前回の続きです。
結局さ、苦労して生きていないと人間が生きる社会科学はわからない。東大大学院を出てわずかの就職口に就職競争したぐらいじゃ、「夢のない世界を生きる」意味などわかりはしない。
でも、それだからといって何も分からないわけじゃない。
プチブルには善意というものがある。
生活上自分のことを考えないでいいだけ、他人のことを「考え」られ、「発言」することができる。
善意の行使とは、自分の個人的な行為目標に、他者を組み込むことをいう。
そうしてプチブルは世界史上で革命の光明の部分を担ってきた。
逆に、一般の人たちは、自分の個人的な行為の目標の手段に、他者を組み込みますがな。
それがいいとか悪いとかいうのではなくて、
もちろん、それは悪いことなのだけれど(前言ったよね)、だから悪いことをする人が悪い人じゃないわけで、そういう論議は意味がない。
けど、他者を目標に組み込むことは善い行為なので、それができる人間はだから善い人間というわけではないのだけれど、しかし、善い行為を世界であちらこちらに存在させていくということは、人間が生きるということの救いなのですよ。
ちょっと若い人にはわからないかねえ。
人を殺して人肉を食うしか生きられない人がいたとするでしょ。それはしょうがない。しょうがない一方で、生きるのなら、別の顔をして飢えた子供を助けることが必要だ、そしてそれを悪いことだと思うことが、次に続く人間のために必要だ、ということなんですけどね。
そうして被支配階級は、革命で殺し殺され、はたから見れば「残虐な」歴史を背負ってきた。
だからといってこれを非難することは、当事者以外にはできはしない。
ましてや、現行生存中のプチブルになど。
結局さ、苦労して生きていないと人間が生きる社会科学はわからない。東大大学院を出てわずかの就職口に就職競争したぐらいじゃ、「夢のない世界を生きる」意味などわかりはしない。
でも、それだからといって何も分からないわけじゃない。
プチブルには善意というものがある。
生活上自分のことを考えないでいいだけ、他人のことを「考え」られ、「発言」することができる。
善意の行使とは、自分の個人的な行為目標に、他者を組み込むことをいう。
そうしてプチブルは世界史上で革命の光明の部分を担ってきた。
逆に、一般の人たちは、自分の個人的な行為の目標の手段に、他者を組み込みますがな。
それがいいとか悪いとかいうのではなくて、
もちろん、それは悪いことなのだけれど(前言ったよね)、だから悪いことをする人が悪い人じゃないわけで、そういう論議は意味がない。
けど、他者を目標に組み込むことは善い行為なので、それができる人間はだから善い人間というわけではないのだけれど、しかし、善い行為を世界であちらこちらに存在させていくということは、人間が生きるということの救いなのですよ。
ちょっと若い人にはわからないかねえ。
人を殺して人肉を食うしか生きられない人がいたとするでしょ。それはしょうがない。しょうがない一方で、生きるのなら、別の顔をして飢えた子供を助けることが必要だ、そしてそれを悪いことだと思うことが、次に続く人間のために必要だ、ということなんですけどね。
そうして被支配階級は、革命で殺し殺され、はたから見れば「残虐な」歴史を背負ってきた。
だからといってこれを非難することは、当事者以外にはできはしない。
ましてや、現行生存中のプチブルになど。