こんにちは、全国的に天気が悪そうですが、オリンピック連休の方はいかがお過ごしでしょうか。東京地方、4月からお日様を見た気がしない。気がしないだけでしょうが。仮に梅雨明けでがっと暑くなれば、それなりに気持ちも楽しくなるかしらね。こう日が差さないと米が心配ですが、日経によると米は大丈夫だとか。ほんとかね。
といってもこの辺はずっと降ったり止んだり。そういえば先週からヒグラシが鳴き出して。カナカナね。今は油蝉が鳴いております、
さてニュース。
「焼きうどん発祥の食堂として知られる北九州市小倉北区の「だるま堂」が23日、約10カ月ぶりに営業を再開した。」(毎日)
そんな話、あったね。焼きうどん、40年以上前、西荻のロフトで食べたよ、ライブなんか終わった夜中ね。なんてえジャンクなんだ、というかんじ、ジャンクなんてコトバなかったけど。なんだ、こりゃ、だね。だから家でも相当早い時期に作ったんだけど、ぜんぜんうまくいかなかった。やっぱ本来鉄板で焼くものなんだね、ねちゃねちゃになってしまう。セミプロに作り方教わってようやくまともになりました。
次。「帰省を相談したら「東京大変らしいけどマスク足りてる?」…“京都特有”の言い回しの難易度が高い 」
「普通であれば、感染者数が増えている東京での暮らしを心配してだと思うが…。京都では「来るな」という意味になるというのだ。」(FNN)
送るからそっちにいろ、とかいう意味だと。ほんと付き合っとれん、に尽きる。気持ちが悪いといってもいい。といっても同じ大学の京都人は率直でまともでした。やればまともになれるんじゃない? もちろん、いやみです。
京都の大学というのは、このブログでも時々文句を言ってますが、口先勝負でね。京大って例外なしにみんなそうだよね。お金がほしいのか名前を売りたいのか、学問はカネでも権力でもない、と思うのはわたしだけでしょうか。 これもいやみね。
わたしは最近はフェミニズム加勢で、「家族」理論を見てますが、元京大総長の山際寿一、まさかと思うアナロジーをひたすら語る(しゃべる)。とんでもないゴリラ学者。
内容を紹介してもしょうがないから、後に続く人に、正しい動物と人間の対比の方法を述べておきましょう。
ともかくまず、ゴリラでもチンパンジーでも彼らの行為原則を立てる。それが研究者が何かをしゃべるときの第一の手続き。その行為原則が人間と一致すればその一致の範囲で何かを述べるのは有益でしょう。もちろん彼らの環境は人間の環境とは違うけれども、しかし、その反応の原則は、人間の原則との対比となる。その差が環境か状況か、それともそれ以外のファクターか、全てはそれから順次確定されてゆく。
どっか間違えているかね、賢明なる京都大関係者諸君。アホは元総長だけに任しておけばよい。
とはいえ、昔の京大霊長類研究所所長の杉山幸丸はまともだった記憶があります。イヤミだけどね。いかにも教育大(学部)ふう。
さて、本題です。
フェミニズム加勢で「下位社会体系の権力」理論も見ないといけないので見てますが、
”48,58,57,50,63,51,51,44,46,49,55.”
これは、某「権力」社会学本(岩波書店)の各執筆者の生まれ年。
この本がつまらないのは前2回ほど目を通して知ってますが、引用用に我慢してもう一度見て。
「なんでこんなこと書くかねえ、趣旨不明。ほんと今の若いもんは」と思って、年代を見たら、おや? 違うな、と。ずいぶん年寄りもいる。と思えば、(19)51年より前の人の論文は少しは心の痛みが伝わる。
それはおいて、他の人たちの論はなんなんだろうか? 本人にとってなんなんだろうか? 社会学徒にとってなんなんだろうか? もちろん、わたしにとってなんなのよ、ってこれは不要だけどね。わたしにはただの自分の論文の飾り。
で、しつこく追っかけて聞いちゃうよ、君たちにとって権力って何かね、論者諸君。
権力というのはそれを知る庶民にとっては痛いものなのだけど、それさえ知らないだろ?
じゃあ何を知っているのだろうか。いや、いやみじゃなく、ほんとに不明なので。
ちなみにその後の研究関心は、58年者はドロップアウト。57年は足湯ボランティア。63年は西尾維新。55年は2011年で一般人の前から姿を消してしまいました。むべなるかな。自分がいたくもかいくもないものなど、付き合う必要もないから。
55年以降生まれの人はこれは悪口だと思うでしょ。ざんねんでした、本気です。学問というのは、本気なものです。サラリーマンと違って研究学徒には給料は入いりませんが、それだけに本気なものです。
俺は違う? しらねえや。 あ、そうそう、宮台真司がこりゃ遊びだっていってたよね。知るかバカ。
杉山幸丸も怒ると思うぞ。まともだから。
じゃあお前にとって権力とはなんなんだよ、って? 私とあなたと彼女の行為の自由を束縛するものです。しかして当然に、この社会構成から排除されるべきものです。「彼ら」の行為の自由は? そんな職業労働学者のことなど知るものか。
そういっても世の中から権力はなくならないんじゃないか、って?
若人は知らないので教えておきますが、もちろん、権力は研究主体が定義するものです。なくそうとも思わないやつが定義すればなくなりっこない。母親が赤ん坊に行使するのも権力だ、と。
バカが、というのも言い飽きました。コトバというものは主体的なものです。いいですか、若い衆と年取った学者諸君。人間が権力という言葉を(社会科学上で)使ったのは支配権力に対してであって、自分のママにではありません。「ある社会関係の内部で、抵抗を排してまで自己の意思を貫徹する全ての可能性」(ウェーバー)だと? バカが。「その権力定義は撤回せよ。こちらが先取特権だ」。バカのウェーバーを筆頭とする職業労働学者諸君に言っています。プチブル、ウェーバーにとっては自分のママだけが権力かもしれませんが、そんな論議は全て支配階級者の遊びです。もちろん赤ん坊ではなく児童時にはママを伝わって権力が降りてくる。で、どこから? ママから? そんな人は心理学でもやるのがよろしい。社会科学をやる人間ではありません。
学者はそれ自体でイデオローグなのです。その研究の「設定事項の発表」によってイデオローグになる。学問の内容はイデオロギーではなくとも、その発表はイデオロギー行為なのです。そして、右であれ無色であれ左であれ、社会には必要なイデオローグがある。このうち右と左のイデオローグは満足して死に、無色の人はそれ以前に研究をやめる。後悔先に立たず。そこに誰の痛みもないのなら、はじめからやらないのがよろしい。
(補注)権力とは
『社会関係をめぐる諸規制の状況について、私たちは「権力」という言葉を使う。
「権力」は社会的規制の継続的状況にかかる言葉であり、規制の継続的状況は当該生産関係の種類によって異なるべきものであるが、一方、生産関係は自然的原因によって容易に個人にとって規制的なそれに固定されるものである。したがって、一般論として、この規制状況を論ずるのが現実的である。
まず「権力がある」とは、当初は物理的暴力により行為主体の選択が影響されている事態を指し、これに由来した事情が社会での行為選択が継続的に影響されている事態をも指す。
「権力」とは、この言語事情から仮想される何ものかであり、またその何ものかを持つと仮想される主体たる集合性である。』
(隈栄二郎「行為の集成」より。)
といってもこの辺はずっと降ったり止んだり。そういえば先週からヒグラシが鳴き出して。カナカナね。今は油蝉が鳴いております、
さてニュース。
「焼きうどん発祥の食堂として知られる北九州市小倉北区の「だるま堂」が23日、約10カ月ぶりに営業を再開した。」(毎日)
そんな話、あったね。焼きうどん、40年以上前、西荻のロフトで食べたよ、ライブなんか終わった夜中ね。なんてえジャンクなんだ、というかんじ、ジャンクなんてコトバなかったけど。なんだ、こりゃ、だね。だから家でも相当早い時期に作ったんだけど、ぜんぜんうまくいかなかった。やっぱ本来鉄板で焼くものなんだね、ねちゃねちゃになってしまう。セミプロに作り方教わってようやくまともになりました。
次。「帰省を相談したら「東京大変らしいけどマスク足りてる?」…“京都特有”の言い回しの難易度が高い 」
「普通であれば、感染者数が増えている東京での暮らしを心配してだと思うが…。京都では「来るな」という意味になるというのだ。」(FNN)
送るからそっちにいろ、とかいう意味だと。ほんと付き合っとれん、に尽きる。気持ちが悪いといってもいい。といっても同じ大学の京都人は率直でまともでした。やればまともになれるんじゃない? もちろん、いやみです。
京都の大学というのは、このブログでも時々文句を言ってますが、口先勝負でね。京大って例外なしにみんなそうだよね。お金がほしいのか名前を売りたいのか、学問はカネでも権力でもない、と思うのはわたしだけでしょうか。 これもいやみね。
わたしは最近はフェミニズム加勢で、「家族」理論を見てますが、元京大総長の山際寿一、まさかと思うアナロジーをひたすら語る(しゃべる)。とんでもないゴリラ学者。
内容を紹介してもしょうがないから、後に続く人に、正しい動物と人間の対比の方法を述べておきましょう。
ともかくまず、ゴリラでもチンパンジーでも彼らの行為原則を立てる。それが研究者が何かをしゃべるときの第一の手続き。その行為原則が人間と一致すればその一致の範囲で何かを述べるのは有益でしょう。もちろん彼らの環境は人間の環境とは違うけれども、しかし、その反応の原則は、人間の原則との対比となる。その差が環境か状況か、それともそれ以外のファクターか、全てはそれから順次確定されてゆく。
どっか間違えているかね、賢明なる京都大関係者諸君。アホは元総長だけに任しておけばよい。
とはいえ、昔の京大霊長類研究所所長の杉山幸丸はまともだった記憶があります。イヤミだけどね。いかにも教育大(学部)ふう。
さて、本題です。
フェミニズム加勢で「下位社会体系の権力」理論も見ないといけないので見てますが、
”48,58,57,50,63,51,51,44,46,49,55.”
これは、某「権力」社会学本(岩波書店)の各執筆者の生まれ年。
この本がつまらないのは前2回ほど目を通して知ってますが、引用用に我慢してもう一度見て。
「なんでこんなこと書くかねえ、趣旨不明。ほんと今の若いもんは」と思って、年代を見たら、おや? 違うな、と。ずいぶん年寄りもいる。と思えば、(19)51年より前の人の論文は少しは心の痛みが伝わる。
それはおいて、他の人たちの論はなんなんだろうか? 本人にとってなんなんだろうか? 社会学徒にとってなんなんだろうか? もちろん、わたしにとってなんなのよ、ってこれは不要だけどね。わたしにはただの自分の論文の飾り。
で、しつこく追っかけて聞いちゃうよ、君たちにとって権力って何かね、論者諸君。
権力というのはそれを知る庶民にとっては痛いものなのだけど、それさえ知らないだろ?
じゃあ何を知っているのだろうか。いや、いやみじゃなく、ほんとに不明なので。
ちなみにその後の研究関心は、58年者はドロップアウト。57年は足湯ボランティア。63年は西尾維新。55年は2011年で一般人の前から姿を消してしまいました。むべなるかな。自分がいたくもかいくもないものなど、付き合う必要もないから。
55年以降生まれの人はこれは悪口だと思うでしょ。ざんねんでした、本気です。学問というのは、本気なものです。サラリーマンと違って研究学徒には給料は入いりませんが、それだけに本気なものです。
俺は違う? しらねえや。 あ、そうそう、宮台真司がこりゃ遊びだっていってたよね。知るかバカ。
杉山幸丸も怒ると思うぞ。まともだから。
じゃあお前にとって権力とはなんなんだよ、って? 私とあなたと彼女の行為の自由を束縛するものです。しかして当然に、この社会構成から排除されるべきものです。「彼ら」の行為の自由は? そんな職業労働学者のことなど知るものか。
そういっても世の中から権力はなくならないんじゃないか、って?
若人は知らないので教えておきますが、もちろん、権力は研究主体が定義するものです。なくそうとも思わないやつが定義すればなくなりっこない。母親が赤ん坊に行使するのも権力だ、と。
バカが、というのも言い飽きました。コトバというものは主体的なものです。いいですか、若い衆と年取った学者諸君。人間が権力という言葉を(社会科学上で)使ったのは支配権力に対してであって、自分のママにではありません。「ある社会関係の内部で、抵抗を排してまで自己の意思を貫徹する全ての可能性」(ウェーバー)だと? バカが。「その権力定義は撤回せよ。こちらが先取特権だ」。バカのウェーバーを筆頭とする職業労働学者諸君に言っています。プチブル、ウェーバーにとっては自分のママだけが権力かもしれませんが、そんな論議は全て支配階級者の遊びです。もちろん赤ん坊ではなく児童時にはママを伝わって権力が降りてくる。で、どこから? ママから? そんな人は心理学でもやるのがよろしい。社会科学をやる人間ではありません。
学者はそれ自体でイデオローグなのです。その研究の「設定事項の発表」によってイデオローグになる。学問の内容はイデオロギーではなくとも、その発表はイデオロギー行為なのです。そして、右であれ無色であれ左であれ、社会には必要なイデオローグがある。このうち右と左のイデオローグは満足して死に、無色の人はそれ以前に研究をやめる。後悔先に立たず。そこに誰の痛みもないのなら、はじめからやらないのがよろしい。
(補注)権力とは
『社会関係をめぐる諸規制の状況について、私たちは「権力」という言葉を使う。
「権力」は社会的規制の継続的状況にかかる言葉であり、規制の継続的状況は当該生産関係の種類によって異なるべきものであるが、一方、生産関係は自然的原因によって容易に個人にとって規制的なそれに固定されるものである。したがって、一般論として、この規制状況を論ずるのが現実的である。
まず「権力がある」とは、当初は物理的暴力により行為主体の選択が影響されている事態を指し、これに由来した事情が社会での行為選択が継続的に影響されている事態をも指す。
「権力」とは、この言語事情から仮想される何ものかであり、またその何ものかを持つと仮想される主体たる集合性である。』
(隈栄二郎「行為の集成」より。)