リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

売買他(その2)。あるいは労働の「価格」

2018-11-10 15:53:15 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。東京地方やっと晴れ。明日は北海道以外全国晴れとのこと。秋は晴れがよいです。これから平地は紅葉の季節。銀杏は塩風にやられたようですが、もみじやツタは山の中なのでどうでしょうか。
 というわけで、本日は東京地方限定の紅葉散策お役立ち。まずは土日仕事でへそを曲げたあなた。紅葉といえば高尾山、23日近辺の休業日はお薦め。土日なんかイモ洗いですぜ。平日でも年寄りがいるでしょうが。午前中に行って、帰りがけちょっとランチを奮発してはいかが? お薦めはガイドに載らない「橋本屋」。蕎麦じゃなくて「姫会席」3,500円、、、ん、値段上がってないか? まあとろろ蕎麦でも900円しますし(高橋家)。交通費新宿から381円ですし。なにがいいって、空いてるの。国道渡るから、普通は目に入らない。味もまともだし、ゆったりと優雅なひと時を楽しめます。有名蕎麦店でさんざん並んで、山小屋の料理のように蕎麦を掻きこむより良いと思います。料理が高いとお考えの方は、同じ意味で有名蕎麦店よりガイドにない川端にある小さな蕎麦やのほうをお勧め。明るい自然の中でゆったり食べられますから。
 そんな軟弱な紅葉狩りはいやだ、という方は、箱根の湯坂道がお奨め。40歳から70歳向き。お住まいの地元のコンビニでおにぎりを買って箱根湯本下車、トイレに行って国道を徒歩10分ほどで登山口。(食料の現地調達はあてにしてはだめ。たとえば高尾山でおにぎりを買おうなどと思っては食いっぱぐれます)。始めこそ「なんだ、坂きついじゃねえか」と思われるでしょうが、最初だけ。ちんたらと登っていくうちに、開けた登山道にときどきウルシの木の類いが。「これが紅葉だと?」いえいえ違います。そろそろ浅間山頂かと思いだす頃に、地元の努力でしょう、あたり一面の紅葉。この多さはちょっと関東じゃあ見ませんぜ。浅間山頂からは青空にススキが映えます。ここでお弁当。その後鷹巣山を通れば(登るというほどじゃあない)国道にぶつかり、バスでどこにでもいけます。その手前で畑宿へ降りる道が分岐しますが、これは杉の林の暗い道でパス。湯坂道は登ると終わる道だから、逆から歩けば下りばかりで疲れないのですが、それじゃあ紅葉の林へのご対面に感動が薄れますので、紅葉見物の場合は湯本から登りましょう。また、ぜひ11月下旬に。ネットにある12月の写真は淋しいものばかり。
 
 さて、ニュース。米中間選挙は、負けですね。トランプが喜んでるから負け。わたしゃ民主党支持じゃないから、それ以上の意味はないし。無理に探せば最高裁判事の右翼化。まあ負けたんだからしょうがない。
 次、「2020年東京五輪・パラリンピックに合わせ、東京都は、都立日比谷公園(千代田区)を「五輪記念公園」と位置づけて再整備する方針を決めた。」「大会後も一帯を「20年大会の聖地」とする構想だ。」(読売新聞) ほんとに底の浅すぎる奴ら。みんな日本人だねえ。古いもんが嫌いなんだよね、なんでも。古いものは考えなしには評価できないからね。それよりは権力者におべんちゃらを言えるほうがいい。「知事知事、もう日比谷公園も名前変えちゃいましょうや。知事がやったオリンピックですからね、もう日本初の近代公園なんて古い古い」「そうよねえ」(わたしは関係者ではありません)。

 というわけで、まだ長いので、前回の続き。これはこんがらがるので、玄人オンリー。
 前回は、「交換」は、あるものの占有権を合意の上取り替えるという、人間的な関係行為であり、「売買」は、カネを渡したことにより所有権が移転される、人間が関わらない一方的な行為であることを言いました。ついで、「贈与」とは、日常語で使う「贈与」以外の意味はありえないのであり、これ以外の「贈与」類似の行為は、全て占有物の強制的移転であることを述べました。これら全ては全然別の社会的行為だ、と認識しなければ、社会に対する生活者の認識にはなりえない、ということです。
 
 その説明の際には、「交換の手段としての」カネも顔を出しました。それ以上出てると複雑になるので途中で切りましたが。
 というわけで、順序としては、前に戻って、いかにして「交換手段としての」カネが、「権力に基づく交換のための請求書」である貨幣となるか、ということです。意味不明? 貨幣はただの紙切れ(の場合もある)なのに、なぜ店先に置くだけで売買として認められるか、ということです。変でしょ? 誰も交換するものを持っていないのに、「これで交換しろよ」と押し付けて商品を持って帰れる。「でも万引きじゃないぜ」。「なんでだよう、代わりのものを持って来いよ」と店員にいわれても大丈夫。アベ首相が認めてくれるからです。この場合いちゃもんをつけた店員が名誉毀損で訴えられる。先のカネは交換物がある交換の手段。こちらの貨幣の場合は交換物がない。似て非なるものです。人間の発言は心地良い抑揚が付くと言葉ではなく「歌」と呼ばれる。社会においては似て非なるものです。
 しかし、こんな話は長いだけでつまらない。ちょっと書いてつまらないことを証明したところです。ま、余談。
 
 さて、貨幣でモノを買うところまで飛びますよ。
 一般的交換手段としてカネが成立しました。これは「コメ」でもいいのですが。このカネの成立は、「価格」の成立でもあります。ではその基準はなんでしょうか? 違うコメとアジの干物が、さらに、別の需要を持つ人間に対しても、同様に量られる根拠は?
 このとき、価格の基準は、本人(の一家)の生計費と専用物品の作成者の生活費との交差点です。鎌(かま)の値段は、それを作った鍛冶屋が生きていける米あるいは稗の値段であり、米あるいは稗の値段とは、それによって塩を買い塩魚を買える値段です。「生活費」とは、彼とその家族が生きていくのに要する消費物資の量が、彼が持つ他の物資と交換されるべきお互いの単位量です、これは当初、「交換」なので、同時に二つの量です。この社会関係からは、コメ以外でもいつの間にか一般的等価物が出てくるかもしれません。それはもちろん、その共同体成員の相互作用の賜物です。
 そこで言い換えましょう。「価格」とは、その当初においては、同一共同体内部での生計費のことです。それがために定まったある「基準」を保つのです。隣の共同体員が死のうが生きようがそれは知らない。しかし、同一共同体においては、全ての成員が生きていくことが必要なのであり、そのための交換を確保できるものが「財産」の「高(たか)」なのです。もちろん、その共同体には多量の米を持っている農業リーダーもいるでしょう。彼は「金持ち」です。あるいはまた、不作時には農業リーダーの庇護を受けなければ塩が手に入らないメンバーもいるでしょう。彼は貧乏です、が、毎日を生きていけるのです。
   
 さて、この当初の価格は、いつまでも同じではない。これを揺るがすものは、商品経済の発展です。共同体がそれだけでは存続できなくなる事態です。
 都市における商品生産物は、権力者とその配下によって買われる。商品生産者はそのカネで米を買う。問題は労働者であり、労働賃金で米が買えるところまで賃金を払わなければならないのですが(でないと死んでしまう)、他方、米には限界があり、買えない(もっとも「米」は必須消費物資の比喩ですが)。この場合「米が高い」と評価されます。米の値段は低くならなければならない、ここで、米によってその他の地域価格の低下が現実化した段階で、労働(力)の交換価値は(注1)、国家において制度化されます。ある消費物資は、その占有者が誰であろうと、同じ交換比率を持たせられます。これを確保するものは「法」権力です。コメ1俵は金1両として、誰が小判を置いていっても米1俵が買える。このとき、消費物資の占有は法によって守られている、つまり「所有」されていることになります(なお、細かい時代考証はしません)。
   
 こうして、宇野弘蔵に代表されるように、労働者賃金は、自らが買い戻すための賃金となってしまいました。
 もちろんこれは現実には「自ら(の一家)の生活費」分の賃金というが正しいのですが、生活費というと大根やニンジン、その他の農作物の代金等も入ってしまう。資本主義の経済分析上、資本に関係のない百姓の事情まで論理に加えることは不可能なので、経済学での理念上の処理なのです。
 すなわち、商品の持つ交換価値は確かに労働の価値なのですが、その価値の大きさと労働の価格とをつなぐものは、労働者の労働単位時間に集約される生活費なのです。労働者が支出する労働の価値は労働強化によって上がる。それはもちろん経営者でなくとも知っている。労働を強化すれば商品をたくさん作れるのだから一目瞭然です。しかし、生活費は変わらないので賃金を変える必要はない。「労働単位時間に集約される」とは、問題は1時間単位の労働「ではない」ということです。100の商品に100の労働時間単位が必要であれば、それはA商品であろうとB商品であろうとC商品であろうと同じ交換価値です。たとえば100個の商品を10日かけて作るときです。それらへの賃金も、あるいは労働単位時間に集約される生活費も同一です(のはずです)。しかし100の商品を午前中10回の労働で作れるならば、その価値も労働単位時間に集約される生活費も半分に過ぎない。なぜなら資本家は残りの午後に別の100の商品にその労働者を当てて、もう半分の賃金を払えばよいからです。労働者も不満ではあるが待遇が変わったとは主張する正当性は探しにくい。たしかに商品の価値は、労働時間による価値でできていると主張してもよいのです。
 他方、労働は複雑であろうが単純であろうが、その作る価値は一緒です。労働単位時間に集約される生活費は、変わらないからです。
 もう一度言っておきましょう、商品の価値は労働が作るのですが、労働時間が価値の大きさを決めるのではない。労働単位時間に集約される生活費が価値の大きさを決めるのです。
 もちろん、生活費が生産価格を決めるのではありませんし、ましてや市場価格を決めるわけでもありませんが、生産価格の可変資本部分を決めるものは、生活費なのです。生活費は当初において賃金労働者の生誕前から変化しつつも歴史的に決まり終わっていますが、この歴史的事実をどう純粋理論とするかが、理論家のお手並み(注2)、というわけです。
 
 (注1)マルキストの方には用語の引っ掛かりがあるかもしれません。労働者が売るのは労働力ではなく労働だということを知らないからです。この誤謬は相当資本論には痛手ですが、まだ資本論の価値は9割は残っています。
 展開しましょうか? まあ主体的にはそれ自体は、マルクスの異様な意気込みとは異なり、くだらない話なのでここではやめときますが。とりあえず、マルクスの子供のようなギリシア哲学知識のひけらかしに過ぎない、といっておきましょう。
 
 (注2)もちろんこうした労働価値論議でのマルクス批判は、大方の素人のような経済学者(?)の思いとは異なり、資本論の正しさとは何の関係もありません。「現実」という、労働者が搾取されている過程にはなんの変わりもなく、資本論とはその搾取のされ方を順を追って説明していこうとする叙述、というだけのものだからです。その叙述に多少の引っ掛かりがあろうとも、それは資本論の部分的な失敗に過ぎず、資本論の価値を低めるものではない。もちろん高めはしませんが。ましてや労働価値説は揺るぎもしない。それが現実なのですから。現実は、体制が変わらない限り揺るぐはずもない。
 おそらく近代経済学博士課程修了くらいの思考力ではとても理解のできないことでしょうから、念のため注しておきます。
 
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売買と交換と贈与(その1)

2018-11-03 15:21:08 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。ここんとこ良い天気で仕事してるのもったいなくないですか? だいじょぶ、仕事してなくても家にいるのがもったいない。人間そうそうヒマにはなれません。
 ところで、天高いなあ、と思ってネットを見ると、例によって知ったか野郎たちが、これは馬が肥えるから匈奴がくるぞ、という警戒の言葉だ、とか。しばらくネット検索したけど、誰一人根拠など知らねえ。え? 書いてあるって? それは中国語。天高く云々は日本語だぜ。日本の誰がどう使ってどんな意味になったかも書けないで「ホントは」云々が聞いて呆れるぜ。ほんとにウザイ奴らだ。ちなみに、私は心底知りません。
 と、ご挨拶からおかんむりでも困りますね。論究の結論がきれいに決まらないので、とても不愉快になっております。わたしのは現実論なので、現実に不愉快、という意味ではありますが、そこを止揚できない自分の頭脳も不愉快。まあこんなところへいらっしゃる方は、なに、いつものことだから、と思われるでしょう。
 
 さてそろそろ鍋の季節ですが、一昨日夕方NTVかなんか見てたら、友達4人で鍋屋に来て個々別々の仕立ての鍋汁で、「みんな一緒に」食事ができる、とか。目が悪くて不明でしたが、よく中国の屋台でやってるような、白湯鍋で自分で漬け汁を勝手に作る形式の模様。それで「一緒」ねえ、、、
 なんちゅうかほんちゅうか、ってもう40年前? 
 鍋くらいふつうに突っつきゃあいいじゃん。「選択を選択する」ってゆうのはココロ的に貧しくないかねえ。食べるときに何かを選択する、ということ自体に満足する貧しさ。食べるときは食べるものがおいしかったりまずかったりすればいいんじゃないかい? 人間、右であれ左であれ、次の事態に対応できればそれで何の不満があるのか。食べて、まずい、もう食わん、でいいじゃないか。
 
 ニュースです。「「特定技能」の外国人受け入れ、初年度4万人 省庁試算」(朝日)。自称人手不足に外国人をどんどんいれる、って。
 せっかくさあ、あと2、30年で俺らが死んじまえば、若人の明るい適正社会が来るというのにさあ。なぜちょっとも待てないかねえ。おかげで幸せなはずの2、30年後は、「低賃金で日本人民の足を引っ張る外国移民を全員送還しろ」って醜い労働者の争いで渦巻いているであろうさ。低賃金以外に外国人を受け入れる理由なんてないんだからね。わたしゃもういないけど、特に今、天使の風情で賛成している左翼諸君はよく覚えといてね。警告したからね。
 もちろん、やる気があれば、今でも「サービス資本」を凍結して、現行の規模で給料を上げて全員雇用をすればいいだけのこと。そんなに給料を払えなければ、余っている資本を回収して国が払えばいい。みんな働くんだから。労働力が足りない、とかいうんなら、足りるまでサービス業を潰せばいい。みんな働くんだから。働けば消費物資は回る。これ人間社会の基本。資本主義社会の基本ではないことまでいわないといけないかね。
 
 さて、ここのところ酔っ払いの言が続いたので(=断片カテゴリー。もっとも最近は昼間に書くので、最終的にはシラフです。昼酒は頭に悪い)、そろそろためになることを。
 売買と交換と贈与は、それぞれどこが違うか。社会学カテゴリーじゃない? ノー、アイドント。
 みなさまは、授業・講義で売買は交換行為だと習ったかと思われますが、そうではありません(高校生の方は政治経済を選択するように)。
 こういうことは習ってない高校生のほうがよくわかるでしょう。
 みなさまはお店で交換をしてますか? してないですよね。お店でしてるのはソフトクリームを買っているだけ。購入とは、その本質は消費物資の入手です。その入手に(店員に言われたお金を置いていくという)社会で決められた方法を使うだけであって、人は誰も交換などしていない。
 お店のほうではどうでしょう。販売とはなんとかしてカネを入手することです。できればやって来たみなさまから強奪するが一番良いのですが、世間では、モノを並べておけばカネが入手されるという仕組みがあるので、皆様の置いたカネをしまってそれに従がっているだけです。
 売買を構成する「買い」も「売り」も、両者はそれぞれ全然別のもののことです。ただ、
評論家がこれを「交換」と呼んだ、というだけのことです。
 「交換」を確認しましょう。「俺、ポケモンのフシギダネ持ってるんだけどフシギソウと交換しない?」「ああいいよ」。これが交換です。あるものの占有権を合意の上取り替える、人間的な関係行為です。
 売買は違います。カネを渡したことにより所有権が移転される、一方的な行為です。したがって、売買には人間がかかわりません。かかわるのは「こいつを殺してそのまま逃げようか」、という行為の障害としてだけの非人間的な行為です。
 もっとも、共同体内で行われる交換が尾を引く共同体「間」の売買においては、売買は交換の形式を取ることもあります。「値切り交渉」です。人は相手との「ふれあい」を楽しむために交渉する。しかし、それは本質ではありません。販売の当事物は商品だからです。売れ残りカネに化けなかった「商品」は無価値です。他方、フシギソウの価値は不変です。
 他方、目当ての消費物資のない市場は、購入者にとって無価値です。居並ぶ販売人は、ただの「赤の他人」、または通行の障害物にすぎません。他方、友人やフシギダネの価値は不変です。
 
 というわけで、消費物の入手は、場合次第になります。
 ある共同体において、ある消費物資の入用は、その占有者が使うか使わないかに存するのみです。この場合、交換における、「その代わりに」の、「その」は論理上存在しません。要らないもんなんだから。「これがウチにないのでください」「わかった、あげる」。それだけのことで交換する「その」は存在しません。   
 ついで、ある共同体においてある消費物資の作成に専念する者の消費物資の入手は、交換になります。その作成者は共同体で生きていかなくてはなりません。従ってその交換対象はは、その作成者の生活が成立するため(に不足する)消費物資そのものとなります。死なないための交換だからです。他方、その他の共同体成員にとっては、作成者が死んでは、その専念する消費物資は入手できないので、それも当然のこととなります。
 さて、では、他の共同体員との取引の場合にはどうでしょう。ここでは本来不要な消費物資の「そのための保管」として、「交換」の物質が成立しています。その目的は交換先物資の入手です。この交換手段が一般化すると、カネとなります。

 この例で、ある共同体で他の構成員に渡すものがない人間はどうするか。
 人は共同体社会において、必要な消費物資が自分だけでは入手できない場合、他者にその消費物資を要求します。他者は、共同体社会内において、窮乏した他者を助けることが要請され続けているのです。かくて、この際に贈与を行います。
 必要な消費物資が常に存在するものでなければ、当人が窮乏していなくともこれは誰かに託さねばなりません。あとで同価値品を「返しても」いいですが、そもそも共同体社会での購入は評論家の言う「贈与」でなされるしかないのです。
 この「贈与」は共同体にとって、共同体が存続する限りにおいて必須です。しかして、共同体成員にとって「当然」です。当然ではありますが、この消費物資を渡すかどうかは占有者次第であることも当然です。嫌がらせでもったいぶってちょっとしか渡さないことも可能です。かくて、支配階層は共同体にとって固定化される。名主はどこまでいってもイヤな名主です。
 
 さてところで、これは「贈与」ですか?
 「贈与」という言葉が存在する理由は、現代の権力から離れた生活ができる人(=今となっては一般の人。昔の農村社会では不可能です)にはわかるでしょう。哺乳類は困っていそうな自分より弱いものには食物を与える。これが贈与です。お子さんや姪御さんへの贈り物は、疑いもなく贈与ですね。哺乳類であれば誰でも分かる行為でしょう。もっとも生まれつきの狐やハイエナのことは知りはしませんが。しかしこれ以外の「贈与」類似の行為は、全て占有物の強制的移転です。名主も嫌々自分の食い扶持を飢えた小作人に分けるのは「分けざるを得ない」からです。これを実行しているのは人間1個人ではありますが、しかし、その実態は、「社会」であり、その実質は自分がそれに包含される生産共同体です。そう把握して初めて、やっと社会科学の入り口に入れる。
 
 社会学をやった人は分かると思いますが、世の中、「なんでも贈与」の論者というのがたくさんいるのですね。「すべての相互行為は贈与に通ずる」とかね。自分で思っているのはかまわないが、およそ他人にいう価値などない、評論家以下の文学者の修辞だと思いますが、如何? 誰とは言いませんが。
 さらには『「ありがとう」というお礼のことばは表出的な財であるから、タベアナは、お返しの必要のない贈与とするよりは、お礼のことばで返礼される贈与とするほうがよいだろう』なんていう人もいる。いったい、この定言に何の意味があるんだ? 気は確かか? そう思いません? 誰とは言いませんが。って、引用は言わないとまずいか。吉岡政徳氏のタベアナ論についての伊藤幹治氏です。
 
 というわけで、モースやらゴドリエなどがいう、社会に本質的には「贈与に関わる義務」などというものはありません。
 若人の読者の方でも、バイトをしたとかの社会経験がある人なら、彼らの言う「義務」など、現代日本社会では決して普遍的ではないことが分かるでしょう。
 贈与をめぐる義務などというものは、当然過ぎるほど当然に、すべて社会が作ったものです。さてその社会といえば、「支配社会」なのです。支配者が自分に都合よく確立したものが「贈与」習慣なのであり、「贈与の原則が社会の本質にある」などというのは見事な逆立ちです。そうではなく、支配社会があるからそれに合う形でシステム上の「強制的移転」が贈与形態化(=非金銭売買形態化)しているのです。名主が食い扶持を小作人に与えるのは、秩序維持のシステムの強制であって、小作人の強制ではありませんけどね。

 長。
 長いついで。月曜の朝日新聞全国版は、おう、これは南部労組のSさんじゃん、名前も久しく見ませんでしたが、元気でよかったよかった。これだけでわかる有名人、わたしなど心が広いから思想信条を越えて安心しちゃうよ。小言じじいがウソつけ? いや心が狭く見えるのはただのモラハラ。こういう原則的な人は元気でいるだけでうれしい。
 (p.s. 原則的に闘うって、そのこと自体たいへんなんだよね。今まで味方だったはずのみんな、見限って離れていくし。それをフォローした人々も大変。だから私もうれしいんだよね。わたしゃ戦列外だから関係ないけど。でも戦列外は戦列外でたいへんはたいへんなのさ、生命はかけてなくても、人生はかけてるからね、Sさんとは比べられないけど。ところで君はどうしてるかい? 某派の田中清君。生命賭けてるかい?)


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思い出話か資本過剰論

2018-10-27 12:38:39 | 断片
 こんにちは。お元気ですか? 目がかゆいですね。かゆくないか。
 ベランダにはオオカマキリが訪問する季節。チビの時代から時々来て遊んでいくので、いやな種族と思いながらもそこそこ可愛い。見てるとこっちを振り返ってなによとクビをかしげる風情がなんとなくよい、のですが、こいつがわざわざひとんちの窓の下まで来てカメムシかなんかの生きてるのをムシャムシャ食ってる。窓から見てると、あたし悪いことしてる?と首をかしげられて処置なし。
 ここんとこ神に同情しておりましたが、目の前でそんなことをやられちゃしょうがない。私が神なら、この瞬間に歴史をリセットしますし。「大失敗だ」みたいなもので。
 やはり生命世界と高貴な人間等の霊界は存在次元が違わざるを得ませんね。

 さて、ささいなニュース。「NHKは25日、体調不良のため報道番組「ニュース7」(月~日曜、午後7時)を休んでいるキャスターの鈴木奈穂子アナ(36)について、来週も休む予定であることをホームページ(番組表)で公表した。」(日刊スポーツ)。人間て、みておかしいと思うときはやっぱおかしいんだよね。年寄りのいうことは聞くものだ。

 「低所得世帯の高校生を対象とする都道府県の「奨学給付金」について、2017年度までの4年間に受給した12府県の延べ23万8108人のうち、1%の2451人が教育費を学校に納めていなかったことが、会計検査院の調べでわかった。」(読売)お見それしました。私の感覚では1割ですが、たった1%!。そうか生活保護世帯(≒母子家庭)がはいっているからね。お母さんはそう悪いことはしない。

 お役立ち情報。多摩川沿いの方、本日は調布の花火です、寒いぞーー
 花火を秋にやるなんか、気が知れない。遊園地花火に慣れてる世代はそれでいいのかね。
 
 さて、本題は今日も世間話の続きで、実家から40年ぶりで持って帰った荷物。解いてみました。まずは高校時代のビラ。忘れてたことを思い出すこと多々。個人的なことはいいとして、トータルで見て、なんとも民主主義的な学校生活を思い出してびっくりしました。高校って、こんなにヒトと真面目なことをしゃべるとこだっけね。今の生徒諸君は絶対してないような仲間生活。へえええ、、、1年時の思い出す風景で、3年生と教室で話してるのがあるんだけど、なんでも3年8組のクラス討議で、高校生活をよく考えてもらうため1年生の「クラスに入ろう」というのがあったんだってさ。大人世界のいわゆるオルグだね。ビラ読んで思い出した。それと、民青グループと行ったと思っていた朝鮮高校友好訪問、これが生徒会活動なんだってさ。ビラによると、教師側から前日までの宣伝は一切禁止とかいわれて、こういう事態をほっといていいのか、とか書いてあったな。ところでこれらの種々雑多なビラはどこで入手したんだろう、と思えば、登校時の校門の外でもらったなあ、と。これが校門の中に入っちゃいけないんだね、校門内は教師の指導下なんだろうね。生徒指導の教師が入らないように見張ってるのさ。変だけどね、そんなこともあったねと。面白かったのは間違いない。
 と、こんな思い出も、できるのは頭がクリアなときだけ。ふつうは理論活動に使う「一眠り後」を使ってしまいました。社長や教授のアタマも、突然の対応では8割施行ですぜ、お気をつけを。「うちのボスは頭が早い」って、ただの直感だから。その言の趣旨は「わかったまかせた」だけ。詳細は自分で考えないと後でひどい目に会うぜ。
 
 ついで、大量の写真整理。半分にまで減らす。気がつくとこれはわずか青春数年間のさらに一時期の分の整理。疾風怒涛の「なぎ」の期間の写真。数年の間にいろいろなことが起こったんだね。
 それに比べると、理論活動というのはほんと贅沢。あっという間に1年なんて経ってしまう。こんなことを若い時にやるなんて、よほどの変人と思われます。私のように学校の授業など限界ギリギリに手を抜かないとね。もっともそれでは教授の弟子にはなれないわけだ。自業自得。

 あれ、今日は短いな、と思われた常連の方は、そうではありません。順番を入れ替えましたオタク用事項がございます。
 「少子高齢化がさらに進む2030年に、人手不足が現在の5倍以上にあたる644万人に拡大するという調査結果が発表されました。」(テレビ朝日系)。ほんとブルジョワジーの毎度毎度のヨタで。しかし不愉快なんで、いつもは『「安い人手」が不足なだけ』というのですが、今日は新しい言葉を使って非難。「そりゃ資本の過剰だ」。
 人手不足なんていって、これ以上働き場所いるの? 東京じゃあコンビニも余ってるしデパートも余ってるし。不動産屋だって、株屋だって余ってるし。中古マンションも空きビルもたくさんあるから別にマンションもテナントビルも建てることないし。絶対、東京には人いらないから。
 なんちゅうと、困るのがまず資本家諸氏さ。カネ使いたくてしょうがないのに、カネの使い道がない。おわかり? 資本の過剰です。東京にカネなんかいらないのさ。
 次に困るのが中高年労働者だ。元から「ない」働き場所が、さらにない。って、「元からない」? おかしいじゃん、人手不足だっていってたよ、、、ヨタはヨタ。ほんと不愉快。
 ところで、でも資本があるのになんで起業ができない、って、マルクス経済学徒は自分でもおかしいと思うだろ? マルクス先生は教えてくれなかったからね。この答えは、作りゃあ売れるという、もう200年も前の世界の経済学の話を真に受けている、という事情。作ったって売れねえんだよ。レーニンはマルクスより利口だからそういう日が来るし、そして来た、って言ってるだろ。あるいは、レーニンと同じく、現代日本労働者は日々刻々「なんでこんなくだらねえことをして商品を飾りたてなきゃならねえんだよお」と思い知らされてるでしょ。現実とはそう。もちろん、中には「平凡な商品だけどおいらがこんなに飾ったから売れたんだぜ。すごいっしょ」と思う労働者がいるのも現実。理論というのはマルクスでさえ、実感とともにあるのだよ。なんだ、労働者管理で疎外が消えるだあ?? 実態も知らずに言葉の組み替えで自信満々なただのガキの50歳にも越えた自称マルキストは、早く引退しろよ。と、突然だがウサ晴らし。ま、誰がいったかまで言うと根拠もいわないといかんので人生のムダはしない。 
 話はもとに戻って、資本が過剰なときは、賃金など上がりゃあしないんだよ。仮に資本が現実化したとしても利潤など取れないからね。もちろんマルクス等とは逆に、資本の過剰時には賃金低下圧力が高まる。そもそも「可変資本」が使えるなら過剰にはなりはしない。労働者を、その労働力を、使えないから過剰なのだよ。ほんと、この1行、みんな聞いたことないだろ? ということ自体、世の中バカばかりだということの証明。マルクスだろうが宇野だろうが、需給法則なんかを原理論には使えやしないんだよ。需給法則は自由な人間の架空の法則でしかない。行動の自由な経済理論登場者などいないのだ。もっとも競争する資本家というのは主観的に自由かもしれない。こいつらだけは楽しんでやってるように思える。といって、もちろん競争以外の手段を取ろうとしてもとれやしませんが。
 
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再三の断捨離

2018-10-21 09:16:35 | 断片
 こんにちは。久しぶりのいいお天気で。東京地方、昨日は夕方雷雨でしたが。昨日は予告なし原稿遅延で失礼しました。実家に荷物整理に行ってまして、こちらまでは気がめぐらせず。

 というわけで、本日はざっと。
 まずは、「油圧機器メーカーKYBと子会社による免震・制振装置の検査データ改ざん」。こうなってくると、結局、建築・土木業界は7割施工なんだろうな、という気がしますね。
 「安全率が1.5だから、7割で1.05。ちょうどいい」。わたしゃ建築業界はほとんど知りませんが、いかにもありそうな話じゃないでしょうか。で、中に1割はいい加減な仕事をするやつが必ずいるので、その中の運の悪いのが事故を起こす。
 もともとそういうところにこの20年来の談合批判で、会社が孫請けいじめをするようになって、孫請けが手を抜くのが当然になると、もう救いようもない。
 あのリニアなんてできても乗るのはやめたほうがいいですぜ。談合のない落札金額で、どんな孫請け金額がだされているものやら。天井なんかボロボロ落ちますぜ。ま、そのころ私は死んでますが。
 
 サウジアラビアもひどいもんですね。
 まあ、トルコの報道を「よくやった、、、」と静かに言うべきでしょうが、裏で何万人が殺されていようと、イギリス、フランス、ドイツの権力者と、それに対して平凡な人民の命は、1万倍も意味が違うのです。欧米ニュースが来るたびにそのぐらいは思いをはせないとね。
 サウジアラビアなど引っくり返したって糞。そうじゃなくて、欧米3国が糞的に偉い、といってはいます、が、権力者世界のこと。いずれにせよ私の心は海の底。

 例の呉座勇一君が最近朝日新聞にコラムを書いております、前回書いたあさはかな編集委員のツテでしょうか、先週もなんともあさはか。この前書いたときは「まだ若いし」と思ったのですが、根本的にあさはかなもよう。坂本龍馬暗殺薩摩藩陰謀説に、龍馬はトップじゃないからやられるはずがない、ってそれが根拠。本人自信満々。40年前そうでしたっけ?ご同輩。
 別に読んでる最近の日本史学者たちも見てきたような決めつけをするのに気づきましたが、歴史学者は本来そういうもんなんですかね。今までは歴史の法則性とやらに隠されてたから気づかなかっただけなのかしら。

 ま、いいや。というわけで本日も雑談。
 世の中、楽しそうなことなのに実現し損なったのが、思い出顧み。小学校のタイムカプセルとか(セットしなかったけど)、大人になっての同窓会とか(あっても行かなかったりするけど)、遠足のアルバムをしげしげみるとか、こうゆうのって、いつしたらいいんでしょうねえ、、、20歳や30歳じゃ懐かしくないし、60過ぎちゃどうでもいいし。ご学友はいつか会えそうだけど、教師の方々とは会わずじまいでほとんど亡くなられてしまった。もうご存命は清水厚夫先生くらいか。シミアツと自称してましたが。
 ま、ともかく、実家に残っていた最後の自分の荷物を回収してきました。でも40年持ってなかったものなので、要するにいらないわけで。これから人生3度目の断捨離です。結婚するときと、ここに引っ越すときと、ずいぶん捨てましたので、部屋の中はもう断捨離本に写真を載せられるくらいきれい。死んでも後始末には子供も誰も困らない。ただ、押入れがそこそこいっぱいなので頑張ってポイしないと。で、持って帰って大きいのは、アルバム。幼、小、中、高とありますし、捨てるのもなんだけど、といって持ってる必要もないし、、、
 でね、古い写真も押入れにあるのさ。ずいぶんネガは捨てたのですが、なんだかんだでダンボール一杯ある。なんのためにあるのかといえば、これが何の意味もないのですよね。
 で、やっぱり思い出顧み。これらはいつ見て楽しめば(?)いいのかしら、、、ご学友は自分のアルバムを持ってるはずだから見ないし。写真は一人について数枚あれば立派に役目を果たしそうです。
 あ、なお、経験によると、同窓会は40歳くらいにするのがお勧めですね。みんながどれだけ変わってしまったかが分かる。思い出の断捨離ですね。つまらないけど、意義はある。
 
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土門拳の芸術家的実存主義(軽い)

2018-10-13 13:24:50 | 断片
 こんにちは。東京地方、いよいよ秋で過ごしやすくなりました。しかし、蚊にも過ごしやすくなったようでやたらと蚊に刺される。私はもともと蚊のテリトリーに入ると3秒で食われるタイプですが、一昨日は気が緩んで10分も木々の間にいたら右腕だけで5箇所刺されました。あとはもちろん左腕やおでこ。刺されると膨れ上がって、
 蚊に刺されると反応過多で。元はといえば息子が転勤したので8年前行った奈良のFホテル4××号室。寝て起きたら浴衣から出ていた肌の全部に、百2、3十箇所の虫刺され(?)が。次に泊まる人がいるはずだからよほど言いつけてやろうかと思いましたが、原因不明なのでやめましたが、その秋にはお彼岸の墓参りで蚊に数十箇所刺されただけで(!)全身数百の腫れです。ここにも書きましたね。で副腎皮質ホルモンを飲んだら、免疫不全で普段引かない風邪を引いてエラい目にあったという。ここまでは書いてないけど。ともかくそれ以来、蚊に刺されると直径2センチの丘疹に膨れ上がるようになりました。
 アレルギーはいったん出るとずっと長引くので、まず初めの契機になるひどい目に会わないように心がけましょう。
 
 長いですね。ま、本日は世間話。
 今日は朝日新聞お気に入りの山室恭子、おしゃべりおばさんは、さも明治時代に人間に撃ち殺された狼は可哀想、みたいな読書感想文。ったく、最近はおめでたいお嬢ちゃん学者やお坊ちゃん学者ばかりで歴史出版物の見出しを見るのもいやになる。歴史に真理なんかないからね。おばさんの専門の元禄時代、狼がどれだけ百姓の家族の女子供を食い散らかして恐れられたか、知らんとは言わせない、ところだが、知らんのだろうね。横森栄一が引いている(信州高島藩旧誌)。彼はお坊ちゃんじゃないからね。
 ついでに栄一つながりになる、朝日記者の古代馬装博士宮代栄一。女工哀史時代は明るかった論(インタビューストーリー)。たこやろう。そもそも明治の貧農が暗いという状況のベースもわきまえず、さらに地元を悪く言いわけがない田舎心性男へのインタビューで、さも私は中立でございみたいな話をでっち上げる。おめえは貧乏のさなかで決断するしかない人間の痛みも、あるいはたとえ砂の城であってもせめて生きているうちに掴みたい虚しい幸せなど感じたことがないだろう。記者なんか辞めてどっかの学芸員になって腐りかけの馬具でもなぶってろ。
 (P.S. 先の横森栄一の本(古道)を見ましたら、野麦峠も載ってましたよ。まともな人ですね。(野麦)「峠の上下、ところどころに、小さな石の地蔵がある。これをなんと思われるだろうか。年ごとに信州からかえってくる女たちが、路傍のくさむらへ産み落として行く嬰児のため、峠の人々が建ててやった墓である。彼女たちをせめてはいけない。工場で糸目をよく見てもらうためには、検番という鬼のような男のいうことをきくより仕方がなかったのである。」(「野麦峠」作者の資料より)。追加で言えば、明治貧農の赤子の命など、どこで暮らそうがそんなものだ、というのが普通の社会学徒の認識です。だから、それはノーマルな状況ではある。歴史学博士宮代は「だから別に女工など暗くはない」ということでしょう。)
 
 なんて、ついつい怒りが。庶民に怒ってはいかん、が、責任がある新聞記者だからしょうがないね。ともかく明るい話にしましょう。 
 順天堂も昭和大も医学部の入試で女子や浪人中の受験生を不利に扱う不正。「現役の医学部生や医学部を目指して勉強中の受験生からは驚きや憤りの声が上がった。」(毎日新聞)
 なにが明るいって? 当事者が憤っているところが明るい。続きの記事で「医学部を目指している浪人中の男性(19)は「浪人生や女子が私立大の入試で不利を受けることは知られていた。医師として活躍する期間を考えれば、仕方がないかもしれない」とあきらめ顔。こうゆう関係ない奴らはどうでもいいんだ。どうせ何もやりゃしねえ。当事者が憤っているところが、比べれば良いということがわかるでしょ? この際、大きな潮流になればいいね。おりゃ関係ないけど。
 
 さて、憎まれ口は、中立な方に迷惑なので、そこそこに。
 引き出しに白黒のブローニーフィルム(二眼レフなど用のフィルム)が古くなってまして、もったいないから撮るか、と二眼レフ(リコーⅣ型)を持ち出して撮りましたが、ピントは合わせないわ(忘れた)、巻き上げず二重露出はやるわで、惨憺たるもの。
 というわけで、ちょっと勉強に土門拳の「写真作法」を紐解きました、ら、思っても見ず、正しそうな記載が。
 まず第1に、鑑賞者は写真に事実を見るのだと。「当たり前だろう」ってそうじゃなくて、鑑賞者は主体的に写真の中に写っているはずの事実を探すのだと。おお、、って気がしません?
 第2に、写真は実存主義で、本当は本当、ウソはウソ、まぎれもないものなんだと。これは世の中どこにでも虚偽というものがあるわけですがそうではなくて、撮るほうと鑑賞するほうの志向、行為の方向性にあり、双方で交差する本当さのことのようです。撮るほうは、まず、対象の中にその事実を探さなければならない。いい加減にシャッターを押したら感動的な写真にできた、なんちゅうものは、何の意義もない、とのこと。相手は偶然とも知らずに撮り手の主体がこもっているはずの事実を探すんだからね。
 第3に、カラーはいけない。撮るほうも見るほうも騙される。
 第4に、「騙される」というからにはそうでない本当のことがある、ということだ、、
それは、撮るほうでは、対象に自分が主体的に見る「何を語るか」であり、見るほうでは、「見る人間ではなく」撮る自分の抱く、「見る人間が何を求めているか、大衆が何を求めているか、の把握」、その上でのコミュニケーション内容なのだ。
 なんだそうです。
 言葉は違うよ、私も主体的に読み込みますから。でもそういうことが書いてあって、ちょっと愕然。40年前から手元にあるこの本の、いったい何を読んできたのか、と、まあそのときそのときで読むほうの志向は違うからね。でも久しぶりに黒寛以外にまともな言葉を読んで嬉しかったので書き留めましたよ。
 言い換えましょう。
 人民は隈の本に事実を求めてくれる。
 といっても人民には人民が求めるものがある。自分が好きなだけの勝手なことを書いても、それは人民の思想家ではない、との仰せ。
 おう。なるほど。そんなことを芸術家土門が思っていたとは。
 
 実はもちろんわたしくはそんな話に恐れ入るタマではありません。私は思想家ではない。人に嫌がられても真理を語ることこそ古今、天才の務め。ですが、でもまずは普通によい態度であるなあ、と思うものであります。いいねえ、芸術家は。人民の他に「神」がいなくて。


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学における歴史性と継時性

2018-10-06 13:31:44 | 社会学の基礎概念
 というわけで、これは本日の続き「別題」、オタクの方専用。
 読者限定なのですぐ入っちゃいますよ。
 
 一口に「歴史」といいましても、とりあえず2通りあります。第1に、その中から物語を作る諸データの連なり。第2に、諸データから研究者が作り上げ、出来上がった物語(ストーリー)。まあ同じものの表し方の違い、とも言えますが、後者がいわゆる「歴史」で。「物語」というように、それは小説であり映画であり、「歴史と名づけられた何か」であり、その物語に登場する「単語の意味」です。
 この2通り、どちらも行為者にとっては、原則、外在的なものです。映画を見て、その映画内容を次の日に行為するのはよほどの変態。
 
 さてところが、似たようなものでそのほかに、「継時的変化」と呼ぶべきものがある。これにも2通りあります。
 まず第1に、「ある事象の時系列的変化」というものであり、既に存在する概念について、これに新しく付与されるべき意味のことです。ポイントは、すでに存する概念の豊富化だということ。別の言葉で言えば、因果連関が持つ歴史的規定性の確定です。言葉で物語をお作るのではなく、ある社会事象について、その事象が「なぜ」「いかに」時間的に変化し得たか、ということを語ることで、その事象の概念を豊富化する、ということです。それによって豊富化した概念は、それをもって行為主体の次の未来への思考を真理化させるべく存するわけです。人はこの結果をもって次の行為に移る。
 第2に、「現在存する社会状態のよって来る所以(ゆえん)」というもの。焦点は、現在の事象そのものであり、別の言葉で言えば「現状分析」です。現状のある事象が、どういう経過をたどって今に至るか、その時系列的な把握のことです。事象の把握は、それが現在どういう状態なのか、何を要素として「現在」となっているのか、その状態を事実として確定させるためにあります。人は、同様に、その結果をもって次の行為に移る。
 今述べたこの2通りの継時的変化こそが、人間の学問の持つ主体的意味なのです。

 こういうことがサクッと頭に浮かぶところが私の素晴らしさ。ボケたなんて言わせない。って、ボケボケで毎日よく生きれてるなあと思うんだけど。(ってゆうか、物事がサクサク浮かぶには年齢的定着が必要なのさ。ほんとムダに生きちゃあいないぜ、というよりも生かされてるといったほうがよい。以上、信仰者より)
 とりわけ、今「継時的変化」と呼んだものに2通りがあるなんて、歴史上社会科学者が世界に何千万人いようと、誰一人思いも寄らなかったことですぜ。

 といって種を明かせば、入江節次郎氏の『世界経済史の方法と展開』2002年、という本が変だったから。変といっても悪くはない。入江氏というのは1921年生まれだそうで、研究をし終わった人がやっと縦横に語れる、という喜びに溢れた好著です。知る人しか知らない人なのが残念。
 なんだけど、それゆえに自分の知識にひきづられてしまって、御自身の論理どおりにならない。
 入江氏によれば、世界経済史は、経済史を時間の流れではなく同一空間のものとして扱うのだ。というわけ。正しいね。現状分析として正しい。しかし、それなら経済の歴史を扱ってはいても経済史ではないよ。にもかかわらず本書の結果は、書物としてはただの経済史です。
 一方、彼によれば、経済段階論は、前の段階の要因を次の段階では消えたもののように扱うのが間違いだ、と。しかしこれは彼氏の間違い。経済段階論は、それが正しいのであれば、規定因子論なのだから、段階ごとにリセットされた姿で表すしかない。経済段階論は経済史ではないのだ。
 まあそれはいいとして、こうした議論には抜け落ちた側面がある、というわけで、それが継時的変化の第1の概念の豊富化です。これがない限りは人間は歴史からは何一つ学べない。歴史家の説を面白く拝聴することはできても、それでは講演会場から出れば、青空の下、歴史家の講義とは縁もゆかりもない世界に舞い戻るだけだ。
 社会科学学徒は、常に行為主体として人間社会の概念を豊富化することにより、同じ行為主体である人々とともに、その生を豊富化しなければならない。
 
 というわけで、これはカテゴリー「その他」歴史学ではなく、社会学徒が自分の理論を作るための基礎知識なのです。我ながら、ここんとこすごい社会学的貢献であるなあ。
 ちなみに、ようやく次回論究の中枠が仮決定しました。今やらないとすぐに凍える冬だし。
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青春の歌と青春を歌う歌と青春を生きる歌

2018-10-06 13:25:42 | コーヒーブレイク
 こんにちは。先週の台風はひどかったですねえ、近くの桜の木が何本も根こそぎひっくり返ってました。とはいえ、風の強さは生まれてから最大というほどでもなく、今までなんともなかったというのも変な話ですが、災害というのはそうやって起きるんでしょうね。
 本日は、関東地方は、しけってて暑い。毎日10度近くもあがったり下がったりすると、食べるものにも困ります。

 さて、今週はまともなニュースが。「ノーベル平和賞、性暴力の被害者の治療や救済に取り組むデニス・ムクウェゲ医師(63)と、過激派組織「イスラム国」(IS)の暴力告発者でイラクの少数派ヤジディ教徒の人権活動家ナディア・ムラドさん(25)の2人に授与」(時事通信)おめでとうございます。功績の度合いの分からないその他の部門よりすっきりしてるのもよい。人間の仕事ですね。

 本日は、まいふぇいぼりっとしんぐ。
 唐突ですが、テレビで中島みゆきが、「時代」を歌っていたのだけれど、しかしなんか違うな、と思って。やはり「時代」は23歳の歌であるべきで。
 「時代」は青春の気持ちを歌う歌なんでしょうし、何歳で歌ってもいいはずだけれど、しかし歌は歌手と不可分。「時代」を好きだからといって。じゃあyoutubeにアップしている素人さんの誰の歌を聞いても良い、ということにはならないし、それは素人が玄人でも、本人でも、同じ、だろう。しかしてこれは23歳のみゆき氏が歌わなければならない、、、
 と思ったのだけれど、そこで、シャルル・アズナブールが亡くなったというニュース。
 9月中旬に日本で公演をして帰ったばっかりなのにね。見事ともいえる。
 3年ほど前ここ(「断片」カテゴリー)に数行書いたように、84歳の時の歌(youtube)でもすごい、ってところがまたすごいね。
 「世界の果てに」がよかったって朝日新聞に書いてあった気が。(知らん題だと思ったら「連れて行っておくれ」のこと。でも微妙に違うな、と思ってレコードを探したら、レコード、ない。引越しのとき捨てたか、、、信じられない断捨離、、、)。
 と、何の話題かと言うと、「世界の果てに=Emmenez-moi」若い。もっともそれに限らず、アズナブールの歌、若い。大昔、中島みゆきよりちょっと前に聞きだしたアズナブールも私の青春の歌。かつ、青春を歌った歌。なんだけれども、みゆき氏とのこの差はなんだろう、と。
 やっぱ、アズナブール、常に必死なんだと思うぞ。青春とは必死なものだ。そう思えばみゆき氏は、はっきりいって余裕ありすぎ。歌が「自分」を離れて、ただの応援歌。それじゃあ谷川俊太郎や岡井隆と同じ。歌職人。問題あるなあ、、、

 というわけで、この手の話にオタク話題は合わないのでその手の方は別題で引継ぎ。
 最後に「世界の果てに」、ちょっと歌詞の一部をあげておきます。

  Emmenez-moi au bout de la terre
  Emmenez-moi au pays des merveilles
  Il me semble que la misere
  Serait moins penible au soleil

   連れて行っておくれ 地の果てに
   連れて行っておくれ 奇跡の国に
   貧しさも 光あふれる国ならば
   それほど辛くはないだろう

  Je fuirais laissant la mon passe
  Sans aucun remords
  Sans bagage et le c?ur libere
  En chantant tres fort

   逃げ出そう 過去は置き去りにして
   後悔などは微塵もない
   荷物も持たず 自由な心で
   力強く 歌いながら

     (ミスター・ビーン訳)
     https://ameblo.jp/jaimeen/entry-12106194162.html

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方法としての弁証法・応用の部(その2)

2018-09-29 13:55:42 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。雨ですね。秋の長雨。この季節の雨は台風とセットになるせいか、きつくて嫌ですね。昔、外回りで自転車に乗ると、レインコートを着ても冷たいわ、メガネの雨粒で目は見えないわで、生きているのがいやになりました。来週は台風が過ぎるとなんとかおさまりそうですが。
 
 さて、ニュースは、普通の感想のものばかり。ニュースへの反応は、わたしは左翼というよりは普通、を心がけており。
 日米貿易交渉「トランプ氏によると、その結果、日本が大量の米国製武器を買うことになったといいます。」(赤旗)、不愉快だねえ、トランプのポチ公。普通の人も不愉快でしょ? 陸上イージスも秋田、萩、って変な場所なのは、ハワイとグアム防衛用だってえ話じゃんか(北朝鮮からのミサイルの通過地点)。その一方、もっと日本にとって有効な海上イージスは、金がなくて使うタマが買えない、ってお笑い種だね。愛国自民党は石飛を支持しろよ。でもこういうのは本質的?に男は好きなんだよね、フィルムを買わなくともカメラを買い増す(ま、昔話)、とか、将棋初段のくせに50万円の将棋盤を買う、とか。持ってるだけでウキウキするんだから反論もしがたい。
 次、「創価学会ブロック長 デニー支持訴え」(赤旗)おう、やるじゃん、創価学会。公明党なんか少し脅かしてやらねば。といってデニーって自民党だけどね。赤旗さえ(例によって選挙のため)節操を捨てる社会もいまいち。
 
 ま、ふつうなので、話題を変えます。
 しゃんしゃんちゃんが久しぶりにテレビに出てました。体が重そう。大事にされると太る。子供って、たくさん食べると親がうれしいんだよね。困ったものだ。
 
 ところで普通でも分からないのが最近目に付く「民主主義は嫌い」論。今日も川口 マーン 惠美とか山崎学日本精神科病院協会会長とかアベのお友達たちが民主主義をけなしている記事があるけど、けなすとなんかよいことがあるのだろうか。ネットウヨの言みたいに、彼ら特有のストレス解消になるのかねえ、「憎っくき朝日」みたいな。そんなとこにケンカの相手はいないと思うが。
 というわけで本日の役に立つブログ、藤田嗣治展が東京、10月8日まで(次は京都)。都美術館 例によって1600円。もう日がないよ。そういえば去年の運慶展いった? なかなかよかったね。藤田嗣治は中学生のころ見に行ったら、とてもよかったぞ。あの白い顔を描けないものかと水彩絵の具でしばらく努力したほど。あとでネタバレで、絵の具じゃなくて石膏を塗った色と聞いて騙された(だまされた)気がしました。まあ絵の好きな人は画集なんかもお勧めですね。
 
 それでは、風邪に気をつけて。ここんとこクシャミが止まらないし微熱もでます。いつものことですが。アレルギーなんだか気温のせいなんだか、、、

(割り込みP.S. 今日はお気に入りのタモリ、ブラタモリの番組の日で。見てたら山形県飛島の取材でした。酒田港の風待ち港で重要だったという、おめでたい話で。理系だねえ、、、
 いまどきは社会学的読者の皆さんも習わないんですかねえ、飛島といえば養子奴隷の島。「南京小僧」という名前で有名になったのね。いまどきのネットだと「つづきの村から」というところに、「南京米袋で作った仕事着を着ている者があったからで、島の貧しい者のなかには、南京米袋を仕事着に仕立てて着ている者は少なくなかった。もらい子たちもそうゆうものを着せられて成長したものがあった。しかし、もらい子だからといって、特別にいやしめられたり、過重な労働を強いられたのではなく、みんな貧しく、忙しく働いていたのである。」
 まあ、いまどきの人だから理系だねえ。
 もちろん歴史を度外視すれば養子奴隷など別に飛島に限ったことではなかった。けれども、そういう制度は「僻地」に残る。
 さらにもちろん、定着的生産共同体では同じ生産労働者を「特別にいやしめ」はしなかった。けれども「他の下郎と一緒に充分に」卑しめたのだ。別に今の飛島の方々に悪い思いはないけどね。そんな人間の個別の苦しみも分からず平気の平左でしゃあしゃあとつぶやく理系人間は、大嫌い。理系=いまどきの自称歴史学者だけどね。なんていってると、感情が止まらないので止めます。)

 (という挿入はおいて)
 だが、この先を覗く(のぞく)とまだまだ長い。スマホの人には見えないでしょうが。
 というわけで、本日のオタク題。最近多い以前の続き。年寄ると拙速に意味が認めがたく。だんだんしつこくなる。
 
 で、弁証法ですが、世に言う、「量から質への転化」だの「対立物の相互浸透」だの、そんなものは頭の悪い理系の奴ら向けのスローガン。実際エネルギーなんていろんな形をとり存在物であるかのごとく現象するんだから、、スローガンで元気付けないと現象にとらわれてしまうからね。しかし、社会現象は(すでに)そうではない。少数ながらまともな頭の持ち主ならすでに理論システム化への一歩手前までいける。大多数の頭の悪い学者には、科学を評論で邪魔をすることを止めてもらうだけでよい。

 と言うわけで、今回は、始元からジンテーゼまでの、理論者が取り扱うべき属性について。
 私も哲学は趣味でもありますが、こんなのは見たことないぜ、みんな火事でも見るように遠巻きにわいわいやってるだけ。したがって、今回も哲学史であればヘーゲルの次に位置させるべき一行であろう。
 
 さて、本題。始元から結論までをどう展開するか。
 人間にとって、ある規定性、つまり「お前はこう動かないとひどい目にあうからそうやれよ」という要因。これを見つけたとして、それをどうみんなに知らせるか。という問題です。
 先に言ったように、頭がまともならそれは見つけられる。見つけられない学者は、事実を確定させる仕事だけに専念するように。ただ、それを表現するのはそう簡単ではない、ので簡単にしようということです。
 さて、社会事象について、研究者が「普遍的人間」として見たときに「同じもの」として把握するしかないものが、別の規定性によっては別のもののように見える、あるいは見うるという場合がある。赤いリンゴと青いリンゴは同じはずだが、初めてみる人間にとって、それらは同一ではない。でも研究者にとってリンゴはリンゴだ。同じなんだけど、こう違う。その意味をつかもうとすればそれをトータルに扱いうるというのが弁証法です。と例にしてみると、ほんと理系なんて頭は要らない、単純作業だね。
 
 ま、ともかく、弁証法的叙述といっても、簡単なことは簡単。ある事象とある事象とは違うといってもそれがちょっと考えれば分かるシンプルな差異であれば、単に「次章で照射方向を変えますよ」といえばよい。たとえば、すでに蓄積のある社会・人文科学であれば、照射方向の変更はすぐに理解される。それでよい。
 しかし、取るべき別の選択肢が世間に認められていないときにその叙述を完成させるには、「同じものだ」ということを強調することになる。まあ哲学者のような、自分でやったことのない人にはわかりませんがそういうことです。
 一般に、「巻」や「編」やらと括られる(くくられる)単位はそうです。「正反合」とかいって、3部構成にするもので、研究者個人の趣味を越える。普遍的な分類法はないでしょう。世の中そううまくはいかない。それらは研究者の趣味で、あるいは志向で、どう問題を照射するか、その照射的立場の表現となるしかないでしょう。まあ例外はあるでしょうが。
 例外はよいのです。この大括りの3部門は自由なのです。論者の視点に従って、設定可能な3点なのです。資本論だって、そう偉そうな分類で出来てるわけじゃあありませんぜ。
 もちろん、資本論も3部全てが合わさってようやく一人前になること自体は変わりませんが、今の問題は、「どういう形でも3部「の内容」が表現されていればいい」ということをいっているわけです。
 
 さてしかし、本当の弁証法の優位はそんなところにはない。
 もとに戻りましょう。
 今問題となっているのは、そこではない。その内実たる始元の行方です。
 始元が存在するのは、あくまでダブった要因があるからです。だから分析して異質の「反」を析出し、しかして統合する(=正)。この場合、人間の分類意欲は、「これ、もとのままだったら(私=人間にとって)よいのになあ」という行為的順序において、この「もとのまま」を阻害する要因が異質なため「反」と名づけるわけです。
 ほんと自分で書いててクリアに書けてると思うのですが。
 ダブったものの規定性を、一通りずつ分けて書くことで、いわば3次元を2次元化できる、というわけです。
 剰余価値と資本は同じものではありますが、その規定性は別です。しかして別に分けて書き、あとで現実として合体させる、これは2つに限らず、ひとつのダブりを終えたら次のダブりの解決に向かう。そして、同様にダブりを個別化し、あとで合体させる。
 ところで誤解があると思いますがこのとき、ダブリとは「正」を形作る2要因ではありません。たとえば「商品の2側面性が使用価値と価値だ」と言ったときに、この使用価値には触らないのです。使用価値は保存されて資本までいく。触るのは必ず一方の側面だけなのです。
 まあこういうことは自分で悩んでみないとわからない。分からない人には不要な論議ではあります。私は哲学には興味がないので。
 
 さて次に、もう1通りの優位があり、それがいわば量から質への転換。まあこれはスローガンなので、力から質の転換でも、好きにしたらいい。どう言おうと同じことです。
 つまり、継時性、あるいはいわゆる歴史性を考慮する。
 ある規定性の中には、時間が経つと変化するものがある。この扱いはマルクスにはまるで理解できなかったようです。「規定性は歴史の推移で変わるんだから、規定性の旅は歴史を作る、従って私の資本論の論理は歴史的になるはずだ」と信じていたんでしょう。ヘーゲル主義者ですね。なので、いまでもマルクス主義者はそう思っているはずです、もしもまだ非転向者が生存しているなら。
 ところが残念ながらそうではない。それは継時性の中身は、資本論の場合、「経済」は歴史の全部の要素を持っていない、という、単純な、かつ、もっともな、理由によっています。前提にないものを論理の中には組み込めない。われわれはヘーゲルにもマルクスにも義理立てをする必要はない。単に、別個に、あらためて、扱えばよいのです。
 
 長くなりましたが、あなたが自分の理論を持ちえそうだ、と直感したとき、もう一度お読みくださいませ、このサイトがそのときにまだ存在すれば。
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人によって役に立つかも。

2018-09-22 14:18:49 | その他
 こんにちは。秋ですねえ。夜には虫がキョロロロロと鳴いています。エンマコオロギでしょう。ネットで鳴き声を聞くと可愛いですが、相当うるさい。そういえば、夏の初めに「6月からこんなに蝉が出たらお盆までには生まれすぎてもういなくなるのでは」という懸念を呈しましたが、そこそこ持ちましたね。でもうちの方では朝夕のうるささは平年より減ってました。朝夕はカナカナ(ヒグラシ)くらい。それももう終わりですが。
 
 さて、相も変わらぬ不愉快なニュース群。樹木希林氏が「楽しいことなんかない。けど、面白がれ」と言い残されたそうですが、人間ができてらっしゃるんでしょう、なんも面白くねえ。
 それより前回は完璧に役に立たなかったので、ちょっと意識して2題。

 一つ目。「国内第2位の健康保険組合、解散を決定 51万人が加入
 派遣社員や家族約51万人が加入する「人材派遣健康保険組合」が21日、組合会を開き解散を決めた。加入者数は国内第2位の健保組合。企業と従業員が折半する保険料率が9・7%まで上昇し、負担を軽減するため。」(朝日新聞デジタル)
 だってさ。そこでお知らせ。解散はいいけど、その後は、それぞれの会社で政府管掌健保というところに入ら(せ)ないといけないんだよ。各会社の派遣社員の皆様、そこのところをよく把握してくださいませ。とぼけて「社員の皆さん、みんな国保に入りなさい、保険料は会社でもってやるよ」なんていうやつらがいるからね。国保じゃあ医者にかかる費用は同じでも、厚生年金加入が消えちゃうんだよ。厚生年金と国民年金は、貰える年金額が倍以上違うからね。お気をつけください。次に入る(べき)なのは会社ごと政府管掌健保(=政管健保)。それぞれの会社が引き継ぐんだよ。そうでないと法律違反だよ。とりわけ家族持ちはよく把握するように。
 というわけで、一般常識。
 健康保険組合(=組合健保)でも政管健保でも、どちらかにはいっていれば、年取って厚生年金が出ます。なんで年金が関係するの? と聞かれれば、国でそうゆう取り扱いなの。
 で、「わかった、でもどうせ何らかの制度のお金を払うんでしょ?」 といわれればそうじゃない。
 派遣社員くらいの給料なら、年金は自分の分を払うくらい取られれば、国民年金で妻の分がタダになるくらいしか払わないで済む。日本語難しいね。あとでまとめるね。ついで、健康保険料も、国民健康保険で妻や子供の分がタダになるくらいしか払わないで済む。
 言い換えましょう。片働き夫婦と子供2人の家族で、会社が政府管掌健保に違法に入らなければ、本人は、本人以外の費用として、奥さんの年金料に20万円と、奥さんと子供2人の国保代、年に10数万円(地方自治体で違う)、計、年に30数万円は余分に払わないといけない。
 おおごとでしょ。失礼ですが致命的な額では?
 なぜそんな違うって、組合健保・政管健保加入なら年金料は半分は会社が払ううえに妻はタダだから。子供の保険料もタダ。さらに、健康保険は、会社の健康保険は構成員が若い奴しかいないので、病気の支出が少ない=保険料額も少ないから。
 かたや、国民年金は半分は国費だけど、残りは全員が払うから。さらに国民健康保険は、半分以上国費は出るけど、何しろ構成員が年寄りばっかで医療費が出る一方=保険料が高いから。
  
 「分かったよ、でも会社が入ることだろ、俺関係ねえや」って。そうじゃないんだな、これが。会社は持ち出しが出るんで政府管掌保険には入りたがらないの。上の記事でも、だからやめた、って書いてあるでしょ。(「企業と従業員が折半する保険料率が9・7%まで上昇し、負担を軽減するため。」)。入らなきゃ。その分、名目上、給料も上げられるし。なので会社は隙があれば、「後は社員お前らで勝手にしろ」って話になるの。そうでないのがほんとだよ。でもあなたのとこ、そんな立派な会社じゃないでしょ。それ違法だからね。そんな場合は労基署に言いつけたほうがいいよ。ほんとうは健保協会・厚労省とかの仕事だけどね、奴らもグル、、、失礼しました、「必ず味方になるわけじゃない」のでご注意。なら実態に即してるでしょ? 「うん」といわれちゃおしまいだが(この辺ただの悪意です)。(労基署は管轄が違いはします、が信用できる。)
 こんな話初耳? 10年前ここで書いた気はするけどね。しかしそんな生き死にに関わることは高校で教えろよ、バカ教師共が。(実は教えている、全国でごくごく何人かの社会科の教師様だけには失礼いたしました。)
 
 長かったですね。学生その他の正社員(予定)等の方には関係ないかもしれませんが、世の中思うとおりにはいきません。
 もひとつ、一般向けに役に立つ話。
 魚焼きグリルの窓の焦げ付きが余りにもひどく、お掃除。あなたなら何を使う? 洗剤? 落ちやしません。ネット情報だと効果があるのは、1温水で重曹。2塗料はがしを塗る。というもの。もっともめんどそうなので私は試してはいませんが。
 じゃあどうする?
 ここでお役立ち用品。ステンレスのペーパーナイフ。洗剤で汚れを緩ました後、これで削る。「それは金属ヘラってこと?」いいえ違います。ポイントはカーブ。刃がついてないのに封筒の紙を破るため、ナイフにはカーブがあるはず。そのカーブを焦げ付きに当てて、その接点に力を集中させる、というわけです。私は昔のプラス・ステンレスペーパーナイフS型だけど、今のプラス製品はギザ刃付とか書いてあるんで傷が付いてダメかも。つるつるの刃のないペーパーナイフでやってください。ちなみにこれは他の什器も焦げ全般に適用可能。洗剤で浮かして、焦げを削る。当然少しづつ削るわけで、ぞんざいな人はダメです。ぞんざいな人は重曹系漬け置き1時間をお選びください、できるかどうか知りませんが。あと神経質な人もダメかも。「削ったら微妙に傷が、、、」とか言わないように。私は神経質でもぞんざいでもないめんどくさがりやです。
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理論表現の構成の前提(その小さな続き)

2018-09-15 15:40:10 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、今日も雨。この地面を冷やし続ける雨の後にまた暑い日が来るなんて信じられませんし、実際もう来ないでしょうね。
 涼しくなったせいか、なにかと周りも賑やかになってきませんか? 私の周りもそうですが、私は自分の世界がかき乱されるのは好きではなく、ブログも乗らない。
 
 ニュースもたいしたことないよね。たいてい一言発言済みだよね。物事が終わってからぶうぶういうのは嫌い。
 そういえばまた北海道野菜、あれこれ不足する、って? いつもそんな不足話ばかりで半分疑ってるけどね。野菜の値段はこの6年間、それまでより5割は上がり続けだよ。
 いずれにせよ北海道は日本の野菜の倉なんだとさ。そんなとこで原発がつぶれたら大混乱だね。まあどこでつぶれたって大混乱だけどさ。そういえば、うちのほうじゃ、福島で野菜の値段が上がった記憶がないなあ、その秋以降から高くなった。
 
 たんたんとぶつぶついってますな。
 
 気を取り直してネットニュースを見直せば、和歌山のパンダの写真が。可愛いね。名前はまだ無い。レッサーパンダの女の子もいるよ、もふもふして。蘭花ちゃんだとさ。東北サファリパークってどこかい? と思ったら二本松だと。二本松は東北か。福島は関東地方ではないかい。中通りは東北線で平野の中走ってるといつのまにか着いちゃうからねえ。白河の関が歴史上すぐ消えちゃったのも当然。

 ぶつぶつですな。
 本日はまるで役に立たない。
 漫画の代わりの本の話題ですと、佐藤満彦「ガリレオの休職活動ニュートンの家計簿」。これはなかなか唯物論的で良い本です。私は山本義隆は大好きですが、「一六世紀文化革命」とか最近の著書はどうだろうか、物理学的かもしれないけれど、社会科学徒用ではない、としか。まあだから物理学なんでしょう。
 元に戻って、本書。本旨はいいとして驚くのがルネッサンス以後20人くらい載っている科学者への悪口雑言。佐藤氏じゃなくて、昔からの評伝者が書いたそれ。(実は佐藤氏にも感じられるが)。「陰険で、野心的で、賞賛を過度に熱望し、反駁されると我慢できない性格」ニュートン。「稀有の異常性格」キャベンディッシュ。「気難しく、底意地わるく、そして疑りふかい悪玉」フック。「不遜な態度に自信が加われば、世間の鼻つまみものになるのもやむを得まい」パラケルスス。「自信家で横柄尊大な」ティコ・ブラーエ。「係累の金銭無心の四面楚歌から長女のもとに逃れた科学者」ガリレオ。「やや歪んでいる(肖像画の)口は、粗野の現れ」コペルニクス。エトセトラエトセトラ。見てると山本氏の叙述の高貴さが恋しくなる。「あほか。全部おめえのことじゃねえか」 といわれそうだ。私のように20年後有名になる予定がある人間は、他人に勝手なことを書かれる前に自伝を残すのは一つの方法ですね。まあ自信家で横柄尊大。
 
 というわけで、軽く(ちょっと難しく)前回の続きで終わりにします。
 漫画の代わりに(宇野経の)鈴木鴻一郎「一途の人」なる本を借りたら、梅本克己の批判をしていました。梅本が「原理論でも労働者階級の社会変革とのかかわりあいが説かれるべきではないか」と言うのに対して「梅本氏といえども原理論では資本家を資本の「人格化」として以外には説くことはしないであろう。同様に、首尾一貫のためには、労働者もそこでは労働力商品の「人格化」以外のものとしては説かれえないはずではないか。」だってさ。まあみなさん100人中100人がそう思う、という方へ1票。ところがぎっちょん、私が前回述べたことは、通じてないほうに1票は賭けるが、そうではない。隈氏は、資本家は資本の人格化「としてしか動けない人間」として描け、といっているのですぜ。同様に、労働者も同様に、自分の境遇にくやしいながら、あるいはそれを僥倖として、労働力商品の人格化としてしか動けない、しかし、そんな「人間として」描きますわさ。この実質同じようでしかし天と地の隔たりを持つ修飾語の意味は、まあ、指摘されれば100人中20人はわかっていただけるものと思いますが。
 しかし、鈴木のこのような発言は、降旗節雄だったら「おいぼれはうざいだけ」で済むんですが、原理論を歴史へつなげたいと思っていた故鈴木鴻一郎の言としては零点。だからなにもできずに世を去ったのさ。そもそも原理論にありうる矛盾を書かずして、じゃあどこに矛盾の現実化が生じうるんだね。現状分析? ありえねえ。前提にも無いことが忽然と現れる「理論」など、そんなものは論理ではない。科学から外れた評論だ、ということは100人のうち10人は、そうかも、と思われるでしょう。まあ私の理論の評価は20年後だからね。そう思えば科学主義者宇野が「労働力の商品化の無理」と「原理論に」一行(実は何ページも)書いたのは(新版原論だと言葉はないかな)、さすがに行き届いた処置だったといえる(しかし、梅本が「いいたかった」ように(知識がなくて日本語にならなかったように)、それでは足りない)。だめじゃ、鴻一郎。人のよさそうな人だから先生はつけようか。鈴木先生。
 なお、別な話、宇野の岩波新書「資本論の経済学」の話が出ていて思い出した。あれは驚異的にわかりやすいけれど、記事が、弁証法構成ではなく、トピック形式なんだよね。そのほうが分かりやすいのかなあ、、、まだ迷っている。
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