リベルテールの社会学

生きている人間の自由とは、私の自由と、あなたの自由のことだ。そして社会科学とは、この人間の自由を実現する道具だ。

人間の自由の社会のスローガンは「生産手段の占有」

2018-11-24 16:27:16 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。寒くなって次第に布団の中が心地よい季節、この金土日は(雪国以外)
良い天気でよかったですね。とはいえ今日も雪国では雪とか。

 さて恒例、ひとの悪口コーナー。
 ゴーン逮捕。お天道様はみているぜ。正義か欲かはしらないけれど、お天道様は人間が代理しないといけないからね。ま、それ以上のことではありませんが。他方、これで、言うことを聞いた課長かなんかの直接の事務執行者はどうすんのかねえ、そいつのせいになるというのも憐れだね。

 次、会社経営保育所での収奪。『東京23区にある私立保育所のうち株式会社、、、などが運営する認可保育所254カ所の保育者人件費比率の平均値は42.4%、社会福祉法人立477カ所の平均は55.4%だった(2015年度)。株式会社は社会福祉法人と比べ10ポイント以上も人件費比率が低く、30%未満が21カ所もあった』『(自治体の保育担当者)国が弾力運用を認める以上、それが悪いことだと指摘できない」と唇を噛む。』(aera)
 当たり前じゃあねえか、いまさら。収奪以外に何のための民業化だというんだ。まあ、現場公務員は反対したと信じようとしたい。いまどきの奴らがそんなわけもないけどね。

 次。記事の見出し『「24時間営業」「3K職場」救う外国人』
 「彼らなしで回らない」 10年後も共に生きるため必要なこと』(朝日)。恥を知れ、朝日。勝手なこといってんじゃねえよ、赤い朝日。日本人が休むために外国人は3K職場で24時間働くのが必須だと。「さあ共に生きよう!」バ~カ。

 次、これはちょっとはましなニュース。「外国人3千人が加入の労組結成 日高屋、大半が非正社員」(朝日)。しかも、古い人間は知っている右翼の産業別労働組合「UAゼンセン」で起きたことだと。理由はなんであれ、そりゃあよかった。どんどん見習わないと。

 次、これは残念なニュース。ネットで高校制服の自由がエリート高だけだというんで調べたら私の卒業高校に制服があるんだって! 信じられない。数年前に私服制を制服化したって。なにそれ。わたしが高校1年のときに高校紛争でなくしたのに。それしか成果のない紛争のせめてもの成果だったのに。なんのための闘争か。まあうちの高校は犠牲者、退学者も出なかったから実害はないのだけれど、ほんと人生無意味。
 それにしても誰がやったんだろうね。いまどきの子供たちかね。理解の範囲を超えている。

 さて本日の長い題のオタク話題は、ありそうで、実はない話。「生産手段は、個人に占有されなければならない」。
 マルキストは「生産手段は共有されるべきだ」なんていってますが、何一つ分かっていない。
 
 話の流れはこうです。
1 まず、生産手段は「誰のもの」でもありません。それは単に過去の人民の労働の結晶です。この富士通パソコンを作った諸機械は、実は富士通社員だけが作ったものではない。そのねじ、そのモーター、その磁石、そのそのその。全て歴代の労働者が作ったものの蓄積です。「オレが機械の代金を払った」などといってみたところで、そのカネが賄ったものはそのほんの一部にすぎない。その手前の機械の代金はその手前の労働者の搾取分であり、その手前のそのそのその、全ては蓄積です。これをもって「オレのものだ」などという権利は誰にもないのです。

2 この事態を端的に言うならば、社会主義と資本主義の境目は、実は「労働(力)が商品になるかどうか」ではなく、「生産手段が商品となるかどうか」なのです。
 つまり、労働の表現である生産物が、その「価値どおり」?労働者の手に入るかどうかではないのです。労働(力)を売って、その対価を得なければ生きていけない、その事態こそが悪の根源ではありますが、それは、自己も使用できるはずの万民のための労働手段が、「オレがそれに金を払った」なる意味不明の象徴行為によって、自己から隔離されるところが根源の根源なのです。
 過去があると考えにくいでしょう、熱帯に飛びますよ。今まで毎日主食にしていたモンゴンゴの木の実が、何の権利もない侵略者に「この土地はオレが買ったからこの木もオレのもんだ」といわれる、すなわち自己の生産手段が奪われる事態こそが問題なのです。
 マルクスが既に言っているんじゃないかって? お探しくださいませ。ありません。マルクスにオリジナルな能力はありません。彼はただの偏執的修正屋。
 もっとも天才エンゲルスは近くまで行って(言って)ますが、「生産手段の公有」でおわり。まあ、時代的に主張すべきことはそれどこんじゃありませんしね、彼はプラグマティストだから。
 
3 さらに、この生産手段の強奪=非占有が、ただの人間の生活行為を「労働」となさしめる。仮に、ある人間に十全の生産手段があれば、その人間の生産行為は労苦でなくなることが可能です。あるいは、労苦でなくなることが生産手段の規定性の「十全さ」である、といってもいい。すなわち生産手段の占有が、生活行為を労働ではなくす(注)、第1条件なのです。
  生産手段が個人の手に入れば、労働(力)の商品化は成立しない。商品化とは行為論的には、労働の代わりに「賃金」をもらうことではありません。賃金と引き換えに労働の主体たる意志を持てずに他人の指示で行為を続けざるをえない事態を指します。そうでなければ人民は「ふざけんな、オレはオレでやる」と、資本家から離脱するわけです。そのとき「資本家」なるものが存在すれば、ですが。

4 「しかし『オレの生産手段』は変ではないか? みんなのものだろう?」という疑問がありそうです。でもそれはアタマで作った理屈です。本来オレのものであるはずのものが占有できない、これが主体的問題なのです。もちろん占有は独占有ではありません。焦点がオレであるだけのこと、ですが、この「だけ」が決定的なのです。
 生産手段は行為者にとって「彼」が、「彼こそが」使うべく存在するのです。それが本質です。ハンディキャップ保有者にとっては彼のハンディキャップを補うべく、生産手段が占有作成(適宜修正)されなければなりません。占有者が「彼」であれば必ずそうしたのだから。かくて、生産手段の自由な占有が歴史上に復活するまで、闘争は続くのす。
 そして、この主体的問題が必然的に他者と共有され、かくて同じ立場であることが知れる。そうして初めて社会に無産階級が実体化するのです。

 いつもながらエッセンスだけ。長く言ってもわかんないものはわかりませんね。皆様には分からなくともだいじょうぶ、過去、誰も言ったことがないことだから、初耳です。
 社会主義の正しい規定はこうです。「各人はその必要に応じて、生産手段を選択する」です。人は生きるために自分の生産手段を選択し、生産して生きる。当然です。当然じゃないですか? 
 この当然さの社会実現こそが、自由の社会です。
 社会はこの大原則に沿って再設計される。
 たとえば会社は労働者「彼」のものです。「彼」が働く限り、「彼」のものです。
 それでも「資本金は私のものだ」と資本家が言うなら答えましょう。「カネなど経済効率の計算方法に過ぎない。計算方法が欲しきゃあエクセルデータであげよう」。今の世は違う? 違うなら変えるまでです。


(注)労働とは何か。みんなの好きなマルクスはヘーゲルの真似をして「人間の意志の対象化だ」とか言ってますか? じゃあ聞きますが、こたつで折り紙を折るのも労働ですか? 残念ながら資本家はそうはいわない。
 資本家は、同じ生活行為なのに、こたつで折り紙を折る行為と時間は買ってくれない。それはおかしい? マルクス以外はおかしいとはいわない。つまりその資本家に買われる部分の呼び方が、「労働」だからです。

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開明的支配者の存在の謎

2018-11-17 16:29:13 | 歴史への視角
 こんにちは。今週の土曜も、一部日本海側のほかはなかなか小春日和。東京地方の黄葉は来週でしょうが、桜紅葉は今日が限界かな。もう全部落ちてしまいそう。
 
 さて、2週、オタクものが続きましたので、本日は感想集。
 「シャンシャンが13日、親離れの準備を始めた。」「野生のパンダは群れを作らずに単独で生活する習性があり、1歳半から2歳で親離れをする。」だってさ。そうかあ~? 野生なんだから時々は淋しくなったら会ったりするんじゃないかあ? ひどいことをしやがる。世の中悲しいことばかりだね。悲しいと嬉しいは、対義語じゃないやね。物事の裏と表。最後の記念に二人でつくねんと上野の森を見ている写真をここに貼ろうと思ったら、著作権がどうのこうのというそうだ。なんだっていうんだ、貰った先の名前書きゃいいだろうが。そんなに金が欲しいか。金の亡者たちめ。
 しかし、関係ないがどこの世界に他人の子をつかまえて呼び捨てにしていい、という文化があるんだ、って日本のことしか知らないが、「ちゃん」をつけろ。そんな文化は埼玉、千葉の封建地主・本家にしかないだろう、幸手、あったし。もうなくなってたらごめんよ。
 
 「日ソ共同宣言を基礎に平和条約の締結交渉を加速させる方針で一致」(TBS)
 北方領土はウヨクの親玉のアベの責任で始末しろよ。左翼が何やっても低脳のウヨクが文句つけるからな。

 「アムネスティ・インターナショナルは12日、ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相に授与していた人権賞を撤回すると発表した。イスラム教徒少数民族ロヒンギャに対する迫害やメディア弾圧を阻止しなかったことに「大いに失望した」と批判した。」(共同通信)
 当然だ。遅すぎたさ。
 
 悪口ばかり。
  
 アベと河野がパプアニューギニアに行って、「理数科教育の質改善」のため「供与額12億円の無償資金協力」をしたそうな。12億ばっかでケチくさいけど、あげる金だから借金を押し付ける中国(こういうのを植民地化といいます)よりは良心的だな。
 ところで故佐原真教授によると、パプアニューギニアの一部では50年前まで50万年前からの旧石器(だけ)を使って暮らしてきたそうな。さらっと書いたけど、すごいよね、50万年間変わらず暮らしてきたって。ホモサピエンスかどうか知らないけど。(温帯地域に発した)この数千年の暮らしの変化、って、あってよかったものなのか、ってふつう思うわね。
 もっとも生産共同体の常で、女は50年前も当然虐げられていたそうだから、結論的によかったというのはたやすいけどね。
 
 まあところで河野太郎だけど、こっから本題ふう。
 世の中というのは、ボスには思想がある、が下士官にはない、ということです。
 国家支配者とその下士官たる、日本でいえば国会議員もそうだ、とは思ってましたが、いやはや、大臣でもそうなようです。
 資本家は、「自分と自分の会社の社員のため」という心地よいイデオロギーによって、破産の手前までは動くし、実際それが可能です。他方、資本家事務管理者階層は、資本家が経営する会社のために働くことが自分と自分の家族のためになるであるから働くわけです。資本家って誰だ、というと、統計じゃあ役員も資本家に含まれますが、大企業ではそうじゃないと思ったほうがいいでしょう。いくら自社株を持っていても、サラリーマン重役は社長を狙うサラリーマン。だから「資本家階級」なるものが一本だと思うのは限定的に正しくもあり正しくもなし、ということになります。
 この酷似している2通りの社会位置の差は、資本家は、「そもそも自分がやりたいのだ」という主体的行為であり、資本家事務管理者階層は、「やれば賞賛され自分の生理的・優越的位置の確保に至れる」という、あまりにも異なった動機にあります。『思想の如何を問わない、ということが、悲しい下士官の定め』という形式社会学的定言が、資本主義社会での定言となるわけです。
 それは資本家事務管理者階層だろうが、国会議員だろうが、事務次官の栄光が消えた将来の官僚職だろうが、前衛党員だろうが、同じです。下士官は下士官。形式社会学のいけにえです。その役割は、家族持ちであるにもかかわらず、競馬場で大枚はたいて負け馬券をびりびりに引き裂いてウサをはらす一般大衆と同じです。優越が毎日消えていく、悲しい定めの人々です。形式社会学はこうして、人間に不変的な倫理の番人を務めることができるのです。もっとも封建社会でもそうかといえばそうではない。それがたかだかの形式社会学、という意味です。
 
 というわけで、本日は「真理によるイヤミ構成」、あるいはただのウサ晴らし、でした。気晴らしにネット見てると、登場人物を知ってるだけに、満腔の不愉快におそわれるんだよね。
 
 といって終わると皆様の時間の無駄。たったそれだけの情報提供ではいかにも後味が悪い。
 別に、支配者といっても常に自分の意見を通せるわけではないこともいっておきましょう。こっちのほうは大切です。
 つまり、シンプルに自分の武力で支配を支えられる支配者と、そうではなくて、対抗しあう勢力の間で綱渡りで政権を維持しているボナパルティックな支配者とは違う。
 彼らが選択する利害については、普通に歴史家が想像するとおりで、唯物(タダモノ)的に誰にでもわかる。しかし、思想の表現というのは2通りの支配者で異なって現象するのです。
 充分な武力をつかんだ支配者にとって、自分の福祉がその社会での正当な福祉です。いかに自分勝手なことであろうが、彼が一番えらいのだから。が一方、綱渡りの支配者は、自分を支える階層のトータルな福祉が自分の福祉です。この後者の支配者は、後代の歴史家が見れば「開明的」な思想表現を展開します。
 自分の支持者が分裂的であるならば、逆説的に支配者は自分の賞賛と優越をフルに押し出すことができる。自分の利害がプラマイで消える、そんな状況が歴史に出現します。プロシア、オーストリア、スウェーデン、その他一昔前の後進資本主義的エトセトラです。日本もこれにいれるべきなところ、幸か不幸か、自分の支持層があまり分裂的でないのが島国という自然的要因、というべきで、「開明的」の美辞は付与されないのは残念でしたね。
 
 
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売買他(その2)。あるいは労働の「価格」

2018-11-10 15:53:15 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。東京地方やっと晴れ。明日は北海道以外全国晴れとのこと。秋は晴れがよいです。これから平地は紅葉の季節。銀杏は塩風にやられたようですが、もみじやツタは山の中なのでどうでしょうか。
 というわけで、本日は東京地方限定の紅葉散策お役立ち。まずは土日仕事でへそを曲げたあなた。紅葉といえば高尾山、23日近辺の休業日はお薦め。土日なんかイモ洗いですぜ。平日でも年寄りがいるでしょうが。午前中に行って、帰りがけちょっとランチを奮発してはいかが? お薦めはガイドに載らない「橋本屋」。蕎麦じゃなくて「姫会席」3,500円、、、ん、値段上がってないか? まあとろろ蕎麦でも900円しますし(高橋家)。交通費新宿から381円ですし。なにがいいって、空いてるの。国道渡るから、普通は目に入らない。味もまともだし、ゆったりと優雅なひと時を楽しめます。有名蕎麦店でさんざん並んで、山小屋の料理のように蕎麦を掻きこむより良いと思います。料理が高いとお考えの方は、同じ意味で有名蕎麦店よりガイドにない川端にある小さな蕎麦やのほうをお勧め。明るい自然の中でゆったり食べられますから。
 そんな軟弱な紅葉狩りはいやだ、という方は、箱根の湯坂道がお奨め。40歳から70歳向き。お住まいの地元のコンビニでおにぎりを買って箱根湯本下車、トイレに行って国道を徒歩10分ほどで登山口。(食料の現地調達はあてにしてはだめ。たとえば高尾山でおにぎりを買おうなどと思っては食いっぱぐれます)。始めこそ「なんだ、坂きついじゃねえか」と思われるでしょうが、最初だけ。ちんたらと登っていくうちに、開けた登山道にときどきウルシの木の類いが。「これが紅葉だと?」いえいえ違います。そろそろ浅間山頂かと思いだす頃に、地元の努力でしょう、あたり一面の紅葉。この多さはちょっと関東じゃあ見ませんぜ。浅間山頂からは青空にススキが映えます。ここでお弁当。その後鷹巣山を通れば(登るというほどじゃあない)国道にぶつかり、バスでどこにでもいけます。その手前で畑宿へ降りる道が分岐しますが、これは杉の林の暗い道でパス。湯坂道は登ると終わる道だから、逆から歩けば下りばかりで疲れないのですが、それじゃあ紅葉の林へのご対面に感動が薄れますので、紅葉見物の場合は湯本から登りましょう。また、ぜひ11月下旬に。ネットにある12月の写真は淋しいものばかり。
 
 さて、ニュース。米中間選挙は、負けですね。トランプが喜んでるから負け。わたしゃ民主党支持じゃないから、それ以上の意味はないし。無理に探せば最高裁判事の右翼化。まあ負けたんだからしょうがない。
 次、「2020年東京五輪・パラリンピックに合わせ、東京都は、都立日比谷公園(千代田区)を「五輪記念公園」と位置づけて再整備する方針を決めた。」「大会後も一帯を「20年大会の聖地」とする構想だ。」(読売新聞) ほんとに底の浅すぎる奴ら。みんな日本人だねえ。古いもんが嫌いなんだよね、なんでも。古いものは考えなしには評価できないからね。それよりは権力者におべんちゃらを言えるほうがいい。「知事知事、もう日比谷公園も名前変えちゃいましょうや。知事がやったオリンピックですからね、もう日本初の近代公園なんて古い古い」「そうよねえ」(わたしは関係者ではありません)。

 というわけで、まだ長いので、前回の続き。これはこんがらがるので、玄人オンリー。
 前回は、「交換」は、あるものの占有権を合意の上取り替えるという、人間的な関係行為であり、「売買」は、カネを渡したことにより所有権が移転される、人間が関わらない一方的な行為であることを言いました。ついで、「贈与」とは、日常語で使う「贈与」以外の意味はありえないのであり、これ以外の「贈与」類似の行為は、全て占有物の強制的移転であることを述べました。これら全ては全然別の社会的行為だ、と認識しなければ、社会に対する生活者の認識にはなりえない、ということです。
 
 その説明の際には、「交換の手段としての」カネも顔を出しました。それ以上出てると複雑になるので途中で切りましたが。
 というわけで、順序としては、前に戻って、いかにして「交換手段としての」カネが、「権力に基づく交換のための請求書」である貨幣となるか、ということです。意味不明? 貨幣はただの紙切れ(の場合もある)なのに、なぜ店先に置くだけで売買として認められるか、ということです。変でしょ? 誰も交換するものを持っていないのに、「これで交換しろよ」と押し付けて商品を持って帰れる。「でも万引きじゃないぜ」。「なんでだよう、代わりのものを持って来いよ」と店員にいわれても大丈夫。アベ首相が認めてくれるからです。この場合いちゃもんをつけた店員が名誉毀損で訴えられる。先のカネは交換物がある交換の手段。こちらの貨幣の場合は交換物がない。似て非なるものです。人間の発言は心地良い抑揚が付くと言葉ではなく「歌」と呼ばれる。社会においては似て非なるものです。
 しかし、こんな話は長いだけでつまらない。ちょっと書いてつまらないことを証明したところです。ま、余談。
 
 さて、貨幣でモノを買うところまで飛びますよ。
 一般的交換手段としてカネが成立しました。これは「コメ」でもいいのですが。このカネの成立は、「価格」の成立でもあります。ではその基準はなんでしょうか? 違うコメとアジの干物が、さらに、別の需要を持つ人間に対しても、同様に量られる根拠は?
 このとき、価格の基準は、本人(の一家)の生計費と専用物品の作成者の生活費との交差点です。鎌(かま)の値段は、それを作った鍛冶屋が生きていける米あるいは稗の値段であり、米あるいは稗の値段とは、それによって塩を買い塩魚を買える値段です。「生活費」とは、彼とその家族が生きていくのに要する消費物資の量が、彼が持つ他の物資と交換されるべきお互いの単位量です、これは当初、「交換」なので、同時に二つの量です。この社会関係からは、コメ以外でもいつの間にか一般的等価物が出てくるかもしれません。それはもちろん、その共同体成員の相互作用の賜物です。
 そこで言い換えましょう。「価格」とは、その当初においては、同一共同体内部での生計費のことです。それがために定まったある「基準」を保つのです。隣の共同体員が死のうが生きようがそれは知らない。しかし、同一共同体においては、全ての成員が生きていくことが必要なのであり、そのための交換を確保できるものが「財産」の「高(たか)」なのです。もちろん、その共同体には多量の米を持っている農業リーダーもいるでしょう。彼は「金持ち」です。あるいはまた、不作時には農業リーダーの庇護を受けなければ塩が手に入らないメンバーもいるでしょう。彼は貧乏です、が、毎日を生きていけるのです。
   
 さて、この当初の価格は、いつまでも同じではない。これを揺るがすものは、商品経済の発展です。共同体がそれだけでは存続できなくなる事態です。
 都市における商品生産物は、権力者とその配下によって買われる。商品生産者はそのカネで米を買う。問題は労働者であり、労働賃金で米が買えるところまで賃金を払わなければならないのですが(でないと死んでしまう)、他方、米には限界があり、買えない(もっとも「米」は必須消費物資の比喩ですが)。この場合「米が高い」と評価されます。米の値段は低くならなければならない、ここで、米によってその他の地域価格の低下が現実化した段階で、労働(力)の交換価値は(注1)、国家において制度化されます。ある消費物資は、その占有者が誰であろうと、同じ交換比率を持たせられます。これを確保するものは「法」権力です。コメ1俵は金1両として、誰が小判を置いていっても米1俵が買える。このとき、消費物資の占有は法によって守られている、つまり「所有」されていることになります(なお、細かい時代考証はしません)。
   
 こうして、宇野弘蔵に代表されるように、労働者賃金は、自らが買い戻すための賃金となってしまいました。
 もちろんこれは現実には「自ら(の一家)の生活費」分の賃金というが正しいのですが、生活費というと大根やニンジン、その他の農作物の代金等も入ってしまう。資本主義の経済分析上、資本に関係のない百姓の事情まで論理に加えることは不可能なので、経済学での理念上の処理なのです。
 すなわち、商品の持つ交換価値は確かに労働の価値なのですが、その価値の大きさと労働の価格とをつなぐものは、労働者の労働単位時間に集約される生活費なのです。労働者が支出する労働の価値は労働強化によって上がる。それはもちろん経営者でなくとも知っている。労働を強化すれば商品をたくさん作れるのだから一目瞭然です。しかし、生活費は変わらないので賃金を変える必要はない。「労働単位時間に集約される」とは、問題は1時間単位の労働「ではない」ということです。100の商品に100の労働時間単位が必要であれば、それはA商品であろうとB商品であろうとC商品であろうと同じ交換価値です。たとえば100個の商品を10日かけて作るときです。それらへの賃金も、あるいは労働単位時間に集約される生活費も同一です(のはずです)。しかし100の商品を午前中10回の労働で作れるならば、その価値も労働単位時間に集約される生活費も半分に過ぎない。なぜなら資本家は残りの午後に別の100の商品にその労働者を当てて、もう半分の賃金を払えばよいからです。労働者も不満ではあるが待遇が変わったとは主張する正当性は探しにくい。たしかに商品の価値は、労働時間による価値でできていると主張してもよいのです。
 他方、労働は複雑であろうが単純であろうが、その作る価値は一緒です。労働単位時間に集約される生活費は、変わらないからです。
 もう一度言っておきましょう、商品の価値は労働が作るのですが、労働時間が価値の大きさを決めるのではない。労働単位時間に集約される生活費が価値の大きさを決めるのです。
 もちろん、生活費が生産価格を決めるのではありませんし、ましてや市場価格を決めるわけでもありませんが、生産価格の可変資本部分を決めるものは、生活費なのです。生活費は当初において賃金労働者の生誕前から変化しつつも歴史的に決まり終わっていますが、この歴史的事実をどう純粋理論とするかが、理論家のお手並み(注2)、というわけです。
 
 (注1)マルキストの方には用語の引っ掛かりがあるかもしれません。労働者が売るのは労働力ではなく労働だということを知らないからです。この誤謬は相当資本論には痛手ですが、まだ資本論の価値は9割は残っています。
 展開しましょうか? まあ主体的にはそれ自体は、マルクスの異様な意気込みとは異なり、くだらない話なのでここではやめときますが。とりあえず、マルクスの子供のようなギリシア哲学知識のひけらかしに過ぎない、といっておきましょう。
 
 (注2)もちろんこうした労働価値論議でのマルクス批判は、大方の素人のような経済学者(?)の思いとは異なり、資本論の正しさとは何の関係もありません。「現実」という、労働者が搾取されている過程にはなんの変わりもなく、資本論とはその搾取のされ方を順を追って説明していこうとする叙述、というだけのものだからです。その叙述に多少の引っ掛かりがあろうとも、それは資本論の部分的な失敗に過ぎず、資本論の価値を低めるものではない。もちろん高めはしませんが。ましてや労働価値説は揺るぎもしない。それが現実なのですから。現実は、体制が変わらない限り揺るぐはずもない。
 おそらく近代経済学博士課程修了くらいの思考力ではとても理解のできないことでしょうから、念のため注しておきます。
 
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売買と交換と贈与(その1)

2018-11-03 15:21:08 | 賃金・価値・権力
 こんにちは。ここんとこ良い天気で仕事してるのもったいなくないですか? だいじょぶ、仕事してなくても家にいるのがもったいない。人間そうそうヒマにはなれません。
 ところで、天高いなあ、と思ってネットを見ると、例によって知ったか野郎たちが、これは馬が肥えるから匈奴がくるぞ、という警戒の言葉だ、とか。しばらくネット検索したけど、誰一人根拠など知らねえ。え? 書いてあるって? それは中国語。天高く云々は日本語だぜ。日本の誰がどう使ってどんな意味になったかも書けないで「ホントは」云々が聞いて呆れるぜ。ほんとにウザイ奴らだ。ちなみに、私は心底知りません。
 と、ご挨拶からおかんむりでも困りますね。論究の結論がきれいに決まらないので、とても不愉快になっております。わたしのは現実論なので、現実に不愉快、という意味ではありますが、そこを止揚できない自分の頭脳も不愉快。まあこんなところへいらっしゃる方は、なに、いつものことだから、と思われるでしょう。
 
 さてそろそろ鍋の季節ですが、一昨日夕方NTVかなんか見てたら、友達4人で鍋屋に来て個々別々の仕立ての鍋汁で、「みんな一緒に」食事ができる、とか。目が悪くて不明でしたが、よく中国の屋台でやってるような、白湯鍋で自分で漬け汁を勝手に作る形式の模様。それで「一緒」ねえ、、、
 なんちゅうかほんちゅうか、ってもう40年前? 
 鍋くらいふつうに突っつきゃあいいじゃん。「選択を選択する」ってゆうのはココロ的に貧しくないかねえ。食べるときに何かを選択する、ということ自体に満足する貧しさ。食べるときは食べるものがおいしかったりまずかったりすればいいんじゃないかい? 人間、右であれ左であれ、次の事態に対応できればそれで何の不満があるのか。食べて、まずい、もう食わん、でいいじゃないか。
 
 ニュースです。「「特定技能」の外国人受け入れ、初年度4万人 省庁試算」(朝日)。自称人手不足に外国人をどんどんいれる、って。
 せっかくさあ、あと2、30年で俺らが死んじまえば、若人の明るい適正社会が来るというのにさあ。なぜちょっとも待てないかねえ。おかげで幸せなはずの2、30年後は、「低賃金で日本人民の足を引っ張る外国移民を全員送還しろ」って醜い労働者の争いで渦巻いているであろうさ。低賃金以外に外国人を受け入れる理由なんてないんだからね。わたしゃもういないけど、特に今、天使の風情で賛成している左翼諸君はよく覚えといてね。警告したからね。
 もちろん、やる気があれば、今でも「サービス資本」を凍結して、現行の規模で給料を上げて全員雇用をすればいいだけのこと。そんなに給料を払えなければ、余っている資本を回収して国が払えばいい。みんな働くんだから。労働力が足りない、とかいうんなら、足りるまでサービス業を潰せばいい。みんな働くんだから。働けば消費物資は回る。これ人間社会の基本。資本主義社会の基本ではないことまでいわないといけないかね。
 
 さて、ここのところ酔っ払いの言が続いたので(=断片カテゴリー。もっとも最近は昼間に書くので、最終的にはシラフです。昼酒は頭に悪い)、そろそろためになることを。
 売買と交換と贈与は、それぞれどこが違うか。社会学カテゴリーじゃない? ノー、アイドント。
 みなさまは、授業・講義で売買は交換行為だと習ったかと思われますが、そうではありません(高校生の方は政治経済を選択するように)。
 こういうことは習ってない高校生のほうがよくわかるでしょう。
 みなさまはお店で交換をしてますか? してないですよね。お店でしてるのはソフトクリームを買っているだけ。購入とは、その本質は消費物資の入手です。その入手に(店員に言われたお金を置いていくという)社会で決められた方法を使うだけであって、人は誰も交換などしていない。
 お店のほうではどうでしょう。販売とはなんとかしてカネを入手することです。できればやって来たみなさまから強奪するが一番良いのですが、世間では、モノを並べておけばカネが入手されるという仕組みがあるので、皆様の置いたカネをしまってそれに従がっているだけです。
 売買を構成する「買い」も「売り」も、両者はそれぞれ全然別のもののことです。ただ、
評論家がこれを「交換」と呼んだ、というだけのことです。
 「交換」を確認しましょう。「俺、ポケモンのフシギダネ持ってるんだけどフシギソウと交換しない?」「ああいいよ」。これが交換です。あるものの占有権を合意の上取り替える、人間的な関係行為です。
 売買は違います。カネを渡したことにより所有権が移転される、一方的な行為です。したがって、売買には人間がかかわりません。かかわるのは「こいつを殺してそのまま逃げようか」、という行為の障害としてだけの非人間的な行為です。
 もっとも、共同体内で行われる交換が尾を引く共同体「間」の売買においては、売買は交換の形式を取ることもあります。「値切り交渉」です。人は相手との「ふれあい」を楽しむために交渉する。しかし、それは本質ではありません。販売の当事物は商品だからです。売れ残りカネに化けなかった「商品」は無価値です。他方、フシギソウの価値は不変です。
 他方、目当ての消費物資のない市場は、購入者にとって無価値です。居並ぶ販売人は、ただの「赤の他人」、または通行の障害物にすぎません。他方、友人やフシギダネの価値は不変です。
 
 というわけで、消費物の入手は、場合次第になります。
 ある共同体において、ある消費物資の入用は、その占有者が使うか使わないかに存するのみです。この場合、交換における、「その代わりに」の、「その」は論理上存在しません。要らないもんなんだから。「これがウチにないのでください」「わかった、あげる」。それだけのことで交換する「その」は存在しません。   
 ついで、ある共同体においてある消費物資の作成に専念する者の消費物資の入手は、交換になります。その作成者は共同体で生きていかなくてはなりません。従ってその交換対象はは、その作成者の生活が成立するため(に不足する)消費物資そのものとなります。死なないための交換だからです。他方、その他の共同体成員にとっては、作成者が死んでは、その専念する消費物資は入手できないので、それも当然のこととなります。
 さて、では、他の共同体員との取引の場合にはどうでしょう。ここでは本来不要な消費物資の「そのための保管」として、「交換」の物質が成立しています。その目的は交換先物資の入手です。この交換手段が一般化すると、カネとなります。

 この例で、ある共同体で他の構成員に渡すものがない人間はどうするか。
 人は共同体社会において、必要な消費物資が自分だけでは入手できない場合、他者にその消費物資を要求します。他者は、共同体社会内において、窮乏した他者を助けることが要請され続けているのです。かくて、この際に贈与を行います。
 必要な消費物資が常に存在するものでなければ、当人が窮乏していなくともこれは誰かに託さねばなりません。あとで同価値品を「返しても」いいですが、そもそも共同体社会での購入は評論家の言う「贈与」でなされるしかないのです。
 この「贈与」は共同体にとって、共同体が存続する限りにおいて必須です。しかして、共同体成員にとって「当然」です。当然ではありますが、この消費物資を渡すかどうかは占有者次第であることも当然です。嫌がらせでもったいぶってちょっとしか渡さないことも可能です。かくて、支配階層は共同体にとって固定化される。名主はどこまでいってもイヤな名主です。
 
 さてところで、これは「贈与」ですか?
 「贈与」という言葉が存在する理由は、現代の権力から離れた生活ができる人(=今となっては一般の人。昔の農村社会では不可能です)にはわかるでしょう。哺乳類は困っていそうな自分より弱いものには食物を与える。これが贈与です。お子さんや姪御さんへの贈り物は、疑いもなく贈与ですね。哺乳類であれば誰でも分かる行為でしょう。もっとも生まれつきの狐やハイエナのことは知りはしませんが。しかしこれ以外の「贈与」類似の行為は、全て占有物の強制的移転です。名主も嫌々自分の食い扶持を飢えた小作人に分けるのは「分けざるを得ない」からです。これを実行しているのは人間1個人ではありますが、しかし、その実態は、「社会」であり、その実質は自分がそれに包含される生産共同体です。そう把握して初めて、やっと社会科学の入り口に入れる。
 
 社会学をやった人は分かると思いますが、世の中、「なんでも贈与」の論者というのがたくさんいるのですね。「すべての相互行為は贈与に通ずる」とかね。自分で思っているのはかまわないが、およそ他人にいう価値などない、評論家以下の文学者の修辞だと思いますが、如何? 誰とは言いませんが。
 さらには『「ありがとう」というお礼のことばは表出的な財であるから、タベアナは、お返しの必要のない贈与とするよりは、お礼のことばで返礼される贈与とするほうがよいだろう』なんていう人もいる。いったい、この定言に何の意味があるんだ? 気は確かか? そう思いません? 誰とは言いませんが。って、引用は言わないとまずいか。吉岡政徳氏のタベアナ論についての伊藤幹治氏です。
 
 というわけで、モースやらゴドリエなどがいう、社会に本質的には「贈与に関わる義務」などというものはありません。
 若人の読者の方でも、バイトをしたとかの社会経験がある人なら、彼らの言う「義務」など、現代日本社会では決して普遍的ではないことが分かるでしょう。
 贈与をめぐる義務などというものは、当然過ぎるほど当然に、すべて社会が作ったものです。さてその社会といえば、「支配社会」なのです。支配者が自分に都合よく確立したものが「贈与」習慣なのであり、「贈与の原則が社会の本質にある」などというのは見事な逆立ちです。そうではなく、支配社会があるからそれに合う形でシステム上の「強制的移転」が贈与形態化(=非金銭売買形態化)しているのです。名主が食い扶持を小作人に与えるのは、秩序維持のシステムの強制であって、小作人の強制ではありませんけどね。

 長。
 長いついで。月曜の朝日新聞全国版は、おう、これは南部労組の佐久間さんじゃん(頭文字だったけど時がたったので、本名にした)、名前も久しく見ませんでしたが、元気でよかったよかった。わたしなど心が広いから思想信条を越えて安心しちゃうよ。小言じじいがウソつけ? いや心が狭く見えるのはただのモラハラ。こういう原則的な人は元気でいるだけでうれしい。
 (p.s. 原則的に闘うって、そのこと自体たいへんなんだよね。今まで味方だったはずのみんな、見限って離れていくし。それをフォローした人々も大変。だから私もうれしいんだよね。わたしゃ戦列外だから関係ないけど。でも戦列外は戦列外でたいへんはたいへんなのさ、生命はかけてなくても、人生はかけてるからね、Sさんとは比べられないけど。ところで君はどうしてるかい? 某派の田中清君。生命賭けてるかい?)


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