こんにちは。東京地方、突然の暖気傾向。ありがたいことです。また寒くなるにしても、そのときはもう着実に3月に近づいているわけで。
さて、トランプ、ここまで悪漢とは想定外。善人には善人以外の気持ちは分かりかねるものです。ここにいらっしゃる方々は善人の若人でしょうが、悪人にはこれから何回も裏切られるでしょう。悪人とは一切付き合わないのが、唯一の安全の道です。でも社長が悪漢? まあ出世はあきらめたほうがよろしい。どうせ善人にはハナからムリです。以上、本日の役に立つブログでした。
短いか。
じゃ、提言。
アベは尻尾振っている場合ではなく、早急に弱小国連合でアメリカ包囲網を築くべきでしょう。
トランプは水責めにしてロシアのスパイだと吐かせるべきでしょう。
というわけで、本日は一部オタク様あて、広松渉。
なんの風の吹き回しかというと、この間(かん)寒くて昼休みに外に行きたくなかったのでイスの上での暇つぶし。
主観客観問題や現象学批難をここで取り上げている関係上、広松の難しい漢字使いを見て、私より偉いと思われても困るし。
さて、広松の卒論から晩年に至るまで、一貫した哲学課題は、自称「共同主観性」論。
主観客観図式は誤りだ、というポイントから、主観は、その時代の関係により共同主観となるのだ、という展開方式。
もっとも、広松の自問自答の文章を逐一読んだわけではないから、私の文章は不正確ね。正確さに興味はないので。人はどれだけ理解しているかが全てを決める。易しい言葉で書けないこと自体、理解なんかしていないのさ。
ま、いいや。さて、この問題点は何か。
1 関係の物神化
(1)主観-客体オンリーの論
広松にとって主観-客観の図式とは、主観-客体の図式である。 いわく、『「意識作用-意識内容-客体自体」という三項図式』である。客体自体」というのは少しこなれてないと思ったか、後には「認識対象」に変えた、はずだが、私の人生は短い。どこでどう変えたかなど、今ちょっと調べたが出てこないのでやめた。
ともかく、客観であるところの客体が実体である、というところが広松は気に入らない。
ここまでは私と同じ。
しかし、この先すぐ私とは分岐する。
広松は主観ー客体の二分法のことをのみ取り上げているわけで、それ以上の問題意識があるわけではない。私もいうように、基本的に「モノ」がある、という認識は完璧な間違いではある。しかし、問題は、「関係」要素の設定の仕方なのだ。
広松にとって、モノとして把らえるのはしょうがないことと展開される。
私の批判した清水盛光の論など、ぜんぜんオッケーのようだ。
それじゃあ、行為には使えない。ただの観照の論である。
自然科学の認識であれば確かにしょうがない。広松は理解していないが、しょうがない理由は物象化のためではない。数学のせいである。
数学とはモノそのものの技術である。モノがいくつあるか、が根底にあるのだから、数学を使う以上、モノから離れることはできない。
「いや、数学で関係を表わすことができる」 とか馬鹿な話がでるだろうが、それはただのバカだ。科学とは、たとえ劣った自然科学であっても、新しいことを見つけるために存在するのであって、論理学の本を数式で書くためにあるのではない。くやしかったら論理学者は新しい物理法則を発見してみたらどうだ。
(2)社会科学で問題な主体-客観の図式
それ以上に科学が解決しなければならない主観-客観図式とは、主体-客観の図式なのだ。主体の立場を忘れて、客観主義的に真理を措定せんとする性向からの脱却である。
「お前はイヌという言葉を使うが、それはお前の言葉ではない。なんとなればイヌという言葉の意味はたくさんの人間の使用を経て到達したものだからだ。これが共同主観性である」などとこけおどしの発言をして初学者を惑わすときの立場からの脱却である。
いわくいうところの”さまざまなあらわれかたをするイヌ”なんてもんは、私に限っては知らない。わたしは名辞などなくとも目の前の動物を認識することができる。「こいつは蹴飛ばすと噛みつかれる危ないヤツだ」。名辞「イヌ」なるものは、目の前にいる動物の情報を他人に伝えるための「単語」にすぎない。共同主観? そんなだいそれたもんじゃあない。別に言語の形成過程を語りたいというなら語ればいいが、そんなものは行為者には関係はない。
本来、客体とは認識対象などと把らえてはならないのだ。哲学が「客体」と呼ぶものは、認識対象ではなく、行為主体の環境の要素である。それが実体であるかどうかに行為主体の興味はない。実体であろうがなかろうが、それは経験上、わたくしの行為を邪魔するものであったり、あるいはそのために促進させられるものなのだ。「もの」と書いたが私たちはそれをモノとは思っていない。共同主観とたいそうにいう、しかし共同だろうがなんだろうが自分が使う言葉が、教えられた言葉では、「もの」と呼ばれているだけのことなのだ。
(横道)
哲学者ってこういう論議がわかんないんだよね。いわく『「ある」とは何か』 が 『存在とは何か』 になっちまう。バカいってんじゃないよ。「ある」というのは人間が行為するときの有意味性の表現なだけだよ、存在も非存在もあるものか。
元に戻って、言葉は全て、それを使えば他人に意思を伝達できる道具にすぎない。ある単語がどうできるか、どういう過程を経て作られたかは、大脳生理学の上に立つ、技術的認知論にすぎない。そんな技術論がどうであろうと、行為論的社会学には、0.1%以上の影響はない。
2 社会科学への「関係」の正しい取り入れ方
初学者の方は「主観-客観の図式が問題になるなんて変ではないか。主観も客観も問題は認知なのであるから、どこかで統一されているべきであり、そして統一されているなら「正しい」認知があるはずだ」 とお思いになるかもしれない。実はその通りである。それが主体としての客観の立場なのだ。
ともかくも、あくまで認知は行為主体のものであり、それ以外の認知などありえない。独我論においても同様にその通りである。
ただ、立場により主体としての認知の仕方が違うのだ。いわば、行為主体が、「こんな関係下にある自分」 として関係を「正しく」 把握し、その認知の下で認知を修正することこそ正しい認知方法なのだ。
このときの「関係」は、広松の哲学的アプローチとは異なり、具体的な内容を持つものであり、この内実を明らかにするものは、哲学ではなく、社会科学なのだ。
抽象的だね。
ま、これが隈の立場であり、すでに具体的には厚い本2冊にあります。次の隈の配本では観念が主題なので、もっと詳細かつ発展的に書かれております。
(付けたり)
それにしても広松の革共同疎外論批判には、根本的な間違った立場があったんだな、と、この間(かん)思ったところであります。プロスターリニストであることを貶す(けなす)つもりはありませんが、まるで主体性というものがわかっていない。
これは黒田が5割勝ちです。
いちおう参照文献ね。
「世界の共同主観的構造」、実は「広松渉哲学論集」。平凡社、2009。
「存在と意味 第1巻」。岩波書店、1982。
「存在と意味 第2巻」実は広松全集、第16巻。岩波書店、1997。
さて、トランプ、ここまで悪漢とは想定外。善人には善人以外の気持ちは分かりかねるものです。ここにいらっしゃる方々は善人の若人でしょうが、悪人にはこれから何回も裏切られるでしょう。悪人とは一切付き合わないのが、唯一の安全の道です。でも社長が悪漢? まあ出世はあきらめたほうがよろしい。どうせ善人にはハナからムリです。以上、本日の役に立つブログでした。
短いか。
じゃ、提言。
アベは尻尾振っている場合ではなく、早急に弱小国連合でアメリカ包囲網を築くべきでしょう。
トランプは水責めにしてロシアのスパイだと吐かせるべきでしょう。
というわけで、本日は一部オタク様あて、広松渉。
なんの風の吹き回しかというと、この間(かん)寒くて昼休みに外に行きたくなかったのでイスの上での暇つぶし。
主観客観問題や現象学批難をここで取り上げている関係上、広松の難しい漢字使いを見て、私より偉いと思われても困るし。
さて、広松の卒論から晩年に至るまで、一貫した哲学課題は、自称「共同主観性」論。
主観客観図式は誤りだ、というポイントから、主観は、その時代の関係により共同主観となるのだ、という展開方式。
もっとも、広松の自問自答の文章を逐一読んだわけではないから、私の文章は不正確ね。正確さに興味はないので。人はどれだけ理解しているかが全てを決める。易しい言葉で書けないこと自体、理解なんかしていないのさ。
ま、いいや。さて、この問題点は何か。
1 関係の物神化
(1)主観-客体オンリーの論
広松にとって主観-客観の図式とは、主観-客体の図式である。 いわく、『「意識作用-意識内容-客体自体」という三項図式』である。客体自体」というのは少しこなれてないと思ったか、後には「認識対象」に変えた、はずだが、私の人生は短い。どこでどう変えたかなど、今ちょっと調べたが出てこないのでやめた。
ともかく、客観であるところの客体が実体である、というところが広松は気に入らない。
ここまでは私と同じ。
しかし、この先すぐ私とは分岐する。
広松は主観ー客体の二分法のことをのみ取り上げているわけで、それ以上の問題意識があるわけではない。私もいうように、基本的に「モノ」がある、という認識は完璧な間違いではある。しかし、問題は、「関係」要素の設定の仕方なのだ。
広松にとって、モノとして把らえるのはしょうがないことと展開される。
私の批判した清水盛光の論など、ぜんぜんオッケーのようだ。
それじゃあ、行為には使えない。ただの観照の論である。
自然科学の認識であれば確かにしょうがない。広松は理解していないが、しょうがない理由は物象化のためではない。数学のせいである。
数学とはモノそのものの技術である。モノがいくつあるか、が根底にあるのだから、数学を使う以上、モノから離れることはできない。
「いや、数学で関係を表わすことができる」 とか馬鹿な話がでるだろうが、それはただのバカだ。科学とは、たとえ劣った自然科学であっても、新しいことを見つけるために存在するのであって、論理学の本を数式で書くためにあるのではない。くやしかったら論理学者は新しい物理法則を発見してみたらどうだ。
(2)社会科学で問題な主体-客観の図式
それ以上に科学が解決しなければならない主観-客観図式とは、主体-客観の図式なのだ。主体の立場を忘れて、客観主義的に真理を措定せんとする性向からの脱却である。
「お前はイヌという言葉を使うが、それはお前の言葉ではない。なんとなればイヌという言葉の意味はたくさんの人間の使用を経て到達したものだからだ。これが共同主観性である」などとこけおどしの発言をして初学者を惑わすときの立場からの脱却である。
いわくいうところの”さまざまなあらわれかたをするイヌ”なんてもんは、私に限っては知らない。わたしは名辞などなくとも目の前の動物を認識することができる。「こいつは蹴飛ばすと噛みつかれる危ないヤツだ」。名辞「イヌ」なるものは、目の前にいる動物の情報を他人に伝えるための「単語」にすぎない。共同主観? そんなだいそれたもんじゃあない。別に言語の形成過程を語りたいというなら語ればいいが、そんなものは行為者には関係はない。
本来、客体とは認識対象などと把らえてはならないのだ。哲学が「客体」と呼ぶものは、認識対象ではなく、行為主体の環境の要素である。それが実体であるかどうかに行為主体の興味はない。実体であろうがなかろうが、それは経験上、わたくしの行為を邪魔するものであったり、あるいはそのために促進させられるものなのだ。「もの」と書いたが私たちはそれをモノとは思っていない。共同主観とたいそうにいう、しかし共同だろうがなんだろうが自分が使う言葉が、教えられた言葉では、「もの」と呼ばれているだけのことなのだ。
(横道)
哲学者ってこういう論議がわかんないんだよね。いわく『「ある」とは何か』 が 『存在とは何か』 になっちまう。バカいってんじゃないよ。「ある」というのは人間が行為するときの有意味性の表現なだけだよ、存在も非存在もあるものか。
元に戻って、言葉は全て、それを使えば他人に意思を伝達できる道具にすぎない。ある単語がどうできるか、どういう過程を経て作られたかは、大脳生理学の上に立つ、技術的認知論にすぎない。そんな技術論がどうであろうと、行為論的社会学には、0.1%以上の影響はない。
2 社会科学への「関係」の正しい取り入れ方
初学者の方は「主観-客観の図式が問題になるなんて変ではないか。主観も客観も問題は認知なのであるから、どこかで統一されているべきであり、そして統一されているなら「正しい」認知があるはずだ」 とお思いになるかもしれない。実はその通りである。それが主体としての客観の立場なのだ。
ともかくも、あくまで認知は行為主体のものであり、それ以外の認知などありえない。独我論においても同様にその通りである。
ただ、立場により主体としての認知の仕方が違うのだ。いわば、行為主体が、「こんな関係下にある自分」 として関係を「正しく」 把握し、その認知の下で認知を修正することこそ正しい認知方法なのだ。
このときの「関係」は、広松の哲学的アプローチとは異なり、具体的な内容を持つものであり、この内実を明らかにするものは、哲学ではなく、社会科学なのだ。
抽象的だね。
ま、これが隈の立場であり、すでに具体的には厚い本2冊にあります。次の隈の配本では観念が主題なので、もっと詳細かつ発展的に書かれております。
(付けたり)
それにしても広松の革共同疎外論批判には、根本的な間違った立場があったんだな、と、この間(かん)思ったところであります。プロスターリニストであることを貶す(けなす)つもりはありませんが、まるで主体性というものがわかっていない。
これは黒田が5割勝ちです。
いちおう参照文献ね。
「世界の共同主観的構造」、実は「広松渉哲学論集」。平凡社、2009。
「存在と意味 第1巻」。岩波書店、1982。
「存在と意味 第2巻」実は広松全集、第16巻。岩波書店、1997。