リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

一般言語学と社会科学

2009-06-28 22:32:44 | その他
こんばんは
  夜になって涼しく、事務作業には夏前、最後の気を引き締める機会というところ
  夏になっちゃあ、漫画のような学術本を読むしか日本じゃ暮らせませんよね。

 さて、ここんとこコーヒーブレイクが続いたので、少し話題をブログテーマ的に引き戻しまして、言語学。
 言語学のどこが社会科学ブログと関係あるかというと、複数の人間が生きていく場では、外界の認識がことばを通してなされるところです。
 なので、社会科学では、言語の実際の姿が求められる。人は他人に物事をどういう形で表現するよう意図するのか、とか、人は他人が言う言葉をどう受け止めていくのか、みたいなことですね。
 この実際の姿に、引用という形で応えられる言語学というものが、世の中には存在しない。
 何をいいたいかといいますと、社会科学としては「言語学の初級教科書に書いてあるように、言語とはかくかくというもんであり」って書きたい。それができると、社会学基礎理論も、時間的、文の量的に楽というか、「経済的」というか、私も人生を無駄にしないですむ、ということなんですよね。
 ところが現実に言語学の一般理論としてあるのが、ソシュールやその他しかない。
 いえ、もうソシュールなんて終わったろうと思っておりましたが、調べ直しましても、他の流派がでないんで、まだ生き残っているようですね。チョムスキーとかも破綻しちゃったって聞いてますし。
 
 言語学の人っちゅうのは、結局、高校・大学で(ギリシア哲学からの)教養主義の伝統を伝えたり、よくて文法を教えたりする人を教える人なんで、言葉の現実のありようなど知らなくてもいいわけで。で、関係者がそんな生業の人たちばかりだから、それを勘違いして言語学とは哲学や文法の(説明の)学であると思っている。まともな言葉のありようを研究する人間なり研究書は、永久に日の目を見ない、というところですね。
 今は亡き丸山圭三郎さんなんか、ギリシア哲学の「言葉と自然のの1対1対応論」なんかを捕まえて、「ソシュールはこんな俗信レベルを科学に引き上げた」みたいな趣旨を書いてましたが、普通の共同体で暮らしてるんだから1対1対応論で何の問題もないんですよ。どうせ何に使うかって、井戸端会議ですしね。それより、2千年以上経った学問の結果が、ただ「国際的になった今、これじゃ不都合だ、しゃあない、もう1段下位まで分析しよう」じゃ悲しいですね。どっちもおんなじ次元ですよ。
 って、うーん、ちょっと無関係者にはわかんないですね
 
 ま、ここまでは聞かなかったことにして、ためになるブログ。
 15年前までの一般言語学はどうできているか。最近は知りませんけどね。
 
 ソシュールのどこが悪いか、といいますと、言語という体系が、自分の外にあると捉えている点です。それはヨーロッパ語だからどうという問題ではなく、ヨーロッパの知識人の伝統が行為ではなく評論作業にあるからです。それは生成文法だって同じことです。行為者の外にある言葉がある形をしている、それはなぜか、という問題ですね。焦点は、言語システムです。こうゆうのは不死身なんですよね。はじめっから亡霊だから。いくらでも批判はできるが、本人、痛くも痒いくもない。お祓いでもするくらいしか対応のしようがない。
 それに飽き足らないのが時枝誠記で、言語というのはかっちりと行為者の外に存在するものではなく、人間が作っていくものだ、とした。
 そこがわからない評論言語学者には、時枝のアドバンテージなど理解はできない。
 とはいえ、いくら発想は良くとも時枝も文法学者で、他人に日本語を教える人を育てるのが生業ですから、彼の努力は上記スタンスの元に日本語の文法を説明していくにとどまった。
 そんな中途半端な態度ではいくらでも穴が出る。
 そこを批判したのが三浦つとむです。大学教授ではない三浦には文法を教える必要はありませんから、更に現実に即して正しく日本語を説明してゆきます。
 三浦の欠点は、高名なマルクス主義者という世間のイメージとは逆に、社会との接点を解消したところにあります。
 三浦も日本語を研究したかったんでしょう、文法と現実の行為者との間をつなぐとき、彼は弁証法という方法的名称のもとに、行為者の観念作業のみを説明要因としてしまいます。とりあえず説明さえできればいいと思ってたんですかねえ。困ったものです。彼の理論には支配者が出てこない。ここでソシュールとの逆転状況が生まれてしまいます。ソシュールの解説本への私の記憶によると、ソシュールの理論には、社会はもちろん、権力支配者の姿さえ出てきたやに思います。そこは侵略の歴史が烙印されたヨーロッパ語ですからね。
 なんで、三浦先生には社会が出ないんだろう、、、とよく思います。あんなに唯物論チックなのに。スターリン主義的実践を嫌いすぎて、実用を嫌ってたんでしょうねえ。
 
 とゆうわけで、現行言語学の一般理論など、社会科学には意味はない。
 だいたい、人間から離れた言語学など、科学でさえもない。
 このへん、近代経済学の事情とパラレルですね。
 財政学や金融学のような応用経済学は、近代経済学原論など信じてはいない。ハクをつけるために都合のいい部所に引用するだけです。
 同じように、応用言語学は、実際に外国人に話すため、書くための即戦力になる文法を教えたりするから、一般言語学の文法の説明など、ハク付けに引用、、、できればいいけど、それさえもできないほど役立たずだな、、、って実践者がかわいそうじゃありませんかねえ、、、
 
 で、そのとばっちりで私は、ここんとこ次回配本用著書にコトバ論をどうわかりやすく配置するかに腐心しております、ってほどエネルギーは使ってませんが。

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食料自給率雑感

2009-06-24 22:38:34 | その他
こんばんは
 ちょっと諸事雑用で疲れが見えます。私のストレスは「寝ない」の次は「気を使う」で。で、3番目がないという。
 まあ、体力を使うのはほんとは1番のストレスなんでしょうが、そんなに使うことないし。

 そんなこんなで、お客様の数も落ち着いたところ、朝日新聞のコラムは食糧事情。
 「食料自給率が40%だから、コンビニの売れ残りも大事にしろ」、という。
 
 それは一理そうだとしまして、だけど、二理め、としまして、そんなことコラムで言うことで食料自給率が増えるのかよ、コンビニの弁当を最後まで食べたって食料自給率40%という割合は何も変わりゃあしないぜ。
 
 ということに気づいた人は、朝日新聞読者、公称800万人のうち、500人だと思いますが。
 
 昔からこの食料自給率というのは人間の歴史には必至的、決定的な役割を持ってまして、中学や高校で「ゲルマン大移動」とか聞いたことありませんか? 飯食えなくなって、氏族が動いていくんですね。
 「なにを見てきたような憶測を」というところですが、これが文字に残っているところがすごい。文字があるもの勝ちです。
 ローマカトリックの伝道記録に、押し寄せた異教徒に「ここは俺らだけの食い扶持しか作れない、あっちは弱いから、いって征服したら」みたいな記録もあるそうで、というよりは「記録があります」、って言い方かな。

 これは紀元4,5世紀とかの話ですが、そんな昔のおとぎ話ではなくて、日本のつい70年前、まだ生きている人もたくさんいる時代、我々「戦後世代のいう戦前」では、食料がなかったんですよ。ほんとは太平洋戦争以前でも大東亜戦争ちゅうもんが始まってましたが、朝鮮半島で米が取れなくて、食料自給率がもう7割ほどの日本、しかも米で栄養を取っていた日本では、これでは食糧危機なわけです。

 めんどくさいけど(注)で。その頃は朝鮮半島も台湾も日本の領土だから、食料「自給」率っていうのはおいそれとはわかんないんですけどね。いずれにしても朝鮮半島の米不足で、日本は東南アジアに米を求める。
 いわゆる南京米です、ってなにもいわゆってないか。
 「米は南京、おかずはひじき、牛や馬でもあるまいに、、、、」って、、、
 知らないよね。
 
 いや何をいいたいかといって、国民の誇りを維持したかったら、食料自給率は高めなければいけない、ということで。牛肉や小麦粉欲しさに土下座するかどうかって話ですけどね。
 聞いてるか、そこのウヨ。ほんとの右翼なら資本主義礼賛などはやめて、日本の国難のために反米・反グローバリズム政策を打ち立てたらどうだ。
 
 で、真ん中と左の方への注ですが、人民が国家で分断されてる状況で、同じ共同体の人間の苦難が仮にある状況であれば、それは引き受けざるをえない、というところですね。
   こちとら、自称他称の人民の奴らのために、今日も資本主義に加担しちゃったよ、、、ってわかんねえだろうなあ、、、

   ま、本日はオリジナルではなく、ただの知識の披露。語り部の役回りでした。
 
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芸術的写真について(その2)

2009-06-20 21:42:05 | コーヒーブレイク
 こんばんは。さてお約束の「感動の3次元」。
 じゃないか、芸術的写真とは何か。

 写真で人の心を動かすショット方法は3通りです。
1 まずは、あるものを写す。
  普通は、自分が心を動かされるものを写す、ってことです。
  かわいい子猫の写真なんかですね。あるいは、火事の写真、事故の写真、その他報道写真のたぐいです。なんとかいう首相の写真を撮ることに心を動かされるかどうかは別ですけどね。ま、要は、考えもなしに写すことで、見る人間が満足する写真です。
  
2 ついで、あるべきものを探して写す。
  普通はシャッターチャンスを探るたぐいのやつです。
  風景写真がまずは第1。ポートレートもそうですね。
  夕方になればここは荘厳な雰囲気が漂うはずだ、とか、この被写体の女は気ばかり強くてもうちょっと疲れたほうが嫌味がなくなっていいから、はじめの100枚は空打ちしよう、とかいう話です。
  要するに、それこそがカメラマンの仕事、って次元です。
  
3 そして第3が、ないものを写す。
  ○月○日、○市○町において、普通の人間が見るべきものはなにもない。
  しかし、一部の人間にはそこに、ないものが見える。
  これが天才ってやつです。  
  普通、人は自分の過去に照らし合わせて伝達されるものを受け止める。それが過去の感動を呼び起こせば、その伝達物は感動的だ。
  しかし、そうではないものがある。
  人は自分の過去にないものを芸術写真の情報に見いだす。
  そしてないものを感覚することに違和感を感ずる。
  それはある場合は不安であり、ある場合は、より一層の写真情報の読み取りだ。こうして、ヒロシマのケロイドは、「醜さ」を越えたものを人に気づかせる。

 この「第2」の一部と「第3」とに、芸術があるのです。

 なんで、「第1」じゃダメなのか、安直だって感動すんだから同じじゃん、と思うのは違います。
 芸術が、そして芸術のみが、現実を人間に伝える。
 伝達手段が現実を題材としてそれを伝えても、実はその現実に直面する人間の反応は残らない。
 題材である現実が伝えるものは、その表現物に内在する、自分があらかじめ知っている、感動等に過ぎないから。
 
 第1の場合の、かわいい子猫の写真。かわいいものは現実にもかわいいだけのものですから、現実を見ているかのようなものです。が、それは現実ではなく過去の思い出に過ぎない。
 報道写真も事実の要素ではあっても、それは自分の現実ではない。
 火事の写真を見たからといって、その人は火事など知りはしない。その熱さ、その絶望、そこで死んだものへの心、そんなものは何一つ知りはしない。
 
 第2について、あるはずのものがあるのを知っていれば、それはかわいい子猫と同様だが、一部の優れた写真家が、自分だけが知っているあるべきものを印画紙に定着させる。別にメモリーに保存したっていいけどね。
 そしてないものを伝える天才的写真家が、自分だけが知っているものを他者に伝える。
 
 
 写真じゃなくてもね。
 綺麗な景色を歌う短歌は、多少の気晴らしになるだけだ。
 C、F、G7、Cと流れるフォークソングは、多少の気晴らしになるだけだ。ま、歌詞によるけど。
 しかし、知らない状況と心を盛り込める短歌は、知らない状況に対応する心を伝えることで、人に感動を呼べる。
    ちょっと言葉を扱う芸術には、異なったものがありましてね。
 
 たとえば、今日の朝日の夕刊に載ってた痴呆のような詩、高貝弘也というの。
 ネットで見るとこれほど酷いのばかりではないから、おそらく、初めはよい詩を書いてたんだと思うけど、ことばって自分の中で自分だけの風景を持ってゆくんだよね。だめだこりゃ。
 けなした詩は「生りもの」って題のやつですよ、誰か弁護してみたら? 何がいけないって、ともかく、1行目から句点の打ち方がいけない。異常な句点は、たったそれだけのことで、伝達される世界を新しいものに見せる。しかし、そんなものに感動を及ぼす意味など出せはしない。こけおどし。言葉は共有されているからこそ伝達されるということが分かっていない。
 まあ、新し物好きのプロパガンダが分かったように褒めるのには十分だけどね。
  それと朝日新聞文化部、選んだのは私ですと、責任もって署名しろよ。

(P.S.「痴呆のような」じゃいけませんね。「2歳児のような」にします。
  関係ないけどこうゆうのは世間で「言葉狩りだ」とかいうけど、いうやつのことなんざどうでもいいけど、自立している人間は、あちらこちらで人に会わないといけませんね。人と会っていれば痴呆なんてものがないことがわかる。少なくともそんな呼び名でくくられるべき人間などいないことがわかる。
 こうゆうのは他人にいわれるべきもんじゃなくてね、自分で知ってるべきものですね。)
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職業倫理とは

2009-06-18 21:22:03 | 断片
 こんばんは。今日もお目にかかります。
 お察しのとおり、この1週間ほど仕事が忙しくなく
 とはいえ、日常的な毎日でもありまして今日も朝日新聞の話題でいいですか?
 もちろん別に書かなくてもいいんですけどね、勉強ばかりしてても憂さ晴らしの時間がなく。
 純粋な憂さ晴らしだと、10(対3)くらい使わないと勉強時間に対抗できません。

 で、今夕は吉田純子氏という人が辻井伸行の評論を書いてまして、
 辻井伸行さんというのはこの前国際大会で優勝した全盲のピアニストで、
 評論の趣旨は、マスメディアは(上記みたいに)全盲のことばかりいうが、それではいけない、辻井という人は○○という点で良かったんだからその点を伝えろ、とかいう話でして。

 おお、ようやくまともな話を聞いた。
 受賞後、「全盲報道はやめろ、実力なんだから」とか読者投書はあったけど、そんなこといったって、ただの無名の国際大会優勝じゃあ、他にニュースバリューとなる点もわかりゃあしねえ、いまどきの新聞記者にそんなこと求めても馬の耳に念仏だよね。

 と思いながら、で、吉田純子ってだれ、とyahoo検索。
 なんだよ、びっくり、朝日新聞文化部記者。
 ふざけんなよ、もう辞めたんだろうな。
 全盲全盲ってこっちはお前んとこの新聞で見たんだぞ。
「他に書きようないのか、それもしょうがないかな、マイナーすぎる大会だしな。でも、あとツアー、山のように組んでくれる大会みたいだから、がんばれよ」
なんて私に思わしたのはお前の新聞だぞ。

 なんだよ、ひとごとかあ。なんでおまえらこどもたちは、みんな他人事なんだ???

 と、怒りのあまり他人にまで当たってしまいます。
 いや他にも嫌なことがあってね、うさばらしうさばらし。
 とにかく、私の若い時代は、新入社員とはいえ社長として振舞えと教わったものです。
 じっさいそれで通ったしね。
 うちの会社でもこの15年くらいそうじゃなくて、上意下達、下部社員は口を出すな、って、まあこういう話は構造的なものでね。

 であれなんであれ、無責任はやめろよ。
「朝日でも社会部記者が暴走してご迷惑かけたが」ってなんでいえない。
いえないんだね、朝日新聞。つぶれていいよ。
 私なんか、いうから煙たがられてますが。

  また悪口になってしまった。きのうはちょっとためになったでしょ?
  ま、カテゴリーに「断片」とあったら酔言ですから、通り過ぎてください。
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本当に自由を作るものは誰か

2009-06-17 21:46:34 | 断片
 今日の朝日新聞の夕刊には、莫少平という中国の弁護士の記事が載っていました。
 (毎日、朝日の宣伝をしてますね。)
 この人は、天安門事件以来、中国人民の自由を求めて闘っている人です。散々政府に規制されてね。

 で、ね、
 だけど別に中国人民は彼の尽力を本当に求めてはいない。そんななら、自分たちで何とかするがね。
 でもね、この先40年経って中国人民がそこそこ国家としての人民の共同性を持てたとき、 復権するのは、彼の努力です。
 なんで?
 自由を手にした人間は、自由が好きだから。
 散々悪口を言ったことは忘れてね。
 (もちろんいった奴らの1割は本気で言ってたから覚えている。でも残りの9割は尻馬に乗っていただけだから、自分が何したなんて覚えちゃいない。
「尻馬に乗る」、っていうのは、ただ、「権力に流されただけ」ってことですが。)

 さて、私は無政府とはいえ共産主義者なので、中国官憲のほうが好きです。中国の民衆の幸せを守っているのは中国官憲です。莫サンとか言う人は、米帝(アメリカ帝国主義)や日帝(日本帝国主義)に操られているに過ぎない。
 操られているっていうのは、別に行動を指図されている、って言うことじゃなくてね、彼のために道が作られていて、彼氏は彼氏の信念に則って不思議に相対的に楽に闘える。でもその楽な道を作り続けているのは、日米の資本主義者だ、ということです。
 なかなか複雑ですよね。

 さて、しかし、中国人民のために自由を蓄積しているのは、彼、莫さんなのです。
 どんなに悪口をいわれようが、命をささげている祖国の人民にさえ、そっぽを向かれようが、歴史は、今の糧を得るのに汲々とする人間にではなく、自由のために闘う者に微笑む。まあ、私も共産主義者とはいえ、テロリストの類いと思われてますからね。
 すごく複雑ですよね。

 以下、PSです。って、今書いてますが。

 こんな記事を載せる朝日新聞の政治部門はいいんじゃないかって?
 そうじゃなくてね。

 極端に言いますが、
 資本主義下のマスメディアは、共産主義に反対する奴なら誰でもいいの。そいつを取り上げて共産主義に対抗すれば使命は果たせる。
 もちろんその使命は資本主義擁護なんじゃないんだよ、複雑だねえ。
 その使命は、思想の頒布と購読料の確保なの。
 思想の頒布というのは権力の散布のこと。そこに新聞社員の仕事上の満足がある。
 購読料の確保とは、並み居る日本人の主だったところに、ウケる、記事を書くということだ。

 一方、莫氏本人も、別にアナーキストというわけでもない。ともかく祖国に自由をもたらそうとしているだけで、その自由の中には、昨日の夜のキャバレー騒ぎが余りにも楽しくて、資本主義もいいなあ、という感情も含まれる。
 人間は、別に思想が服を着ているわけではない。=人間がいて、それに他人が思想の着物をかぶせるんです。
(倫理が服を着ていることはあるけれどね)

 そんな個人の思惑を別にしたところで、歴史は動いていく。
 歴史の本体は、全人民だからね。

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1時間の小品?

2009-06-16 21:39:27 | 断片
こんばんは

人間て、長生きしていろいろみてくると、1がおかしければみていない100もおかしい。

東野祥子「MESs」について、「このような魅力を発揮する小品はそうはない」

例によって朝日夕刊。
石井達朗 評
こんな人は知りはしませんが「日本を代表する舞踊評論家」とyahoo検索の一番上にあります。ま、評自体はそこそこ現物を見ないでも分かるよい文章。

問題は、文中の「小品」
その手前に、〈1時間あるんだからもっとうまく使え〉とか偉そうなことが書いてあったのに
「小品」??
1時間走り回って、小品????

最後にありましたよ。「いいもんだから大きなスペースでやってほしい」

だってさ、あほんだら。このスペースは50人。50人観客の劇は死ぬほど濃密でも小品か!
  馬鹿ブールジョワ。

こうゆう日頃の人間把握の皆無な人間は絶対ひとにさらすべきアホな経歴があるはずだ、と、ネットで調べてしまいました。で、慶応大学教授。アメリカ演劇の専門家だそうです。

いったでしょ、朝日の文芸記者なんてそんなもんさあ。
 タ、ダ、の、事大主義。

    別にたかだか慶応大教授の悪口をいう気はありませんで、それは当然と踏まえた、朝日新聞の悪口です。


(PS.しかし意味がないですね
 と反省。

 やっぱ「断片」とか、やめようかな。ただの悪口じゃあねえ、、、
 だれが反省するわけでも改善策に乗るわけでもないしねえ、、、
   ほんとは朝日によくなってほしいんだけどねえ、そんな実力ないし、、、)
   (朝日というより、私がとってる新聞一般かな、朝日に義理ないし)


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芸術的写真について(その1)

2009-06-15 21:27:59 | コーヒーブレイク
 こんばんは
 ここんとこ朝日新聞とか、わけのわかんない学者とかって、ローカルな話題ばかりですいませんね、どうも世間が狭くて、とゆうか、納得できる世間が見当たらなくて。
 で、今日も朝日新聞夕刊。

 「なんだよ、おまえちゃんと勉強してるか?」 といわれてもしょうがないところですが、そこそこ進展しております。雌伏には慣れてるんでご心配をおかけしてるかもしれませんね。
 とにかく、朝日新聞夕刊。
 そこでは最近写真家テーマの連載コラムをやってまして、今日の話題が、天才アラーキー。
 すなおに記事をまとめるだけなら私の人生も1,2時間、損しなかったところですが、写真時代編集長、末井昭なるやつが記事に出て「荒木は永久マンネリ、すごいのは人生のすごさ(だけ)だ」とかぬかしやがる。
 ばかったれが。エロとカネしか眼にはいらねえ人間のくせに。

 まあ、下品!

 どうでもいいんですが、ガキがエロを求めて買う写真雑誌に何がわかるか。エロを作る、も含めてですが、エロいガールフレンドを撮るには『写真時代』もよいんでしょ(まだ売ってんのかな?)。しかし、ガキに女題材の芸術なんかわかるものか。
 いつもいうように、荒木にエロなんざございません。
 いつもって1回くらいか。
 ま、とにかく、ないの。あるなんていったら凡百のエロカメラマンは怒っちゃいますぜ。
 もちろん、世間の多くの人々が多くの些細な場面で有用とするのは、凡百のエロカメラマンの写真であります。それはアラーキーごとき以上の技術だろうし、カメラマン諸氏も卑下する必要はない。荒木の写真見てエロ感じるなんてそれこそ異常さあ。だいたいエロくないから、末井なる人物も、中高生が買う「写真時代」に起用してんだろ。わかっててこのやろう。

 まあ下品!

 ここんとこローカルな話題の上に言葉も下品で、ちょっと内向してますね。

 私は荒木の人生なんざ知りません。知らなくても、こいつはすごいと感じさせるから天才だ、といっているのです。
 センチメンタルジャーニー。エロくも美人でもない奥さんに見当違いの評の数々。
 ほんとに、朝日は政治記者や校正記者やカメラマンのみならず、文芸記者も枯渇しているのです。

 今日は前段。その2は、今度の土、日に。
 今日はこれから通勤電車の中で確認した理論テーゼをまとめますので。


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中西進

2009-06-13 21:47:45 | コーヒーブレイク
「ボケたか、中西」「老いたか、中西」「気が狂ったか、中西進」
どれもgooの表てに出せるような題じゃないんで、シンプルに置いてみましたが。

 中西進というのは、日本文学の先生です。のはずです。
 この人は成城大学教授のとき、高校国語の参考書を書きまして、高校1年生の私は、それを見て受験国語に開眼、数学5点でも某国立大学に国語の配点だけで入学できる基礎を作ってくださった方です。簡単にいえば、合格者中現国は1番だと思ってますが。
 んで、最近、朝日新聞に万葉集の紹介解説を書き出したときに眼を疑いました。
 なんじゃコリャ、アホか。いやアホなはずはない。中西大先生に限って間違えるはずがないのだから、私の古典文法知識が幼稚なのに違いない、、、
そう思って半年、、、
 ちょうど、朝日夕刊が谷川俊太郎を登用したときくらいですかね。
 朝日新聞的には、大岡信が詩歌評を止めたときくらいかな。
 
 それ以後も、中西先生、朝日夕刊に時々万葉集の和歌を載せては怪しい評が続きつつ、今日は、誰が見たって気が狂っている。確信を持って言いましょう。
 
 万葉集歌自体の解釈をしてもしょうがないので、それはセンセにまかせます。ここに書くのは訳だけです。
 「旧暦六月の地割れまで起こす太陽だって、わたしの袖の涙を乾かせない。あなたに会えないので」
 そんな歌。これが中西大先生の現代語訳です。
 さて、そこで先生。
 
 中西:「作者は恋人に会えなくて悲しくて、雨のように涙を流します。袖で拭くのですが、いくらふいても袖はびしょ濡れ、だから太陽さん、私の袖を乾かして、ということになる。」
 なるかよ、バカやろう。
  
中西:これは、「悲しい涙で袖を濡れすのもいや、だけど袖が乾いてるのもいや、、、」という矛盾した気持ちですね、だと。
 なにが「いや」だよ。袖が濡れようがどうだろうが、ふつう感情が高ぶれば関係ねえことだろ。
 
 わけわかんねえよ。
 この和歌の意味は、あるいはこの和歌の中西訳の日本語的意味は、
 『太陽だって乾かせやしない。できるものならやってみろ、それ以上に泣いてやらあ』
 あるいは、『太陽だって乾かせやしない。それ以上に泣けてしまう私よ』
 以外ないだろ。
 
 どうしちゃったんだ、谷川といい、中西といい、、、恐ろしい年齢病か。
 
 気づけよ、朝日の担当者。 
    それも無理なんだよね。朝日はどこの部署にも人材ゼロだからね。


  (P.S.この間私が文句を言うのを我慢してきたのは、「もしかしてコドモ向きに書いてんのかな」と、いうところもあったことを思い出しました。ガキに人間の心なんかわかりはしない
 と思えば、どんな間違ったことでも書けはします。
 前回の「真実よりは実効を」イデオロギーですね。
    しかし、ガキってそんなバカじゃねえよな。)


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他人を動かす原罪

2009-06-12 21:51:07 | 断片
こんばんは
今日、新しいカテゴリー、テーマ分けの題を作りまして、称して「断片」。
夕飯を食べて酔っ払っていると、頭に浮かんだ論題が飛んで消えてしまってもったいない
みたいな趣旨です。

で、一つ目はアルコールと一緒に飛んでいってしまったので、2つめがこれ。

(p.s.酔っ払っててわかりにくいですね。
   これは、インフルエンザ騒動で、インフルエンザに罹った会社の派遣社員やアルバイトが首になっていった際の怒りです)

 権力を振るう奴は全体を見る必要がありますから全体を見て、なんとか、下層人民を動かす言葉遣いをする。酒飲みながら見た朝日新聞に書いてあったことです。
 ここで問題は、権力を振るう奴らは人を動かすには手段は選ばない、ということです。前から知ってましたが、朝日新聞にもたんたんとそう書いてありました。テーマはインフルエンザです。
 で、動かされた中間職制、中間人民は、ってそこらの企業社長や自治体首長のことですが、は、そのまんまの言葉遣いをする。
 で、その言葉に反抗する奴に対しては? 
 そこは官僚とは違う。
 官僚は自分で仕掛けただけのことを知ってますから、「無理ならいいや、一人や二人、たいして関係ないし」、と思っている。
 しかし、下級権力者はシンプル。そんなやつは許しはしない。
 かくて、インフルエンザで首を切られる奴は続出する。
 しかし、厚生労働省官僚は、そのぐらいいわないと下層人民は動かない、そう言わざるをえないわれわれだって犠牲者だ。などと考えている。
 ま、おっしゃるとおり。
 さて、そこで、インフルエンザでクビを切られた奴は誰を恨むべきか、という問いです。

 1 仮想である「国民」を助けようとして、少数を犠牲にした厚生労働省官僚。
 2 それを真に受けて、「とにかく会社に来ないでくれよ、国がそういっているんだよ」と、実際に手を下して首にした労務管理者。
   なお、学生さん用になんどもいいますけど、派遣の場合は、派遣停止処置=全員クビ、になります。

 私がこのブログ責任者としていいたいことは、「どっちがより悪いなんてことないでしょ。どっちも悪いがどっちも不可抗力だ。だから、そんな体制をなくせよ」、ということではあります。

 が、「断片」としては、圧倒的多数な人民として、「くだらねえ官僚の口先に丸め込まれる官僚以下になるんじゃねえよ」ということでもあります。
 あなたの会社の社長や自治体の長は、国家官僚以下ではありませんか?

 更に学生さん用に追加しましょうね。
 1 の厚生労働省官僚はひどいですか?
 では、人間のために自分を犠牲にして太陽と爆発したアトムとどこが違うんでしょうね。

 1、官僚は自分は無事だ。OK。そのとおり。
 2、でもそのイデオロギーは同じじゃありませんか?
   その非人間的イデオロギーを遂行したのはアトムも同じ。

   ま、自分で稼いでいない学生さんや、セクト官僚は、よく考えてくださいまし。



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知識の倫理的敗北

2009-06-07 22:21:37 | 行為
 こんばんは。1週間余計に経ってしまいましたね。ここんとこ給料を貰って体を動かす幸運に感謝しているところでありますが、体がなまってもおりまして、気づかない疲れもちょっと溜まっているようです。

 今日も本来忙しかったところですが、昨日はもっと気疲れで。
 3つ4つあった気疲れの原因の最大が、カラスの子供。
 勤め先が都内とはいえ田舎で、気づいたら近くにカラスなんかがおりまして、その巣からヒナが落ちた。ヒナったってでかいやつで飛び損なって落ちたまんまウギャーウギャーと甘えた声を出しながらわずかに歩くんですが、親が2匹、どうしようもなく隣りの建物にとまって、近づく人間に上空から襲い掛かるんですね。
 そいつが私の勤務先の直下なんで、敷地の管理人はいるんですが、関係ないとばかり勝手なことを言うだけ。私んとこは、お客やら第三者やらが突っつかれたらこっちのせいにされるんで、はてさてどうしよう、なんて状況。
 なんとか排除しろ、清掃事務所が持ってってくれる、とかいうやつは言うんですが、そんなことしたらヒナが死んじゃうじゃんかよ。
 とはいえ、子供でも突っつかれて血でも出されたらネットで会社が散々にいわれるかもしれない。
 とりあえず注意の貼り紙を幾つもプリントして雨ん中貼り出したりしつつ清掃事務所でなきゃ保健所だ、区役所だ、都庁だ、っていろいろ説はありながら、お願いしたところは消防署。
 消防署のみなさんは、いい人たちで、ほんと、救命に生きる人たちなんでしょうね、改めて感心したところですが、だからといってどうしようもなく、ウロウロしてお客のいるほうへいかせないように大きなダンボールの上部だけ開けたのに隔離してとりあえずの終了としました。
 運がよければ飛び立つし、まあふつうはそのまま死んでしまうのか、とは思いますが。さてどうなりましたか。

 ま、ここまではコーヒーブレイク。
 
 問題は、知識的には落ちたヒナには肉でもやればいいものなのに、隔離して人間に害なくさせるところが私に講ぜられる方途だった、ということです。
 つまり私的には利害関係的に敗北すること。まあいつもですから平気ですけどね。
 
 平気ではありますが最大のストレスでもあります。
 私はカラスなんか大嫌いですけどね。
 どのくらい嫌いかというと出勤前ゴミ捨て場に寄ってくるカラスをいつも威嚇するもんだから、カラスに頭を蹴られるくらい嫌い。蹴られる前から嫌いです。
 だけど、相手は赤ちゃんだし、また、赤ちゃんの親ですからね。親も大変ですよ。人間のガキが、やめろって貼り紙出したのに、ちょっかい出そうとするし。そのたびばたばた羽を鳴らしながら排除しようと、って、何時間もやってられないよね。

 でさ、そんなかわいそうなカラスに同情してるのは私だけかよ、みたいな状況。
 さすがにどうしてもゴミ回収にこだわるやつはいなかったし、消防署を選んだ社員は良心的だったからだと思うけどね。
 
 さて、かのように、「鳥のヒナ」をめぐる全ての知識は、現実の前に意味をなくすのであります。
 「なくしたのはお前だけだろ。一緒にするな」っていう評価をできる人は本当であれば好きですが、そんなやつはみんな嘘つきでね。やれやしない。
 知識が利害と一緒になるとき、それが未来につながる救いであり、あるいは同様に、その時代での叛乱を押さえる「救い」であるわけです。
 「こうやれば正義が達成できる」ということが、現実に自分が生きることと適合する、ってことですね。それが『歴史と階級意識』という命題です。
 もちろん、その前提は、自分についても同様の利害関係者であるということですね。頼るのはお釈迦様ではない
 ○○でもない、
 と書こうとしたけれど、そんないい人間て釈迦だけなんですね。キリストもマホメッドも、カラスのヒナとは全く無関係の冷酷な存在ですね。どうでもいいけど。
 かつ、釈迦っていっても日本に言い伝えられた釈迦だしね。

 などなど、今日もそれが影響してました。今日は今日でストレスでしたけどね。
 
 で、わずかな救いは、同じビルの、ほとんど顔しか知らない別の社員とトイレで会って、私が当該策に賛成したとは知らないその人から
 「あのカラス死んじゃいますね」
 といわれたことです。私も「そうなんですよね」って答えただけですけどね。
 つまり、カラスの威嚇攻撃だけが話題になっている世間で、こいつにはヒナの話題をフレるな、と思われたことがうれしい。だいたい、それまで周りじゅう「捨てちゃえ」派みたいだったし。
 後で「なんだよ、あいつがやったのかよ。偽善者め」って思われるかもしれませんけどね。

    ふうん、偽善者かもね、そこには興味ないけど。


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中高年性不感症

2009-06-01 21:50:52 | コーヒーブレイク
こんばんは。

昨日(日曜)は家人ともども仕事で
夕飯に奥さんがスーパーの売れ残り980円さらに2割引の毛がにを買って来ました。
カニは大好物なので喜んで食べ出すとすぐに残りがわずか。
「小さいねえ」
「小さいわねえ」
「赤ちゃんだねえ」
「赤ちゃんよ」
「こんなの食っていいのかねえ、、、」

 7,8年前、函館に旅行して、町場の食堂にはいったら900円くらいのラーメンの上にカニが一匹丸のまんま載って
「へええ、すごい!」
 と、店のおじさんが
「ソ連のやつらがちっちゃいのを取っちゃうんだよね」
 そういって厨房に引き上げるわけで。
 残された私は複雑な心境。
 
   なんだよ、安いからってそんなもんだすなよ
   身、ないし、、、売れりゃいいってもんじゃないだろ
 
 と思ってずっと気にかかってたわけですが
 今にして思うと、おじさん怒ってたんですね。
 わかるかなあ、、、わかんねえだろうなあ
 若い人だったら、売らないか、売れて喜ぶか、どっちかでしょうからねえ。
 売れて怒るならはじめから売るなって、、、
   そんな気が伝わる私も、おじさんになったんですねえ。

   だからどうということではなく。
   
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