リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

社会科学と広松渉

2017-01-28 16:56:56 | 社会学の基礎概念
 こんにちは。東京地方、突然の暖気傾向。ありがたいことです。また寒くなるにしても、そのときはもう着実に3月に近づいているわけで。

 さて、トランプ、ここまで悪漢とは想定外。善人には善人以外の気持ちは分かりかねるものです。ここにいらっしゃる方々は善人の若人でしょうが、悪人にはこれから何回も裏切られるでしょう。悪人とは一切付き合わないのが、唯一の安全の道です。でも社長が悪漢? まあ出世はあきらめたほうがよろしい。どうせ善人にはハナからムリです。以上、本日の役に立つブログでした。
 短いか。
 じゃ、提言。
 アベは尻尾振っている場合ではなく、早急に弱小国連合でアメリカ包囲網を築くべきでしょう。
 トランプは水責めにしてロシアのスパイだと吐かせるべきでしょう。
 
 というわけで、本日は一部オタク様あて、広松渉。
 なんの風の吹き回しかというと、この間(かん)寒くて昼休みに外に行きたくなかったのでイスの上での暇つぶし。
 主観客観問題や現象学批難をここで取り上げている関係上、広松の難しい漢字使いを見て、私より偉いと思われても困るし。
 
 さて、広松の卒論から晩年に至るまで、一貫した哲学課題は、自称「共同主観性」論。
 主観客観図式は誤りだ、というポイントから、主観は、その時代の関係により共同主観となるのだ、という展開方式。
 もっとも、広松の自問自答の文章を逐一読んだわけではないから、私の文章は不正確ね。正確さに興味はないので。人はどれだけ理解しているかが全てを決める。易しい言葉で書けないこと自体、理解なんかしていないのさ。
 ま、いいや。さて、この問題点は何か。
 
1 関係の物神化

 (1)主観-客体オンリーの論
  広松にとって主観-客観の図式とは、主観-客体の図式である。 いわく、『「意識作用-意識内容-客体自体」という三項図式』である。客体自体」というのは少しこなれてないと思ったか、後には「認識対象」に変えた、はずだが、私の人生は短い。どこでどう変えたかなど、今ちょっと調べたが出てこないのでやめた。
  ともかく、客観であるところの客体が実体である、というところが広松は気に入らない。
  ここまでは私と同じ。
  しかし、この先すぐ私とは分岐する。
  広松は主観ー客体の二分法のことをのみ取り上げているわけで、それ以上の問題意識があるわけではない。私もいうように、基本的に「モノ」がある、という認識は完璧な間違いではある。しかし、問題は、「関係」要素の設定の仕方なのだ。
  広松にとって、モノとして把らえるのはしょうがないことと展開される。
  私の批判した清水盛光の論など、ぜんぜんオッケーのようだ。
  それじゃあ、行為には使えない。ただの観照の論である。
  自然科学の認識であれば確かにしょうがない。広松は理解していないが、しょうがない理由は物象化のためではない。数学のせいである。
  数学とはモノそのものの技術である。モノがいくつあるか、が根底にあるのだから、数学を使う以上、モノから離れることはできない。
  「いや、数学で関係を表わすことができる」 とか馬鹿な話がでるだろうが、それはただのバカだ。科学とは、たとえ劣った自然科学であっても、新しいことを見つけるために存在するのであって、論理学の本を数式で書くためにあるのではない。くやしかったら論理学者は新しい物理法則を発見してみたらどうだ。
 
 (2)社会科学で問題な主体-客観の図式
  それ以上に科学が解決しなければならない主観-客観図式とは、主体-客観の図式なのだ。主体の立場を忘れて、客観主義的に真理を措定せんとする性向からの脱却である。
  「お前はイヌという言葉を使うが、それはお前の言葉ではない。なんとなればイヌという言葉の意味はたくさんの人間の使用を経て到達したものだからだ。これが共同主観性である」などとこけおどしの発言をして初学者を惑わすときの立場からの脱却である。
  いわくいうところの”さまざまなあらわれかたをするイヌ”なんてもんは、私に限っては知らない。わたしは名辞などなくとも目の前の動物を認識することができる。「こいつは蹴飛ばすと噛みつかれる危ないヤツだ」。名辞「イヌ」なるものは、目の前にいる動物の情報を他人に伝えるための「単語」にすぎない。共同主観? そんなだいそれたもんじゃあない。別に言語の形成過程を語りたいというなら語ればいいが、そんなものは行為者には関係はない。
  本来、客体とは認識対象などと把らえてはならないのだ。哲学が「客体」と呼ぶものは、認識対象ではなく、行為主体の環境の要素である。それが実体であるかどうかに行為主体の興味はない。実体であろうがなかろうが、それは経験上、わたくしの行為を邪魔するものであったり、あるいはそのために促進させられるものなのだ。「もの」と書いたが私たちはそれをモノとは思っていない。共同主観とたいそうにいう、しかし共同だろうがなんだろうが自分が使う言葉が、教えられた言葉では、「もの」と呼ばれているだけのことなのだ。 
    
 (横道)
 哲学者ってこういう論議がわかんないんだよね。いわく『「ある」とは何か』 が 『存在とは何か』 になっちまう。バカいってんじゃないよ。「ある」というのは人間が行為するときの有意味性の表現なだけだよ、存在も非存在もあるものか。
 
 元に戻って、言葉は全て、それを使えば他人に意思を伝達できる道具にすぎない。ある単語がどうできるか、どういう過程を経て作られたかは、大脳生理学の上に立つ、技術的認知論にすぎない。そんな技術論がどうであろうと、行為論的社会学には、0.1%以上の影響はない。

2 社会科学への「関係」の正しい取り入れ方

 初学者の方は「主観-客観の図式が問題になるなんて変ではないか。主観も客観も問題は認知なのであるから、どこかで統一されているべきであり、そして統一されているなら「正しい」認知があるはずだ」 とお思いになるかもしれない。実はその通りである。それが主体としての客観の立場なのだ。
 ともかくも、あくまで認知は行為主体のものであり、それ以外の認知などありえない。独我論においても同様にその通りである。
 ただ、立場により主体としての認知の仕方が違うのだ。いわば、行為主体が、「こんな関係下にある自分」 として関係を「正しく」 把握し、その認知の下で認知を修正することこそ正しい認知方法なのだ。
 このときの「関係」は、広松の哲学的アプローチとは異なり、具体的な内容を持つものであり、この内実を明らかにするものは、哲学ではなく、社会科学なのだ。
 
 抽象的だね。
 ま、これが隈の立場であり、すでに具体的には厚い本2冊にあります。次の隈の配本では観念が主題なので、もっと詳細かつ発展的に書かれております。
 
 (付けたり)
 それにしても広松の革共同疎外論批判には、根本的な間違った立場があったんだな、と、この間(かん)思ったところであります。プロスターリニストであることを貶す(けなす)つもりはありませんが、まるで主体性というものがわかっていない。
 これは黒田が5割勝ちです。
 
 
 いちおう参照文献ね。
「世界の共同主観的構造」、実は「広松渉哲学論集」。平凡社、2009。
「存在と意味 第1巻」。岩波書店、1982。
「存在と意味 第2巻」実は広松全集、第16巻。岩波書店、1997。
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1年ぶりのオカルト(霊と生命)

2017-01-21 13:44:43 | オカルト(途中から)
 こんにちは。東京地方、通勤道の公園では相当多くの紅梅の蕾が開き出しました。今年は昨日が大寒だそうで、ありがたいことにもうこれからは暖かくなるわけです。といいながらひどい風。これで中身が雪ではたまりませんね。
 
 さて、本日のテーマはトランプということになるんでしょう。トランプの最良の日。上りつめたら後は下るしかないと。下るしかないと、何割の人が気づいているでしょうか。
 くだらなくて皆様と同じく内容のない悪口しか言いようのないところですが、まずは、今日以降、トランプ投票者の8割は苦虫を噛んだ顔になるでしょうね。わかっていながらも、今日見せ付けましたように、これからは大統領様ですから。下々の投票者たちとは身分が違う。本人や報道官の資本家づらが毎日テレビに出て、あれを見るたびに投票しなきゃよかった、と後悔するんでしょうね。
 で、半年ぐらいは思い通りにやるでしょうが、半年もたてば政策の影響も出るというもの。
 物価上昇、販売不振、自分の馘首。「そら見たことか」と反対派に言われてさらに苦虫が噛み潰され、ストレスで身体を壊して病院にいきたいがオバマケアがなくなって医療保険もやめてしまってた、という流れ。
 資本家はウハウハで株価は上がるが、1年もすりゃ誰でも先行きのないことに気づき大暴落。トランプ投票者はやっと就いた臨時の仕事も倒産により失業。踏んだり蹴ったり殴られたり。
 トランプも思い通りにならなくてめんどいから自主的に辞めちまうことでしょう。もう70だし後期高齢者もすぐ。

 というわけで、いちおう基本は抑えようと、このかん何冊も借りて読んだのがアメリカ政治関係本。全部むだ。事態をまじめに捉えようとなさるみなさまは間違って買わないように(借用は他館の予約取り寄せなので中身が見れない)。そこらで入手できるこの20年間の政治関係本は、全部評論かエッセイ。政治学者というのは、科学的・実証的根拠とか、って習ったことないんだろうね。「こんな制度だからこう推測される」「人と話したらこうだといってましたよ」 本。いつも思うのですが、本が売れないんじゃなくて、買わんでいい本しか売ってないんだよね、現状。
 そんな中では(題名に即さず)「現代アメリカ経済論」ミネルヴァが、まともでした。政治学じゃないからまともなんだ、とシンプルに思います。
 まあ、同情的に言えば、物事が州単位なんで実証するのも難しい、ということもあるかも。他はダメですがアメリカ論だけは、アメリカ人の研究の訳書のほうが、実証のあるのもありそうで、よいようです。
 
 さらに政治学の実りのなさにあせって借り込んだのが哲学本。これも30年間のは全部むだ。ほんとに哲学者って頭悪い。しかもどんどん悪化してるのでは?
 正しく言うと、哲学で食ってるために、哲学史が生んだ既に腐り切った論題をさらに食い散らかすんで腐敗物質が頭に回ってるんだね。設問が悪ければ答えなんぞ望むべくもない。こんな本にカネを使わされる人間が、いい面の皮だ。昔はまともな設問もありえた、ということですが。
 
 ま、そんなこんなで新知識の披露もできず、なんか役に立つことはないか、と本日はオカルト。
 1年ぶりの隈霊学。
 去年、16,1,1付けで、生命はエネルギー=物質とバーターで生まれた旨お話しましたが、ここで、注意。(って、はじめから眉唾な話ですから全編注意ですが)
 生命と霊は違う、あるいは違わなくてはならない。
 生命細胞の多様的構成物が人間なのでありますから、生命≒霊であれば、霊は多様な細胞によりひっちゃかめっちゃかになってしまいます。しかし、それでは古今の宗教のかけらも成り立たない。人間に関係のある霊的世界というのは、個別、人間個人として確固とした世界であります。単にエネルギー不滅の法則のように生命不滅の法則を唱えてもしょうがないのです。唱えた結果それが正しかろうが、そんな正しさは人間には役に立たない。それはミトコンドリアの世界であり、ミトコンドリアの霊の世界でしかないからです。
 人間の意味ある霊とはそうではない。問題は人間の意識がどうなっていくかであり、そのことだけのために幾百万の宗教家や呪術師が生きてきたわけです。
 そうした先達の教えの霊とは、人間を代表とする細胞多様体に理想的に固有なある種の構成物でなければならない。(そこらの木も多細胞の構成体ですわな。枯れて落ちる葉っぱは、ただの「部分」)
 かくて、霊は、生命が元の平準的宇宙の構成に戻ったとしても、その後に残り、しかし、時とともに消えてゆく、そうした好ましい存在だ、ということが理論上措定されるわけであります。なんとなれば、
 第1に、生命は全体であり不滅である。そこには時間の概念もない。ただ存在するのみ。
 第2に、しかしその一方、霊は個別の構成物であり、不滅であるはずがない、というわけです。不滅でない、「時」を持ったものが霊であります。
 ま、第3に、霊なんてない。という答えを否定しているわけではありませんが。
 しかし、この辺が心霊現象理解上、妥当な結論、全てを説明できる議論なんじゃないか、と思うものであります。
 こういう妥当本位な議論を、正統プラグマティズムといいます。知らんけど。
 
 春とは名のみ、寒い冬がもたらす思考は、ともかく暗いですね。
 
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くっつかないお餅

2017-01-14 13:58:09 | 断片
 こんにちは。日本の大部分が寒い中、東京地方、今日も晴れ、、、今、日が翳ってきたけど。それでも外は寒い。部屋はいいです。外を歩くくらいならスキー場のほうがいいともいえます。当たり前だ? いえいえ准高齢者になろうという人間には当たり前ではありませんが、それでもスキー以外のことを考えないでいいのは楽。
 
 さて、センター試験出席の方々にはご苦労さま、とんだ悪制度ですが、中教審のやつらは「知識偏重だ」とかとようやくあきらめ加減のようですね。もっとも統一試験はやりたいようで。学校なんてみんな違うのに、共通試験なんちゅう発想がそもそも知的な人間の持つものではない。大学(教授)は自分が教えるスタートラインの資格の程度だけ決めればいい。といって、中教審のやつらは、そもそも自分が管理したいだけだし。疎外された教育者。ヒラ教師に戻ってガキでも管理しとれ。
 
 きょうは早々に、本日の役に立つブログ。
 親御さん、おじいさんおばあさんにおすすめ、越後製菓のこがね餅。ちょっとお高い。
 これが不思議な餅で、くっつかない。
 男はあまり知らないでしょうが、餅というやつは納豆の次に始末が悪い。箸やら茶碗やら鍋やら皿やら、なんにでもくっついて食器洗いを阻害する。取れないからとタワシなんか使おうもんならタワシ洗いに水が洗い桶で一つ分いる。
 ところがこの餅はきれいさっぱりどこにもくっつかない。
 ところで昨日食べた安物のおでんの具の餅巾着といったらのどにひっつく。
 ここから鑑みるに、越後製菓のこがね餅は、呑み込み力の悪い年寄りに良い。もっとも70歳以上に薦めるときには、「必ず小さく切ってから食べるよう」に、付け加えてください。
 
 ただ、そういうネット情報はないんだよね。変なの。いつも正月はお客用に高い餅も買っていたんですが、今までは高くともやっぱりくっついてたんですけどね。サトウの切り餅系が特別にくっつくのかなあ、、、
 以上。
 
 で、本日の自由感想、山本義隆。「私の1960年代」。
 本文はゴシップ趣味の対象ですが、付録に昔の山本氏の資料が少し付いていて、これがいい。あ、やっぱり山本議長だ、という感じ。ビリビリきますね。
 今回、集約の言葉がわかりましたが、彼やその時代には「善悪」があるんですね。明確な善と明確な悪。まあ、私にもあるということですが。大学教授連の善のなさといったら、これは確かに生きている次元が違う。対話になるわけなんかないですやね。
 そんな時代の生き残りはほんとに少ない。そのことにいいもわるいもないですが。
 やはり私の好きな「知性の叛乱」は、日本が生んだ倫理学の金字塔です。
 
 さらに、追加ながら、資料の中で
 「自己の理性以外は一切を否定せよ。、、、その理性の示すところに依り、マキシマムの行動を追及する。これをアナーキーという。、、、行動に於てはアナーキーに!」。 これは山本氏21歳のビラの文言。
 で、思い出したのが私の中学卒業文集の後輩への言葉。
 「汝、破壊せよ。あとは自分で考えな。」
 素晴らしい。とても15歳の言とは思えないアナーキー。
 中学3年で清水厚夫先生という国語の先生がいて、この方に中原中也を習ったんですね。これが優等生の大きな躓き。と、他人は思っているようで、成績ガタ落ちのため母などはこの先生を恨んでおります。私にしてみればその前から勉強やめてるし、まああれやこれやおかげさまで、という話しかないのですが。
 ネットだと世田谷あたりでお一方ヒットしてますが、ご当人かしら。懐かしいですね。
 
 ではこの辺で。風邪引いて入学試験受けられなかった人も、気を落とすことはありませんよ。人間、塞翁が馬。
 私の高校の1歳上の同級生は私でさえ一目おいておりましたし、私の大学になぜかいた3歳上の同学年生はみんなから尊敬されて、大企業へ就職していきました(思い出した、院に行きたいけど母子家庭だからという話)。広松渉も3歳上をうまく活用してゼミの主をしていたと書いてあります。それで名古屋大の先生になれれば十分ですね(広松も母子家庭でしたね。同学年生は優しかったから)。人間には決まった道なんかありゃあしません。
 
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感想文他

2017-01-07 16:26:46 | 断片
 こんにちは。お正月も今日まで、というよりすぐ終わっちゃいましたね。
 でもこれから春だし。
 今の子どもは正月って面白いのかな、昔は1年に1回だけの家族等のゲームの日で楽しかったけど。テレビもなかったしね、って時代。今はババ抜きなんて知ってるのかね。テレビで嵐がやってたけどね。ああゆうのも子どもが見るのか年寄りが見てるのかよくわからない。
 
 さて、本日の感心した話。
 瀬尾さんという料理作家の本を見たら、名洞察。「うまいって、うれしいからってことでもあるのよ(趣旨)」。
 (「趣旨」っていうのが多いですが、本ならすぐ返したり新聞ならすぐ捨て場所にいったりするもので。時々いうように、頭に残ったことがその人の言いたいことなんですよ。で、感心すると名前まで書きたいところですが、残念ながらレシピに疑問が多々。指名してけなすのもいやなので苗字だけ)
 子どもが自分で作ったり、綺麗にできたものでわくわくしたり、それが美味しい、という感覚に化ける、と。
 もっともそのうれしさは不味さで裏切られたりするので、おんなじじゃあないけどね。
 で、その本自体の趣旨は、「昔は今みたいにお店で出すような料理なんかしなかった、それで十分だった。素材をただ煮たり、素材をただ焼いたり、料理なんてそれで十分美味しい」という本。
 そうだよね、同感。今はみんな作りこみすぎ。クックパッドなんてね。で、美味しきゃいいけど、不味いもののオンパレ。ま、そこまではいわないけど。おせち料理なんて、しょうゆとダシで煮ただけでも年寄りには美味しいもの。子供の時は嫌いだったけど。
 
 そこで、本日の朝日新聞、家族社会学者山田昌弘。(最近家庭で料理を作らなくなったという記事で)「妻が毎日温かい料理を作るなんてつい最近の習慣だ(趣旨)」、と擬似進歩派っぽく。
 バカいってんじゃねえよ。どこに住んでんだ、お前。日本の歴史で男が職業以外で料理してた家があんのか、どあほ。
 ごまかし屋は「いや、妻でなく年若い母が作っていたのだ」とか言うか?
 ああ正月1発目のわるくち。まあ私のせいではない。
 ほんと、有名な社会学者で口先男でない人間は皆無といってよいね。
 まあ、「有名」とは口先だけだ、ということでもある。女はそこまでひどくはないのは有名になるルートが違うせいだろうね。
 
 本日の感心した話の2。
 今の勤務先に近いのは蔵書の少ない図書館なので、予約なしだとどうしても本が軽く。
 で見つけて借りたのが栗城史多という登山家の、なんちゅうか、ひとりごと集。
 若いもんが、いいじゃん、成果ないけどまあなんでも気持ちだよ、と思って感心して読みました。
 んで、ネットで確認したら、「当該人には批判ばかり」、というご案内。 実際、検索画面の1ページ目から悪口がぞろぞろ。
 なんでそんなに人の悪口をいいたいかねえ。別に山田みたいにウソついてるわけでもなかろうに。
 こいつはただのアマチュアだ、系の悪口は見たけど、第1級登山家でないのは一目瞭然じゃんか。ただのアマチュアじゃ、なんでいかんのかねえ。
 思うに、去年の「自称貧乏」批判みたいに、俺だって貧乏なのにこんな工夫をしてもっとがんばってるとか、俺以下的な技術のくせにかっこつけやがって、本物の登山家はそんなんじゃないんだ、とか言いたいんだろうねえ。
 俺が俺が。ほんと、お前のことなんか聞きたくないぜ。
 まあこっちは自分にない栗城クンのバカっぽいところがいいのだけれど、自分もバカっぽい人だと、バカさに価値が見出せないんだろうねえ。
 あ、また正月第2の悪口になってしまった。
 まあみんなストレスだよね。登山愛好者なんか面白い賃労働をしてるはずもない。
 
 じゃあ、本日の悪口第3。お調子者のトランプ。いよいよ本格稼動も近く楽しみですな。
 一昨日もトヨタの悪口。メキシコで自動車を作るなら高い関税かけてやる、と。そっちがその気ならこっちもこの気。ただ、残念な豊田社長はうろたえてて困りもの。日本の代表なのにもっと毅然としろよ。
 とゆうふうに、わたしの感性は日本国民の標準ですから、いよいよ資本主義諸国家の矛盾が裂け目を開いていきますぜ。生理性の確保という下部構造的条件にがんじがらめの資本主義国支配者というのはそういうものです、って、元からの悪漢相手では悪口にならねえ。
 一方、良識のオバマ氏といえば、広島のみならず長崎へも千羽鶴とメッセージ。これでは到底腐朽期資本主義は立ち行かない。
 アメリカ最後の華が散りましたね。
 
 そういえば暮に怒っていた私の靴、の代替、イトーヨーカドーで6300円也。まともなのが他にあるとキズ靴でも安心して黒マジック補修にて出勤できます。どうせ出勤だし。
 で、これがカンボジア製品、ネットによるとカンボジアは貧しいので、日本は支援的に靴の関税ゼロなんだそうな。うるわしいですな、日本。アジアは一つ。これは頭で感じているので、日本標準感性ではないでしょうが、まあそのうちみなさんとともに身体で感じるようになるでしょう。東的アジアは一つ。ってゆうか、わかりやすく書きましょうかね、八紘一宇。
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新年のごあいさつ

2017-01-01 11:08:20 | 断片
 明けましておめでとうございます。

 本年も東京地方は良いお天気。昨日は紅白も最後まで見なかったので健やかに朝から起きて初日の出を見ました。休日続きの済んだ空気のせいなのか、眩しいものです。

 いつも思うのですが、お正月が1月新春というのはとても良いですね。これから寒くなるというのにまだどんどん冬、とかいうのだったらとても暗い。それが、もう春というのですから、後は本格的な春に向かって明るくなるだけ。
 で、お屠蘇代わりに、お酒は貰い物の山本合名会社の「山本」。上品でまあまあかな。こうゆう、味が少ないのが元々の白瀑の味なんだけどねえ。
 なお、昨日の夜は値段はその半額かもという、亀齢辛口純米・八拾でした。これは米を80%「残して」あるすごいお酒。エコと思えば酒飲みにはこれで十分。ちょっと味が濃いけど。

 さて、本日の新聞には元日で政治家や資本家がたくさん出てましたので批判題材は満載。
 ではありますが正月から悪口もいやなものです。わたしは本当は争いごとが嫌い。
 本日の役に立つブログは、人生訓。先日朝日のコラムが、「物事は何時間かけたかではなく何回やったか、だ」という趣旨の、識者だか塾の先生だか職人だかの発言をのせていました。
 ほんと、その通り。時間ではありません。世の中何回やったか、です。
 かの文化勲章・平山郁夫もそういっております。何万回スケッチをしたかが全てを決める(趣旨)。じっさい、その線はさすがの職人です。
 ここに高校生は来ないでしょうが、何時間勉強したかではありません。何回問題集をやったか、何回教科書を音読したか、が全てを決める。受験勉強は言うに及ばず、各種能力獲得にご活用ください。

 というわけで、新しいお正月の抱負は、第二の人生の始まり始まり、です。
 といってもしばらくはまだ旧職場でアルバイトですが。しばらくって、1年の3割とか。
 そのあと、上部過程論の上梓がある予定ですので、まだまだその先。結局来年の話かも。

   本年もよろしくお願いいたします。
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