こんにちは。寒くなって次第に布団の中が心地よい季節、この金土日は(雪国以外)
良い天気でよかったですね。とはいえ今日も雪国では雪とか。
さて恒例、ひとの悪口コーナー。
ゴーン逮捕。お天道様はみているぜ。正義か欲かはしらないけれど、お天道様は人間が代理しないといけないからね。ま、それ以上のことではありませんが。他方、これで、言うことを聞いた課長かなんかの直接の事務執行者はどうすんのかねえ、そいつのせいになるというのも憐れだね。
次、会社経営保育所での収奪。『東京23区にある私立保育所のうち株式会社、、、などが運営する認可保育所254カ所の保育者人件費比率の平均値は42.4%、社会福祉法人立477カ所の平均は55.4%だった(2015年度)。株式会社は社会福祉法人と比べ10ポイント以上も人件費比率が低く、30%未満が21カ所もあった』『(自治体の保育担当者)国が弾力運用を認める以上、それが悪いことだと指摘できない」と唇を噛む。』(aera)
当たり前じゃあねえか、いまさら。収奪以外に何のための民業化だというんだ。まあ、現場公務員は反対したと信じようとしたい。いまどきの奴らがそんなわけもないけどね。
次。記事の見出し『「24時間営業」「3K職場」救う外国人』
「彼らなしで回らない」 10年後も共に生きるため必要なこと』(朝日)。恥を知れ、朝日。勝手なこといってんじゃねえよ、赤い朝日。日本人が休むために外国人は3K職場で24時間働くのが必須だと。「さあ共に生きよう!」バ~カ。
次、これはちょっとはましなニュース。「外国人3千人が加入の労組結成 日高屋、大半が非正社員」(朝日)。しかも、古い人間は知っている右翼の産業別労働組合「UAゼンセン」で起きたことだと。理由はなんであれ、そりゃあよかった。どんどん見習わないと。
次、これは残念なニュース。ネットで高校制服の自由がエリート高だけだというんで調べたら私の卒業高校に制服があるんだって! 信じられない。数年前に私服制を制服化したって。なにそれ。わたしが高校1年のときに高校紛争でなくしたのに。それしか成果のない紛争のせめてもの成果だったのに。なんのための闘争か。まあうちの高校は犠牲者、退学者も出なかったから実害はないのだけれど、ほんと人生無意味。
それにしても誰がやったんだろうね。いまどきの子供たちかね。理解の範囲を超えている。
さて本日の長い題のオタク話題は、ありそうで、実はない話。「生産手段は、個人に占有されなければならない」。
マルキストは「生産手段は共有されるべきだ」なんていってますが、何一つ分かっていない。
話の流れはこうです。
1 まず、生産手段は「誰のもの」でもありません。それは単に過去の人民の労働の結晶です。この富士通パソコンを作った諸機械は、実は富士通社員だけが作ったものではない。そのねじ、そのモーター、その磁石、そのそのその。全て歴代の労働者が作ったものの蓄積です。「オレが機械の代金を払った」などといってみたところで、そのカネが賄ったものはそのほんの一部にすぎない。その手前の機械の代金はその手前の労働者の搾取分であり、その手前のそのそのその、全ては蓄積です。これをもって「オレのものだ」などという権利は誰にもないのです。
2 この事態を端的に言うならば、社会主義と資本主義の境目は、実は「労働(力)が商品になるかどうか」ではなく、「生産手段が商品となるかどうか」なのです。
つまり、労働の表現である生産物が、その「価値どおり」?労働者の手に入るかどうかではないのです。労働(力)を売って、その対価を得なければ生きていけない、その事態こそが悪の根源ではありますが、それは、自己も使用できるはずの万民のための労働手段が、「オレがそれに金を払った」なる意味不明の象徴行為によって、自己から隔離されるところが根源の根源なのです。
過去があると考えにくいでしょう、熱帯に飛びますよ。今まで毎日主食にしていたモンゴンゴの木の実が、何の権利もない侵略者に「この土地はオレが買ったからこの木もオレのもんだ」といわれる、すなわち自己の生産手段が奪われる事態こそが問題なのです。
マルクスが既に言っているんじゃないかって? お探しくださいませ。ありません。マルクスにオリジナルな能力はありません。彼はただの偏執的修正屋。
もっとも天才エンゲルスは近くまで行って(言って)ますが、「生産手段の公有」でおわり。まあ、時代的に主張すべきことはそれどこんじゃありませんしね、彼はプラグマティストだから。
3 さらに、この生産手段の強奪=非占有が、ただの人間の生活行為を「労働」となさしめる。仮に、ある人間に十全の生産手段があれば、その人間の生産行為は労苦でなくなることが可能です。あるいは、労苦でなくなることが生産手段の規定性の「十全さ」である、といってもいい。すなわち生産手段の占有が、生活行為を労働ではなくす(注)、第1条件なのです。
生産手段が個人の手に入れば、労働(力)の商品化は成立しない。商品化とは行為論的には、労働の代わりに「賃金」をもらうことではありません。賃金と引き換えに労働の主体たる意志を持てずに他人の指示で行為を続けざるをえない事態を指します。そうでなければ人民は「ふざけんな、オレはオレでやる」と、資本家から離脱するわけです。そのとき「資本家」なるものが存在すれば、ですが。
4 「しかし『オレの生産手段』は変ではないか? みんなのものだろう?」という疑問がありそうです。でもそれはアタマで作った理屈です。本来オレのものであるはずのものが占有できない、これが主体的問題なのです。もちろん占有は独占有ではありません。焦点がオレであるだけのこと、ですが、この「だけ」が決定的なのです。
生産手段は行為者にとって「彼」が、「彼こそが」使うべく存在するのです。それが本質です。ハンディキャップ保有者にとっては彼のハンディキャップを補うべく、生産手段が占有作成(適宜修正)されなければなりません。占有者が「彼」であれば必ずそうしたのだから。かくて、生産手段の自由な占有が歴史上に復活するまで、闘争は続くのす。
そして、この主体的問題が必然的に他者と共有され、かくて同じ立場であることが知れる。そうして初めて社会に無産階級が実体化するのです。
いつもながらエッセンスだけ。長く言ってもわかんないものはわかりませんね。皆様には分からなくともだいじょうぶ、過去、誰も言ったことがないことだから、初耳です。
社会主義の正しい規定はこうです。「各人はその必要に応じて、生産手段を選択する」です。人は生きるために自分の生産手段を選択し、生産して生きる。当然です。当然じゃないですか?
この当然さの社会実現こそが、自由の社会です。
社会はこの大原則に沿って再設計される。
たとえば会社は労働者「彼」のものです。「彼」が働く限り、「彼」のものです。
それでも「資本金は私のものだ」と資本家が言うなら答えましょう。「カネなど経済効率の計算方法に過ぎない。計算方法が欲しきゃあエクセルデータであげよう」。今の世は違う? 違うなら変えるまでです。
(注)労働とは何か。みんなの好きなマルクスはヘーゲルの真似をして「人間の意志の対象化だ」とか言ってますか? じゃあ聞きますが、こたつで折り紙を折るのも労働ですか? 残念ながら資本家はそうはいわない。
資本家は、同じ生活行為なのに、こたつで折り紙を折る行為と時間は買ってくれない。それはおかしい? マルクス以外はおかしいとはいわない。つまりその資本家に買われる部分の呼び方が、「労働」だからです。
良い天気でよかったですね。とはいえ今日も雪国では雪とか。
さて恒例、ひとの悪口コーナー。
ゴーン逮捕。お天道様はみているぜ。正義か欲かはしらないけれど、お天道様は人間が代理しないといけないからね。ま、それ以上のことではありませんが。他方、これで、言うことを聞いた課長かなんかの直接の事務執行者はどうすんのかねえ、そいつのせいになるというのも憐れだね。
次、会社経営保育所での収奪。『東京23区にある私立保育所のうち株式会社、、、などが運営する認可保育所254カ所の保育者人件費比率の平均値は42.4%、社会福祉法人立477カ所の平均は55.4%だった(2015年度)。株式会社は社会福祉法人と比べ10ポイント以上も人件費比率が低く、30%未満が21カ所もあった』『(自治体の保育担当者)国が弾力運用を認める以上、それが悪いことだと指摘できない」と唇を噛む。』(aera)
当たり前じゃあねえか、いまさら。収奪以外に何のための民業化だというんだ。まあ、現場公務員は反対したと信じようとしたい。いまどきの奴らがそんなわけもないけどね。
次。記事の見出し『「24時間営業」「3K職場」救う外国人』
「彼らなしで回らない」 10年後も共に生きるため必要なこと』(朝日)。恥を知れ、朝日。勝手なこといってんじゃねえよ、赤い朝日。日本人が休むために外国人は3K職場で24時間働くのが必須だと。「さあ共に生きよう!」バ~カ。
次、これはちょっとはましなニュース。「外国人3千人が加入の労組結成 日高屋、大半が非正社員」(朝日)。しかも、古い人間は知っている右翼の産業別労働組合「UAゼンセン」で起きたことだと。理由はなんであれ、そりゃあよかった。どんどん見習わないと。
次、これは残念なニュース。ネットで高校制服の自由がエリート高だけだというんで調べたら私の卒業高校に制服があるんだって! 信じられない。数年前に私服制を制服化したって。なにそれ。わたしが高校1年のときに高校紛争でなくしたのに。それしか成果のない紛争のせめてもの成果だったのに。なんのための闘争か。まあうちの高校は犠牲者、退学者も出なかったから実害はないのだけれど、ほんと人生無意味。
それにしても誰がやったんだろうね。いまどきの子供たちかね。理解の範囲を超えている。
さて本日の長い題のオタク話題は、ありそうで、実はない話。「生産手段は、個人に占有されなければならない」。
マルキストは「生産手段は共有されるべきだ」なんていってますが、何一つ分かっていない。
話の流れはこうです。
1 まず、生産手段は「誰のもの」でもありません。それは単に過去の人民の労働の結晶です。この富士通パソコンを作った諸機械は、実は富士通社員だけが作ったものではない。そのねじ、そのモーター、その磁石、そのそのその。全て歴代の労働者が作ったものの蓄積です。「オレが機械の代金を払った」などといってみたところで、そのカネが賄ったものはそのほんの一部にすぎない。その手前の機械の代金はその手前の労働者の搾取分であり、その手前のそのそのその、全ては蓄積です。これをもって「オレのものだ」などという権利は誰にもないのです。
2 この事態を端的に言うならば、社会主義と資本主義の境目は、実は「労働(力)が商品になるかどうか」ではなく、「生産手段が商品となるかどうか」なのです。
つまり、労働の表現である生産物が、その「価値どおり」?労働者の手に入るかどうかではないのです。労働(力)を売って、その対価を得なければ生きていけない、その事態こそが悪の根源ではありますが、それは、自己も使用できるはずの万民のための労働手段が、「オレがそれに金を払った」なる意味不明の象徴行為によって、自己から隔離されるところが根源の根源なのです。
過去があると考えにくいでしょう、熱帯に飛びますよ。今まで毎日主食にしていたモンゴンゴの木の実が、何の権利もない侵略者に「この土地はオレが買ったからこの木もオレのもんだ」といわれる、すなわち自己の生産手段が奪われる事態こそが問題なのです。
マルクスが既に言っているんじゃないかって? お探しくださいませ。ありません。マルクスにオリジナルな能力はありません。彼はただの偏執的修正屋。
もっとも天才エンゲルスは近くまで行って(言って)ますが、「生産手段の公有」でおわり。まあ、時代的に主張すべきことはそれどこんじゃありませんしね、彼はプラグマティストだから。
3 さらに、この生産手段の強奪=非占有が、ただの人間の生活行為を「労働」となさしめる。仮に、ある人間に十全の生産手段があれば、その人間の生産行為は労苦でなくなることが可能です。あるいは、労苦でなくなることが生産手段の規定性の「十全さ」である、といってもいい。すなわち生産手段の占有が、生活行為を労働ではなくす(注)、第1条件なのです。
生産手段が個人の手に入れば、労働(力)の商品化は成立しない。商品化とは行為論的には、労働の代わりに「賃金」をもらうことではありません。賃金と引き換えに労働の主体たる意志を持てずに他人の指示で行為を続けざるをえない事態を指します。そうでなければ人民は「ふざけんな、オレはオレでやる」と、資本家から離脱するわけです。そのとき「資本家」なるものが存在すれば、ですが。
4 「しかし『オレの生産手段』は変ではないか? みんなのものだろう?」という疑問がありそうです。でもそれはアタマで作った理屈です。本来オレのものであるはずのものが占有できない、これが主体的問題なのです。もちろん占有は独占有ではありません。焦点がオレであるだけのこと、ですが、この「だけ」が決定的なのです。
生産手段は行為者にとって「彼」が、「彼こそが」使うべく存在するのです。それが本質です。ハンディキャップ保有者にとっては彼のハンディキャップを補うべく、生産手段が占有作成(適宜修正)されなければなりません。占有者が「彼」であれば必ずそうしたのだから。かくて、生産手段の自由な占有が歴史上に復活するまで、闘争は続くのす。
そして、この主体的問題が必然的に他者と共有され、かくて同じ立場であることが知れる。そうして初めて社会に無産階級が実体化するのです。
いつもながらエッセンスだけ。長く言ってもわかんないものはわかりませんね。皆様には分からなくともだいじょうぶ、過去、誰も言ったことがないことだから、初耳です。
社会主義の正しい規定はこうです。「各人はその必要に応じて、生産手段を選択する」です。人は生きるために自分の生産手段を選択し、生産して生きる。当然です。当然じゃないですか?
この当然さの社会実現こそが、自由の社会です。
社会はこの大原則に沿って再設計される。
たとえば会社は労働者「彼」のものです。「彼」が働く限り、「彼」のものです。
それでも「資本金は私のものだ」と資本家が言うなら答えましょう。「カネなど経済効率の計算方法に過ぎない。計算方法が欲しきゃあエクセルデータであげよう」。今の世は違う? 違うなら変えるまでです。
(注)労働とは何か。みんなの好きなマルクスはヘーゲルの真似をして「人間の意志の対象化だ」とか言ってますか? じゃあ聞きますが、こたつで折り紙を折るのも労働ですか? 残念ながら資本家はそうはいわない。
資本家は、同じ生活行為なのに、こたつで折り紙を折る行為と時間は買ってくれない。それはおかしい? マルクス以外はおかしいとはいわない。つまりその資本家に買われる部分の呼び方が、「労働」だからです。