リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

相反し対立しない理論

2012-05-27 18:13:13 | 歴史への視角
 こんにちは。ようやく来た休みの土曜は、朝から夜までディズニー・シーでなんも休みではなく。
 しかも嬢ちゃんばかりはいいとしてもみんな若すぎて、あこりゃ年取っちゃったのかな、ってそりゃ疑いもないことではありますが。みんな自分の娘より下じゃ、位置付け不明な人々に、明るくない感慨を覚えたものであります。なんて、長々いたくせに。

 それにしても納得できないのが、テディーベアブーム。ディズニー・プロがミッキーのなんとかかんとかのベアとかっていわれを作って売り出したそうですが、商売お上手ね。しかしあんなもんどこが可愛いのかね。熊のぬいぐるみは好きだけど、テディーベアだよ。それを嬢ちゃんたちがみんな手にしたり腕にしたりバッグにしたりしてるってわけだ。わけわかんね。
 せめて「クマのマック」とかならわかるんだが。
   http://members2.jcom.home.ne.jp/smastani/seateddy/mack/index.html
 ま、そういうわけで本日も疲れきって。
 以下、ちょびっとですが。

 異動で、いきつけの図書館が変わりまして、前は古いまあまあな本があったのですが、今度は新しい本しかない小さな図書館で。もっぱら暇つぶしの趣味本を借りるしかないところ。
 で、借りたのがドングリの本。
 
 ドングリったっていろいろで、食べるところ(いわゆる実の膨らんでるところ)は「実」だったり皮だったり種だったりするんだそうで。 どうだ、不思議だろう、ってわけですが、なんだかねえ(注:ほんとは木の実一般の話。私がドングリに収約しただけ)。
 
 そういうのって、ドングリにとっても、人間にとっても、「同じ実」なんじゃないのかねえ。「いや皮だ」、とか言う奴のほうがおかしいんじゃないか。ドングリの方だって、要するに芽の養分貯蔵庫になりゃそれでいいんだから。人間だって、指の先で人の顔が識別できれば、それは指の先にある「目」だろうが。
 
 というわけで、本日は「理論」というものの性格です。
 
 「理論」というのは、基本的に主体的(=主観的)実用に供するために作り上げるものなので、人間は以下のように実用化していくものです。

 まず、時間を固定して
 第1に、考える行為主体にとっての現象状態について正しく当てはまる、機能論=現象論。
 第2に、考える主体が、自分の周りの現象から抜け出ようとするとき=変革するときにのみ正しく当てはまる、本質論。

 また、ちょっと次元を変えて、時間を問題にして
 Aとして、行為主体が環境を話題にしてそれを説明しようとするときに使う、歴史主義。
 Bとして、行為主体が、環境に刃向かおうときに、その根拠となってくれる、人間主義。
 
 世の中の「正しい理論」というのは、決して一つあれば済むものではなく、この4通りのそれぞれが、行為者の状況に応じて、正しく世界にフィットすることになるんです。

 なんていってもわかるかなあ、と思ったら、前書いたような気もしてきたけど、どうかな。
 
 現象論ていうのは、年越し派遣村の湯浅誠さんが政府役員したら「政府もがんばってる」なんていいだすようになった視点のことですね。「お前だってよくいう」、って、ま、そういうことでさあ。
 それは事実だ、と。
 しかし、事実をいってたら何も変わらない。 「しかし、それはそうではない」、といわなくちゃね。
 それを何を根拠に言うか。手順は、目に見える現象の前提を崩すことにある。
 「それはそうではないんだ、それは資本家に取り込まれているだけだ。そうやってみんなが一生懸命体制を守ろうとすることになるのが、資本主義の本質なんだ」という次元で展開するのが、本質論。
 ドングリなら、「種を太らせると芽が1つしかできない。私は芽の数の多さで勝負したいのだが、どうにかなるか、、、そうだ、実を太らせて分化させれば、種はいくらでも作れるんじゃないか」、と考える。ま、考えやしないだろうけど、分化の部位はあちこちで可能である、という本質があれば、そういう道を選ぶことができる。
 
 また同様に、「この現実は歴史的に作られているから、これは変えることはできない。仮定の話をしてもしょうがないんだ、これが現実だ」、といってしまえば、それはそうだ。この現実は歴史的に作られた。 つまり歴史主義である。
 
 しかし、「何を言うか。この歴史を作ってきたのはわれわれであり、これからの歴史を作るのはわれわれだ。」といえば、それもそうだ。 つまり人間主義である。
 
 それぞれの視点は、行為者がいったい何を分かろうとしているのか、そのそれぞれのために取られる。
 人間ていうのは、これらの両方を知って初めて、世の中、というものがわかるんだよ。
 
 
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一部の人への読書案内

2012-05-21 21:04:11 | 断片
 こんばんは。
 かなりの例によって、「断片」の次は少しリカバリーを。
 私の人より優れている点は(自慢)、このリカバリーの有無なんですよね。
 しくじりが問題ではなく、それをどう尻拭いするかで、凡人的大衆の仕事って決まると思うんですが。

 てなわけで、昨日の翌日。
 
 その1、昨日の補足、nevermore。 エドガー・アラン・ポー作詞の「大鴉」にでてくるrefrainです。
 作詞、って詩ね。
 でも歌なのね。よい歌。
 死んだ(かのごとき)幼な妻を悼む、というより傷む作者が、大鴉に無駄な独白を続ける歌。
 独白に鴉が繰り返す答えは、nevermore。
 そしてその「ネバーモー」を、作者は自分の意志の如何を問わず、そのまま抱え込んでいかなければならない、という、すでに悲痛ではなく、運命というでもなく、それを迎え入れざるを得ないという、恐怖というでもない不条理を歌うわけですな。
 
 それが情けなければ闘うしかない、しかし一方、てやんでえ、俺は闘えないし闘いたくもねえや、という人間の位置を美しく現している詩であります。
 
 で、も、いっかな。私は評論家じゃないんで、無用な過剰な解説はしたくないし。
 ま、それがわかんないやつはほっときますし。
 わたしへの陰口は、「傲慢」。いや、おっしゃるとおりの確信犯。

(注)上記「死んだかのごとき」っていうのは中也の詩みたいにね、「かのごとき」現実っていうのがあるんですよ。


 その2 ついでこっちが本体で、やはり、ブログの性格上、その1とはぜんぜん関係ないけど、「その方面で」新しいためになること、読書案内。
 68年闘争の読書案内です。
 
 若人が、中高年が話す68年について何か知りたいと思ったとき、読む本は、
 うそで固めた小熊英二「1968」ではなく、思い込みばかりの、すが秀実「1968年」でもなく、荒岱介「新左翼とは何だったのか」にしてくださいませね。
 なによりこれから50年も経ったら小熊の本が「厚み勝ち」して「社会学的記録」に残ってしまうだろうのが口惜しい。厚きゃいいのかって、慶應の教授がうそつきだなんて、社会学者しか知らないしね。そう思うと犯罪的な本だぜ。
 とはいえ、じゃあ、どんな本がいい、って、それぞれの党派では出しているけどそれも出自からして疑われるところ、「改心」したセクト指導者が大衆本出版局から出している(この)本となれば、量で勝つかもしれない、てなわけで。
 わたしゃ荒なんざ嫌いだけれど、事実だけはよく書かれてますので、こちらを見るくらいで我慢されてくださいませ。他は若人にはなにも奨められません。
 
   という、大した「ため」ではありませんが、少し昨日のブログの「厚み」を増しておきませんと、来週(の内容)がプレッシャーなもので。
 
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ネバーモー

2012-05-20 21:26:37 | 断片
 こんばんは。今週は休みなしで。
 面白いこともないので、ウイスキーを高いものに換えて飲むばかりです。

 高いといってもディスカウントのオールド、43℃レーベル。
   オールド、まず(不味)。

 15年前よりももっとまずくなってしまっていた。
 独身貴族の私の好きだった40年前のあの味はいずこ。

 あ、いや、きょうはためになることのない、「断片」ぶろぐ。
    では、また、来週。

 で、残った方には、なんなんでしょうねサントリー。
 わかんない若いやつが、高きゃいいだろうって、ロイヤル(これは5年前はよくなっていた)の味に手を入れて、年寄りが伝統の角を、っていうんでてこ入れしてるんでしょうかね。
 間にはいったオールドと角がいい面の皮。
 わたしは角よりホワイトが好きだったんですが、(ホワイトを)飲まずに5年も経った今、幻滅するよりもう買わないほうがいいかもしれませんね。

 食べ物は、作る人で変わるんで厭ですね。

 30年前、池袋東口、現、寿し和近辺にあった鶏だしのラーメン屋さん覚えてる人はいませんかね。義理の弟さんの店ですが。ほんとおいしかったですよ。それと比べたら、二郎ってなに? 馬の餌か、みたいなもんですね。
 そんな完璧な店も、病気になって他人を雇ったらレベル2減してまった。
 いや、このぶろぐは弟さんの知らない場所だし。もう再開発でつぶれてしまったし。
 昔の味なんて、ネバーモー。

 忙しいといいながら(いってないか)だらだら書いてあほですね。ネバーモー。

 さて、おまけのブログ、文芸批評。大鴉、ネバーモーと闘うのは、人間の意志だけなんですぜ。それを反面教師で顕せたポーは、ホンモノの詩人ですぜ。

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資本主義的同心楕円

2012-05-13 21:21:38 | 歴史への視角
 こんばんは。みなさんお元気だといいですね。私は元気です。

 今日は、他の社員とかなり同時に退社したところ、玄関を出ると自転車通勤の同僚(女)の自転車のカゴに「お荷物」が置いてあったと相当な騒ぎ。
 さて、「お荷物」ってなんでしょうか。
 答え、ニャンコの赤ちゃん、三匹のはいったかん袋。
 
 ばかやろう。
 捨てるに事欠いて。
 しょうがない同僚は交番にいっておまわりさんに引き渡してきたところですが、おまわりさんが言うには、本署にパトカーでニャンコを連れて行ったあと、規定の期間を過ぎると、保健所へ引き渡すことになるそうで。まあ、おまわりさんも大変ですが、このばかやろうは、せめて自分で殺せよと思います。
 「どっかいい人にめぐりあったら」 なんて気持ちなんざ、逃げ以外の何者でもないですね。負い目は自分で一引き受けてなんぼ、というものです。もちろん世の中、引き受けない奴が95%ですけどね。
 
 という憤りはちょとおいて。
 
 ありがとうございます。昨日で本ブログ訪問件数10万件を越えました。
 
 「変だろうが、つい1,2ヶ月前5万人だっていったじゃないか」 と、おっしゃられても、この前は人数、今回は件数。どう違うかといいますと、人数はきた人で、件数はおんなじ人が同じ時にページをめくると、その分回数が増える、という感じで。よくホームページのカウンターでカチャカチャ動いてる数字のもよう。
 ま、ともかくもありがとうございました。
 
 さて本日は、もう2題も書いてしまいましたが、いつもの訪問客の方には息抜きで。
 たまに来た人にちょっとためになることを探して書いておきますと。
 
 今日のNHK、「ダーウィンが来た」、北海道で漁師が捨てた大量の売れない小魚を、大鷲が大量にきてむさぼり食ってる話。
 「なんだ、なさけねえオオワシだな」と私。
 「ワシもうちも産業革命時下層労働者と一緒だね。50円のチンゲンサイ買ってきたり、、、」と家人。
 
 『50円のチンゲンサイ』の意味が分からない人は、こんなブログに来ないで、一生懸命高校受験や大学受験の勉強をしてくださいませ。世間の勉強は10年早い。
 
 ま、そういうことで、たしかに当家は、イギリス下層階級が荷馬車の中層商人から投げられたキャベツの皮(キャベツの葉に陽が当たって硬くなって売り物にならないところを、中層といっても貧乏を知っている商人が同情して投げるそれ)を買うのと一緒なのですが、それは先進国内での話で。
 それが同心楕円を描いて世界を席巻している。
 われわれはチンゲンサイをたべることができ、同心円の最端では、あいかわらずキャベツの硬い皮にも当たらぬトウモロコシの芯を口にすることもできない。
 同心円というのは周辺の位置の違いを 「同じだ」 といってはいけないものなんですね。
 
 で、たまのお客様には、
 「グローバル資本主義なんて、世界の中の資本主義国家で同心円を描いているんだよ」、というお知らせ。同心円は渦を巻いて中心化、一体化へ向かいます。それは、われわれ先進国には資本家の優越性を「あきらめる」、後進国には資本論的労働者でも「いつか夜明けが来る」 そんな関係になっているんですよ。
 
 てなことで。
 
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生きることで落ちていくもの

2012-05-05 21:55:07 | コーヒーブレイク
 こんばんは。いつのまにかベランダから見る景色は若葉一色(一色といってもいろんな黄緑色があるといえばありますが)。遠くの町のビルも木の葉に隠れて、目に見える人工物といえば金網と遠くの高圧線くらいになってしまいました。
 って、どこに住んどるんじゃい。


 本日は連休のためコーヒーブレイク。といえば、マイフェイボリットシング。
 今日は歌の話。
 
 名曲の定義はいろいろあるでしょうが、歌えない歌っていうのもあるんじゃないですかね。
   歌えない歌。涙で。

 ……「療養所(サナトリウム)」
    「第三病棟」
    「僕にまかせてください」
    「フレディもしくは三教街-ロシア租界にて-」……
 
 さだまさしばっかりですね。(ネット「さだまさし全曲歌詞集」から引いてきたんですからあたりまえですが)
 ばっかりではありますが、逆は真ならず。
 今日の朝日新聞土曜版は、「さだまさし・精霊流し」特集でしたが、「精霊流し」はなんということもない、誰でも歌える愛唱歌。 歌というのは自分で歌うものだから、どんなひとでも理解できる歌でないと、流行はしないのね。
 
 ま、いずれにしてもさだまさし。弱いものの立場に立てた人間でした。 
 と、過去形。
 彼氏、借金だらけの中で、自分の道を切り開こうとしたとき、日本の青春がいっぺんに終わってしまった。ま、いつか終わるものだからそれでいいのだけれど。あとは強いものの歌ばかり。
 人間、弱いもののことを歌っても、それは弱いものの歌じゃないのね。
 強い人間がそれをしても、弱いものを見ている強いものの歌でしかない。
 強いものには弱いものの心はわからない。弱いものの心を表現できるはずもない。
 
 人間て、いつか、自分一人でいろんなことができると知ってしまう。若いときって、典型的に自分が何もできないって思い込んでる時代だと思うんですけどね。その一方で、でもやればできるかもしれない、とも思っている。そこからみんな何かをしだすんだよね。そうするとできることがあることがわかる。その過程で、もしかするとなんでもできるんじゃないかと思う人もいる。
 そうしてそのうち、みんな、それぞれに何かしら自分だけでできることを覚えて、大人になってしまう。 
 こうして、人間は青春の歌を歌えなくなる。
 
 ときどきここで、「なんで詩は若いときしか書けないんだろう?」、と書いてきましたが、考えた結果、答えはそんなところではないか、と結論しました。
 
 「だからなんだ」 って、ぼくは自分が強くなってしまったから、弱い人が好きだな。
 
     歌は歌わなくてもいい。歌えなくてもいい。
     ただ自分の中で、世の中にそれが存在することを誇り見守る歌がある。それでいい。



 それはそれとして、さだの歌をyoutubeに載せると(著作権だかと)文句をつけるような奴は人民の敵だな。

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