こんばんは
夜になって涼しく、事務作業には夏前、最後の気を引き締める機会というところ
夏になっちゃあ、漫画のような学術本を読むしか日本じゃ暮らせませんよね。
さて、ここんとこコーヒーブレイクが続いたので、少し話題をブログテーマ的に引き戻しまして、言語学。
言語学のどこが社会科学ブログと関係あるかというと、複数の人間が生きていく場では、外界の認識がことばを通してなされるところです。
なので、社会科学では、言語の実際の姿が求められる。人は他人に物事をどういう形で表現するよう意図するのか、とか、人は他人が言う言葉をどう受け止めていくのか、みたいなことですね。
この実際の姿に、引用という形で応えられる言語学というものが、世の中には存在しない。
何をいいたいかといいますと、社会科学としては「言語学の初級教科書に書いてあるように、言語とはかくかくというもんであり」って書きたい。それができると、社会学基礎理論も、時間的、文の量的に楽というか、「経済的」というか、私も人生を無駄にしないですむ、ということなんですよね。
ところが現実に言語学の一般理論としてあるのが、ソシュールやその他しかない。
いえ、もうソシュールなんて終わったろうと思っておりましたが、調べ直しましても、他の流派がでないんで、まだ生き残っているようですね。チョムスキーとかも破綻しちゃったって聞いてますし。
言語学の人っちゅうのは、結局、高校・大学で(ギリシア哲学からの)教養主義の伝統を伝えたり、よくて文法を教えたりする人を教える人なんで、言葉の現実のありようなど知らなくてもいいわけで。で、関係者がそんな生業の人たちばかりだから、それを勘違いして言語学とは哲学や文法の(説明の)学であると思っている。まともな言葉のありようを研究する人間なり研究書は、永久に日の目を見ない、というところですね。
今は亡き丸山圭三郎さんなんか、ギリシア哲学の「言葉と自然のの1対1対応論」なんかを捕まえて、「ソシュールはこんな俗信レベルを科学に引き上げた」みたいな趣旨を書いてましたが、普通の共同体で暮らしてるんだから1対1対応論で何の問題もないんですよ。どうせ何に使うかって、井戸端会議ですしね。それより、2千年以上経った学問の結果が、ただ「国際的になった今、これじゃ不都合だ、しゃあない、もう1段下位まで分析しよう」じゃ悲しいですね。どっちもおんなじ次元ですよ。
って、うーん、ちょっと無関係者にはわかんないですね
ま、ここまでは聞かなかったことにして、ためになるブログ。
15年前までの一般言語学はどうできているか。最近は知りませんけどね。
ソシュールのどこが悪いか、といいますと、言語という体系が、自分の外にあると捉えている点です。それはヨーロッパ語だからどうという問題ではなく、ヨーロッパの知識人の伝統が行為ではなく評論作業にあるからです。それは生成文法だって同じことです。行為者の外にある言葉がある形をしている、それはなぜか、という問題ですね。焦点は、言語システムです。こうゆうのは不死身なんですよね。はじめっから亡霊だから。いくらでも批判はできるが、本人、痛くも痒いくもない。お祓いでもするくらいしか対応のしようがない。
それに飽き足らないのが時枝誠記で、言語というのはかっちりと行為者の外に存在するものではなく、人間が作っていくものだ、とした。
そこがわからない評論言語学者には、時枝のアドバンテージなど理解はできない。
とはいえ、いくら発想は良くとも時枝も文法学者で、他人に日本語を教える人を育てるのが生業ですから、彼の努力は上記スタンスの元に日本語の文法を説明していくにとどまった。
そんな中途半端な態度ではいくらでも穴が出る。
そこを批判したのが三浦つとむです。大学教授ではない三浦には文法を教える必要はありませんから、更に現実に即して正しく日本語を説明してゆきます。
三浦の欠点は、高名なマルクス主義者という世間のイメージとは逆に、社会との接点を解消したところにあります。
三浦も日本語を研究したかったんでしょう、文法と現実の行為者との間をつなぐとき、彼は弁証法という方法的名称のもとに、行為者の観念作業のみを説明要因としてしまいます。とりあえず説明さえできればいいと思ってたんですかねえ。困ったものです。彼の理論には支配者が出てこない。ここでソシュールとの逆転状況が生まれてしまいます。ソシュールの解説本への私の記憶によると、ソシュールの理論には、社会はもちろん、権力支配者の姿さえ出てきたやに思います。そこは侵略の歴史が烙印されたヨーロッパ語ですからね。
なんで、三浦先生には社会が出ないんだろう、、、とよく思います。あんなに唯物論チックなのに。スターリン主義的実践を嫌いすぎて、実用を嫌ってたんでしょうねえ。
とゆうわけで、現行言語学の一般理論など、社会科学には意味はない。
だいたい、人間から離れた言語学など、科学でさえもない。
このへん、近代経済学の事情とパラレルですね。
財政学や金融学のような応用経済学は、近代経済学原論など信じてはいない。ハクをつけるために都合のいい部所に引用するだけです。
同じように、応用言語学は、実際に外国人に話すため、書くための即戦力になる文法を教えたりするから、一般言語学の文法の説明など、ハク付けに引用、、、できればいいけど、それさえもできないほど役立たずだな、、、って実践者がかわいそうじゃありませんかねえ、、、
で、そのとばっちりで私は、ここんとこ次回配本用著書にコトバ論をどうわかりやすく配置するかに腐心しております、ってほどエネルギーは使ってませんが。
夜になって涼しく、事務作業には夏前、最後の気を引き締める機会というところ
夏になっちゃあ、漫画のような学術本を読むしか日本じゃ暮らせませんよね。
さて、ここんとこコーヒーブレイクが続いたので、少し話題をブログテーマ的に引き戻しまして、言語学。
言語学のどこが社会科学ブログと関係あるかというと、複数の人間が生きていく場では、外界の認識がことばを通してなされるところです。
なので、社会科学では、言語の実際の姿が求められる。人は他人に物事をどういう形で表現するよう意図するのか、とか、人は他人が言う言葉をどう受け止めていくのか、みたいなことですね。
この実際の姿に、引用という形で応えられる言語学というものが、世の中には存在しない。
何をいいたいかといいますと、社会科学としては「言語学の初級教科書に書いてあるように、言語とはかくかくというもんであり」って書きたい。それができると、社会学基礎理論も、時間的、文の量的に楽というか、「経済的」というか、私も人生を無駄にしないですむ、ということなんですよね。
ところが現実に言語学の一般理論としてあるのが、ソシュールやその他しかない。
いえ、もうソシュールなんて終わったろうと思っておりましたが、調べ直しましても、他の流派がでないんで、まだ生き残っているようですね。チョムスキーとかも破綻しちゃったって聞いてますし。
言語学の人っちゅうのは、結局、高校・大学で(ギリシア哲学からの)教養主義の伝統を伝えたり、よくて文法を教えたりする人を教える人なんで、言葉の現実のありようなど知らなくてもいいわけで。で、関係者がそんな生業の人たちばかりだから、それを勘違いして言語学とは哲学や文法の(説明の)学であると思っている。まともな言葉のありようを研究する人間なり研究書は、永久に日の目を見ない、というところですね。
今は亡き丸山圭三郎さんなんか、ギリシア哲学の「言葉と自然のの1対1対応論」なんかを捕まえて、「ソシュールはこんな俗信レベルを科学に引き上げた」みたいな趣旨を書いてましたが、普通の共同体で暮らしてるんだから1対1対応論で何の問題もないんですよ。どうせ何に使うかって、井戸端会議ですしね。それより、2千年以上経った学問の結果が、ただ「国際的になった今、これじゃ不都合だ、しゃあない、もう1段下位まで分析しよう」じゃ悲しいですね。どっちもおんなじ次元ですよ。
って、うーん、ちょっと無関係者にはわかんないですね
ま、ここまでは聞かなかったことにして、ためになるブログ。
15年前までの一般言語学はどうできているか。最近は知りませんけどね。
ソシュールのどこが悪いか、といいますと、言語という体系が、自分の外にあると捉えている点です。それはヨーロッパ語だからどうという問題ではなく、ヨーロッパの知識人の伝統が行為ではなく評論作業にあるからです。それは生成文法だって同じことです。行為者の外にある言葉がある形をしている、それはなぜか、という問題ですね。焦点は、言語システムです。こうゆうのは不死身なんですよね。はじめっから亡霊だから。いくらでも批判はできるが、本人、痛くも痒いくもない。お祓いでもするくらいしか対応のしようがない。
それに飽き足らないのが時枝誠記で、言語というのはかっちりと行為者の外に存在するものではなく、人間が作っていくものだ、とした。
そこがわからない評論言語学者には、時枝のアドバンテージなど理解はできない。
とはいえ、いくら発想は良くとも時枝も文法学者で、他人に日本語を教える人を育てるのが生業ですから、彼の努力は上記スタンスの元に日本語の文法を説明していくにとどまった。
そんな中途半端な態度ではいくらでも穴が出る。
そこを批判したのが三浦つとむです。大学教授ではない三浦には文法を教える必要はありませんから、更に現実に即して正しく日本語を説明してゆきます。
三浦の欠点は、高名なマルクス主義者という世間のイメージとは逆に、社会との接点を解消したところにあります。
三浦も日本語を研究したかったんでしょう、文法と現実の行為者との間をつなぐとき、彼は弁証法という方法的名称のもとに、行為者の観念作業のみを説明要因としてしまいます。とりあえず説明さえできればいいと思ってたんですかねえ。困ったものです。彼の理論には支配者が出てこない。ここでソシュールとの逆転状況が生まれてしまいます。ソシュールの解説本への私の記憶によると、ソシュールの理論には、社会はもちろん、権力支配者の姿さえ出てきたやに思います。そこは侵略の歴史が烙印されたヨーロッパ語ですからね。
なんで、三浦先生には社会が出ないんだろう、、、とよく思います。あんなに唯物論チックなのに。スターリン主義的実践を嫌いすぎて、実用を嫌ってたんでしょうねえ。
とゆうわけで、現行言語学の一般理論など、社会科学には意味はない。
だいたい、人間から離れた言語学など、科学でさえもない。
このへん、近代経済学の事情とパラレルですね。
財政学や金融学のような応用経済学は、近代経済学原論など信じてはいない。ハクをつけるために都合のいい部所に引用するだけです。
同じように、応用言語学は、実際に外国人に話すため、書くための即戦力になる文法を教えたりするから、一般言語学の文法の説明など、ハク付けに引用、、、できればいいけど、それさえもできないほど役立たずだな、、、って実践者がかわいそうじゃありませんかねえ、、、
で、そのとばっちりで私は、ここんとこ次回配本用著書にコトバ論をどうわかりやすく配置するかに腐心しております、ってほどエネルギーは使ってませんが。