リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

搾取

2008-11-30 21:54:44 | 賃金・価値・権力
こんばんは。どこにも行かなくても、田舎はそこここが晩秋。

昨夜テレビを聞いてましたら(目が悪いので大体「聞いて」ます)、番組紹介の声が「今、年収1億以上の27万人に販売ターゲットを絞り、、、」とか言ってまして。
いや、そりゃウソだろう、とは思っても、前回書いた147万人のこともあり(こっちは大体そんなもののようで。いいのか日本、そんなんで)ネットで調べました。

結局、年収1億円以上は1万人くらいみたいですね。(某政党系が140万人とか何箇所かで言ってましたが、しっかりしろよ。そんなにパーか。なにいっても疑われるぞ、ってそのまんまですが。)

それにしたって、金持ちの取った分け前というのは、今バイトで年120万円くらいで生活している人が消費物資に使うはずの分です(注)。
(って、教えろよ高校教師。)
ですから、そんな人たちに配分すれば、バイト暮らしの人一人で200万ずつということで、50人OK。金持ちが1万人で、最低の1億だけの拠出でも、適齢期でお金のない50万人が300万以上の年齢相応の年収になります。
カネはね、労働者が労働分を取り返す対価なのですよ。

って某政党は、デマ振りまく代わりに、なんでいわないのかな。
そこまでいっちゃオシマイだからでしょうけどね。腰、入ってないよ。
1万の票が減ったっていいだろうが。どうせ投票なんかしてくれないのに。

とにかく、若いひとたち、金持ちの金はあなた方のものです。その金持ちの持ち会社の労働者の分ではなくて、労働者一般の消費物資の対価。蟹工船なんて読んでないで、マルクスでも読んでください。
ほんとひどい退化ですよね、社会科学も。こんなことは百年来の常識だったんですけどね。
わたしは教師じゃないですが、教育実習で教えましたよ。生徒さんとケンカもしましたが。
はい、都立千歳高校卒業生のみなさん、わたしがあの教生です。


(注)これはほんとの話である一方、バブルで儲けてるカネは、労働の基礎がないからそうではありません。ありませんが、あるかのごとく取り扱われているので、返せと主張しても間違いではありません。




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運動は必ず支配者の弱い層に向かう

2008-11-24 22:08:51 | 歴史への視角
 さてさて、なんのお話をしましょうか、という、世の中みんなしょうがねえなあ、みたいな心持ち。

 本は古本屋でしか買う必要がない、という私、山一つ越えた古本屋で(ってどんな川崎市だろうか)ちょっと掘り出し物を買ってまいりました。小林良彰「現代革命への構想力」。別に普通の学者ですけどね、同志社大学とかの元教授。慶応大学に同じ名前の(どうでもいい)政治学者がいて、ネットで叩くとそればっかでめげますが。
 ま、この本は、フランス革命史家が若気の至りで書いてしまった本なんですが、マルクス主義者じゃない革命志向家なんで、いくつも初聞きのことが書いてあって面白い本で、といっても、4割は根拠がなくてなんですけどね。ま、社会科学者ではなく歴史家だから大目に見て。

 その中に、「運動は必ず支配者の弱い層に向かう(私翻訳)」というのがありまして、
 『へえ、経験上そうだけどねえ、、、そう、理論化できないのは、私の弱点とは認めるけど、でもいいやこんなテーゼ』と無視した知見。

 で、話は例の前回非難のバカおやじ。
 ガキと思ったらいいオヤジで、情けないったら。いつまでガキなんだ。
 で、このテーゼですよ。
 庶民の刃は『必ず支配者の弱い層へ向かう』んですよね。

 今日のgooのニュースですと、一億円以上の金融資産者が147万人ですって。87人に1人、ってどうゆう計算か知らないけど、私が言ったんじゃないからまあいいや。ほんとは147万人もいるってところが眉唾だけどね、私も所得平均以下だから貧乏人の世間知らずかも知らない。
 で、オヤジ、何やって暮らしてたか知らないけど、カネがあったら気違いでも人殺しなんかしないんだろ。
 147万人殺せよ。
 いや、いまどきそんなことをいうと、警察が来ますよね。じょーだん。
 問題は、147万人を作ったのは誰だってことです。
 いかに高級官僚が日本を操ってるかのように見えても、実は高級官僚でさえ何もしてはいない。
 しているのは無能に見える自民党と、静観してるかのごとき資本家層です。
 どうしてそんなことがわかんないのかなあ、、、というよりもわかってるけど手を出せない。手を出せないから分かっていないフリをする。
  そんなこと理論化してもしょうがないしねえ、、、。常識は常識でいいんですよ。そんなものは現象的な社会学でいい。100年来、 現象しか語らなかった社会学で十分。私の出る幕ではない。

 でね、そのまんまオヤジも闇に消えてれば力になったわけですよ。なーに、自首しちゃったりしてさあ、どーしようもないガキだね。って、もちろん、死刑が当たり前。私は死刑論者です。人、殺したって15年いれば、また青空の下さあ、なんてありうるわけないでしょ。
 もとい。理論の話でした。
 理不尽でも何でも、やったもの勝ち、はやしたもの勝ち。
 
 世の中、立派な人もいまして、朝日新聞によると、稲葉圭信さん。宗教社会学者とか。
『一方で他人ことを考えるホームレス支援者がいて、他方にホームレスを虐殺する思いやり欠如者がいる。これをもって「思いやり格差社会」という』のだそうです。こうゆうのを虐殺というと、アウシュビッツの形容詞がなくなりますけどね。いや、形容詞だけの話で、お気持ちは同感。同感だけど、不信感を持つというだけで。
 ま、とにかく、彼氏によれば、この時代に抗すには、日本の思いやりの精神的伝統を掘り起こせばいいんだ、今の価値観の衝突をよいチャンスとして捉えればいい、んだそうで。
 社会のことを語れば社会学者になれるというわけではないんです。
 こんな学者の言論は何の力にもならない。だから私にどうしろ、っていうの? 私はいい人間だからわかりますよ。それで、小泉某に何しろっていうの? お前がいい嫁さん世話してくれるの?
 人の行為に関連しない言論は、傷の舐め合いにしかならない。それで、この世に傷ついたいい人たちの心が休まるのなら、かまいませんけどね。

 残念ながらか、してやったりか、言論が力となるのは、その言論が人間の行為の将来を提示するときに限る。
 かくて権力者の言論と、対抗権力の行使を訴える言論に限り、世の中では力を持つ、あるいは、イデオロギーの資格を持つことになる。もちろん実力行使もね。
 その他のは? わたしども、自称社会科学者の理論は?
 ただの慰みさあ、といっておきましょ。ボディーブローは後で効く。



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こだわりと障害

2008-11-19 23:22:14 | その他
(怒りの発散ですので、普通の人は読まないで結構です。)(あ、今日、酔ってます、っていつもですが)

 人は物事にこだわったりするでしょう?
 そのことが人の生き死にや苦しみ悲しみに直結しているなら当然です。

 でも、そうでないこともある。
 年寄りの、世の中にはこれしかないかのごとき、一つのことへのこだわり、子供たちの、これはほんとに世の中にはこれしかない、たとえばボロきれのような縫いぐるみへのこだわり。

 それもこれも、行為に不可欠なことは覚えて対応していかなければならない、という行為の必須条件から派生する事象なのでしょう。

 しかし、その特性を発揮できる環境は、人間が消費物資を管理するようになってからは、災害と戦争時しかない。
 古代以後で、こだわりの発揮は、気違い沙汰しかない。

 で、山口剛彦。奥さんのことはおいて、彼をけなせる人間など、日本には千人もいない。ましてやガキに毛の生えた気違いなど。
 ざけんな、この野郎。てめえ一人では人殺ししかできないくせえ。
 タコすけめ。

 精神分裂の人は大変です。どうしても物事にこだわってしまう。こだわったまま雪だるまになってしまう、というのが正解でしょうか。
 アル中の人は大変です。こだわりが突き抜けてしまう。
 どちらも、病気だ、というのは、気を晴らしさえすればそんなテーマは飛んでいってしまうからです。古代以降ではそんなことは考えなくとも生きていけるのです。
 山口氏は、壊れかけた年金制度を、その時点で30年間もつように変えた人間です。分裂症や、(場合によってですが)薬物中毒の精神障害への年金も、彼がきちんと制度を整えました。
 小泉の事務次官だった? 今じゃ誰だって介護制度を必要だって言ってるじゃないですか。私以外は。
 そんな一般意見を、反対意見を抑えて制度にした人間です。
  あほんだらが。バカガキ。

 こうゆう事態を見るとどうしてもネットウヨクを思い浮かべるのは間違いでしょうか?
 なんとかいう、深夜放送出の無責任評論家を弾劾したくなるのは間違いでしょうか?
  (PS.セイヤングね。もちろんパックではありません)
 
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コンピューターと行為

2008-11-14 21:16:57 | 行為
ひいきの渡辺という将棋のタイトル保持者が負けてしまいましたよー。
勝ったのは羽生というおじさん。これで0勝3敗。初めに4勝したほうがタイトル取得。
実力は羽生というおじさんの方が上ですので、もうどうしようもない。

あーーあ。
だからひいきとかすんの嫌いだ。もうしばらく将棋は見ません。

ま、そういうことで、コーヒーブレイクにするにも話題がマイナーすぎるので、ちょっとひねって。

 将棋でも碁でも、コンピューターが発達すれば、必ずコンピューターが負けるか勝つかします。あるいは、負けるのを拒否して時間切れ負けになります。

って、まだ、誰もいってないでしょ? 
何いってんだって? 何もいってないだろ?
見ての通り、コンピューターは必ず勝つわけではない。そんなこと誰もいわないでしょ、ということです。
どうして真剣に考えないのかと思いますが、真剣に考えるのはご法度、という規範が関係者の間にあるのかもしれませんね。

 その1 コンピューターは必ず勝つわけではありません。
 究極的なことをいいます。
 盤上に駒や碁石が並べてあるだけでは誰も勝ちません。
 初めの一手が指されたときに、選択が開始されます。
 将棋だと百や、そこいらでしょうか、碁ですと何百の手を選択する。この瞬間で理論的には勝負の決まる手もある。決まらなければもう一手、次にもう一手。
 すべて相手がどう指すかで決まるから、どちら手番の相手になるか、でコンピューターも負けるのです。

 1 最善手を指せば、もう変更の余地はなく勝ち負けが決まる一瞬が、初めの一手ではないだろうが、しかしどこかにある。
 2 その順番が見越せる状態になったとき、相手は、負けると決まった手を指して負けるか、それを拒否して時間切れ負けを選ぶ。

 だから、コンピューターでも負ける。
 当たり前だけど誰も言わないのは、コロンブス以前的な幻想の世界、魔術の世界にみんながいるわけです。
 それがコンピューターが負ける世界になるには、50年以上かかりそうですしね。
 たまたま、今はコンピューターの相手がアホな人間だから、適当なところで最終選択肢が決定されてしまうだけで、あと10年もすれば、コンピューターのほうが勝つ、というだけで。

さて、ここからは行為論。

 実は人間は勝ち負けなんか気にしていない。

 って、誰もいわないでしょ?
 ほんと、このブログ見つけた人は知らないことばっかり載ってて幸せじゃないかと思うんですが。

 さて、ウソだと思ったら、今日も何万人もの人が将棋を指したはずですが、そんなのあなたに興味ないしょ? 半分の人は負けたはずだけど、くやしい?
 あにいってんだよう、って感じですね。そんな他人の話をするな? だから、ここは学問の世界で。
 さらにさて、私たちが将棋を指すときは、「これをこうやったら相手はこうする、そこでこうやったら勝つじゃん」 、そら当たりイ! 勝った!
 そこが楽しくて指すわけです。
 それが外れりゃ負け。かくてくやしい。隈理論が説く「行為論的将来」が確保されること、ついでに優越的自由と賞賛も得られればいうことなし。
 この行為論的将来が確保されなければ、これは空しい。ボーっとしてて駒を動かしたとして、相手がへぼなら勝ちますわな。それでうれしい? 一応、誰かが褒めてくれりゃあね。でも相手が小学1年生じゃ、優越もないわ、賞賛もないわ、時間の無駄ですな。

 第1、見ている人間にとって
 コンピューターがいくら勝ったところで、人間私に理解されなければそんなもの、夜空の向こう、ケンタウルス座で指してる将棋に過ぎない。
 人間自分の考えが対局者に共感的に示されて、「こうすればいいかな、え? それ何? え? え? へーーー!!! 勝っちゃった」 こうした行為論的過程ナシでは人間と関わる行為にはならない。

 第2に、主体的な人間とは将棋盤上の世界を自分の筋道の中に組み立てるのが、生きる糧なのです。
 武術家でも政治運動家でも、こういう状況にさえなれば、ということを自分の感性で思い描く。
 そしてそのチャンスと思ったときに動く。「え、なに、そんな運動ないでしょ!」 相手はびっくりだけはするが冷静に対処して、大方、夢を見たほうが負ける。
 負けるにせよなんにせよ、行為とはそういうものであり、他人の行為を見る自分はそういうものです。

 で結論。
 ロボットには行為の原理と原則を設定すれば人間に8割がた近づきます。ほとんどの人間は、「彼」をみても、ロボットか人間かを気づくことはない。人間と同じ反応をするのは疑いもない。生理的な問題=腹が空けば食いたがる、お化けを見れば逃げたがる。賞賛=生理的な道筋にある人間から褒められるために動作する。
 わけですが、ロボットが自分の将来を思い描かない限りは、コンピューターはまだ似非ですね。人間は、最後の一瞬に気づくんですよ。こいつ、自分の夢を作っていない、って。自分の夢と他人をつなぐ。さて、コンピューター設計者は、どうつなぎますかね。これが事実認知論の問題です。
 具体的にいえば、事実を扱う歴史の問題です。
 具体的じゃないか。では、どう「誰かも分からない抽象的な」人間に直結した賞賛を、自分の生理性と組み込めるか、ってことですね。ま、長いんで。

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11月の朝顔

2008-11-09 22:15:00 | その他
 これ、何の変哲もないアサガオ。ちょっとよれてる気さえするパッとしない一輪。
 でも背景上部に赤っぽい何か見えますか、これが紅葉して落ちたサクラの葉。
 そう、今日は11月の8日(あ、昨日か)。アサガオ咲くんですよね。
 蕾ができてそろそろ4週間、10月13日付けのブログの、子犬の花とは茎も姿も違いますが、昨日咲きました。アサガオって蕾後2日で咲くんですよ、ほんとは。もうだめなんだよね、と思ってましたが。びっくり。
 ちなみに、写真の花の左に見える緑色のものが次の蕾。二つありますが、いかになんでも、もう無理でしょうね。
 さらにちなみに、花のもっと下の一升瓶の口のようなものは一升瓶の口です。
 家人が花の種を取るときに茎を折ってしまって、切り取って一升瓶にいれたのが3ヶ月前。そのまんま3ヶ月間、咲いた花は十数個。
 うーーん、すごすぎる。

 というわけで、今日はコーヒーブレイクのつもりだったのですが、テレビで老盲導犬物語をやっていまして聞くに耐えずに(アイロンかけてまして)、途中で消しましたが不愉快で。
 およそ、ベジタリアンなどという偽善者どもが世の中にはいまして。もちろん、人間同様に感ずるのが当然な動物に配慮するのは当然ですが、何を根拠に植物なら何をしてもいいと言うんだ。
 小学校の理科の授業も受けたことのない世代ならそれはそれで、留保の余地はありますが、植物も動物もおんなじでしょう、生物として。いや、もちろん、感情のダメージ、ストレスの大きさ、そういうのを動物に感ずるのは当然だ、といっております。しかし、植物なら何をしてもいいが、動物はダメだ、などと。ご都合主義の極致です。
 というご都合主義を、廃物盲導犬にみたのでいっております。なんとかしろよ。

 もともと、ベジタリアンの存在は、二項図式といいまして、あれがダメだからこちらへいくという、シンプルな観念作業のなせるわざです。
 それはそれで、しょうがないところがあって、人間は、そういう思考を採るものなのです。じゃあ、その二つ、自分の認識が違ったからって勝手に作った対立図式、違うかどうか、それは、他人という第三者しか教えられない。だから、ソクラテスの時代から、弁証法が存在することになる。それがいやであれば、三項図式といってもう一項増やすことになる(、なんてのが20年前流行ったのですが、びっくりしたことに、yahooしたら、でてきたのはキリスト教と、世間で「宗派」と呼ばれるマルクス主義党派だけでしたね。社会学ではもう消えちゃったのかな)。

 しかし、自然はそうではない。
 自然のストレスは、他生物を食べるところにはないし、他生物に食べられるところにもない。自分の行為が成立していけば、生物=自分は死んでもいい。あとには、離された悲しみは残りますが、それはどういう形で死のうが同じことです。
 植物のことはわからないけど、人間はそうです。動物も同じであれば、植物も同じく。
 ポイントは、植物も動物も同じだ、という理由が、動物に引き付けられているから植物も同じ、という論理です。
 植物が食えるなら、、それだから動物も食える。これが宮沢賢治、その他、仏教徒に把握できなかった論理でしかも私は、真理だと思っております。

 でも、とりあえずそんなことをいいたいわけじゃないんですよね。信じきった目をした動物など殺せるものではない(もちろん、しかし、食べるために殺さざるを得ない)、と同じに、とにかく朝顔も、花を咲かせられてよかった、と思うのです。

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運動の機序

2008-11-08 23:06:11 | 社会学の基礎概念
 この2,3回、アナーキスト穏健派の面目をお伝えしたところ。

 では、なぜ、アナーキストが、さも無頼漢の代名詞のようにいわれなければならないのか。

 今日の朝日新聞は (別に毎日新聞でもyahooでもいいんですけどね、やはり一番情報量が多いのは新聞) 女子マラソンができた経緯を伝えていました。

 昔から、女なんかにマラソンができるか、と決まっていたところ、1966年だかに男子マラソンに、ファーストネイム、イニシャルで女が出場したんですって。E・隈、みたいなもんですね。走り出してそれに気づいた大会役員が女子選手を道路から引きずり出そうとしたところ伴走していた夫が反撃して、女は完走したんですって。これが問題となって、論議が続く中、さらに追随者が出続けた結果、1972年、女子マラソンができた、そうです。

 とゆうわけで、社会を変えるためには、まず初めに、キマリを破る必要があるんですよ。世の中って。論議があっても利害関係者の中の論議では、つぶされるだけなのです。利害のない人間にも訴える必要がある。しかし、みんなは忙しい。かくて採られる必要が、 「事実をまず変える」 、この1点なのです。
 なんで、そんな、って、人間の表現は、身振りと口利き、しかない。それでは遠くへは伝わらない。伝えるためには、他人の口が必要なのです。事実を変えると、これを伝える人間が涌いて出る。
 「とんでもないことだ!」「なによ、横暴!」「まあ、まあどちらも落ち着いて」「どっちもどっちだ」「やりようがあるだろう」エトセトラエトセトラ。そして、さらに追随者がこの事実を確定していく。 (ここ、少しずれるけど大事) こうして事実は伝えられ、広げられていく。この中で、古い規範は捨てられていく。
 別に女子マラソンがいいか、どうか、ということではないんですけど。女子マラソンて、母性には非常な負担は負担だそうです。昔は、子供を産むことは今以上に大変であり、危険であり、しかし、国家に望まれることだった。どんな親だって、誰も自分の娘が危険な目にあうのを望みはしませんがな。
 しかし、その中で、生理的存在に関わることがないのを条件に、新しい賞賛と優越に合致するものが変化していく。
 
 この運動の「キマリを破る」という普遍性をすすんで説き、実行するやつらが、「アナーキスト」なわけです。
 彼らは国家が作った秩序や、組織が作った秩序など、屁としか思っていない。「やれ、やれ」てなもんですね。
 今以上に国家・組織が力を振るっていた数十年前では、そりゃ極悪のヤツらでさあ。
 
 今の時代だと、コミュニストも同じだと思われるでしょうから、解説します。
 コミュニストっていうのは党幹部のいうことが絶対な人たちなんですよ。なので、彼らが何をいうかは権力側におなじみのこと、お互い、そうした無茶な行動はさせないし、しない。この約定を破ると 「ブランキスト(その世界の用語で悪口なんですね)」っていわれて、まともな扱いをしてくれない=彼らの世界の賞賛と優越に反するんです。
 と、解説しても、彼らに違うといわれることはありません。テーマをすりかえて反論してくるのがせいぜいですね。 「お前らはただのプチブルだ」 とか 「ルンプロだ」 とかね。要するに、お前らに運動する資格なんかない、って言いたいんですね。偉そうに。おめえらは運動の神様かって。 「ああそうだよ」 といわれますけどね。偉いんですって、彼ら。

 ま、とにかくそういうわけで、別にアナーキストが無頼漢だ、というわけではないのです。



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アナーキズムとヒューマニズム

2008-11-06 22:41:01 | 行為
 テレビ番組です。アンビリーバブル。ここんとこ、仕事に余裕があって(こんなの見て)。

 で、その中で
「ベトナム戦争で18歳のアメリカ軍初年兵がベトミン(ベトナム民族解放戦線兵士)と遭遇。出会った初年兵は驚愕して凍りついているが相手は撃たない。気を取り直してM16の引き金を引く。倒れた相手の胸には小さな少女の写真が。なぜボクは撃たれなかったのか、、、以後その写真の少女をめぐって物語が続き、初年兵は、大人になった少女に許される、、、」

 というわけで、番組が成立します。
 こういう番組って、見る人がウヨクでも成立するでしょう?
 (そんなことはないというあなた、あなたはウヨクではないね。ただのヤクザ。なんて決め付けると、上の疑問符の行方が、、、)

 さて、アナーキストにとっては、こんな番組は存在しない。
 そもそも、なりたくもない国家兵士になって戦場に出たのが悪い。
 といっても、現実では行かないとひどい目に合わされたりするし、で、兵士になるのだけれど、それにしても理屈上では、こんな番組はアナーキストには意味はない。「だからずうっと言ってたじゃないか。国家なんて生きている人間個人の敵なのだ。」

 ようだけれど、そうではない。
 ここで、本来のアナーキストの優位が明らかになる。
 アナーキズムはヒューマニズムなのだ。

 第1に、個人が納得しないその個人の行為を確保する思想として。
  人間は、自分がいやだという人殺しを他人に強いられる理由はない。
   (理由はないのに、でも、あるのは、生産関係に縛られてるからですけど)

 第2に、殺されたベトミンの少女は、しかし、その後のコミュニケーションの中で、初年兵を許してゆく。個人が個人として行わざるを得なかった行為は、大人となり生きて道を進む人間には理解可能なのだ。

 第3に、後からテレビで見れば、ヤクザ以外の人間は、その思想を納得する。

 40年昔で言えば、神に成り代わる行為がヒューマニズムだとか、あるいは、とにかく人でも助ければヒューマニズムだろう、とか。
 そんなものはヒューマニズムではありません。個人として生きることをお互いに納得し合える、その限度内で行為し合う、そのことが、人間同士分かり合え、許し合え、次の朝、「おはよう」といえる行為なのです。
 それは他人を減価償却させることしか考えられない資本家にも、国家のことしか考えられないコミュニストにも、自分の行為の影響しか考えられない実存主義者にもできはしない。
 それは、自分のことを環境の中で考え、これを解決する手段を自分の責任で行為するしかないアナーキストにしかできない。
 故に、アナーキズムは、現代の時点では、最高度の思想なのです。


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アナーキストと秩序

2008-11-03 21:39:00 | 行為
 アナーキストとは無政府主義者のことですから、一切の権力というものを認めません。この結果、(神の自由の手に期待する極右反動以外の、昔からの平凡な)アナーキストは、秩序を認めない、ということになっています。

 なんて、のっけから難しいことを。
 ま、ここんとこコーヒーブレイクばかりなので。

 で、元に戻って、
 そんなんでよいのか。秩序がないなどとありえない話をするな、なんてもんですね。
 ここでアナーキストの対応は3通りです。
1.人間はそんな悪いものではない。人間を信じろ。
    トルストイ以来のアナーキストですね。国家主義者の思想史家は、こうゆうのを性善説と呼びます。国家主義者というのは、丸山真男とか、そういった自称左翼の人たちのことですけどね。

2.そんなこと知るか。オレはやりたいようにやるんだ。
    楽したい若者ですね。別に悪いとは言いませんけどね。楽してるのは君だけじゃないし。他の自称自民党や共産党支持者よりも、ちょっとでも考えてるだけまし、ということもできます。
    
 ま、そんなわけで、なんでお前は秩序派なの、という理由をかいつまんで言いますと

3.私などはシンプルですから、人間て、まずは育つんですよ、ということから始めます。なに、秩序って。そんなもん、権力者の言葉じゃないの。頭、腐ってんじゃないの。
 この辺までは普通のアナーキストの言葉。
 でも、お客さんのアナーキストさん、いまどきの骨の髄まで国家教育にさらされた人間はそんなことでは何も理解しないのですよ。さっきいった丸山の類ですね。まあ、ボルシェビキ、でさあ。

 というわけで、次です。
 人間というのは、まず育つんです。人間の中で育つ。
 親がどんな奴でもその中で育つ。そうして自分ができる。このとき、まだ13歳。
 13で何ができるか、って、できなきゃ悪いなら、そりゃあ教育が悪いだけさあ。
 今の日本の教育でよいのなら13では何もできない、しかし、人間はできてるのさあ。

 人間ができた瞬間に、人間個人には秩序ができている。
 ボクは何もできなくてうろうろするしかない。アタイはOK、エロビデオとかあるでしょ。オレなんか、学歴社会から排除されそうで、しょうがねえ、アナーキストになるか。
 そんなもんはいろいろある。
 しかし、真実は一つ、人間は育って、13歳で頭の中にこの世界の秩序を作り上げる。
 ウヨクが好きだったら、10歳まで毎日国旗に頭を下げさせりゃあいいさ。
 ボルシェビキが好きだったら、10歳まで、毎日、人民諸労働共同作業をさせればいいさ。(この10歳という差が微妙なところ)
 そんなことはどうでもいい。アナーキストというのは、生き上がった一人の人間にしか興味がない。
 その生きている行為者個人、DNA35421は、育った段階でDNA35421-Zとなって、それまでの秩序を抱えて、好きなように生きるのです。
 お坊ちゃんトルストイは善人秩序Tを抱えて帝政ロシアを生き、敵を35人殺した戦士Zは、イスラム秩序Zを抱えてアフリカ内、自称共和国を生きるのです。(あとは制度の問題さあ)

   秩序のない人間だって?? アホかよ。
 
     これはどっちかというと身内向けのコトバですね。


     今日は正々堂々と表題を付けられてうれしい。
     てゆうか、それが本来なんでしょうね。
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笑い顔

2008-11-02 22:25:52 | その他
 趣味「ギターにて歌うたい」のわたし的にも、酔っ払うと歌えなくなる歌がいくつかあります。皆さんご存知のシャンソン「愛の賛歌」、ちょっと今日は趣旨が違いますが「フレディーもしくは三教街」、「僕にまかせてください 」
 そして、シャルル・アズナブール「戦争の子供達」

   戦争っ子は  子供ではない  彼らは石ころと鉄と血の  年齢を重ね  苦い涙の上に  その目を開いた 、、、

   戦争っ子は  子供ではない  彼らは戦火と血まみれの地を  知った  悪夢を見ては  歯をきしらせた、、、

   、、、震えていたこの子たち  苦しみに立ち向かっていき  恐れを口にせず  希望によって生きてきたこの子供たちは  君とぼくのようなものだ、、、


 著作権でしょうかね、ネットでは詩が見られませんが。

 レ ザンファン ドゥ ラ ゲール, ヌ ソン パ デ ザンファン、、、
というところを
 ル、ルッ、ルッ、ルーール, ル、ルッ、ルッ、ルッ、ルーーって感じで、節ごとに緊張を強いられるせいか、2,3行で胸が詰まります。

 笑わない子供達、笑えない子供達。もちろんそんな子供はいるはずはない。子供達は今を忘れられれば笑うことはできます。外国の客が来たら、なんかそこには未来がある。お菓子なんかくれなくっても、面白いさ。みんなで笑いにいこうぜ。

 そんな子供の笑い顔を千枚、2千枚 写真に撮って展覧会をすることもできるだろう。じゃあ、それを見た人間が、いやさ、それを撮った1人の人間でさえ、その中の何人を救うことができるのか、救うための努力をすることができるのか。広告料で余った金出すだけだろうが。
  これは単なる偏見、です。もしかすると中傷かもしれないけど、どうでしょうかねえ。

 55年、朝鮮戦争特需で日本人の9割は食べていけるようになりました。
 それ以降70年まで、人間の考えうるほとんど全ての思想が、この日本で花咲きました。
 もっとも、咲いた場所は、いつの時代も変わらないことですが、30年後、国家の勲章が貰える売文雑誌や大学講壇の場ではなく、ビラやチラシやアブクのように消えてしまう宣伝雑誌、広告雑誌の中ではありましたが。
 世代というのはかなり明確でして、日本では1947以前生まれの世代は、それ以降のビラ・チラシ文化を恥ずべき活動家文化と思っている。自分たちは商業新聞のマネしてしゃべることしかしなかったのに何らかの社会貢献をしたと思っているから奇異な話というか、笑っちゃう話なのですが。というのは私の大学の学生新聞編集部の顔も知らない先輩諸氏のことでして。
 それに対して、数年の過渡期を過ぎた世代では、国家威信も大学威信も、もちろん勲章威信も、皆無。私はここの場で何かを言っているように見えるかもしれませんが、こんなことは(専門テーマを除けば)30年前なら誰もが目にし、耳にしていた話です。ただ、それを言った人はもうみんな死んでしまった。私はそれを引き継いでいかなければならない、それが、自分の使命の一つだと思っているわけです。
 で、その一つ、笑っている子は、しかし5分後、また押し黙る。親が殺され、兄弟が殺され、とりあえず今日は腹が減っている。これから先、何十年か、大人になればなるほど、押し黙って生きてゆく。我々は評論家の並べる第三者の奇麗事を信じてはいけない。お前が生きてみろ。
 この前も書きましたが、子供は笑える。しかし、戦争の子供達は、思春期以降、笑えないのです。

  なんのこともない、先週の朝日新聞の土曜特集Merry Projectへのケチ。朝日の24歳11ヶ月の記者たちが (こだわってますね)よかれと思って組んだ記事でしょうけどね。残念でした。
  
  てなわけで、今回の表題は、茫漠としたのにしてみたんですけどね、まあそんなところでしょうか。

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