リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

年寄り用「今の若いもんは」問題

2019-09-28 10:46:01 | その他
 こんにちは。まだ暑くて彼岸花が10日遅れているそうです。にもかかわらず私の目鼻は花粉症、若いので暑気あたりもするうえに喉もやられ、4日にいっぺん風邪薬。これが効くんだ。とても気持ちがいい。

 今年は家(マンション)の周りでカラスウリの花が豊作で、葉っぱにでかい天道虫、と思ったけれどコートのような羽に隠れた黄色いスカートは何? と思ったら、クロウリハムシでした。これがとぼけて可愛い顔をしてるんだ。草食だからいい虫。
 
 さてニュース。
 おとといは趣味の将棋で私のひいきの木村九段という人が王位というタイトルを取って、とてもうれしい。
 「将棋の八大タイトルの1つ、王位戦で、46歳の挑戦者、木村一基九段がタイトルを持つ豊島将之二冠を破って初めてのタイトル獲得を果たし、初タイトル獲得の最年長記録を46年ぶりに更新しました。」(NHK)
 人格者なので、将棋の5チャンネル掲示板は「おめでとう」の嵐で瞬く間に千行が費やされ、5ちゃんの住人はみな隔離患者だと思っておりましたが偏見のようでした(「隔離患者」と使うこと自体偏見ですが)。家族のことを聞かれて本人も涙を流してたそうですが、応援のしがいもあります。
 
 次。
 「ニンジンの皮もおいしく! 増税に勝つ食べ切り術」(日経)なんてのがあったそうです。2%増税は、野菜の皮まで食って乗り切れと。
 会員用記事なので題だけ。アカハタで指摘されてた。ったく。産経以下じゃないかね。40年前は良識の日経と言われていたのに。
 
 さらに。
 「関電原発問題で高浜町は「調査する考え無い」金銭授受は元助役が一個人として…」(MBSニュース)
 知ってる? 人から聞いて、カネを高浜町が貰ったと解釈したら、町が企業をゆすって関電にあげたんだって。びっくり。これからの高浜町の原発災害に同情の余地などありませんな。まあゆすったかお願いされたかは知りませんが、町の発展を思ってのことでしょう、死人に口なし。しかし、一人でやったというのも経験知にはありませんな。

 さて、本題は珍しく年寄り用。
 いつもながら、アベはやりたい放題、洗い物しててニュースを後ろで聞きながら、これって、若人は悲惨じゃないかね、と思って。
 日米貿易協定、無反応。
 温暖化、無反応。
 原発裁判、無反応。
 反対するという反応が全然ない世代ってなにさ。
 「そんなこといっても悪くないし」という人はどうでもよくて、世の中ってそういうものじゃない。基本、自分に悪いことには反対したくなるもんだがね。もちろんヘーゲルが言ったとおり世の中の物事には必ず道理があるので、いくらでも「悪くない」理由などつけられるのだけれど、若人がそんな複雑な社会の事情など分かるはずないじゃないか。結局、そもそもが自分にとっては悪くないと思っているのだろ。そうとしか思えない。
 牛肉が安く輸入されようが豚肉が売れなくなろうが海面が上がろうが北極の氷山が消えようが九州にスコールが降るようになろうが公共施設で思想表現が不可能になろうが、まあ別に自分には悪くない。
 これは、悲惨。
 鉄鎖に巻かれた労働者の最後に残った自由は感受性なのに、それも麻痺すれば、人民は人間でもない。
 
 と、まずは年寄り的反応の前提を書いておきまして。
 はたしてそうか?
 って、おめえが書いたんだろ、ですか? さいで。
 でさ、年寄りは、昔、若人のとき、評論家に三無主義とか言われてたのを思い出してください。現実はそうだったですかね、紛争世代後期。違うんだよなあ。
 何が違うって、反抗の諸形態が違う。違うから世代が違えば理解できない。60年安保から60年代末組の反抗は、おしゃべり。秩序正しい理論闘争、と言えば聞こえがいいが、学者、評論家の物真似(注、学者はみんな左翼だったからね)。69年以降の世代の反抗は、全ての反権力行動への参加。参加するだけでおしゃべりは無縁。おしゃべりしないから上の世代には分からない。
 なんで違うんでしょう? 人間は自分が知っている反権力行動しかできないのです。68年にすでにアホと分かった学者評論家など真似する意義がない。他方世の中では、反学者・教師・評論家はもとより文化のすべてについて、反権力反権威の行動が満ち満ちている。「われわれ」はこの他人の行動を真似してこれに乗ればよかったのです。言葉など要らない。
 と、誰も知らなかったことをまた言ってしまった。
 もう少しで死んでしまうのも惜しい人だね。隈のことですが、念のため。
 
 で、戻ります。
 無反応とはなにか。現在の年寄りたちにとっては、反論のおしゃべりも、デモ・集会もしない、これが無反応。しかし、そうではない(はずだ)。
 なんで? 上に述べました。反抗の諸形態が違うのです。
 若人の知る自己の権力行使の方法は、アベが行う権力行使であり、各種ネットの投稿攻撃しかないのです(ほかにあったら教えて。家庭内暴力? 通り魔犯罪? 別にばかにしてませんが)。しかして、独裁的であればあるほど権力者は好まれ、年寄りは顔をしかめようがネットの個人攻撃はやまず、年寄りが顔をしかめるだけで使わないから、ネットでウヨクがはびこる。
 左翼はこの状況を真剣に把握しなければいけない。武力闘争は常に残るだろうが、もうデモや、なんだら集会の時代ではないのだ。なんていうと老害は、「ではウヨク、自民党をネットで理論的に潰す」くらいしか考えられない。そうじゃないんだと言ったばっかりなのにね。若人だって、アベや抑圧的社会に対して自己権力を行使したいのだ。イデオロギーを並べたてたところでそんなものでは権力行使にならないのは、若人は直感的に知っている。老害は、左翼若人に左翼的なネットプロパガンダの作法を教えてもらわなければ。それもできない老害は部屋にこもって社会移行の青写真でも書いているのがいい。
 ま、自己権力の行使とはこういうものだ、と党派的に見本を見せて教えてやるのも、理屈上あるけどね。そんな力量あるんかね。あったら教えて。
 
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(追悼)

2019-09-22 20:10:44 | 断片
 断片カテゴリーですいません。
 中西洋氏が亡くなれていたとのこと。2018年10月22日。社会政策学者です。このブログでも(2017-10-07)取り上げましたが、ようやく批判が決まって、といっても次回論究の(注)3行ですが、 こちらとしてはめでたいことで、喜んで検索したら、亡くなられていて。私の先生など、(東京)教育大の御数方しか居ないので、私の飾り棚待遇という稀有な人でしたが。亡くなる前に、助言できてよかったかな、と思います。他人から見れば、ネットで悪口を書いただけに見えるでしょうが。
 別に私の理論上の先生ではなく、「こういう人がいるんだな、がんばろう」→「あれあれ、一体今は何研究してるのかな」→「え~~」と評価の変わった方ですが。それでも私は50年前のゼロックス(=昔のコピー)を大事にとってるんですよね。
 まあ、マルクス待遇ですね。同じくらい頭はよかったと思いますよ。(……この先は削除しました)
 総括的批判をお読みいただけなくて残念です。3行ですが。
 本稿の失礼はお詫びして、ご冥福をお祈りいたします。

 ******

 別件ですが、私の富士通WD1/Lの調子が悪く、終了しない・立ち上がらない・で今苦労しております。
 (この更新も1回失敗したところです)
 なので、メールとかいただいてもたまたまPC買い替え中で返信不能という場合がありますので、失礼な奴と思わないでいただけたらと思います。基本的に私は意思的に失礼なことはしません。社会的地位・慣習は無視しますが。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再度、「階級構造」について

2019-09-21 16:06:11 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。もう赤とんぼが飛ぶ季節で、暑さ寒さも彼岸まで。台風は終わりませんけど。
 こちら方面では稲城市の稲城長沼に稲城梨という名物のでかい梨があるのですが、直売所でギフト用に送ろうとすると渋い顔をするようです。台風にやられてきれいなご贈答用は数が間に合わないようで。直売所も訳あり品ばかりだとか。まあいつもより3割安いのでこちらは悪くはないですが。

 当方、去年から引き続いたなんやかやの所持雑事が、昨日でようやくほとんど結着しました。長い1年半、(おかげで)何もできなかったし。と思うとこれからなんでもできそうな。ほんとかね。
 もう実家も無くなってしまいました。悪いことや嫌なことや思い出したくないことや、いろんなことがあったけれど、東京の一角でもまあ故郷ならぬふるさとだから、そこそこ茫漠として解放されております。子供の頃を思い出して嬉しい人はそれだけで幸せというものです。
 
 さて、ニュース。
 「「ココアシガレット」が人気再燃」(日経トレンド)
 すいません。見出ししか読んでません。2000字以上の記事は読まないと言うルールがありまして。ともかく、ココアシガレットまだあったのか、というわけで。
 子供の頃、50円が限度の遠足のお菓子は、チューブ・チョコレートとこれ。美味しいわけではないと思うのですが、心が豊かになって。隣のやつにも、苦情を言われないし。
 注をつけておくと、昔はお菓子を買えるのはお祭り(100円)と遠足のときだけでした。じっさいはお祭りで買うのはお面と吹き矢くらいでしたが。

 次、「触法難民、開けぬ未来 仮放免でも毎月出頭、職にも就けず…産経新聞387」
 「国内には現在、戦争などのため祖国を離れた難民が1万1千人以上定住する。難民の中には罪を犯したことで在留資格を剥奪され、就労許可を得られずに働けないまま日本に留まり続ける人も少なくない。祖国に居場所がない彼らは、強制送還を拒否したことで入国管理局に長期間収容され、仮放免になったとしても社会保障は一切受けられない。在留資格を得るための明確な規定は定められておらず、制度のはざまで苦しむ難民への支援のあり方が問われている。」(木下未希)
 えええええ。驚愕。
 なんだ知らなかったのか、って、そりゃ知らんけど違う、産経新聞だよ、産経新聞。
 こんな私のブログでさえ取り上げないことを木下未希氏と神戸支局の編集長は、偉い。社内で偉くなろうとしてないとこは最低限客観的に偉い。
 私の後輩も産経新聞就職して、名誉を重んじたのでしょうが、こういっちゃなんだけど傍流を歩いて(同い年なので)退職されたと思いますが、産経も腐っても新聞社、社員にはまともな人もいるんだ。
 私も泣いてばっかりいてはいけないね。
 「おめえなんかいじめっ子じゃねえか」って、バカだね、いじめっ子はいつも泣いてんだよ。 、、、かわいくねえ、
 
 本題です。堅い領域にちょっと一足踏み込んで。
 ちょっと学術っぽい装いを凝らそうかと、ネットで階級関係の新しい参考文献を探していて、当たり前ながらそんなものはありゃあしない。脳内セット済みの古い文献ばかり。橋本健二とか角田修一とか、絶対20歳現在でマルキストだったと感想するのだけれど、今はマルキズムなどほっぽらかして現象論的な(うわっつらの)社会学を標榜してしまって、ほんとやってらんねえ、という感想で。20歳じゃあ現象的な前衛論しか理解は無理だったでしょうからしょうがないといえばしょうがないが(あくまで感想、本人たちのことなど知りません)。
 というわけで、若きマルキストさんあてに階級の唯物論的意義をお教えしようかと。若くないと難しくてわかんないからね。ま、ウサ晴らしチックに。
 
 以前『身分制度と階級構造』(2018-12-01)でお話しましたが、階級構造というのは不可視のものです。これに対して可視の階級のことを「身分」といってきたわけです。
 なんだけど、以前は題を失敗しまして「身分制度」と無規定的に「制度」まで入れちゃったので、これは誤り。
 制度化しない階級現象がある。それがマルキストもお好みの変革的階級です。
 
 述べましたように、不可視の階級は、可視の階級(身分)を現象させます。
 この基盤は、階級の持つ規定性によって作り上げられた、生理的状況と権力状況です。生理的な条件と、支配権力と対抗権力に基づく賞賛と優越により形成された行為共同性が、人間を二つの社会的集合体に合同させるわけです。
 もう少し内実を述べますと、不可視の階級とは(ただの)規定性であり、そこに定義される人間が生きていくときに、彼が必然的に受ける権力とその権力への彼の人間としての対応原理、その時の複数の彼の間の彼の対応原理、これが可視の階級の本体なのです。
 逆にいえば、可視の階級を構成する人間から彼の「人間外の」束縛性を抽象したものが、不可視の階級性であるはずのものです。もっとも実際は、現実の集合性と古典派経済を思考する人間の頭脳との合作ですが。かつ、可視の階級の重要さは、これから将来に現象する階級についてですので、「今誰らのことを言っているのか」といわれても困ります。
 
 端的に言えば、「実証的な」社会学者が専売特許のようにいう「社会階層」とは、個人の行為共同性認識のことです。ある社会的な上下に関わる基準の下で、その概念的な構成員の大部分に明確に意識され区分された行為共同性がある場合、それを「社会階級」と呼ぶわけです。
 この区分性は、それがあるからといって他の行為共同性に影響を及ぼすとは限りませんい。イギリスの労働者階級は、やはり、意識の中でグレイト・ブリテンの国民でもあるでしょう。ただし、その社会階級という上下の区分性のために、差別の意識が必ず生ずる事態です。
 ここで、どの範囲の人民を採ってその行為共同性のどの点の共通性で括るのか、それは個別の社会学者の趣味に従うものです。たとえば、多くの場合、華族というありうる社会階層は除外されるでしょう。現行憲法以前であれば華族と呼ばれるはずの一連の人々は特徴的に自分たちの行為共同性を持つはずですが、彼らが標本内に交じっていてもそれを評価した研究はついぞ知りません。まあどうであれ、現象論にそれ以上の期待をしてはいけません。問題は、なぜその現象が起こるか、だけです。
 ここで、行為の理論は隈理論ですから、この現象は当然「社会階層」ではなく、無色透明な「行為共同性」という言葉を使って叙述されるわけです。 
 これは言葉の入れ替えではありません。行き当たりばったりの基礎理論のない「社会階層」なる操作概念を、根拠の規定性が存在する行為共同性という言葉に置き換えることで、その時代的な変更理由も、これからの変更予想も、第三者に理解できるものとして作れるのです。
 「無色透明」とは、上部構造に属するカテゴリーを排している、という意味です。そこには宗教も民族も文化も生活様式も地域社会の相互関係もありません。生理性の条件と、社会的人間の条件たる行為の原理と原則。この2通りしか分析用具がない社会科学の理論を、「唯物論」といいます。
 若きマルキストと、流行らないのでやめた昔マルキストだった方、以後ご認識を。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑記事数個

2019-09-14 10:19:09 | その他
 こんにちは。やっと涼しくなりました、ってずいぶん前も言ったような気さえしますが。端境期(はざかいき)ですね。買い物に出掛けてももう夏の名残を見せる風景はなく。といって秋の花もなく。緑は全て台風に痛めつけられて。
 東京地方、ひどかったですよお。私の家の上空(川崎北部)よりちょっと東京湾よりを通って抜けました。千葉はもうニュースに載ってるとおり。ひどいですねえ、これでコンパクト台風? 長年生きてますが、千葉の惨状は初聞きです。最近は九州とか中国・四国とかずーっとこんなのだったのかしら。
 私の実家のトタン的屋根も一部が飛んで、幸い夜中に庭に落ちたのでけが人がなくてよかったです。
 わたしんちも、「ビュービューという風」なんかじゃなくて「ビューーーーーー(以下省略)」、途切れない暴風は怖い。ほんと石の家でよかった。
 でも大昔もよく電線が切れたり停電してローソク点けたりしてたけど、子供的には別に困ることもなく、すぐ直ったけどねえ(目黒区)。
 「こんなんで大災害じゃあ、関東大震災級ではどうなるのだろうか、、、」というのは,合言葉になりそうです。
 去年の台風には家のそばの太い桜の木が何本も引っこ抜かれるし、温暖化の影響は大きい、、、。

 その他、ニュース。「養護学校の生徒が水遊びしていることについて、「災害の中、不謹慎」という苦情が入ったと、熊谷(俊人)(千葉)市長は12日にTwitterに投稿した。その上で「確かに千葉市内を始め、県内が停電・断水な中、不謹慎と思う方もいるかもしれませんが、自粛しても意味がありません」と断言。「心を寄せて頂いた上で、自粛はご遠慮下さい」と訴えた。」(ハフポスト)
 おお、立派なやつじゃあないか。いったれいったれ。ほんと、正義漢面したウヨって大嫌い。
 ウヨとは限らない? だいじょぶ、ウヨだから。ウヨってイデオロギーじゃなくてパーソナリティだからね。
 
 さて、役に立つブログ日常篇。
 
 1 ガーリックトーストのニンニク。飲み屋ではバターとパセリなりバジルに混ざって上品に2切れサンドイッチが出るところ、家じゃあそんなのやってられない、というわけで、トーストを山にして出すでしょ? ここで、おろしニンニクを手指で塗っちゃいけませんぜ、やりすぎ。(バター)ナイフで塗りましょう。ニンニクが一部厚いと辛い。ニンニク好きな人間にも辛いという感覚はあるようです。もちろん、トーストにしてからニンニクをパンにゴリゴリこする、という手はあるのですが、さて、どっちをとりますか? わたしゃトーストができてからゴリゴリなどやってるひまないし。
 
 2 炊飯器炊きで赤飯の水は固めのほうがよい。うるち米ご飯は柔らかいのが好きな人間もそうなようです。もち米が柔らかいと味がしないのね。当然、せっかくの甘みも消える。わざわざ「お強用」にしなくてもいいから、柔らかくはならないようにしたほうがよいです。「だって強(こわ)いし」という方は、半分うるち米にすれば大丈夫。
 
 3 「ドイツや香港など世界各地で仕事をしてきたモンブランジャパンCEOのシャルル・ラングロワさん(39)日本の男で「気になるのはスラックスです。股上が浅くてウエスト部分の位置が下。幅は細身でぴたぴたしたシルエット。しかも丈が短い。こういうスラックスは女性的に見えますし、背が低く見えますよ」「私はスーツではウエスト位置を上げますし、幅は太目に作りますけどね」」(日経スタイル)
 とうぜんどっせ。役に立つでしょ、このブログ、と伝統派。
 もっとも若い衆に言わせれば「昭和人間のウサ晴らし」、というわけだ。世の中そういうものです。ほんとのことは50歳過ぎないと分からない。
 
 4 そろそろ芸術の秋の先陣、『コートールド美術館展 魅惑の印象派』やってますぜ。目玉はマネの《フォリー=ベルジェールのバー》。
 都美術館12月まで。
 って、日展とかぶるな、と思ったら、日展(東京)って、いま国立新美術館だって? ぜんぜん行ってないことが知れる。っていうか、新しい都美術館に行ってないことも発見。
 可哀そうだねえ、自分。

 別の話、その展覧会でゴーギャンの《ネヴァーモア》とかいうのも出てて。私が好きなポーの「大鴉(おおがらす)」。50年後のフランス人が知っているとは知らなかった、
 ところで、このブログ的には、ゴーギャンのおばあさんのフローラ・トリスタンて、立派な人なんだよ。宣伝しちゃおうかな。「ロンドン散策」とか図書館にあります。産業革命期労働者の悲惨さの告発の書。上野千鶴子より立派。生粋かつ生来の社会主義者だね。

 最後にわずかにオタクもの。
 前回の(番外)で、佐藤優が出演しましたが、そのとき、なんかで田川建三が気になってwikiを開いたら、その説明で「神を信じるとは、神を想像する偶像崇拝であり、「神とは人間がでっちあげた」ものなので、「神を信じないクリスチャン」こそが真のクリスチャンであり、自分は「神を信じないクリスチャン」であるとする。」と書いてありました。
 おお、なるほど、論理的にはそれしかないんだね、と納得。佐藤に教えてもらうこともあるものです、餅は餅屋。
 わかんないでしょ。年の功もありますな。40歳の牧師や住職になど、何も判るはずがない。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

(番外)インテリゲンツィアの人知れぬ役割

2019-09-08 20:19:02 | その他
 今日は番外。心調調整。
 基本的に漫画の代わりの佐藤優、図書館の3門で「おや」という興味深い題名の本をとると、それが佐藤優だというのが2回続いて。なんだか親しみが湧いて借りた「プラハの憂鬱」。へたくそな小説なのですが、自伝と思えば、感情移入ができて、そうか、、、という感じ。絶対友達にならない人ですが、でもすごく近しい。
 その後ネットで検索して、佐藤を一生懸命批判している文章に出会っても、その批判の趣旨はとても当然なのですが、でもそんなの批判にもなりはしない。あなたは何も分かっていない。そんな反批判の気持ちが湧いてきました。言ってもしょうがないから言わないけど。
やっぱ、人の存在って、まともに表現する人間に対しては、口先でなんといっても批判にならない、もっと根本的なものだよね。
 佐藤は小説は下手でも、理論はつぎはぎでも、一生懸命生きている。
 わたしといっしょ、数少ない同志。
 ほかの図書館から借りたどうでもいいアカデミズム諸本を前にして、諸本の空しさをも感じてしまいます。 
 と、佐藤はどうでも、その他の人々との違いをつくづく感じて、またひとしきり、自分の孤立を認識してブログにグチをつづるわたくしでありました。
 ほんとのインテリの存在価値はどっちにしろ誰もが誤っている論の中身じゃなく、どう生きるべきかを伝えることであり、その表現は、あとに続く人間の人生と補強しあわなければならない。まあ私の場合は論も正しいしこっちのほうが年上なので、その結論からは外れるけどね。

 明日は、まだ台風の進路が直撃のままで変わらないよ。明日朝、出掛けんだけどなあ、、通勤電車、なんとかならんかね。

 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

方法としての弁証法・始元の自由さと歴史的限定性

2019-09-07 21:22:48 | 社会学の基礎概念
 こんばんは。また暑さがぶり返して。先週とか暑いと言っても30度くらいだったので、そういえば団扇って風情があっていいなあ、と余裕かまして思ったところ、とんでもねえ、クーラー、クーラー。
 外では東京地方でもクマゼミが聞こえてきました。昔はあんなのいなかったのですが。
 ネット情報だと、「ミンミンゼミとクマゼミの鳴き声は、実際に人間の耳で聞く限りは全く違って聞こえる。 しかし、この2種のセミの鳴き声のベースとなる音はほぼ同じであり、その音をゆっくりと再生すればミンミンゼミの鳴き声に、、、」(wiki)なんて書いてあるけど、ほんとうかね。ネット登載の鳴き声は確かにそんなのだけれど、うちのはもっとsh音が強いぞ、ゆっくり再生させるとこすれ音が小さくなりそうだけど、それはそれで違うんじゃないか。
 
 さて、本日は昼間にお客様がありまして、その結果こんばんは。暑さとお酒のせいかでなんか疲れちゃったね。お客様には暑いところご苦労様。
 今頃は朝日新聞コラムによると月の輝きが増すそうで。実際、昨日今日、晴れてお月様はよく見えます、といっても今日は半月がちょっと太ったくらいですが。で、満月のウサギは、つねにウサギに見えるのですが、餅はついちゃいませんよね、でも何かはしている、いったいなんだとしばし考えたら、昔の百姓の餅は臼でつくほど多くはなかったはず、という事実に気づきました。石臼って知ってる? ほんのわずかの穀物や胡麻その他をすりつぶすやつ。あんなちっこいの(相当)が臼なのではないか。それでついて神様にお供えして、神様のおさがりは偉そうな爺が一口で食らっておしまいなのではないか。神様は見ているから喉にも詰まるだろう。と思えばウサギの持っているはずの小さな杵も納得はできそう。
 で、朝日新聞の趣旨はインドの月ロケットの話のようですが、インドは北朝鮮の次に嫌い。失敗だそうで、シンプルにざまあみろと言いたい。って言ってる。神様はお見通しだぜ、たぶん。
 
 さて、本題。今日もオタク話題、というのには少し肩身の狭さを感じますが、面白いことがなくて。
 今日は私がお奨めする弁証法の使い方。ま、実質はマルクスの悪口。マルクスはこの30年、かんしんしたことがないね、エンゲルスを除き。やはり根本的にアナキストの敵だよね、エンゲルスは違うけど。
 まあ別に批判のための批判ではなくて、考えたことをこちらの訪問者様にどう還元しようか、というところで。
 
 で、始まりは、このブログでも何回か出てる、労働と労働力の使い分け、今日の焦点は弁証法。
 マルクスによりますと、労働力は資本にもなるのですよ。資本家は労働力の全部を手に入れるのですな。あとはその労働力に応じて賃金を払っているだけで労働力自体は全部資本家のもの。その労働力が資本になると言う。
 現実の労働者に言わせれば冗談ではない。賃金分も剰余労働分ももうお前は収奪したはずだ。我々は身も心も疲れ果てた。これ以上、私から何を収奪しようと言うのか。
 にもかかわらず、「労働力」なるものは「資本」となるそうです。なるはずがあろうか?
 人は既にこの時点で「その話はおかしい」と思わなければなりません。しかし、おかしくともその定義によって論理は続けられる。

 それはもちろん、資本家がもうけたものは貨幣であるに過ぎないのに、この貨幣が労働力だ、と言い張ることによります。こうした、現実ではない定義からの論理を裏弁証法、疎外された弁証法と呼ぶのがよろしい。 
 もちろん、それは正しいとか間違っているということではありません。現実ではない、ということです。
 現実ではないのになぜ間違っていないのか。
 それは労働からの派生部分に色を塗って、その動きを見ようとする「気持ちは分かる」からです。ただ、だからといって労働を労働力だと強弁されてはたまらない。「ここで私マルクスは、このような労働部分を労働力と名づける」というべきなのです。
 なぜ?
 注釈がなければ、資本家に渡った「ただの貨幣」が、あたかも「製品を生む労働」であるかのごとく捉えられるからです。そうではありません。貨幣は貨幣です。つまり、それは、マルクスの定義上、他の商品と交換はできることにはなっているが、実は「そのままでは現実には実現しない労働」なのです。
 もちろん「いや商品は交換ができるんだ」と強弁が入ります。
 もちろん、「商業は交換」論法ならとりあえずクリアできる。商品さえあれば、別の商品が自分の手に入るという、現代日本の私が古今の世界を論じるどんな本を読んだところでそんなことは書いていない、歴史的世界が観念上くりひろげられるわけです。
 再度言えば「疎外された弁証法」です。本来は、端(はな)から一貫して「剰余価値」と呼んでゆけばいいのです。
 しかし、それではマルクスは困る。なにせ「商品は、使用価値と価値でできている」のであるから。「価値」が途中で賃金部分と剰余価値部分に分裂してしまっては、始元の商品に戻れない! 剰余価値は資本に入る。では賃金はどこへいってしまうのか? 賃金は「商品の使用価値にしか変態できない!」
 もちろん、商品を2つに分けたほうが悪いのです。マルクスも自分で分けてみたら始元に戻れなくなってさぞ困ったことでしょう。そこでその苦し紛れに昔アリストテレスに習った術を思い出し、いわく、実現する手前のものはその能力です、と。かくて可能性たる労働力です。可能性という抽象ですから貨幣に転化してもよいのです。労働者たる私がいくら疲労困憊(ひろうこんぱい)していても、私が産んだ「労働力」は、私のお腹を離れて自由に羽ばたいている!
  、、、馬鹿げたことを。
 
 「そうはいうが、実際、資本は商品を作るために、賃金を払い、その剰余労働分を、つまり利潤を獲得できるんだから、そのストーリーでいいではないか」という疑問がまあ出ますがな。
 そうではありません。現実ではない口先のごまかしはいつかばれる。当初の使い終わった労働は、出来上がった商品として、社会の富です。しかし、その過程で資本家が儲けたはずの剰余労働分は、次に商品となって初めて社会の富となり、さらに、これを売り終わって初めて、資本家の富となるのです。現実は売り終われるとは限りません。
 そして極端な現実が、金本位制を解消した現在です。歴史は変わって、19世紀から20世紀、今では貨幣はカネ、紙切れです。日本じゃ、頃は人材不足、そんなものを1、2枚ピラピラさせたところで労働者はやってこない。じゃあこれは他の商品に変えよう、などと思ったところで、オイルショックで頃はインフレ、「そんな鼻紙の1、2枚を見せて何を考えているのか」と言われる。なぜか。この当初の境目に論理の隔たりがあるからです。剰余労働を、現物の商品を作り出した労働(に内在する労働力)一般に解消した、その矛盾の発現です。
 
 難しいやね。
 要は、歴史的にある時点で整序されたかのごとくみえる弁証法論理は、しかし、通歴史的に適切なわけではありません、という、概念上の弁証法論者は全て知っている、しかし、現実に知っている人間は、隈、このただ一人、という話です。
 もちろんそれが150年間もてはやされたことからわかるように、それは別にやっていけない術ではない。
 社会科学は現実と違うからといって、そこで価値が決まるものではない。もともと概念整序など社会科学にとってはついでの作業でしかない。そんな歴史的に特殊な弁証法的概念把握、その把握内に存する因果連関を把握できれば、そこに価値があるのです。確かに剰余価値はぐるぐると社会経済上を君臨する、それがいかに現実と違おうと、それに付随する因果連関の10のうち5は、聞いた者に納得されるのです。
 
 さて、まだ問題が残っている。こう批判したからといって、マルクスの論理が否定されたわけではありません。隈は「不適切だ」と言っているに過ぎません。社会科学というのはそういうものではない。叙述の欠点がわかっても、「労働者の剰余労働が資本になれるときがあり、たまたまなれないときもある、しかし、カテゴリーとしての資本はそれが存在する限り、労働者の剰余労働だ」というマルクスがクリアにした基本線は否定されないのです。そんなものは赤ん坊にしか否定できないし。「マルキスト同士でけなしあってるじゃないか」というのは、相手がウヨク転向者を除き、その内部の叙述修飾の使用法なのです。特に右翼の方への注釈ですが、ソ連が崩壊したとか、計画経済国家がなくなったとか、そんなものは一切マルクスの論理とは関係がありません。まあウヨクには理屈や論理や理論は関係ないでしょうが、反社会主義志向の経済学徒の方はゆめゆめ誤解されませんよう。
 
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする