなく死んでいく。馬鹿だぜ、投書者。たかだか、日本ブルジョワジーの手代の出張マンのくせによ。アメリカ人の代表のようなことをくっちゃべるな (こうゆうことをいうから敬遠されるんですね、つい憤りが先に立って)
 人間的な対応をすることはなくとも、病院にいるのは日本人間です。看護婦も医者も、遊んでると思われちゃ、おおごまりです。
 彼らは、自分にできるなら、人間は、貧乏人でも金持ちでも助けたい、(だけど、私には無理なの、だから他へ行って)それが日本人です。あなたもそうじゃないですか。
 だから、馬鹿だぜ、投書者。みんなわかってやってんだよ。でも今の日本人なら、みんなを助けようとする。貧乏人でも金持ちでも。アメリカのカネの亡者やせいぜい気に入った人間の世話しかできない医者たちと、同じに思われたくないやね。ましてや、それに劣るなど。
 
 とゆうわけで、なんとか開業医を病院に呼び戻して欲しいものです。
 でも戻らない。待遇が違いすぎるやね。診療報酬一般の問題じゃないんでしょうね。シンプルに言えば、開業医は儲からないように。病院医師は楽できるように。医者の子供は金がかからず医学部にいけるように。こうゆうのは(こうゆうのも)、利潤原則じゃダメなんですよ。


  (その後:同様の事例で、「おれんとこの患者ならとにもかくにも執刀する」、と怒ったお医者さんがいたそうな。ほんとだと思いますよ。だから「医者の子供は優先で」といったわけですが。
   一方では「そんなことをいっても、俺にはできない、立場があるんだ」、とかね、いろんなこともあるわけです。
   それもほんとですよね。生きてるんだから。怒ったお医者さんみたいに、権力を振るえる者は、権力の振るい方を知っているんです。決してどちらもバカにしているわけじゃなくてですね。)


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十三や

2008-10-30 21:34:29 | コーヒーブレイク
 十三や
 上野の黄楊櫛屋。

 間口1間半の小さな櫛屋。
 ネオンだらけの御徒町の駅前から何分でもないが、ここは用のない人間は来ない裏通り。

 引き戸を開けた90近いおばあさんが、若いときからずうっと欲しかった、やっと来れて、とツゲの櫛を買う。
 そろそろ古希の亭主がおばあさんの弱った髪にあう櫛を薦める。
 上がりかまちからすぐの畳に座り黙々と櫛を削る40ほどの後継ぎの息子。

 いい櫛が欲しくてね、娘が、妻が、ひいきの芸妓が。
 それぞれの歴史を背負った客が、それぞれの思いを何千円かの櫛に込めて、この一夜、このいくばくかの時に心を迸らせる。
 毎夜毎夜、それを受け止め続ける職人たち。

 不忍池の暗い通りにある、もう日本には片手もなくなった黄楊櫛屋。
 金のために生きているのではない人たち。

   家人が持ってたジョット展の広告新聞の裏に、十三やの紹介が載ってました。

   もう十三夜も過ぎちゃいましたけどね。


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善意の評論家と悪意の研究者

2008-10-29 22:07:45 | コーヒーブレイク
 おばんです、隈です。実はコーヒータイム。こんな題ですからね、来るほうも来るほう。
 ほお、A型全開! 一見さんに気を使って、って幸い白血病ではないので、AB型は変わってないです。

 いつもの暇つぶしの朝日新聞、昔から「ブル新」(=ブルジョワジーの飼い犬の新聞)ていいまして、ほんとの新聞主張は取るに足らないものですが、そこは「良心の朝日」、25歳以下の新入社員もいますから、何も分からないながら、社会記事で人間の姿を伝えることはできます。

 で、今日の夕刊はいくつもよい記事があって、の中のひとつ、鶴見俊輔のお弟子さんが鶴見から聞いたハンセン氏病の患者さんに会って、生きる様をずっと伝えてきた、という話。伝えたご本人と患者さんの話は、申し訳ありませんがここではおいて、わざわざ名前が出た鶴見俊輔。
いい人なんでしょうねえ、なんでもないのに名前がでている。他でも見たことがあります、若い人が「ぼくは鶴見に感動した」とかって。

 さて、しかし、私のHPご覧の方はおわかりでしょうが、鶴見という人は、ただの評論家なのに、出ないでいい社会科学的な場面に出て発言する、が言っていることには何の科学性もない。そのまま翻訳するとこれが本当のデマゴーグ。
    ああ胸が痛い、こんな悪口をいって。
 世間にはたくさんいるんですよね、本当の世であれば、人間的な、この上ない人なのに、歴史の中ではただの反動。

 極端に言えば、この悪い世は、いい人だけでできている。

 でね、「そんな世では悪い人間になろう」というのが、70年安保の若者の合言葉なのです。ま、「逆説」っていうんですけどね。でも、誰二人覚えてやしないよね。年取ったのをいいことにみんなそのまんま悪人、人殺しかブル犬。おっとっと、ちょっとお酒が入ってますね。
    お前は、って? はいはい、最後の一人さ。


    ここんとこ、つまんない著作作業に時間を使ってまして、そんな気晴らしコーヒータイム。

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1年過ぎました

2008-10-26 21:32:31 | その他
 こんばんは。秋の夜長もそろそろ幕じまい、というか窓しまい。サッシを開けると聞こえる芝生の虫の音も元気がなくなってきました。ベランダの朝顔もとうとうつぼみが開けなくなってしまったようです。
 ふと、そろそろこのブログも1年じゃないかな、と思って振り返ってみましたら、もう1年を1ヶ月過ぎていました。

 へえ、そんなもんだっけか、、、
 思えばこの1年何もやらなかったなあ、、仕事以外。
 なんて感慨が湧いてきます。そりゃさみしいね。
 別途、なんとなくチンタラと新しい本を作るのに時間を割いてはいるのですが、ぜんぜん結実しないしねえ。どうも甲斐のない時間経過。
 といって、世間で面白いことをやってる人もめっきり少なくなって、お相伴の喜びってのもすくなく、、、なんて、これでは私のHPのグチブログになってしまう。

 このブログには、gooの更新情報を見てなんとなく訪れる方がいらっしゃると思います。
 題がそれなりの題ならくるほうもくるほうだと思うのですが、こんな一般的な題を見てこられた方は時間の無駄ですよね。
 それも心苦しい。

そこで、今日のオマケ。

 皆様、ハンバーグを作るときは中に何を入れますか?
 パン粉のほかには、塩、コショウ、ナツメグ、玉子、牛乳、ちょっとしゃれて赤ワイン。
 100ケ、レシピがあったら98まではそんなもん。99番目に更にブイヨン。
 それはそれでさっぱりとできるのでよいのですが、なんか町の洋食屋の味と違う。
 変だなあ、と思っておりましたら、やっと発見しました。
 中に入れるものは、ウスターソース、ケチャップ、ドミグラスソース、洋ガラシ、、、
 はては、オイスターソース。これ全部いっぺんに入れるの。

 そうだと思った。町のハンバーグってみんな味ついてるもの。
 とゆうわけで、高血圧以外の方は、積極的にいろんなものを入れることをお薦めします。



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コーヒータイム

2008-10-24 22:18:53 | コーヒーブレイク
 さてはて、自分に疲れが見える今日この頃、ストレス、というよりもストレス非解消ですかねえ。

 コーヒータイム的な話題。
 私の好きな渡辺明という将棋棋士が、自分の持っている「竜王」というタイトル戦で、羽生某という、嫌いじゃないけど好きになれない将棋棋士に負けてしまいました。7回戦のうち1戦目で、それ自体どうというわけではないんですが、羽生という現在では(残念だけど過去も)一番強い棋士の、前書きましたが、誰も他の棋士が会得していない強さの部分を見せつけられてしまって。

 ショック。
 こんじゃダメじゃん。
 羽生という棋士は前にも書いたけど、将棋の秘密のみんなが知らないところを知ってしまってて、それを発揮されちゃあ、あと、もうだめ。

 だから嫌なの、他人を当てにする趣味は。
 野球でもなんでも、世間の人はよくひいきが負けて平気でいられるな、と思うんですよね。
 ふつう、1年は悔し涙で暮れてないかなあ、、、 普通じゃないか。
 むかし、城之内が投げて負けるとほんと嫌だったし、、、古い、、、
 とにかく、負けるんでやだから勝負モノのひいきは作らないことにしてますが、やはり好きだとひいきしちゃいますよね。ショックさ。いくらあと3回負けなきゃよくても。

 救いは本人(渡辺明)は平気なブログを綴っていること。
 しかし、よく平気で綴れるなあ、、、こたえてないのかしら、、、
 その1 若いから相手の怖さが分からない
 その2 本人、まだ素人にはわからない秘められた強さがある
 その3 羽生は自分より強いから負けて当たり前と思っている

 その2だとうれしいです。
 趣味って、こんな幻想で支えられてますよね。本人にとっては現実だから、かえってつまんないかも。なにもそんなに考えなくてもいいのに、みたいなもんでしょうね。


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立場を生きる

2008-10-18 22:26:14 | その他
 今日もちょっとかるめな日記風。

 私も長生きしてますが、世の中で、へえ、この男は、と思う人に明川哲也、という商売不詳の人がいまして、ドリアン助川。
 もしかするともっと前に知ってる人かもしれないけど、暇読誌の朝日新聞で、人生相談をしています。
 へえ、オイラと一緒じゃん、みたいな回答をするので、若いのに立派な奴だ、と思っておりましたが、それが、今回(2,3日前)の悩みへの回答が、この立場を生きる。
 ま、記事の中身は省略します。
 
 で、この、 「立場を生きる」。Yahoo検索で100件、ダブリばかりなので、実質5,6件しかないことに驚き。
 もっとも、その5,6人は気の利いたせりふを言うとでもなく、平然と使ってますので、やはり若いときに仕入れたんでしょうね。
 さて、皆が忘れて覚えてるのも右翼ばかりというこのコトバは、もとはといえば、今は亡き教祖と呼ばれた黒田寛一の広報に由来するものです。そのまたモトは知りませんが、なんであれモトの意味は消えています。すでにクロカン氏傘下の人々、60年代新左翼の諸派の人たちは、中央に近ければ、セクトを問わず、この語を自分の立場として翻訳していったわけです。 (関西方面には、こーゆーのとは無縁な人はいたようですけどね) だからこの魅力で、全ての他セクトに嫌われようと、彼氏のセクトは生き延びていったともいえそう。
 いわく「場所的立場」。Yahoo、75件。信じられない少なさ。そんな世の中なんだねえ。
 過去それは、人間として正しい全面を持っていたわけでした。広報者は一面的に矮小化してたと思いますけどね。
 
 われわれが生きることができるのは、自分の置かれた立場だけだ。どんないいカッコしようと、どんなおせっかいをしようと、どんな慈善家のフリをしようと、何を人に非難されようと、人間はモノを食って生活する限り、自分の立場しか生きられない。しかし、自分の立場を生きることはできる。それが不幸であれ幸せであれ、それは自分だけの生だ。この生は、自分のもの、自分が抱えていくものだ。
 
 昔の若者もなかなかいいことを考えてたでしょ?
 今は誰も考えちゃないけどね。クロカン直下の人間たちも怪しいものさ。いまどき、これを広めるのは、わたくし、隈くらい。
 気を入れて書いたのが「風とベイシティ・キャット」なんですけどね (なんですが、知識社会学基礎理論でもありますよ)。(しつこく追加すると「光と影とネズミの王様」の方は普通に書いた場合)
 
 ポイントは自分の生をかけがえのないものと考えること。そして、それに関わる人のことを自分のものとして考えること。
 
 流行らないのかねえ、、、人のことはわかんないけど、ぼくにはそれが大事です。
   あ、だからわたしゃ嫌いな奴とは付き合わない。自分の生にはいれない。心が狭いの。
   そこが多分、明川哲也氏とは違うんですよね。私は自分の欠点を知っておりますから、平気で他人を褒めてしまいます。
   彼氏、りっぱなひとですよ。詩人もしてたとのこと。どんな詩を書いてたのかな?



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部外者のはなし

2008-10-13 22:30:01 | その他
 こんばんは。
 天気もそこそこ、気温もそこそこ、よい秋晴れをお過ごしでしょうか? 

 わたくし儀、連休というのになんだか心理生理学などという初めて聞いた学問に足の指先が入って勉強なんかしてましたところ、って、英語の勉強ですね。いや、ちゃんとした論文読んでさあ。
 中身は、
「難しい問題をすると血圧が上がる。
 でも難しすぎると血圧は低下する(やる気が起こらない)。
 今まで理論はあったが、これを誰も実験しなかったんで我々が証明する」
みたいな話。
 そんな証明しないでいいよ、だれも知りたくないし、とは思いましたが、まあ、やるっていうんだから。
 かわいそうに院生というのはこんなくだらない訓練もしなきゃいけないんだ、ああアカデミシャンじゃなくてよかった、なんて思っておりましたが、よく見ると著者は教授なの。ジュネーブ大学にライプチヒ大学(共同論文)。ひょえ。
 うちとこのお客さんならロマンチストだろうから、こんなセコいテーマ、いい年こいて研究してると思うと、アホみたいと思うでしょ。
 でも、たぶん、くらげのノーベル賞も、こんなふうな内職的論文で馬鹿にされ身を削りながらくらげを処理してたんだよな、みたいな気もします。

 で、今日の話題は、そこんとこ。
 よく、「教授5年やってても論文ひとつも書きゃしない、あいつは遊んでる、クビにしちゃえ」って話。
 無関係者は、「そりゃそうだ、そんな教授はヒデエんじゃねえか」なんて思うけど、書いてるのがこんな論文なら書かないほうが良心的ではないか。
 くらげのノーベル賞だって、せいぜいこんな論文書いてアメリカのシビアな競争社会でお茶をにごしていたのではないか、というところで。

 そりゃ、内部事情ですからね、どんなことしててもいいけど、それって部外者が評価することじゃない気がするんですよね。
 資本家の手先のような政治家は、なにか発言することがないと無能と思われるからしかたないとして、私らがそれにのっかって偉そうに他人の仕事に口出すもんじゃないと思うんですけどね。ラーメン屋さんの悪口ならお互い「じゃあ、くんな」「誰がくるか」みたいなもんだけどねえ。やっぱ、商売は、どんなもんでも、政治家とヤクザ以外は、人がケナすようなもんじゃないですよ。

 さて、追加2件。
1 実験的には、拡張期血圧(下の血圧)は難しい課題をしても大して変わんないんですって。そっかなあ、そんなこともないんじゃないの、、、いずれにせよそっちの理由のほうが知りたいなあ、、、

2 そろそろキンモクセイも終わり、秋本番。でも、ベランダにはまだ子犬の顔みたいな小さな小さな朝顔が咲いて、かわいいんですよね。



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マルチチュード

2008-10-05 22:04:25 | その他
 本格的に涼しくなって頭が働くようになりました。
 それにともなってこのブログも次の本を書く時間に影響するので、少し軽くしようかなあ、というところ。
 理屈的には両立以外ないんですが、なんといっても、ものぐさ。
 それに、前にこの場で書いたものが消えていくというのもそこはかとなく無意味さを感じましてですね。
 やっぱブログは日記ですねえ、論集じゃない、って当たり前だけど。
 日記だからって、変なおじさんが「早生ミカンはもうおしまいで、今年はおいしいのが食べられず残念だ」なんて書いてもねえ。


 さて、今日は「マルチチュード」

 なんでもネグリという人が言い出したコトバで、『僕はもう何も信じられないから、大衆はそのまんまやりたいように動け、ただし、「動け」』
という概念で、って私が読みもしないで言うだけですけどね。

ネットによれば
「マルチチュードとはもともとはスピノザに由来する言葉である。スピノザのことを片時も忘れないネグリは、この異貌の思想者からマルチチュードを盗む。
 マルチチュードとは自主的多数派のことである。「群衆」「多数性」「多性」などといった訳語があてがわれてきたのだが、どれもぴったりしない。マルチチュードと原語でいうのが、いちばんいい。それより重要なのはマルチチュードが何をするかということである。一言でいえば憲法制定の力を担う者のことをいう。すなわち、マルチチュードが「帝国」を解体し、憲法制定権力をもつこと、それがマルチチュードのミッションなのだ。」(松岡正剛様)
 
 ま、ネグリなんか興味ないんですけど、これをマルクス主義者が受け止めると(松岡さんはウヨク、なんちゅうと怒られるか)、「スターリニストに対抗して、大衆がいかに独自性を有したまま政治に参加していくか、それが新しい社会主義運動だ」、みたいな話になる。
 たまたま、例によって、本の表題の「自由」に引かれて借りた本ですけどね。
 私には興味のない、いつも、あの人たちは趣味でやってたわりに暴力的だねえ、と思う某セクトの出身者の本ですが。まあ、どんな経歴のマルキストでも新左翼出身なら、ああだこうだ、と喜んで突っつきまわすようです。わたしゃ自分のまとめが正直なところだと思ってますが。

 で、そんな人が何を言うのにも興味はないんですが、さて、と思うに、
 世間のマルキストOBってみんなそんなんだろうな、それを(私のように)頭から否定しても誰も得をしない。そんな人たちでも、更生の道があるんじゃないか、と思うんですよ。
「30代はイエスのように、40代はモハメッドのように、50を過ぎたらしかたがない、釈迦になれ」っていうじゃないですか。
 知らない?
 私も今作ったばかりで。

 問題点は、
1 彼らには、政治化した人間たちしか見えないこと。
2 そんな政治化した民衆たちには、結局何もできない、そんな社会的力学場は存在しないこと
3 しかし、その言説だけは残り、政治化した人間のやることは、このように正しくあるべき理論と意思に裏打ちされている、従って彼らは正しい、という感覚だけが引き継がれていくこと
  その他、その類の影響です。
  それは、民衆の幸せに何ももたらさない。
  
 困ったことだ。
 どこのどんな政治化した民衆が、地域ボス以外のまともな政治を行ったことがあるんだろうか。
 そんな奴らに限って、地域ボスなどは政治化した民衆とは認めないのだが、地域ボス以上の政治化した民衆がどこにいるのか。彼らが褒める政治者は、セクト票1000票の市会議員や、学者市長だけではないか。
 さらにそんな奴らに限って国家官僚の悪口を言う。しかし、国家官僚以上に民衆のことを考えている人間がいるのか。国家官僚はやることはえげつないが、国民の一部としての具体的な民衆のことは考えているものだ。さて、ところで、それ以上に具体的な民衆のことを考えているマルキストがいるのか?
 いないさ。考えているのは、「こんな民衆がいたらいい」という幽霊のことばかり。
 幽霊の正体見たり党官僚。亡霊ではなく普通に生きている民衆のことを考えろ、とは69年敗北以降、言われ続けたことなのに、退役したセクト幹部はいまだに自分が言われていたことに気づくことができない。亡霊ではなく機構を変えろ、そんな社会理論の第一歩を知ろうとしない。

 いや別にそういうマルキストの悪口をいう場ではなくて、どうしたら新左翼マルキストは普通に生きている人間(たち全体)のことを考えるようになるんだろうか、ということです。マルクスもエンゲルスも考えていたんですけどね。ナロードニキは考えなかった。だからナロードニキは歴史的使命を果たし得たわけでもありますが、そういう使命はとりあえず70年で終わった。
 新しい時代、旧新左翼マルキストにも考えて欲しいのです。

 と、ここまでいえば、アホじゃないんだろうから。
 なんといっても基礎知識のある、今では貴重な人材の方々です。もう観念論議はやめて科学的な社会理論家になってほしいものです。


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