リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

ポリシー

2012-10-29 20:38:00 | 不定期=中途半端
 こんばんは。いい季節が風が渡るようにすぎていきます。みなさまお元気でしょうか。

 わたくしのほうはもちろん涼しいんですから順調で。自分だけ順調で皆様に還元しないのもなんだな、みたいな気持ちもあり。といってお客様「皆様」全般という区分けもつくはずもなく。

 今日の自分の仕事中、なんか簡単に生きてる印だけ書いておこうか、と思い探したのが、以下。

 ここんとこ十数年、端からばたばたと「同志」の消え行くさまを茫然と見送る私。
 お前らいいかげんにせえよ、という一人り言も、「お前ら」とかの呼びかけ語は消え、口の中で呟くだけになりましたが、ま、反省するに私もそうは偉そうでもなく。前も似たようなこと書いたけど、ようするに適当な折れどころを行使しつづけていて。
 「おじさん化とは妥協のことか」、みたいなもんですな。
 
 今日は、これも以前にも載せた小林良彰(経済学)先生を読み返して、”組合労働者は妥協することしかしない。常に資本家との妥協点を発見しようとしている運動で、組合員は骨の隋まで妥協的になる” 旨、おっしゃってて。
 あやや、あいたた、みたいなもんで。
 ほんと、こうゆうのは良い悪いじゃなくて、そういうのが癖になっちゃうんだよね。中高年になると何も考えないしね。いつものクセのままなんでも判断、初めの一歩は、だれもがうまくいく方向を狙ってしまう。あとで、あれまずかったかな、と思い返しても、それは過ぎてしまった過去のこと、ないし取り返しがつかないこと。人間の生きて行く時間はほんと分刻みでね。
 
 というわけで、本日の、ごく一部の人にためになるブログ。 テーマは、
 『夢があって生きている人は、その他のことにも妥協しないことがいい。人間にはポリシーというものがある。それは生きてゆく全ての局面に適用していかなければいけない。そうしなくて、あとで泣くのは自分だ。』
 
 でした。
   人間の人生は、他人との関係では、分刻み。
   これも覚えてね。疲れるけどね。

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努力

2012-10-20 20:51:23 | 不定期=中途半端
 こんばんは。今日は10月下旬にはいりまして、あきらめとともに食べた今年最後の早生ミカン、今回もだめ。まず。 これでもう季節は終りじゃあ。
 この場所では今まで書いていませんが、私の1年の楽しみは、6月に夏みかんを食べて、9月に青い早生ミカンを食べること。青々とした早生ミカンの香りとともに味わう酸っぱいミカンの豊かな歴史が半年に1回の御馳走と思う人はわたしだけでしょうか。 それが、今年はまずくて。完璧な美味さはもう5年前、東京はKG坂御用達の小さな八百屋が最後。かなしい。
 別に悲しかないですが。

 さて、今回新しいカテゴリーを作りまして、、、いわく『不定期=中途半端』。「ここは役に立つブログですが、今年はもう年末までたいして役に立ちゃしませんよ」という意味です。
 
 で、私は生まれてこのかた努力というものをしたことがない、あるいはちっとしかない、のですが、名人上手という人たちはみなさん努力をしてらっしゃるような。
 なんでそんなバカなことができるのか、人間、性格もいろいろだなあ、と私なりにずっと思っておりましたが、ふと思うには、他の刺激を受け止める感受性がなければどんな人間にも努力というものができるのでないか、と。
 これはなかなか良い収約では?
 どんな行為にもその達成は自己満足がありますから行為の努力自体はべつに苦労かもしれないけれど不愉快ではない。(あ、わたしゃ苦労はしてます。)
 これが不愉快なのは、その行為の遂行の代わりにできなくなる他の行為の可能性があるせいだ。
    ここまでは、ま、論理的では?
 じゃあ、他の行為の可能性がなくなれば、人は、いやでもなんでも、残された可能性を実現するしかない。
 ところが、「なくなれば」といっても、どんな行為でも可能性はある。 だれでも頑張ればオリンピック100m走で金メダルを取る可能性がある、かも知れない。
 なので、問題は可能性ではなく、その他の可能性を可能性と感じない感受性があるかないかだ、という話で。 そんな感受性のなさが「天才」というものなのでしょう。
 
 何を言いたいか、って、わたしゃ、とりあえず今日のような仕事の翌日の休みは仕事のことその他の考慮で勉強をやる気がしなくて。
    もちろん、長生きしたおかげで、それもこれも全部、勉強のスケジュールに組み込み済みですけどね。
 
 
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小休止

2012-10-14 20:40:21 | 初めの言葉
 こんばんは。いよいよ秋ですね。夏にも冬にも弱い私には、書き入れ時となりました。

 私は社会学専攻ですが、大学1年のときに新入生用に予備ゼミというのがあって、そのときに間宏という先生がおっしゃるには「(君たちのような) 学生がどうして勉強をしないんでしょうか。労働者は、もっともっと勉強してますよ。条件のいい学生が勉強しないというのは私にはわかりません」 なんてお小言を。
 私は既に小さいながらアナーキストの過去の自負がありましたので、心の中で、そりゃ違うでしょ、あなたは全共闘の大学教授への糾弾を知らないんですが、といいたかったですが、突然のお小言で、時間が通り過ぎてしまいました。
 間先生という人は、夜間高校や労働者学校で教えていたので、それは実感だったんでしょう。
 
 で、(既報のように、私の)友人が死んでしまうと、やはり、私は生きてるうちに勉強しとかないと、とも思うんです。
 それは間先生が正しかったわけではなくて、「私はもう労働者だから勉強しなければならない」と収約する、ということですが。
 微妙にわかりませんかね。まあ、日本ではそういう時代の変遷があったということです。

 というわけで、先日グチりましたように、寒くなって手がかじかむ(と勉強したくなくなる) 12月末までこのブログは不定期にしようかと思います。なんか、google検索システムの変更か、この2,3日、突然アクセス数も減って、おまえなんかどうせぐうたらで、あれもこれもはできないんだから早くやめろよ、という神様の思し召しかとも思いますし。

 そもそもこれを始めたのは、5年前、一冊前の創造的書籍が終わったときで。
 このブログと平行して書いたはずの「行為の集成」は、厚いだけで集大成なので、頭はあんまり使ってないのです。
 若い人は、試験勉強や、本を読んで書いた人にケチを付けるのが勉強と思ってらっしゃるかも知れませんが、そんなものはマラソンと同じで、体操競技です(=他人の情報に反応しているだけの作業)。勉強というのは自分の頭だけで考えることです(=自分の頭で土台情報を掲出提示し自答していく過程)。どう違うかこれはしてみないとわかりません。

 というわけで私は2時間ぐらいボーッとし続ける頭脳競技にはいりますので、ずいぶん駆け足ですがしばらくあとまで、それではまた。 



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樹木葬

2012-10-07 21:01:00 | その他
 こんばんは。本日はこの前書いた樹木葬の日で(ほんと、リンクつけんのどうすんの?)休みをとっていってきました。
 千葉県、大原は天徳寺。 東京地方西部人間にはえらい遠いところですが。

 駅から遠い丘のような山の上の寺の裏が樹木葬地帯になっておりまして、一人分(2じゃない)1坪くらいで「お墓」になるようです。穴を掘って骨を埋めて、木を植えて、ご希望なら夫婦は同じ木になるそうで。
 友だちの木は蝋梅。隣り合わせにはならないように選択指定されるようです。

 周りは自然いっぱい。なかなかよいものです。さすがの友達と奥さんだと感心します。
 ただ、私には千葉は遠い、というかぜんぜん親しみがないからいまいちですが。わたし的には、やはり今のところ、菅平、四阿山に無断散布が一番。
 あ、なお、樹木葬は法的に「土葬」なのでお上の許しをえられるそうな。

 しかし、今日は納骨式の儀式もないので冷静に見れば、ただ、体の燃えカスをばらまいただけとも見え。 いやこれは失礼ですが。まあこうゆうのはお互い礼儀知らずの友達同士の話。
 燃えカスなんざどこに捨てようがどうでもいいとはいえます。 生きた人間て、肉や脳神経があってなんぼですよね。ホネなんぞあろうがなかろうが、といえば、骨の病気の人に怒られますが。骨でさえ残ってるのはその1部分だし。
 まあ、何百万かけて墓つくるというアホなことをしないという、さらには子孫に負担をかけないという(30年でまた山にするそうです)、そんな意味は大きい。どちらにしても儀式をするなら、このほうが何十倍も良い。(でも奥さんに見られると怒られそうな言い方だね)。

 さて本日は、オカルト。
 人間て、死ぬと
 1 坊主がいうように魂になる。
 2 唯物論者がいうように何も残らない。
 というのがありますが、わたしのような理系人間にはどっちもどっちだなあ、と思われます。
 
 1は根拠がない、というのはそのまんまですが、じゃあ2.
 やっぱ、世の中「気」というものが存在するでしょ。武道の話ですが。
 仮にそうだとすれば、理系的にはそれは肉体物質が作るものですよね。
 ところで肉体物質間の伝播、人と人との間の伝達は、魂がないとすると、これに介在する物質、たとえば空気を経ざるを得ない。
 そうなるといかようにも人間の「気は」は空気に残りますね。 見た目の「肉体物質」が消えても。 理系的には肌と外界は実は繋がっているんですよ。そうは見えませんが。
 女性は肌にクリームをつけますから分子レベルではつながっているのはわかるでしょうが、それ以上に、肌の最端の原子は、隣の「空気の」原子といつも友達ですよ。
 「気」がそうであれば「気持ち」もそうでない理由がない。であれば、「心」もそうでないはずがない。
 てなわけで、人間の気持ちは、ある程度「この世」に残る場合があると考えるのは理にかなってる気がしますね。あらたな思考はできそうもないですが。
 
 ま、だからどうというわけではなく。 「気」は空中や愛着物に残っても、体が燃えた後の燃えカスは、やっぱ燃えカスで。
 というわけで、どの説をとっても、「おこつ」に当人的意味はないですね。
 
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