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リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

「反国家の経済社会学」発売!

2025-07-05 16:24:16 | 賃金・価値・権力
こんにちは。あつくてやる気がでませんね、ってむりやり同意を求めて。
 ここんとこときどき腰が痛くて、って痛いような姿勢してるからしょうがないのだけれど、ともかく今日も痛くてやる気がでない。まあ、やる気なさが何の理由かはべつとして。
 東京地方、にわか雨は三多摩どまりでここまでは来ませんがそれにしちゃあ雑草は元気いっぱい。いや元気すぎていきおいに当てられます。すこしおとなしくしたらいいのに。
 きのうは散歩中、キアゲハ(黄色いアゲハではなく)なのでしょうか、こんなに鮮やかな青や赤やらの羽の付いたアゲハは初めて見ました。蝶々くらいならね、派手な方が明るくなるし。

 さて、元気のなさをいいことに、今回は前回に引き続き宣伝を。
 もう知ってる? 前回書いた? ま、いちおう切りをつけておいて。

 みなさまお待たせしました、隈社会学の余技とはなりますが、『反国家の経済社会学 ―社会科学における「人民」という視座』、今回も、出版工房オフィス・ミュー 扇田麻里子様の手を借りまして学術研究出版様から発売です。、

 皆様におかれましては、ご購入はネットでは
   BookWayさまが本体(?)で、丸善ジュンク堂さま、楽天ブックスさまでも買えるようです。Amazon様は現在在庫切れかな。

   あるいはリアルの各書店様では ISBN:978-4911449271 によりまして御注文ください。
   定価2,750円。(前作よりページが多くなりました)

 目次は前回申し上げましたように、当ブログ、2025-04-26 「今回作全体像」にあります。
 また、BookWay様の上記サイトに立ち読みコーナーがあります。「立ち読みする」をクリックで開き、ページ→で詳しくみられます。
 さらに、隈のHPも更新しまして、「本の紹介」ページにも、概要を載せましたので、ご参照くださいませ。

 
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今回作、販売過程に移りました

2025-07-02 21:24:22 | 賃金・価値・権力
 こんばんは、でございます。
 隈の今回作、
「反国家の経済社会学
 ― 社会科学における「人民」という視座」
 つれづれにネットでたたきましたらもう販売過程に入っておりました、もう少し後と余裕してましたが。
 そこであわてて書くところ、でも内容は
当ブログ、2025-04-26 「今回作全体像」から変更はございません。乞う参照、そちらのページ。

〈 「資本論」といいマルクス(主義)経済学といい、人々が反体制の拠点と崇めてきたものは、結局、自分たちの体制内での賞賛確保の努力でしかない。われわれはこうした意図せざるボルシェビキたちの経済理論の根底的な誤謬を乗り越え、アナーキズム政治経済学の大綱を、ここに著す。 〉
ってやつです、ってこれはホームページですが。

 と、ここで今月のホームページ更新をしていないことに気がついた。明日落ち着いて更新したいと思います。
 そこそこ忙しいんだよね、高齢者って。

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今回作全体像

2025-04-26 15:45:53 | 賃金・価値・権力
 こんにちは、東京地方、すっかり春、今日からゴールデンウィークでお天気もしばらくは雨はないもよう。
 お忙しい? 「まもなくGWも…ホテル宿泊代“5年前の倍近く”に「めちゃくちゃ高くなっていた」(日テレNEWS) だって。観光立国なんてマイナスしかない。
 東京湾、来週5月2日までは良く潮が引くようで、潮干狩り、磯遊びは狙い目。大人は潮干狩りしないだろうけど、晴れた日の磯遊び気持ちがいいよ。お薦めは逗子。近くてご飯食べられるから。砂浜で磯なんてない、とお思いの方、砂浜の一番右にあるのさ。葛ケ浜っていうの。海岸から行くとちょっとだけ足元に苦労したはずだけど、国道沿いに歩道を行って、駐車場を過ぎたところに、国道をくぐる歩行者トンネルがあるそうな。ネットに出てました。逗子は飽きたらご飯美味しいし。
 トータルでは葉山マリーナの先の諏訪町下海岸が、ウミウシとかたくさんいてよさげ、ウミウシってアメフラシの可愛くて色とりどりのやつ。行ったことないけどね、遠いから。マリーナで上品に食べるの好きな方はよいかな。
 いずれにしてもお昼時間と大潮時間とを事前に調べていってください。(12時に食べようと思ったら、一番引いてる時間(大潮)はもう2時間前だったとか、という。)

 世間話いくつか。
 最近,ネットのTRILLマンガの質がガタ落ち。ファッションへろへろやベビーはにほろからマンガ家が移ってんじゃないのか。「私はこんなに可哀そう」話と「罰が当たってざまあみろ」話ばかり。ほんとに女の発想ってなんでああなの。どうしてそんなに人間に対して嫌みな見方しかできないんだろうね。「女、女、っていうな」って、だって男のマンガにそんなの出てこないよ。

 「異例の挑戦 角田夏実は3回戦敗退 4階級上の実力者に旗判定で敗戦 8強ならずも37キロ、23キロ体重差乗り越えアッパレ自己最多2勝「五輪より緊張の瞬間も」」(デイリースポーツ)
 相手が重たくて最後疲れちゃったって。そらそうだ。いい思い出だね。

 「山火事の影響でコアラ約700匹を殺処分 オーストラリア」(テレビ朝日系)
 「航空機からコアラおよそ700匹を狙撃して安楽死させました。」
 恐ろしい奴らだ。逃げ惑うコアラを。で、鯨を殺しちゃいけない(とでもお前が)いうのか。

 青森の六ヶ所村、「再処理に伴う高レベル廃棄物「30~50年貯蔵」」(東奥日報)
 「最終処分場が決まらないうちは、搬出先が不透明な高レベル廃棄物が六ケ所村内にたまり続けることになる。」
 それは大変、しかしこんなの簡単。日本に原発が必要という人間が過半数を占める自治体に作ればいい。全国に早く投票させろ。

 「立憲民主党は、夏の参院選の公約に食料品の消費税率0%を盛り込むと発表」(テレビ朝日系)
 じゃあ野田の(自分が首相の時強行した)増税消費税10%はなんだったんだ。おかしすぎるじゃねえか。まず党首やめてから言え。

 「共産・小池議員の追及に石破総理が“ぺこり”「総理はいつもそうやって話をずらしていく。ずらしてますよ」米軍駐留経費めぐり「48年合計8兆7000億円」「日本は滅びてしまう」」(ABEMA TIMES (Microsoft))
 いやね、題材の中身の問題じゃなくて、二人の話がかみ合っている、という問題。
 自民党と共産党がかみ合うのだよ、ことナショナリズムにおいては。これが何よりの危険。誰も思っちゃいないけどね。
 この構造、私が自民党首魁だったら、もう日本は私の思いのまま。愛国者石破に教えるには、まずは自民党員を押さえつけるのが第一だよ。それには多少の無理してもよい、この過程に日本人民を巻き込めばいいだけだよ、その方法は教えないけどね。次は? 簡単、共産党も巻き込む。自分で考えられる共産党員など1%もいやしない、すべておいらの配下さ。そしたら? 反対派など一人しかいねえよ。(オレ)。


 さて、今日の本題は、初校原稿出来。
 いろいろお騒がせしましたところ、前回お世話になった編集局様にお願いしました。

 全体像まだでしたね。目次です。

 反国家の経済社会学
 ― 社会科学における「人民」という視座

 序論 
  第1節 社会科学としての経済学原理論 
  第2節 視点と視座の一般論 
  第3節 本論の視座と人民に基づく概念化 
  補講 行為主体の論理学 ―論理の行為論的基礎 
  第4節 行為の原理・原則及び派生する行為論上の定式 

 第1章 人民行為への経済的規定性 
  第1節 経済システムを通じた労働者支配
  第2節 擬制国家による商品経済介入 
  第3節 経済と支配
  第4節 経済学の諸概念と労働者視点     

 第2章 歴史過程上の規定性、または人民の肉体力の相対的増大 
  第1節 歴史過程上の規定性の意義
  第2節 資本主義先行経済の規定性
  第3節 資本主義の腐朽、または国家武力の衰退   
  第4節 世界資本主義内国家への対抗と新たな国家性の誕生 

 第3章 反国家の現状分析 そこにある規定性 
  第1節 状況の焦点とその諸要素
  第2節 腐朽期の主体の諸要素
  第3節 行為共同性と国家の変成


 一番当初の構想がマルクスの資本論構想と同じだったからずいぶん変わったものです。変わった分が良くなったところ。すぐにばかばかしくなってねえ、結局宇野の全体系と同じになった。マルクスも馬鹿馬鹿しくなってやめたのかもしれない。なんちゅうことは誰も言いやしないから、後書きに書いといてやろうかしら。
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「経済学批判」の必須要件

2024-10-12 17:36:46 | 賃金・価値・権力
 こんにちは、今日はお休み? いい気候になってきました。キンモクセイがまだ堅い蕾なのが残念ですがコスモスが風に揺られて、アゲハや黄蝶が飛び回っております。
 (ほんとは2,3週間前、マンションの外廊下でモクセイの匂いを嗅いだんだけれど、どっかのお宅の消臭剤?)
 問題は、秋の花粉症が始まったのか、画面を見てると鼻水が。もっとも窓をあけてうたたねするせいかもしれませんが。
 
 さて、世間では
 「ノーベル平和賞に日本被団協 被爆者の全国組織」(中国新聞)
 どうせ ”核戦争はまずいよ” なんちゅう政治家たちのダシ。そりゃ悪いことじゃないさ、って冷たい? わたしの世間は人物を選んで作っております、ああいう広島人はテレビで見たくない。
 なお、ほんとは広島人はいい人が多いです。
 
 しかし原爆ドームを残した人(たち)は慧眼だなあ、、あーだこーだ言う人々が絶対いたと思うけどね。
 
 次、テレビ朝日のネット宣伝に
「【池上解説】なぜ?景気良くなくても税収過去最高…「過去最高」で分かる今の日本」
 というのがあって、調べたら法人税の税収が、23年度は22年度より1兆円も上がってたよ。米代は2倍だっていうのに会社は儲かってやがんのさあ。しかし、内実はみなさまのお骨折りのおかげです。資本家に代わっておつかれさま、といっておきます。

 そう、コメ、いよいよ予備がなくなって、買いました。茨城産コシヒカリ、ってスーパーのだから2,3等品、5kg 3580円。1カ月前3780円だったから、まあ改善。しかし去年は新潟産コシヒカリ1680円で売ってたよ、安売りの白濁米だけど。
 まあわたしゃよっぽどでないとコメの味なんかわかんないから。
 
 「袴田さんの無罪確定 再審で検察が上訴権放棄―逮捕から58年、戦後5例目」(時事通信)
 「畝本直美検事総長は8日、談話を発表し、控訴しないことを表明。「到底承服できず、控訴して上級審の判断を仰ぐべき判決だ」と反論しつつ、」
 偉そうになんだこいつら。いつだってインチキしてきたやつらが一人前に怒りを表現するんじゃない。因果応報、自業自得。当該被告の有罪無罪は知らないが、てめえらが呼んだ結末だ。70年前狭山で何をした。ほんとにこの検察官連中は、自分の死の床で自分の人生を振り返れるのかねえ、、、、

 そう、今日は機嫌が悪い。まだメモがどんどんあるのはなんのストレスかねえ、、、もう書かないけど。

 本題です。次回作について、これは文章構成以前の内容構制。
 
 「経済学批判」は「経済学」を批判すればそれでよいというものではありません。過去50年前黒田寛一が気づいたように、経済学批判は今現在の労働者について、その現状と同時に未来への道標を築くものです。ところで、マルクスの「経済学」なるものにはそんな潜在力はありません。
 そこの欠陥は次の2つ。
 第1は、マルクスのエリート視点の経済学論議。そんなものは労働者とは「何一つ」関係がない、ということを批判しなければなりません。
 そんな学者にしかわからぬ世界は、日々生きる我々と関係があるはずもない。歴史的には関係があった? それは労働者を知るエンゲルスが、「これは資本家を攻撃している本だよ」と嘘をついて宣伝してくれたおかげでです。
 本件についてはその基本視点を今年5月以降、このブログでも書きました(「概念的把握」作業の問題点(その1)以下)。
 
 さて、ここからが本題である2つ目です。
 およそ人民の行為は歴史的なものです。ところで、歴史的現実において人民の行為を決めるものは、身体的諸条件に係る要素を除けば、賞賛と優越、すなわち、行為共同性のレベルなのです。
 ところでこれも誰もが気づくけれども畏れ多くて言えない問題で、マルクスの「経済学」なるものには歴史性が皆無です。こんなもんが人民の役に立つはずがない。
 このため並みいる左翼評論家は、経済学解説とは別に、何の根拠もない階級闘争論を付け加えていったものです。
 ところが残念ながら、人民が現状を分析する際には「階級」のレベルまで降りて行っても用をなさないのです。そんなもん、評論家をやめてサラリーマンA氏になってみたらいつでもわかる。
 
 じゃあどうしろ、と?
 現実の諸人民の行動は、彼の行為共同性によって決まる。これは旧来だと、便宜的に「階級意識」とよばれてきたものとかぶります。
 指摘した階級意識とは客観的な「階級」でも、階級が持つはずの傾向性たる「階級性」でもありません。結果的に現実に現れるため左翼論者が誤って指摘する、人間行為の潜在的規定性のことです。
 ただし、社会科学上現象するこの事象の本体は、ブルジョワジーなりプロレタリアートなりの規定にかかわらず生ずる規定性です。すなわち、行為共同性の別称です。
 人間行為者が、他者の行為を我がもののごとく考え共同的な行為の要素と成すには、種々の歴史的な、あるいは少々は自然的な、規定性を含んだ諸環境の中での将来が自己と一致している、と認知しうる集合性が必要なのです。この賞賛と優越が、身体的利害を超えた場合の人間の行為を規定する。すなわち、行為者視点から展開すれば、ここからの叙述が、科学としての歴史性、すでに述べた説明によれば「ある事象の時系列的変化」の規定性として、人間行為者に使われるのです。(2018.10.06)

 そしてもう1点。前は関心が一般記述であったため書き漏れていました(その成果は拙著『資本主義と支配システム』です)。
 歴史を引き継ぐもの、つまり、自分が生きていたわけでもない10年前の状況が自分に関知する要素、それがその時代、10年前に制度化された行為パターンで引き継がれる行為共同性です。
 歴史が問題になるところ、常に現在を越えた意味で行為者を規定するものが行為共同性なのです。
 こちらは外部から見る一般論では通り過ぎる、主体性の問題ですが。

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プレ資本主義から後進国資本主義へ(その2)

2024-09-22 16:55:29 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。東京地方、今日は涼しい。涼しいとすべてにやる気がでるから不思議。ただほんのちょっとおなかが悪い。
 能登はあんまりですねえ、、これで心が折れないわけがないだろうと、わたしは心が弱いので。折れたらどうなるのかしら、、神様のご加護をおいのりいたします。

 今日は昨日の続き。「来週」ではありません。ふつうのみなさまには、あしたいいことがありますように。

 では、前商品社会とは何か。都市労働者の視点からご説明します。
 まずは、「商品社会」とは何か。それは資本主義社会のことです。

     そもそもから始まっちゃいますから、ふつうのかたは来週ね。

1 商品社会とは
 マルキストが「商品」が資本主義社会の基本要素とかいうから、商品があれば資本主義やら商品経済やら市場社会だ、などと短絡される、これはなにも短絡する者のせいではありません。すべてを無規定的に使うからそういう目にあう。
 資本主義社会とは、宇野の言う通り、「資本によってその経済を処理する社会である」(経済原論p.19)。「資本によって生産過程が把握されると始めて(ママ)、必ず商品となる生産物が生産されることにもなるのである」(同p.20)。
 
 さてしかし、資本というモノはありません。それはあるシステムの集約です。どんな? モノを支配者の許可により消費しうるシステムです。ここではモノは本来、支配者の所有品なのです。
 支配者が許可を与えるにはモノの見分けがつかなければなりません。そのモノの生産過程には労働者の労働がある。この労働により生産させることに限って費やされるカネの呼び名が「資本」であり、そこでできたモノが商品なのです。
 そこでは、モノとは売ろうとしてそろえてあるモノです。この呼び名が「商品」です。
 商品は消費物資ではありません。労働者はこれ(商品)を消費してはならないのです。ただしカネを使えばよい。
 誰が決めたのか? 国家支配者です。なぜそんなことが決められるのか? 法律で所有権を決めたからです。 それは決して資本家が決めたのではない。
 商品とは「支配権力が定めた(カネと交換するという)方法による消費が許可された物品」のことです。つづめていえば「消費許可品」です。

 さて、それではなぜ資本主義的時代にそんな画期的なことがおきるのか。 
 その要因は、「人民にとっての」余剰消費物資の製作力の大きさです。ここで生産力と言わないのは、無意味な哲学的生産力論議に巻き込まれたくないからです。今焦点となっているのは、あくまで純粋な物質生産力です。
 しかし、一方、「余剰」であるということは、余剰が生まれる農業生産力とそこから生まれる余剰物資の行先の特定を確認しています。

 端的に言えば、いくら人民が労働しようと、奢侈品は支配者の命で作れるし作らされるでしょうが、便宜品を作ることはできないのです。そんな暇があったら、国家支配者の賞賛と優越を充足するために、周辺の国家支配者の持ち物のような奢侈品を作らされるのです。
 端的ですが、そういう意味です。
 さてそれは「余剰」でしょうか? 学者にとっては余剰でしょうが、しかし人民にとってはそれは生命と引き換えの必須物資製作です。
 
 しかして、ここで必要なのが、何らかの要因による消費物資製作力の増大と、奢侈品からの国家支配者の相対的な欲求の減少です。ここで人民の便宜品欲求について考慮する必要はありません。労働人民にとって、便宜品は普遍的欲求対象です。 
 ざっと具体性を付け加えておけば、たとえば第1に、機械力の創成、第2に国家支配者の国家意識の増大にともなう人民の肉体力への対応、要するに反乱防止、であることは歴史が述べるとおりです。

 ああ長い。長いうえに初聞きでしょ? ま、しょうがない。
 つぎはわかりやすいでしょう。

2 前商品社会から後進国資本主義へ 
 ここからが本題。
 ここで、後進国においては必要な機械力は先進国の資本が転化します。反乱防止はそもそも後進国家の国家支配を入手する過程で必須です。
 
 プレ資本主義から資本主義への第1段階は、生産共同体における共同性の崩壊です。
 都市=工業的生産力の上昇によるモノの放出に対して、今までの共同体から、「相対的な」カネ基準が低下する。工場労働者であれば年に300万円収入されるのに、農村労働者では200万しか入らない、という意味です。ここで、生産共同体から出る人間は、被扶養観念がなくなる。日々あやうい工場労働者の生計を支えたはずの生産共同体は、せいぜいが、「実家・親類縁者」の意味しかもたなくなります。

 この時点で、都市労働者にとってそれまでの賞賛と優越の参照枠であった生産共同体は消滅します。彼の行く先は都市に限定され、彼の賞賛と優越は同じ都市に住む、あるいは会う、労働者諸氏に移行する。
 これが第2段階の始まりです。都市から逃げる場所が「実家」しかなくなった労働者は、先進国労働者の代わりに「産業予備軍」の要件を備え、資本家は労働者の賃金をいいように操作します。この過程で生産「実家」と都市労働者の両者が貧窮に陥った時、私も言い飽きたし読者諸氏も聞き飽きた、しかしマルクスはいわなかった、資本主義的疎外が彼のものとなる、はずです。
 
 ただし、もっと悪いことに、小後進国の場合、それは徹底されない。資本主義的生産は既にその他の大中後進国の発展によって過剰になっているからです。小後進国の労働は、あくまで自国の消費物生産と特殊資源的生産に特化されなければならない。これは半面、生産共同体の存在の、生計維持人民への必要性が残るということです。この時点で、産業化によってその必要性をクリアできない農業生産力しかなくなっていれば、何かの資本が剰余労働力を吸収するまでは、その剰余労働力はカラシニコフ銃へも向かうでしょう。内戦です。

 なお、ここでは生産共同体員からのモノとしての収奪の増加は考慮に入れません。
 モノとしての収奪の増加がないとは、今まで150キロで済んだ税はこれからも150キロで済む、という意味です。 

 と、「2」は、われながら簡潔でわかりやすい。半歩譲って、わかりにくくとも簡潔だ。広辞苑のよう。こういうのを「わかってる」というんだね。
 ま、書けば礼儀は果たしました。


 
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プレ資本主義の蜜月(その1)

2024-09-21 17:16:45 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。想定通り寒さ予報が一日一日先送りになる今日この頃、彼岸花もコスモスもまだまだ。
 ここで、去年話題にした彼岸花の咲く理由、とりあえず咲いてないのは普通なら暑いから、でまあ終わらしてもいいや、だけどね、咲いてるのもあるんだよ、日影っぽいとこ。ここは土中が寒くなったの? ずっと最低25℃切ってないぜ。なっとくできないなあ、、
 と、とつぜん話題を振ってもご迷惑。
 最近左肩の動きが悪くて、とうとう五十肩が来たか、と思いましたが、どうも寝るときパジャマだけなんで丸まって寝るのが悪いのかも。そうすると痛いし。何が五十だ、って、柔道整復学上では五十までしかないようなので(by wiki)嘘ではありません。いずれにせよ唯一の運動の素振りができなくて困って。
 
 そういえばやっと新札全部にお目にかかりました。千円、五千円はおつりで来るけど、一万円札が手に入らなかった。やっぱ資本家より聖徳太子がいいね。って、一万円、今まで誰だったか忘れております。って、ネットで画像見直しましたら1万円はおろか、五千円も千円も誰のがいつやらわからない。
 で、新札、出来はキラキラ輝いてきれい。ただどれも数字が安っぽいのは外人向け仕様でしょうか

 さて、そろそろ秋鮭、クマの好物、っていうけど、クマ、骨はどうすんのかしら? ばりばり齧(かじ)りそうだけど、喉に刺さんないんだろうか? 不思議。刺さると痛いぞ、お医者いないし。
 というわけで諸ニュース。
 「息子抱いたママが蹴りでクマ撃退 元自衛官だが「倒し方学んでない」」(朝日新聞デジタル)なんて記事がありましたが、子連れグマだよ、哀しいことだ、クマも相手も子連れだってわかってんだろうし、、
 
 「大谷翔平、3連発含む6打数6安打10打点で「51-51」到達 ドジャースは12年連続PS進出」(日刊スポーツ)
 やっぱ、もってる人間はちがうね。神様のひいき。努力してるからね。
 おかげさまで退職者はネット中の賞賛を読んでしまいました。すごく面白い。
 ただ、昨日の夜のニュースで画像も見ましたが、なんともあっけなく終わってます。これが現実? ネット記者の感動記事で想像してたほうがいい。文科系なんだね。

 「坂本哲志農相は17日の閣議後記者会見で、「週ごとに(スーパーなどの)棚にコメが並ぶようになった。品薄感が減った」と成果を強調した。」(共同9.17)
 で、なんでうちの1軒のスーパーにいまだに米が一袋もないんだ? (17日現在)
 皆様、よくご記憶ください。「坂本哲志農相」なる人物です。くずが。
 クズですがすいません、熊本県人です。だけど菊池の人間です。
 、、、と、そこまでいうと差別か。
 熊本は北と南が違うって、すでに根拠もない、が昔はあった。菊池は大宰府支配。南はただの熊襲。いつの話って? 

 自民党の解雇規制緩和ばなし、朝日のアンケートで全体では29歳までは6割賛成だと。よく覚えといてね。男と女じゃ男の賛成が多いから、男の7割は賛成、とこれはただの想定。
 そんなこといってて、自分がクビになるときはぶうぶう文句を言うんだからわけわかんねえ。わかるけどね。物心ついてからみんながそうしてきたのを見てきたから、ワケなんか要りやしない、不愉快なだけ。ま、お前らなんか同情してやんないし。早くクビになれ。とにかくよく覚えておくように。

 というわけで、本日の題は、おタクっぽくないけど細かっぽいので読者を選びます。
 来週は涼しくなってるといいですね。じゃね。
 
 
 さて、気を取り直して
 元はといえば非常に感心した1冊、
 服部正也「ルワンダ中央銀行総裁日記増補版」、中央公論社、2009.
 これはよい本。著者である元総裁が独立すぐの小後進国でどう資本主義国家を作ったか、という話。
 いい本だけど、本人の認識が現実に埋もれ過ぎてるんで、これでは単純な市場主義礼賛になってしまう、んで、どういう限界があるかを書き留めておこうか、と。
 
 まずは、開発独裁なのはしょうがないが、そのままでは平公務員が働かない。政府だけが存在する国では働く理由がないから。平公務員が働くには全人民と行為共同性ができた段階に立ち入る必要がある。公務員は公僕なのだ、が、独裁国家で平民が自分より偉いはずもない。そこでまず必要なのは、公務員の綱紀粛正であり、税の最小化であり、商業的自由化であり、人民の市場主義的陶冶である、と。
 本書には先の3点の説明があって、ま、そりゃそうだ、と。カネがあったところで買うものが目の前になければ経済は独立以前になる。同時に、ブツがあったところで人民にカネがなければやはり経済は独立以前になる。著者は本業は銀行業なので、このカネとモノの動きを安定的スムーズに確保させ、独立に貢献しました、というわけです。
 小後進国には大事なことをしてよかった、と思われます。もう50年以上前の世界ですが
 
 それはよいですが、若人が、そらみたことか、資本主義万歳! なんて喜ぶのが困る。
 そこで、人民サイドの説明を追加します。 
 さて、陶冶といっても(って私の集約)後進国ではそれは自主的なものです。
 そこでは商業関連者(農業生産物の売却者や商人)は通常よりちょっと豊かの日常を手にできます。
 商品の取り扱い自体は人間の日常、常に生ずる「取引」であり、それ以上のものではありません。
 この人間の相互行為をそれ以上のものにするのは、カネによる賞賛と優越です。
 ある後進国=前商品社会において取引によるカネの入手は、彼に多大の自由を与えます。 
 「私を束縛した生産共同体からの離脱」
 「生産共同体では手に入らない「製品」の入手」
 「なによりも、そんな社会的位置に存在する自分」
 生産共同体からの一時的な離脱は、つまりそれまでの社会から排除されたわけではない離脱は、彼の生理的最低限の常態をあいまいながら保証するのです。つまり、いざとなれば、そこでの昔のよしみにたよったり、あるいは「実家」に帰るのも良い。
 であれば、あとはどんな「儲け」が少なかろうと、賞賛と優越が勝利する、つまりみんなに自分の身を誇れるのです。
 開発独裁での政府の命令的作業や年貢収奪と、この前商品社会的存在と、さて、どちらがいい? そんなこたあ言うまでもない。
 
 ここには衒学的意味を越える「疎外」は存在しません。あるいは、生産共同体内中人ほどの疎外しか存在しない、といえば哲学者は満足するでしょうか。 
 このプチ商人資本にとっての資本主義的疎外は、これから何段階もの歴史の先に存在するのです。

 さて、では前商品社会ってなんのことだ? なんて気がする方はいないでしょうが、そこは礼儀で、あとでのせようか、とも。

 
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資本論体制内視点の具体例

2024-09-07 13:24:45 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。おあつうございます。東京地方、せっかくしばらく涼しかったのにね。土曜ご出勤の方は電車空いてるからましかも。 
 今は花の端境期のような。道端にはまだ少しヒルガオは咲いてるけど、一戸建ての庭には花がない。タマスダレくらい。チョウはアゲハやシジミチョウが飛ぶんだけど、つる植物なんかの小さな花に寄るくらいだから可哀そう。トンボは何食べてんのかねえ、、蚊ならいい奴。暑さの減少で最近蚊が増えてきて。
 なんてゆう牧歌的な話をおいて、この暑さで小松菜さえ芽を出しても「溶けて消える」んだってさ。困ったものだ。ほうれん草はあきらめてるけど、小松菜もなくなっちゃあ夏の葉物が摂れない。今年はもういいけど、来年再来年と、、、
 若人は野菜なしで生きてけるからいいけどね、40過ぎると体が欲する。
 
 「新米の価格、軒並み上昇 生産コスト上昇や需要の高まりが影響」(朝日新聞デジタル)なんてニュースが。
 そりゃあおめでたいことで。実は生産者の言い値だってさ。(読売新聞オンライン)
 嘘なんかつかないで上げたいときは正々堂々と上げろよ。500年前からうそばっかついて。
 みんなで嘘をつくから労働者の給料も上がらない。

 さて個人ニュース。
 去年話に出したユニクロのトランクス、きつい。え、バングラディシュ製? およそわたしよりウエストの小さい奴なんかガキだけのはずですが、タイ製BVDなんかよりずっときつい。タイはデブれてもうブルジョワ国家なんだねえ、、バングラディシュ人民に米を! 日本人ではこりゃ穿(は)けないだろうと思うのですが、文句ないのか、まあゴムですから延びるのも時間の問題とはいえ。

 ニュース。
「昭和の時代、戦争はいつも隣に 昭和天皇記念館、改修費募る」(朝日新聞)。松任谷由実が金出したんだってさ、でかい写真入り記事。
 松任谷って、まったく関係ない人ね。交友関係ググったら、桑田佳祐、沢田研二、今井美樹、一青窈、槇原敬之、、、みんな見事にまったく関係ない。一度も歌ったことがない。
 荒井由実だけは乗っけてもらった自動車内で聞いてたけどね。なんでも若い時だけ、っていうのも淋しいね

 これは書くだけ。
 アメリカで「大谷翔平に死球…左腕の妻が怒りの投稿 脅迫やアカウント乗っ取り…誹謗中傷を訴え」妻発言「MLB選手の妻に対して殺害や、6か月の赤ん坊に対して誘拐の脅しをしても大丈夫だと思っている人はやめてください。」(Full-Count)
 ほらストレス社会はどこでも一緒でしょ、という確認。わけわかんない白人崇拝者とか、まだ生きてるからね。君の時代は終わったんだよ。

 さて、今日のお耳よごし、隈のお料理教室番外。「こんなレシピってあり得ない」
 「茶碗蒸し レシピ 電子レンジ」でググると
 1 150ml 電子レンジ(600W)で2分10秒加熱し
 2 150ml 200wのレンジで2つ同時に7分加熱します
 3 600Wで30秒加熱し200Wで6分加熱、取り出して状態を確認し、火が通っていない場合は1分加熱します
   、、、って検索後を上から並べただけ。
  
  さて、何がありえないんでしょう? 器がみな「耐熱容器」と指定するだけ。
  浅いのでやったら 600W 1分数十秒で爆発。2ケ目は深めので500Wで恐る恐るして1分数十秒で多少液体っぽいけど終了にしました。
  茶碗蒸し容器ならそう書けよ、って、1ケ150mlじゃ足りないと思うんだけどね。
  (ちなみにレンジ温泉卵もすぐに爆発するのでやりません、お湯が簡単。うちのレンジ、力が強いのかねえ、、)
 
 なにしろIHに替えたもんで蒸しものには苦労します。
 それと焼き物も苦労。グリル、両面なんだけどぜんぜん焼けない。火は通るけど、こりゃ蒸し器だ。安全だけどね。年は取りたくないものです。
 なお、光熱水費はガスから電気へ差引安くなったままです。 


 夏前に、副題の【体制内視点】について、その理論の効用から説明したところです(2024-06-22)。でついでに、【体制外視点】についてもその効用から説明して、5月に書いた概念的把握批判に続く、としました。で、本論書いてて、もっときっぱりと具体的に書かないとわからないか、と思い直し、具体的に「資本論」視点の批判。

 まずは、資本主義下にある労働者にとって「経済」が意味するものは、自分が働く行為であり、その対価として呉れるという賃金であり、その賃金をもって買う消費物資の動きです。
 彼の毎日の思いは以下です。

1 私は経営者の下で好きでもないのに働かざるを得ない。
2 ここを首になったら次が見つかるまで飢えていなければならない。
3 ここで経営者は働いている私よりカネをたくさん持っている。

 これが通常の賃金労働者の規定性です。
 当り前? 実際当たり前なのですが、いま何をいっているかというと、 
 まず第1に、彼は資本論的労働者ではない、ということです。彼は資本論的搾取の対象者一般ではない。ラーメン屋の丁稚奉公者であり、コンビニのアルバイトです。資本論がいうところのルンペンプロレタリアです。私は昭和の人間なので「よくいうよな」と思います。
 ついで第2に、資本論には労働者の不満の理由の契機がない。本来、不満な労働をせざるを得ない労働者が思うことは、「なぜわたしは私の労働ができないか?」です。
 答えは、わたしはなぜか自分で生産手段を持っていないからです。
 これではもちろん、クビになってはいけないのは当然です。
 こんな手近な「生産手段の強奪」を知る契機が、資本論のどこにあるでしょうか? いいえありません。エンゲルスが「空想から科学へ」というパンフレットで強調するまで、マルクスは知らぬそぶりです。
 第3に、さすがに経営者が労働者の労働した結果のおこぼれで生活していることはかろうじて分かるところですが、それさえも「資本家はなんら不正なことをしていない」というわけです。正式の契約で買った労働力を使っただけだ、というわけです。びっくり。

 さてしかし、労働者の日々の思いはただの事実認知を越える。
 彼は日々を過ごすその1日1日に、彼にとっては大事な昼食の喜びを除いて、特別の思いを抱く。
 つまり第4、なんでこんなにしてまで儲けなきゃいけないんだ?  あるいは給料を稼がなきゃいけないんだ?
 たったこれだけの思いが、彼の人生を規定する。
 しかして、先生というと喜ぶ学者が嫌う、「人間の感情」問題です。
 資本家はくやしいが「資本家範疇の行為」しか、してはなりません。労働者はくやしいが「労働者範疇の行為」をするしかありません。「本当は誰も首にしたくないんだ」「本当はこんなインチキの商品を売っちゃいけないんだ」。人間は自己の賞賛と優越にかかわらず、経済学的規定性に沿った行動を続けなければなりません。つまり、自己の周りの「彼にとっての人間たち」を裏切る行為をしなければならない。人間にとってこんな悔しいことはないのですが、先生なる者は、中高年マルクスと同様に、この気持ちが理解できない。あるいはこの感情を科学が表現しようなどと思うこともなく、ましてやそれが学者の仕事だとも思わない。

 この感情のポイントは、一部疎外主義者がいいたがる、搾取される存在という自己認識などではありません。そんな認識には怒りもなければ力もないのは、労働者一般は身に染みてご存じのこと、知らぬは前衛主義者ばかり。
 そうではありません。怒りは裏切りや憎しみからのみ生ずる。すなわち同じ会社の仲間、同じ資本家の仲間、同じ労働者の仲間と思っていた者たちとの葛藤です。
 力は憎しみや協働からのみ生まれる。すなわち、彼らも我らも同一的行為集合体なのだ、という認知、あるいは「階級的事実認知」と、そうであることの歴史的意義、すなわち賞賛と優越の喚起です。

 もちろんこんなことはいくら天才とはいえ20歳のエンゲルスならわかっていたことです。19世紀初頭の「空想社会主義者」はみなわかっていたことなのではないか? いかに流行らなくなっても人々はその理論を伝えていかねばなりません。政府が歓迎し官立大学で教えられる経済学ではなく、人民の人民による人民のための経済学は、これに相応する社会学研究者が、この歴史的状況の中、で伝える使命があるのです。


(注)
 なんちゅうと、「資本論は人間を範疇としてしか扱ってないから」とかいうやつがいるでしょう。たとえば鈴木鴻一郎の話は前書きました(2018-09-15)。
 2回書いてもしょうがない。
 「あほか。範疇としてしか書かない、と決めるのは「筆者」だよ」とだけ言っておきましょう。
 
 それより問題は、書けば書くほど悪口が増えること。世間の奴らはケツの穴が小さいから売れなくなる。
 お前のことだ? はい、わたしは世間の典型をもっとうにして。
 まあ、マルキストに嫌われるのは本望だが、エンゲルシアン(エンゲルス主義者)とはお友達でいたいね。本論のこれからの課題は、どう悪口を気づかなくさせるか、で。
 


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原理からの説明と、現象からの原理と

2024-08-31 15:54:34 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。こちら東京地方というより神奈川県、大雨ひどいひどい。台風通り道の方々の気持ちの一片がうかがえます。山の上なので洪水はいいのですが、通り道の擁壁沿いの家々が心配されます。今日はよさそうですが。みんな地主と不動産屋のせい。詐欺か未必の故意。
 電車・飛行機が動かないのも困りもの、なんでしょう、知らないですが。今日から土日で一般論ではよさそうですが、台風直下のお勤めの方々はお疲れさま。
 
 とはいえ雨さえ降らなければ猛暑も終わり、シオカラトンボなんかが8月らしく飛んでいました、ってもう8月も終わりか。
 トンボはわかりやすくていいです。関東地方じゃ、灰色のをシオカラ、赤いのをアカトンボ、でかいのをオニヤンマ、細いのをイトトンボと呼べば当たらずといえども遠からず。みんなそれぞれ「方言」で終わり。
 
 ところで、みなさまお米はあります? これもひどいねえ、うちの近くの2軒のスーパーは1軒はゼロ、パックご飯のみ。もう一軒で茨城の新米が出てました、5k3800円。わたしゃ午前中にいくから買えるのです。といってもコロナ以降、常に1袋予備があるので買いませんが(それも2人で1食、半合しか食べない)。
 というわけで代用品ソーメン、gooで好きな薬味ランキングが出てました。
 【5位:ごま】【4位:大葉】【3位:みょうが】【2位:しょうが】【1位:ネギ】
 だって。
 わたしゃソーメンに限っては
 【5位:ごま】【4位:ねぎ】【3位:紫蘇】【2位:みょうが】【1位:しょうが】
 だね。
 ソーメン以外はネギ一択だけど、ソーメンは味がないから。
 しかし本来庭に生えててタダのはずの紫蘇もミョウガも大枚払わないと買えない。ショウガは擂る(する)のがめんどいし(チューブのは薬臭いし)。一戸建てはいいなあ、、けど、都会郊外の一戸建てには庭なんかないけどねえ。

 さて、今日も特段、茶々を入れるニュースはありません。
 「大谷翔平、MLB史上初「43本塁打-43盗塁」の快挙!」(TBS NEWS DIG Powered by JNN)とのこと。それで満足。
 ひいきは勝ってなんぼ、自分のことと思うのがひいきだかんね。勝てばOK、負けりゃみたくもない。
 
 とはいえ、一つくらい社会的に。
「「新条件受け入れられない」 ガザ停戦交渉巡りハマスが声明 早期の合意は見通せず」(テレビ朝日系(ANN))(いまは小児マヒ接種休戦、ってうわべ)
 好戦ハマス。やつらがしゃべるたびに思う。
 10年後、たった一人のスパイのために1国が消滅したことが知れたとしたら、歴史屋は湧くだろうねえ、、穏健派最高幹部が消されたのだって、だれのせいだか分かるものか。
 まあ、世間の風潮に沿って、個人の妄想です、といっておこう。


 というわけで、今日の本題。いかにもオタクの極致。ふつうの方には関係ありません。
 いま言及するのはこれまでの隈のシステム対象的な提出作品と、今回の、「大衆視点の」作品との性格の違いです。

 行為理論の原理・原則を用いた立言には、登場人物の代表が、すべての規定性を負って動いてもらうこととなります。それはその社会事象に関しては第三者読者の行為に適用されるべき「真理」ないし「事実」ですが、その叙述自体は「ただの説明」です。国家支配者が焦点のシステム的な理論書のことです。
 
 他方、行為理論上の現象からの叙述は、その社会事象に登場する人物の種々の環境から、「その人間が使うはずの行為の原理と原則」を抽出して説明に供することになります。これは「立言の提出」です。一人一人の労働者の事実認知から書いていこうという次回作品のことです。

 両者とも文章中に現れるのは説明ですが、この焦点が、前者では「行為の原理と原則」の立言そのものである一方、後者では生きているはずの「人間」の行動からの新規の立言の抽出となります。 
  
 さて、これだけであれば1理論の形成過程の住み分けのようですが、実はこれが「1」理論にはなりえない。それぞれの焦点者は、その時焦点が当たっていないアクターを連れているからです。 
 何を言ったかというと、前者で焦点が当たっている支配者の行為は、被支配者の対抗のないまま説明されざるを得ない。
 被支配者の対抗は、別途、支配者の行為が確定された後で、第2の理論として別次元で活躍するアクターとして叙述されるのです、たとえば「社会運動」として。支配者はこの社会運動に対応する脇役アクターとして再登場します。
 
 これに対して後者は、被支配者の行動は説明されるが、大社会のシステム変更(つまり新聞・メディアに載るような社会の直接的な動き)を説明する次元では使われないのです。
 大社会の動きは、別途、被支配者の規定性が立言された後で、被支配者の規定性の異動として扱われる。

 上記の問題は、これまでの隈の叙述に沿っていえば、社会学で決して1つにはならない「個人と社会」の記述矛盾の反映です。
 
 なにを今さらわざわざ、と言うと、これがサルトルの『弁証法的理性批判』の挫折の根源だな、と思って。
 そもそも神の視点で社会など分析できやしないのに、分析できると思い込んだ哲学者が悪い。要するに、哲学者には社会に「解明課題」がないからね。論理のつじつまさえあえばいい。
 いや、せっかく人間の行為を自由への「投企」とまで言ったのに、つぶれちまったのはなぜだろう、と思ったわけです。それでもサルトルは、50年前のよすがとして、参考文献にいれるものかしら。


(ひとりごと。こんな風に、若い時の「よすがとして」で本の末尾を終えた随筆(か、「あとがき」)ってなんだったっけ? 北杜夫? なつかしいなあ、そんな感傷家の本を読んだことがあるってことが、、)

 そういえば定額減税で、去年の住民税わずかだから、一人4万円きたよ。そりゃ「いいこと」だけどなんか変なんだがなあ、、ごまかされてるような、、

 p.s. 全部追伸みたいな内容ですが、まあまあ。
 酒を飲みながら「博士ちゃん 夏の祭典」なるテレビ番組を見てましたら、子供が選ぶ昭和の歌のランキングをつけるという趣旨のようで。
 そんな趣旨はどうでもいい。そこに尾崎豊が出てて、芦田愛菜という25歳前の若人が、自分の生涯を懸けて尾崎豊の評をしていたのに感心。ああ、高校倫理教師になってたら、ずいぶん感動的な人生を過ごせたと思うなあ、、と。25歳過ぎたら、人間は別の人格だからね。
 ところでそしたら中尾明慶という人が、そこは尾崎が自分の弱さを何とか克服しようとして歌ってたと思う(趣旨)と述べて、ああ、そりゃあそうだが、とこれも感心。
 といって感心して終わらないところが、隈。
 しかしね、尾崎は強いんだよ。この中尾という人には弱い人のことがわからない。評価になれてないから世間の「文言」にもたれかかってしまう。
 弱いというのは私のことだよ。しかしね、弱い人と強い人とは圧倒的な世間に対峙したときに対応の仕方が違う。たったそれだけのこと。
 そんなことをいっても役に立たないけどね。ただ、ある人間の気持ちは同じ他人にはわかっても、その表現された言葉の内容が正しいわけじゃない。


 
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個人倫理学

2024-08-24 21:00:12 | 賃金・価値・権力
 こんばんは、またお会いしました。
 今日の先のアップロードが内容薄いせいというわけでもなくて、まあ本論は下記。
 こりゃ視点が違うから分かりにくい、今日はやめて、まずは端っこをメモしたから、これをふくらましてどお~んと出せばちょっとユニークだぞ、と思ってましたところ、今日ミュージックフェアのアルフィーをみて、なんだ、われわれに共通のテーマだったか(もったいぶることもない)、ということが思い浮かんで。まあ同じ世代で。
 結局大したことじゃないんだけど、しかし、誰も口にできない、その「哲学的」根拠を与えればいいし、与えなければならない、というわけで。

 元はといえば、稲葉振一郎「社会倫理学講義」。
 稲葉という人は発想が一緒なので稲葉三千男(という社会評論学者)の子供かと思って昔一旦注目したので知ってましたが、まあ、そんなもん(以下)。ただの道徳論じゃん。そこまでひどいとは想定外。
 
 彼氏曰く”「社会倫理学」の「社会」なんてとっちゃっていい”。
 馬鹿あいっちゃあいけないよ。てめえの都合で言葉を変えるな。
 彼の発言はすべての倫理学の伝統を引いて、体制内道徳学です、教授だから生きていかなければいけない。社会体制内の、そこで自分だけが何とかイニシャ(イニシャティブ)を取ろうという、体制内闘争。闘争といえば聞こえがいいな、評論。
 ここでさ、いままでの当ブログの相手は死んだ人(の弟子)とか痴呆症の人(の弟子)とかで、書くほうも躊躇するものですが彼氏はだいじょぶ、元気。
 
 さて、社会道徳などどう引っくり返したって「真理性」根拠などありえない。あるのは「正当性」の根拠だけです。この根拠は簡単。今の世のなかではこれが大事といえばよい。しかし残念ながらそこに優劣はつかない。「政治学的」評論闘争が生ずるだけです。そんなもん、2分考えるまでもない。
 
 しかし、モラルには、道徳には、倫理には、それ自体で正当性の根拠が生ずる。「私」です。「行為主体」です。「行為主体の行為」です。
 何でそこそこいい年の人間がそこまで思いつかないかなあ、、、
 でもわかってます。70年闘争で箸にも棒にもかからなかった10歳下。何十年経ってもしょうがない。もうろくしてもアルフィーのほうがまし。アルフィーには自分のモラルがある。いや、われわれの世代には自分各々のモラルがある。何が社会倫理学か。

 モラル、道徳、倫理。
 それは、人間の自己の形成結果です。それゆえにこそそれは諸個人内に普遍的に存在しうるのです。といってもその内容が普遍的なわけではありません。それは行為主体それぞれに属する事項です。ただ単に、それが行為主体に普遍的に属し、自己の行為において守らなければならない、という点で、存在として普遍的なのです。 
 自己の形成とは行為主体の自由の形成であり、自己権力の源泉です。だから、人間Aの自己の生存のために、モラルが必要なのです。道徳でなくて悪かったね。しかしそれは道徳なんぞを越えて、人間の次の一歩を規定するのです。
 じゃ、道徳とほとんど変わらなく響く?
 ちがいます。それは人間の次の一歩、すなわち一歩の連続である行為主体の死ぬまでの人生を、形作るしかないものなのです。それが人間Aの人生なのです。

 で、これは行為全てに当てはまるものなので、ここでついでにいいましょう。
 疎外。
 それは、自己の形成への阻害です。この視点からいって、疎外とは自己の自由の欠落なのです。それは行為主体にとっては「反モラル」です。「だから」その状況は排さなければならないのです。「ならない」といってもそれは自己に対する「当為」ではない。社会に要求する「社会がなすべき当為」なのです。
 
 以下、すべて。
 次回作すべてについて描けば、さすがにどんな人間だって分かると思って。
 何が分かるって?
 ウクライナの、ロシアの、ハマスの、イスラエルの、人民の悲劇です。
    上記、順番にご注意。
 
 わたしはアナーキストですから、最良のマルキストの友だちです。
    、、、最良? ふん、そんなやつら、どこにいるんだ。
 
 
 
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「偶然性」は社会科学上存在しうるか

2024-08-17 16:15:03 | 賃金・価値・権力
 標題は、ほんとは、「心の中で副題変更」。

 こんにちは。東京地方、昨日は大雨、だけど30度未満。わたしは晴れ男なので大雨とは関係ありませんが、湿度100%でも30度以下なら許す、と思いました。家人は土砂降りの中を歩いたようですが、それでも暑いよりましと言っていました。すばらしい30度未満。
 今朝ベランダに出ると昔の夏休みの匂いが。気温を調べると朝なので30度。真実の夏は30度以下と知りました。
 ま、いいや。
 もう8月も半分過ぎ。季節モノ食べた? 今年はスイカを2回。初め、流行りの容器入り切り身でいまいち満足せず、次に8分の1切り身。やっぱ皮付きはいい。おすすめ。
 でもスイカって嫌いな人いるんだよね、うちの子とか。そういう人はメロンも嫌い。まあ安上がりでよい。もう新潟産も終わりの時期なので、好きな方は今のうちにどうぞ。
 
 今朝のニュースで若人はスマホのSNS情報で、世間の情報を入手するそうな。私のようなパソコン派だとわからないけど、考えてみればそうかも。新聞なんてないだろうし。
 
 というわけで、今日はニュースのお知らせ。
 「蛍光灯の生産を2027年末までに終了へ LED照明の普及がさらに加速へ パナソニック」(FNNプライムオンライン)
 水銀規制のため(という名目)、2027末で、製造も輸出入も禁止だとか書いてある。
 アパートなんかどうすんだろうねえ、、器具タダで替えてくれんのかしら。
 うちの和室の丸形蛍光灯も本体スイッチが壊れてるんで取り替えたいんだけど、もう今はLED電球が切れたらその都度本体も取り替えるんだとさ。なにそれ。どうせ捨てるんじゃ選ぶ気にもならない。まあ、うちの場合はLEDより住人のほうが先に死ぬかもしれないけど。

 今年はサンマ安いって。
 「値段200分の1に! 店では1匹80円「大漁で大きい。オススメは刺身」北海道で“サンマ初水揚げ” 競りで1キロ626円! 2023年14万400円を大きく下回る」(北海道ニュースUHB)
 そりゃうれしい、イワシ並みじゃん。150円でも買ってあげよう。
 刺身がお薦めだってさ。しかし、脂っこくって1匹はむりだな。寿司飯で2ケなら美味しい。
  (後日P.S. 3日経ってスーパーに来たよ。1匹400円、スマートなやつ。ばかいっちゃいけないよ。
   もちろん生産者も小売業も、そんなもんだけどね。)

 最後はうさばらし。
 岸田が総裁選出ないって。ニュース見てたらひとりでしゃべってた。
 それはいいけど、しばらく聞いてたら自画自賛が噴出。まるで売れない市井の社会学研究者のようじゃないかい? 売れない研究者は自分で褒めるしかないが、岸田なんぞおべんちゃらに囲まれてたくせにまだ足りずに自分におべんちゃらをいうのか。


 というわけで本日の題は、次回作の副題変更。
 といってもなんども変更するとみっともないから、こそっと。
 
 前がね、「― 体制内視点の経済学論理を突破するために」
 ちゅうんだけど、腰が引けてるね。ここは積極的にいかないと中身がわからないところ、
 しかして
     「― 個人内視点の学的体系のために」
 にしようかと。こそっとというのは、ほんとは「自己内視点」なんだけど、それだと遵法的な今の若人には「ただのわがままか」と思われそうなので、薄めといてどうか、という迷い。
 
 なんだ、「個人内視点」て、って「反体制内視点」のことで、なにも変わってはないんだけど、もう構成上ど~~んと打ち出そうかな、と思って。もう何回か書いてるけど、序論展開的には唯物史観変更からいっちゃおうか、と。
 で、この標題はなんだ? と。
 「客観的な歴史の必然法則」の必然というのは個人問題、と昔ここで言ったところ、そういえば偶然という奴はしらないな、と九鬼周造「偶然性の問題」を初めて読んだら、あ、関係ねえや、とわかったのでちょっと書いておこうと。
 

 さてそこで、必然性の反対は? 偶然性?
 ちがいます。
 必然性の反対語は、主体性です。
 九鬼周造京都帝大教授が、必然性の対語は偶然性だ、とかいうもんだから、迷惑この上ない。おかげで見当違いの論稿がネットを席巻する。なにが迷惑って、こっちも一言ぐらい言及しないといけないじゃないか。
 ほんとの相手は昔々のスピノザ様だよ、まだ本売ってるのがわけわかんないことだが。
 皆さまにおかれましては1950年以前に生まれた人間でスピノザを云々するやからは、まず、眉に唾をつけるのがよろしい。その人は時代を生き損なっている。
 「スピノザ? 普通」。なんちゅう1960年以降生まれなど問題外。まあそれは時代そのものだがや。
 
 元へ戻って、スピノザという奴は
 「スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないとした上、意志というもの(理性の有)を個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間の原因として考えると同様に不可能であるとしている」。(wikipedia)
 細かい内容はいいの。視点の問題だから。
 要するにおなじみ、「神の視点」。不可能だろうが可能だろうが、私は問うてみましょう、「そんなんこと誰が決めてんだ?」
 これは根本的な問いだから、皆様覚えておいてほしい。
 「誰が決めてんだ?
 答えは2通り。
 「神」。
 「いや決まってない」。
 
 さて、ここで、皆様が問いかけた人物は、まず1通り目、信仰者であれば「神」というし、白人無神論者であれば、「神はいないようでいて」とかの聞くのも無駄な口先論議を繰り広げる、結局何を言いたいのか。
 ついで2通り目、ユダヤ教徒マルクスやプロテスタントエンゲルスであれば、左翼におなじみの「必然性に追随する自由」論を繰り広げる、なんのことはない、「奴隷の自由」じゃ。
 
 というわけで、バカはほっといて、真実を論議しましょう。
 われわれ嘘つきに散々痛めつけられ殺された世代にあっては、必然性も偶然性も同じ穴のムジナです。
 必然性とはクリスチャンの論議であり、偶然性とは、それはどうにも肌に合わないという仏教徒の論理、どちらも身も心も売り払った奴隷の論理です。
 というと、神様や仏さまに失礼です。「俺らはそんなことはいってはいない。人間どもが勝手にこさえた話だ」。
 実際、預言者隈はそんなことはいわない。
 ま、それはおいて。
 
 生きる基準は「私」です。生きているのは誰か知らない、しかし「私」は日々存在している。世界? そんなものは知らない。しかしわたしには日々環境がある。かくて本来の哲学者、たとえばサルトルにとって必然性も偶然性もない。
 あるのは自己の自由。
 そして自己の投企。自己が自己の未来はこれと決めて、そこに自己を投げ込んでいく。
 それで必然性もない、といっちゃうところがただの哲学者ですが。
 
 ずっと昔書いたんですが(2008-06-08)、その頃の人たちはどうせもう生活に追われてるんでしょうね。
 つまり、行為主体にとって、私のなかの歴史は必然でなければ「ならない」。ならないとは世界に対する当為です。「世界は私のために当然そうならなければならない」。行為主体にとって、観照である「必然」など、「神様が設定くださるのを見て楽しむ「必然」など」、そもそも存在しません。机上の空論、あるいは神への責任転嫁にすぎません。
 世のインテリゲンチャの99.9%、あるいは西欧文化の信者たちは、もうこの根本的時点から「哲学体系」と、人間の思想体系とは異なることを知らなければならない。人間にとって必然は自己の不可分のものとして存在する。自己が見つけた一瞬先への動作です。この世界とは、その瞬間にできたばかりの他にはない確立されたトータルです。
 で、序論にいれようとしてるのですが、例によって長くてしつこくなるのがいや。 
 知ってるやつにはこのぐらい(以上)書かないといけないし、といって、ふつうの人たちには「何言ってんだ、余計なことを」ということになる。たしかに余計なことだからかえって難しい、そもそも長く書きゃあ高くなるし、読む人も減るし、ってそんなことを続けた30年。

 ところでさあ、九鬼氏、なぜクリスチャンが浄土宗で墓に入るのかね? 
 面白くありませんな。自己の自由は、あっちにもこっちにも自己をほおれる自由ではありません、自己の必然としての自己だけの自由ですぜ。
 
(p.s. どうでもいいからp.s. せっかく元の諸メモを次回作用に構成しても根がいい加減だからダブリの多いこと。悲しい。こればっかりはどう態度を修正したらいいのかわからない。でも、構成したのは目が悪い頃だからね、、、うそ。ダブリはいいけど、消えた中に大事なのはなかったのだろうか、、、
 いや、人生、そういうものです、昔っからそうさ。そんなことより今年は蚊が多い。耳元でうるさいぞ、お前。蚊も暑い東京地方になれたのかもね)。
 
(p.s.2 今日は月齢7月14日のはずが、台風一過の夜空ではお月様ずいぶんはんぱ。満腹まであと3日はかかりそうな。
 みんな「月なんか」ってバカにしてお供えもんしないからね。じつは地球のすべてを月が仕切ってるって知らないんだ。自分がバカだね。
 以上、オカルト隈でした。)

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空想の「現状分析」から科学へ

2024-07-20 16:56:23 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。東京地方、梅雨が明けました。早すぎ、だがまあしょうがない。去年並みなら生きていけそう。しかし、ベランダの草々が、、、
 勤労者の皆様はご苦労さまです。昨日は暑かった? 汗をかかない私といっても汗がにじむから不思議。図書館と買い物等が終われば気持ち悪くて。夜に風呂に入ってようやく人心地がつきました。勤労者の皆様におかれましては、お弁当の食中毒にもご留意ください。
 学生さんは夏休み? 専門課程なら授業も休みも一緒だよね。それより就活か。私の時は9月だったけど、くそ暑い時期に不快なことやらされて死ぬがや、、学生時代、愛知県人多かったな、、
 
 今日の朝日新聞の土曜特集、「アンパンとクリームパン、どっちが好きか」。
 7対3でアンパンだってさ、というよりクリームパンなんて売ってるのかね、野球グローブのようなクリームパン。わたしなんかクリームコッペしか思い浮かばない。コッペはときどき昼に食べてたけど。
 で、私の好きなチョコパンは6位。次に好きなジャムパンは7位。メロンパンやレーズンパンのほうが偉いのだと。へええ、そっかねえ。レーズンパンて、ド高級なやつがあるからねえ。ジャムパンに高級はないな。
 
 さて、ニュースといえばトランプ。
 トランプはほんと悪運だねえ。これで民主党も、おかげでバイデンを引きずりおろす手間がなくて良かっただろう、どうせ誰が出ても負けるから。
 しかし犯人、ふつう「失敗したらどうなるか」とか考えんじゃん? ほんとに考えが浅い、下手くそのくせに。しかもAR15って悪名高い非力の自動小銃(弾が風に流されて狙っても当たらない)。マンガの見過ぎだよ、ゴルゴ13。ハマスの人質作戦はイスラエルスパイの扇動だろうけど、これはあさはかな独りよがりだろう。

 ところでトランプ、声が死んでるぜ。だいじょぶか? 虚しさに気づいちゃったんじゃないかね。と、1行替えて書いちゃったよ。
 (で、これは昨日の夜のサンケイ解説のウサ晴らしなんだけどさあ、なに、産経新聞客員古森義久って、ただの馬鹿じゃん、他人の言うこと何も聞いていない。言いたいこと言ってるだけのイデオロギーの権化。だから70過ぎても雇ってもらえるんだろうけどね、「あの方は客員です、うちのせいじゃあありません」。
 いや、これは個人攻撃ではありません。70歳以上まとめて攻撃です。いや、83歳だと!! クソボケ野郎らはすっこんでろ。なに? 誹謗だ? じゃあ、2024.7.20.20.35以降、BS8ちゃんで、クラフトと何をしゃべったか、やれるもんなら文章にして明らかにしてみろよ。ま、本人は自分がバカなことなんか知りもしないだろうが、文で書いたのを読めば自分の脳力の程度の学習にはなるだろう。)
 
 ウサ晴らしついで。
 「体操女子 日本代表 宮田笙子選手19歳 喫煙 飲酒でパリ五輪辞退」(NHK)
 あにいってんだよ、ウサ晴らしにタバコ吸ったくらいで。てめえらだってやってただろうが。ジジイどもが。
 そういう問題じゃない? ないから不愉快だってんだ。けがらわしい。ところで、男だったらどうしてたか、ちょっと誰か調べて文春に報告してやれよ。

 さて、本日はウサ払いの日ではありません。
 本題は3回前の次回作構成中、現状分析。なんか宇野の図式と間違われても嫌なので。

 「現状分析」なんていうと、こどものような敵味方のケンカ情勢と思われてしまいますが、そんなことは政治屋諸君にまかせておけばいい。政治屋のプロパガンダに社会科学は無用。どうせウソだから。
 しかしそうではありません、経済学ではなく社会科学としての現状分析が存在する、それはなにか、ということで。

 さてと。まず「そもそも論」で。
 社会上の制度は、人間の自由な行為を制限して初めて制度となる。この制限を叙述することが、社会科学の原理となるのです。すなわち、経済現象の原理は、経済現象を貫く、権力の網目を叙述することで確立する、これが原理論です。
 
 もちろん、この権力の網目は、人間の自由な行為に対し、いつまでも同じ効力を持たない。
 その規定性の変化の理由を叙述するのが、段階論です。
 宇野経済学の段階論は、析出論理の道筋は違うが、その論理の納得さを支えているのがこの現実の事情です。
 
 人はこれに対し、「現在」を取り立てて別扱いしたがる。それはタテマエ上、現在は過去の歴史分析の対象から外れうるからですが、現実には現在を自己の自由な行為の下に置きたい欲求によっている。人は自己の次の将来を「自己の事実認識」の下に置きたいのです。ところが残念ながら、社会は「自己」の下におくことはできない。この欲求は、客観性をもつことはない。
 では、現在と、現在とつながる未来とは、科学上の範囲を越えているのだろうか? そうではない。科学には科学の資格において語る「現在」があります。
 
 そもそも社会科学の究極の目的は、日本ないし世界の現状を分析すること「ではない」。
  (宇野は「である」といっている。「社会科学としての経済学」p.83(p.s. 81と見間違い))
 さらに現在の社会の諸問題に対する政治的な解決の方向、仕方等を示すもの「でもない」。
  (宇野は「とならなければならない」といっている。同上。)
 社会科学とは、各行為者が自己の行為によっていかに自己の将来を変えうるか、ということを示すものであり、あるいはその判断素材を与えるものです。それは常に行為主体「個人」に所属転化するものでなければなりません。
  
 つまり、目的の基準は、他人の、ましてや政治家の、利害の成否にあるのではなく、各行為者の将来への主体的判断にあるのです。
 社会科学の目的は「分析」ではなく、判断の一歩手前の事実認知の素材であり根拠です。これに資するのが、自己の自由を阻害する状況原理と、その状況の現実行為への歴史的現状です。
 すなわち、積み上げた社会科学的定言の現在的妥当性がわかればよいのです。妥当性、すなわち、自由の拘束状況においては、生産手段と消費物資の獲得の方途を除いた後に残った権力現象化の要素、拘束の現象可能性、すなわち支配者の自由度と、人民の肉体力の潜在性の現象化可能性です。 
 ここに、経済パターンではありえないが、そういいたければ「現状分析」、あるいは現在的状況の総合的手引きがあるのです。 
 
 上記の結果、

 原理論とは、いわば、歴史性をもった形式社会学的定言の束となる。これは経済現象に焦点をあてながら記述することもできる。
 
 段階論とは、この定言に対して、それら定言が展開する歴史です。この次元において、原理論の歴史性がこれら特殊的歴史を差し引いたものであることが分かる、すなわち段階論という論理段階が客観的に存在するわけではなく、それがただの叙述の便宜的形式だからです。ただ、この叙述を経済学的に終えることはできない。そもそもが「行為の理論」だからです。それが経済学的照明の下でなされる、というに過ぎません。
 
 さて、現状分析です。つまり、真理の学において、3つの正しさの段階があると考えること自体が誤りなのです。 
 原理論においては、観念的に想定しうる規定性が把握され、
 段階論においては、その規定性に対する、時代の人民の行為性が把握され、
 現状分析においては、規定性と人民の反応を既知として、現在の行為主体にとっての事実認知として、武力行使可能者の自由度と人民の肉体力の潜在性の対応を、把握されるのです。これは統合された社会の学、社会科学です。
 
 このように、結果として社会科学上の取扱い範囲は原理論を下に逆三角形になるといってもいい。これらは単に叙述の便宜に過ぎないからです。これは、そもそも社会科学の領域を作ったのは筆者ではないことに由来します。今となっては、規定性の理解のためにはこうなる、というわけです。

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次回作構成予定(その7 構成再修正)

2024-06-30 17:53:32 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。東京地方、うちの近くはずっと雨。なにしろ年金生活者なので、涼しくてうれしいだけ。勤労の方はお疲れさまです。でも、休日だから外働きの方は少ないかな。明日もなんとか我慢できそうな。

 さて、昨日は時間なしでパスしたので、先週(22日)の続き。題の次に、内容の外観修正。いつまでも残しとくと先に進みにくい。もっとも中身が変わらないという。でも変わらなくとも切った貼ったでやり直しはやり直しです。

0 序論

1 概念構成
(1)人民視点の経済学とは
(2)経済学における国家の位置
(3)経済学の諸概念と労働者視点

2 国家と資本主義経済
(1) 経済と支配
(2) 資本主義経済という歴史上の飛躍
(3) 国家にとっての資本主義経済

3 段階論、または人民の肉体力の相対的増大
(1)段階的表現の意義
(2)資本主義初期、または自由の最初の自覚
(3)資本主義の円熟、または国家武力の衰退   
(4)過渡期、または人民の原理上の勝利

4 現状分析
(1)「現在」という状況とは
(2)先進資本主義国家内の過渡期的課題
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次回作構成予定(その6 書名再発表)

2024-06-22 20:23:29 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。東京地方、いよいよ梅雨の始まりとか。外勤の方はお疲れ様です。内勤の方はびしょ濡れ通勤ウェアの処置にご留意を。今日はいい天気だったけど。

 軽いニュースで、さて、東京は
「首都決戦、最多56人届け出=小池都政の評価が争点―都知事選告示」(時事通信)
 この大量受験のどこぞの党派、意図はどうでもいいけど、いったい供託金300万×人数を誰が出すのかねえ、、全部ふんだくられるのに。世の中わかんない奴のことはぜんぜんわからない。
 
 次。
 朝日新聞で、木下龍也という「気鋭の歌人」がAI短歌を褒めていた。
 AI短歌の例
 
    「同棲」なんて名前をつける前からあなたは私の中で住み着いていた

 いかが?
 木下先生「震え上がった」そうです。わけわかんね。
 はあ? だから何? そんなもんが「短歌」か。
 詩の中の1行にもならない。ただの気の利いたキャッチフレーズ。
 哀しいもんだ、いまどきのひとにはもう自分の心を歌う詩など必要ないんだね。
  (p.s. 関連が翌日にあります)

 次。
「米国の原爆開発計画「マンハッタン計画」を率いた科学者で「原爆の父」故ロバート・オッペンハイマー博士が米国で被爆者と面会した際、「涙を流して謝った」と立ち会った通訳が証言する映像が見つかった」
「涙ぼうだたる状態。『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と謝るばかり」
(共同通信)
 別に他意はありません。ただ単に、オッペンハイマー、いい人だったと教えたくて。

 次。
「富士通、一律初任給廃止へ ジョブ型新卒、40万円超も」
「仕事の内容や役割に応じて処遇する「ジョブ型」雇用を本格導入すると発表した。高度な専門性を持つ学生らには入社時から相応の給料を支払い、優秀な人材を確保する狙いがある。初任給で現在20万円台後半の基本給が、40万円を超える可能性もあるとしている」(共同通信)
 富士通は新卒全体対象だってさ。NECチャンスだ! 旧来雇用対象で良き日本人の新卒がやってくるぞ。

 なんてね。今日は前の職場の内輪同窓ランチで昼酒のうえ帰り遅かったから、メモのようなもの。
 ようやく年寄り連中も、おおっぴらに会合ができるようになりました。なんていってると、コロナのバチが当たるけどね。
 以下、本題は予定稿で、貼るだけ。

 さて、 HPご訪問の方はごぞんじのように、先月以降、題と内容の方針が変わりました。
 図書検索しててどうも次回題(予定)が陳腐なことに気づいたってわけで。
 「反国家」はいいとして、「〇〇の政治経済学」の多さと言ったら、驚異的。これは流行りに乗っかるようでみっともない。
 さらに、感心しない勉強家の新刊に「福祉国家の基礎理論」なる題の本があって、この構成がamazonによるとわたくしの構成予定と同じになってたりして。読んでませんがその他の情報を重ねると、要するに勉強結果を集めたものにしか見えなくて。まあ学者本。
 で、とにかく、
  1 〇〇の政治経済学はやめました。
  2 序論の存在は仕方ないとしても、 
       (1)政治経済学
       (2)経済学批判
       (3)国家規定
       (4)運動
    の組立もやめました。
 
 新題。
 「反国家の経済社会学」 
      ー体制内視点の経済学論理を突破するために

 〇〇の経済社会学というのはめったになくて。
 ただこれじゃ「経済学批判」からは遠いな、とも思うのですが、結局経済学者が読んだってどうせ理解できっこないはなしだし。(「社会経済学」になると経済学者のテリトリーのもよう。当然といえば当然。) 
 で、副題に経済学批判を匂わそうとして。本日は副題の解説です。
 
【体制内視点】
 さて、体制とは何か。
 支配社会における行為の原理・原則にとって、体制とは、権力階梯です。権力階梯に行為の原理と原則が集約されているのです。
 つまり、権力の上位から連なる、武力、消費物資という生理性の確保条件、これに則って、賞賛・優越がセットされ、これに対応して「反」権力の標榜であることによる対抗権力の賞賛と優越がセットされる。行為共同性は、各権力の階梯と、階梯を進まんとする者の間のそれとでセットされる。
 この権力階梯がもたらす行為者の志向性について、彼の意図を問わず、存在前提的に設定される視点が、体制内視点です。この権力階梯内の自己を否定することなく志向した結果の視点です。
 
 ここで間違えやすいのが、権力階梯を否定していれば、それは体制外視点だ、という発想です。
 確かにそれは本質的否定であれば体制外視点と言えるでしょうが、現実はそうではない。権力階梯の否定の「言辞」は、すべての人間の一瞬先の未来に開かれてます。階梯トップの支配者も、支配調整に疲れた次の瞬間には、「ええい、こんな世界壊れてしまえ」と叫ぶかもしれないし、それは容易に想定される事態です。しかし、支配者彼の視点は、相変わらず、権力階梯の中にある。中にいて、「壊れればいい」と口だけで言っているのです。
 
 およそ、一連の言辞を表現する視点とは、その授受者にどんな行為論的意味=価値を再構成させるのか、によってレッテルづけられなければならない。
 つまり、体制外視点とは、授受者がその表現を再構成しても、その再構成において授受者の内部の権力階梯の認知が否定されるものでなければならない。

 例示します。
 第1に、その表出が、国家の価値に寄与するものは体制内視点です。国家とは権力階梯そのものだからです。「国民」の安全を述べる言辞です。
 第2に、その表出の内容が、権力階梯の存在に寄与するものは体制内視点です。会社の繁栄を志向する言辞です。「内容」と付加した理由は、この場合、関連する様相が数え切れず存在するからです。
 さてさらに、重要な付け足しがある。
 社会内の表現は、すべて権力階梯によって評価される。さらにこの評価が世俗の表現の趨勢につながります。教育機関、たとえば大学での位置や学術発表。マスコミュニケーション、たとえば出版の可否。テレビへの出演の可否。この「制度」を支えるものが、要素としての表出物です。
 従って、第3に、その表出の内実が、自己の社会における権力階梯の上昇とセットになっているもの。ここで「内実」は、「何と言おうが結局は」というニュアンスを含んでいます。

 従って、現存するすべての「経済学」は、体制内視点です。
 

【史的唯物論の視点】
 ついで史的唯物論です。
 どう構成しようがそれは基本的には論者の知的水準の低さを表すだけですが、しかし、原理的にはここでも視点というものがあります。
 マルクスいわく、「自然史的過程」。 
 ここでは自然史的過程概念にかかわる暇つぶしの論議に立ち入るつもりはまるでありません。そうではなくて、歴史を自然史過程と言い切って何も思わないマルキストの話をするのです。
 つまり筆者は自然史的過程などありえない、といいたいわけではない。エンゲルスが主張するように、自然史的過程と捉えることが虚偽なのではない。しかしそれはマルクスに引きずられた非人民的な視点だ、ということを述べているのです。これも「人民に反対する意見だ」という意味ではない。自然史と規定することで、人民の理解から遠く離れる、といっています。人民の理解は「じゃあほっておいていいんだな」です。往年のマルキストは、いやそうじゃないんだ、ってさんざん言い訳をして疲れたことでしょう。ほっといちゃだめです。行為主体は、人民です。なにが自然史か。

【本題の意味するところ】
 もちろんこの区別は理論それ自体が独立に示す内容のことをいっています。
 そして権力階梯視点の理論は、必ず、究極的に国家を前提としています。すなわち、誰が支配者となろうが、体制の保持を内在しているのです。
 
 ついで、「理論」なる価値物は、価値物としての存在が社会に影響を及ぼすことができます。権力階梯に由来する賞賛と優越は、体制内視点のものについてはその存在の保持を通して、その保持者の権を受信者に映らせることができます。
 だから体制保存的だ、というのではありません。
 たとえば、史的唯物論は、そこに反映されているとその時代の評者がいう「ダーウィン主義」を通してその時代、その社会で認定された権威=権力の衣をまとうことができます。
 それは視点が社会で認定されている、という条件の下の結果です。
 同様に、資本論も、それが社会で認定されているアカデミズム社会の権威を継いでいるがゆえに、権力者とその仲間が認める権威=権力の衣をまとうことができます。
 これは対抗権力としては有効です。

【体制外視点】
 では体制外視点とは何か。
 その視点をとることで権力階梯の維持につながらない視点です。
 国家の維持にも、企業の維持にもつながらず、従って、その表現を再生産しても権力階梯内の上昇につながらない視点です。
 さらにこの視点は、それにとどまらず、体制外という1点において、被支配者の解放への道を提示する資格を持っている。そのまま表現を再構成しても、どこにも権力階梯を保存する契機がないからです。
 ここからは既に先月来3回に分けて書きました「概念的把握」批判の内容に続いていきます。

 、、、だけどね、

 実は非権力的な=非体制的な場でしゃべったことは、内容はいくら良くとも、一発芸のようなもので、それっきりで終わりなのね。
 じゃあちゃんと本にでもすりゃあいいって?
 ところがだ、人は、こういえば他人はわかってくれる、こういえば他人は賛成してくれる、こういえば他人はこの表現物を購入してくれる、という3段階の階梯をクリアしつつ表現するわけ。
 これは形式社会学的な人間の定めなの。この定式を時代に当てはめなければ、「理論作業」なるものを疎外された人民大衆もいるはずの世界に広めることなどできはしない。すべてが支配階級の回路をたどり、あるいは、支配階級中で対抗階級に「落ちた」人間の回路をたどらざるを得ない。ま、もちろん、マルクスのことをいってますが。
 
 これが矛盾なのさ。どう世間の流行りに乗りながら、実質、体制外を貫いていくか。
 しかも風呂で考えると湧き上がる論理を風呂上りまで覚えているのは至難の業。
 当家の風呂場には、いくつもの最高級のアイディアが落ちています。


 
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次回作構成予定(人間の居場所)

2024-02-10 17:18:47 | 賃金・価値・権力
 こんにちは、東京地方、今日もいい天気。といって、月曜は雪でひどかったです、ね。お勤めごくろうさまでした。わたしは真底冷えてぞくぞくしながら家に閉じこもっていました。黴菌には触れてませんから、寒さの風邪。
 で、関東地方、来週は18度、20度だってさ。めちゃくちゃ。うれしいんだけどね。3連休とれなかった人も、火、水はよい天気なので、ずれたほうがよいかも。梅は終わり加減ですが、こういうときは代わりがなんでもある植物園とかね、あったかかったら。わたしは珍しく所用外出予定。
 
 ところで、ふつう外出は買い物くらいにしかしないのですが、出かけると町でしんどそうに足をひきずる年寄りがぞろぞろいます。年取るとあんなになっちゃうのかねえ(私は違くてよかった)、なんて思った翌日、重いテーブルの脚にいやというほど自分の右足の指をぶつけ、痛さにソファーにうずくまりました(足元なんか遠すぎて見てない)。その結果、翌日の買い物はびっこひきひき止まり止まり。靴に圧されて痛いのだよね。可哀そうな年寄り、とか思われたかねえ、、、今は内出血アザも足の甲全体に広がったので、吸収されて終わりでしょう。
 
 皆様には、「何ごとも一瞬で起きる」という人生の真実を、とくに55歳過ぎたら思い出してくださいませ。55歳でそういう状況に陥り出すので、とばっちりで社会に迷惑がかからないように、人間、60歳定年制を作ったのであります。70過ぎたらアホばかり。
 ともかく暮らしの暗転は一瞬で起きます。まあ、5年に一回くらいの割かな。暮らしの明転というものも理屈上ありそうですが、まあ、10年に一回起これば幸せな人生ですね。
 ゆめゆめ自分は別だなどと思わないように。眼の悪い人は早く治しましょう。
 
 さて、きょうも特別なニュースはなく。
 ニュースではありませんが、ビオレ・キッチンハンド・ジェル・ソープ、の入れ物。以前サンスター練歯磨きのことを褒めたところ、これも素晴らしい。最後の最後まで石けん水をすくってくれ、まことに美事。美しい技術っていいなあ。

 ま、ということで、本日のお題は、スペース潰しで前回の続き。
 残された『それよりも問題は、「なんだこれは。どこに人間がいるのか」という批判で』問題。

 これはもともとは黒田寛一の「宇野経済学方法論批判」の提起。曰く、宇野には「疎外されたプロレタリアの自己回復のための主体性論」がないんだそうな。そりゃま、そうだ。
 彼の遺産にはもう主導理論の死に絶えた一派がありますが、若い頃には問題意識レベルではまともなものがあります、その意図は全部失敗しましたが。
 とはいえ、マルクスの意図は人間の主体性だ、とかって、そんな話は知っちゃいないさ 夜鳴鳥 関係ねえし。
 
 さて、ひとは或る理論に対してどう向きあうものなのか。

 社会科学の役割は、科学による社会把握とそこから発する因果連関の法則を武器として、人それぞれに異なる自己の人生を良い方へ向かわしてゆく、自己の自由を求めていく、そこにあり、そこにしかありません。それ以上に科学様に、あるいは理論様に、教えていただけるものなどないのです。
 人間行為者は、自己の環境を認識し、これを自己の自由に合わせようとして行為する。これは根本原則です。
 しかしある環境に対抗し自己の自由を手に入れるためにどうすればよいか、ということは決して普遍的に決まってはいない。 
 シンプルな例を出しましょう。「山火事だ、さあ逃げろ』。そんな状況で、もちろん多くの人々は炎の見えない方へ逃げるでしょうが、それが正しいかどうかは別問題です。炎の先へ先へと逃げても後から火が追いかけてくるイタチごっこかもしれない。そうじゃなくて炎を迂回して後ろに回ってしまえばそこが本当に安全なのかもしれない。
 つまり、資本論がどう工場労働者の現在の疎外を教えてくれようと、問題はそこではない。
 問題は、行為主体が持つ未来への道筋とその到達地点です。それがなければレベル上は「どうぞお好きな道を』でおしまいです。自由勝手な実存主義。もちろんそこで、前衛主義者の恫喝が入るわけで。「これこそが正しい道だ。他は堕落への道だ」。結論をどう評論しようが、同じことです。 
 
 社会科学上の実存の道とは、そうではありません。「この未来への道、行き先が知らされている道を、君の人生として行くのか行かないのか」という問いです。
 行先といっても、それは抽象的なものですから、「君の行先として君の人生に組み入れるのかどうなのか」というのが正しい言い方でしょうか。それは現象としては人それぞれで違う。
 そこまで提起して、それが科学の結語なのです。
 
 積極的に立ち入って書きましょうか。
 すなわち、それによって、自己と全世界人民の同一性なり加害・被害の関係なりを認識し得なければならない。
 プロレタリアート? 何の世迷言か。結論の場面までで科学として明らかにし終わっている(はずの)ように、世界はグローバルですが、その人民主体はプロレタリアートではありません。被支配人民一般なのです。くやしかったら工場労働者はグローバルな農民なしで生きてみろ、ということです。そうではない。次回作では、被支配人民は、プロレタリアに限らず、「生産・消費の場面においても」これこのように、同一の運命を持っているのだ、ということが明らかになっているはずです。「生産・消費の場面」、すなわち次回作が「経済学批判」たる所以です。

 さてその時点で、人生は読者にゆだねられるのです。
 

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次回作構成予定(その、、4かな)

2024-02-03 14:21:43 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。今日は節分、明日は立春。東京地方、ここまで暖冬。去冬はマフラーや手袋を1、2回したけれど、今年はないかな。ただ、天気予報は、日、月、火と寒いと言ってはいます。
 本日の昼食が、恵方巻。例によって最低品と、珍しくキンパ巻(韓国海苔巻き)。いや、キンパはもういいや。ごま油飯。好きじゃないの。酢飯は時々食べたくなって、助六とか買うんだけどね、安いし。それと牛肉巻やらウナギ巻やらトンカツ巻は食べたくないから、結局最低品だね。

 さて、ニュースがなくてNHKは困ってる様子。あるいは少ない取材記者を全部能登に投入しているせいか。いずれにしても、戦争以外は交通事故くらい。

 以下少し。
 「「路頭に迷った気分」ヤマト運輸“クロネコメイト”個人事業主ら約2万5000人がきょうで契約終了」(TBS NEWSDIGEST)
「すべて団体交渉という形では拒否」「今まで弊社を支えて頂いた方には、心から感謝を申し上げる」」とヤマト運輸がいったと。
 いやさあ、こんなのヤマトって「会社の」問題の気がしないね。こういうこと発言するやつってさあ、「お前だろ」。いや、あなたではなく。
 そんな気が多々。裏切り者が多すぎる。

 「五輪王者ウルフ・アロンか、新星の新井道大か 柔道男子100キロ級の五輪代表争いの行方」「2月2~4日、柔道のグランドスラム(GS)パリ大会が行われる。、、、成績次第で代表争いが決着する」(産経新聞)
 この新井って若人の大外刈がすごいって。足の長さが92センチあるからぐるっと巻き付いて逃れられないんだと。いっちゃなんだけど山田風太郎の世界。
 ただスタミナがないんで長引くと疲れちゃうんだってさ。まだ19歳だからね、これから。ちょっと楽しみ。

 というわけで、本日は、次回作品の構成、もう何回目かしら、と思うけど、ここにはあまり載せてないね。
 それぞれそれ以前の構成を変えたわけではありませんが、そして今回もはっきりとは変わってませんが、心の中ではガラッと変わり。まあ外観的には、以前に出てた部品を縮めて、全部を大くくりにして提示する、というか。
 
 一番初めに出したのが、「資本論」の構想と同じという
 1 一般的・抽象的諸規定
 2 ブルジョワ社会での諸カテゴリー
 3 国家形態におけるブルジョワ社会の総括
 4 生産の国際的関係
 5 世界市場と恐慌
 
 うん、やっぱり外見的にはあまり変わってないのが不思議。
 ま、結局

0 序論

1 概念構成

(0) 「経済」学なるもの

(1) 資本家と労働者と、いわゆる国家

(2) 擬制国家による商品経済介入

2 経済学の社会規定性 
 
 (1)資本主義前史時代の規定力
     労働力創出と労働者陶冶
    
 (2)資本主義国家における規定力
     支配者と人民

3 国家の本性(題目は変えます)

(1)国家による世界市場創出、正しく言えば侵略

(2)世界資本主義内国家への対抗と新たな国家性の誕生
   
(3)国家間戦争その他の支配者的賞賛の発現

(4)政治経済体制の崩壊と崩壊への対抗

終章 元に戻って、現在とは

 と、「なんだ、取らぬ狸の。。」とおっしゃるかもしれませんが、主観的には、大枠が確定すればこれを太らせれば結果が生ずる(はずだ)という、シンプルな「明日の予定」というところになります。

 それよりも問題は、「なんだこれは。どこに人間がいるのか」という批判で。
 もちろんこの隈が忘れているわけではありませんが、名目上表現できてないのは大いなる欠点。
 まだ最終じゃありません。あと1年あるので、原稿としての終了は秋だな。
 
 この「秋だな」なんちゅうのも若い頃なら書かないところ。昔なら「11月だな」とか言った。いろいろとね、時期をきっぱり言えない身体があるのですよ。
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