リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

酔っ払いの差別主義者

2012-07-28 21:32:25 | 断片
 こんばんは、お暑うございます。東京地方は夏本番。あと2週間は耐えなければ。

 今週は、ハナから忙しく、というよりは夜遅く、古い人はご存知のように、私は8時間寝ないとダメで、なんとか息している状況。
 明日は休みですが休みなりに忙しい日で、何をいいたいかというと、今日も日つぶし記事。
 前もいいましたが、日つぶしでも、あったほうがいいと思うんですよね、わたしなんざ、人が書くのやめたサイト見ると、力抜ける気がします。
 
 で、スペースつぶしの第1、今日は通勤電車で乗ったは良いが、目の前50センチにこっちを向いた丸刈り日焼けの高校球児(男子のはず)がいて、何を思ったかおもむろにチューブ製品を取り出し、左の手のひらにムギュッと。
 その多分男、クリームを両手にちょんちょんと広げ、おホッペに、ポンポンとクリームをお付けになり、あら、まだおでこが残ってたわ。まあ「おでこ」なんてお下品なこと、でも、ちょんちょん、ネ。
 
 わけわかんね、体育会系が電車の中でお化粧すんな。おぞましい。
 クリームつけたいんなら、男は手のひらにベッと付けて顔を手でぐるぐるっと掻き回すんだよ。
 
 女おかまならいいが、丸刈り日焼け男だぜ。げげげ。
 右翼じゃないが、世も末だぜ。
 で、右翼よお、おまえらのほうに男おかまが多いのはなぜだね?? げげげ。
     ホモ右翼たち。なにが日本国体だ。恥を知れ。
 
 等々、なんて下品なわたくし。
 
 なにも役に立たないブログですな。
 なんかここんとこずっと私のブログサーベイが激増してまして、なんかやだしね。
 べつに暇つぶしの方はこないでいいから。
 あたしゃ差別主義者で結構なの。 
 基本、悪口が差別になるのは権力を握ったときだけだからね。塩見鮮一郎氏もそういっている。
 この人(塩見)くらいなのが、今の反差別の一番のネームバリューではかなしいけど、ま、そんな恥ずかしくはない。
 問題は、彼氏、こうゆう(私のような)庶民の感情吐露がマイナスに強力に働くことをわきまえていないことだけどね。
 塩見ももうおじいさんだからしょうがないけど、若い人はこうゆうリベラルな人の発言には気をつけてください。リベラル人は、社会の力というものを把握する気がありませんから。
 
 というわけで、要するにちょっとアタマに来てたウップン晴らしのブログ。
 こうゆうとき、ウップンは弱い奴にぶつけられる、といいますな。
 そんなのウソだってわかるでしょ。どの球児や右翼がおれより弱いんだ。ウップンは、弱い奴ではなく、価値のない奴にぶつけられるんですよ。
 翻訳すると、自分の賞賛の非対象な奴らね。
 
 というわけで、ちょっとはためになったかな。なんない?
  ま、そんな日もあるでよ。

 で、スペースつぶしの第2は、オリンピックと労働者の団結、、、
      いえ、もう9時半で明日早いので失礼します。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会科学としての民俗学の研究対象

2012-07-21 21:00:29 | その他
 というわけで、本日前回の続き。

 宮田登という民俗学理論家がいまして、改めてウィキペディアを見てこんな若いとは思いませんでしたが、ともかく、もう死んだ人。
 その人の本を読んで、(『ケガレの民俗誌 差別の文化的要因』) ま、中身はばかばかしいんですが、ためになったこと。
 
「民俗学のオリジナルな研究対象は、共同体から醸出される権力関係だ」 という認識を得ました。

 その本の中身は、権力社会で伝えられて生きた差別事象のあれこれを、たとえば「ケガレ」として構成して、あれもケガレ、これもケガレ、このように日本には「ケガレ」観念があった。うんぬんかんぬん、以下、美術評論と同じだけの美辞麗句。
 意味なし。
 民俗学理論家のほとんどが陥る形態で。自分で勝手にカテゴリーを作っておいて、あら大変、日本てこんな国だった、てな話です。
 
 この人、有名な学者ですが普通の人にネームバリューがないんで人のいい民俗学実証家赤坂憲雄氏が解説を引き受けておりましたが、民俗学は赤坂氏のように、いろんな事実を調べて、書くときは事実と感想にとどめて書き散らす手法が、まあ無難ですね。
 赤坂氏の解説では、宮田氏も、社会システムの役割は重々承知しているが、システム外に続いていく事象を分析したかったのだそうです(趣旨)。
 だから、そんなの無理だから。すべての観念は、社会システムに作られていくのだよ、って、宮田氏の本の事実を、宮田氏のカケゴリー化を排除して、別構成すればわかる問題だがね。
 
 ま、それはそれ。しかし、それでも近似的に民俗学も社会科学に貢献するのではないか、と思ったところ。

 それが共同体権力。
 共同体からはおのずと権力が発生してしまう、という問題は、現代の現実には純粋状態で見られない構成概念なので、どうせ似たり寄ったり、ということではあります。
 ありますが、この問題から離れることはできない。なぜなら、人類の食う物は共同的に取得するしかないから。いくら農業漁業が資本主義や社会主義とフィットしなくとも、世界単位に見て、食う物の生産を担う何割もの人類がいなければ、人類は1年で滅亡する。
 ところで、農業漁業(牧畜業)は、どんな体制であろうと「共同体」なしに存立しえない。
 
 共同体権力の形態は、たとえば武装力がなければ (またはほとんど同じですが武装力の介入がなければ)、権力基盤の不安定さから、権力行使より相互扶助のシステムのほうが大きなウェイトを占めます。こういうのは今でも分かる人には分かるわけですが、って分かる人っていうのは私一人でしょうがまあ分かる。
 しかし、民俗学の人は、あれも知りこれも知っているはずだから、どんな共同体がどんな権力を醸出し、世の中の経済体制や武力体系からの影響を曲げていくかということを、なかばは夢想でも、構成していくことができるんじゃないか、と思ったわけです。

( =そうすると、たとえば米作りに必然的に伴ってしまう個人行為への権力的な制約を、どうすれば排除させることができるかが分かっていくということです。)
 
 
   そう、私にはもうそんな時間、ないの。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「自己満足」の歴史的意義

2012-07-21 20:58:34 | 断片
 こんばんは。
 前回記事、ちょっと当人向けに書いたので趣旨がよくわからなかったことと思われますが、追伸的解説にちょうどよく、本日は以下のニュースが。社会学実証家が認識する「自己満足」のデモも、現実の歴史の中でこんな役に立っていく、ということです。

 yahooによると
 『福島第1原発事故の収束作業を巡り、下請け会社の役員が作業員に対し、放射線の線量計を鉛のカバーで覆うよう指示していたことが分かった。労働安全衛生法の規則で上限が決まっている作業員の被ばく線量を少なく見せかけるための工作』(21日毎日新聞)

 朝日は朝刊1面トップ記事だったよ。
 だからさ、ただの商業新聞も、労働者の状況を伝えられるの。伝えようという気になるの。
ウケるからね。
 原発創成以降50年、原発内労働者被曝の状況を朝日が伝えたことなんかないし。って30年前までは私は毎日を読んでたけどね。
 今だって彼らが伝えてるのは「フクシマ」事故原発の特殊事情としてだけだしね。
 日々原発内で作業をしている下請け作業員、清掃作業員の被曝量のことなど、いまこの時代になっても、どんな左翼の記事にもでてこない。ま、赤旗は読んでないので、これは想像だけど、当たってるほうに3千円賭けるね。間違ってたら3千円カンパするよ。
(それにしても新聞記者たち、 「自分は知ってるんだ」 と思ってるから不思議さ。「政府は原発労働の実態から目をそむけている」 だとさ (朝日2面の囲み署名記事。ま、名前は書かんどきましょう)。思い上がりっていうか、ただのバカっていうか。それぞれ、「業界の事情」なんて新聞記者ごときに分かるもんじゃないよね、みなさん。) (ところで原発内研究技術者は「安全」なんだろうね。)

 ま、こんな記事でどれだけ原発が安全になるかは別として、悪口はいっても、これは前に進む一歩には違わないわけさ。
 そういう影響を作る「反原発」運動に、「大衆と違って」1歩も作れない社会学者が何をいおうが、独り言と一緒。
 そんなことで世の中をみたような気になるなんざ、トップ屋稼業(訳:新聞記者)と一緒さ。 カネ(取材費)を払うほうもバカだけどね。

 さて、無エネルギー諸国の資源として私の夢の 「安全な原発」 の創出問題はこのくらいに、話はぜんぜん変わり、民俗学。
 
 あ、ここまでは、断片カテゴリーにいれておきましょうか。以下、続く。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

反原発デモは自己満足か

2012-07-19 21:04:02 | 断片
 こんばんは。東京地方ここんとこ夏が押し寄せ、とくに今日の昼は照り照りの真夏
 とおもったら、帰る頃には涼しくなって。
 涼しきゃアタマも動くのさ。
 前回いいかげんだったので、同じ週に、も1回、いいかげん2つで足して1に。
 
 世間には、開沼 博という社会学者がいて、いまYahooを開けたら週プレNEWSとかいうページで真面目そうな議論をしている。
 「反原発デモなんて一時の花。もっと生産的な論議をしろ」、ということだけどね。
 社会学者はみんなまじめ。こんなのを読むと社会学者の9割は「そうだね」、と思うんでしょうね。
 そんな社会学者一般を、ぼくは一左翼の頃から好きです。

 が、彼らってそれしかいえないんだよね。
 それじゃクリスチャン (その他、宗教主義者一般) か政治学者だよ。

 社会学をやっているのに、実は結論はそれだから、考えることは「現象」面ばかり。
 「人がこうやってるが、人よ、それはちがうんじゃないか」
 50年来そればかり。
 そんなこといってて社会が変わると思ってんのかね。

 ま、そういうもんです。
 なぜか社会学実証家は、人々の不備を突いて、実は新たな不備を奨める。
 人がいいってことですね。 付き合って損はありませんよ。(もっとも社会学理論家とはつきあいたくありませんが)
 中島みゆきの「世情」ですね。
 『包帯のような嘘を見破ることで 学者は世間を見たような気になる』

 そんな諸君の笑っちゃう認識でも、みんないい人なので文句はつけたくないし、文句つけたって、なにも変わりはしない。社会学者に左翼になってもらう以外にはね。

 そんな社会学者の、ジョーカーな悲哀。
 
   
   彼らが知るべきなのは、『人は自分でよいと思ったことをするしかないんだ、それはお前と一緒だがな』
   というテーゼですね。
   ひとのいい社会学者の皆さんは、よく噛みしめてくださいませ。
   
   ついでに開沼という人は、いわく
   「原発ありきで成り立っている社会システムの“代替案”をいかに提示するか」。   
   ごたくはいいから、早く自分で提示したら。   
   社会学者は大方いい人ですが、そこまで考えようとしたい人は、50人に一人。
   ここで、まともな社会学者など、2%になっちまうんですね。
   それは社会学者のせいではなく、人間のせいですよね、あなたも会社の同僚を見て知ってるでしょ?

     私は、2011年の年頭の夢ブログ記事に書いたように、原発が安全になるのをいまだに夢見ておりますから、反原発デモは行きません。
     でも、世の中というのは、何も知らない人を交えて、動いていくものです。
     そして訳知りの人は、何も知らない人も、命を賭けられるように状況をセットしていかなければなりません。

        たって、彼らにはわかんねえよな、インテリのふりしてても。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧高野風ラムカレー

2012-07-15 21:10:17 | 断片
 こんばんは。お暑うございます。
 例によって、暑いのはまだ大したことはありませんが、蚊が。
 帰宅途中の地下ホームで、なんか黒いのがちらついてるけど黒カバンの糸くずかなんかだろうと思ったのが大間違いで、やっぱ手首を刺されました。腫れ腫れの蚊アレルギー。
 学習能力がないのは実は体力不足で悪いことは考えないようにしようと思っているに違いない、と分析しましたが、そんな分析ではどうしようもありませんな。なんせ、体力がないのは事実だから。
 やはり、気力で戦おうと思わないと蚊刺されは直りません。
 とはいえ、気力で戦うとストレスが昂じてもっと大きな病気になるという。

 要は、戦うには命と引きかえの人生上の満足がないといけない、という、いたって当たり前の話で。ま、蚊ごときの話ですが。
 (なのでいっそう男気ない話ですな。蚊、雌だし)

 てなわけで、世間の3連休も3連勤、しかも昨日が遅かったので、寝不足の私はなんとか今日をごまかして1週パスしようかという。

  あ、そのまえにコメントを加えていただく方は、(普通題がないのでスパムと間違えて)
  お答えが遅くなってしまいますが、なにとぞご容赦を。題つけてくれると助かります。


 で、役に立つブログ。
 ごまかしは食べ物で。てゆうか、やっぱここのお客さんて、普通の人が多いのかもね、という、ちょっと力をそぐ認識も。
 ま、それはおいて、とっておきの秘密の料理は、新宿高野風ラムカレー。
 お店ももうつぶれちゃったから何でも書ける、というのもありますが、高野で昔、「世界の料理」レストランをやってまして。貧乏学生、奮発した480円。値段まで覚えてたり(でも550円の気も)。この味を再現するのに30数年。

1 ラム(ないし日本ならマトンで十分)の塊を4センチ角に切る。
  ラムの塊はめったにありませんから、オーストラリア牛で結構。鶏・豚はクセがないので落ちます。
  これをヨーグルトにつけて1晩、または1時間。日本で流通する牛なら、大して変わりません。

2 これを摺ったショウガとからめて鍋でいためる。お好みでニンニクも。
  チューブショウガは薬臭いですぜ。
  あ、ネギないね。肉に焦げがついたら、タマネギみじん切り1/4くらい一緒に炒めてね。
  
3 それにひたひたの水状態で1時間45分煮る。
  初めにがばがば水と一緒にいれてアクを取ってしまって、あとはヒタヒタね。そのうち20分間(10+10分)は、ガス止めててだいじょぶ。余熱で煮えます。

4 肉が柔らかくなったらお好みの粉末調味料で味付けします。
  この1行大事。
  といっても粉末調味料なんてないでしょうから、それ相当分=即席カレーを一かけだけいれますね。
  決してそれ以上いれてはいけない。あくまで調味料の代替。
  とはいえそれでは味がないので、カレー粉赤缶、塩コショウ、その他ご自由に加える。
  できたら昨日の残りのヨーグルトも適宜加えたほうがよいね。結果は白・黄・ネズミ色ね。塩には注意。入れすぎは味、全部消えます。

5 さて、その間、キャベツを千切りにし、ちょっと食卓塩を振っておく。

6 これらを皿に盛り、ここにラム(マトン牛肉)を載せ、スープをキャベツを含めて掛け、
  さあ召し上がれ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

素粒子はなぜ消滅する?

2012-07-07 21:19:58 | その他

 こんばんは。う~ん、じめっとして、体調よくないですね。それでも仕事してると忘れるのは、梅雨のせい以外に、アタマが悪くなってきたせいに思われます。
 まあ、アタマなんて動きゃいいんだけど、ここんとこ、職場の若い人に無謀な動きをする人がいて。
 ったく。ちょっとは考えて行動してくれよ、、、、てえ感慨は、おじさんかね。
 なんてとこで思い出すのは「大きなそーらに梯子をかけて、真っ赤な太陽両手でつかも」。『これが青春だ』主題歌。岩谷時子作詞。
 『誇り一つを  胸にかかげて夢に飛び込む  これが若さだ  そうとも これが青春だ』
 
 無茶でもなんでも、若いって、そういうもんだったかと思えば、やはり、私の場合に限ってはそういうもんだったですね。ってゆうか、『あの頃』ってそんな時代。
 
 顧みるには、おめえおじさん化しすぎてないか、といえば、そんな気もします。
 人のケナシ言葉に乗るのは楽でもあるよね。
 「どうせ、中高年だし」「どうせ小市民だし」
 そういうのを認めちゃうことは、方や、自分の足場を固めることではあるんだけどね、一方、、、偉ぶれないところもあるさ。 とはいえあたしゃ偉ぶってないしね。
 
 ま、そんな反省、とその結果、はさておき、本題。

 ヒッグス粒子「発見」の科学的意義は何か。
 (ちょっと、理系のブルーバックス的素養が必要か?)

 「粒子崩壊 (英: Particle decay) は、一つの素粒子が他の素粒子に変換する自発的過程 である。この過程の間、素粒子はより質量の小さい粒子とミュー粒子崩壊におけるWボソンのような媒介粒子へ変化する。」
 おなじみウィキペディア。ウィキペディアも人文科学系ではいいかげんだけど、これもいいかげんぽくはあります。でも、他のサイトをみても大なり小なり。要するに「素粒子はより小さい素粒子へ崩壊する」。
 だけどさ、そんな「素」粒子なんて日本語じゃないだろ。英語なら許されんのかね。「素」粒子じゃなくてただの「粒子」だあね。
 まあいいよ、物質の構成素粒子なら。「言い方が悪かった」、で許してあげよう。ほんとは、いろんな素粒子が変質して別の素粒子になる、といいたいんだよね。なんになるのかとても不明だけれど (たとえばミューニュートリノは、変質後、なんになるんだね?)。
  
 ところで、今回のノーベル賞級といわれるニュース(7月4日)は、重力素(質量素)であるヒッグス粒子だよ。
 「発生したヒッグス粒子が崩壊する様子を観測することでその存在を確認した」
 (Jcastニュース)
   へっ。重力、崩壊してどこいっちゃうんだね。
 
 
 というわけで、「そういや変だね」と思われた方への「ためになるブログ」。
 ここんとこ、酔っ払い記事(『断片』カテゴリー)ばかりだったし。
 
 さてそれは、粒子現象とは、すべてがエネルギー「状態」を表現しただけだからです。
 素粒子なんてものはない。

 「ない」ったって、実験で確かめてるじゃないか、って?
 加速器が作り出すものは、単にエネルギーの「不均衡状態」に過ぎない。
 不均衡が均衡化されれば、海の波に消える泡のように元通りとなる。

 いいんですよ、私が間違っていても。
 私は、物理の通信簿は10点中、3か4。(ある学期だけ7があった気がするが、夢か。点は悪くても高校3年間やった気がする)
 ただし、科学理論・論というのは人文科学だからね。数式でとけるもんじゃないのよ。

 その証拠に、数学の得意な物理学者さんは、ヒッグス素粒子がなにに「崩壊」してしまったのか、説明してくださいな。できゃしないから。

 素粒子のふるまいの原則が分かっているこの時代、素粒子論の中での「素粒子の発見」の位置なんて、既に何の意味もない。それは数式の検算にすぎないんだよ。わかってんだろうけどね、実験物理学者。そんなもん、なにも人間知に貢献しない。
  (宇宙の、だから、同じく私のこの指の下のキーボード的プラスチックの奥底の) エネルギーの動きを、どう過不足なく表現するか、が、とりあえず人間にできる手近な物理学的「自然科学」であるにすぎない。
  
 もっとも、人間、見せるとわかった気になる、という、普遍的な興業精神があるから、いくらでも資金を使ってもいいんだあよね。
 それだけのこと。これから100年経っても物理学は進歩しないと思う私。
    自然科学的「隈」はでるかしらね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日のP.S.

2012-07-02 20:58:15 | 断片
どうも。追伸です。

 昨日は「あはは」で収束してしまって、これは自嘲に近い「あはは」なのですが、それにしても前からの人に、あれなんか理屈が変だぞ、と思われてもなんなんで。
 
 隈の図式は変わらず。
 
 1 階級社会化した人間社会では
 
 2 支配者の武力権力と
 
 3 (日本でも一部農・漁・山村に残っている)共同体権力と
 
 4 が、消費物の入手過程体系(=下部構造)に動かされながら
 
   システムを作っている。
   
 5 これを変えるのは、基礎的には消費物資の入手構造だが
 
 6 そのシステムが人間の行動に影響してくるには、具体的な制度を通す必要があり、その制度を変えるのが、人間の賞賛様式であり、人間の優越的自由の様式なのだ。
 
 7 そしてそれを媒介するのが、人間が持つ事実の認知という能力であり、これを現実化するのが運動なのだ。
 
 図式はこれだけ。
 
 という図式のうち、日常行動に関係するのは「6」と「7」なのでこれを普通の人に説明する方式はないか、、、、
 あ、これならどうだ、
 
 というのが昨日のブログの筋道。
 
 はい、とても残念なことに失敗。
 
    かなしい。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「やりたいことをやれるようになった」

2012-07-01 20:46:19 | 断片
 こんばんは。いかがお過ごしですか?
 7月なのに東京地方、今年は過ごしやすくて私は助かります。
 個人仕事も予定通りの進行で、とはいえ、諸般の事情により、多少落ち着かず。昨日は休みでしたが20年前のエアコンの買い換えのため朝からネットで付け焼刃の選定作業。まだエアコンは動くんですが、電気代が高くって。
 他方、個人仕事の予定は6月までしか立ててないので、(時間貴族だね。優雅だなあ、、、)ここは腰を落ち着けて考慮時間を取りたい(私の趣味の将棋用語です)ところですが。

 このブログも見返すと、ド早口で、お客さんもついてこれないよね。
 まあそれは40年来気をつけても変わらないし、アタマも昂揚してる時でないと書く気にならないし、、、(そのためド早口になるということです、と注釈)

 てなわけで、書きように反省していることもあり、ブログ作成には現在落ち着きすぎのため、次の一歩が出ませんが。(で、上記はすごく意識して分かりやすく書きました、はずで。かえって長々しくて、読みづらいんじゃないかと)

 さて、今日は、「時代が動いて、やりたいことをやれるようになった」ということについて書こうかと。
 副題 「丁寧に書くと」 で。

 昔やれなかったことで、今はやれるようになったことってたくさんあるんですよね。
 女がジーパンを穿けるとか、男が口紅をつけられるとか。もちろん、都会では職業差別が、一部右翼と貴族を除いては、見られなくなったとか。
 それは、どういうことか、という。

 「やりたいことをやれる」、ということでは、人が「やりたい」ようになった動因はどうでもいいですね。
 なぜか昔から女の中にもジーパンやらふんどしやらをつけたい人はいただろうし、男の中には口紅をつけたりピアスをつけたい人はいただろう。いたんだけど誰もしなかった、あるいは「したい」という気持ちに即して表現すれば「できなかった」。
 というわけで問題は、後半の 「ことをやれる」 ようになった、点です。
 
 この「ことをやれる」ようになったのはなんでしょうか?
 それまで「やれなっかった」 わけですから、その「やらせない」外界の力が、
 1 弱くなった
 2 それを圧倒する別の力ができた
 という2択ですね。
 
 翻訳すると
 1 「やれなかった」原因=諸権力が弱くなった
 2 それより強い力ができた。=支配権力に対抗する【対抗権力】が存在した
 の2択です。
 
 ところでこの「1」の「弱くなった」理由は、なぜでしょう?
 権力は、もっていれば都合がいいのだから、弱くなる必要はない。
 「1」の場合、弱く「ならされて」しまった、訳です。
 これを言い換えると、り「1」であれ「2」であれ、「対抗権力の存在によって、支配権力が弱化した」、と表現できます。
 
 いや、権力は自分で弱くなったんだ、という言い方もありそうですが、現実にはそうではない。
 現実には、権力は常に、自由の風にさらされている。
 この風がないなら自然風化説もありえますが、この風がある限り、この風を吹かせつづける人間たちがいるかぎり、自然風化説などなんの実効性も持たない。
 
 おわかりでしょうか。
 われわれは40年前と比べて、「やりたいことがやれるようになった」んです。
 それは、左翼たちではなく、普通の私たちが、常に自由をめざして生きてきたからです。
   (もちろん、私たちが頑張れた根拠というものがありますけどね。それを下部構造といいます)
 

 というわけで、しかし、この過程は、革新の過程ですよね。
 そうでない保守権力者側は、直接はその恩恵をこうむることができない。
 権力者は自分の権力の、そんな権力は実は自分たちには「ないかもしれない」という不安の中で、妥協を重ねつづける。
 かくてオスプレイが日本人民を殺すのは時間の問題だ。 恥というものを知れ。
   と思いますでしょう?
   (オスプレイには、操縦上の欠陥がある。これを知りながらアメリカは日本に押し付けるし、こかっ権力者はそれを知りながら、有効な反論を組み立てられず、自己無内に拝眉しようとする。かくて事故は必ず起こる。という意味です。ま、事故なんて確率の結果だから起こんないかも知んないけどね、そういうのは世の中では「幸運」といいますね)


   あはは、やっぱわかんねえや。丁寧に書くなって無理、ということで、悪しからずご了解ください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする