リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

生存証明のみ

2020-09-26 10:50:26 | 断片
 こんにちは、もう夏は帰ってきませんね。ここのところ、黄揚羽とか黄蝶とか飛んでましたが、蝶々ももう終わりかな。
 私はまいにち鼻炎対策。鼻水が出ないように上向いてソファーで過ごすか、薬飲んだせいで気持ち悪くソファーで寝て過ごすか。今日は前者にしようかと思いましたが、薬なしでも気分は決して良いわけではないことに気づきました。風邪もあるんだろうけど。後で薬のも。
 
 というわけで今日は何も浮かばないのでおやすみ。
 
 何もしていないわけではなく、自称教育社会学者と引用元の外国人の文学のようなテーゼの真偽に悩まされて3日間、結局文学だと気づいて消耗しました。
 こういうのとても多い。この2か月でフェミニズム書で2件やられた。そのたびに歴史書を3冊も4冊も調べさせられる。
 
 まあいいや、なんか役に立つことないかね。
 チキンソテーの日に豆腐その他が余っていて、涼しくなったので豚汁にして、じゃ合わないので、豚汁の味噌を、コンソメとトマトジュースに代えてみました。食べられます。あえてお薦めはしませんが、余った時は使えます。それと、トマトジュースはスープの目先を変えるのに便利です、ちょっとでダシの代わりになります。1Lペットで常備をお勧め(飲めない人だと余っちゃうよ)。
 
 関係ないけど、いつもyahooから検索するのだけど、最近1面に出るニュースが猫のことばかりだよ。私だけかな。 edgeの履歴消去ってどうすんだっけ、、

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社会運動論よもやま話

2020-09-19 11:08:39 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。お元気? 今日は全国的に涼しい模様で。しつこい鼻水にとうとうコロナに悪い禁断のエスタックイブを飲んでしまいました、3錠のところ1錠。他の薬は体調が悪くなるばかりで。ほら15分で効いた。今日は買い物にも出ないのでコロナも大丈夫。
 皆様は4連休ですか? 東京も今日から諸施設入場緩和で混み合いそうです、来場中はくれづれもお気を付けください。自粛の方はスマホを見すぎないように。60過ぎると何も見えなくなりますよ。

 ところで、yahoo画面でアウディの宣伝が出てて、女性が立ったまま空を飛んで、そのうちアウディを運転してる画面になるCM動画だけど、車はどうでもいいですが、いいなあ空飛んで。
 セスナか二枚羽根のプロペラ飛行機でちんたら空を飛びたいね。時速百キロくらいで、高速道路の車に追い越されながらふらふら上がったり下がったり、最高の贅沢だね。ヘリコプターは遊覧で乗ったけどなぜかつまらない。ふらふら飛ぶのがいいな。隣に乗せてあげようか。免許ないけど。
 
 ニュースは首相選かね。
 菅か。まあ、しゃきっとはしてるね。官房長官ご苦労さん扱いでしばらくどうぞ。
 しかし、秋田らしくない顔と思ってたら秋ノ宮だって。で、秋ノ宮って岩手の境だと思ってたら、ほとんど山形なんだね。置賜のほうには似てる人いたな、遠いけど。それにもっとふっくらしてるやね。これは苦労の度合いか。
 
 このまえyoutubeの歌見てたら、「木綿のハンカチーフ(山形弁) 朝倉さや」ていうのが出てました。なかなか感動的。昔からいる方だそうで、知らなかった。
 元気いっぱい大きな口開けて山形言葉でねえ、明るくて、不安になる明るさ。ああいう人は幸せには不安なんだよね、経験から言うと。実際そうなんじゃないの、知らない人だけど。
 まあ、歌としては太田裕美のほうが私は好きです。こっちのほうが不安もない。
 
 さて、本題が長くなるので、それではまた。連休の方はごゆっくりお休みください。
 
 というわけで本題。久しぶりに社会学。本を借りたんで、それ。
 本は、栗原・庄司編「社会運動と文化形成」1987年。
 古い? でも社会運動の本て、新しい本、図書館にないんだよね。ってゆうか、書店でも知らないし。ってゆうか、社会学自体、売ってる本屋近くにないし。

 一般教養な話をすれば、日本社会学では、70年までのマルクス主義的社会運動論に対し、ようやく我を取り戻した構造機能論者によって、資源動員論という、体制内運動論が確立しそうになるわけです。こんな理論ができるようじゃあ現実もおしまいとしたものですが、その後、行き場を失った過激派の諸君のせいでマルクス主義運動論がつぶれた後は、構造機能主義もつぶれるわけ。両者とも全体社会論という紙の裏表で、もう何をしても意味がない、で構造機能主義の存在価値もなくなったんですね。
 で、その後に来た波は、当然に改良主義。全体社会を変えるのは無理だけれども、そもそも社会なんて、階層(階級ではない)の運動の妥協でできてるようなもんだ、というわけ。トゥレーヌとかヨーロッパ階級社会のエリート理論ですね。
 と、これがどこの国も中核的大衆は後進国の犠牲の上にのうのうと暮らせるようになっちゃったから、この階層運動論も流行らなくなる。
 かくて、「エスノメソドロジー」、その他レッテルはどう貼り替えようと、コミュニケーション理論あるいは差別と排除の理論が運動論にとって代わるのです。要は、まあ裕福は裕福同士、仲良くやろうじゃないか。落ちこぼれる人がいる? それはいかん、差別はなしだよ、というわけです。 
 学問は文化運動だからね。科学は普遍だけどね、科学従事者などいないも同然。 
 
 ともかくそういうわけで、私は実は大学院でトゥレーヌをやらざるを得なかった時代なんだけど、この本はトゥレーヌさえ下火になった時期の本で、幸い私の理論の運動部分はすでに確立されていて、サラリーマンの貴重な余暇を潰す必要がなかったわけです。だから、昔、書架でめくりましたが、借りて読むのは初見。 
 
 で、論文集なので中身です。そこから2編。
 一つ目が、船橋晴俊氏の「東北新幹線建設と住民運動」。批判する悪気?はないのですが、一番社会学らしいので。
 本体はこの建設反対運動の消長の記述なのだけれど、その「要点」の一つを「結び」の節から。 
 船橋氏によると、大規模公共事業の「「決定の場」と「紛争の場」とがずれていることが、住民の要求実現にとっての困難さを形作っている」(p154.)というのですね。 
 しかし、こういう善良な発想がコミュニケーション派の弱点なのです。
 シンプルに言えば、大規模公共事業の「決定の場」と「紛争の場」とが同一であれば、紛争はそれが生ずる前に消滅せられ、それでも反抗したい人間には、法で決定された民主主義的法制度に反逆する非国民として、武力的に弾圧があるのみです。嘘だと思う人は、現状韓国国家のアベ内閣の扱いと、沖縄辺野古を見ればいい。
 支配権力は絶対です。反対運動派がお茶飲み話ができる相手の地方自治体とはわけが違うのです。かえって、運動は次元が離れているから有効なのです。
 ではなぜ地方自治体ではお茶飲み話ができるのか。 
 支配システムにとって、下部ユニットの役割は、
 第1に、自己のための消費物資の回収
 第2に、自己のための消費物資の確保・保全
 第3に、反乱分子の抑圧
 です。
 要するに、行為の中の生理的条件の確保と武力の行使、このための存在です。これだけ確保するために、下部ユニットは、支配権力を代理で行使する。これが行使しかねる場合は、本体の支配武力の出番となります。これは文字通りの「役割」であり、機能というようなものではありません。その代わり、下部ユニットが何をしようと、上記に抵触しない限り、それはそれで支配権力は構わない。構う理由がないのです。 
 この基本的規定性により、下部ユニットの責任者は、被支配者に同情することも同調することも可能です。「世の中は話し合いだ」。 
 (ところで付記で、下部には権力がないかというとそんなことはありません。心ならずも下位となった下部の権力ユニット内ではどういう状態か。下部内では下部をユニットたらしめている事情に応じて、独自の権力的規定性があります。かのユニットの範囲内で得られる権力による賞賛と優越を獲得しつつ、ユニットはユニットの利益を確保するのです。)
 地方行政当局が同調して動いてくれるからって、じゃあ権力本体が住民の味方だというのは、それはあまりにも「社会学」です。社会学内部で収めるなら「社会的事実」だからいいかもしれませんが、何も知らずに論文を読む住民読者は、地方権力とはそういうものだと認識してしまう。いや、もちろんそれも社会科学ならぬ「社会学」の存在の宿命ではあるのですが。
 
 なお、追加で、船橋氏が多用する「受益圏」と「受苦圏」なるターム、「圏」というのはまあ「人々」ですね。これもいただけない。これでは出てきた社会問題は人々と人々との交渉問題ではないですか。沖縄に基地がいつまでもあるのは人々の交渉問題でしょうか?
 いやそれは受益圏たる日本資本主義者と米帝国主義者と、受苦圏である沖縄人民の、人々と人々の問題だ?
 こんな語句は並べ立てたただけです。まったく意味を持たない。じゃあ全員が悪漢である資本主義者と、被害者の沖縄人民の問題なのか? あるいは悪漢の米帝も「話せばわかる」のか? そんな「人間同士の」問題なのか?
 「馬鹿にするな。どうであれ結局は交渉するしかないではないか」?
 違うのです。このとき社会科学の役目は、我々と同様に善良であるにもかかわらず悪漢のような判断をせざるを得ない、米帝の意図と日帝の意図の暴露であり、この暴露を経て「受苦圏」なるものの日本での拡大が始まるのです。
 正しく言えば、「始まる時代には始まる」なのですが、この誰も知らない1行を根拠を持って提出するのが、社会科学の役割なのです。現状の人々の心を固定して記述したところで、そんなものはなんの未来も映してはいない。
 多分お分かりではないな。しつこく言っておきますと、問題はテクノクラートの意図でもないのですよ。テクノクラートがしかたなく調整しようとしているものの、動かしがたい、譲れない規定性は何か。それを言わなければ世間はみな合理的です。そもそも諸大臣も諸官僚も悪い人間なんかじゃない。われわれだって官僚や大臣であればおんなじことをするしかないのですから。
 どっか違いますか?
  
 コミュニケーション論は無意味ではありません。おそらく権力が希薄となった3百年後の世界共産主義状況においては有効でしょう。社会学とはそういうものです。これが社会学が「現象の学」と呼ばれ「現実遊離」と呼ばれ「非歴史的」と呼ばれる所以です。 
 
 なのですが、船橋氏は亡くなられていて、反論ができない。いつもなら「お弟子がいるでしょう」とか追っかけるわけですが(いやみだねえ)、この場合、奥様が共同研究者でちょっと問題が。
 私の悪口癖も社会を同じくしていないところに遠い根拠がありまして。遠くないか。まあこちらは知ってる方であんまり論争したくないな。知ってる人はだれでも思うように、私はただの穏健な人間なので。そもそも本件は、社会学の性格を示すただの「例」ですし。
 
 ついでその2.加藤春恵子氏の「女性解放運動のエスノメソドロジー」。
 加藤氏というのは、実は、大昔は社会心理学で米国理論の受け売りで、なんていうとけなしてるようですが、私などと違って若いころから積極的に勉強して偉い人です。ただ、私が、こんな学問をするなら社会心理学はごめんだ、と思った対象者で。そしたら、いつのころからかご自身でもそんな勉強の仕方を反省されたようで。
 ま、それはいいとして、本編に感心。
 加藤氏が言うには、日本の1970年代の中葉には、普通に暮らしているだけの「実に多くのさまざまな世代の女たちが、それぞれの日常生活の場のなかで、それぞれの定義のし方で「自立への願いを抱いていた。「夫からの自立」「子供からの自立」を願う妻そして母、「親からの自立」「結婚からの自立」「家からの自立」」、、、エトセトラエトセトラ(p189)。それがその後、経論化や研究者に整序され、制度化され、運動者にヘゲモニー化され、内部矛盾があからさまになってきた、とのこと。もっとも「 」外の言い方は私の受け取った趣旨ね。隈思うに、「加藤氏、よくわかってるじゃないか。いいねえ、いつか使わせてもらおう、そうなのだ、「それぞれの定義のし方」に社会運動の本質があるのだよ」。
 と、ここまではいいのだけれど、残念ながら、加藤氏の結論は、運動組織者が偉ぶるから運動が分裂する。もっとコミュニケーションを大事に考えて行動しろ、ということになってます(趣旨です)。
 ちがいます。分裂は運動過程であって、運動ではない。運動過程とは「日常」の過程です。そんなことで分裂するものは分裂させておけばいいのです。
 「運動過程」と「運動」の区分けの必要性は、その全体社会的影響力の違いにあります。運動過程においてはその全体社会への直接的影響はゼロに等しい。運動過程まで「運動」としてしまっては、運動の規定性およびその影響力の立言は不可能です。
 まあ、コミュニケーション論ですからね、期待しちゃいけませんが、ともかく加藤氏の心配りを見直したのです(絶賛)。


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本のお薦め3件

2020-09-12 11:46:59 | 断片
 こんにちは。なんといっても今日は涼しく。ずうっと気分は悪いわ、動悸は打つわ、鼻水は出るわで、あやうく死ぬところだった。「わ」は終助詞ね。鼻水は新しいアレルギーかな。ともかくなんとか夏は乗り切ったもよう。
 といって、冷房下でこもっていたもので、俗世間はもとより自然界の今もよくわからない。野菜があいかわらず5割高で推移してるのは知ってますが。ジャガイモは安くなってきたよ。
 
 さて、コロナも一通り日常化して、そろそろ資本主義者の大好きな「再構築」の季節が始まったようです。リストラね。Restructuring 。皆様、大丈夫? コロナ禍とりあえず乗り切ってもそうそう長くもつものではなく。とくに飲食系の人には、困ったことです。そんなになくして困らない職業だったら、要る仕事をみんなで分ければいいのに。みんな楽になるし。
 
 今日はネット見てたらわけわかんない記事が。
 「子育て費に世帯の6割が第1子を“産めない”現実…32歳コンサル男子の悲鳴」(西山 里緒)。(題、ちょっと意味不明。)
 西山氏が、記事にしてくれと言われた話で
 「複数の企業を運営するコンサルタントのタカシさん(32、仮名)」「は1歳になる子どもが一人いるが、ある日子育てに必要な経費をざっくりと計算してみて、その負担の大きさに衝撃を受けた」
「「この現実を直視できている人って、どれくらいいるんですかね?」「政権には誰も、この必要経費を計算してる人はいないんですかね?」」
 で、どれだけカネが必要だって計算したと思う?
「タカシさんの試算では、子ども1人を育てるために必要な額面での世帯年収は、0歳時点で584万円。第2子が3年後に生まれると想定した場合、必要な世帯年収は829万円。、、、」
 共産党支持者によくいるんだけどさあ、コンサルなんて資本主義者にいるとは思わなかった。 「こんなに貧乏だぞ」っていう中身のブルジョワなことったら! 
 官僚がこんな数字見たら笑い出しちゃうよ。そりゃあそりゃあたいへんなことですなあ。公明党なんて怒ると思うぞ。貧乏で子沢山ていうのが定番だからね、理由は知らないけど。
 ま、ばかばかしいからお知らせだけ。
 みんながんばってね。
 
 本日は、本のお薦め3件。
 その1.立原えりか童話集。
 なにをいまさら、という感もありますが、ともかく暑さで何もする気が起こらないところ気晴らしに本棚から取ったら、心が打ち震えてやる気に充ち溢れました。私などには魂のふるさとです。ウツの方にはお勧め。 
 前にここでなんて書いたかなあ、と思いましたが、どうも過去なにも話題にしてなかったようなので、いまさら。
 
 その2。白石良夫「かなづかい入門ー歴史的仮名遣VS現代仮名遣ー」平凡社新書。
 よく人格障害の右翼が、ただの自分のノスタルジーを、なにか右翼にとっても意義あるかのように歴史的仮名遣を褒め称えるじゃないですか。うっとおしい奴らだ、と思ってましたが、わざわざ反論する気にもならなかったところ、これはきちんと整理・批判してあって便利。べつに左翼じゃなくて、教科書検定官ですが。
 官僚は合理的で、嫌いではないです。
 
 その3.新保満「村が栄える条件-岩手県志和の変貌」NHKブックス。
 カナダ・オーストラリアの先住民研究の人ですが、これは何の世渡りの都合か、日本の岩手県紫波郡志和の歴史的・継続的研究。中野卓先生チックな。
 ともかく都会育ちには役に立ちます。新聞記事のような評論を集めただけの虚しい地域学研究書なんか数冊並べた後だったから余計に響きました。これぞ社会学。続きを誰か書いてほしい。
 中身の紹介は、キャッチコピーがないし長くなるので略。まあ信じて読んでね。
 これを挙げたのは、特に、「社会学」だから。
 お読みになるとわかりますが、まともな実証社会学書というのは主体的なものです。どなたさまも周りの社会学者を思い浮かべればそうでしょう? 彼らはそこで生きている人間に即して、地域なり家族なり経営組織内労働者なりのありようを研究するものです。その研究が登場人物の思いをありありと表現できれば、それはよい研究です。このため、調査をする社会学者はほとんどお人よしであり、実証社会学者に右翼はいません。
 が、それだけに良心的であればあるだけ左翼もいません。登場人物はその社会的場面で現状をよりよくするよう生きているからです。当然に学者も現状をよりよくするのになんとか手を貸したい。お人よしですから。かくて、実証社会学者はすべからく「改良主義者」なのです。
 この本も、良い本なのですが、一生懸命展開して、終章の締めの言葉はそれまでの展開とは外見上関係なく、「第一に、日本は食管制に手をつけてはならない」「第二に、日本は、野放図な外国産農産物の流入を許してはならない」で終わってしまうのです。なんともはや。
 いや、私は趣旨は賛成ではありますが、そんなことをいうために展開してきたのかね、新保さん。
 
 実のところ社会学って虚しいんだよね。
 ここんとこ下位体系論してるんで、つまり社会学みたいなことしてるんで、こんなことしてて何の役に立つんだ、と暑さ負けもひとしお。大昔、辞めて普通のサラリーマンになってほんとによかった。 
 社会学が科学になるためには、つまり因果連関の学になるためには、実証の登場人物から離れてその環境自体の分析を理論として接ぎ木するしかないのです。そうでなければ登場人物はすでに知っていることをなぞる現象の学に終わる。若人の方々におかれましては、このことを決してお忘れなきよう。
 ちなみに知らなかったら、新保さんというのは大学の先輩だった。元ICUというから、森岡清美先生のお弟子なのかね。
 わたしなど、高校の倫社の教師になろうと(旧)教育大にいったんだけど、これも教育実習でそのころの高校生に呆れてやめて。そのころ、「彼こそ天性の倫社の教師ではないか」と思った、天野滋似の木立M君(倫理専攻、年上)がうらやましかったけどね。その後会ってないので、ちょっとネットみたら、なかなか苦労した気配が。隣の芝生は決して青くはありません。結局、不満なところをなんとかやりくりして生きるというのが、人の99%な生き方のようです。
 まあこんなもんだ、人間欲張るもんじゃない、と思うとウツも治る?

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チョコラBB

2020-09-05 13:57:11 | その他
 こんにちは。台風の前評判がすごいですね。これだけ言われると、知ってる人が極少なところでも心配してしまう。離島の小島では鹿児島に避難ですって。そのほうがいい。奄美大島とかは避難しなくていいのかね、大きいとはいえ。まあ鹿児島が安全というわけでもないか。なんかその避難写真見ると子供がたくさん。島の産業を調べてしまいました。出てなかったけど。
 
 わたくしは暑さ負けも限界で。ともかく気分が悪い。デスクトップパソコンは窓のそばなので、(隣の部屋からの)冷房の効き危機が悪い。鼻水が出るんで、春に買ったパブロンSゴールドWというのを1粒飲んだら、もう起き上がれない(鼻水は止まった)。これは副作用と思うけれど。(1回2粒のところ、前、2粒飲んだら起き上がれなくなったので1粒にしたけどだめ。そんな薬ってあるのかね。)
 
 ついでに、大きな煮干しを貰ったので、カリカリにして食べたら歯茎を壊して、その後痛くて奥歯でものが食べられない。食べたくないからいいんだけど。しかし、これも2回目で、前回は治るのに2週間かかってそれも困るので、アフタの時の残りのチョコラBBを試してみました。翌日は歯磨きも痛くてダメだけど、まあ2日で歯肉は収まったから、チョコラは歯肉炎にも効く、といってもいいかな。歯の奥底は無理かも。なお、歯槽膿漏じゃなくて、傷的炎症です。
 あ、これは今日のお役立ち情報。今日の中身も薄いからね。なおまた、これはやらせレビューではありません(今日の新聞によるとわざわざカネ貰ってぼろくそに書く奴がいるんだってさあ。何も信じられないね)。
 
 さてニュースは、へえと思うものはあるんだけど、で、それで、がなくて。
 わからないのが今日の朝日の鷲田清一のコラム。
 居酒屋の客が帰るとき「また今度」と言ったら、主人が「今度、はないから」といった。
 だって、なにそれ。ぜんぜん意味ふめい。コラム読んでもわからない。
 これは関西弁だろうか、と調べちゃいましたよ。
 『誘いを断るときに「また今度」っていう』、とあって、言われてみれば東京でもありそうな話、わたしよほどでないと人を誘わないから知らないのかねえ。嫌なら、嫌って言えばいいと思うし。私に誘われたことある? それはすごい。
 いや、やっぱ京都弁のような関西言葉なのでは? 歓迎言葉が拒否の意味みたいだし。
 まあ知らんものは知らん。
 
 朝日の片隅に福島の現在放射線量の地図がありました。飯館はぎりぎり、浪江はもうちょっと。おお、ずいぶん進んだ、もうちょっとじゃん、と思ったところ。
 何の解説もないので、ふつうにみるとそうなのだけれど、ネットを開けるとそんなはずはない、その10倍100倍、という話ばかり。
 記事に何の説明もない、というほうがおかしいね。
 単に除染をやめたい環境省の陰謀かも。
 
 というわけで、上向いてないと鼻水が出るので、それではまた。
 「また今度」じゃないけどね。「また会おうね」だね。
 というのが「今度はない」か? いや、絶対違うだろう。
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