こんばんは。東京地方さえもひどい春の嵐。桜の花びらの元気な頃でよかった、散らなくて。東京地方中部南部は関東山地に守られて、自然現象にはだいたい無事なんですけどね。
さて、コンピューターと将棋指しの電王戦第3局。ようやく人間が勝ったとか。
それにしても掲示板等の将棋ネット情報は言いたい放題。ああゆう奴らは俺らなんかみたいな普通に将棋指しという人間を人間として感じる部類とは発想が違いすぎて、一緒になる気になれん。下品。ないし、人間を動物扱いする毛唐。
昔っから今まで、スポーツ・趣味の、見世物のような娯楽情報は、観てるほうには闘犬や闘鶏のようなストレスの解消で給料が出てたんですね。人間を動物としか見られん奴らなんか、おりゃあ嫌いだ。わたしには動物が人間とおんなじだけどね。
(私はときどき嫌みを言いますので、「毛唐」とか「日本国民」とかっていう言葉をそのままに受け取ると誤解になります。誤解されたって別にいいけどね。、、、あ、投げやり)
ま、それはさておき、昔とは、その3。
もちろん自分でも「その3」まで書くなんて思いもしませんでしたが、やはり、36年ぶりのイベント、まだ言い忘れが。
なんて追加する意味は、1つは、言い忘れそのもののことで、こんなことが起こるから脳力の減で。
2つは、タイミング的にもう10年は書く時がないはずのことなので、今書いとくしかないか、と。
といっても、前にも触れたことですが。
先に人のことは書いたので、書かなかった「過去の環境」。
過去の環境って、「建物」のことね。って意地になって限定しなくてもいいのですが。(「意地に」って意味は、都会暮らしの想い出は、私の嫌いなはずの建築物だけなので不愉快、というニュアンス。)
「ここは昔なにそれだった」と思う環境って、建物、海辺、あるいは、街角とか、そんなものがありますよね。
そんなものの98%って、みんな想い出に彩られた、しかし想い出にしか飾られない、シンプルにいえば「哀しい」環境ですよね。世の中、哀しくない思い出って、100分の2しかないでしょ。
そして、それらは確認したように、人々の環境でしかない。それが哀しいのは人々が消えてしまったから。それでも、その哀しさが力になる時がある。それは、そんな過去の人々が、あるいは過去の人々のエッセンスを持った次の人々が、今も周りにいるときに。
そうでないときには、そんな環境の存在意義はない。「ああこの広場でストライキの旗を振ったな」。そうか? そんなことはねえだろう、だって今ここには誰もいないぜ。
上記について、若い人たちはシンプルに、「私の仲間たちは累積して私を形作ってくれるんだ」と思ってくださいませ。
しかし、わたし自身は実はそうではない。もちろん、それに値する想い出の人たちに感謝を。
しかし、そうでない人々に冷たい視線を。という感情は自分の力にはなるかもしれませんが、過去の環境に、その風景に、価値を与えることはありません。かくて、そんな「環境」の風景には、シンプルな「さようなら」でおしまい。