リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

おおむね良好

2021-10-30 13:35:35 | 断片
 こんにちは。ここんとこ秋晴れが続いて時間を大事にしたいところ、季節の花が少なくて家こもりを促しています。シャクナゲにしか見えない花が咲いてたり。ツツジも二度咲きなんてネット記事があったので、そんなものかも。
 ベランダのゴールドクレストにたびたびウラナミシジミが止まってるのはなぜだろう。美味しいとは思えないけど、今もいる。
 
 昨日はコナンを借りに、2年ぶりにマンガのあるS区図書館に行ったら館員の方にあいさつされて。マスクで気づかなかったら昔のお知り合い。外じゃ完璧にわからない。マスクは困るよね。もっとも何年も見かけてないのでお辞めになったと思ってたんだけど。(わたしの方は予約名でわかったのかな、昔と比べて髪の毛が不自由になってるところですが。)
 でも昔の知り合いはいいね。みなさまも今のお知り合いを大切にすることをおすすめします。世の中、たのしく暮らしだけが人生じゃないし。
 さて、コナンは93から95まで。新しいのは予約が多くて、大人は遠慮。しかし、初めにこのシリーズを入れた館員は慧眼(けいがん)だね。わたしなどは同時期の「金田一少年の事件簿」の方が偉いと思ってたけど、今となってはもうコナンは文学といったほうが良い。川崎市も心を入れ替えてマンガを蔵書にしなさい。
 もっとも一生懸命読んだおかげで目をやられて、昨日はまともな本を読めなかった。コナンは字が小さいんだよね。みなさまもスナホはほどほどに。
 
 コロナ感染は相変わらず最低線ですが、(川崎市、平日の昨日で新規1名。)みなさまお仕事状況は明るくなりましたか? ともかくさしあたりサービス業復活は良い知らせです。
 
 ついで、ネットニュースでは、「母と一緒に」なる見出しの下で
「上野の双子パンダ、2頭一緒に母親とすごすことに シャオシャオとレイレイ」
「これまでは母親シンシンが1頭の世話をしている間、もう1頭は保育室で飼育管理していたが、10月23日午前10時ごろ、2頭を一緒にシンシンに預けた。シンシンが2頭と同時に対面するのは6月23日の出産当日以来、初めて。」(日刊スポーツ)
 写真をご覧になって。ほら。母親はレイレイちゃん無視。情報なんか聞かなくともずっと私だけが想定し続け言ってきた状況。
 かわいそ過ぎて。

 かわいそうなんで、次。
 COP26とか知ってる? 国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議だってさ。
 明日からだと。本気なのかしら?
 で思い出したんだけど、真鍋淑郎氏とかノーベル賞取っちゃって、池田清彦とか何言ってるか知りたい。池田って「なんでも反対」の生物学者。1十年以上前から「温暖化論なんか陰謀だ」論をはって。なんでも「気象学会員全員に聞けば温暖化論に賛成なのは数パーセントだ」とか書いてあったぜ(図書館での立ち読み)。去年も新版出してるけど。なんでも反対派ストレス解消にいいから周りでもてはやすやつもいて、この周りのやつらの行方も面白いね。
 なお、わたしはどっちも信じていません。
 世の中、学者だって嘘つきばかりだから、自分の目で論文を読まなきゃ信じない。
 
 明日は選挙ですね。みんな資本主義政党じゃあ選ぶほうもかわいそう。18歳が、いったい何をもって政党の「違い」と思うのか。
 そういえば新聞に前回言った各党の歳入手段がでてました、が、だらだら書きの中の単語で私だって読みたくない。なんのための新聞かいな。
 新聞はいいけど、川崎市、明日だというのに国民審査と衆議院の選挙公報来ないぞ(市長選公報は来た)。お前が捨てた? そんな紛らわしいもの配るな。
 ま、いいんだけどね、どうせ立憲と維新と自民の3人しか出ない。ほんと選ぶほうはかわいそう。党名の響きの好き嫌いで選ぶしかないじゃん。
 国民審査情報は朝日新聞に書いてはあったけど彼らの視点の選択羅列なので役に立たない。左翼の人には、薦めるわけじゃないけど、日本民主法律家協会のHPに情報があるよ。ま、ご参考。

 さて、本日は読みそこなった借り本を読んでしまおうと。それではまた。

p.s. 選挙公報、夕刊の下に(夕刊より早く)はいってました。間がないのは岸田のせいだからしょうがない。
   しかし、裁判所公報の選択羅列も納得いかないなあ、、、
 
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具体性の次元での因果連関

2021-10-23 16:11:32 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、昨日は雨降りで11度の真冬の寒さでしたが、今日は平年並みの良い天気。このくらいの日が続いてほしいものです。
 昨日は寒さにもめげず、隣町に平日ランチに出かけました。高齢者と呼ばれて我慢できるのはこんな場合だけ。まあいい目の時はしょうがない。
 2年ぶりの屋内ランチはまずまず。ワクチンを打った甲斐があります,というより、コロナはどこに行ってしまったのか。この秋は2年ぶりの紅葉狩りに行きたいので、それまでコロナもなんとかもってほしい。明日は日本全国晴れのもよう、経験上はたぶん栃木以南は山のてっぺん以外、紅葉はまだだと。といって青森の山は雪なので、堂々と真ん中の山形・福島辺りがよいでしょう。なんて言いながらわたしはまだ電車2時間の安全性は信じてないので、来月高尾山かな。東京から2時間なら安達太良山には行けるけど。
 
 本日のニュースは選挙かな、今朝のニュースではほんとに「我が党こそは」とバラマキ合戦をやっておりました。これじゃどこが勝っても庶民はバラ色か? 投票しようにも区別がつかないんじゃない? 年寄り向けの政策はなかったようだけど。
 こうゆうバラマキ宣伝は、収入方法合戦に変えれば各党の旗幟(きし・のぼりの色)が鮮明になってよかろうと思うのですが。
 共産党は所得税・法人税の累進課税でしょ、自民党は「何もしない」でしょ。維新の会も「何もしない」でしょ、立憲民主は、、、その他は全然知らんわ。どれだけ嘘つきかバレてよい。もっともそれじゃあ都合の悪い人間ばかり。庶民には知らしむべからず。

 さて、本題。今日は純粋のオタク記事。みなさまの良き秋休みをお祈りいたします。
 
 先週、「すべて規定性の消えた社会現象は、「名付けて」はいけない。それでは社会学だ」と書いたところ、これじゃマルキストにしかわからないだろうと思って。注釈、長いけど。
 
 まず、ここでいう規定性とは何でしょうか?
 規定性とは、それに関わる行為者の意思の如何にかかわらず、結果としてその「規定性」が示す理論的方向に事態が動くきの、その論理的先見です。すなわち環境による行為者への強制について把握されたその根拠です。 
 たとえばある生産共同体内の農民は、彼個人の意思にかかわらず、生きていくために生産共同体の多くの「キマリ」に従わなければなりません。このときの行為者の生理的身体維持の条件が「規定性」です、 
 イエの問題の場合、日本では村落共同体の「キマリ」に従うことは絶対ではなくなりました。町に出て他の産業へつけばよいからです。そうされては困る村落共同体の権力者は態度を軟化させざるを得ません。かくて日本には「イエ」の規定性はなくなり、その観念は思い出と同情の中に生きるだけとなり終わったのです。だからこの時の家族を「イエ」と呼んではいけません、ということです。ぜんぜん歴史的規定性の違うものに同じ名称を振るのは、結局何もわかっていないということです。
 
 さて、当然のようなこの事情を、ブルジョワ社会学では無視をする、というより気にもしない。
 
【因果連関の立言ではなく、行為の評価過程に使用される因果連関】
 
 今知られている「社会学」は、研究者が作った箱庭理論の社会学以外は、具体的人間についてのリサーチです。

 ある行為者の行動は、研究者が視点をどうとっても現実に変わるわけではありません。その行為目的から見ればいく人もの行為者が同じように間違ったり、また、好き勝手なことをしたり。そうして社会は動いていく。しかし、視点の如何によって変わるものがある。それは、ある行動の意味付けです。 
 規定性の中に組み入れられた行動は、その規定性に対する意義によって次の行為者にとって評価され、使用される。
 しかし、具体的場面での行動は、全体の中ではなく、その行為に即して評価される。或る他者の(例にしようとする対象の)行った行動は、あるときはマネすればよいですが、あるときは決して使ってはいけません。まだ迷いの中のテーゼです。その迷いがその社会の行為者にどう現象し続けているか、を明らかにすることが、具体性の理論の第一義的な任務なのです。
 そこでは行為者を規定する要因の姿を語ることはできません。そこで語れるのは、ある規定性の下の行為者の行為論的(場合によっては心理学的)な法則性です。
 この場合の法則性は、形式社会学的な法則性とならざるを得ませんが、初めの規定性の固定により、空語を免れることはあります。
 つまり、この固定性とは論理によって確定されるのですが、具体性という研究では「現象の継起」の理論として結果するのです。
 もともと形式社会学の否定面はその非歴史性にあるのであり、この歴史性(=状況条件)が固定され、状況が限定されれば、別に非難されるゆえんはないというわけです。

 さて問題はそこではありません。問題は、では相手はそれぞれ個性のある気ままな個人の行為だというのに、科学としての法則性は何を担保に確保されるのか、という点にあります。
 それはもちろん行為理論です。
 行為理論において、ある規定性の下の個人行為者の行為は客観的に想定しうるものとならざるを得ませんか、それが具体性の社会学の、しかし抽象的な筋道なのです。

 例をだしましょう。
 たとえば、システム論上の因果連関に、「運動はその権力性により行為者の賞賛と優越をつかみ、それにより行為者を運動の理念の拡大に参加させる。この権力への対抗は、現象面はどうであれ、究極のところ人間の自由を拡大する。」と記する簡単な記述があったとします。ここでは運動の社会構成員による拡大についての因果連関が書かれています。

 この同じ現象について、具体性の因果連関は、「ある人間が、世間で女性へのハラスメントが問題化している場合に、自己の過去のセクハラ例をネットに上げてさらに同様の非難に交じった場合、その行為は、その反セクハラ運動の理念を当該社会に広げることができる。ただ、広げたからどうなるのかはあずかり知らぬところである。」と書かれる。あるいはそうとしか書くことができません。それが具体性の次元です。
 「当然だ、そのために行動をしてるんだ。そんなことをわざわざ聞きたいなどと思わない」というのが運動内行為者の反応でしょう。
 おっしゃるとおりです。そんなものは科学でも何でもありません。それが科学であるためには、その文言の合間を理論的に確定させる手続きが必要となる。なぜその行為が運動の理念を社会に広げるのか、当該行為者に理解しうるその他の人間の行為の継起の行為論的(心理学的)説明であり、その行為の継起が、どんな環境要素の配置の中で生じてしまうか、の理論的確定です。
 つまり、具体性の次元では、ある社会事象の持つ社会システム上の意義は語ることができません。もちろん人は論者も自由に知っていることを表現していいのですが、しかし、この点に関しては知っている論者が書いても「付記」にしかならない、ということです。具体性の次元で説くことのできることは、システムの姿ではなく、あくまで当人と他の行為者の行為であり、その連関なのです。これは実は当然です。行為論しか使っていないのですから、その結果は行為の次元です(たとえ隈のように意識的に定理化しないにせよ、それならそれで実は日常の行為常識を使うしかないわけです)。つまり具体性の社会学とは、誰も気づいてはいませんが、他者の行動様態把握の「科学」なのです。決して「社会」の科学ではありません。そういって悪ければ、その社会学の「社会」とは、他者の行動様態なのです。同じことですが。

 つまり、全体体系を問題にするときの課題は、トータルとしての社会事象が全体社会にどうかかわっているか、ということの解明です。この過程において個人の行為がどうかかわるか、ということはその個人の立場によって異なるものであり、それは個人行為者の生き方にゆだねられる。
 対して具体性の次元では、個人の行動そのものが問題なのであり、その結果の解明が一歩一歩進めばよいのです。その結果何百歩後に社会システムがどうなるかを告げるのは、2次的な問題です。
 もちろん、生活する行為主体は現実には全体システムを見据えて動かざるを得ません。ここで個人行為者を、ある程度、固定化することにより、その行動の結果で社会システムがどうなるかを、科学的に、客観的に、個人行為者に知らせることができます。ただし、その「固定化」は、「社会学」プロパーの課題ではありません。当該「社会学」によって人間の解放への道が明らかにされることはありません。私などには信じられませんが、「それでよい」と現在の社会学者の98%は言うでしょう、現行の社会学とはその最良の部分でもそういうものですから、そこから先はわたしのせいではありません。それが「社会学」というものです。
 
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ほんとは大事なテーマ、3,4。

2021-10-16 14:18:28 | その他
 こんにちは。大空には鳥の群れ、たくさんいると中には林の樹の上で遊んでこうと思うのもいて、置いてかれてだいじょぶなのかね、と心配。といってムクドリじゃなくてシジュウカラのようだから一人でも暮らせるか。
 昨日のコロナ感染者は川崎市とうとう3人。平日だと開闢(かいびゃく、ですが例え)以来じゃないかね。おかげさまで今朝は(土曜)東名下りも中央高速下りも渋滞だってさ。うらやましいことで。
 あと2週間は急増はしないでしょうが、わたしも乗り遅れないようにしないとワクチンが解けちゃう。

 さて、本日は「ためになるブログ」特集。
 ネットで
 「「迷ったら一本背負い」男子中学生を川底から救助、男子高校生3人に感謝状」
(京都新聞)
 (溺れた中学生を飛び込んで助けた)「美濃さんは、中学担任教諭の口癖だった「迷ったら一本背負い」との言葉を思い出し、とっさに飛び込んだという。「当時、言葉の意味は分からず、今もよく分からないが、こんなところで役立つとは思わなかった」と笑顔を浮かべた。」って。
 いいと思わない? 迷ったら一本背負い。
 物事は「一本背負い」だよ、やっぱ。
 わたしなんか剣道趣味なので相当する言葉がなく、飛び込むようなときは「しょうがねえ」で過ごしてきたけど。しょうがねえ、じゃあアドレナリンに欠ける。「一本背負い」が口癖の教師が居たらよかったな。

 つまらん? 次。
 千秋の財務省時間のはなしで、高橋洋一という人間が「批判」している。
 「高橋洋一の霞ヶ関ウォッチ  財務次官の「財政危機」寄稿が「欠陥もの」である理由」(JーCAST)
 いわく、日本国家には資産があるのだから借金なんか問題にならない論。よくあるやつね。
 ばかいうんじゃないよ。資産て黙って蔵の中にあるもんじゃない。国立競技場だって国有林だって有価証券だって、使用中であり、あるいは存在だけで役に立ってんだよ。銀行から預貯金使ってないだろ、って取り上げてもいいのか? まあこの手の連中は、価値のあるものは全部資本家に渡せばいいと思っている「ためにする批判」だからいいんだけど、若人は本気にするからね。
 
 それより正直なのが、「財務次官が「隠蔽」しようとした「不都合な真実」…実は日本財政は超健全だ!」(10/15(金) 7:02配信72 現代ビジネス)長谷川 幸洋
 彼など、”家計の借金と違って国家の債務はほおっておいてかまわない、だれも困らない”なんていうんだぜ、、、、、、、えええ? その文言消えてる。
 おい、文言を勝手に消すなよ。消すなら配信日を変えろよ。だからネット情報は参考文献にならない。
 ま、そういうわけで「ほっといたっていい」感性の人間が原発事故を生むのさ。どんどん放射性物質がたまってくけど、今の人間は誰も困らない。
 ちなみにわたしは「国債なんかチャラにすればいい」派だから質はそう変わらない。国債持ってたって誰もどうせ使わないんだから一夜で紙ゴミにして燃やしたって困りゃあしないさ。
 無責任? 「資産があるから国債は問題ない」論とどこも変わりゃあしないよ。困るのが紙ゴミ焼却は資本家で、民間売却は国民だ、という違いだけ。
 
 さて、本で。
 山田昌弘「なぜ若者は保守化するのか」
 まあ昔のこのブログの記事を覚えておられる読者は皆無でしょうが、毎度疑似進歩派の顔をしてしゃべくるので私は読まない家族評論家。一応図書館で題が気になってペラペラめくったら、いわく「フリーターの若者がいなくなった場合、フリーターがやっていた仕事は誰がやるのか」「研究室や役所を出て、社会の現場に足を踏み入れれば、日本経済が単純定型労働者なしでは成立しないことは一目瞭然である。」
 ば~か。何が日本経済だ。こういうのを若人が信じては害悪だ。
 われわれの世代がどれだけ自分のトータルな仕事から単純労働だけ切り分けていくのに努力したと思っているんだ。
 まだ日本的経営の時代は、精神障害や各種家庭の事情のある社員向けの担当仕事作りに。
 先進国家となってからは、安価なアウトソーシングのために。
 先進国家破綻後は、本社にとっては安価な内部分割のために。
 すべて一企業の儲けのために切り分けただけのものであって、本来は単純定型専門労働者などいらないのだ。そんなものは自分でやれ、自分で。それがわたしの「日本経済」だ。 
 コンビニやファストフードの接客? そういうのは「店員」というんだよ。工場の機会画面操作? そういうのは工員(工場労働者)というんだよ。清掃は清掃員(清掃労働者)。検品は製造労働者の大事な一過程。なにが「単純定型労働」だ。みんな人間のまともな仕事だよ。
 ほんとに社会を知らない人間が評論家面をするのは我慢がならない。家族屋は家族のことだけしゃべってろ。
 
 わたしは争いごとは嫌い。お口直し。これはすばらしい本。安いし。
 細谷昂「日本の農村」、ちくま新書。
 細谷という人は私が学生の頃はマルクス主義社会学の紹介者に過ぎなかったけれど、その後農村社会学に精進したもよう。
 なにが素晴らしいって客観的に俯瞰(ふかん)して、書き様も易しい。お薦め。内容は大学教養課程じゃ無理(一通りいろんな学説を知ってないと)だけど。実は鹿児島の末子相続って、わたしにはちろっと論文を見ただけじゃわからなかったところ、まあスパッときれいにまとめている。へえええ、、てなもんで。
 私は家族も農村も近代史も専門でないのでそれ以上の評価はできませんが。
 
 とはいえ一つ問題が。
 今の田舎の「家」を「夫婦家族連合としての家」なんて規定してしまう。困ったマルクス主義者だ。そんなことをいっているから世の中亡霊だらけになる。
 「家」なんかもうないの。残っているのは思い出としがらみだけ。思い出に生きる親たちを子供たち夫婦が扶養的に扱う、その現実のどこに「家」があるんだ?
 すべて規定性の消えた社会現象は、「名付けて」はいけない。それでは社会学だ。私は社会学者だ? そんな観念論をいっていて若かった自分に恥ずかしくないのかねえ。
 
 ということで本日終了。
 そこでアップロードにgooを開いたら
 「『ルパン三世』の「峰不二子」を演じてほしい芸能人は誰」って見出しが。
 1位深田恭子。2位米倉涼子。
 ちょっとキミたち、わかってないね。二人とも既に「残酷な若さ」というものを脱ぎ捨ててるぜ。それより、そこらの若いアナウンサーとかAKBその他の卒業生でなきゃ。そんな目ではしばらくガールフレンド選びに苦労しそうだね。


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そそくさとまとめましたが

2021-10-09 16:37:16 | 断片
 こんにちは。まだ夏です、が、またキンモクセイが咲きました。これはいつもの季節。
 9月に、もう花が落ちちゃったよおとご報告したところ、ネット情報では「「キンモクセイが二度咲いた。」とあっちこっちで書かれている」と書かれているので全国的にそうらしい。NHKニュースの雑談でも言っておりました。わたしのように思い入れのある人間には迷惑なことです。

 他方、わたしの秋の花粉症,前半目は終了の模様。こんなに物事にやる気にならないのは花粉症ではなしに頭が悪くなったのか、とも思っておりましたが、改善とともにかなり復活したので安心です。おかげで今日はブログを書く日というのも頭から飛んでました。まあ二つのことができないくらいには頭が悪い。
 
 昨日(一昨日の夜)は東京湾地方、相当の地震で。沿岸地域は3.11並みだとか。帰宅不能の人も相当出て、まだしもこの場合は暖かくてよかったような。
 わたしゃもう就寝時刻でしたが、ガシンという感じで、うちは山で地盤は固いのでそう揺れはしませんでしたが。ニュースでは電車待ちやらタクシー待ちやらの長い列。3.11もそうだったけど、トイレどうすんのかねえ。いやだなあ、、、
 時間が早かったら公共機関のそばをうろつくのがよいようです、トイレも貸すだろうし、毛布のある施設も教えるだろうし。
 エレベーターは8万台止まったけど、閉じ込めは28件だって。これは優秀。最近のエレベーターは直近の階で止まるってね、乗ってたら念のため停止ボタンを全階分押すのが正しいようだけれど。それよりタワマンで電気まで切れて、水を上まで運ぶ目にはあいたくないなあ、、関係ないけど。
 というわけで、まだしも不幸中の幸いのようでした。
 
 ネットニュース2件。
 岩国基地から移った米軍部隊が訓練してる鹿屋市、おかげで交付金がもらえてるって。当然だけど、1年で4億6千万、市民一人について5千円。
 ううむ、ちょっと大きい。
 いつまでもあると思うな、カネと権利。 
 
「このままでは国家財政は破綻する」矢野康治財務事務次官が“バラマキ政策”を徹底批判」(文春オンライン)
 どうしたのだろう、悪いものを食べたのではないか。
 大蔵次官が大衆雑誌(文芸春秋)に投稿するなんて、自民党も軽く見られたもんだ。大蔵権力復活のキザシ。

 本日は、もう夕方なので終了。
 ところで読者諸賢はメガネかけてるでしょ? わたしはともかく見えないので新しいメガネ買いました。
 どっか安いとこ、というわけで、ガラスレンズは薄くしても(屈折率が高くても)値段が同じという「眼鏡市場」さん。
 レンズ値段、おんなじだったですよ、丈夫なコーティングは、すれば値段が跳ね上がるとのことですが。(正しくは、屈折率1.8以上は割増し。1.8で千円高い。が、千円引きで同じだった)
 まあ、普通の眼鏡店ほど丁寧とは言えず、それ一つで過ごすとしたら多少不安。普通の眼鏡店なんてこの辺りじゃあつぶれて、ないのですが、メガネスーパーとかメガネストアーとかかな。
 フレームは安いなり。樹脂製って経験上、経年劣化でちゃっちいのは折れるし、金属製は角のところが破断するんだよね。で、組み合わせて使ってあるのは樹脂との境目がぼろっと落ちる。
 まあそういうもんだと思えればそういうものです。ご注意の上お買い求めください。
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ぱらぱらと

2021-10-02 15:55:02 | 断片
 こんにちは。東京地方、台風一過の晴天。宣言解除のお祝いか、からかいか。だいじょぶかねえ、、、
 と言いながら私も外出。街中で先を行く父親と3つ4つの女の子にどうしても追いつけない。
 えええ! と一生懸命歩いて、母親連れの小学生の子たちは追い越せるけれど、この女の子に追いつけない。
 なんだよ、って女の子時々駆けてるじゃん、父ちゃん、ゆっくり歩いてやれよ。
 信じらんない。幼児を放って自分だけ早足で歩くか? 
 ま、どうでもいいのですが、世の中いろんな家庭があるもので。
 
 宣言解除だってさ。ほんとに不思議。川崎市つい3週間前は新規患者600人だったのに、ここんとこ20人台だよ。なんで? こんなことも起こるんだねえ。世の中、医学学なんてないも同然。誰も何も知りゃしない。
 
 他のニュースもぱらぱらと。
 自民党の総裁は岸田。面白くもなんともない。現実が身近かに迫ると河野のいい加減さが鼻につくんだろうね。まあそうでしょ。
 はいいけど、総選挙の洗礼なしっていうのはいんちきだね。はじめっから期待のない内閣というのもないから自民党もぼろ負けはしないしょ。
 
 次。例の天皇の姪の結婚、3年ぶりにようやく「会う」って、そりゃうまくいくものだって壊れるんじゃね。いくらロマンの昭和だって、戦後じゃメロドラマの筋にさえ使えない。相手がだれだってさあ。
 まあ若いってそういうことでいいけどさ。
 しかし4か月でまずいとわかっても立場が立場で別れるのだって困難。要は、天皇制などというものは資本家の役にしか立たない非人間的な人権侵害の制度だってことだけどね。

 次。上越新幹線のマックス(E4)がさよならだって。涙の出る方もいらっしゃるという。
 あれあんまり好きじゃなかったなあ。遅いし、狭いし。できれば別の列車がよかったけど、よく臨時列車で使われるんで席が取れたりするんだよね。2階は防音壁越えに景色が見れるのだけは良かったけど。
 
 次。gooのブログにて。
(東一条鞠小路通下ル)の定食屋。
 焼き鯖(半分)と大根おろしとほうれん草と白菜の漬物に味噌汁で、1150円て、なにそれ。
 信じられない。それは銀座の居酒屋の昼の小遣い稼ぎの値段だよ。ふつうの東京じゃ650円。そりゃノルウェー産塩サバか知らんが。いやちょっと義憤に駆られて。
 「生魚で揃えたらそうなるのさ」とかいうんだろうけど、それで満足して食べてらっしゃる方がいるのだから、天下泰平。魚資源はまだまだ潤沢。
 「俺は違う」? そういうことなの。「俺は違う」ことに日本人は気づいてないので「天下泰平」なの。実は「食ってるものが違う」って、危機の折には大変な問題。
 「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」
 
 昨日はテレビBSで「鬼滅の刃」とかいうのをやってて、何が面白いんだろう? 爪の先ほども分からない。もう自分の子供は大人なんで、わからなくても支障がなくてよかった。
 奇面組は面白かった。しばらく笑いが止まらなかった。
 と思って気づきました。初めから面白くないものなんだね、マンガのくせに。それでいいならよかった、付き合わなくていい。奇面組は面白いばかりでなく、遅く来た青春物語だった、、、

 さて、前回の続き2件。
 鼻炎に抗してソファーで上を向きながら、序論の筋をやっと変更成立させました。
 が、これじゃあたまらないのでパブロンゴールド1錠(半量相当)を飲みましたら、ひどい症状も収まりました、体調の悪さと引き換えに。
 さらに試したアレグラ。やはり無意味。体調も良くないし。クロルフェニラミン半量だけ売ってないかね。そしたら次回作半分までは構成し直せるのだけど。
 
 次。例の都立高校問題。
 やはり今の時点でここで反対を唱えておこう。高校定員がなきゃ男共の意向で女は高校にさえいけなくなるぜ。一部の女エリート以外は高校にだって行く必要もないからね。いつまでもあると思うな、カネと権利。残るのは、その時分には授業料補助もなくなった私立女子高だけ。そんな昔の話をしてるわけでもない。といってもそんな将来の結末までわたしゃ見られないけどさ。
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