こんばんは。まだ5時ですが。
いつの間にか秋ですね、と書こうとして書かなかったことを忘れないうちにいつの間にかイチョウまで真っ黄色、いつの間にか冬ですね。
まことに健康によい季節でした。良すぎてあまり勤勉になれませんでしたが。(わたしは睡眠を必要以上にとるので、風邪が怖くありません。たぶん、実はもう何回も罹ってるのでは?)。
前回は当り散らしましたので、この辺で、ためになるブログ、「人の悪口は気にしないように」論。
たとえば、美しくない人がいて、
けんかをしたある日、ボーイフレンドに「なんだブス!」といわれた。
本人、翌日、友達に「ひどいの、あいつ あたしに 『ブス!』 なんていうのよ」
友達A:「ひどいわねえ、でも、けんかだしね」
友達B:「でも、思ってないことは口にできないわよね」
本人:「そうよね! え!? 、、、そうよね、、、そう思ってるのよね」
なんて話。ありません? ま、なくてもいいけど、仮にあるとすれば納得しませんか? 「そう思ってたのよね」
さて、思ってないことは口にできないか、というところで。
そんなことはない。
人の言葉というのはそういうものではない。
ボーイフレンドは、別にブスなんて思っていない。単に美しくはないな、と思ってるだけ。
同じだ?
同じではない。
そこには何も人を貶める気などない。「美しくないから、それがどうした、彼女は私のガールフレンドだ」ということです。そういうことを疑ってはならない。
「ブス」というのはケンカ言葉です。分かりやすい例だと人をバカというのと同じだ。
Cという人間をバカといえば、いつもCをバカと思っているのか、といえばそんなことはない。人間そんなヒマじゃないし。
先の場合、「そう思っている」=「貶している」ということだが、ボーイフレンドは、彼女を貶したいなどと「思っていない」。
人への賞賛や反賞賛を含む言葉は、表現する瞬間に形作られるものです。
人間は生きているときに他人に対してそれらを抱えては生きていない。
抱えているのは自分への賞賛だけ。
だから、社会運動がありうる。
適切な時期に、タダの客観的な状態に賞賛言葉を付け加え繰り出していけば、そのときに人が乗ってくる。人は今まで思っていなかったけれどもその賞賛や反賞賛の言葉を聞いて、新しい(たとえば支配者をバカにしてもよい、という)世界を得ていくわけです。
とゆうわけで、悪口というのはばかばかしいものです。
人は相手を貶そうとしているだけで、それを思っているわけではない。
例えば、前回の例では、天声人語の説が間違っている態度から繰り出されたことを知ってもらえばいいんで、コラム者など死のうが生きようが勲章を貰おうが私には何の興味もないわけです。私はそんなヒマではない。
あ、気にしてもらうならそれはそれでかまいませんけどね。
いつの間にか秋ですね、と書こうとして書かなかったことを忘れないうちにいつの間にかイチョウまで真っ黄色、いつの間にか冬ですね。
まことに健康によい季節でした。良すぎてあまり勤勉になれませんでしたが。(わたしは睡眠を必要以上にとるので、風邪が怖くありません。たぶん、実はもう何回も罹ってるのでは?)。
前回は当り散らしましたので、この辺で、ためになるブログ、「人の悪口は気にしないように」論。
たとえば、美しくない人がいて、
けんかをしたある日、ボーイフレンドに「なんだブス!」といわれた。
本人、翌日、友達に「ひどいの、あいつ あたしに 『ブス!』 なんていうのよ」
友達A:「ひどいわねえ、でも、けんかだしね」
友達B:「でも、思ってないことは口にできないわよね」
本人:「そうよね! え!? 、、、そうよね、、、そう思ってるのよね」
なんて話。ありません? ま、なくてもいいけど、仮にあるとすれば納得しませんか? 「そう思ってたのよね」
さて、思ってないことは口にできないか、というところで。
そんなことはない。
人の言葉というのはそういうものではない。
ボーイフレンドは、別にブスなんて思っていない。単に美しくはないな、と思ってるだけ。
同じだ?
同じではない。
そこには何も人を貶める気などない。「美しくないから、それがどうした、彼女は私のガールフレンドだ」ということです。そういうことを疑ってはならない。
「ブス」というのはケンカ言葉です。分かりやすい例だと人をバカというのと同じだ。
Cという人間をバカといえば、いつもCをバカと思っているのか、といえばそんなことはない。人間そんなヒマじゃないし。
先の場合、「そう思っている」=「貶している」ということだが、ボーイフレンドは、彼女を貶したいなどと「思っていない」。
人への賞賛や反賞賛を含む言葉は、表現する瞬間に形作られるものです。
人間は生きているときに他人に対してそれらを抱えては生きていない。
抱えているのは自分への賞賛だけ。
だから、社会運動がありうる。
適切な時期に、タダの客観的な状態に賞賛言葉を付け加え繰り出していけば、そのときに人が乗ってくる。人は今まで思っていなかったけれどもその賞賛や反賞賛の言葉を聞いて、新しい(たとえば支配者をバカにしてもよい、という)世界を得ていくわけです。
とゆうわけで、悪口というのはばかばかしいものです。
人は相手を貶そうとしているだけで、それを思っているわけではない。
例えば、前回の例では、天声人語の説が間違っている態度から繰り出されたことを知ってもらえばいいんで、コラム者など死のうが生きようが勲章を貰おうが私には何の興味もないわけです。私はそんなヒマではない。
あ、気にしてもらうならそれはそれでかまいませんけどね。