リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

民主主義者への褒め言葉

2011-02-26 23:26:09 | 断片
 こんばんは。ここのところ世界の縦の(歴史の)勉強が終わって、横に、本日は夕方以降、ダンザニア独立問題の勉強で忙しく、、、うそだろって、まあウソではないけどいろいろで。今日も酔言。酔っ払っているいないは、私の夜の場合、無意味だから(毎日飲んでるし)。

 で、夕刊に先ごろ死んだ憲法学者伊藤正己の追悼記事が。
 いわく、”憲法は少数者を守らねば存在意義がない”と強調しつづけたみたいな。
 いたく感心したところです。
 
 wikiによると、最高裁大法廷判決(憲法問題)で、15人中1人だけ
「司法が精神的自由を考える場合は少数者保護の視点が必要であり」と述べ得たそうで。
 偉いじゃないか。
 左翼には当たり前そうでも決して当たり前じゃないんだぜ。だいたい左翼じゃないしね。私の学生の頃は有斐閣全書の基本教科書だったし。
 
 1 憲法は、人民による国家権力の唯一の規制方途なわけ。
   権力者の価値観でどうとでもなるこの世に対して、資本主義社会では唯一、「理想」を屹立させるものなのね。
   理想がいらなければ憲法なんかいらないのさ。そのときどきの権力者が決める法律で十分。
   
   なんだよ、理想って、って、人間には理想はあるのさ。1000人中999人はそれに抗しえないだけでね。しかし、旧体制の権力者に勝った自由みなぎる一瞬の間だけは人間は夢を見ることはできる。それが憲法。
   しかし、それをあえて口に出来るものは、学徒出陣に見送りの旗を振りにいけなかった劣等感のある人間だけなのだろうね。
   
   いや感心、感心。
   左翼だった風吹かして誰一人、街頭デモさえしやしない今日この頃。
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雲2題

2011-02-19 21:01:59 | 断片
 こんにちは。いや、今日は寒くて、って、仕事で気を張っているときと違って、家で無防備にしていると温度は大して低くなくてもほんと耐えがたいものがあります。

 さて、この話題は、昨日の東京地方、雨が上がった昼休み。
 ここ、ビルの4階に、「ねえねえ見て」、と響く声は2年前に奥羽山麓の町から出てきた21歳女性。あの空すごいよ、感動だよ、と相対的に若い男に話し掛けております。
 なんやねん、いったい、と、知らないふりをして見に行けば、窓の外、都会のビルの地平の近くに、白色、灰色、黒色と幾重にも連なる筋状の村雲。よく雪山で見かけるやつ。
 ふ~~ん、、、と席に戻ると、外へ出て広い空を見てきた娘が「いやあ、今日はもういいよ! 満足!」 とか。
 そんな言葉を聞きながら、もういちど窓辺へ。
 わたしも昔、高校生だったとき見たその雲を幸せに見ておりました。
 
 さて、その夜は満月。
 飲み会から帰る道すがら、満月に照らされた群青色の夜空に、浩々とした綿雲たち。
 他には誰も通らない道に、やはり、いつか一人で眺めた夜空を幸せに見ておりました。
 
    人間、余裕が幸せの元です。忘れた方も思い出せるといいですね、せめて夢としても。すいませんが私儀、職業仕事に限っては、現在順調。

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自衛人民軍の原則

2011-02-13 14:34:29 | 歴史への視角
 こんにちは。いよいよ東京地方も春近く、雪の舞う日がでてまいりました。一昨夜は帰宅途上、雪化粧。雪の香りと風の冷たさが心地よく。たまのことなのでいいですねえ、早く融けてさえくれれば、ですが。

 さて、本日は唐突な題なので、まず前置き:
 〈こちらはアナーキストのページです。題を見て自衛隊や国家軍のことと思っていらした方がおられましても、その筋の方は読者対象としておりませんし歓迎もいたしておりませんのでご注意ください〉
 
 話は、最近、日本海軍大将が講釈した印刷物を読んでのこと。
 そんな人間いたっけ、って海上自衛隊海上幕僚長の話ですが、知らない人多いですかね。総理大臣の次に偉い兵隊ですが。ほんと、「呼び名」っていうのもイデオロギーですね。大中小(将)とかだと赤んぼにもわかる(ので(序列誇示的で)わたし的にはよくない)けど。

 さて、これがまあ、一種キチガイ。
 「日本国家の代表はすべからく国家のために仕事を一生懸命しなければいけない。」だって。 当たり前?
 で、総理大臣が自宅に帰るなどもってのほか、だそうな。国軍の最高司令官なのだから、常に他国との戦いのうちにあると思っていなければならないそうな。
 確かに司令官が夏休みにハワイで遊んでたら強い軍隊にはならないんでしょうが、そんな物差しで他人も見られちゃたまらないぜ。
 何しろ、おじさん、軍指令で一生生きてきた人間だから。自分がやりゃあ他人にも押し付けたがる、っていうのが人間の本性だけれど、権力者にそんなこと考えられてたら、やることは庶民に権力を振るって国家殉死を押し付けてくることだからね。アブナくってたまんないぜ。
 なるほど「文官統制」っていうのはそういう趣旨なんだな、と思ったところ。菅がいかに頼りなくとも、千倍もマシって感じ。

 ここはまだ前置き。で、過渡期社会の常備軍について。
 アナーキストが「軍」の話は変だけど、「軍隊はだめだがレジスタンス運動はいい」なんて議論は(昔、社会党が言っていた)、アナーキストにとっては結局おんなじなんだよね。結局、「他国」なる存在と、地元共同体の「戦争」の話だからね。「レジスタンス」でもなんでも、戦う「軍」に変わりはない。レジスタンスにアナーキスティックな正当性があるのなら、自衛人民軍にも正当性はあるの。
 まあ、現代日本の話なら「資本主義国家の軍は資本家の軍だ」、とかそういうレベルの話に落ちはするけど。

 で、これはこんな日々から、理想に一歩近づいた社会の話。
 そんな百年後の話を、って、レーニンでも毛沢東(中国共産党)でも、革命の時には現実に追い越されていくんだよね。あわてふためいて理論外のことをやるから(やるしかないから)泥沼化する。
 なんでもはじめに考えとかないとさ。一方、私としましても、これは応用理論にも書く気はなくて。

 さて、過渡期に国家が残存すると認める限り、自衛人民軍(レジスタンス軍でもいいさ)も認めるということなのね。しょうがないね、自衛隊はその頃がいつでも、絶対まだ存在してるよ。変革後の大事な時期に、「自衛隊解体」なんかありえないの。しかして、「人民軍」化というわけです。
 
 武力権力者が「国家」のためと思っている限り、過渡期国家は消滅などしません。いつまでも国家権力で人民を押さえつけてくる。隙を見れば、全般的権力社会の復活です。
 なので、
 人民軍は、まず第1に、「人民」のために日夜働かなければならない。基本ですね。「国家」のためなんかじゃダメですね。
 さて第2に、日夜といったが、この人民は、亡霊であってはならない。具体的な妻であり子であり友人でなければならない。お題目に仕えるようになったら、いくらでも庶民に敵対するようになります。理屈なんざ自由自在だからね。そこらの現代左翼の歴史の「革命軍」とやらをみればわかりますね。そのための行為論的現実の確保として、そんなに一生懸命に通常勤務してはならない。
 はじめから戦力なんざ抑止力だからね。実力さえあれば遊んでていい。
 「スクランブルに遊びがあるか」、って、給料分は働けよ (働く分は給料くれる、って逆だけど)。まだ過渡期だからね(共産主義社会ではない)。どうせ本当の戦争になれば、国内戦闘だから誰だって遊んでられないし。
 そんなんでいいのか、って、いいの。今だって、あれらや彼ら(お好きな名前を)が総理大臣(日本軍総司令官)なんだから。

 さて、そこで問題が、はじめに述べたような指揮官層です。資本家と労働者のように、佐官以上の指揮官てやつは兵士を将棋の駒に扱ってなんぼと思っている。ここがレジスタンス軍との違いなのですが、かといって、職業軍人ナシでは近代軍はもたない。
 国家ではなく、人民のための軍組織には、かくて、どこかで防衛大学の原理改革が必要となる。 はじめの幕僚長の言にある、国家官僚の自衛官意識化ではなく、逆に軍官僚の国家官僚化を企てないといけない。
 さらに、指揮官については、兵士階級を5階層くらいに分けて、2ランク階層下の兵士による選挙結果の就業職とする。将軍の選定は、尉官の選挙に基づく、といった発想でね。すぐ下の階層が選ぶと、利害関係で選ぶから。

 さて、こんなところで、って、以上は展開が規則立ってない、ってことは穴だらけ、ってことで。まあ、本題の一番の趣旨は、アナーキストも軍隊ってやつをわきまえていないと足元をすくわれる、ということであります。
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青春的しゅん

2011-02-05 21:15:21 | コーヒーブレイク
 こんばんは。東京地方、今日の気温は温かく3月並みだなんて、これが3月ではさみしいものです。正午でも十分寒すぎ、外でワイシャツ腕まくりでは。
 
 さて、世の中、「旬」というものがありまして。いまさら山口百恵にTV出演で「横須賀ストーリー」など歌ってもらいたくない、という問題でね、半年前ここで話題にしようとした話。
 で、女の歌手の話題だとそのまま属人的な俗人的な話題になりますが、大相撲やサッカーのような体力勝負は20代前半、野球は技術と精神力で、少し高級に20代後半、ゴルフは少々ボケが始まる(ことでメンタルに有利な)30代から。
 みたいに文化的な仕事というのはしゅんがあります。
 その中で、早くにしゅんが終わってしまうのが(歌手のように)見た目ではない青春グループ
 昔なら詩人や歌人、そして今なら漫画家。
 例をあげてみると

 新沢基栄の『ハイスクール!奇面組』
 高田エミの『ねこ・ねこ・幻想曲』
 佐々木倫子の『動物のお医者さん』

 いえ、もちろん個人的趣味ですが。ではありますが、いわせてもらえば、完璧に若人の生きた時代を捉えていて、なんでこうゆう芸術作品に与うべき国家的賞がないんだろう,と思ってしまいます。なにも年寄ってあげるだけが文化賞じゃあるまい。「新人賞」でも「芸術賞」でも「ベストセラー賞」でもない文化賞。もっともそれも、生きた証し、みたいになって売れる売れないの資本主義チックではありませんね。
 いや、別に長期連載『名探偵コナン』を認めないとかそういうんじゃなくって、作品を何歳なら描けるか、って問題ですが。コナンなら還暦でも描けるしょ。
 
 ついで、子供に教えてもらったのが
 こうの史代の『ぴっぴら帳』

 おう、これはすごい。国家的賞にはちょっと小粒すぎるけれど、青春にしか描けないしゅんの漫画(青春にしちゃ年が、、、とかいっちゃいけませんな)。
 でもこの人これ以上描けないんでは、と思ったらそうではなく、その後の
『夕凪の街 桜の国』が代表作だそうで。
「原爆投下後の広島市を描いた作品」とのことですが、まあ、そういうことはあるよね。というところで。

 で、この辺でこの「しゅん」なる話題を止めて様子を見たのが半年以上前。縁があれば上記作品が目の前に現れてその後が書けるだろうし。と思ったら、今週現れたのが同人の別作、『この世界の片隅に』、って題名だけだけど。朝日新聞。この人なかなかがんばっております。とはいえ、この作品てば、ここでの「しゅん」の話を越えている主題ですので、この辺で締め切り。しゅんを越えて、「コナン」になっちゃったもよう。「へうげもの」になった、でもいいけど。
 ぴっぴら帳よかったんですけどね。(って、なんか文句ありそうな、、、)
 
 というわけで、集約。生活を歌うものにとって、青春というものは消えていってしまうかなしいものです。あるいは、かなしいものだから消えていってしまうものです。現実にそぐわない自分を、仲間たちの存在によって支えていく生活。年とともに、どちらかが失われていく。そしてそれは、それを読み解く者にも同じに。
 
 かなしみのしゅんというのは人間には1回限りしかないもののようです。
 
   なにをいってるんだ、中年おじさんの生活は涙だらけだって?
   それは、苦しみ。どうちがうって言って、苦しみは消えないでしょ、かなしみとは違う。って断言するのもかなしいね。
   中高年になれば忘却力はつきますよ。あと一息。がんばってください。
 
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