リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

まだいらついてるかもね

2018-06-16 11:30:02 | 断片
 こんにちは。梅雨が来ましたね。先日はマンションの外廊下を通ったら物陰からハクセキレイが飛び立っていきました。雨宿りしてたんでしょうね、鳥も雨はいやでしょう。
 とはいえ、近くの紫陽花は、はや無残な様子を。梅雨寒とはいえ明日アジサイ祭りのところはもうムリだろうねえ。
 
 ここんとこの疲れで白髪が倍くらい増えてしまいました。黒毛が多いのが少し自慢だったのに。新聞にあった本の広告で見ると、藤田紘一郎によれば、糖質制限すると髪の毛が増えて、ハゲが直るそうです。腸内細菌の活動に影響して活性酸素が押さえられるんだそうな。ハゲはどうでもいいが、白髪も治るのかね。
 
 疲れるとほんと何もやる気がしないのですが、問題は、疲れてるかどうか本人には分からない、という点。別に筋肉は痛くないからただのやる気のなさとも思うし。
 でも、ヒマはあるので1.5時間も寝るとあら不思議、やる気がでるんだから。勤め人にはできないけれど、労働者の方は疲れがたまらないようご注意ください。
 
 さてニュース。「大槌町は13日、解体か保存かを巡って揺れる同町新町の旧役場庁舎の内部を報道陣に公開した。町は18日ごろ解体に着手する方針」(岩手日報)
 解体だってさ。ほんとバカじゃないかと思うね。「行政が町で一番責任がある」とかいう表向きの言い訳で、一時の感傷や感情を超えて残しておけば、百年後まで語り続けられるのに。、、、って、あ、それがいやなんだね、田舎の顔役の集団としては。古い社会学の基本、にっぽん部落じゃ自分の村を貶める行為は絶対のタブーなのね。きだみのるの「にっぽん部落」に書いてある。トランプと一緒。普遍的価値なんか理解不能の田舎の人びと。田舎を馬鹿にしてる? ならいくらでも都会をばかにすりゃいい。お互い様。なんでそんなことできないのかねえ。まあこの辺で抑えておきましょう。

 憎まれ口の次は普通にトランプとブタ。米朝会談だってさ。テレビを見てから先月までの50余年は米朝といえば桂米朝だと反応してきました。一昨日だかの朝日の夕刊コラムでも引っ掛けてたけど、どれだけの人が気づいたかねえ。
 ま、ともかく、庶民の人びとは会談が無内容だとお気に召さないもよう。ケツの穴の小さいこと。いいじゃん、経済重視に転換するというんだから。北朝鮮人民も米飯と肉のスープが食えるかもしれないよ。生理的条件は自由の基本。まずはトウモロコシと、火の通った家畜の肉を。生のネズミやトカゲじゃなくてね。ハラがくちれば自分の欲しい物を一人占めしている奴らの存在を変えたくなるもの。
 それには他国の生産力技術と他国の労働力が必要。すなわち外資が必要。
 かくて市場経済化し、欲望が拡大、資本主義思想が蔓延する。
 世間でいう国家資本主義ですな。
 まあ、なんと呼ぼうと生産力が拡大しなければ話は一歩も進まない。
 これも昔からいわれるように、しばらくは経済を北朝鮮国家が差配するから民主的にもなりようはないが、まずは米食と肉のスープ。それが歴史の「進歩」というものです。
 それで拉致問題もやっと取引材料ができるってもんです。
 
 他人の悪口が復活の証拠か。
 さて、本日のささやかな学問的寄与。商機と理論展開の一致点。
 逆転の発想、「ピンチこそがビジネスチャンス」ってやつね。私は営業企画部門のことは知りませんが、理論展開も一緒。借り物でいいから自分の理論を持って現実を見たときに、あれ? なんで? 何か変、と思う。それその時点が儲けもの。それこそが、他の研究者がやっていないパイオニアポイント。絶対頭から外さないように。いつもいつもそのことを、考える必要はありませんが、頭に留めておく、そうすると人間の頭は正しい事象を無意識のうちにこれと連結してくれるものです。もっともできるかどうかは自分の頭しだいですが。ダメなら本を見ないで自分の頭の中で持ち歩ける基礎知識が足りないんですね。もっと勉強しましょう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

オカルト(その5)

2018-06-09 20:43:38 | その他
 こんばんは。本日の季節のご挨拶ではアオズムカデ。ベランダに出した植木鉢経由かで部屋ん中を駆けずり回り、なかなか大変。刺しますから(噛みますから)お気をつけて。ハチ毒とのこと、刺されたら、お医者さんにね。
 で、今回の役に立つブログ。ムカデは上質コーティングに弱い。大手スーパーのチラシの上に乗っかると、百本の足も滑って動けません。そこで、外に放り投げる。一件落着。

 で、役に立たない世間話。靴下、タイ製靴下最悪だぜ。靴下は中国だね。シャツも中国。値段相応。
 値段が高きゃあいいってもんでもなく、グンゼがひどくて結局戻ったBVD、盛大にほつれてるぜ、あんた。まあ、しょうがないね、あきらめてるぜ、BVD。昔はよかった。
 
 というわけで、申し訳ありませんがとても忙しい。50歳代ですと平行して1.8は処理できたことももう1.2しかだめですので2倍忙しく、まあ退職後ちんたら暮らしてたむくいといいましょうか。(もちろん30代なら課題3つ、余裕だったぜ。それっていつ? って話ですが)

 さて、とりいそぎ本日の話題はオカルト。お気づきの方はゼロでしょうが、当ブログ、オカルト話題も最近は「ごみため(断片)」ではなく「その他カテゴリー」で、一人前となりました。それなりの自信もございますぜ。
 で、本日。
 本来、生物にとって、常態ならざるときが苦痛の時である。常態、すなわち食うものを食って、その身体構造に適正な気候の時に生きていくこと。生物にとって、その時期は楽天である。まあ蝶々や蝉の普通の姿ですな。
 それは、人間が自由を目指すのと同様である。人間は生態的に他人に指図されるいわれはない。そこがイヌとの違いですね。 
 さてそこで、真正の自由主義者の思いと同様に、生物とは、その常態が目指すべき事態である。普通に生きているのが一番いい。「動物なんか天敵に捕って食われるのが普通じゃないか」などと知った風なことをぬかす(客観主義的)プチブルやマックス・ウェーバーのことは無視したいと思います。お前らいいから炭坑で3年働いてからしゃべれよ。生きてれば、だが。
 さてしかして、人間はあれこれと忙しいけれども、「今現在」でなければその先に、死後ないし、生の究極である、そこにおいて本来、生が目指す究極の地点が想定される。それはエネルギーの均衡地点である一方、生命にとっても究極の安住の地である。だってそれが普通なんだもん。「普通な事態」はいつかある。ところでそれはたとえば「人間」にとって「常態」であり、それこそが人間が求める安定状態である。それがいつかは別として、生命もいつかは常態を入手する。
 どうですか、正しいアナロジーでしょう?
 わかんない? 「死ぬのもいいことじゃないのかしら」と言っています。(=それが常態なのだから、人間、それが最適であるようにできている)
 自分で言うのも素晴らしい。私も預言者になればよかった。
 もちろん今からでもなれるのだけれども、幸いなことに、もっと同志のほうが大切、というわけです。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

(お知らせ)

2018-06-02 23:19:51 | その他
 こんばんは。今週は身内の事情により、アップを休ませていただきます。あしからずご了承ください。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

路線復旧

2018-05-26 17:29:42 | 断片
 こんにちは。1ヶ月ほど線路に土砂が流れていましたが除(ど)けまして、今はいつの間にかアジサイの季節。まだ少し早いですが。近くで見るなら早いほうが綺麗です。向いの森で何十匹も飛んでいた、去年スジグロシロチョウと誤認したキアシドクガがぱったり消えてしまいました。みなさん順調に産卵に入ったらいいですね。食料のミズキの木には迷惑ですが。

 この間(かん)、世の中には大人になって大して不幸にもなってないのに自分の子供時代が好きな人が存在するのだということが分かりました。驚異です。私などは15歳までの記憶が消えたらラッキー、とても暮らしやすいと思います。今までで最高額の個人用の買い物は昔のパソコン、PC-286(中古)とモニターその他一式で18万円と思いますが、記憶消去代で18万円払ってもいいと思われます。ほとんど全てが悪い思い出。いらない。そしたら夜の夢も良い夢ばかりとなるでしょう。、、、自分のことながら可哀そうかも。
 
 さて、せっかく復旧したところ、たいしたニュースも目に入らない。委員会可決という働き方法案の中身はは結局何が残っているんだろう。なにしろこの1ヶ月ですごいボケた。頭の空回りに慣れてしまったんだね。じゃあ戻れないじゃん。高プロというのは残ってそうだけど、平均労働者収入の3倍以上が対象というのを見ると、いまいち乗らないよね。もちろん壁にはそうやって穴をあけるものです。対象は分断反目させるのね。なんで3倍が1000万円になるのか不明だけれど、まあいろんな統計があるものさ。大人はみんな知ってる壁の穴のあけ方。もう5時過ぎたのでこの辺で本日の「若人のため」にしておきましょう。

 ところで今日道端にウマオイがいましたが、ウマオイの名前の理由は「鳴き声が、馬子が馬を追う声のように聞こえることから」とかいうのがネットコピペになっております。ウソをつけ。根拠を出してみろよ。皆様、こんどウマオイとお会いになったらしげしげと眺めてください。どう見たって本人「馬」だぜ。茶色いたてがみの馬顔の昆虫であります。「おい」は不明だけどね。馬青いとか。きれいな緑色です。
 
p.s.「壁に穴」では分からないか。「堤防に穴」だね。われわれ(戦中)戦後世代には「道徳」という科目があって、その教科書にオランダ国家の堤防の穴に腕を突っ込んでオランダ全土を守って、生きた、子供の話が載っていたものです。ハンス・ブリンカー君。もっとも小説だそうで。それはどうでも道徳教科の悪口が多いですが、道徳を習うと右翼になるというものではありません。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

一件

2018-05-19 20:45:14 | 断片
 こんばんは。

 簡潔ブログも極限に近く。ウツ病ではありませんがもう誰とも話したくない。「もう」は程度を指しまして時間経過ではありません。いいたいことといえば日大アメフトのクズ監督。全部自分のせいにしていいから殺せといった男が、世間にばれたと知らされるまでほっかむりした、というのはなんですか。そんなクズな男が存在していいのでしょうか。そういわれて不満な女は自分がそう生きて見せたらよい。ともかく「もう」誰とも話したくない。

 誰とも話をしたくなくとも世の中よくできたもので、今日は、真っ白なチョウが2回ほどしばらく手に止まってくれました。口吻で何かを吸おうとするのですが、当たり前ですが皮膚に撥ね返されて吸えず、実に恐縮。あれじゃ樹液は吸えないですね、蝶の種類があるのでしょうか。
 と思えば変わった蝶で、表が真っ黒(?)。羽を畳んだとこは(立ってるところは)真っ白なのですが、裏に真っ黒な輪郭が見え。イメージ的にはシロセキレイのコントラストで。
 可愛い蝶々でした。

 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

視えるものの差

2018-05-12 10:01:48 | コーヒーブレイク
 こんにちは。寒かったり暑かったり。
 さて本日の簡潔ブログ、写真撮影論。
 心調の調整のため、白黒写真の撮れそうなデジカメのカタログ等を眺めていて気づきました。(この前も言いましたが、富士フィルムがモノクロフィルムの生産をやめたそうで。で、デジカメのカラーを無彩色にするだけだと白黒はだめなんだそうで。)私は白黒写真は嫌いのようです。
 若い頃は印画紙プリントをしてましたので、そこそこ愛着のある自分の作品もあるのですが、それは単なる偶然。そんなものは撮りたくない、あるいは撮りたくなかった。そんな画面には今は過去の懐かしい淋しさしかない。方や、非作品的な昔のカラースナップの自分にとっての意義といったら。これは生涯級の傑作ばかり。生涯ってもういくらもない自分の一生ですが。
 結局わたしは写真家ではないのね。当たり前だけど。違うんだから。
 何が違う、って、撮りたい発想が違うんだね。自分の表現など、写真でしたくないし。
 と、これは図書館にあった山本まりこというカメラマンの本。やたらハイキーにして色温度上げて、で写真を作ってるのをしげしげと見て(そこそこ心地良い)、あ、これは私はしないぞ、と思って。わたしはそんな世界に生きた覚えはないし。
 
 結局わたしはこの世界が好きで、ぼーっと安楽に浸っていたいだけ。その中でずっと浸りたいものがあったら写真を撮る。これは写真家諸氏とは完璧に違う立ち位置というものでしょう。良い写真家は必ずテーマがあるものね、花でも虫でも鉄道でも戦争でもまあいろいろ。しかしわたしは、自分の風景から離れた花や虫や鉄道や戦争やその他いろいろには興味がない。
 と思うとカメラもピントが合ってカラーで写ればなんでもいい(いまどきは安いものほどピントが合う)、というわけだけど、まあこれには使い勝手というものもあるね。
 
 というわけで、役に立つブログ。若き穏やかな芸術愛好家の読者諸賢にあっては、べつに自分が芸術家になる必要はないと述べました。私の好きな熊谷守一、30年間自分の家の庭だけ見ていた、という、芸術家というのはああいう志向を持った人間だね。
 以上、本日も早々に店じまい。本日のテーマは、マイフェイボリットシング、「生き物のいる風景」でした。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

アイデンティティと行為共同性概念

2018-05-05 09:40:20 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。皆様におかれましてはゴールデンウィークいかがお過ごしですか?
 今頃私が好きなのは岩礁海岸、大潮の引いた時期は面白いですよ。関東地方でしたら逗子から剣崎あたりまで。逗子なんて俗な、と思ったら大間違い。鎌倉方向の岩場は海洋生物の宝庫。もっとも連休も盛りなので、ウニは取られて少ないかも。今日、明日の午後2時近辺がよいはずですが。土日勤務の方は、15、16日辺りの午前11時近辺のほうがもっとよいです。以上、ためになるブログでした。
 わたしはひろうのため青空にチョウチョでも見てるのがよいです。このところ雑草の花も綺麗なものが多いです。
 
 さて、南北会談は世界的になってしまいましたね。ブタ野郎も人気取りのつもりだったかもしれないですが、すでに「運動」状況となりましたのでこのまま流れに逆らえず、命取りになることでしょう。北朝鮮人民解放も近い。
 
 その他ニュースもないな、と探して例の旧「新左翼」諸派サイト。なにいってんだよとなんとも異和感の漂う元は、安倍政権を倒せ、だの、安倍がどうとかいうスローガン。ずっとやってんだけどさ。こんなの昔は旧左翼の発言しかなかったのにねえ。何がしたいのかさっぱりわからない。安倍を倒してどうするんだね。自分たちにもわからないんだろうと思いはするが。安倍を倒して革命でもするのかね。うんそう、とかやめてほしいな。余りにも遥かな隔たり。議会進出をするというならわかるけどね。
 
 さて本日も疲れるので、ざっと理屈を。
 明るいラテンアメリカ開発論では少ないですが、アフリカ問題だと、よく「人々の間に確固たるアイデンティティを持たせることが必要だ」とかいうんですな。
 なんだよ、アイデンティティって、といちおう注のために現行の使用法を調べてみると上野千鶴子を筆頭に「もう使うのやめようぜ」、とか書いてある。どうやら現行アイデンティティ論議の体制性にやっと気づいたみたい。まあ上野はバカじゃないからいつ言おうかと思ってただけだろうけど。というわけで、問題は一般論ではなく、アフリカ問題でのアイデンティティ。
 要は、被支配地域の漠たる人民に国家の一員としての自覚があれば、開発国家政府はすごく楽だ、ということを第1義的要因として、それも変じゃないか、という良心派の意見でモディファイされたスローガンのことです。イデオロギーね。
 なんでイデオロギーかといえば、彼らは意識を問題にしているから。ところで意識を問題とする前提とは、第1に意識は変えうる、そして第2に意識を変えるのは各種働きかけだ、という「思い込み」、あるいは「思い込みのフリ」。かくて国家主義的評論と行政施策はこれを支持するものとして正当化される。 というわけです。
 
 ところがあにはからんや、人間は意識では行為せず、さらに評論で意識は変わらない。
 人間が行為するのは意識たるアイデンティティによるのではなく、事実認知たる行為共同性によるのです。人は事実認知に基づいて行為するしかない。しかもかつ、その行為には、評論の教えではなく、行為の動因たる(身体的条件の確保後の)賞賛と優越を含んでいなければならないが、行為共同性にはそれが含まれている、という関係があるわけです。
 自称社会科学者諸氏の理論欠如が分かっていただけましたでしょうか?
 じゃあ、具体的にどうしろっていうんだよ、なんていう問いは出ないでしょうから無視。そんな問いが出るようなら私の本は「もっと」売れてますしね。無視無視。
 それでは気遣いホルモンを最少化するため本日は終了。
 気遣いと気違いは似てますね。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

「場所的立場」雑記

2018-04-28 21:45:24 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。暖かく、あるいは暑く、なってきました。姉によると函館の裏山はニリンソウとかなんやらのお花畑だそうです。

 世間じゃわけのわからぬセレモニー(こういう言い方は日が経つと分からない。南北会談のこと)。私は人殺しの言うことなど爪の先ほども信じないので論評もありません。
 個人的にはここんとこ、ほんとよいことなし。こころ的にいっぱいいっぱいのため、ささいな話に乗る気もなく。
 
 というわけで本日は、オタクの極地、哲学論議です。しかも気遣いいっぱいいっぱいのため、少し雑然と放記。
 哲学なんてくだらない? いやまったくそのとおり。だいたい哲学的真実なんてものはそれ自体意味を持ちません。「われとはなんぞや」。知ったっておなかもふくれない。ただし、哲学的真実と言うものは、(間違った)イデオロギーに対する試金石にはなるのです。
 それが哲学上の主客二元論に対する西田哲学であり、道徳諸教義・前衛諸教義に対する実存主義の「選択論」です。前者は存在の形態として、後者は行為の必然的形態として、それぞれ『俺こそは真理』と喚きたてる宗教者の類いの、「国家主義や構造機能主義」あるいは「人間は人間であることによりこれをなさねばならない」といったイデオロギーを真実の名において否定します。
 もっとも西田哲学に哲学的真実があるということは、彼の「主体の存在形態の認識」のことのみを指すのであって、それにまつわる西田幾多郎の山と積まれた独り言を指すわけではありません。すなわち、「この哲学流派を自分(西田)の考えに取り入れるとどうだ」あるいは「自分の考えの基準からすればどうだ」、といった派生的な、彼の言説の95%を占める評論のことを指すわけではありません。といえばほとんど全否定に近い。しかしその帝国大学教授的営為によって弟子の哲学伝道師を何人も育てたのだから、それは私がとやかくいうことではない。私は大日本帝国の税金は払ってないからね。
 まあ本人も「自分は誰にも全然分かってもらっていない」といっていたそうですが、私だけは分かってあげてると思うのですが。
 
 ともかく、独創的な人間とは基本そういうものです。原理は一つ。わたしのように数個の原理を持っていてもよいが、要するに1セット。1セットの原理をどう表現していくか、ということです。それで一生は終わってしまう、それは時間の問題ではなく、1セットを1つしかない環境に当てはめた結果は、一セットの事実認識でできた頭脳しか生産できない、ということです。
 その割りになんでも知ってる私ですが。

 さて、「なんだつまらぬ哲学論議を」というところですが、ここまでの水面下の主題は「場所」問題です。西田の場所概念は正しいと述べたところ。ただ、そんなことをいってもしょうがない。しかししょうがあるのが生活者の場所観念です。以下は、生活者の「場所」観念についてです。ラテンアメリカ人と私は、理論活動の目的が異なる。当たり前か? どこが当たり前なのか? という点です。

 ここで、哲学的真実とイデオロギーとの間にあるのが社会科学的真理、すなわち行為の原理と原則です。哲学的真実とはなんら「理」ではない。ただの「本当のこと」に過ぎない。真理とは、論理が指し示す、生きている全員に当てはまる言説でなければならず、いかに反論できない真実であっても、個人の思い込みであってはならない。行為原則等は隈の社会学原理ではありますがが、これを承知していない人間も、経験的に行動原理を語ることができます。これが人生上の真理です。
 
 ここで場所的立場とは、西田哲学的には存在論だか認識論だかの問題でしょうが、世間的にはそうではありません。たとえば黒田寛一です。彼の如き論、それは彼に限らずヘーゲル哲学を信奉し続けてきた何百万の学生(研究者)諸氏を含めてのことですが、実際に現実に生きている人々が受け入れる問題は、存在論でも認識論でもありません。「私はここでこう生きているが、場所的に生きるというのはこのことをいっているのか?」です。
 西田の場所の問題はそういうものではない。「人は、真空の中には決していない。じゃあどこにいるのか、それは君の身体外の全体である」これが場所なのです。私は西田などまともに読んではいませんが、それにしてもそうなのです。それ以外に、真理にかかわる「場所」問題はないから、西田がバカでない限りはそうなのです。 
 生活者にそんなことは問題ではない。もちろん黒田の根拠も哲学的真実から派生しているのでしょうが、その言説が意味を持つイデオロギー世間、あるいは生徒にカネを貰って生きるアカデミー世間というものは、論理は「根拠」の拡大解釈でようやく存在しうるのです。 
 ではなんの問題か。世間で「場所的問題」と認識するものは、自己の色がべっとりとついて、自分が意味付与をし続けている「場所」、そうした限定的な場所なのです。運動者たる黒田派の諸君が思うのもそうではないか? 
 もう一度言っておきましょう。本来の「場所」とはそうではない。人が今まで感知していない、と認識する世界を含めて場所なのです。たとえば、2年後、友人との思い出話で「え! そうだったのか!」と思い至る世界、それが場所なのです。が、実際上、そんなものは西田エピゴーネンや黒田エピゴーネンには関知しない世界でしょうし、黒田本人に至っては、自分でも「そんなこたあねえ」と思いたがっていることでしょう。
 
 というわけで、そろそろ結論です。
 生活者にとって、あるいは倫理学にとって、あるいは人間にとって、問題なのは、存在論でも認識論でもない。場所的問題とは賞賛の範囲のことでなのです。
 それが人間の生活上独自に意義を持つのは、「その範囲は自分で変えられる」という点なのです。黒田派は自分の組織内についてその範囲を確定できる。同じプロレタリアートのためだからといって、決して敵対党派と同一の場所的立場に立ちはしない。「あいつらがどういおうと関係ない。俺らは俺らの場所的立場で闘うのだ。」そういうでしょう。
 問題は、賞賛の範囲なのです。
 ラテンアメリカ人民と、日本プロレタリアートは、場所的立場が異なる。当然か? 当然ではありません。存在論的に、あるいは認識論的には「同じ場所」なのです。
 しかし、生活者としては異なる。現実にラテンアメリカ人と日本人が同じテーマで闘うなどありうるだろうか? いやありえない。まあ反核問題や反米闘争のようなでかすぎるテーマは別として。しかし、もう一度言いますが、ラテンアメリカ人と日本人は、存在論的に、あるいは認識論的には「同じ場所」なのです。
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

世界資本主義と後進国家(その2)

2018-04-21 17:16:24 | 歴史への視角
 こんにちは。東京地方、すっかり新緑。花粉恐怖症で2、3週間近づかなかった裏山に行きましたら、もうタンポポも綿毛になっておりました。明日お休みの方は暑いですが新緑狩りはお奨めです。すぐ深緑になってしまいますし。

 さて、このごろは週刊誌ニュースが面白すぎる。委託業者ががんばっているということでしょうが。新聞記者はなにをやっているんだろう。人手不足なのか人材不足なのか。どうもニュースがないわけではないようで、赤旗を見たら 
「 衆院農林水産委員会は17日、森林の経営管理権を所有者から市町村に集積する森林 経営管理法案を日本共産党以外の賛成多数で可決しました。共産党の田村貴昭議員は質疑で、森林の健全育成に逆行すると批判しました。」(赤旗)だそうです。
 しかし、共産党も意味不明。ジャマな土地所有権を制限する(いいから取り上げちまえ)のは当然のように思われますが。自民党が反対なら理屈だけど。
 ま、自民党が賛成が変なのも理屈なだけで、本当は賛成も当然というもの。資本主義者の主義なんて「所有権の不可侵」じゃなくて、いかに都合よく儲かるか、だから。
 この問題の全国民的ポイントは、『明日金にならなければ委託業者はつかない』という点にあると思うのだがいかが? これでは地元山林有力者が市町村にねじこんで金儲けで山はめちゃくちゃ。共産党とか山持ち選挙票向けのわけわかんないこと言ってないで、シンプルに言って欲しいもんだ。

 新聞的には、朝日のコラム天声人語が交代して心配してましたが、「明日なき世界」高石友也のことが書いてありまして安心しました。そういう感性なら大丈夫でしょう。懐かしいね、50年ぶりだぜ。といっても今(?)はRCサクセションのそれのもよう。
 残念ながらネットで「明日なき世界」を引くと、訳わかんない「批評」も出てるけどね。

 そういえば、「防衛省統合幕僚監部の3等空佐が民進党の小西洋之参院議員に対して「おまえは国民の敵だ」などと暴言を浴びせました。」(赤旗)なんていう状況で「演説中の共産市議に暴行か 学生逮捕」ということも起きてますぜ。誰でも言うことは書かない方針ですが、大事だから注意を喚起しておきましょうね。だから軍隊に存在権なんて与えちゃいけないのです、現実が分かったかね、「憲法改正は論理上当然、自分は正しい」諸君。

 さて本日褒めるのはA.G.フランク「世界資本主義とラテンアメリカ」。ご存知であればよいが、従属理論。
 自分でモノを考えたこともない子供たちが、”フランク理論は歴史の進展で「まったく説得力を持たなくなる」(フォンセカ・アッシャーのHP)” などといってみたりしているが、優れた研究というものは乗り越えられるべきものであって、流行の行方で終わるものではない。
 で、何が優れている、って、
「1 世界システムとしての資本主義は生来的に独占性を有しており,周辺従属衛星地域の〈経済余剰の収奪・領有〉によってシステムの中枢部に発展をもたらし,同時に周辺部に低開発をもたらした。
2 このような〈中枢―衛星分極化〉は,あたかも星座の連鎖体系のように国際面ならびに国内面に浸透しており,その結果ラテン・アメリカの辺境の農村までもが世界システムに包摂され収奪される。
3 このような〈低開発の発展 development of underdevelopment〉関係=構造は,商業資本主義,産業資本主義,帝国主義という資本主義の発展段階上の〈変化〉にもかかわらず一貫して〈連続〉している。」(以上、「独学ノート」様コピペ)
 (これはフランクの『世界資本主義と低開発』からのもよう。こっちのほうがコピペに向いているようです)
 さて、これはアミンやウォーラーステインより何倍もまし。なぜかというと実証志向だから。もちろん彼は何も実証はしていないけれど、空語ではないもの。ただ惜しむらくは、「国家」をそのまま実体的に捉えてしまったところ。マルキストだからしょうがないけどね。せっかく「国内的にも中枢と衛星がある」なんてとらえられるんだから、そこで一気に国家をばらさないといけなかったし、もしもばらせば彼には真実が把握できたというわけだ。資本主義は、グローバルなのだ。決してインタナショナルではない。だから「世界資本主義」なのに。 
 といっても前回もいったように、国家間にあって事態を決定する「勝利」は、資本主義ではなく、「国家」支配者の事情である。すなわち支配者の生理性と賞賛・優越である。ここが複雑。
 支配者が圧倒的な国外商品に目がくらみ、かつ国内の産業育成に賞賛と優越を確保できないのであれば、その地域はまっしぐらに国外資本が欲する一次産品の生産に向かう。当たり前です。国内はそのために適合するように再編される。当たり前です。
 支配者は、自己のために労働力が使われればそれでよいのであって、その労働力が何を生産するかは興味がない。たまたま一次産品がなければ、輸出商品を生産する工業を後押しするであろう。農業的土地所有者も、その国家支配が一円的で自己もその国家のうちに含まれている場合にあっては、馬鹿でない限り自己を守るものが国家であることを知っているのであって、自分の腹が痛まない限りにおいて、自分の土地の農業の発展ではなく、国家のトータルな発展を支援する。当たり前です。世の中と言うものは当たり前にできている。というか、『別に社会科学の訓練を受けたわけでもない人々が現実を一見して当たり前だと捉えうる枠組みの提出』 が、理論社会科学者の役割なのです。マルクス・エンゲルスの役割も然り。
 
 なお、フランクが失敗した「国家」規定を再議すべきなのは隈理論を確立し表現している私ではない。「国家=資本家」と思い込んでいる主義者であり、だからマルクス主義者なのだよ。

 またなお、ラテンアメリカはアフリカよりずいぶん明るくてよかったです。どこもきっぱりした植民地国家の歴史があるからね。せめて理論作業は明るくしたいもの。
 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

『「上部構造」の社会学』

2018-04-19 16:38:31 | 上部構造論
 お待たせしました、隈社会学3部作完結編、『「上部構造」の社会学』、合同フォレスト㈱の皆様のご努力をいただき発売されました。 

 皆様におかれましては、できうれば冷やかしでよろしいのでちょっと手にとっていただければ幸せなのですが、例によって書店の店頭には出ないので書店様にてご注文、またはネット販売でAmazonなどの(いろいろの)ウェブ書店様で御購入いただくとうれしい限りです。
 といって内容不明のところ、紀伊国屋ウェブストアには目次が上がってますが、いつまであるかわかりませんし、長いですがさらに詳しい目次を上げさせていただきます。
 なお、隈のHPの「本の紹介」ページに、もう少し言葉で書いた概要ものせてありますので、そちらもご参照ください。

 以下、

**********

序論 
 第1節 土台と上部構造の発生
    1 本論の対象
    2 土台と上部構造
    3 本書の主張
 第2節 社会学の視座と形態 
    1 内部視点と外部視点
    2 社会学の視座
 第3節 行為の原理・原則及び派生する行為論上の定式 
    1 人間行為の形式的原理
    2 人間行為の形式的原則
    3 行為の生理的基礎
    4 行為の日常
    5 行為に付随する概念の昇格的設定
    6 概念の便宜的な昇格的設定
    
第1章 行為者に内在する観念過程 
 第1節 行為主体の観念 
    1 個人における観念過程の成立
    2 言葉による伝達
    3 表現と虚構
 第2節 行為主体による賞賛と優越 
    1 賞賛・優越の成立
    2 精神拘束    
 第3節 行為主体による思想 
    1 思想の観念的基盤
    2 イデオロギー
    3 イデオロギーの影響
    4 イデオロギーに例外的に関わる「感情」    
 第4節 行為者のその他の観念性 
    1 政治的諸観念
    2 文化
    3 美
    4 賞賛と優越とイデオロギー・思想の重なり

第2章 支配権力者の行為過程 
 第1節 国家形態 
    1 国家と国家形態との一般論
    2 直接に生産関係から説明すべきでない諸項目
    3 資本主義的行為共同性の変化
 第2節 資本主義国における支配権力と政治過程
    1 政治過程の一般理論
    2 支配権力の被支配者との交渉
    3 支配権力とその他の権力との調整
 第3節 時代特有の被支配者向けイデオロギー 
    1 支配者とイデオロギー
    2 被支配者がイデオロギー化する社会矛盾
    3 時代の中の道徳
    4 芸術表現

第3章 被支配者の継起する観念過程
 第1節 行為共同性下の観念過程 
    1 行為共同性による社会の規定的契機への影響
    2 イデオロギーからの行為共同性への影響
    3 行為共同性の分断
 第2節 被支配者の新たな観念過程
    1 観念過程としての階級
    2 階級としての行為共同性の現実態
    3 階級性の眼前
 第3節 人間の歴史への参加
    1 対抗権力と運動の存在
    2 観念過程の行為者への眼前
    3 運動とイデオロギー
    4 観念過程としての革命

 《およそ社会の経過は唯物史観が示すとおり、人間の主観的意思の如何によるわけではない。下部構造たる経済過程に規定されたものである。
 しかしながら、それでは人間は歴史に流されるだけか、といえばそうではない。あるいは人間は歴史の必然を生きることが自由だ、などというマルクス主義者の言が真実であるわけでもない。
 逆である。人間は主体的に人間社会を変更することができるから、この移り変わる歴史が不可避的に存在するのである。
 本書は、人間が下部構造に規定されている、かのように見える規定性を明らかにしつつ、社会に表れた人間の主観的意思の観念性の秘密を暴き、他方、その下部構造の規定性を形成する行為者としての人間の行為論的自由の意志の歴史過程を明らかにするものである。》
 
 長かったですね。
 前回はどちらかというと実践的でしたが、こちらはいわば学問的。ずいぶん斜に構えております。リベルテールの方々には前著(「歴史としての支配」)のほうがいいと思ったのですが、アナキズム文献センター様には通じなかった模様。残念なことです。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加