こんにちは。ようやく天気が持ち直してきました。ことしは東京地方、2月以降、さんざん。
都内では明日選挙のような。川崎市は統一前期でしたが、県議会は無投票でした。呆れ。無投票の上、維新と自民だって。ここは大阪か。
県議会もいらねえな。どっかの右翼系のサイトに、県知事、選挙で選んでんだから議員いらねえじゃん、という三権分立を習ったことのない発言がありましたが、正しい。
要は、県知事に権限があるから、立法権が必要なわけで、そんな権限は9割無くしたらいい。県は市町村の指導を行政事務権限をもってするだけでいい。県議は行政事務の監査役に3、4人つけとけば、そりゃまあ、維新でも自民でもいいや。
市町村長も行政事務上の発言権を県知事に対して持つだけ。格を同等にしとけばよいじゃん。どうせ今だってうわべだけなんだから。市町村議も監査用に3、4人でいいや。なら、地主一族でも我慢できるし。
これですっきり。
ほんと、地方自治とかいう差別体制イデオロギーに興味はない。
話題2。
先日、朝日の悪口をいって、てめえで何もいわないのもなんだから、今日、朝日が中立を装ってコメントもなしに左右の意見を載せた、「国立大学は国旗を並べて国歌を歌え、国立大学なんだからそう要請する」、の件。
これって「国民は国旗を並べて国歌を歌え、国民なんだからそう要請する」、と何も変わらない論理だぜ。国民総体制も、もう時間の問題だな。第一次安倍がつまづかなきゃ私の予想通りもっと早かったんだが、自民党党首がアホだなどとそこまでは読めねえ。
まあ、安倍も打たれて賢くなって寒心してますが、世の中、そういう現況です。みなさま、そのうちあっと驚かないように。取り返しはつきません。
なんて反対してない、って、それはとりあえずは僕の積極的な仕事ではありません。
話題3。
本日はヘーゲルの弁証法。
まともな哲学者というと、カントとヘーゲル(とヒューム)くらいですが(=あとはみな評論家)、例によって誰もいわないことをお伝えしておくと、カントは近代人がまともに「いわゆる」哲学をするとこうなる、という仕事をしました。かたや、ヘーゲルは、古代人がまともに社会のことを考えるとこうなる、という仕事をしたところです。ん? 誰かいってる? でもそれが本質とはいわないやね。それが本質です。どちらも間違ってはいない。哲学と社会、思考対象が違うだけ。もちろん、どちらも生きる人間の哲学としては正しくありません。
ま、いいや、そうじゃなくて、本日は武市健人。ヘーゲル「の弁証法」に一生を捧げた人ですが、選集『弁証法の問題』を25歳の時始めて読んで以来、ん十年、なにが言いたいのかわからないまま過ぎてきたけれどようやく腑に落ちた。彼、正しい。
今日の話はそれだけ。
武市は正しい。だからなんだといわれてもそれ以上ではありません。なんの役にも立たないし。正しいことがわかって、それで完結する本があるんだ、というすがすがしい気持ちです。
とはいえ、実は使えまして、次回本の構成をずっと考えていたのですが、これをアナロジーにして作ろうと結論。
とはいえ、それは広松が難漢字使うのと同じレベルの無意味さに近いので、説明してもしょうがなさそうな。
だいたい、そんな本、今の世の中に存在できないやね。
でも私に限ってはそこをなんとか存在させますので、その折は「なるほど」とご納得ください。
*******
(後日:20.1.20)
その後、もう4年も経ちました。4年も経てば大学だって卒業ですね、学士様ですよ。というわけで、その後わたしも2冊上程しまして、見てくれました? 見なくてもいいんですが、武市弁証法を自家薬籠中に。宇野弘蔵もかくや、とばかりに弁証法方法論まで書けるようになりました。(2020年1月近辺の当ブログ参照)
が、そこで一言。
許萬元氏の武市批判がありまして、これが驚いたことに武市を正しく認識しているのに、その正しさが間違っているという。いわく、存在論主義的「弁証法」なんだそうです。
そこでわかりました。マルキストが武市を批判するのは、正否ではなく自分の信仰が破られるからだ、と。そりゃそうだ、信仰より真理のほうが強いからね。真理がたった一つだ(ポイントは「正しいのはマルクスの理論だ」というだけでなく、「たった一つ」というところです。)と思う人間には武市は必要ありません。猫に小判。社会科学は社会の各局面における真理を追究し続けるものです。もちろん、武谷三男がいうように、ある本質は次の瞬間にはただの現象となる。
武市は社会科学的に偉い。
なお許が書いた「批判」文は、「弁証法の理論」下巻。
都内では明日選挙のような。川崎市は統一前期でしたが、県議会は無投票でした。呆れ。無投票の上、維新と自民だって。ここは大阪か。
県議会もいらねえな。どっかの右翼系のサイトに、県知事、選挙で選んでんだから議員いらねえじゃん、という三権分立を習ったことのない発言がありましたが、正しい。
要は、県知事に権限があるから、立法権が必要なわけで、そんな権限は9割無くしたらいい。県は市町村の指導を行政事務権限をもってするだけでいい。県議は行政事務の監査役に3、4人つけとけば、そりゃまあ、維新でも自民でもいいや。
市町村長も行政事務上の発言権を県知事に対して持つだけ。格を同等にしとけばよいじゃん。どうせ今だってうわべだけなんだから。市町村議も監査用に3、4人でいいや。なら、地主一族でも我慢できるし。
これですっきり。
ほんと、地方自治とかいう差別体制イデオロギーに興味はない。
話題2。
先日、朝日の悪口をいって、てめえで何もいわないのもなんだから、今日、朝日が中立を装ってコメントもなしに左右の意見を載せた、「国立大学は国旗を並べて国歌を歌え、国立大学なんだからそう要請する」、の件。
これって「国民は国旗を並べて国歌を歌え、国民なんだからそう要請する」、と何も変わらない論理だぜ。国民総体制も、もう時間の問題だな。第一次安倍がつまづかなきゃ私の予想通りもっと早かったんだが、自民党党首がアホだなどとそこまでは読めねえ。
まあ、安倍も打たれて賢くなって寒心してますが、世の中、そういう現況です。みなさま、そのうちあっと驚かないように。取り返しはつきません。
なんて反対してない、って、それはとりあえずは僕の積極的な仕事ではありません。
話題3。
本日はヘーゲルの弁証法。
まともな哲学者というと、カントとヘーゲル(とヒューム)くらいですが(=あとはみな評論家)、例によって誰もいわないことをお伝えしておくと、カントは近代人がまともに「いわゆる」哲学をするとこうなる、という仕事をしました。かたや、ヘーゲルは、古代人がまともに社会のことを考えるとこうなる、という仕事をしたところです。ん? 誰かいってる? でもそれが本質とはいわないやね。それが本質です。どちらも間違ってはいない。哲学と社会、思考対象が違うだけ。もちろん、どちらも生きる人間の哲学としては正しくありません。
ま、いいや、そうじゃなくて、本日は武市健人。ヘーゲル「の弁証法」に一生を捧げた人ですが、選集『弁証法の問題』を25歳の時始めて読んで以来、ん十年、なにが言いたいのかわからないまま過ぎてきたけれどようやく腑に落ちた。彼、正しい。
今日の話はそれだけ。
武市は正しい。だからなんだといわれてもそれ以上ではありません。なんの役にも立たないし。正しいことがわかって、それで完結する本があるんだ、というすがすがしい気持ちです。
とはいえ、実は使えまして、次回本の構成をずっと考えていたのですが、これをアナロジーにして作ろうと結論。
とはいえ、それは広松が難漢字使うのと同じレベルの無意味さに近いので、説明してもしょうがなさそうな。
だいたい、そんな本、今の世の中に存在できないやね。
でも私に限ってはそこをなんとか存在させますので、その折は「なるほど」とご納得ください。
*******
(後日:20.1.20)
その後、もう4年も経ちました。4年も経てば大学だって卒業ですね、学士様ですよ。というわけで、その後わたしも2冊上程しまして、見てくれました? 見なくてもいいんですが、武市弁証法を自家薬籠中に。宇野弘蔵もかくや、とばかりに弁証法方法論まで書けるようになりました。(2020年1月近辺の当ブログ参照)
が、そこで一言。
許萬元氏の武市批判がありまして、これが驚いたことに武市を正しく認識しているのに、その正しさが間違っているという。いわく、存在論主義的「弁証法」なんだそうです。
そこでわかりました。マルキストが武市を批判するのは、正否ではなく自分の信仰が破られるからだ、と。そりゃそうだ、信仰より真理のほうが強いからね。真理がたった一つだ(ポイントは「正しいのはマルクスの理論だ」というだけでなく、「たった一つ」というところです。)と思う人間には武市は必要ありません。猫に小判。社会科学は社会の各局面における真理を追究し続けるものです。もちろん、武谷三男がいうように、ある本質は次の瞬間にはただの現象となる。
武市は社会科学的に偉い。
なお許が書いた「批判」文は、「弁証法の理論」下巻。